(一) 

 慶応四年の初夏である。
 京で尊攘志士らを震撼せしめた新選組の鬼副長・土方歳三は会津に居た。
 宇都宮戦争後、北上し転戦を重ねている際に銃弾を浴び、幸いに一命に別条はなかったが、肩と足を負傷した。
 さしたることはない、と当人はふんばっていたが思うように迅速に快復しない。
 いつまでも一隊の指揮官が松葉杖をついているわけにもいかず、これでは士気も上らぬのではなかろうかと、結局新選組の隊旗は元副長助勤の山口次郎こと斎藤一に預け、東山温泉にて療養することとなった。
 土方は会津藩主・松平容保の赦しを得て、小姓を一人連れ、温泉郷に入った。
 宿は会津藩の療養所とは別の小ぢんまりとした湯治場で、土方は足を引き摺っているので下座敷の一間を借りていた。
 宿に泊まって三日目の晩である。
 東北の入梅は遅いが、この日は朝からどんよりとして、五月雨の如く小雨が降っていた、
「いやな雨ですね」
 襖の前に座している斎藤が言った。彼は宵の口からやって来て、報告とともに二つ三つの雑談をして、酒を飲んでいる。勝手知ったる何とやらで、斎藤が来るのはもうこれで二度目だった。
 土方は土方で仄暗い行灯の下、書き物をしていた。
 そろそろ斎藤も帰るのではないだろうか。夜も四つ時である、と土方が遠く城下の鐘の音を聞いた時、何やら奥の方がざわめいている。
「見てきましょう」
 斎藤が言い、立ち上がった。土方はその広い背中、丈高い様を横目で見送った。
 やがて、斎藤は戻って来て、こんなことを報告した。
「奥の便所に化け物が出たそうですよ」
「何だ。与太話か。どういう事だい」
「化け物の姿は見えないというのです」
 宿屋の便所は一階のどん詰まりにある。そういうものと決まっている。逗留客は、皆其処へ行く。
 先程は二階の女が便所へ行き、一つ目の個室を開けようとしたが、開かぬ。二つ目も同様であった。
 内からはこつこつと戸を叩く音がして、どうも中に誰か居る様子である。ゆえに待ってみたが、一向に出てくる気配がない。
 暫く待っているうちに、他の客も用を足しに集まってきた。
 余りに奇妙だということで、一人は待ちかねて無理から戸をこじ開けようとした。だが、一人の力では開かなかった。
 やんやとやっているうちに、男衆が二、三人集まってくる。騒ぎを聞きつけた宿の者も出てきたらしい。
 兎に角開けてみよう。病人が倒れでもしていたら大事だと言って、男達は力づくで戸を開いた。
 すると内には誰もいなかった。次の戸も全く同じであった。宿の奉公人に聞くと、
「たまにこういった事があるらしいのです。狸や貉も多いですから」
 と答えた。それ以上の話はなく、一同も納得したようなしないような風に解散した、と斎藤は言った。
「面妖ですがね。もう少し早く駆け付けてりゃ、鬼神丸国重をぶすりと外から突き立ててやれましたものを」
 どうやら斎藤は、負け戦が続くので鬱憤が溜まっているらしい。
「刀を振るったところで狐狸の類なら埒もないぜ」
 土方は苦味走った皮肉な微笑を見せた。

 それ以後、逗留客は奥の客用便所へ行くのを嫌って、宿の者が使っている便所へ通うという者が増えた。しかし、中には土方同様に会津に加勢しようとやって来て浅傷を治療している豪の者もいる。そんな若い血気盛んな男達がこの話を聞いて黙っていられよう筈がなかった。
「女子供はびくびくしやがって、何の恐ろしいことがあるか」
 と言い、彼等は相変わらず客便所を使っていた。
 土方も同様である。もとより土方は脚が不具合であるので、宿の使用人便所のような遠い所へ行くのは億劫でもあった。
 そして更に二日経った晩、またぞろその戸が開かなくなった。
 一人の若者が憤慨して部屋へ駆け戻り、己の大刀を持ち出して再び便所へ戻ってきた。
 板越しに突き通してやろうと考えたらしい。
「同じ事を考える奴がいるようだ」
 またしても酒を飲んでいた斎藤が、今度は素早く立ち上がり、国重を引提げて奥便所へと向かった。
 そうして若者が片手に大刀を抜き持って、もう一方の手で戸を引き開けようとするところを押し退け、ずぶりと刃を入れようとした。
 ところが、戸は仔細なしにすうっと開いたのである。
 中には何もない。二番目の扉も何事もなく開いた。
 これには若者も斎藤も顔を見合わせて、言った。
「どうやら恐れをなしたらしい。気弱な化け物め」
 その後、便所は何事もなかったかのようになったが、それは男達が使用する際に各々脇差だの大刀だの提げて通うようになったからであろうか。
 土方は内心「何だか莫迦らしい」と思ったが、念の為兼定を持って用を足しに行った。
 松葉杖も取れてだいぶ足は良くなったが、それでも歩くの多少の難儀はある。
 それにしても、土方の戻りが遅いので、さしもの斎藤も心配になり、飲むのを止めて廊下へ出てみた。
 すると、薄暗い渡り廊下を足を引き摺りながら土方が帰ってくるところだった。
 顔色が酷く蒼白であった。
「具合でも悪くなったのですか?」
 いや、と土方は無表情に首を横に振った。黙(もだ)したまま部屋へ帰り、行灯の前に膝を投げ出して座った。斎藤はその風情を見て「今夜はもう帰ります」と、告げて出て行った。
 
 後日、凶報がもたらされた。
 下総流山で拘留された新選組局長・近藤勇が斬首されたのである。
 報せは鶴ヶ城の松平容保、そして同時に東山温泉の土方の元へと届いた。
 悲報を聞いた土方は、涼しげな目元を一瞬強張らせたが、「そうか」と一言使いの者に答えただけだという。
 丸一日、土方は下座敷に籠もっていた。
 翌朝、斎藤が訪ねて行くと、土方は案外普通に顔を見せ、手招きをした。
「珍しい。今日はしらふだな」
「さすがに殿の御前に御呼ばれでしたもので」
 聞けば斎藤は容保公の意向で、京で晒しものになっている近藤の首を奪い返しに行くのだという。
「会津に墓を建ててやりたいとの仰せです」
「そりゃア勝っちゃんも喜ぶよ。急度、此処に来たかったろう」
 土方は寂しげに笑った。さしもの斎藤も、話す事がなくなってしまった。
 黙って正座をしたまま己の膝を見詰めている様が、まるで悪戯を咎められた子供のようである。
 「ふん。奥便所の化け物を叩っ斬ってやろうってェ乗り込んだあの時の勢いはどこ行った」と、土方は可笑しくなった。
「実はな。お前が便所に乗り込んで来たあの晩、おれァ後で兼定提げて一人で行っただろう。その時見ちまったものがあるのよ」
「化け物の正体ですか?」
「いや。便所の中に人の首が転がっていた。……男の首だったよ」
 斎藤は矢庭に顔を上げた。土方は文机のほうを向いていた。
「土方さん、その首はもしかして」
 土方は何も答えなかった。
 程なくして、土方は別の旅館に移った。鶴ヶ城が陥落するのはその五ヶ月後である。土方が箱館に散るのは、更にその八ヵ月後のことであった。

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