御庭番というお仕事 (その壱)
 映画やTV時代劇、漫画、小説などで忍者同様に忍びの姿で現れたり(それも厳密に動くのは下忍であって、服部半蔵などは違います)、あからさまに人間離れした技を持っていたりする「御庭番」。
 ここでは、実は殆ど知られていない「御庭番」の実際の姿について、本作「御庭番シリーズ」(あくまでフィクションです)をサンプルに、手短に解説します。小説はあくまで作り事ですので、実際の御庭番とは異なることをあらかじめ御了承くださいませ。

 まず、本作の主人公御庭番伊織の略歴は、

 別所伊織佑豪(べっしょいおりすけたけ)
 本名・琉璃(るり) 通称・豊前守 役高五百俵。
 嘉永元年(1848)三月生。[徳川家茂、松平定敬は二歳]
 別所儀兵衛佑修(すけなが)の長女。
 慶応元年(1865)正月、十七歳で御召出。両番格庭番(御目見以上)より始む。
 同年三月遠国御用(上方)。十二月賄頭(役料二百俵)となる。
 慶応二年(1866)六月御簾中様御用人(従五位下諸大夫)となる。豊前守を名乗る。[7月20日将軍家茂薨去]
 慶応四年(1868)三月致仕願。


[別所家の沿革]
 別所家御庭番始祖の高橋与右衛門家は、吉宗公が紀州藩主時代の身辺警護役として扈従(こじゅう)した。「御庭番十七家」の一。
 高橋家は、初代与右衛門恒佐(つねすけ)が寛保元年に添番御庭番から広敷用達に昇進、御家人から旗本に昇格した。
 元文以後、子の源内が分家し別家・高橋源内家をたてる。さらに源内家から二代のち安永年間に別家となった佑誠(すけなり)が別所家を興す。剣術、槍術ともにすぐれたため召出されたという。武芸を以って取り立てられた佑誠は、家訓として「武芸怠るべからず」の言を残した。そうして、そのまま広敷用達、広敷番頭などを務め、伊織で五代目になる。
 別所という姓は、播磨の出身を示す。三木城の主であった別所一族の末裔であるといって、伊織の父・儀兵衛佑修(すけなが)は事あるごとに子供らを呼び、秀吉から攻められた時の籠城の話をしたという。
 
 @別所佑誠(すけなり)・安永8年(1779)―A保佑(やすすけ)・文化3年(1806)―B佑嘉(すけよし)・文政9年(1826)―C佑修(すけなが)・天保5年(1834)―D佑豪(すけたけ)・慶応元年(1865)
 
 という具合です。以下、この略歴に基づいて解説していきます。



◆御庭番の他の隠密との違い

 これが大事です。幕府には公儀隠密と称する存在があります。
 大目付・目付配下の徒目付や小人目付です。彼等の主な職務は、旗本や御家人の行状を監察することでした。時には老中などの命を受けて探索に従事することもあったようです。あるいは、諸侯の城普請・造営などに関して隠密に踏査して報告する義務がありました。
 あるいは、間宮林蔵なども公儀隠密だと言われていますが。
 しかし目付は将軍が直接指揮出来る存在ではありません。したがって、紀州藩主出身の吉宗が江戸に入った際、初めて設置したものです。
 将軍は通常、江戸城の奥深くで生活しているので、外出は滅多とありません。開幕当初はともかく、中期以降になってくると実務はほぼ老中が取り仕切っており、介入の余地がなく、将軍は老中の意のままになりがちです。
 そこで、吉宗は独自の諜報機関を持とうとしたのです。
 したがって吉宗の側近はもとより御庭番衆ももともとは紀州出身の者ばかりです。

 御庭番の特徴は、

 @将軍直属である
   老中の支配を受けないということです。
 A家柄が決まっている
   他の隠密と異なるのは、職務の特異性の為か家筋が決まっているということです。その為の弊害もあったかと想像出来ますが、機密性を重視されました。
 B表向きの職務がある
   いわゆる表の職務は大奥や西の丸などの宿直番、庭番などです。出世して奉行になる者もいました。

[伊賀・甲賀衆との違い]

 徳川家康に仕えた服部半蔵家が有名で、それ以後伊賀組同心(根来衆なども)などが設置されました。大坂の陣や寛永初年には機能していたのですが、幕府職制が制度化されるにあたって、間諜の仕事は薄れ、警備を主とする役職に編成されていきました。すでに松平定信の頃にはなかったようです。
 雑賀衆という平安頃から続く間諜集団がありますが、こちらは紀州で、御庭番とも何らかの関係があるのかもしれませんが関連性はよく判りません。
 よく、歴史ノベルスには伊賀者、甲賀者と出てきますが、間違いとはいわないまでも、江戸時代は長いので時期によって大きく職制も行政も変化があり、いつまでも戦国の遺風を引きずるような設定はおかしいという感じがします。

[その他の間諜]
 徳川幕府は実に多くの間諜を置いていました。
 元和年間に徳川和子(まさこ)のちの東福門院が後水尾天皇のもとに入内したとき、女御の付け人に化けて禁裏の内部に間諜を送り込みました。彼等が京都所司代を通じ、朝廷内部の出来事を江戸に逐一報告したのが始まりで、「禁裏付(御付武士)」という職制が発足しました。禁裏・仙洞御所の警固と財務の管理を名目にして、公然と朝廷勢力を監視しはじめました。

 これら間諜組織の発令、上下関係を単純に図式にすると、

 将軍→(御用取次)→御庭番
  
 老中→大目付・目付→徒目付

 京都所司代→京都奉行所→禁裏付

 のような関係にはなりますが、単純にそうともいえません。所司代は藩単位で任命を受けるので別個に藩としての目付も持っていましたし、老中支配にありました。
 老中はまた将軍とは別に御庭番を動かす事も可能でした。
 


◆御庭番の呼称

 いわゆる「御庭番」というアバウトな呼ばれ方はあっても、そういう役職は当時はありません。
 本作では「御内々探索方」「御内々御用人」などと自称しています。
 御庭番は五つに大別出来ます。

 御目見以上 両番格御庭番(二百俵高) 明和五年設置(別所伊織のスタート時)
         小十人格御庭番(百俵高) 寛保元年設置

 御目見以下 添番御庭番 (百俵高) 享保十七年設置
         添番並御庭番 (五十俵高) 享保十九年設置
         伊賀御庭番 享保十一年設置

 単純には、御庭番といってもつまり旗本と御家人に分かれていました。御庭番家筋の嫡子などが始めて番入(番方に採用されること)する際には、御目見以上は上記二つの役のいずれか、御目見以下は上記三つの役のいずれかから就職するのです。
 そもそも将軍様の御庭を番する者としての御庭番ですが、ここからスタートして昇進するとまた職名が変わっていきますが、それはまた別項で。



◆御庭番の表の実務

 御庭番の職務は、隠密御用のみではありません。
 表向きの職務があります。『武鑑』にも載っています。

@[御庭御番所の宿直]
 職名の語源となった「御庭御番所」の宿直が職務の一としてあります。
 普段は夕七つ(午後四時頃)から、この御庭御番所(本丸天守台近くの庭に設置)に泊まり、昼は大奥御広敷の部屋に詰めていました。三人ずつの交代です。夜中に出火や不審のあった際、拍子木を打って奥の番へ報せす役目でした。

A[出火の際の取次]
 あるいは江戸城近辺の出火で将軍が城から退去する際、御庭番は老中の支配を受けて火消しや目付けなどを奥向きへ呼び込む取次ぎや手配の伝令、移動場所への案内、または老中の指示以外も者が奥に紛れ込まないように取り締まった。

B[出役場所における人別改め]
 御庭番の出役場所での殿舎の建築や修繕が行われる際、奥之番の指図を受けて、そこに出入りする作事方・小普請方・畳方などの役人や職人の人数を改め、不法なことが行われないように監視するのです。出役場所は、将軍の御座之間をはじめとする中奥の座敷や御成御門・天守台下・五拾三間御門のあたりです。

C[将軍家若君の御用]
 御宮参り、五月幟、京の姫君との縁組など。若君の御宮参りなどには奥之番の指図を受けて先番を勤めたり、台所前に五月幟を立てる際には奥之番の手についてその係りを担当しました。
 若君が京の姫君と縁組して、姫君が江戸へ下向する際、御迎えとして差し遣わされて、泊番などを勤めています。

D[その他の出役]
 吹上御庭、中奥能舞台、具足師宅、日光などへの出役があります。御台所や奥女中などが遊興の折、夜中宿所の勤番を仰せつかったのです。

 
別所伊織の最終的な表の職務は「御簾中様御用人」です。
 これは布衣(六位)以下御目見以上大概順における役職で、若年寄支配、御役料五百俵高、殿中の席は桔梗の間になります。通常は六位ですので、式の折には布衣という衣装で登城します。
 役目は「御簾中様」=「大名・将軍などの奥方・正室」つまりは、天璋院(篤姫)あるいは和宮親子(ちかこ)の執事という職務です。定員三名で(他は御庭番筋以外の者)大奥における男子の最高位。
 通常の御用人は正室の御用を果たすのみですが、伊織は御庭番として家茂に大奥の内情を知らせる役目も持っていました。婚姻の事情が事情だけに、家茂は和宮が公に口に出来ない事や天璋院との関係を知る必要があったのです。勿論、伊織が御庭番であることは和宮らには知らされていません。家茂の死後は、表は通常業務を行っています。
 
ちなみに「御簾中様御用達」という役目もありますが、こちらのほうが格下で支配も広敷となっていて違います。

 

◆御庭番の裏の実務
 
 簡単にいうと、内密御用には創設期には「遠国(他所)御用」「地廻り御用」とあったようです。
 諸役人の風聞や世間の雑説なども報告したりしていました。御用掛が管掌していました。詳しいことは、後に掲げます参考資料など読んで頂くと書いてあるので、ここでは割愛します。
 この内密御用ですが、将軍の御用御取次用人から命じられる時と、将軍直々の時があります。
 初め、将軍が御庭番から内密御用を直接聴取するとき、「御障子越し」に聞く形式をとっていましたが、家斉以降は御庭番は将軍の面前に召し出されるようになりました。
 つまり、これは創設時(吉宗の頃)には御家人扱いで御目見以下だった御庭番が、十一代家斉の頃から御目見以上の直参になったという風にも言われています。が、一般にはそうであってもたまに御目見以下(添番御庭番など)も将軍の面前に出て報告していたという記録もあるようなので、一概には決められないようです。ただし、報告の際には必ず上司である御庭支配の者がいたので、将軍は名目上はそちらと話しているという具合ですね。いずれにしても、実質は誰しもが内密御用にあたった場合、将軍に直に面談するのです。

[内密御用の手続き]
 @御庭番家筋の長老が御用取次(あるいは将軍)に呼び出される。
 A長老が探索者の名前を上申するようにとの内意を受ける。
 B人選を行い、報告。
 C御庭番両名(必ず二人)が御用取次に呼集される。
 D奥新部屋あるいは笹之間廊下で用向きを仰せ付かる。
 という手順ですが、この限りではありません。
 用向きを仰せ付かるのは将軍の場合はさておき、御用取次が登城前あるいは退出の頃屋敷に赴いて伺うこともあります。込み入った場合は、情報の漏れを防ぐためにそうしたと思われます。
 中には御庭番といっても、一生内密御用をしない者もいたようです。

[江戸向地廻り御用]

 江戸近辺に関する調査で、諸役人の風聞聴取などがありました。諸役人の不正摘発、勤務の怠りがないかどうかの点検を行い、幕府はリストラクチャリングの材料にすると同時に、有能な人材の登用にも活用したようです。寺社奉行、江戸町奉行、勘定奉行までも監視していました。

[遠国御用]
 江戸近辺以外の地方の国々に関する調査です。
 記録によると、十一代家斉の頃には三十回、十二台家代家慶の頃には十三回、十三代家定の頃には二回、十四代家茂の頃(ただし安政五年十月〜文久元年三月)には一回行われています。
 だいたい、将軍代替わりの直後に派遣されるのは、将軍代理の諸国巡見使を監視する目的です。
 遠国御用は二人一組か三人一組、探索者には添番、添番並や両番格などの御庭番以外にも現役の吹上添奉行などの在職者も任命されています。
 初めて遠国御用を仰せ付かった御庭番は、誓詞を仰せ付けられ、その際御用取次に「起請文」を提出することになっています。いざ出張の段には、内命を受けたうえで御証文(出張証明書)と御手当金(調査費用)を充てられて出発したのです。
 短いもので十五、六日から長い時には百日以上ということもありました。

 別所伊織の慶応元年三月遠国御用(上方)は、家茂の記録が文久三年までのものであり、それ以後はどういう状況であったかどうか不明なのでフィクションです。江戸〜関西を往復するので決して短い期間のものではありません。

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