あとがき
「恋の至極は忍ぶ恋と見立て候、一生忍んで思い死することこそ恋の本意なれ」
と、有名な『葉隠』にはある。
この物語の人物たちは、実際どうだったのだろう。無責任だが、書いたあとからいつも曖昧になってくる。
千姫伝説はさまざまあるが、この桑名の渡しをめぐるエピソードはもっとも美しい部類の一つといえよう。
本文で酒井孫八郎が紹介のごとく、千姫は江戸へ逃れる際に本多忠刻に一目惚れしたという。
秀頼を忘れてその軽々しい態度はなんなんだ、と不快を催す人もいれば、政略結婚の悲劇を免れて漸く本物の恋にめぐり合ったとする人もあり、解釈はさまざまである。千姫に横恋慕した坂崎出羽守に関してもそうだ。坂崎は本当は、千姫をさる公家にと思っていたのが思惑が外れて、やけを起こしたともいう。
本編では、やはり徳川の家臣としての桑名藩士の立場から好ましい説を採用した。それにしても、千姫は俗にいう「さげ○ん」ではないのだろうか?かかわった男がロクな死に方をしていない。
酒井孫八郎について。 酒井家は、初代が桑名藩主松平定綱の家老を務め、以後代々家老職についた家柄で、彼はその十代目に
あたる。禄高は四百から五百石で、家老職の中では少ない方。孫八郎は服部家の次男として桑名で弘化二年11月17日に生まれた。兄は服部半蔵正義で、側室の子であった孫八郎がわずかに二か月ほど遅く生まれている。のちに酒井家の養子となる。
慶応二年から一時期、京都所司代を任じられている松平定敬の膝元で京詰になるも、慶応三年の藩政改革で御勝手奉行となり、国家老として藩政の中心に座ることとなった。
孫八郎は慶応四年正月3日、大坂から開戦の連絡が入り、以後 目まぐるしい動きをする。この正月一か月のうち、彼が自宅へ帰ったのは十五日しかなく、それも
ほとんどは暁に帰り、定刻どおりに出勤している。そのうち恭順の周旋で亀山、四日市へ出張して徹夜で帰った日が三日もある。
この間に桑名城では抗戦か恭順かで揺れ動き、ついに例の「神籤」で抗戦となるも結局恭順の結論となり、藩内の統率、和平条件の交渉を東奔西走して行った。正月28日に新政府軍に桑名城を明け渡し、定敬の兄・徳川慶勝が前当主である尾張藩の管理下に
おかれる。孫八郎は藩再興のための活動や、残っている桑名藩士の生活保障など、新政府および尾張藩
との交渉に追われた。
しかし、定敬はあくまで抗戦し、箱館まで行ってしまう。 孫八郎は11月8日に桑名を出て、12月7日に横浜から船で青森に向かい、下北半島を
たどって24日箱館に着く。 翌明治二年元旦に箱館神明宮(現在の山上大神宮)にいた定敬に、漸く面会する。
孫八郎は土方歳三や榎本武揚に交渉し、定敬を説き伏せ、やっと定敬も降伏することになった。五稜郭の戦いの直前に二人は箱館を出て、
まず孫八郎が東京に行って下交渉を行い、その後定敬が上海経由で東京に行って、桑名藩は正式に降伏した。
のち桑名藩の再興が許され、孫八郎は兄の服部半蔵とともに桑名藩大参事を務めた。明治五年、参事を辞めて宮内省に出仕のため東京に出、初子の異母妹・高子と結婚、明治十二年に三十四歳の若さで病没。最初は東京深川長専院に葬られたが、現在は青山墓地に移葬されている。
孫八郎は、維新の激動に奔走し、心身疲れ果ててしまったのか。忠刻もそうだが、やはり美男子の命ははかない。
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