(五)

 合わせ味噌の大根汁が勢い良く香っていた。麦半分と浅く搗いた白米の飯が手前に盛られている。一はその匂いを嗅ぎながら、ふと箸を止めた。さえの作る飯は、時々塩加減がおかしなこともあるが、なかなかに美味い。江戸前の赤出汁に慣れていた一にとって、合わせ味噌や白味噌は最初少々物足りなかったが、京風にはこれが合っている。漬物が豊富で、今まで食べた事も無い壬生菜や日野菜(ひのな)などが出されることもある。
 だが、鯖も鰆も白醤油漬か西京漬というのには、飽きてきた。
 一が黙って差し出す椀を、さえがじろりと睨んで手元に寄せた。愛想無く二杯目をよそって返す。
 見るからに不機嫌であった。というのも昨晩遅く道場に戻った一は、夜食も食べずに寝所へ入っていったからだ。
「ええ香りしましたな、昨晩の斎藤はん。伽羅の匂い袋ような、ええ香り」
 さえは、仙十郎の膳を片付けながら嫌味たらしく言った。仙十郎は、房楊枝を使いながら、笑った。
「男の仕事に口出しすな、さえ」
 そう言って厠へ行ってしまった。どうやら仙十郎にも誤解を受けているようだが、まあいい。さえを怒らせておけば、付き纏われることはなかろう、と一は思った。それにしても、女房でもないのに悋気を起こされては此方もかなわない。
 鴨川の土手が眼下に見える隠れ家のような屋敷でのひとときは、泡(うたかた)のようであった、と思い返す。
「斎藤はんは江戸の御方どすな」
 おようは手ずから酌をしつつ、一を見上げた。袂から伸びた凝脂のような白い腕が艶かしい。
「商売が商売どすからようわかります。上方の人間は東の人をあらえびすみたいに仰いますやろ。けど、うちは嫌いやおへん。鎌倉の昔から、もののふは東に限ると申しますし。『東男に京女』とも言いますやろ」
 そう言って、一の暗い眸を覗き込んだ。着物に焚き染めた香が移るのではあるまいか、と思うほどにおようの身体は近かった。
「お酒も強うおすな」
 一は先程から五合以上も飲んでいたが、顔色一つ変わっていなかった。父も兄もそう酒に強いほうではない。これは会津の血なのかもしれない。
「お前さんは京の生まれじゃあないのか」
「太夫いうてほんまに京の女子なんて殆どいてへんわ。うちの生まれは島国どす」
 一はそれ以上の詮索はしなかった。島といっても数多ある。おようは色白だが、何処か南国の匂いがする女だった。
「こないだの、揚屋の席にいたのはありゃあどういう集まりだ。大店の旦那衆を装っていたが、どうも臭う。商売人のけれん味が感じられなかった」
 すると、おようはくつくつと笑った。
「まあ、斎藤はんはお奉行の下っ引か密偵どすか?登楼遊びの旦はんにそないな野暮を訊く訳にはいきまへんよ、うちらかて」
 そう言われて、一は自分の不躾さに気付いた。まだまだ京の掟を知らない。
「そないなことより、今夜はうちは非番ですねん。お泊りになってもかましまへんえ」
 おようはしっとりとした声で言った。太夫姿の華やかさはないが、代わりに纏い付くような色気が滲み出ている。肩はほっそりしているが、帯の上の隆起は誇らしげであった。
「いや、明日も早いもので」
 と、一は適当に言葉を濁した。斯様な美女、しかも己のような貧乏侍がおいそれと出入出来ないような廓の太夫に酌をして貰っていることすら、俄に信じ難い幸運である。久しく女に接していないゆえに、未練は無きにしも非ずだが、おれには身分不相応だと腹底で念じる。
「そう。ほなら、またうちをお座敷に呼んでくださいな」
「見ての通り、おれはそういう身分ではないぜ」
 一は即答した。すると、おようは含むように笑んだ。
「ご謙遜。けど、斎藤はんなら、じきにご出世なさいますわ」
 世辞は聞き流す主義だが、おようの物言いは少し気になった。
 それにしても、矢庭に白昼から襲撃を掛けてきたあの大男は、おそらく長六の寄越した用心棒だろう。一が長六から請負った仕事を放棄したままひと月はゆうに過ぎている。
 新島の言うとおり、強請の片手業はやめることにしたが、あんな連中に追われる度に裸足で逃げ回っていたのでは埒があかない。かといって返り討ちにしたところで、堂々巡りにしかならぬような気がした。いずれにしても、己の短慮を呪うべきだった。
 おようは帰り際、一の背中にそっと手を置いて囁くように言った。左肩の浅手が疼くように熱かった。
「うち、ほんまに斎藤はんに惚れてしまいそうやわ」
「……」
「明日、七つ刻に八坂はんの松林のところへ行かはったらええわ」
 謎めいた言葉が一の耳元に残った。おようの香はずっと、その晩付いてきた。寝所に入っても暫く寝付かれないほど、強く香っていた。据え膳食わぬを「いくじなし」と囁かれているような気がして、悶々と過したのだった。
 
 そういうわけで、一は昼下がりにぶらぶらと出掛けた。秀平は稽古に出て来なかった。無事に逃げ帰ったというが、肝を潰して一日寝込んでいるらしい、とさえから聞いた。新島の方も出て来ない。いったい、蹴上で見掛けたのは何だったのかと思うが、いずれ年の暮である。今夜にも稽古代の年季払いに来るだろう、と多寡を括っていた。
 今日は晦日である。京洛も天誅真っ盛りとはいえ、日中は師走の賑わいに満ちていた。
 一はおようの言った通り、山王の方から松並木を見遣りつつ、祗園社の付近で待った。
 すると、松並木を堂上(とうしょう)の列が近付いてきた。白小袖に袴、烏帽子と被った御番士と、箱を担いだ仕丁が五人続き、輿を中心に近習の者が並ぶ。その後から、諸道具を担いだ仕丁、雑掌の乗物が続いて、若党が従う。
 一は何とはなしに、見咎められてはなるまいと松林の蔭に身を潜めた。行列は、しんしんと進んで行った。輿や乗物を守る従者の顔付きは、どう見ても公家侍には思えない。どこぞの浪士が猿回しの烏帽子でもかぶっているようだ。
「ひと頃前は、毎日の生計(たつき)にも事欠いていたっていう公家が、浪人風とはいえ侍を雇えるようになったというのも面妖(みょう)な話だな」
 恐らくは、出資者が後ろについているのか、その者が浪人風情を押し付けお雇いにさせているのか。いよいよ公家も尊攘激派と袂を摺り合わせているに違いなく、やはりこのままでは京都守護職の任も速やかには進まぬだろう、と一は会津中将の事を思った。
 不意に行列が止まり、輿の中から公家の顔が覗いた。前を行く御番士が何かに出会って立ち往生しているらしい。雑掌も出て来た。こちらは髭面の大男で、輿に乗った男は、二十代半ばの貴公子であった。しかも、その顔に見覚えがある。
「あれは姉小路少将だ」
 一が振り向くと、新島の姿があった。冷ややかな眼差しで、行列を見遣っている。
「あんた稽古にも出て来ず、こんな処で」
 言い掛けた一の口上を、新島の二の句が遮った。
「それは同じことを貴殿にお訊きしたいですな」
 一は覚えず、息を呑んだ。
「おれは、ある人に言われるままにここへ来てみた。すると、あの晩揚屋の奥にいた旦那衆の一人が輿に乗っているじゃあないか。魂消るぜ」
 言ってみて、おようの言葉の意味が漸く飲み込めたのだった。新島は頷き、松の幹に手を掛けた。
「あの集まりは紛れもなく公家衆の会合です。尊攘派の中心人物、三条実美、三条西季知(すえとも)、東久世道禧(みちとみ)、四条隆謌、姉小路公知(きんとも)。何の談合をしていたのかは想像に難くない。朝議では発言出来ないことを、ああいった揚屋に身を窶して話し合っておる」
「島原に通うような余裕があるのか」
「出資者がおりますゆえ」
 と、新島は目を光らせた。
「長州です。土州も取り込もうとしているのは確か」
「しかし、あの時狼藉を働いたのは土州の浪士ではないか」
 一が言うと、新島は首を振った。
「あれも芝居のうちでござる。浪士は仕組まれたさくら。土州は上士は強固な公武合体派だが、武知瑞山ら筆頭の下士は、攘夷派ですからな。脅されて強要され、味方についたとすれば今後情勢が動くとも公家の立場は危うからず」
 ならば、わざわざ踏込んで場を掻き回したおれは、只の阿呆かと一は悄然となった。揚屋の主人も総て幕の内を知っていたのだ。ちくしょう。だったら、丸目屋をみすみす逃がしたのは、惜しいことをした。
「どうです、斎藤先生。少しは飲み込めましたかな?」
 新島は、例の人懐こい笑みになって言った。
「おれが阿呆だということをか?」
「いえ、山口一殿」
 一は驚愕の眼を見張った。その名前を知っているのは、僅かな人間のみである。江戸の家族と会津藩にゆかりのあるごく一握りの人間。もしやと思う心が、一の右手を動かした。
 だが、新島は一の手を素早く押さえた。
「菅生の討手ではござらん」
 新島は、一が江戸で斬った旗本の名を口にした。
 一は手を下ろした。菅生という姓は、旗本が養子入りする前の姓である。其処までの事情を知っている人間となると、新島の身分は知れた。
「して。新島殿のご本名をお聞かせ願おうか」
 一は炯炯と両眼を光らせた。新島は言った。
「会津藩御聞番、大庭恭平と申す」

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