(五)
相変わらず調練の声が煩くて、屯所で居眠りも出来ない。近頃はそれに大砲まで加わった。
斎藤が鶏を追い回していると、着流し姿の土方が通り掛った。伏籠を手にした斎藤が振り返る。
「卵を抱こうとしないんですよ、この雌鶏。余りに人が盗ってばかりだもんで、嫌気がさしたんでしょうかね」
「かもしれんが、ひよこを育てる気かい?お前さんが?」
土方はくつくつと笑声を立てた。笑わなくてもいいじゃないか、と斎藤はむっとなった。
「ところで。坂口久太郎は除隊扱いにしてやったんですね」
「家業を継ぐというんだから、仕方が無い」
と、土方は腕組みした。
坂口はつい先日、郷里の丹後から父親の危篤を知らされ、離隊した。その父が息子の顔を見て安心したか、間もなく他界したので、家業の縮緬問屋を継ぐ事になった。この場合、隊規として例外が認められていた。
「こ奴ら、嫌いな坂口がいなくなって、せいせいしてやがるんですかね」
斎藤は土方を振り返った。
「さァ、どうだか」
鶏が坂口を見て攻撃したという真の理由はよくわからない。
只、しばしば明里が休息所にする一軒家を覗きに行っていた頃から、鶏には牽制されていたと当人は語った。
「昔から鶏は苦手だったのです。子供の頃、悪戯をして顔を突っつかれてからというもの。ですから、気の強い鶏なぞは気配を察したのではないでしょうか」
そう言い、坂口は寂しげに微笑しただけだった。犬や猫もその動物を嫌う人間に出会うと敏感に覚るというので、そういう事なのかもしれない、と斎藤は思った。
「だがな。人間も文句を言い合う相手もいなくなると、心底張り合いがなくなるというものだぜ」
土方はしんみりと言い、斎藤から顔を背けると歩き出した。
斎藤は土方の背中を盗み見るようにしていたが、やがて再び雌鶏を追いかけ始めた。
その後、雄鶏が何やら疫病にかかって呆気なく死ぬと、雌鶏も卵を生まなくなった。
終に、斎藤がひよこを育てる機会は失われたままだった。
(四)へ
あとがきへ