(九)
瞬く間に五月になった。少し早歩きすれば汗ばむ季節である。
一は東洞院通を北上していた。本日は非番ではない。壬生浪士組は天誅に勤しむ過激派浪士を、会津公の股肱となって取り締まるというのが任務となっていた。穏健懐柔策を取ってきた松平容保は、二月の三条河原木像梟首事件以来、路線変更せざるを得なかったのである。
一もそのような時勢の中、見廻りに出ていた。だが、それとなく隊から離れ目的の場所へ向かう。
「斎藤先生」
ふと呼ぶ声がした。一瞬ぎょっとなったが、一は立ち止まった。秀平である。屈託なく笑いながらやって来る。
「壬生浪士組に入られたそうですね」
そういう秀平の声は、何処か晴れ晴れとしない。その理由は、一にも大方の予測が付いた。
浪士組の噂はかんばしいものとは言えなかった。京の人間にとってみれば、関東から来た無作法な連中は、不逞を働く浪士達とさして変わりない。隊士の中には会津藩御預を称して、押し借りしようと商家に詰め寄る者もいる。秀平が案じるのも無理はない。
「先生がいなくなられて、道場は灯が消えたようです」
秀平は呟いた。秀平の心配は、どうやら別のところにあったようである。
「ふん。おれのような仏頂面でも少しは賑やかしだったわけか」
もっぱら消沈しているのは秀平とさえだけではないのか、とも思った。だが、何を言っても秀平の顔色は冴えなかった。
「さえ殿の縁談が決まったようです」
ははあ、それで落ち込んでいるのか、と一は納得した。相手は白川村の庄屋の跡取りらしい。悪い縁談ではない。
「そいつはよかった」
一が言うと、秀平はますます肩を落としてしまった。だが、ややあって顔を上げると、
「そうだ。私も浪士組に入れて頂けないでしょうか」
「はあ?」
確かに今、浪士組は人を募っている。だが、道場の腕は兎も角真剣勝負で全く経験のない秀平など、誰が必要とするものか。さえに懸想が敗れて気でも触れたか。
「お前なんか推挙したら、おれの目が疑われる」
一はそう言い放って、歩き出した。秀平は追って来た。
「駄目ですか」
「駄目だ」
二、三度この遣り取りを繰り返しているうち、六角通の「藤代屋」という旅籠に着いた。一が入って行くと、まだ秀平は付いて来る。しつこい野郎だと思いつつ、騒がれるといけないので放って置く。段取り通りに二階の西の間へ入り、一は襖の傍に耳をつけて座った。
「入りたいのです、先生」
一は半泣きになる秀平の首根っこを掴み、口を押さえて押し倒した。力ずくで黙らせる。隣室からは男二人の話し声が聞こえてきた。こうなったら、秀平もろとも毒を食らわば、というやつである。
「……を斬る」
大庭恭平の声だ。続いて、やや甲高い声色がした。しゃっくりを飲み込んでいる様子だ。
「なに、姉小路卿をか?」
「声が高いぞ田中殿」
隣室には薩摩の田中新兵衛と大庭の二人しかいない。素っ頓狂に響いたのは、田中の声である。
さすがに一も吃驚した。大庭が田中に天誅の密談を持ちかける。差し当って、そこで頼みがあると言われ、隊務を離れて来てみれば、だ。
「貴公は聞いておらんのか。姉小路は開国論に寝返りおったぞ」
「何ィ」
と、また田中の声が裏返りかけた。居住まいを正す衣擦れの音がする。
さる先月二十三日、姉小路公知は公務にて大坂へ出向した。そこで幕府海軍奉行、勝海舟より大坂湾へ案内され、幕府軍艦順動丸に乗り込んだ。勝はこの時、ここぞとばかりに姉小路に海事の重要さを説いたのである。
「なに殿下、この海軍なければわが国の警衛は成り立ちませんぞ」
皓歯を剥き、砲丸をぶっ放した。轟音と激しい揺れに、さしもの姉小路も肝を潰してしまった。
「夷狄の軍艦というのもこれと同じか?」
「そうです。しかし、奴等はこういう船を何十隻と従えております。横浜にはつい先日、十二隻も入り込んで来ました」
勝は脅すように言った。
「まだそやつらはおるのか」と姉小路がふらつきながら訊くと、勝は「まだおりまする」と笑みを浮かべながら答えたらしい。この時の体験が余程堪えたとみえて、姉小路は帰京するや否や、朝廷に何やら復命した。
そして五月九日、朝廷は幕府に「摂海防備三ヶ条の沙汰」を下した。
勝の作戦勝ちといっていいだろう。東久世通禧などは、「勝は姉小路をうまく言いくるめてしまった。姉小路ときたら、生まれて初めて載せられた軍艦に圧倒されて、此の頃全く覇気がない。攘夷という言葉も聞きたくないようだ」と、呆れ果てているという。
「そういう次第で、貴奴はすっかり勝海舟のいいように骨抜きにされ、俄に攘夷論を取り下げおった。とんだ腰抜けと思わぬか」
大庭は、焚き付けるように言った。
「おう。お前さァの言う通りじゃあ。ほんまこつ腑抜けよのう」
田中の怒りは襖越しにも伝わってきた。大庭は、更に続ける。
「そこでだ。我々尊王志士にとって悪影響を及ぼしかねん悪い苗は、芽のうちに摘み取ってしまおうと思うのだが」
じゃっどん、と田中は躊躇った。
「どうした、『人斬り新兵衛』と言われる男が臆したか」
「そうではなか」
田中の声が萎んでいく。大庭はせっついた。すると、田中は漸う訥々と語り始めた。
「おいは最近、人を斬るのが怖か。いや、おいが死ぬのは構わん。じゃが、女にやや子が出来たこつ、どげんしてたもんそ」
「やや子か。そいつはいかん」
大庭は唸った。
「だが、御国の先行き、朝廷様の為とおぬしのやや子とどちらが大事か、比ぶるにあたわん」
大庭は冷たく言い切った。女が出来、子供が出来ると剣客の気も揺さぶられるものか。それにしても、大庭の徹底ぶりは本物の志士を凌ぐものがある。
「何を言い申っそ。新島どん、お前も男ならわかってたも」
「今更何を言う。それがしは、おぬしを見込んで胸襟開き、斯様な話をしたのだ。それが請けられんと申すなら」
大庭が片膝ついて立ち上がる気配がした。鞘走る音がして、それを田中が受け止めたようだった。お互いに多少の酒が入っている。いくら「人斬り新兵衛」とはいえ、大庭の急襲を狭い座敷でうちかわし、得意の拝み打ちを繰り出すのは困難であろう。
大庭の低い胴間声と同時に、一は襖を蹴倒した。
「何じゃあ」
田中が振り向きざま、八双に構えた刀を一に打ち下ろす。一は素早く下段から跳ね上げ、切先で反りの深い田中の刀を避けた。そして、突きを繰り出すと見せて出籠手を叩いた。勿論、鋒打ちであった。田中の刀が飛んだ。
奥の間にいた秀平が、足元に転がった刀を見て思わず後退った。
「秀平、そいつを持って逃げろ」
秀平は、一の命ずるまま田中の刀を引っ提げて走り出した。唖然とし、だが抜刀した大庭に睨まれている田中は何の手出しも出来ないまま、部屋の隅に追い詰められていた。一は鞘の方を拾い上げ、大庭に目配せすると、先に旅籠を出た。
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