(十二)
六月朔日のことである。
先の生麦事件で独断において償金を支払った老中格、小笠原長行が上京するとの報せが、朝廷に届いた。
償金支払いに関しての弁明が目的である。が、噂によると、小笠原は横浜より兵を率いて海路大坂へ至り、京を武力制圧しに来たという。この風聞を朝廷に齎したのは、一橋慶喜が鷹司関白に派遣した水戸藩士だった。
朝廷は大いに揺れた。そして、京都守護職に小笠原の上洛阻止を命じたのだった。
そういうわけで、京の町も俄に色めきたった。
直接は関係ない浪士達も遠近で騒ぎ始める。壬生浪士組も、俄然仕事が増したのであった。
浅葱色の隊服を身につけた一に、旅装の男が声を掛けた。
「大庭殿」
大庭恭平は菅笠を取り、軽く頭を下げた。一は曖昧な微笑を浮かべた。
「傷の具合は如何なものか?」
「上々でござる。だが、もう以前のように刀は振れぬな」
大庭は淡々と答えた。大庭の処分は、やはり謹慎である。しかし「永年」というのは取れた。これから信州・上田に出発するという。
「とはいえ、会津には戻れんだろう」
大庭は目を細めた。そんな事はない、と言おうとして一は口を噤んだ。気休めなど、おれらしくもない。
「丹羽殿はどうしておられる?」
「ああ」
一は苦笑した。秀平は、朔平門で中条右京から受けた傷が元で、つい先日まで身動きが取れなかったという。昨日、屯所までさえが訪ねて来てそう告げた。
「ところが目覚めるや、急にお人が変わったようにならはりまして」
物腰もてきぱきとし、まだ熱があり傷も癒えていないというのに床を上げ、竹刀で素振りを始めた。無茶をしてはいけない、とさえが止めようとすると、
「私は目が覚めました。臆病者の秀平は、あの時死んだのです。名前もそうですね、秀斎と医師らしく改めましょう」
「けど秀平はん、あきまへんへ。傷口開きますよって」
さえがそう言うと、矢庭に秀平はさえの手を握り締めた。
「さえ殿。今まで言えなんだが、生まれ変わった私なら言えます。私を婿にして頂けませんか」
それは普通、嫁に来て貰えぬか、と言うだろうと一は思った。
「して」
「……お受けしました」
さえは顔を真赤にして答えた。
大庭は大声で笑った。久しく見ていなかった、人懐こい感じの笑顔が大庭に浮かんでいた。
さえはあの日、道場に来た秀平がいやに思い詰めた顔をしているのが気になって、こっそり後をつけて行ったのだという。そこで姉小路襲撃の凶事に出くわし、気付いたら倒れた秀平の小太刀をとって中条に斬り掛かっていたのだった。
「丹羽殿はよい嫁を見つけたのう」
大庭はしみじみと言った。そして、改めて一に深々と頭を下げると、踵を返した。
「さらば」
これで二度と大庭恭平という男と会うことはなかろう、と一は思った。否、何処かで擦れ違ったとしても互いに言葉をかわすことは出来ない。暗殺の一件は総て闇に葬り、生きていくのが侠客の必定であるゆえに。
衣棚通を巡回していると、寝具屋の前に小さく人だかりが出来ていた。
立派な構えの店先に野次馬に来ている人々は、一の姿を見るや、あっと叫んだ。
「浪士組の御方どんな。伊勢屋にたった今、押し借りが入りよったんや」
伊勢屋と聞いて、一はにやにやしながら暖簾を潜った。背中の大きな男が大刀を引っ提げて番頭を脅している。奥から若主人が出てきて、男を見るや平身低頭した。伊勢屋利兵衛め、相変わらずだな、と一は思った。
「御用改めさせて貰うぜ」
一は男の背後から言った。主人がその声に瞠目する。
「何だ貴様は」
振り向いた男の髭面を見て、一は「おれか?」と訊き返した。
「おれは会津藩御預、壬生浪士組の」
男の顔色がみるみる変化した。
「貴様だったか」
と、中条右京は歯を剥き出して笑った。躊躇わず刀を抜く。だが、中条の刀が届くよりも、一が放った居合の方が早く深かった。抜き打ちに浴びせられた逆袈裟で、中条の肩から鳩尾下まで真っ二つになった。
「斎藤一。覚えておけ」
一の声は既に中条の耳には届いていなかった。
「浪士組の鬼斎藤」。
この異名が京の町で囁かれ始めたのは、この日を境にしてであった。
なお、小笠原長行の上洛は阻止されたが、後年このことについて小笠原自身がこう語っている。
「公卿の中に内応する人がいたゆえに上京したが、其の人が不慮の禍害を受けた為に蹉跌した」と。
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