私見・松平定敬(さだあき)について
◆松平定敬(1846-1908)

 弘化3年12月2日に美濃高須藩(現在の岐阜県海津町)第十代藩主・松平義建の八男として生まれました。母は側室の今西久太夫の娘・亀です。
 よく七男と書かれている資料がありますが、どうやら五男・義比と容保の間に六男がいて夭折してしまったようです。
 幼名・欽之助のち金+契(字が出ません)之助。
 すぐ上の異母兄で11歳年上の容保は、すでに会津若松藩松平家へ養子に出ていました。二人は歳が離れており、幼いときに一緒に暮らしていないにもかかわらず、実の兄弟として仲が良かったといわれています。
 はじめは生母の亀様に育てられたそうですが、5歳になって正室の規姫のもとで養育されます。そして安政6年10月1日、桑名藩主・松平定猷が大病になり、婿養子の話がまとまって三日に桑名藩邸に引き移るということに。翌月16日に家督相続しました。
 先代定猷から引き継いだ京都警護役を務める為に、京都の蓮台寺境内に4,000坪の陣屋屋敷を拝領、ここに建物を建てました。しかし、定敬は江戸詰めの人員が少ないという理由から京都にも桑名にも入れずにいました。
 文久2年7月に初めて桑名城に入るも、その後も定敬は多忙を極め、自藩を治めるよりも幕府の命を受けて動かねばならない事が多く実質国許にいたのは二年ほど。
 そして、兄・容保の請願により、元治元年4月11日(このとき19歳)で前任者淀藩稲葉正邦の後を受け京都所司代に任命されました。
 所司代在職中は、禁門の変や兵庫開港に関する勅許問題の解決にもあたり、京都警護、朝廷と幕府の斡旋に務めています。が、残念ながら本人が京都時代のものは処分したらしく、資料が残存していません。
 慶応3年に起きた王政復古のクーデターにより京都所司代などの職が廃止され、兄・容保や前将軍慶喜と共に大坂城に入ります。そして、慶喜の大坂からの脱出行に容保らとともに連れ出され江戸に帰還。
 慶喜は江戸城を出て上野寛永寺に蟄居、2月には登城禁止を申し渡し、定敬にも桑名藩の菩提寺である深川霊厳寺で謹慎を申し付けました。しかし、定敬は主戦論を唱え、あくまでも抗戦を続ける様相だった為に江戸から追放しようとする動きが出ました。その為、3月16日に桑名藩士100名と共に横浜から長岡藩がチャーターしていたプロシア船に乗り、箱館経由で新潟に向かい、桑名藩領柏崎の勝願寺に入り謹慎の形をとりました。
 ところが、定敬は水面下で関東を転戦している桑名藩士らを柏崎に呼び寄せ、恭順派の家老・吉村権左衛門が謀殺されるや(定敬の命で殺害したとも)、主戦派らとともに北越戦線を抜け、会津に合流しました。
 新政府軍が会津に逼迫し、容保も篭城を余儀なくされた時、定敬は兄の願いにより米沢へ会津藩救済の申し入れに向います。
 米沢には定敬の実妹が嫁していたのですが、既に藩は降伏の手紙を送る手筈になっていたため、定敬の要請を拒否。そのまま仙台へ向いました。
 途中福島で小笠原公に遭い、軍議を重ねるも、謝罪恭順を勧める米沢藩の使者がやって来て、米沢藩との無用な争いは避けたい定敬は、密かに福島を脱して僅かな供と共に仙台へと向かいました。
 仙台では、家老・森弥一左衛門が榎本武揚に面会し、定敬を艦に乗せることの同意を得、ただちに蝦夷へ渡りました。
 蝦夷地へと向かった定敬は、家老の酒井孫八郎他1名が恭順を促す為に迎えに行きました。が、定敬が抜ければ兵士らの士気が下がることを懸念した榎本や土方に説得されて、翌年4月に箱館を脱出するまで当地に留まる事になりました。
 箱館を脱出した定敬公は途中上海へも向かいますが、路銀も乏しくなり、明治2年5月に横浜へ到着しました、そこから市ヶ谷の尾張藩邸で取り調べを受けた後に、津藩預りとなり、謹慎することとなりました。
 明治五年正月、漸く謹慎が解け、翌月には初子と結婚、その年の秋には欧州旅行に参加しています。
 同十年の西南戦争には桑名士族を引率して九州まで遠征しています。
 その後も、桑名藩士戊辰殉難法要に参加したり、戦没碑、招魂碑を建てるなど、後年は戊辰戦争で散った藩士らの弔いに積極的に動きました。
 兄容保死没後はその跡を継いで日光東照宮宮司の職に就き(明治27年)、病の為に辞してのち明治41年7月21日61歳で逝去。


◆私見

 外見についての誰かの証言もないし(写真はありますが)、性格もよくわかりませんが。
 写真から等身や他の人物との比較をしてみると、160cm以上は少なくともありそうです(推定)。当時の成人男子平均身長が158cmくらいなのでととびきり大柄でもないけど小柄でもない。慶喜との比較が出来ればなおわかりやすいんですけど。肉付きは中肉の感じですね。意外と脱いでみたらマッチョかも。
 格別の男前ではないということだけは確かそうです(ヲイ)。でも美男子かというのとモテるのは別モノなので、きっとおモテになられたに違いない。たぶん兄上より。男としての色気はありそう。
 色のイメージはミドリというのが無意識に出てきます。家茂から頂いた帯地とか袴地の色のイメージが。
 筆跡を見ると、「一見理論的そうでスレてるようでいて、やはり内面はかなり熱い男、でも常識人」っていう印象がします。別に私は筆跡鑑定出来るわけでもないんですけど。
 間配りがヘタっぽい(すいません)。頭では何等分して……と思えるけど、いざ書いたら頭でっかちだったみたいな。
 歌もそんなにはっとするようなものもなさそうですし、そこそこだとは思いますが(すみませんこれも素人判断)、やはりどっかモラリストな常識人的な部分も感じます。字そのものに強烈な個性はないんですけどね、龍馬みたいな。昔の中国の文人などはもっと多様な文字を書きますが、定敬のは全体にまとまってやや縦長。
 そのクセ、非常時には「君子豹変す」で、何でもござれ的。でも、そこもひっくるめてが殿様育ちの限界のような。この性格で家格が低かったら相当破天荒なことでもしてたかも。なにせ一兵士に扮して箱館に行くのもともかく、上海にまで逃亡とは。
 何か平和な時代は無理からその枠内で辛抱してるけど、一波乱あるとそこまで己の力量はともかくも、前進しまくるような感じです。そういう不器用さが見えるのが好きですね。
 惚れた女が苦労をしそうなタイプのような気がします。

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◆参考資料等

 『松平定敬のすべて』 新人物往来社/1998年
 『桑名藩戊辰戦記』 郡義武/新人物往来社/1996年
 『三重幕末維新戦記』 横山高治/創元社刊/1999年
 『昔夢会日記』 渋沢栄一/平凡社(東洋文庫)/1966年
 

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