(二)
朝は辰の正刻(午前八時)から稽古が始まる。師範代の一は、通い稽古の門弟達より半刻遅く道場に入るのだが、大概はそれより早く出た。
野袴姿で歩く一は、江戸風のいなせな雰囲気を匂わせており、道場でも異質だった。
京洛では近頃商人の息子らも剣術を習いに行くことが増えた。世間が物騒だということもあるが、要するに金銭に余裕があるのだ。
一は慣れぬ袴姿の町人達を見て思う。
「一応の侍らしいのはおれだけなのか」
江戸は町人も多いが、小石を投げれば二刀差しに当るというくらい、武士の姿が多かった。道場でさえも派閥に分かれる武家の風潮は頂けないと思っていたが、町人が多い道場というのももう一つ覇気がないような気がしていた。
五つ前というのに道場前にやってきたのは、丹羽秀平だった。額の広い、秀才風な頭の恰好で、二十歳頃の小柄な若者である。秀平は一の姿を認めると、深く一礼した。
「おはようございます」
秀平は桑名藩京留守居配下の藩医の息子で、ゆくゆくは家督を継いで医者になるらしい。昨年末に長崎から蘭学の修行より戻ってきたといい、吉田道場では新顔の一人だった。
「秀平は何でまたこんなに早い時間から」
珍しく一が声を掛けた。秀平はにこにこと目を細めて言った。
「菊の花です。裏庭に咲きはじめたというので拝見しに参りました」
そういえば昨晩さえがそのような事を言っていたな、と一は思い返した。そして秀平の指し示すまま、道場の裏手から屋敷の中庭を覗いた。成る程、大輪の菊花が開いている。さえが手塩に掛けて育てたものだろう。
「今日は三つ開きかけておりますな」
朗らかに言う秀平を見て、一は少々呆れた。今日は、ということは昨日も見ていたのか。おれならそんなもの見に来ずに寝てるのに、と思いかけて一は、ははあと気付いた。
「秀平はさえに懸想
(けそう)しているのか」
そう思えば、これまでの秀平の行動がそれらしく思われる。
秀平は、稽古の間にさえが出す握り飯がどんなに不恰好でも喜んで食べているし、漬物が少々しょっぱくても文句は言わない。単に味覚に鈍く、見た目に構わないだけなのかと見えたが、そうではなかったのだ。
菊花を見ていると、朝餉の味噌汁の香ばしい匂いが漂ってきた。
「腹が減ったな」
と、一は呟いて道場の方へと歩き出した。
すると、道場の前に見知らぬ男が立っていた。風体は浪人のようであった。髪結の大たぶさを見ると、近頃流行の尊攘派浪士にありがちである。目元は切れ上がり、隙の無い風貌だが、体躯は秀平とおっつかっつの小兵である。年は二十八、九というところか。
「失礼つかまつる」
男は一に向かって会釈した。
「他流試合なら、うちは断っている」
一は少々斜に構えて答えた。男は、ふっと力の抜けた笑みを投げ掛けた。笑うと目尻に皺が寄り、愛嬌がある。俄然とっつきやすく見えた。
「それがし、江戸より此方へ来て間もない。江戸では憚りながら太子流を学んでおった。近々で同じ流派の道場がないものかと探しあぐねており、漸く此方を人伝に聞き申したので、参った次第だ」
「つまり入門したいとの事ですかな」
一は腕組みして仁王立ちの様相で言った。二十歳になるやならずの若僧としては、随分大人びた振舞の一だが、このぶらりと現れた男に何となく不穏な空気を感じた。それが些かの虚勢を張らせているのは、一自身にも判っていた。
「道場主にお取次願えないだろうか」
一は長く結った束髪を揺らして、首を振った。
「駄目だ。主はまだ寝ている。待ってもらっても、いつに起き出すかわからぬ。もう結構な耄碌爺でな」
傍にいた秀平が、びくりとした。言うに事欠いて仙十郎を耄碌爺呼ばわりとは。まだ五十を過ぎたばかりではないか。
「では師範代に」
「そいつもどうかな」
と、一は冷ややかに目を伏せて言った。男は、一瞬戸惑いを見せた。秀平が目配せするのにも気付かなかった。
「只の弟子か師範代かの区別もつかねえ、洞
(うろ)目の男なんぞに道場に立ち入られたくはねえな」
一は江戸前の伝法な物言いで言った。男は、漸く合点がいったという顔になった。
「すると……」
「おれが吉田道場師範代の斎藤一よ」
一は厚めの上唇を歪ませた。男は憤った様相もなく、破顔した。人懐こい笑みが零れる。
「それがし、新島周蔵と申す」
入門試合が行われると聞き、巳の刻になると弟子のみならず近所の連中までもが見物にやってきた。中には水干姿の神官までもがいるが、これは吉田神社の覡
(かんなぎ)だろう。
一は袴の股立ちを高く取り、襷を掛けた。水で程よく濡らした手巾で額を拭い、板間の道場に立つ。
洗物をしていたさえも、慌しく濡れ手のまま道場まで走りこんで来た。秀平が手招きする傍に腰を下ろす。
「師範は?」
「まだ寝とりますよ。深酒しはって。もう、朝はよから勝手にこんな事しててええんやろか」
そう言いながらも、さえは両手をせわしなく握ったり離したりして、一の一挙手一投足に気を揉んでいる。
新島と一は向かい合った。防具はつけない素面に竹刀である。新島が青眼に構えると、一も倣って相青眼となった。
いきなり新島が間合いを詰めて打ち込むと、一は竹刀の中ほどで軽捷にいなした。しかし、新島の剣は存外に重い。膂力というよりは打ち込みが深いのだ。
元々小手先で刃を交わしたり、返し技を好む方でない一だが、何度かはそうせざるを得なかった。
試合は黙々と進んでいるが、勝敗がいつ頃着くものか見物人の誰にも見当がつかぬという様相であった。
一が突きを新島の鳩尾に入れようとすると、新島の剣は下段から摺り上げるように繰り出された。双方が退く。はたまた新島の小手が入ろうかというとき、一は紙一重でかわし、面を誘う。
「真剣なら他愛もない。今のは左手を抜いて右の突きで充分だ。だが、竹刀ではそういうわけには行かぬし、鬱陶しい」
と、一は胸中呟きながら、執拗な新島の攻めを避ける。
双方とも、額から腕から汗だくになっていた。目に粘るような汗が入る。そろそろこの一本で決めねばなるまい、と一は大きく踏込んだ。迎えうつ新島の顔に緊張が走った。その時、
「何事ぞ。朝はようから煩そうて眠れん」
寝間着姿の仙十郎であった。
「見ての通りです」
と、一は竹刀を構えたまま蹈鞴
(たたら)を踏んで言った。仙十郎は寝惚け眼を擦りつつ、新島と一の両者を見遣った。暫し、見守る一同に沈黙の帳が下りてきた。
「入門か」
仙十郎の問いに、秀平がはいと答えた。仙十郎は少し考えてから、深く頷いた。
「よかろう。其処なおぬし何と言う」
新島は名乗った。仙十郎は、白いものが混じった髭面に不敵な笑みを浮かべた。
「入門したけりゃ入門せえ。うちの婿、いや師範代、斎藤を相手にそこまで打ち込んだ男は今までおらんかったからのう」
呵々大笑して、仙十郎はまた廊下を歩いて戻って行った。遠くから、「さえ、飯じゃ飯」という声がすると、茫然としていたさえは我に返り、急ぎ仙十郎の後を追って行った。
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