(三)
午後から雨が降り、上がると俄に冷気が漂い始めた。
一が京の地へ来てまだひと月余であった。道中既に噂は耳にしていたが、実際に住まってみて判る事が幾つかあった。
天誅という言葉があちこちに蔓延している。七月二十日に安政の大獄時に関白九条尚忠の家臣だった島田左近が暗殺され、四条河原に梟首されたのがはじまりで、奉行所の与力ら大勢の生首が晒された。一が見たのはほんのごく一部に過ぎず、だがそれでもさすがにいい気はしなかった。落書が貼られたり、無残な屍を見る町衆の心底には、日頃武士や役人に抱いている悪意を感じられないこともない。
斬殺体を見ると、否応無く江戸で斬った輩の最期の顔を思い出さざるを得ないが、苦々しく感じた当初の幻影も色褪せつつあった。
人を斬るには動機が要る。だが、理由などない。一は、そんな気がしていた。
「天誅だの大義名分だのかさねたところで無意味だ。その先に何がある。おれは自分が生きたい。それだけのことで人を斬ったに過ぎない」
一はふと面を上げた。白粉の匂いが鼻先を翳めて行く。継いで鬢付け油の匂いが強く残った。白い小さな花のような顔が振り返る。紅梅に似た唇が少し開いて、表情が動いた。牡丹を染め抜いた赤い振袖が揺れ、芸妓は奥の部屋に入って行った。
さすがに京の女、島原の芸妓は品格が違う、と一は感じた。女の寄越した秋波
(ながしめ)が印象に残る。単に、揚屋には似つかわしくない一の様相を見てのことだったのかも知れないが。
俄に自前の古びた仙台平の袴やら袷がみっともなく思えてきた。仮にも揚屋に忍び込むのだから、と一張羅を着てきたものの、やはり場違いな気がした。
奥の間の会合が始まって、およそ一刻半が過ぎた。だが、芸妓をあげての会合は一向に終わる気配がなかった。一はそっと障子を滑らせ、厠に行く振りをして、回廊を左手に少し曲がった一室を覗き見に行った。行灯に照らされる人影が五つ、物静かな宴を思わせた。
「あちらさんはどういったお集まりだ?」
一は、廊下を行き過ぎようとする女中を捕まえて訊いた。
「木屋町あたりの大店の旦はんのお集まりやったと思います」
女中は訝しげに一を見遣ったあと、そそくさと去って行った。
木屋町なら祗園で飲むのが近いだろう。それをわざわざ、島原くんだりまでやって来て談合とはきな臭い。本当に商家の会合かどうか怪しいものだ、と一は思った。
だが、直接一には関係が無い。今夜の仕事は丸目屋という回漕問屋だった。例の奥座敷の一つ手前にいる。それにしても、どちらの部屋も長居をしている。
帰ればまた、さえに小言の一つも言われよう、と思うと一はくさくさした気分になった。酒でも飲まねば落ち着かない。一本頼もうかと障子を開けたところ、店先から乱れた足音が近付いてきた。
見ると、およそ品格ある小奇麗な揚屋には似つかわしくないむくつけき浪人風の男達が四名、小走りにやってくる。後から店の者が追ってくるが、刀のこじりで胸先を突かれ、背中からのめって倒れた。
「おい、大丈夫か」
一が助け起こすと、白髪混じりの髪を乱れさせた揚屋の主人だった。
「すんませんの」
「何だあの浪人衆は」
「うちのお客はんで、土州のお人です。最近お見えにならなんだんですが」
主人は胸を押さえつつ、立ち上がった。
「尾張屋の会合は何処か、言うていきなり入り込んで来よりましたんや。もう、えらいこってすわ。止めなあきまへん」
主人の元へと女中やら男衆が駆けつけた。
「御主人には無理だ。おれに任せろ」
一はそう言って、奥の間へ向かった。勿論、義侠心に駆られてというよりは、渡りに船と考えたのである。恐らく騒ぎで隣も宴会どころではない。そこをどさくさに紛れて丸目屋を誘い出せれば、今夜の仕事はこれで終わると踏んだのである。
一が奥の間へ着くと、既に障子は蹴倒されており、中で繰り広げられる乱暴狼藉が目に飛び込んできた。隣の間も開け放たれており、岡目八目で奥の間の様子を窺っている。丸目屋の主人と思しき姿もあった。
浪士らは素面ではない。酒の臭いがぷんぷんとした。酔った上で膳を引っ繰り返したり、刀の柄で旦那衆を小突いて震え上がらせたりしている。
「おんしら薩摩もんにゃあ金貸せて、わしらにゃあ貸せん言うがや」
「ほうじゃほうじゃ、おんしら昔からのう、どっちが京を贔屓しちゅうが考えてみい」
喚き散らしながら、浪士達は暴虐を尽くす。旦那衆は若いのもいたが、皆柔和で上品な雰囲気の漂う京のお店の主人という風体で、無抵抗に逃げ惑うばかりだ。
床の間の屏風に凭れて、太夫が血の気の引いた顔色で小さくなっていた。だが、狼狽しているのではなかった。こういう場面も初めてではないのだろう。
中の一人がついに抜刀した。一は不意に、丸腰のままその渦中へ躍り込んだ。
「おんしは何じゃいのう?」
誰何の声を無視して、一は一人の鳩尾を手刀突き、車に返して背後の男の喉を突く。羽交い絞めにしようと躍り掛かった男の顔面をさらなる左手刀で叩き、抜刀しようとした浪士の脇腹には強かに肘鉄を食らわせた。
「きれいどころのいる座敷で刀を抜くなんざ、みっともねえ。とっとと去ね」
一は、悶絶昏倒している男達に向かって言った。
今夜は冷えてきた。揚屋の騒動でひと汗掻いたのが引けた所為もある。一は懐手に歩き出した。
浪人衆を叩き出したまではよかったが、仕事は仕損じてしまった。騒ぎのあと直ぐに丸目屋たちは引き揚げてしまったらしく、恐喝する暇もなかったのである。揚屋の主人には感謝こそされ、今晩の飲代は払わなくていいことになったが、不首尾は間違いない。空手で報告に行っても、元締には文句を言われるだけである。
否、文句を言われるだけならいいのだが。はてどうしたものか、と思案しながらも、半分どうでもいいような気分になっていた。
五条油小路を上にあがったところで、一ははたと立ち止まった。左手に提灯、右手で刀の柄に手を掛ける。
「おれに何か用か」
返事は無い。醤油問屋の並ぶ小路は、夜も更けて静まり返っていた。一の低い声だけが、犬の遠吠えに重なった。
「おれを尾けたところで、何の得にもならんぜ」
振り返りざま刀を抜きかけたところで、一は目を剥いた。暗がりの軒下から出て来たのは、新島周蔵だった。
新島は、ややばつの悪そうな面つきで一を見た。一は提灯を翳した。
「あんた、こんな所で何を」
「島原での賊退治を拝見つかまつった。お見事なものですな」
新島は、畳み掛けるように言った。
ということは、あの揚屋の何処かに新島もいたのか。一はこそばゆい気持ち半分、怪訝な気持ち半分になった。
「黙って見ていたのなら、あんたも加勢して欲しかったな」
一はぶっきらぼうに答えた。新島は、一歩近付いて曖昧な微笑を浮かべた。
「それがしはこの通りの小兵ですので、ああいう大男どもには太刀打ち出来かねまする」
新島の言葉遣いは、道場の門下生となってから、やや丁寧を帯びていた。しかし、一の人格に対する敬意とはかかわりなく、師範代という便宜上ではないかという趣であった。それも相俟って、一はあまり軽快な気分ではない。
しかし、と新島は一に詰め寄るようにして言った。
「商家を恐喝するというのは頂けませぬ」
「何のことだ」
一は、唇の端を皮肉に吊り上げた。新島は真顔で続けた。
「丸目屋を脅そうとしたのでは?」
一は答えなかった。何故、この男が知っているのか。揚屋にいたのを見られた以上に、驚愕だった。だが、動揺を現してはいけない、と一は新島から一歩退いた。
「だったらどうだというんだ。あんた丸目屋の係累か?」
言うが早いか、新島は刀の柄に手を掛けた。一も鯉口をくつろげた。だが、新島はその姿勢のまま微動だにせず、言った。
「やくざ者だな」
足元に落ちた提灯が燃え上がっている。一頻り黄色い炎が上がると、それは忽ち萎んでいった。
「やくざ者の手先になっておるのだな。やくざの中には商家に取り入って借金の取立てをしたり、逆に延滞を強要して金をせしめる輩がいると聞き申すが」
「ま、当らずとも遠からずさ」
一は臆せず本当のことを言った。隠したところで今更仕方ない。暴露するか、斬るかだ。一は大胆に両腕を組んだ。新島も刀から手を離した。
「何ゆえ、やくざ者などとかかわりを持たれたのか」
「おれは無一文で江戸から京へ出て来た。吉田道場の厄介になっているのは、親父の口利きだ。だが、いつまでもそういうわけにもいくまい」
一は夜寒の空を見上げた。月が西へ傾きかけている。
「貴公は道場の師範代ではござらぬか。ゆくゆくは……」
「冗談じゃねえよ」
一は新島の言葉を遮った。
貧乏御家人の次男坊では、一生部屋住みだ。それが紆余曲折あって、一自身が実は会津藩士の血を引く人間だと知った時から、その日から心は決まっていた。養子の口も部屋住みも結構こうむる。斎藤一は斎藤一として、己の手で生家の汚名を雪ぎ、武士として一人立ちするのだと。
「おれにはやらねばならん事があるような気がする。道場なんて、とどのつまりがどうでもいいやさ」
一は、鬼神丸国重の柄を握り締めた。上洛してのち、なけなしの金で拵を修繕したものだった。
「成る程」
と、新島は目尻を少し穏やかにして息を吐いた。
「しかし、さえ殿が聞いたら、さぞ落胆するだろう」
余計なお世話だ、と一は胸中毒づいた。
「とはいえ、その為にやくざ者の手を借りるというのは、頂けませぬな。やくざの元締の名をお教え頂けまいか」
訊いてどうするつもりなのだ、と一は思いつつも渋々答えた。
「長六。間之町
(あいのまち)に胴元を構えている」
続けてあんたはかかわらない方がいい、と言おうとしたが、新島は既に一に背を向けていた。
これで片手業ともおさらばか、と一はやや憮然となった。新島に知れてしまい、今夜の仕損じを取り返す気も失せた。また別の内職を探すしかない。しかし、差し当っては、さえの執拗な尋問を掻い潜らねばならないことを思うと、気が滅入った。
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