あとがき
政治と芸術は無関係ではない。洋の東西古今を問わず。戦時下においては、反戦をイメージさせるような絵画や物語は弾圧された。そして、薩長政権が作り上げた世の中のしっぽがまだ見えるこんにちでも、私が生まれる前は根強く新選組に対する「悪」のイメージが付き纏っていた。「鞍馬天狗」しかり。しかし、価値観の多様化あるいは歴史的事実の新発見などによって、各々の見方は変化する。新選組にしろ、志士にしろ、そのイメージは時代によって何転もした。今は比較的ニュートラルな見解になってきたことが好もしい。「悪」であるにせよ、そうでないにせよ、物事を一方的に決めつけ判断する事こそ、よくないと思う。
だが、その範疇でもまた「悪」と「正」の対立図が生まれる。
「新選組」における近藤や土方らが「正」ならば、芹沢鴨らや谷三十郎、武田観柳斎は内部における「悪」として描かれてきたことが多かった。新選組の試衛館出身者を「正」とすると、勤皇過激志士という「悪」の対立と、内部抗争における「悪」の二重構造である。
私は、谷三兄弟における数々のエピソードを読んだ時、「果たして事実はこうであるとは限らない」と思った。
世の中、やはり「勝てば官軍」である。日本という国は古くから中国を手本にしているので、そういう流れになる。勝った者が負けた者の歴史を描くのであるから、あとあと自分達の都合のいいように言えてしまうのである。そういう意味では「新選組」自体は幕末転換期の「負け犬」なのだろうが、やはりその中でも武士として華々しい最期を遂げたり、隊士としてまっとう出来た人間は「勝ち組」といえよう。だが、志半ばにして悲惨な死を迎えたり、脱走したり、落ち度があった者はどうしてもその部分がクローズアップされてしまう。死人に口なし、で、残った隊士がさんざん言った悪口が書き留められていたりするものかもしれない。谷兄弟は一時期新選組隊内では栄華を誇ったが、転落と末路は芳しいものではなく描かれている。これも「勝てば……」の発想なのだろうか。
とまれ、そういう一方的な物の見方は好きではない。そう思って、谷兄弟の名誉挽回というのでもないが、描いてみたくなった。
長兄の三十郎は、権勢欲が強く嫌味な感じの人物イメージが定着しているが、それは谷兄弟が新選組において異色の出自であったからではないだろうか。百姓や町人の出が多いとはいえ、永倉新八や山南敬助、斎藤一、尾関雅次郎など、武家の出の者も少なくない。だが、いずれも脱藩者であったり、故郷にいられなくなったりした者が殆どで、谷家のように板倉家の家臣で御旗奉行という高禄のものはいなかった。三十郎自身はわざとでなくとも、昔の頃の言動や癖が抜けず、高慢に映ったとしてもおかしくはないのではないか。
そこで、近藤に気に入られたものの元来気さくな仲間で固まっていた試衛館組になじめず、次第に浮いてきたのではないだろうか。三十郎がのちの世まで生きながらえていたならば、こういう偏った人物評だけではなく、もっと活躍した話も残ったのではないかという気がする。
斎藤一と谷万太郎の交流を中心に描いたのは、斎藤が試衛館組に属していながら、生え抜きではなく、近藤らとは全く違った経歴を持つからであり、万太郎は三兄弟の中でも最もニュートラルな位置にあったからである。
ちなみに周平は江戸を脱走後、明治五年に大阪で巡査勤めに入る。しかし、何らかの失策があって格下げになり、辞職した。その十年ほどのち、山陽鉄道の社員になって入婿し、播田昌武と改名した。数年後離縁となり、浪々ののち神戸で生涯を終えた。五十四年の浮沈激しい人生であった。もし周平の余生を物語にする機会があれば、してみたいと思う。
大阪市北区兎我野町にある本伝寺の谷累代ノ墓は、万太郎の子・弁太郎が岩田家に入ってのち大正十年に建てたものである。したがって、本作の墓(創作)とは別物なのでここに注記しておく。
【参考書籍など】
『新選組全史/幕末・京都篇』 中村彰彦 角川文庫(2001年)
『新選組追究録』 万代修 新人物往来社(1998年)
『日本史事典』 角川書店
『日本史総合年表』 吉川弘文館
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