(三)
しかしながら坂内某、田内のように女にだらしない事はなかったが、金に無頓着であった。遊び過ぎて金の無い隊士に給金を貸してやる。そのうち自分の手元も不如意になってきた。実家の妹に金を送ってやろうと思ったが、一文も余分が無い。次の給金が支給されるまで何処かで借りようと思い、金策に出掛けた。
ところが、翌日になった坂内は土方の部屋に呼び出された。
「君、悪いが切腹することになってしまったよ」
開口一番の土方の言葉に、坂内は絶句してしまった。だが、冗談でも嘘でもないらしい。
「『勝手に金策ス不可』。この法度を破っただろう?見ていた隊士がいたのだよ」
「えっ、借りるだけでも駄目なのですか」
土方は黙っていた。坂内は首を垂れるしかなかった。局中法度は絶対であり、土方の命もまた絶対であった。
明けて本願寺裏庭の土壇場。
既に沐浴を済ませ、白小袖に水裃の坂内が畳の上に座している。清々しく髭をあたり、恰も御前試合にでも臨もうかという風采に、一同は感心した。いや本当は感心すべき事にあらず、切腹師範が切腹を仰せつかるという不名誉なのであるからして。しかし、この稀代の切腹師範の最初にして最後の実演を一目、という隊士が続々と集まってきた。中には坂内本人が現れる前から涙ぐむ者も、矢立を用意してその様子を仔細に写生せんとする者もいた。
坂内の背後に立つ介錯人であるが、これが平生と異なった。七番組組長・谷三十郎であった。
斎藤はというと、折悪しく市中警邏の任に当たっていた。土方は誰かと交替させようと言ったが、しゃしゃり出て来た谷三十郎が是非にというので、斎藤も譲ったのである。
坂内は内心の動揺を堪えつつ、肩衣をはねた。介錯にしくじられると不名誉極まりない。
もろ肌脱ぐと、副介錯人が谷に合図を送った。小刀を載せた三宝が坂内の目前に置かれる。
やはり坂内の手さばきは見事であった。自ら腹を二、三度揉んで肉を寄せ、腹に短刀を垂直に突き立てる。その直後に手を離すと、美しい横一文字の切れ目が腹に入る。
が、腹に小刀が収まり切らないうちに谷が坂内の首を刎ねてしまった。
のみならず、巧く寝刃を頚骨の隙間に入れなんだ為、首は半ばまで斬られ、血飛沫はは上がったが落ちない。落ちないので焦った谷はもう一度斬り下げようとしたが、うまくいかなかった。
「谷先生」
と、坂内は呻きつつ痛みにもがいて短刀を振るった。土壇場は地獄絵図の如くなってしまった。
どす黒い血がそこ等に撒き散らされ、死に切れない坂内はのたうちながら、首をぶらぶらさせて痙攣していた。
「動脈を断てば死ぬ。何をしている」
土方が叫んだ。しかし、当の谷はすっかり怖気付いて腰を抜かし、立てない有様。隊士達も叫喚を上げた。
そこへ戻って来たの、見廻りを終えた斎藤であった。
「斎藤頼む」という土方の声を聞くまでも無く、坂内の傍らへ駆け寄り、斎藤は摂州住池田鬼神丸国重を振り下ろした。坂内の首が砂地に転がった。その形相は穏やかとは言い難く、まるで見世物小屋の幽鬼のごとくであった。斎藤の腕の見事さに、一同感嘆の息を洩らした。
「お前、今度から介錯師範でもやるか?」
土方が真顔で斎藤に言った。すると、即座に斎藤は首を振り、
「とんでもない。もし、おれが切腹するにあたったら、誰がおれの介錯をつとめてくれますか?」
げんなりした顔付きの谷を遠目に見遣った。
坂内の死を機に、結局切腹師範の任は廃止され、講義も無くなった。近藤、土方ともに、
「やはり馬鹿げていたのだろうか」
と、顔を見合わせたものだった。
ところが意外なことに、以後切腹を命じられた隊士の作法が急に凛とした格好になってきたのである。理由はよく判らない。
「もしかしたら、坂内の効果だろうか」
土方は思った。坂内の死に様はまったく酷いものであった。しかし、「切腹先生」自ら腹を召すにこれ以上の醜態は無いという悪手本を見せ付けたことによって、隊士らを戦慄せしめ、あのような死に方だけはしたくないと思わせたか。
そう考えると、切腹指南はかかる意義深いものであったとしみじみ感ずる。当の本人には不名誉のこととて、坂内某とだけ記録に留めておく。
(二)へ
あとがきへ