あとがき

 「いつか、孤郷」の続編としてこの「死闘、猿ヶ辻」を書いた。
 猿ヶ辻という地名は意図せず本編のどこにも出て来ないのだが、御所の内講北東角にある朔平門のことである。
 「黒谷さん」こと金戒光明寺は、実は筆者の勤務先の目と鼻の先であって、仕事上も何度か訪ねたことがある。石段を上がるのは一苦労で、寺全体が京都の街が一望出来る高さにあることがわかった。本堂の東の庭園に入ると、周囲は鬱蒼とした高い木々に囲まれており、ここが京都の街中なのかと思えるほど幽玄に満ちた静けさであった。容保公はここで政事の合間に疲れを癒したのか、と思うと百四十年の昔が思い遣られた。裏手の墓地には、大勢の会津藩士が眠っている。
 吉田道場が実際何処にあったのかは判らない。
 吉田神社の近くなのだろうと想定し、現在の聖護院の北、近衛中学校があるあたり(東大路通りのNTTがある付近)、ではないかと考えて描いた。少し北には尾張徳川屋敷(今の京都大学総合人間学部などのある吉田キャンパス)がある。
 斎藤一が京に着いて浪士組に参加し、会津の密偵となるまでの経緯を「姉小路公知暗殺事件」を主軸にして描いてみる、という試みだった。斎藤一は会津のスパイじゃない、と思われる方には申し訳ないような設定だが、成り行きでそうなったので作者もはじめはそういうつもりではなかった。ゆえに、一が大庭恭平という人物を手本に「藩士とは(武士とは)こういう生き方なのだ」というのを見せ付けられ、会津人の血を意識し、松平容保に「この人のためなら」と思い至る過程というのが手探り状態だった。しかも、取り巻く情勢や政治関係から歴史的事件にもいくつか触れねばならず、少々冗舌な部分が多くなったのを反省している。
 もののついでに、前作の「いつか、故郷」のあとがきで書き漏らしたが、何故斎藤一がもともと会津の人間だと作者が想定したかの根拠の一つに、「斎藤姓」がある。会津、現在の福島県では「斎藤」の姓は多い。上位五位以内には入る。したがって、逆に考えて苗字を持っていた会津藩士にも斎藤姓を名乗っていた者が多かったであろうと踏んだ。そこで、山口一の生家はもともと斎藤姓であり、京へ逐電して元の斎藤姓を名乗る事にしたのだというのは案外あり得るのではないかと思った。そうでなくても、わざわざ「斎藤」を選ぶあたり、会津にゆかりがあるとしか思えない。もしかしたら、会津藩のスパイをすると決めた時から「斎藤」に改めたという可能性もある。以上、蛇足。

 姉小路公知暗殺については、司馬遼太郎氏の「猿ヶ辻の決闘」(『幕末』所収)を一読されることをお奨めする。今のところ、筆者は大庭恭平=姉小路暗殺者説をこの小説でしか知らない。ゆえに、最初読んだとき、ちょっと奇をてらうような設定だなと感じた。しかし、この事件に関する資料をあたっているうち、あながち物語を面白くせんがためのでっちあげともフィクションとも言い切れないと思い始めた。
 蛇足を承知でいえば、最後の老中小笠原の上洛に関しては一橋慶喜が一枚噛んでいたとも後年言われている。無論、開国派に有利な武力制圧を行うためであった。口では孝明帝に攘夷を約束しておきながら、幕閣の賛同を得られなかった結果に思い至った手段だと思う。このことは批判すべくもない。慶喜の立場も非常に微妙だった。
 この頃から容保は孝明帝に信頼を得て、自らも攘夷を唱えるものの、老中らも口では容保にあわせておきながら、本心は開国派であった。どうも、容保は既に四面楚歌の立場に立たされる運命にあったのかもしれない。駆け引きを知らぬ実直の人、という気がして悲しい。
 そんな容保に対して、斎藤一は何を感じていたのだろうか。
 もしかしたら、自己の立場が国賊になるやもしれないという懸念を抱きつつも、それでも国事の為に幕府の為に身命を投げ打とうとする容保の姿に、斎藤は武士の姿を見たのかもしれない。
 しかしながら、こういうことを考えるのも後のちの目で俯瞰的に眺めて言えることであり、小説で描いたことも総て仮説に過ぎない。
 当時その場にいて出来事に直面していた人間にとってみれば、結果がどうあるのかは予測できない事である。ゆえに、大庭恭平という人間もそういう視点で捉え、姉小路殺害の動機も単純なものとして明確な意志を示すことを避けた。暗殺者の人数は三人、という記録があるので首魁の大庭、斎藤、秀平という人選になった。これも偶然の産物だった。「人斬り新兵衛」が取り調べを受けたときに呟いた「しゅうへい」がまったく手掛かりにならなかったのも、秀平が浪士ではなくて医生であり、さらには既に「秀斎」と改めていたというオチ。
 また、朔平門で遁走した鉄輪左近は、主人の危機に背を向けた卑怯者として市中潜伏中を捕らえられ、六角獄舎につながれたという。
 最後の老中格・小笠原の回想文の「ある公家」とは、姉小路公知のことだと言われている。というのは賢明な読者の皆様ならおわかりだろう。これが「生麦事件」に関しておよう(相生太夫)の言った「あとで判る」という言葉の意味である。

 大庭恭平の生涯については謎が多く、こののち信州上田謹慎から釈放され、北越戦線に参加し、会津若松に戻る事が出来た。しかし、新政府によって二度目の謹慎を越後高田で送る。高田を脱出した大庭は、そののち会津藩復興に力を尽くした。明治以後、函館県警部として就任、県名が北海道になるにあたって解任となった。
 本編では、斎藤一と大庭の関係はここで一旦終わっているが、いずれまた会わせてみたいと思う。今度は会津の地で。

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