| 御庭番というお仕事 (その弐) |
| ◆御庭番の出世 御庭番の昇進は、だいたいが親の実績に応じてその地位に達するのですが、所属が広敷用人や広敷番頭であるので、同類のことが多いです。 たとえば、 添番並庭番→添番庭番→広敷用達→膳所台所頭(あるいは広敷番頭) というような出世コースが妥当なのですが、中には 添番並庭番→賄調役→表台所頭→賄頭→御書物奉行(二百俵高・若年寄支配) 添番並庭番→小十人格庭番→山里庭預→休息御庭之者支配→広敷番頭→細工頭→三卿物頭用人→勘定吟味役(役高五百石・布衣・老中支配) などのように破格の出世をするケースも少なくなかったようです。古坂与七郎や村垣左太夫、梶野平九郎などです。さらに、諸大夫となる勘定奉行、下三奉行、遠国奉行などに就任したものが御庭番家筋からは七名出ています。 最も有名なのは村垣淡路守範正(文化10年(1813)〜明治13年(1880))でしょう。 以下略歴を。 [天保2年新規召出されて小十人格庭番となり、弘化2年細工頭、嘉永3年賄頭。安政元年勘定吟味役と進み、海岸防禦筋御用取扱ならびに松前及蝦夷地御用を命ぜられ、同年3月出立し10月帰府。同月下田に露艦再来し、筒井政憲・川路聖謨らと共に露使応接掛となり下田に出張。 翌安政2年正月、箱館表御用。5月、内海台場普請ならびに大筒鋳立大船其他船製造御用。 さらに東海道筋川々普請掛と次第に重用され、安政3年7月、箱館奉行に進み、9月、従五位下淡路守に叙任された。 在任中は同僚堀利熙と共に蝦夷地の踏査及び開拓に尽力、安政5年10月、岩瀬忠震に代わって外国奉行を兼帯、翌年神奈川奉行も兼ねた。この間、神奈川開港地決定のための応接に携わった。 同安政6年9月、日米通商条約批准交換のための副使に選ばれ、正使新見正興・目付小栗忠順と共に万延元年正月出発。途中ハワイに寄り、帰りは大西洋を通って9月帰国。使命を全うし、その功により300石加増された。 同年12月、日普通商条約交渉の全権となり、文久元年、露艦の対馬占領の際は箱館に有って露国領事ゴシケヴィチにその退去を交渉した。 以後は外交の舞台から去り、文久3年6月作事奉行となり、元治元年8月、西丸留守居に転じ、若年寄支配寄合となる。 明治元年2月病のため隠居して淡叟と号し、再び官につかなかった。年68で没] 山田風太郎の短編に「御庭番地球を回る」というのがあり、その主人公が村垣範正です。 さて、くだんの別所伊織佑豪ですが、 慶応元年(1865)正月、十七歳で御召出。両番格庭番(御目見以上)より始む。 同年三月遠国御用(上方)。十二月賄頭(役料二百俵)となる。 慶応二年(1866)六月御簾中様御用人(従五位下諸大夫)となる。豊前守を名乗る。 両番格庭番からいきなり賄頭ですが、その間に広敷番頭あるいは細工頭という役職をはさんでも妥当です。遠国御用に飛びぬけた成果があったための異例の抜擢というわけです。(御用の内容は、膳所藩の吊天井にかかわるもので、家茂暗殺を謀ろうとした藩士を摘発、京都守護職に連絡を繋いだという大役) 伊織の場合は、遠国御用のこともあり将軍家茂の信任が篤かったゆえの昇進です。通常の幕臣がこういうわけには行きません。将軍の耳と目である御庭番ならではの役得でもありますが、それだけの職務をこなして村垣家や明楽家などは諸大夫までに出世したのです。 ◆御庭番のサラリー 武士は御扶持がつまりサラリーです。男扶持と女扶持があって、男は一人一日あたり玄米五合、女は三合というのが一般らしいです。 一石を一両と考えると(幕末はもっと厳しかったのですが)、千石高なら千俵の収入があり、千両となるのです。時期によっては実収入が六分の一程になっていたこともあります。 添番並御庭番なら五十俵高=五十両の年収になります。 両番格御庭番なら二百俵二百両の年収です。 現在の通貨に単純計算することは難しいのですが、幕末頃によく換算される金額でいうと一両=30万(最大)として、添番並で150万、両番格で600万という、やはり御目見とそれ以下では歴然と差があります。 伊織の場合、五百俵高の御簾中様御用人となるのですが、五百石の1500万円は役高で、格家家には元高があります。別所家の元高は百俵(百石)=300万さらに御足高という昇給があるので(これは随時)、これが五十俵で150万、総額1950万円という堂々の高給取になります。 伊織は奉職して期間が短いので御足高は少ないですが、長年勤めると勤務に応じて増額されますのでさらに収入は上がり、さらに俸給以外の臨時収入としてボーナスみたいなものも再々あったようですので、数字の限りではありません。 また、子息も出仕しているとその分収入増になりますので、家単位では増減があります。 しかも、御簾中様御用人という御役目は実収入以上に将軍や御台所、各旗本、藩主らの贈答品などで不要なものなどの下され物が多く、それらを含めると相当な収入があったかと思われます。 が、役職や官位、禄高に応じて武家は奉公人を雇うことになっていましたので、別所家には少なからぬ雇い人がいました。 用人(執事のような存在)、若党、下男、下女、ふくめて約十五名ほどで、彼等には働きに応じて年間二、三両〜節季ごとに衣類、お年玉などを支給していました。 奉公人を減らすというのは、いざという時の戦力にならないというのでお上に対して不忠でした。己が贅沢を謹んで人材を雇うのが、旗本の御役目の一でもあったのです。今で言うワーキングシェアの精神ですか。 さらに、別所家には将軍家茂から下賜された馬があり、厩を増築し轡取りを雇い、いきおい経費が増えたりして、出費も中途半端ではありません。江戸の市中で馬を飼うというのは、直参でも余程の大身ではない限り、大変なことでした。現在のお金持が外車に乗る比ではありません。 というわけで、2000万円そこそこの収入では、実際然程の贅沢も出来ぬのが御庭番つまり旗本の生活です。 あくまで単純計算ですので、この限りではありませんことをご了承ください。 ◆御庭番の人間関係 御庭番は係累の者同士で結婚をします。 極秘情報が他家に洩れないようにする為です。養子縁組も同じです。そもそも直参が勝手な縁組をすることは許されませんでした。 別所伊織の許婚者は、同じ御庭番家筋(明楽家分家筋)の渡部勝之進でした。本来なら、佑修(すけなが)の長女として勝之進に嫁ぐところでした。 いわば、御庭番衆の者はほぼ血縁関係にあります。 ◆御庭番の住居 御庭番筋衆の御長屋があります。一軒当たりの敷地は100〜150坪で、建物は20坪前後。部屋は八畳が一、六畳が二、四畳半が二くらいの今で言う4LDKほどですので、兄弟が一緒に住まっていると何かと不便です。大所帯になったり、出世すると拝領屋敷を持ちます。幕臣や藩の屋敷は幕府から借りているというものですので、あくまで借り物が大きくなったというだけですが。中には金を貯めて郊外に屋敷を買うという幕臣もいました。 別所家は番町四丁目、今の靖国神社のあるところ千代田区九段北ですね。江戸城の西になりますので、鍛冶橋河岸の東(いまの中央区八重洲)、松平越中守上屋敷とはお城を挟んで対になります。 ◆御庭番Q&A Q.内密御用の結果はどう記録しておくのでしょうか? A.最終的には文書として将軍に提出します。 ですが、探索中に記録しておくという作業は原則としてしません。 御庭番ということがバレると任務はおろか、命の危険になりますので、自分の頭の中に記憶しておくのが御庭番といいますか、間諜の鉄則です。 ですので、記憶力の良さが要求されるのです。 また、将軍から老中に下される探索結果の報告書は、探索を行った御庭番の名は削除されますので、誰が行ったか判らなくしてあります。 Q.御庭番独自に間諜活動を行うことはあるのですか? A.基本的にはありません。 将軍あるいは老中からの指図を受けてのみ隠密活動は行います。しかし、風紀粛清の為に市中を見廻っていることもあります。 Q.時代小説の中には「御庭番が密命を受けると大丸呉服店の一室で変装して出掛けた」というようなくだりがありますが、本当でしょうか? A.違うようです。 変装の必要性があるのは、表の職務がない場合でしょうが、御庭番は歴とした直参なので、特殊な場合を除いてわざわざ変装する必要はありません。 Q.御庭番が薩摩に潜入した場合、証拠として屋敷の蘇鉄に笄を差しておく、というのは本当でしょうか? A.フィクションだと思います。 所謂「薩摩飛脚」などと言って、島津藩に潜入した間諜が帰還困難であることは小説などの中で書かれていますが、遠国御用として薩摩入りした記録は残っていません。九州は長崎が二度、対馬が一度という記録があります。他、天明期に中四国、九州筋と万延期に九州筋への御用が書かれていますが、薩摩まで行ったかどうかはわかりません。記録されていない御用もあったと推測することは出来ますが、質問のようなことはないでしょう。 Q.どうして御庭番の給料は他の直参よりも低いのですか? A.権力の集中を削ぐためです。 幕末に出した七名の奉行は破格の存在として、それでも御庭番筋は大身の旗本ではありません。 将軍という幕府における最高権力者や老中、若年寄などの有力な幕閣に近い存在であるので、経済的な余力を作って権力を持たないように禄が低かったのです。幕府の重職に就任する大名が譜代の小藩(十万石以下)であるのも、同じ理由からです。 そもそも間諜、暗殺などは正々堂々としておらず賤しいことで、身分が低いもののすることだとして、通常の武士に比べると地位は低かったようですので、その名残もあると思います。 Q.御庭番以外の人間(将軍は除外)が江戸城内部の全てを知っていたことはないのですか? A.ないと思います。 大奥しかり、一般の直参や大名も、決められた場所以外は立ち入り禁止です。 老中等の指示で出火の際の先導役をつとめるので、御庭番は城内の一部の部屋を除いて、すべて把握していました。御用があれば、どの部屋にでも忍んで行って探索をすることが許可されていたのです。 ◆参考文献・書籍・関連書籍など 『江戸城御庭番 徳川将軍の耳と目』 深井雅海/中公新書/1992 『旗本の経済学 御庭番川村修富の手留帳』 小松重男/新潮選書/1991 『江戸の旗本事典』 小川恭一/講談社文庫/2003 『日本史総合年表(第二版)』 加藤友康他/吉川弘文館/2005 『明楽と伊織 幕末御庭番』 全12冊 森田信吾双葉社 『維新の御庭番』 小松重男/廣済堂文庫/2004 『禁裏御付武士事件簿』シリーズ 澤田ふじ子/徳間書店 など。 (その壱)へ |