(十一)
姉小路公知は病で臥せっている、と表向きはつくろわれたが、そのような誤魔化しは直ぐに明らかになってしまった。というのも、当日夜、やはり同じ様に鷹司、三条邸に殺害予告の投げ文があったからである。無論、この二つも大庭恭平の画策したもので、現実に襲撃は起きなかったものの、戦慄した三条中納言実美が姉小路家に糾問した為、死亡の事実が公示されてしまったのだ。
中条右京は瀕死の姉小路卿をおぶって邸に戻ったが、ついに門前で事切れたのだという。
孤軍奮闘した中条は、朝廷より銀五両を賜った。だが、それでは主を失った腹の虫は収まらない。
「賊の一人は若い男で、流派不問の手錬れ。京の町に潜伏しておるのだ。いずれ殿下の仇、たたっ斬ってくれる」
と、息巻いているという。
姉小路公知暗殺事件は、公卿を震撼させたばかりでなく、尊攘派にも少なからぬ衝撃を与えたようであった。
五月二十五日深夜、田中新兵衛が宿所で捕縛され、町奉行所に連行された。朔平門外の遺留品を検分した結果、それが薩州刀鍛冶の刀剣であると示され、刀師に問うたところ、田中のものであるという判断が下されたのである。
田中にしてみれば、青天の霹靂としか言いようがない。
連行された時、確かに田中は脇差しか帯びておらず、町奉行永井尚志が直に問い質し、例の差料を見せると、
「あっ」
と言ったきり、目を泳がせて黙り込んでしまった。
「刀師がおぬしの物だと言うておる。言い逃れは出来まい」
永井が迫ると、田中は蒼褪めた顔でたった一言だけ呟いた。
「しゅうへい……」
何の事かわからない。「しゅうへい」なる人物が賊徒の一人であるのか、それとも田中の刀に関係があるのか。奉行所はそういった名の浪士らを片端から当ってみたが、該当する人物はいなかった。
翌日、田中は辱めでも受けたかのように取調べ中立ち上がり、脇差を抜いて自腹に突き立てた。慌てて止めようとする永井らを押し退け、さらに田中は自暴自棄になり、自らの首筋に刃を入れた。医師を呼び寄せたが深手の為、手当ての甲斐もなく田中は絶命したという。
田中の自害によって真相は闇の中に埋もれつつあった。
濃緑色の木立に囲まれた石段を上り詰めると、京の町が眼下に一望出来る。
「まさしく山城に相応しい」
一は思う。黒谷・金戒光明寺を訪うのはこれで三度目だが、単身招じられたのは初めてだった。
無論、本陣からの呼び出しであるゆえ、壬生の屯所には適当ないい訳を繕って出て来い、と公用方から言われていたのだった。
一はだんだら羽織を身につけず、太縞の黒い小袖に繻子の袴、紋付を羽織って江戸風の洒落た出で立ちで三門を潜った。だが、頭は束髪をいつもより多く油で撫で付けただけだ。月代を剃ると、却ってこれからの夏の暑さに耐え難い。
一は特別に容保にお目見えを許された。
その理由は判らない。
御前試合の時は高い処にいた容保が、間近に感じられる。身が竦むような心地だった。人生で滅多とない緊張を強いられていた。
「苦しゅうないぞ、斎藤。御苦労であった」
顔を上げると、気高い貴公子の面差しがあった。
一は叱責、いや半ば切腹覚悟の腹積もりで此処まで来たのだが、容保の柔和な表情を見るだに、そうではなさそうである。
容保は、野村左兵衛より姉小路少将殺害の件、大庭恭平の着案であることもすべて耳に入れたと言った。
「御無礼を承知で申し上げますが」
と、一は思い切って言った。
「どうか大庭殿のご処分はご深慮頂きとう存じます。かくなるうえは、この不肖斎藤一にも非ありますゆえ、同等の処分つかまつりとう存じます」
一はどうにでもなれ、という気もした。いくら容保が思慮深く温厚とはいえ、汚名の家柄の出身である己の言い分を全て聞き入れる筈もない。しかも現実には、姉小路少将に致命傷を与えたのは、他ならぬ一自身であった。
容保はうむ、と言ったきり暫し黙ってしまった。顔色がすぐれない。
「しかし斎藤。そちが今浪士組を抜けては、我々もちと困る」
「は」
容保がくだけた調子で言うので、脇にいた公用方、小森久之助は渋い顔を作っていた。
「此度の一件は、会津藩は一切立ち入らぬという方針で通す。訴獄は守護職の任務ではない。大庭の処分も軽減する。斎藤、そちの行動は不問に帰す」
一は、周囲にもそれと知れるほどの、長い安堵の息を吐いた。
ただし、と容保は付加した。
「そちには浪士組において彼等の動向を探り、我々に逐次報告をして欲しい」
何と。一は直ちに頭を垂れた。
意外であった。会津藩は、清河が寝返って近藤らが京に残留する願を受諾した時、何の探りも入れていなかったのだ。あまりに迅速かつ快い返答であったので、既に浪士組内部には密偵がいるもの、と一は考えていた。
だが、密偵がいるくらいなら最近の芹沢らの無謀を捨て置かぬか。
まさかそのお鉢が自分に回ってくるとは思いもよらず、狼狽を覚られてはなるまい、と一は咄嗟に顔を伏せたのだった。
野村の呼出が無かったのも、こういうことなのだ。
「おれを浪士組内で泳がせておいて、試したな」
見事に図られたという気がした。だが、腹は立たず、むしろ笑うしかない。
会津侯の立場からすれば、得体の知れない浪士の集合。罷り間違えば守護職の位を危うくするのみならず、政事に差し障りがあることがあれば、末端組織は切り捨てて然るべきである。生かすか殺すか、その監視役を斎藤一にせよ、というのだ。
「そちを会津人と見込んで頼む」
この容保の言葉が、一の血潮を駆け巡った。
ただ藩主が黙して頷く、それだけで武士は死ねる。そういう生き物なのだ。大庭のような男が藩士なのだ。
「容保様をして、おれを罪人の子と咎めず、会津人とお認めになった」
一は、容保の言葉を生涯忘れまい、と固く念じた。
「この人の為なら死ねる」
一はそれに近い確信を抱いて、黒谷を下りた。
「ただ、更に厚かましくもお願いしたき儀がござりまする」
と、一は退出間際に言った。容保は黙って頷く。
「御役目を果たしましたあかつき、浪士組をもし離れた時は、どうか私を会津へお戻し頂けますよう」
声を震わせて其処まで一が言った時、容保は「約束いたそう」と、静かに答えた。
五月二十七日、伝奏・坊城から松平容保に姉小路暗殺犯の糾問が命じられた。
容保は折りしも朝から微熱を発し、体調悪しく臥せっていたが、命を聞くと、
「朝廷が重大事を唱えておられるのは先刻承知。しかしながら、かの一件は既に下手人も挙がっている訴獄であり、これは守護職の任に非ず。町奉行に全権ゆだねるべきことである」
と、速やかに言い渡し、糾問を辞した。
容保の言動には理にかなったところがあり、誰も反駁できなかったという。
姉小路暗殺事件を機に、それまで外講、乾門の警備を任じられていた薩摩藩は遠ざけられ、なおかつ薩摩藩関係者の九門内往来は禁じられることとなった。
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