(十)

 ぱちぱちと爆ぜる火の粉が熱い。この蒸し暑いのに焚き物をするなんて、とおようは浴衣姿のまま裏庭へ下りた。庭の隅では、着流し姿の一が拾い集めた青葉や屑を焼いていた。
「暑うおへんか」
「おれは毛虫が嫌いでな」
 一は、おようの方を見ずに言った。出し抜けに何を、とおようは思った。枝の先で燻る焚火を弄っている。生臭く燃える葉の間に、黒く縮れた毛虫の死骸があった。
「気味が悪いんで、焼いた」
 子供じゃあるまいし、とおようは笑った。
「江戸の実家に貧相な桜木があった。花は大して咲きもしないくせに、夏になると矢鱈と毛虫がうようよしてやがる。気色悪いんで木刀で幹を叩いたら、おれの頭に降ってきやがった」
「おかしな人やわ」
 おようは縁側に腰を下ろした。湯上りの香りが漂う。
「毛虫なんか好きな奴がいるものか」
 一は漸くおようの顔を見た。もしかしたら、おれより一つ二つ年上なのかもしれない、と思った。おようの浴衣の下には、目も潰れそうに白く柔らかく吸いつく肌と、水密桃に似た豊かな胸がある、と先日の記憶を手繰り寄せていた。
「よろしゅうおすか、斎藤はん」
 おようは一の考えを覚ったのだろうか。遮るかのように歯切れ良く切り出した。
「姉小路卿には常に二人の護衛がついております。祗園社で御覧にならはりましたやろ」
 浪士紛いの太刀持と雑掌がいたようだった、と一は思い出した。
「大男の方が鉄輪左近。髭面が中条右京ですわ。いずれも剛の者やよって、油断しんとき」
 ああ、と一は生返事した。別段おれが姉小路を斬りに行くのではないのだ、大庭の助太刀するだけだと思うので、生半にしか聞いていない。そんな事よりも早くほろ酔い加減になって、おようを抱きたい。
 一の手元には、秀平が田中から奪って逃げた抜身と鞘がある。大庭はそれを携えて明晩、御所のさるべき処へ来るように、と言った。一の役目は、大庭が姉小路を斬り遂せたのを見届け、刀を捨てて帰る、それだけのことだ。
「それにしても面妖だ。おれには合点がいかん。何で姉小路を斬らねばならんのか」
 元来、頑固なまでの攘夷論者であった姉小路公知が勝の教唆で開国説へ傾いたというのなら、幕府にとってはあながち悪いことではない。むしろ、喜すべきではないだろうか。
 いいえ、とおようは否定した。
「生麦村の事件は知っとおりやすやろ。あの賠償金に絡んで幕府はえらいことになっとりますのや」
 将軍家茂の東帰が遅れており、前年に英国より申し立てられた償金の支払期限が五月三日に迫っていたにもかかわらず、幕府は手を拱いていた。
 江戸では、将軍名代の水戸慶篤、老中格の小笠原長行らが議論奔走し、漸く四月二十一日になって支払いの決裁が下りる。
 ところが。
 京では東下の勅許を得て、将軍が帰府の途に着いていた。勅許にいたるその条件に、「鎖港攘夷の実効」というのを掲げることで、やっと家茂は病的なまでに鎖国論を通し、外国嫌いの孝明天皇から解放されたのである。
 後見職一橋慶喜は、道中このことを幕閣に伝えるように指示した。
「賠償金など支払えん。そのようなことを致せば、帝のお怒りに触れるではないか。我々の労苦を水泡に帰す気か」
 それこそ、泡を食ったのは幕閣であった。支払日当日になって慌てふためいた挙句、老中小笠原の仮病を理由に支払いの延期を求めたが、受諾されなかった。激怒した英国側は、戦争宣言し、横浜で準備を始める。やむを得ず、小笠原は病をおして来たのだと芝居を打って横浜まで赴き、独断において償金交付を命じたのだった。
「せやけど、この一連の成り行きこそ、全部筋書きのあるお芝居なんどす」
 おようは薄く笑った。
「おれにはさっぱりわからん。それと姉小路と関係あるのか」
「いずれわかりますて」
 謎めいた微笑が、おようの涼しげな横顔を縁取っていた。
「ひとつ言えますのは、このままどしたら会津侯は孤立無援になっておしまいです。松平容保様は帝の御信任が篤うおす。開国派が主流の幕府内では面白うのう思うとる方もいてます」
 激派の間には、守護職廃止、あるいは口実を設けて容保を江戸へ帰してしまおうという動きもある、とおようは言った。幕府側にもいいように矢面に立たされ、過激攘夷派には恨まれ、要するに四面楚歌である。
 しかし本当に孤立してしまっては、御聞番の大庭もろとも会津側家臣も殿に申し訳が立たぬ。壬生浪士組の存続も危ういものとなってしまうだろう。
「本日、一橋侯の後見職辞職願が到着したようです。おそらくこの件について、明日にでも会津侯は老中等と参内なさらはりますわ」
 おようの眼が鈍く光っていた。
「この一両日、遅くとも来月までの情勢の変化が守護職にとって一つの正念場になる思いますよ。斎藤はんはどうなさいます?」
 というのは、一の決心を問うているのだろう。壬生浪士組という組織とは別個に、斎藤一として会津藩と命運をともにするか否か。
 ふと、大庭恭平の顔が浮かんだ。
「おれにも会津の血は流れているらしい」
 おようは艶然と笑むと、一の背中に飛びつくようにして柔らかい腕を巻き付けた。
 「よせよ」と、一は照れたようにおようの手を掴んで引き剥がそうとした。
「誰も見てまへん」
 おようは、頬を一の襟元に埋める。口調とは裏腹な一の心を見透かして弄んでいるようでもある。
「それにしても、お前さんはいったい誰の味方なんだ」
 一は、ずっと思っていた疑問を口にした。公儀密偵ということは幕府側であって、必ずしも会津に肩入れする必要はない。もしや、会津側の動向を探る為に一や大庭に近付いたのでは、とも考えた。
 「うちはね」と、おようはやや沈んだ声で言った。
「うちはお金が欲しゅうてお徒をやってるだけ。幕府には何の義理もないんよ。せやから、誰の味方でもない」
 はっきり言う女だ、と一は苦笑した。
「しいて言うなら、うちは斎藤はんの味方」
 耳朶に熱い息が掛かった。

 翌夕、一は大庭と待ち合わせる相国寺門前の茶店まで赴いた。団子を食って茶を啜り、時間を過ごしたが、約束の時刻になっても大庭は現れない。
 月のない闇夜である。
 四つの初刻を過ぎると、さすがに鷹揚に構えていた一も、落ち着かなくなってきた。
 「もうじき退朝ではないのか」と、そわそわする。近頃の情勢に加えて、おようの言う一橋慶喜の辞任の件もあって、朝議は平生より長引いている。だが、いい加減四つの下刻には姉小路は出てくる筈だ。
 すると、茶店の前に小柄な影が立った。
「何しに来た」
 一は秀平を見るなり、仏頂面を提げて言い放った。
「見ての通り、先生と新島殿の助太刀を」
「馬鹿を言え。お前、死ぬぞ」
 そう言って、一は茶を飲み干した。
 秀平は思い詰めた顔で一に詰め寄った。
「浪士組にも入れては貰えず、助太刀もかなわぬのでしたら、私はこの場で果てます」
 秀平は小太刀を抜いた。逆手に構えて自分の腹に向ける。
「勝手にしやがれ」
 ふん、と一は鼻を鳴らした。
「御二方がなされようとしている事は、先日の一件で承知しております。私を口止めせねば不味い事になるでしょう。ですから、腹を切ります」
 秀平は、半泣きで言った。店の者は見ていないのが幸いだ。秀平は小太刀を袷の上から突き立てようとした。一は思わず噴出した。
「切腹の作法も知らねえで、よく言うよ。お前は本当に馬鹿だ」
 伝法に言って、一は秀平の小太刀を取り上げた。
「助太刀でも何でもやりたきゃ好きにしろ。ただ、死なれちゃ困る。無理なら尻(けつ)まくって帰れ」
 秀平の頬が赤らんだ。
「とはいえ、肝心の大……新島が来ていない。奴がいないと話にならん」
 一は立ち上がって暖簾をくぐり、門前に出た。
「遅くなった、申し訳ない」
 と、大庭が現れたのはもうじき四つの下刻になんなんとする頃だった。大庭は右肩を押えていた。血が滴っている。
「如何した、まさか」
 先に斬ってきたのではないか、と一は問うた。だが、大庭は首を横に振った。
「貴公を追い回しておった長六とやらやくざの用心棒、やつにしてやられた」
 大庭は痛々しく笑ってみせた。だが二度と刀を持てぬよう、右手の腱を断ってやったと言った。
「おれの為に済まぬ」
 一は大庭の傷に手巾を当てた。この傷では思うままに刀を振るえないだろうと見た。
「それがしの腕も鈍ったということよ」
 暗黙の了解が一と大庭を支配した。「姉小路を斬るのは実質おれになるのか」と、一は愕然となった。
 三人は、それぞれ内講の塀に沿って待ち伏せた。建春門のある東側に秀平と大庭、朔平門側に一が潜んだ。
 闇の中に足音が聞こえた。数は多くない。鷹司や三条は此方を通る事はない。姉小路の行列である。先頭に定紋の入った提灯が浮かび上がった。どうやら一行は、徒歩である。
 大庭に背中を押され、秀平が刀を構えて飛び出した。
「何者ぞ」
 雑掌、中条右京が野太い声を出した時、秀平がやあ、と斬り付けた。提灯がざっくりと割れ落ちた。秀平はそのまま塀伝いに走り抜けた。中条が刀を抜いたが初太刀は免れた。
 中条はやがて、一のほうを向いた。闇夜の中で、瞬いた一の白目だけが中条の目に入った。踏込んで、中条は激しい太刀筋を見せ付ける。だが、一の身軽さに及ばなかった。紙一重でかわされ、回りながら中条は一の姿を追った。一は何度か中条に斬り付けた。
「妙だ。手応えはあるのに、刀が重くならん」
 血が付けばその分、真剣は僅かに重みを増す。しかし、どうやら中条は鎖帷子を着込んでいるらしい。
「これでは姉小路を斬れんじゃないか」
 くだんの姉小路少将は、怪鳥のように甲高い声を上げて逃げ惑うので、居場所は直ちに知れ渡る。
「おい、左近はどこじゃ。太刀を寄越さぬか」
 鉄輪左近の姿はない。暗闇の中には襲撃側三人と、少将、中条と沓持ちのみであった。
「逃げおおったか、あの臆病者め」
 とんだお笑い種である。太刀持が大刀を持って遁走したのでは話にならぬ。一は声を上げて笑いたいのを、堪えた。
 塀にしがみ付いた秀平が、何を思ったか戻ってきた。そして、中条右京に斬り付けた。中条は気取り、振り向きざまに秀平の額を割ろうとした。小太刀で何とか受け止めたものの、力負けした秀平は仰向けに倒れた。容赦無く中条の刀が秀平の脇腹を刺した。
 一は背後から中条の脛を狙って下段を繰り出した。払い下げると、中条は呻きながら、前にのめった。
「お逃げくだされ殿下」
 だが、姉小路は既に大庭の一刀で胸に大きな傷を受けていた。闇で夜目が聞かないうえに、左手で刀を繰り出す為に致命傷を与えられないでいた。
 姉小路は転びつ、走り出した。だが、行く手を阻んだ一の右袈裟に割られ、額と肩をざっくりと斬られた。
 一は大庭に視線を遣る。「早く退け、中条右京はおれがやる」と。
 だが、大庭はまだ荒い息のまま動けなかった。
 油断をしてしまったらしい。一は大庭から目を背けたその時、左脇から中条に打ち込まれた。
 刀は届かなかった。何者かが、中条の背をしたたかに打ち据えたらしかった。秀平でも大庭でもない。膝をついた中条の背後にいたのは、秀平の小太刀を握り締めたさえだった。
 襷掛けをしたさえは、闇の中でぼんやりと白く浮かび上がっていた。一瞬、一は呆気に取られたが、出掛かった言葉を飲み込んだ。立ち上がろうとする中条の右手指の隙間に切先を滑り込ませる。動けば指を失う。ここばかりは鎖も及ばないのだった。
 大庭が秀平を抱え、さえがその後を追うのを見届けてから、一は漸く息を吐き、中条を見下ろした。
「おれの声を覚えておけ。京の町で会ったらば、遠慮なく斬りつけてきて構わんぜ」
 一は言うと同時に田中新兵衛の差料を落とし、足早に立ち去った。

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