(七)
外は細雪が舞っていた。二月になる。一は東本願寺の旅宿前に呼び出され、大庭と会った。
大庭は少し憔悴
(やつ)れていた。
「先月、二十八日門前に賀川という医師の首が掲げられていたのを御存知か?」
と、大庭は東本願寺の方を顎で示した。一は、ああと答えた。
「黒谷にはほぼ日毎に二、三そのような不埒の訴えがある。浪士の凶暴は攘夷目的というよりは、己の名声と酒色のためではないだろうか」
大庭の声は、やや浮かなかった。もう間も無く、将軍家茂が上洛するということになっている。しかもそれに先駆けて、警固役の大勢の浪士が京に入り、尽忠報国の志を示さんという噂も広まっていた。だが、この話を胡散臭い、と大庭は気語った。
「聞けば、浪士組を募った清河八郎という男、元々は尊皇攘夷の士というではないか。この話には、何やら裏がありそうな気がするのです」
そういうものなのか、と一は思った。大庭にしてみれば、得体の知れない浪士どもがまた洛中に徘徊するというのが、不気味に思えるのだろう。
「此方を左へ。少々遠いですが、会津屋敷や宿所で会うのはまずい。それがしの面のこともあって、今は黒谷にも出入しておらぬので」
大庭は、一を公用方筆頭、野村左兵衛に引き合わせる為に、竹田街道沿の旅籠まで案内するという手筈であった。
大庭の懸念は、容保に因循の烙印が押されぬかというところにあった。
浪士達に言論の道を開き、不満を解消しようという懐柔策が、町触れとして掲示された。
容保は鷹司関白に建白し、守護職の名で浪士らの言路を通してやるつもりだったのだが、これに一橋慶喜が賛同しなかった。むしろ、どうでもよいという風情であり、結局は翌二月九日には、攘夷の期限を尊攘派の堂上に迫られるという事態になった。
その中には、姉小路公知の姿もあった。
「こうしている間にも、公家どもはおそらくまた、一橋侯や我が殿に攘夷の期限を迫っておるだろう。鷹司関白は老齢で圧され弱く、まったくもって頼りない。堂上連中の手綱引き締めるのは無理なのだ」
大庭の悲憤を聞きながら、七条通を東へ進む。ところが、数間歩いたところ、
「新島」
呼ぶ声がした。振り向けば、二人の浪士が立っていた。大庭は咄嗟のことだったが、さすがに密偵だけのことはある。少しの狼狽も見せずに、振り返った。
「おう。青柳、三輪田か」
一人は下総出身の青柳建之助、もう一人は伊予の三輪田綱一郎だった。
「これから三条木屋町にて諸岡先生と会うのだが、おぬしもどうかの」
三輪田が言った。色白の気障な男である。
諸岡という名は聞いたことがある。府内浪人にして国学者の諸岡節斎であろう。大庭は着々と浪士と親交を深めているらしい。
「それがしは」
と、言い掛けて大庭は一に目配せをした。
「いや、それがしも参ろう」
「最近おぬしが『丹虎』にあらわれなんだので、心配をしていたのだ。ようし、今夜は大いに語ろうではないか」
青柳が、大庭の肩を叩く。
「其方のかたは?」
三輪田に訊かれ、一はそっと視線を外した。
「それがしの甥でござる」
大庭は言った。
「大坂の親戚に行く途中、寄って貰ったのだ」
「ではご一緒に」と誘う二人に、大庭は手を振った。
「いやあ、この男は下戸で、世事にもとんと疎いのでな。それに、明日は六つから発たねばならん」
大庭はそう答えて一の背を押し遣ると、自分は青柳らと連れ立って歩き出した。
うまく誤魔化せたかどうか判らないのだが、それにしても何ほどか込み入った話でもあるのだろうか、と一は思った。
旅籠に着くと、二階の一室に通された。筆頭公用人の野村左兵衛は、四十半ばほどで、がっしりした体躯の眉のふさふさした男であった。既にこの時、京都常詰として御聞番内用方を務めていた。実質、彼等外交を担う公用方が、「一会桑」と言われる政権の中心にいた。
一はいつになく、緊張した佇まいで野村に会見した。大庭のことを告げると、深くは詮索されなかった。
だが、話はというと大庭に聞かされたような事と、政情の噂だけで、それ以上の事には触れられなかった。何となく、値踏みされているような感じがした。
「斎藤殿、今後の待遇については後日追って大庭を通じて報告いたそう」
野村はそう言って、帰って行った。何だか狐に摘まれたような話だ、と思いながら、一も旅籠を出て帰途に着いたのだった。
翌日、朝餉のあとでさえが一に封書を差し出した。
「お手紙ですよ。お国元からちゃいますか」
近頃また、さえの機嫌は好かった。一時期は、一の繕い物など棄ておけという風情だったが、今日は甲斐甲斐しく野袴のほつれなど直している。
一は鳥の子紙を開いて、あっと声を上げた。筆跡には見覚えがなかったが、署名を見て驚いた。差出人は、永倉新八であった。
「我等試衛館一門、この際公儀において天下の志士を募るにあたり、すすんで雷同し、一味となるに至り候……」
生き生きとした達筆で書かれている。書状を送った経緯については、非常に永倉らしかった。
九段下の山口家を訪れると、「一という息子はおりません」と母の満寿に門前払いを食らわされ、二度目には「死にました」と言われたという。三度目に押問答をしているところ、兄の廣明が帰宅して、漸く取次いで貰えたのだと書かれてあった。
お節介な、と思いながらも、一の口元はほころびに変わった。
一の事は山口家周辺でもごく内密になっている。近所には養子に出したという建前である。永倉が吉田道場を訊き出せたというのも、永倉自身の律儀さに家人が感じ入ったのかもしれない。
「お友達どすか?」
さえが覗こうとしたので、一は慌てて後手に隠した。
「女の人の筆跡ちゃうやろね」
「何を言うか。江戸の頃の知り合いだ。近々所用で京へ来るらしい」
そう言いつつ、一は続きを読み始めた。
ふと、先日の大庭の話が頭を過ぎる。「天下の志士」というのは、将軍警固の浪士隊のことではないか。その中に永倉は勿論、近藤勇ら試衛館一門がいるというのである。手紙が書かれたのは二月七日とあった。となると、今日へ到着するのは恐らく二十二日か二十三日あたり。
「もう到着しているのではないか」
覚えず、一は立ち上がっていた。今日が二十二日である。
浪士隊の到着は、結局翌二十三日の未明であった。
朝霧のけぶる中、三条河原に異形のものが浮かんでいた。朝掛けの人足が見付けて、肝を潰した。
はじめは生首かと思われたそれは木像で、しかも将軍の首であった。
梟首台の上に並んでいたのは、足利尊氏、義詮、義満三代の木像のかしらと位牌であった。そして、その捨て札には高松趙之助という男の筆跡で、「逆賊足利十五代」と書かれ、その先には連綿と足利氏の悪業や皇国の大道が記されていたのだった。
結びには、「爾来、今世に至り、この奸賊に超過し候ものあり。この党あまたにして、その罪足利氏の右に出ず……」とあった。明らかに徳川幕府を指し示している。
さらに札には「右は三日間晒しおくものなり。もし取り捨て候はば、きっと罪科おこなうべきものなり」とあって、誰もが気味悪がって手を触れようとしなかった。昼過ぎになって、漸く町奉行所から指示がある、木像は片付けられた。町衆は面白がって見物に来るが、同心らの慌てぶりは物笑いの種となる有様だったという。
二十四日夜のことであった。
勝手口の戸を叩く音がする。さえは、台所から静かに回り、竹刀を手にしんばり棒を外した。いざとなれば、父より仕込まれた小太刀の技で賊など倒してくれる、とさえは息を呑んだ。
「新島はんやおへんか」
慌てて、振り下ろそうとした竹刀を後手に隠す。げっそりと目の下に隈を作った大庭が、息を切らしながら訴えた。
「斎藤先生をお呼びくだされ」
呼ばれて、着流しのくつろいだ姿のまま一は出て行った。
「三条河原の木像梟首の件だが、あれはそれがしの仕業なのだ」
大庭は、血の気が引いた唇を歪めて言った。聞けば、一が公用方の野村と会っていたあの晩、大庭は誘われるまま居酒屋『丹虎』へ行った。そこに集合していた浪士らで、
「ひとつ何か洛中をあっと言わしめるような天誅を行おう。もう儒者の手指を折ったり、耳を削いだりするのでは生ぬるい」
なかでも、信州の高松趙之助が差出した起草文の奇抜さに、皆があっと叫んだ。
「そこで等持院に押し入り、木像の首を刎ね、位牌とともに河原に晒し置いた」
大庭は、さえが運んできた茶にも口を付けず語った。
立場上、大庭は彼等を制止することが出来なかった。怪しまれては御聞番は務まらぬ。そのうえ、罪に加担するということまでせざるを得なかった慙愧の念が、大庭を苛んでいる。
「これから黒谷の本陣へ赴き、報告する」
と、大庭は両の拳を腿の上で握り締めた。密偵の職務を果たしたことになるが、浪士とともに天誅を行ったという罪状からは逃れ難い。また、梟首を行った浪士達から見れば、密告者であり裏切者となる。
「御沙汰によっては死罪、あるいは永年蟄居になるやもしれませぬ」
「殿の為、藩の為に命懸けでやってきて、そんな馬鹿なことがあるものか」
一は苦々しく言った。
「貴殿はまだまだ青うござる。武士とはそういうものなのだ」
大庭の表情に、束の間諦めとも哀しみともつかぬ微笑が浮かんで消えた。
「三月経ってそれがしが道場に戻って来ぬ場合、なきものとして失念してくだされ」
そう言い残して、大庭は去った。
黒谷へ向かって吉田山の細い山道を上る後姿が、仄かに見えた。
二月二十六日、会津藩兵が洛中に押し出した。衣棚通、祗園新地などで梟首事件下手人らは取り押さえられた。中には自害する者もいたが、大半は捕縛され、そのまま黒谷へと連行された。
市中から黒谷まで連行される浪士の中に、新島周蔵こと大庭恭平の姿があった、と秀平が一に知らせた。
「他の門人にも見られている可能性がありますよ。悪い風評を呼ばねばいいのですが」
一は答えなかった。おれに何をせよというのだ。おれ一人では世の中何も変わりやしないのだ。
こういう時は、稽古するに限る、と一は国重を抜いた。
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