(九) 伏見街道
三十郎の死後、万太郎の立場は微妙なものになった。
六月にはやはり幹部の武田観柳斎が暗殺されたと訊いた。噂では新選組内での権勢を失った武田が薩摩と通じようとしたのが露見しての粛清であるともいう。
万太郎は、はたと思い至った。
「兄の死は隊内の何者かによる粛清ではなかろうか」
日頃、三十郎の横柄な態度は隊士からも疎まれていた。加えて、周平が近藤局長の養子として可愛がられているという妬みも受けていた。しかし、面と向かって三十郎を批判する者はいなかった。
幹部としての相応の働きはしていたし、近藤は周平の兄ということで重用していた。
内部の者の暗殺となれば、そんな事をするだろう男は一人しかいない。
土方歳三。
土方は以前から、やや高慢のきらいがあった三十郎を快く思っていなかった、と斎藤一から聞いている。試衛館組の結束は固い。もし其処に三十郎のような余所者が入り込もうとして排除されたとしても、不思議はない。
万太郎は軒先で幼子をあやしながら、心に重い決心を抱いた。
不動堂村の新選組屯所から、土方歳三の乗った馬が出立した。伏見奉行所まで出向く用が出来たのである。隊士の一部の者が、天皇家、将軍家以外は禁猟地の巨椋に入り込み、再三にわたって密猟しているという。警固を預る伏見奉行所では、その暴挙を厭い、かねがねからの苦情を言い立ててきた。そこで、局長に代わり土方が現場の確認と謝罪を述べに行くという、余り宜しからぬ用向きであった。
土方が伏見街道を小者のみ連れて進んでいると、不意に馬が足踏みをした。急の事で土方は振り落とされんばかりに揺られた。だが、体勢を立て直し、騎乗のまま刀の柄に手を掛けた。
「むっ」
土方の白皙が蒼褪めた。馬の鼻面に素槍の穂先が光っていた。三尺一寸の槍を構えていたのは、万太郎であった。
「何のつもりだ、万太郎」
土方は怒鳴った。万太郎は、口をへの字に曲げ、土方を睨み上げていた。
「兄の仇、覚悟いたされよ」
「暫し待て」と、土方は右手を上げた。剣を抜く意志が無いという徴でもあった。
「三十郎殿の仇とはどういう意味だ。おれは手を掛けていないぞ」
万太郎は黙っていた。土方が嘘を吐いているのかいないのか、表情から読み取る事は困難と見た。だが、一旦副長に向かって刃を翳した以上、引っ込めるわけにもいかない。
「やあ」
と、万太郎は馬の首筋を突いた。暴れ狂った馬は、小者の持つ手綱を振り解いて走り出した。土方が地面に転がる。咄嗟に腕を庇いつつ受身をし、起き上がり様に抜刀した。
万太郎の槍が撥ね上げる。土方の和泉守兼定が押し戻された。流石に谷万太郎、と土方は落馬の際に切れた唇の端を拭った。
が、腰を落とし、土方の脇腹に狙いを定めた万太郎の前に、飛び込んできた男がいた。
「斎藤さん」
万太郎は、呆気に取られた。
「おれにご指南下さい、谷さん。本日は真剣にて」
斎藤は鬼神丸国重を抜いた。土方に目配せを送る。頷いた土方は納刀し、後退った。
「邪魔立てせんでくれ。仇討ちなのだ」
万太郎は叫んだ。斎藤は青眼に構え、万太郎と向き合った。
「しかし、おれもむざむざと上司を眼前で斬られるわけには行きません。局中法度『私ノ闘争ヲ禁ズ』をお忘れか?」
「貴殿は御陵衛士に入ったのではなかったのか?」
「表向きは」
斎藤はあっさり応じた。土方の方が驚いたくらいである。近藤、土方の間者として伊東一派に加わったのである。だが、この事は隊中では秘密裏、幹部でさえ知らない。監察の山崎のみを通じて、相互に連絡を取り合っているだけである。万太郎に暴露してしまってよいものではない。
「退かぬと仰るなら、おれは遠慮しませんよ」
斎藤は言い、踏み込んだ。槍に対しては一撃を外し、自ら懐に入り込めば勝ったも同然。だが、道場での斎藤は万太郎に一度も勝利した事が無かった。初めの突きをかわしたかと思えば、万太郎は素早く引き付け、次の攻撃を繰り出す。足運びも速く、なかなか懐に隙を見せないのだ。
だが、真剣を構えた斎藤は違っていた。竹刀の重みとは異なる。そして、道場とも足場が違う。
万太郎は遠慮なく突進した。斎藤は飛び退った。右に旋回し、刀を振った。万太郎は槍を腋に引き付け向き直って、一歩踏み出す。斎藤は次の一撃を読んだ。頭を下げ、膝を地面に着くようにして、国重を斜め上に突き出した。
万太郎のくくれた顎の下に切尖が迫る。斎藤の小袖の左袂を、万太郎の槍が貫いていた。身じろぎ一つでお互いに血を流す。
「これでよしにしましょう、谷さん」
斎藤は刀を下ろした。万太郎も槍を退いた。
「済まん、斎藤さん」
万太郎は膝まづいた。土方がその丸い背中を見下ろす。
「今日の事はもういい。不問にする。だが、お前は斎藤の密命の事を知ってしまった。離隊しろ。そして、決して今日の事は口外するな」
切腹ではない、離隊である。万太郎は茫然としたまま、土方の足音が遠ざかるのを聞いていた。やがて、顔を上げると西の空には夕陽が滲んでおり、いつしか斎藤の姿もなかった。
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