(一)
待ちわびた夜が始まったばかりだった。十月も終わるというのに、外は風一つない。
町屋のあちこちから、生活の様子を伺わせる物音が響いてきた。露地のかどに密かに身を隠しながら、一
(はじめ)は先刻から続く単調な押問答を聞いていた。
女のか細い声と男の低く不機嫌そうな声だった。痴話喧嘩にしては淡々としている。
「しかし、土地が違やあ男女の喧嘩の声も違う。これが京の町ってもんかな」
そんなことを考えながら、一は半刻待った。
裏店の納屋が、小さな賭場になっている。一は漸く、納屋の潜戸から小太りの男が出てくるのを認めた。砂利を鳴らしながら、溝縁まで歩いて立ち止まるその男の隣に、一は静かに並んだ。
「どうだい調子は」
一は親しげな口をきき、男の顔を盗み見た。男は一瞬ぎょっとなったが、放出し始めた小便は止まるものではない。一は、着流しを尻端折しており、青白い貌には仄かに無精髭が生えていた。一見、浪人者のような風情であったので、男は警戒を解いたようだった。
「いやあ、負けが込んできよった。あんたは?」
男は前を向いた。そして、横に並んで用足ししている一の手元を盗み見たようだった。
「おれはな」
一は素早く小便を仕舞いにすると、男の顔を見下ろすように身を寄せた。気配に押されたように、男は半歩後退った。
「おれはあんたが勝とうが負けようがどうでもいい。頼み事があるのさ、伊勢屋の旦那」
伊勢屋利兵衛は、瞠目した。まだ二十代半ばだが、太っているゆえに年嵩に見える。むしろ一の風貌の方が、奇妙な貫禄さえ漂わせている。
「か、金か?」
いや、と一は首を横に振った。長身痩躯の一が、利兵衛の短躯を圧倒していた。
「手っ取り早く言うや。上木屋町の大島屋の貸金だが、そいつの取立てを待ってやんな」
利兵衛の顔が強張った。
「お前、大島屋に頼まれたんか?しょうもない事言うな」
大島屋と聞いた所為か、伊勢屋利兵衛の態度は、急に横柄になった。
「しょうもないかどうかも、おれには関係ない。おれはあんたが、はいと色よく返事してくれりゃあ、それでいい」
一々喋るのも億劫だという風に、一は言った。伊勢屋は利兵衛の先代から始まった寝具の問屋だが、最近商売が太くなってきた。というのも、同業の小売店に資金を貸し、取立てを厳しくやる。借りた金が払えないまま、店を差し押さえにされてしまうと、事実上その小店は廃業である。それを取り込んでいき、次第に伊勢屋は大きくなったという按配だった。
「あんたらの商売をよく思わない奴も大勢いるということだ」
「何言うてけつかる、余所もんが。その言葉遣いは江戸もんやな」
利兵衛がそう言うや否やで、一は組み付いた。暴れる四肢を膝で押さえ込み、口を掌で塞ぐと、一は短刀を抜いた。利兵衛の袖の内側の、二の腕の柔らかいところを刺す。悲鳴は、漏れなかった。
「おれを舐めるな。あんたの貧相な一物をちょん切ってやってもいいんだがな。跡継が出来ないのも不憫だろうよ」
一はそう言って利兵衛の胸倉を掴み、引き起こすと、にやりと白い歯を見せた。高足駄を鳴らして、その場を去った。伊勢屋の啜り泣くような声は、まだ続いていた。
京といっても、今出川通を少し上
(かみ)にあがれば、大層な田舎になる。下鴨神社の糺
(ただす)ノ森はいつも鬱蒼としており、加茂街道を鞍馬へ向かう道筋は白昼こそ人通りはあるが、夜は誰も出歩かない。しかも昨今、京の夜の物騒さは、日に日に増していた。
聖護院森よりも北東に吉田山がある。その一帯を吉田村と呼んだ。山裾の神社の南に、一軒の道場があった。
吉田道場といい、古剣流の聖徳太子流を受け継ぐ一派である。
道場に戻ると、玄関から甲高い女の声が頭ごなしに飛んできた。
「お早うお帰りどすな」
道場主、吉田仙十郎(勝見)の娘さえである。女中のように襷掛けして腕まくりのさえは、今年十七になる。一は筒袖に隠した両手をもぞもぞさせながら、
「左様で」
と、無愛想に答えた。暗がりに乗じて袴を穿き直し、衣服を正して帰ったのだが、思いがけず遅くなり、時刻は四つの下刻をとうに過ぎていた。たかだか伊勢屋の倅を脅すのに一刻も時間を潰してしまったのが原因で、さらに報酬を受け取りに行った際、酒の相伴に与ったのもまずかった。
「ま。ご酒のにおいがぷんぷんしてはりますわ」
さえは、一の背に顔をくっつけるようにして嗅ぎ回った。仙十郎に仕込まれて、小太刀も使うというさえの動きは、こういう時いやに俊敏だった。
酒を飲んで何処が悪い、と言いたかったが黙っていた。口応えなどすれば、まるで若夫婦のようになってしまう。それは一の本意に叛く。だから、古女房のように口煩いさえの小言やお節介は、聞き流すしかない。
「お夜食は如何どす?」
さえは、ずんずんと自室に向かって歩く一の前に立ち塞がった。
男と変わらぬくらい大柄なさえは、上背こそ一が勝っているが横幅は分厚い。間近で見ると愛嬌のある顔立ちだが、色も黒くて全体としては器量よしとはいえない。年頃らしい肌の張りはあるし、板間で拭き掃除などしている時の尻の丸みはなかなかだが、それが色気と呼べるものかどうか。
性格はいたって朗らかで気は利く。だが、それが鬱陶しいと一は思う。器量の問題ではない。
「まだ夫婦
(みょうと)と決まったわけでもないのに、こうも世話を焼かれてはかなわん」
と思うが、仔狸みたいな笑顔を見せられると、無碍にも出来ないのだった。
「かたじけない」
一は答え、別段欲しくも無い夜食を馳走になる。
馳走と言ってもぶぶ漬けに香の物だけである。侘しい膳を挟んで、一とさえは向かい合った。一はぶぶ漬けを掻っ込んでいる間、殆どさえと目を合わさず口もきかない。武士は食事の時に誰かと口をきくものではない、と一は教育されている。それを知らないさえは、何か切っ掛けを掴もうと話し掛けるのだが、悉く失敗に終わってしまう。
「今日は庭の一輪咲きの菊が三つも咲いてたんですよう」
「左様か」
こういった味も素っ気もない問答のみが繰り返される。いい加減飽きないものか、と一はさえが諦めてくれるのを心待ちにしているが、一に話し掛けるというだけで満足しているのらしい。そのうち、どうにでもしてくれという気分になってくるが、これではいけないのだ。このまま流れるに任せてしまえば、いつか馴染んだ夫婦になってしまいそうだ。
幾ら何でもそれは御免蒙る。
数多の経緯あって江戸を逐電せねばならず、着の身着のまま京までやって来た。吉田道場でこうして住込み出来るのも、父の口利きの御蔭である。父親は当初、婿の口をということで部屋住みの次男坊である一を道場に世話しようとした。
だが、一が江戸で罪を犯した為、急遽そのほとぼりが冷めるまで預って貰うという話に変わった。
無論、道場主仙十郎には包み隠さずことの真相を伝えてあった。
「承知仕った。しかしなあ山口君、いや今は斎藤君か。娘のさえには幾らなんでもよう喋らん。前にお父上からお話のあったように、いずれさえの婿にいう建前にしといて貰えんやろか」
仙十郎の言い分は尤もである。一は、内心懸念を抱きつつも承諾した。
それが、やはりその結果である。
さえは、一に一目惚れしたらしかった。背が高く細身で立居振舞も凛としている。些か冷たい感じはするが、いずれかと問われれば男前といえる部類の顔立ち、東国人らしく口数が少ないところ、総てが気に入ったと見えた。一が道場に現れたその日からもう、殆どべったりなのだった。
仙十郎は一人娘に対して何も言わない。あわよくばこのまま一が道場を継いで婿になって欲しいとでも思っているのか。一がしばしば恨みがましい目付きを仙十郎に送っても、まるで見て見ぬ振りだった。
「いやあ、ご立派な婿どのですなあ」
などと言って、客人までもが一に挨拶に来た時があったのには閉口した。「いつ婿になったのですか」と、問い質すと、
「方便てこともある。堪忍やで」
と、仙十郎は両手を摺り合せた。やはり、一を跡取りにしようと思っているに違いない。
こうなったら、いずれ既成事実が纏まらないうちにさっさと出て行くのが良策だろう、と一は近頃考え始めた。
「おかわりどうどすか?」
「もう結構」
一は噎せ返りながら、手を上げた。余計な事を思い巡らせながら食う飯は、何処へ入ったかわからぬという気がした。それに、これ以上さえの顔を見ていても仕方が無い。
一はそそくさと寝所へ戻った。しかし、寝るのもおちおちとしていられない。そのうち、さえがこっそりと床に忍び込んで来まいかどうか、そのことを考えると身震いがした。
(二)へ