(四)
京では八月終わり頃から話題に上っていたのだが、京都守護職なる新たな職務に会津中将・松平容保が任命され、年の暮には入洛するとのことだった。それに先立って、先乗りの会津藩士らが今秋上京し、三本木の旅館に逗留していた。
宿所の看板を見て、諸藩の武士が面会に訪れている。熱心に訪問するのは、肥後、土佐などの藩の公用人で、彼等は会津藩の時局に対する処し方を偵察に来るのだった。
なかには浪士達もいる。彼等の目的は、専ら攘夷に関しての議論を吹っかけることにあり、会津藩が敵となるか味方となるかを見極めようとすることにあった。ひっきりなしに訪れる浪士達に、公用方も辟易するほどであったという。
一は、丹羽秀平を連れて、丸太町通を歩いていた。出稽古の帰りである。
三本木の宿所が立ち並ぶ一隅を通り掛ると、秀平はあっと声を上げた。
「新島さんです」
確かに新島らしき小柄な男が、橋を渡ってきた。一と秀平には気付かない。そして、「会津藩御宿所」と看板の掲げられた旅籠の前に立ち止まった。
「やはり噂は本当だったんでしょうか」
秀平は、独り言のように言った。
「噂?」
「新島さんが尊攘過激派浪士と親しく交わっているというのです」
新島自身は、小藩の脱藩者と聞いている。京に来るからには、この御時世それなりの思想や覚悟はあってのことなのだろうと思えた。だが、一には新島の行動にそれと思い当たるものがなかった。
そのような傾向があるのか、と秀平に問えば、
「時たま稽古の後でそういう話を皆としています。先生は御存知ないでしょうが、私は一、二度聞いたことがあります」
茶屋の帰りに出くわした新島は、そういう素振りは見せていなかった。
もしかしたら、尊攘激派に同調していて、あの時浪士達を見逃しにしようとしたのかとも考えられるが。
新島は、暫く佇んでいたが、それは躊躇いの為ではなく先客がいたからであった。
出て来た男と新島の肩が触れ合った。
「おう、お前
(まん)さァも会津に興味があるか」
ひどい薩摩訛りだ。色の黒い、目ばかり大きな男だった。何気無く新島のほうを振り向きながら、実のところ隙が無い。
「行っても無駄じゃぞ。国元が鄙にあるんで国論のごたあわからん言うちょる。どいつもこいつもだちかんて」
男は、苦虫を噛み潰したような顔になった。それもその筈で、会津側は容保公の内示によって、政論を吐くことを固く禁じられているのであった。
「拙者は白河脱藩の新島周蔵と申す。そこもとは」
「おいは田中いう。田中新兵衛じゃ。そこの錦小路の屋敷におりもっそ。会津中将が京に出て来やるいうんで、わざわざやって来たんだが、論ずるに足りもはん」
ほう、と新島は目を丸くした。少し愛嬌のある顔付きになった。
「実は、それがしもそういうことではなかろうかと、気を揉んでおりました。宜しければ詳細お聞かせ願えまいか」
田中は、新島をじろりと値踏みするように見定めた。そして、八重歯を見せて頷いた。
「よか。お前さァも憂国の士と見た。よかよか、一緒に飲
(や)りもっそ」
あれよという間に、新島は田中と意気投合してしまったらしく、二人で肩を並べて河原町方面へと歩き出した。
「やはりそうですよ」
秀平が言った。
「田中新兵衛といえば、悪名高い『人斬り新兵衛』ではないですか」
秀平の顔色が蒼褪めていた。薩摩の田中新兵衛は、土佐の岡田以蔵、肥後の河上彦斎と並ぶ人斬りであるらしい。先の島田左近暗殺も彼等が行った天誅の一だと市中では噂されていた。
「そういう人斬りと親交を持つなど、放って置けませんな」
秀平は憤慨していた。いっぱしの兄弟子気取りである。だが、一は秀平の口説を半ば聞き流していた。新島の思想などどうでもいい。ただ、新島の身に何か災厄が降り掛かるのではないかという気がしたのだ。
十二月二十四日、巳の上刻、会津藩兵を率いた松平容保の行列が入京した。およそ一里に及ぶ隊列は整然とし、東北の雄藩の威厳を京童にまざまざと見せ付けた。尤も、この為に会津藩は膨大な出費を被っているのだが。
御年二十八歳の容保公は、瓜実顔の涼しげな美丈夫で、誰もが茫然と馬上の凛々しい守護職に見蕩れていた。
一は道場を抜け出すと、蹴上まで行き、群集に入り混じって会津公の姿を垣間見た。一目、藩主の姿を見れば、何か感慨が湧くかも知れないと考えたからである。
まず、鮮やかな馬印が目に飛び込んできた。しかし、まるで雲の上の人を見るような気持ちにはなっても、あの御方が己の出自と因縁深いのだという特別な感情はもう一つ起こらなかった。
「おれはつくづく市井の人間に育ってしまった」
と、思う。藩士というものは、もっと忠義に満ち溢れた存在なのだろう。それこそ、主君の為には心身投げ打つ事が出来る。己の目指す道程の遠さを、途方も無いと一は感じた。
「さすがに御立派なものですねえ、会津中将は」
秀平が話し掛けてきた。この男、最近とみに一の後をくっ付いてくる。元来、一人気儘に出歩くのが好きな一には些か邪魔である。しかし、道場にいてもさえがくっ付いてきては気詰まりなので、秀平と居る方がまだましだった。今日も、秀平が守護職の入洛を見物に行こうと言い出したのであって、そうでなければわざわざ来ることは無かった。
蹴上から黒谷の金戒光明寺は、京中の人が集まったかという賑わいぶりである。そもそも一はこういう人だかりが大の苦手だ。しんがりを務める江戸家老、横山主税の一団が通り過ぎると、一は踵を返した。
不意に、新島周蔵の姿を見たような気がした。群集に押されているが、紛れも無く新島だ。
「や、新島」
一は走り出した。だが、まだも会津公の行列を見んとする人垣に阻まれ、思うように進めなかった。漸く流れから吐き出された時、新島の姿は其処になかった。
「新島がいた」
「はて。ここ数日道場に来ていませんでしたね」
秀平は、寝惚けたようなことを言う。一は束髪の乱れを直しながら、岡崎の方角へ歩き出した。東本願寺岡崎別院の西へと行列は向かっている。黒谷は吉田道場の南東、ほぼ目と鼻の先といえた。
「何を企んでいるんだ」
「は?」
「おれが何か言ったか?」
一は思わず口にしてしまっていたようだ。新島が行列を見ていた時の表情は、険しいものだった。何やら酷く思い詰めたような目付きをしていた、と一は感じた。京の治安を揺るがす程に横行している天誅、それらを実行している不逞浪士どもと深く関わっているというのなら、あながち新島の鋭い視線も理解出来ないことはない。朝廷、公家を奉る尊皇攘夷激派にとって、松平容保は目の上のたんこぶともなりかねないからだ。
「新島の目付きが只事じゃあなかった。群集がいなければ、会津侯に危害を加えんという風情だった」
「まさか」
秀平は笑った。
「そのまさか、だといいがな」
そう言いながら、自然と足が三本木の方へ向いていた。木屋町あたりまで下って飲もうかと考える。
すると、路地を一人の男が此方に向かってきた。挨拶もなしに男は抜刀し、一に斬り掛かってきた。既に七つ刻で日は傾きかけているといえ、日中堂々と白刃を人目に晒す、そのことに一は逡巡を抱いた。
秀平を後手に庇いつつ、男の上段から振り下ろす剣をかわした。その刀に血が付いているのに気付く。一は左肩を掠められていた。
刀が小太刀に見える大男だった。一足で一間半も間合いを詰めてくるような足だが、動きはそう速くない。
「お前が斎藤某か」
斬った後から誰何するなど、下衆のすることだと一は思ったが、掠り傷とて付けられた以上、只で返すわけにはいかない。
「だったら何用だ。おれはお前など知らん」
一は言いながら、青眼に構えた。男の剣は力任せで重い。背後に秀平を匿っている為に、受太刀になる。反撃の糸口が掴み難い。
「秀平じゃまだ、とっとと失せろ」
一は、顔を背けて叫んだ。秀平は我に返り、もと来た道を駆け出した。真剣となると、抜いた事も無い秀平に加勢させるのは重荷であろう。これで防戦一本から抜け出せる、と一は足を踏み替えた。男が拝み打ちに打って出る一刀を受け止め、とんぼを返して大きく身体を回し、胴払う。しかし、男の袷の前がざっくりと裂け、懐紙が零れただけだった。
虚を突いて、一は身を翻した。
「逃げるか斎藤、この卑怯者」
男は大声で叫んだ。外聞の悪い絶叫を聞きながら、一は高下駄を脱ぎ、それを懐に押し込んで裸足で走った。武士は走るな、と父には言われてきたが、その父の知らぬところで数え切れぬ程走った。現に今も走らねば命が危うい。男は鈍足ながらも追って来た。
「痴れ者め。何が卑怯者だ。往来で名乗りもせずに斬りかかってきたほうが極めて無礼だろうが」
一は独り毒づきながら、木屋町界隈を南に走りに走った。随分と下ってしまったものだと、息を弾ませて立ち止まると露地の築塀から白い手が出て来た。
「此方へどうぞ」
若い女の手が、一の袖を引っ張った。背中を向けたままの女に、誘
(いざな)われるがまま、一は露地を更に狭い道に入った。少し行ってはどんつき、どんつきを左に折れてまたどんつき、の繰り返し。漸く女が招じ入れた間口の狭い民家に辿り着いた時、一は何処の辻から入ったのかまったく思い出せなかった。京の町はまさしく迷路のようである。
玄関に入ってから、一ははたと女の顔を見た。割と背の高い、顎の尖った目元のきりりと爽やかな美形である。果たしてこんな佳
(い)い女が知り合いにいただろうか。
「はて、どちら様でしたか?」
すると、女は一のきょとんとした顔を見て噴出した。女が笑うその仕草を見て、一は覚った。
「島原の」
揚屋の廊下で擦れ違い、商家の会合があった奥の間にいた芸妓だった。化粧が随分と違うが、間違いない。
「思い出さはりました?あの時は、おおきに。助かりました」
優雅だが、何処かはきはきと歯切れの良い京言葉で言う。
「何や其処でお見掛けしましたよって、声掛けよ思うたら、追われたはるようなご様子どしたやろ。せやから、此処までお連れしましたんや、堪忍」
女はそう言って、胸の前で手を合わせる。
かたじけない、と一は頭を下げてから、己が裸足であることに気付いた。女は、また笑った。
「さあさ、遠慮なさらず中へお入りにならはって。此処、うちの伯母の家どすねん。一人暮らしやさかい、気兼ねのう。兎に角おみ足洗うて下さい。傷のお手当てもいたしますよって」
重ね重ねかたじけない、と一は繰り返しつつ玄関を潜った。
「私、およう言います。桔梗屋では相生太夫と名乗っとります」
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