(一) 大坂城

 今日もお城へ向かってようさんお駕籠が入って行った、とおすえは思った。
 十月半ばを過ぎてから、大坂の町はずっとこういう具合である。将軍・家茂が大坂城に滞在しているからであり、長州征伐を行うための軍議が日夜開かれているという。南堀江の松屋裏町(まっちゃうらまち)から東の方角を見詰め、おすえは軽くまろやかな溜め息を吐いた。悠々と聳える天守閣を眺めながら、頭の中では夫の万太郎のことばかり考えていた。
 酉の刻になれば、じき万太郎が帰宅する。おすえは万太郎の好きな根深汁を用意して待っている。この暮らしに馴れてきて、楽しくもあった。
 おすえが谷槍剣道場の谷万太郎に輿入れしたのはふた月前のことである。

 おすえは久佐衛門町の医家・岩田文硯の次女であった。文硯は中山中納言の侍医を務めるほどの腕の確かな医者で、跡取りの弥彦を江戸へ修行に出し、長女を嫁にやった後、夫婦と次女おすえ、三女おこうの四人で生活していた。
 もともと文硯は若い頃剣術をたしなみ、その道を目指していたのだが、脚気を患って挫折、以後医学の道へ進んだ男であった。それだけに初老をとうに越えた今も、武勇に胸ときめかす若者を見ると己も気が逸る。
 剣術の稽古などで怪我を負った若党らが駆け込んでくると、大いに喜びいつしか書生にして面倒を見てやるようになってしまった。
 安政四年(1857年)の夏である。岩田家に身形人品ともに賤しからぬ男達が姿を現した。
「岩田先生が武道を志す者を食客にしておられると伺い、参じました」
 そう言ったのは細面でやや吊り眼の男であった。まだ三十路前であろう。武家らしい品のある顔立ちだが、何処と無く気位も高そうに見えた。この男が三十郎と言った。隣に並んでいた、やや下膨れの輪郭、人の良さそうな面つきの男、これが万太郎である。万太郎の後に隠れるようにしている十歳ばかりの子を昌武と言った。谷三兄弟である。
 文硯はさすがにやや驚いた。
 聞けば、兄弟はもと備中松山藩の出身で、父は谷三治郎供行といい、藩の剣術槍術師範をしていたという。石高は百二十、役料二十石の旗奉行の歴とした家柄であった。それが、さる事件によって藩主・板倉勝静(かつきよ)の怒りを買い、お家断絶となった。已む無く兄弟は父親を郷里に残したまま仕官の先を求めて出奔し、大坂まできたという。どういった事情で断絶となったか、文硯は多少気になったが、それまで巧弁であった三十郎はその段に及んで有耶無耶に言う。話を蒸し返すのも相手が相手だけに気が引けて、黙って聞くことにした。
「その父も我々が士官の口を求めているうちに、先年病没いたしました」
 三十郎は、肩を落として言った。最早、身寄りの無い兄弟は大坂に来るまでの間に様々の用心棒稼業か剣術指南などやって糊口をしのいできたが、居場所が定まらぬでは先行き困難になった。そこへたまたま文硯の高名を聞きつけて訊ねてきたのだという。此処に至るまでの三十郎の話し振りを聞くと、文硯も妻のいとも思わず何度も溜め息を吐く程であった。
「末弟の昌武はまだ十になったばかりにございましてな。兄の私が言うのもおこがましいのですが、利発な子供です。学問所にも入れてやりたいのに転々としていては、将来が不憫でなりません」
 この一言が決め手となった。というよりは、昌武の儚げな様子が文硯夫婦の胸に響いたようであった。即日、谷兄弟は食客となった。
 もとより岩田家に居候していた書生どもは、やはり何処かの藩を脱けて武道で一旗挙げんと志す者であったり、町人の出であったり様々であったが、谷兄弟は異例の御身分というので当初から一目置かれた。
 三十郎は朝夕、茶を自分で煎れて飲む。悠々と茶を飲む挙措は町人には無い典雅な仕草で作法も正しく、いとなども「さすがは板倉様の御家臣やっただけのことはあるねえ」と、感心していた。
 しかし、三十郎は一人で茶を飲む。文硯にもいとにも勧めない。上等の煎茶は無論、岩田家の台所から購っているものである。
「けど、吝(しわ)いお人やねえ。お武家はんて皆あんなんやろか」
 いとは、台所でこっそりと下女に呟いた。すると、通り掛った文硯が「滅多な事言いなはんな」と、叱った。おすえはこの時、昌武より五つ上の十五で、もう世間のことは大分判りかけていた。三十郎のような人はやはり吝いのだと思った。
 万太郎は、その三十郎とは顔付きも違うだけあって、性格も異なっていた。早朝から庭先で手槍を掲げ、黙々と一人稽古をする。三人とも文硯の知人で天満の井上道場というところに通い始めたが、其処の道場主が兄弟の腕を早速気に入った。
「三十郎殿は直心流と新陰流によく通じておられる。素槍もなかなかのものだ。だが、万太郎殿のほうが更に筋が良い。直心流剣術と種田流槍術ともに免許皆伝の腕は生半ではござらんな」
 前髪の昌武はまだ習い始めたばかりだが、三十郎、万太郎の両人はすぐにも代稽古という形になった。これで僅かばかりだが賄(まいない)が出来るということである。
 一年半程、谷兄弟の暮らしはそのように続いた。或る時、文硯は兄弟を呼び寄せて言った。
「先日、南堀江の空き家を買うた。空き家いうても道具屋の納屋でな。あまり見栄はようないが、修繕して道場らしゅうしたら使えるやろて」
「ああ、道場ですか。先生がお開きになるのですか」
 三十郎は笑いながら、暢気に言った。文硯は即座に首を振った。
「おたくら兄弟でひとつ道場を経営して貰おうと思いましてな。どや、三十郎はん。あんた道場主いうことで」
 素寒貧同然で備中高梁を出て来た兄弟にとっては、降ってわいたような話である。文硯も武の道で身を立てたいと思っていた昔年の夢の端くれを漸く見たという心地で浮き浮きと言った。
 ところが、三十郎は気色ばんでしまった。
「いや、それがしに道場主など不向きでござる」
 殊勝な事を言う。だが、これは分不相応な頂戴物を目前にしての辞退の詞ではなかった。三十郎のどんより曇った顔色に、それが如実に表れていた。
「何故か」
 と、文硯が詰難すると、今度は三十郎もいい加減に茶を濁さず、胸を張って答えた。
「それがしやはり仕官の道捨て難く、如何に剣の道で身を立てるに道場の師範は近道といえど、そのうちお家を復興したき気慨も日増しに衰えぬものかと心配でして」
 要するに町人道場の師範などより、主取りしたいというのである。文硯は成る程と思った。これまで居食の世話をしてきて、さらに道場までくれてやろうという己はなかなかの御人好しで、三十郎の言い分も勝手な、とは思うが、武士とはそういうものかもしれない。どのような事情にせよ、譜代に仕えたお家が断絶になった不遇は三十郎の代であり、またその汚名を雪ぎたく念ずるのも本人ゆえであろう。
「あいわかった。ほな万太郎はん、あんたに道場を任せる」
 文硯は手を打った。槍にしろ剣にしろ、万太郎の方が腕がよいという。万太郎が師範なら、人柄も丸く、三十郎がやるよりは流行りそうである。
「有難くつとめさせて頂きます」
 万太郎は、この時ばかりは眉尻もきりりと引き締め、一段と畏まって請けた。文久二年の出来事である。

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