第六話
 〜シルヴァー・アイズ・アンダー・ザ・ムーン vampiro del HongKong
(後編)


第三章 THE OUTRAGEOUS HONG KONG  ホンコン無宿 
 
「気分はどう?最悪でしょ」
 ミスティ・サファイアは開口一番に、そう言った。窓の隙間から洩れる昼の光は、サングラスを通しても眩しい。
「ううー」
 ジンは寝返りを打ち、再び腹部の傷の痛みに唸った。玉の涙が目尻に浮かんでくる。
 ベッドの端に仁王立ちになったミスティは、もういつもの軍用コートを羽織っていた。胸には重たげな銀のロザリオ。全身、黒い獣の革で包まれた淫靡な女豹に見えなくも無い。だが、勇ましい女巡検使に変わりはなかった。その姿は、ミスティがヴァティカンのお偉いさんの仲間である事を、しがないパウダーガン使いのジンに認識させる。
「赤いドレスの女は別人か?」
「ある意味別人かもね」
 ミスティはそう答えると、何の飾り気もない丸椅子に腰掛けた。静かに、ではなくやや不機嫌な風に。高々と脚を組み上げる。
「惜しいなァ。いいアングルだったのに」
 ジンは、鼻の穴を目一杯膨らませた。
「もう着られないわよ、アレは。血みどろの破れかぶれで、捨てちゃったわ」
 ミスティは素っ気無く答える。深青の瞳が、じっとジンの貧血気味の顔を見詰めた。ぬめったような日焼けした肌から、仄かに香水が漂う。
 ジンは、見るともなしに、剥き出しの太腿や胸元を見入ってしまう。この女ほど、寡黙が雄弁だということを体で示している女はいないのではないか、とジンに思わせる。黙りの拷問に掛けられているみたいだ。
「黒ずくめの男は何者なの?」
 ミスティは、言った。
「・・・さぁな」
 ジンはサングラスの下で瞬きする。
「オレを狙ってきたということしか判らん。路地裏でオレを撃ったのも、あの男だろう」
 一つだけ、引っ掛かる事があった。昨晩男が発砲した時の音は、リヴォルヴァーの発射音ではなかったという事だ。パウダーガンにしては、もっと軽い。セミオートマチックの22口径くらいではないか、とジンは思った。それが、奇妙なのだ。
 路地裏で自分を撃った男は、確かに45マグナム弾を従えていた。
 すると、昨晩の男は別人なのではないだろうか。
「そう。ところで、あの男は何処?」
「あの男?」
「アナタの相棒に決まってるじゃないの」
 ミスティは、脚を揃えて膝を突き出し、ジンに詰問した。
「も、もうちょっと怪我人をいたわってくれよお。おいででで」
 ジンは上半身をよじる。その耳元に《パイソン・シスタームーン》の銃口が押し付けられた。ミスティは、既にベッドの脇に腰を下ろしていた。ジンの脇腹に太腿が押し付けられる。
「私のおっぱいに触る余裕があったクセに」
「あ、あれはだななァ。《ブラックホーク》のグリップが・・・」
 しどろもどろに言い訳するジンの唇に、ミスティは右手の人差指を押し当てた。顔を近付け、甘い吐息をジンのサングラスに吹き掛ける。引き締まった上半身に比して重たげな両の双丘が、ジンの右腕に押し付けられた。乳房の半分が露出している。嬉しいが、痛い。ジンは情けない喘ぎを上げた。
「ひい〜」
「ああら。もっと乱暴にされるほうが、私は好きよ」
 フフ、と含み笑いを残して、ミスティは立ち上がる。訳のわからん女め、とジンは下腹部を押さえた。下半身に人格は無いというが、こんな時までとは。
「と、とにかくオレは知らねえぞ。あいつのことなんか」
「ふ・・・ん」
 アーチは、黒いコートの男を追ったまま、病院には戻って来ていない。パルメット・ソノーラもだ。アーチを追って行ったが、今朝になっても二人とも姿を見せない。まさか、ミイラ取りがミイラにされた訳ではあるまい。
「面白くもねえ。で、寝てる間もずーっと気になってたんだが、何であんたとあいつが一緒に現れるんだ?」
 ジンは、乾いた喉を鳴らした。唾が粘着く。答えの大体の想像はつくというものだが、本人の言を確認してみたかった。
 ミスティは、《パイソン》をホルスターに戻しながら、ジンの横顔を見た。
「知りたいの?」
 と、ミスティの唇が三日月みたいに弧を描いた。残酷な愉しみを見出した肉食獣のような表情だ。
「仕事に決まってるわ。伯父貴の言い付けでね」
 予想通りの答えが返って来た。
「嘘ぶっこけ。巡検使があんな格好で仕事か?あんたの事だ、何か企んでんだろーが」
「企むなんて、人聞きが悪いわ。私は仕事の為なら、どんな格好でもするわ」
「素っ裸になれって言われてもか?」
 ジンは、思わず己の想像に鼻の下を伸ばした。だが、この女の場合は、中途半端な着衣の方がいやらしいに違いない。そうに決まっている。制服姿だけでも充分に倒錯的な雰囲気がある。
「平気よ。神の命とあらば、どんな男とでも寝るし、殺すことも出来るわ。つまり、そういうことなのよ」
 ミスティは、さらりと答えた。ジンは、やや考え込んだ。神に仕える巡検使が、色仕掛けなんて使っていいのか。堂々と殺しを公言してもいいのか。
「それは、信仰の為かよ?」
「まあね」
 ミスティは、言った。毛ほどの感慨も無いといった風情だ。
「狂信者の集まりだな」
 ジンの台詞が終わらないうちから、ミスティは含み笑いを洩らした。青い瞳に不敵な炎が宿る。
「何とでも言うがいいわ。肉体的拷問なら、我々巡検使は訓練されているから毛ほどの痛みも感じないわ。やったほうがダイアモンドを素手で握り潰そうとするような、哀れな結果に終わるだけよ」
「はー」
 ジンは、溜息を吐いた。えらい自信ではないか。さすが筋金入りのお嬢サマだ。で、もっと乱暴にされるのが好きなのか。
「でも、どうして二人別々に宿を取るの?お金もないのに」
 今度はミスティが質問する番だった。ジンは、そらきた、とばかりに顔を顰める。
「同じ屋根の下なんかで寝たくもねえよ」
「ケンカの真っ最中ってワケね。仲のよろしいこと」
 ミスティは、したり顔で笑った。
「助けに来てくれ、なんて言った覚えはないって、顔ね」
 と、ミスティは独り言のように呟いた。ジンは聞いていない振りをして、枕の下に手を突っ込んだ。天井がいやに高く見える。
「・・・確か」
 ジンは、軽い眩暈を覚えた。
「あいつ、弾を切らし掛けていた。下の教会に仕入れに行った筈だ。それに、流しの医者は定期的に道具を換えなきゃならんからな」
「下の教会?司教のいない教区かしら」
「アンダー・ホンコンの歓楽街から西の森を抜けていくと、昔武器庫を持っていた修道院がある。あいつ、そこのシスターと知り合いらしい」
「グラッツェ」
 ミスティは、そう言って病室のドアを開けた。ふわりと、長いブルネットが流れ、微笑を浮かべた女巡検使と入れ替わりに、鮮やかな赤毛の女が現れた。マルドは、一度廊下を振り返ると、ベッドの傍らに駆け寄った。
「今の女、誰?」
「ええ?ああ」
 答弁に一瞬詰まったジン。その頬っぺたを、マルドは抓った。
「すんごいナイスバディじゃん。95センチはあるんじゃないの、あれ。詰めモン?何処のクラブかな?あんな本物そっくりのコスプレ」
「本物だっつーの」
「え?よくわかんないけどさ。お面はいいけど性格悪そう」
「・・・かも知れねえ」
 マルドは、今しがた振り掛けてきたと思える程、香水の匂いをぷんぷんさせながら、病室の中をうろついた。
「大変だったわね。ひどい騒ぎじゃないの。吸血鬼だとか何だとかって。てっきり、ここも閉鎖されてるんじゃないかと思って慌てて来たの」
「ほー」
 ジンは、気の無い返事をした。何が何だか判らない。頭の中を整理しようと思っているのだが、話し掛けられると、思考が停止してしまう。血の巡りがとても悪い。
「慌てて来なくたって、オレは逃げやしねえよ」
「そうかな」
 マルドは、ジンの顔を覗き込んだ。

 ダンダン、ダンダン。
 夜中に修道院の扉を叩くのは誰だろう。ピーチィ・フィズは跳ね起きた。初めは夢かと思ったくらい、遠くに聞こえたが、あまりに続くので流石にはっきりと目覚めたのだ。ベッドから飛び降りて、ランプも持たずに駆け出す。
 覗き穴から見て、やばそうだったら、引き返してシスター・バーバラを呼ぶことにしよう。階段をを飛ぶように、だが静かに下りた。夜目が利くので、灯りは要らない。
 ピーチィは、猫のように音も無く扉の前に進んだ。覗き穴まで這い蹲るようにして、扉にくっついた。
「そこにいるんだろう、ピーチィ?」
「ひっ!」
 驚愕の余り、ピーチィは転んだ。石畳のひやりとした感触が腿に伝わる。だが、びっくりしている場合ではない。
 この声は。やさしいが、疲れ切った声。ピーチィの心臓が早鐘を打った。急いで閂を外し、扉を押し開ける。
 暗がりから、影のように入り込んで来たのは、夜盗でも悪魔でもない。アーチレリー・ブールヴァルドその人だった。息を呑むような哀傷を湛えた表情で、金髪が乱れているのも、また美しい
「アーチ!」
 ピーチィは抱きつこうとしたが、次の瞬間飛び退いた。
「な、何やの・・・」
 アーチが背負っている皮袋からは、血臭が芬芬と漂っていた。しかも、生乾きで雑菌が繁殖し、饐えた臭い。よく見ると、アーチのカフェオレ色のスーツも、血塗れだ。
 そして、それまで気付かなかったが、浅黒い肌の年齢の知れない男がアーチの斜め後ろに立っているではないか。
「あんた誰?」
 ピーチィは、パルメット・ソノーラの顔をよく見ようとして、背伸びした。アーチは、皮袋を両腕に抱きかかえて、一歩進む。ピーチィの背後から、ランプを手にしたシスター・バーバラが早足で駆け寄ってきた。
「何事です?」
 訝るシスター・バーバラに向かって、アーチは微笑を見せた。シスターは、夜着の上にストールを羽織っただけの軽装だった。髪型も整えていない。
「見付けたんです、シスター・アストリアを」
「アストリアを?」
 シスター・バーバラは鸚鵡返しに言い、そして、アーチの顔と皮袋を見比べた。アーチは、腰を下ろした。シスター・バーバラからランプを受け取り、革袋の紐を解いた。
「・・・・・・」
 見守っていたピーチィの唇から、吐息が洩れた。
「おお、アストリア!」
 シスター・バーバラは声を上げた。
 皮袋から長い黒髪が流れ出た。血がこびり付いて、嫌な臭いを発散していたが、シスター・バーバラは構わず、アストリアの亡骸に取り縋った。アストリアの死に顔は、青白い。そして、あくまで美しかった。長い睫毛、閉じたまま永遠に開くことがない瞼の上に、透明な液体が落ちた。
「引導を渡したのは、オレです。異端審問所に報告しても構いませんよ」
 アーチは、静かに言った。
「ほ、報告なんか・・・」
 シスター・バーバラの喉がひっ、と詰まる。化粧も無く、乾燥した頬に涙が流れている。ピーチィは、シスター・バーバラの顔を見詰めていた。遺体をまともに見られなかったからだ。
「それで、一つお願いがあるんですが」
「・・・ええ、何でしょう?」
 シスター・バーバラは、アーチを見上げた。
「アストリアの遺体を解剖させて下さい。事と次第によっては、埋葬出来ないかも知れませんが」
 その言葉で、アーチを除く三人は瞠目した。シスター・バーバラは、意を決した。
「何て、業が深いのでしょう。・・・死んでまで、迷惑を掛けるなんて。シスター・・・・」
 シスター・バーバラは嗚咽した。ピーチィは、シスターの背中にそっと手を置いた。

 アンダー・ホンコンにそのニュースが流れたのは、事件の翌朝だった。
 第一級犯罪あるいは、レヴェルA法廷伝染病の時でなければ、電波状態の極めて悪いディアスポラには、ニュースは直ぐに伝わらない。
「いいから、カッサンドラを、医局長を出せ!」
 アーチは、パソコンの画面に向かって怒鳴った。通信モードに切り替えられた画面の中では、若い研修医がぼんやりと、困り果てた顔をして、こちらを見ていた。ぱりっとした白衣が、初々しい。アーチが初めて見る顔だ。
「済みません。会議が長引いていまして・・・」
「言い訳は要らない。オレが緊急だと言ったら、すぐに飛んでくるって言ったんじゃないのかと伝えろ!」
 アーチは、捲くし立てた。
「え・・・?」
 研修医は、目を剥いた。医局長に向かって、命令口調とは。相手が平凡な容姿なら、幾ら何でも一体何様のつもりなんだ、と思うだろう。だが、目の前の若い医学博士の余りの勢いと凄絶な美貌に、面食らうばかりだった。漸く勇気を振り絞って言葉を編み出すのに、数分は掛かった。
「・・・ですが、ブールヴァルド博士。御用件をお伝えしないと枢機卿会の席を外すことは出来ませんよ」
「口答えするとは、大胆な新入りだな」
 アーチは、ふん、と鼻を鳴らした。
 薄暗い灯りの部屋に、男が二人、離れて座っていた。壁を背にしたソファに座っているのは、パルメット・ソノーラ。窓側の机にしがみついているのは、アーチレリー・ブールヴァルド。
 ソノーラは、黄ばんだ両目を見開いた。
 こうして待つこと十時間。昨晩ホンコン・ヘヴンを抜け出してから、十二時間。ソノーラは、ソファで仮眠を取った。
 しかし、窓際で作業中のアーチは一睡もしていない。
 電子精密顕微鏡と超小型遠心分離機を左手に置いて、北向きの窓から、自然光が入るのを待っている。その間、止む事なくパソコンで何かを検索、解析していた。
 昨晩サンタ・ルフェーブル病院から、アーチは、黒い服の男を追って出て行った。
 本人は意識しているのかいないのか、その時の行動力は恐るべきに値する。五階の窓の高さをものともせずに、飛び降りていった。そして、人間離れしたスピードで男の後を追って走ったのだから。
 ソノーラは慌てて、車を回したが、それも途中で見失った。不案内な土地だ。衛星を使ったナヴィゲーションも、効かない。咄嗟のことにはやはり生身のほうが反応が早いが、生憎とソノーラはホンコン・ヘヴンに精通していなかった。
 それは、アーチも同じ条件の筈だ。
「だがこの男、まるで脳内にセルフ・ナヴィでも持っているかのように、迷わず道を選んでいたな・・・」
 一つの特殊能力なのかも知れない。ソノーラは、確かにアーチが強化人間であるのを認めざるを得なかった。だが、それにしても無謀に過ぎる。
 ソノーラが追いついた時に、アーチは一人だった。黒衣の男の姿は無い。
「上手く巻かれた」
 という答えしか返って来なかった。
 だが、相手が何者かは知らねど、仮にも吸血鬼ならば、追うのは不自然だ。
 つまり、アーチは黒い服の男が、吸血鬼などではない事を知ったのではなかったか。
 とはいえ、男を逃がしてしまった事実は否定できない。
 ソノーラは、そう思う。だから、その答えを聞くまでは、固唾を呑んで待っているしかない。
 そう考えていた矢先に、だ。
「レヴェルS極秘事項に関する問題だと言っても、外せない会議ってのは何なんだ?教皇の愛人が妊娠でもしたのか?」
「いえ・・・」
 研修医はあんぐりと口を開いたまま、即答出来なかった。そもそも、レヴェルSが何の事か皆目判らないらしい。
「一生そうやってろ、くそったれ!ゴー・トゥー・ホンコン(地獄に落ちろ)!」
 アーチは、危うく電源を引っこ抜いて、机を蹴り飛ばしそうになる衝動を抑え、通信モードを解除した。怒りで指先が震える。
「最悪だ・・・」
 アーチの呟きが、ソノーラの耳に入った。この自分本位で剽軽な、見てくれがいいだけの男でも、腸が煮えくり返る事があるのだな、とソノーラは思った。
「何がだ?」
「ホントにとんでもないものが、ばら撒かれた」
 アーチは、窓を向いたまま低い声で言った。
「説明してくれないか?地下室で解剖を終えた時から、あんたは黙ったままだ。危険を伴うものなら、真っ先に周囲の人間に告知すべきじゃないのか?」
 ソノーラは、ややむっとした口調で応えた。
「そうは言っても、じたばたしたって、手遅れかも知れんぜ」
 アーチは、優雅に事務椅子を回転させて、机に背を凭れ掛けさせた。疲れたから、そうしたとでも言いたいかのように。
「アストリアの解剖の所見は、失血によるショック死だ。オレが殺したんだよ」
「初めから死んでいたのではないのか?」
「知っていたのはあんたの方じゃないのかい?吸血鬼はバイオロジカル・ウェポン(生物兵器)だ、って」
 アーチは皮肉めいた言い回しをした。二人の間に、重々しい沈黙が流れる。ソノーラは、アーチの顔色を見た。一睡もしていない割には、つやがいい。やや疲れた表情が、女性の保護欲を程好く掻き立てるだろう。緑の瞳はどんよりと曇っているものの。
 沈黙の川を先に渡り切ったのは、アーチだった。
「・・・マザー達を呼んで来てくれないか」

 まだ血腥い臭いが取れないでいる。ジンは、半分眠い目を擦った。
「病院は出たんだっけ」
 天井を見上げれば、煤けた黒い染みと油染みが見える。明らかに病院ではない。半地下になっている、マルドの家だった。明かりの入らない、薄暗い打ちっぱなしのコンクリート。旧い安借家。埃の臭いがする。旅慣れているから、埃なんて大丈夫だと思っていたが、意外にうざったいものだ。
 昔暮らした町を思い出す。祖父が生きていた頃の事を。
「じいさん・・・」
 乾いた掠れ声が出た。呼び掛けた相手がいない事は判っている。ジンは、また目を伏せた。
「工房は油の匂いでいっぱいだった。ガン・オイル、ライター・オイル、パイプの匂い」
 ジンは祖父の背中を見ていた。物心つく前から、ずっと見ていた。油で汚れたオーバーオールの背中。バッテンの背中と呼んでいた。食事の時も、祖父は同じ格好だった。客が来たときも。工房は、いつも油の匂いと換気扇のゆっくり回る音。それだけだ。
 ある日、ジンがその場面を見るまでは。工房が血に塗れ、火煙が立ち昇る日までは。
「マルド?」
 ジンは、不意に声を上げた。
 返事は無い。
 マルドは、すぐさま病院からジンを引き揚げた。どういう風の吹き回しかは判らなかったが、マルドがいうには、こうだ。
「一度ならずも二度も狙われたんでしょ?病院の場所まで相手に判ってんなら、いたってしょうがないじゃないさ。まさか、また家に戻ったなんて思わないだろうしさ」
 尤もかどうか、ジンには見当がつかなかったが、意見する前に、マルドはさっさと退院手続きを済ませてしまっていた。タクシーに担ぎ込まれて、ここに至った。
 オレ様としたことが、何てていたらく。ジンは、我が身の情けなさを呪った。
 と同時に疑念が湧いてくる。これでは、マルドはまるで、とってつけたみたいにジンの介抱をかって出たようなものではないか。それまでは、少々迷惑そうに商売上がったりだとか、言って病院に押し込んで置くつもりだったのだろうが。
 一体、何があったというのだ。
 ジンは朦朧とした頭で考えた。
「オレに惚れたかな?」
 いや、違う。全く否定は出来ないが、違うと思う。
「オレの財産目当て?」
 こっちの方が可能性が低い。何せ、蓄えも無ければ定職も持たない、かつかつのプレミオーロなのだ。
「オレの体目当て?」
 試してもないのに、そんな事あるわけないか。
「コーディの命の恩人だから?」
 とはいっても、元々はジン自身が狙われたのだから、これはお門違いだ。
「《ブラックホーク》狙いか?」
 今やお宝のパウダーガン。中でもリヴォルヴァー一丁は、五千万ダッシュは下らない。一般人はその価値さえ知らないが、マルドのことだ、お客に話でも聞いたのだろう。間違い無い。マルドの狙いは《ブラックホーク》だ。
 ジンは、枕の下を探った。無い。衣服の中も探ってみる。予想通り、薄手のTシャツとブルージーンズだけだ。パウダーガンなど収まる余地もあったものではない。
「無い!無い!無いーっ!」
 ジンは、跳ね起きた。腹の痛みと睡眠作用の名残で、一瞬脳貧血を起こしかけたが、頑張って這い起きた。命より大事と豪語したテンガロン・ハットよりも、大事な《ブラックホーク》。
 どさ。ジンはベッドを膝から転げ落ちた。
「う・・・」
 ずり落ちたサングラスを直しながら、ジンは冷たい床を這った。
 ギィ。
 重い扉が開いた。現れたのは、マルドだった。燃える様な赤毛を、波立たせ、マルドはジンを見下ろした。目の醒める様な青いビニールコートのミニスカートの下からは、ストッキングをつけていない長い脚が伸びていた。女巡検使のグラマラス・ボディを目に焼き付けた後では、線が細く、まだ少女っぽさを残した腿に見えた。
 今が何時だかジンには見当も付かないが、マルドの雰囲気は仕事帰りといった感じだ。ジンは、サングラスの下から、マルドの顔を見上げた。
「ジン」
 マルドは、慌てずに屈み込んだ。ジンの背中に手を触れようとした。
「・・・どうしたの?」
「どうしたの・・・ってぇ?」
 言い掛けて、ジンは仰向けに転がった。痛みで息が上がる。
「オレのパウダーガンはどうしたよ」
「パウダーガン?・・・ああ、これ」
 マルドは何気ない返事をした。そして、ベッドの傍を離れると、クローゼットの扉を開けた。中には、ジンの革ジャンが吊るしてある。マルドは、その革ジャンの内側に手を入れた。ガン・ベルトが見えた。その右手が、《ブラックホーク》を取り出した。
「心配したの?誰も盗んじゃいないわよう」
 マルドは笑った。《ブラックホーク》の銃身を傾け、ジンの鼻先に押し当てる。ジンは、慌ててマルドの手から、それを奪い返した。
「ざけんなよ」
「何よ。全然腰砕けだわよ。何言ってんだか」
 そう言って、マルドはジンの肩に手を掛け、引き揚げた。思いの外、力は強いらしい。安物の香水に鼻粘膜を冒されながら、ジンはベッドに這い上がった。
「まだ痛むんでしょう?」
 ジンは答えなかった。マルドは、青い目をジンのサングラスに向けた。吐息が酒臭い。バーボンの安っぽいやつだ。ジンは、マルドの腕を避けた。
 油断していたらしい。ジンはサングラスを奪われた。しまった、と思った時には遅かった。マルドは、モスグリーンのグラスを取り上げた。
「な、何をしやがる!」
「怒らないでよ」
 マルドは、ジンの黒瞳を見詰めた。そして、童女のように微笑む。
「童顔ね。隠す為にサングラスを掛けてるの?」
「・・・・・・」
 ジンは、返答に困った。苦虫を噛み潰したような顔で、マルドを睨む。眉尻同士が近付いた。
「違うの?あんたが、マイノリティだから?」
 マルドの控えめな問い掛けにも、ジンは答えなかった。
「恥じる事なんかないわよ。この街なんか、マイノリティも何もあったもんじゃないから。あたしだって、ここじゃ身体を資本にするしかないマイノリティなんだから」
 マルドは、言いながら、上着を脱いだ。無造作に投げた短い丈のジャケットは、見事に離れた椅子の背凭れに引っ掛かった。
 両の掌が、ジンの頬を包む。指の腹が、ジンの左頬の三条痕をなぞった。
「何のつもりだ」
 マルドは、笑わなかった。やや大ぶりの赤い唇が、謎めいた動きをした。赤毛の先が、ジンの喉仏に触れて、くすぐったい。それから、マルドは大胆に裾の短いブラウスを脱いだ。商売用の豪華な下着が、ジンの目に入った。着痩せするらしく、乳房は黒いブラジャーからはみ出さんばかりに盛り上がっていた。思わず浅ましい音が、ジンの喉の奥で鳴る。
「コーディ、コーディは寝てるのか!?」
 ジンは裏返った声で、言った。
「勿論よ。何言ってんの」
 マルドは、別人のように艶めいた笑みを作って見せた。これも、商売用なのだろうか、とジンは訝った。マルドは、ブラジャーのフロント・ホックを外し、自分の掌で掬い上げるようにして乳房を包む。
「家庭に仕事は持ち込まない、主義じゃなかったのか?」
「気が変わることもあるわよ。気紛れなのよ、自分で言うのも何だけどさ」
 マルドは、ジンのTシャツを捲くり上げ、乳房を擦り合わせた。固い筋肉質の胸に、柔らかく温かい感触が伝わる。否が応でも、下半身のボルテージは上がる一方だ。
「凄いのね。筋肉質な男って好きなのよ」
 マルドは、ますます大胆に身体を押し付けてくる。ジンの上に馬乗りになった。マルドの両手は、ジンの肩から胸板の上を這った。所々、銃創が残る上半身。右肩の真新しい傷は、まだ包帯を巻かれたままだ。右乳首の下の傷は、何年前だったか。疫病神ともいえる我が相棒に会った時のものだ。
 マルドは、腹の上に注意しながら、ジンの股間に手を遣った。
「モテモテじゃん、オレ」
 と、いつもなら思わずニヤ付いてしまうところだ。だが、待てよ。
「心配しないで、これは無償だから」
 マルドは、ジンの思惑を察したかのように囁いた。指先は、ブルージーンズのジッパーを下ろしに掛かっていた。
 
「つまりは、こうだ」
 アーチは、蹈蹈と流れるように説明を始めた。ソノーラと顔を突き合わせていた時は、流石に焦慮を禁じ得なかったアーチも、すっかり落ち着いている。マザー・ロウとシスター・バーバラは、並んでソファに腰を下ろしていた。その隣にパルメット・ソノーラ。そして、ピーチィはアーチの隣に椅子を持ち込んでいた。
 MRIなどの設備が無い以上、自力でやるしかなかったのだが、アストリアの死体解剖で判ったことは、アーチが予め想定していた最悪の状況に合致した。
 失血が直接の死亡原因、そして、特筆すべきは脳に出来た空砲。
「プリオン病というのを聞いた事があるだろう?」
「ああ。羊のスクレイピーや狂牛病なんかの」
 ソノーラが答える。
「人でいうクロイツフェルト・ヤコブ病、ゲルストマン・ストロイスラー・シャインカー病、クールー、致死性家族性不眠症・・・」
 プリオン病とは、これらの病気の総称であり、そもそもプリオンはproteinaceous infectious particle=タンパク性感染粒子に由来している。
 人の海綿状脳症は、クロイツフェルト・ヤコブ病という稀な病気として、古くから知られていた。長い潜伏期間を経て発症するが、発症後の進行ははやく、意識、運動機能障害が見られ、痴呆となって死に至る。かつては角膜移植などが元の医原病とみなされる場合もあった。これに罹ると、文字通り脳がスポンジ状になるのだが、その原因こそが、プリオンである。
「異常プリオンは、タンパク質分解酵素で壊れにくい性質を持っていて、神経細胞の中に蓄積する。結果として、細胞が変性して空砲が出来、海綿状になるというわけだ。アストリアの脳細胞にも、無数の空砲が見られた」
 アーチは、顕微鏡に挟まれたごく小さいプレパラートを指差した。
「では、生前に・・・」
 シスター・バーバラは胸元で両手を合わせた。アストリアの遺体は、まだ埋葬していない。
「プリオン病に罹患していた。機械がないんで、手間取ったが、滅菌後、最終的にタンパク性感染粒子が残った」
 通常、ある物体が感染源であることをあらわすには、それらを接種することによって証明される。ジェンナーの行った種痘法など、伝播を示す実験を証明しなければならない。
 そして、感染を確認したあとで精製していく。そこに病原菌が見えれば、細菌が犯人であり、フィルターを通り抜けてしまうなら、ウイルスが原因なのである。勿論、プリオン病についても、同じ事が可能だ。
 ところが、どれだけ感染力の強い分画を精製しても、核酸が見当たらない。つまり、遺伝子がないという事だ。遺伝子はDNAかRNAの核酸でしかない。核酸が見当たらない、という事は、生物が原因ではない。
 次に、タンパク質が感染源と考えられるなら、まず煮沸してみる。100度で煮れば、普通のタンパク質なら二度と構造が戻らないほど壊れてしまう。熱変性である。
 だが、これでも感染源が残った場合、圧力を掛けて高温132度で一時間滅菌してみる。この操作をオートクレープという。実験室レベルでの感染性物体は、これで完全に滅菌出来るのだ。しかし、これでも海綿状脳症は感染力を失わない。乾熱滅菌といって、240度の高温で乾燥させても、ゼロにはならなかった。
 最終手段として、どんなタンパク質でも変性させてしまうホルマリンに浸してみる。アルコールやフェノールでは効果がない。
 だが、そのホルマリンをもってしても感染力が残ったのが、タンパク性感染粒子なのだ。
 無論、アーチはここまでの手順を総て踏んではいない。煮沸後、ホルマリンに漬け、分離解析しただけだ。
「では、感染症なのか?」
「恐らくな。散発性の可能性は無くもないが」
「けど・・・それと、吸血鬼と何の関係があるのん?」
 ピーチィは首を傾げ、ソノーラは、息を呑んだ。
 アーチは、肩を竦めた。パソコンの画面を、マザー・ロウの方へ向ける。ディスプレイには、新聞記事が示されていた。ソノーラも覗き込む。
「・・・四十年前の《世界新聞》。何だ、これは」
「古都ラヴェンナに出没したノスフェラトゥ。吸血鬼騒ぎの記事だ」
 マザー・ロウは無言で、食い入るように画面を見た。
 紙面には、ゴシップまがいの内容記事が書かれているだけだ。
「初めは異常殺人事件にはじまっているが、たったの一と月で騒ぎは、収拾がついている。ヴァティカンの緘口令だな」
 と、アーチは言った。忌々しい。
 カッサンドラ・ブルーネレスキ医局長の顔が浮かぶ。電話に出ないのは、恐らく彼女も判っているからだ。
 四十年前のラヴェンナ吸血鬼と、今回のホンコンは同じだ。
「吸血鬼はデマじゃなかった。わしが見たのも本当じゃった・・・」
 マザー・ロウは呟いた。アーチは、ソノーラの方を見る。
「ソノーラ。あんたの言う通り、これは生物兵器だよ。いや、生物じゃないから何と呼んだらいいのかな」
「・・・・・・」
 アーチは、膝の上に両肘を載せた。
「ヴァティカンが極秘に開発したヒト感染兵器。《PE》―プレフェレンツァ・エモパティア。血液嗜好症のことだ。」
「《PE》・・・」
 《PE》の異常プリオンに感染すれば、一時的にショック死状態に陥る。《PE》プリオンは、タンパク質分解酵素にも反応しない。恐らくは、律速酵素が引き金になって《PE》プリオンは異常なまでに速く増殖するのであろう。律速酵素は、ODC(オル二チン脱炭酸酵素)などの、反応経路のお目付け役のようなもので、それが動けば反応生成物は大量に生産される。
 あるいは、細胞分裂周期に連動しているタンパク質サイクリンか。《PE》が、サイクリンの分解ごとに細胞に影響を及ぼす物質であるならば、有り得る。
「何故、そんな事が判る?」
 ソノーラは訝った。無理もない、吸血鬼という前時代的な呼称から考えられる概念と、《PE》とはあまりにもかけ離れていた。
「ヴァティカンのレヴェルS極秘事項。《世界新聞》の方は、マザー・コンピュータにアクセスして得られる情報。《PE》は、アカデミー医局の人間以外では、入れない別のルートから」
 アーチは、答えた。
 それでも、アカデミーの情報源に入れるレヴェルは、一般職員ならBランクまでだ。これはヴァティカンが一般に公開できる内部情報の最高であり、表層に過ぎない。
「御見逸れするよ、こんな短時間で。あんたは天才の上を行く科学者だ」
 ソノーラは、抑揚の無い声で言った。
「何、オレにも判らん事だらけだ」
 アーチは、謙遜でなく真実を述べた。その瞳には、いつになく重々しい翳りが宿っていた。ピーチィは、無論その理由など推量する術もない。寝不足だと考えるのが関の山だった。
 ―古都ラヴェンナに広がった、丁度四十年前の出来事。
 ミスティ・サファイアが上層都市広報局・ホンコン・ディストリクト支部に立ち寄ったのは、サンタ・ルフェーブル病院を出て間もなくのことだった。
 ヴァティカン国防省御用達のモーター・バイク、スレイプニル22Fが立体駐車場に入り込んで来た時、守衛の老人は目を剥いたものだった。何の査察が始まるのかと。
 だが、バイクを降りた美女は、相変わらずの仏頂面で守衛室の脇を潜りぬけ、情報リファレンスフロアへと向かった。
 自前の端末機は使わない。身軽がモットーの特務巡検使は、IDカード一枚で何処のパソコン端末からでも、ヴァティカンのマザーに連絡をとることが出来る。
 尤も、追い回されるのが苦痛でカルタ・テレフォニカ(カード式電話)も持たない主義のミスティにとって、最低限の連絡事項をチェックするしか利用価値はない。規律は総て頭の中だ。
「都市コード0053」
 あの男は言った。アーチレリー・ブールヴァルドは、極めて軽薄な口調で、重大な言葉を言う。いつものことだが、何処までが嘘なのか、真実なのか量り難い。試されているような気がして、忌々しいではないか。
「都市コード0053・・・」
 同じ言葉をミスティは、口の中で繰り返す。イタリアの各都市はおろか、世界各国の都市にはヴァティカン地理院によって、任意の端末番号が付けられてている。勿論、0001はチッタ・デル・ヴァティカーノだ。4桁以上の都市は、アルファベット認識である。
「0050はポジターノ、0051はモノポリ、0052はサヴォーナ・・・」
 そして、0053はRA‐ラヴェンナ。エミーリャ・ロマーノ州の都市。アドリア海から少し内陸側に離れたこの都市で、何が起こったというのだ。
 答えは、意外に簡単に見付かった。
 西暦2201年3月21日の《世界新聞》。見出しに踊る《吸血鬼》の文字。
「17日深夜、ラヴェンナ3‐15区の公共公園内で、変死体が発見された。発見場所は公園の噴水。第一発見者は、近所を回っていた新聞配達の少年・・・。遺体の状況は、喉頭を鋭利な刃物などで抉られた模様。また、下腹部も同様にして抉られており、内臓の損傷が著しい。検死結果では、直接の死因は失血死によるものと判定された。事件性があると見られ、事件当日の目撃者を募っている。なお、男性の身元は不明」
 次を見る。翌日の新聞には、こう書かれていた。
「消えた遺体。17日3−15区公園内で発見された変死体が、ラヴェンナ市立病院の遺体安置室から忽然と姿を消した。病院側は、遺体安置室の出入りに関しては、パスを設けている為、一般外来や、外部の人間は立ち入ることが出来ないと述べており、現在原因を追求中」
 さらに5日後の新聞には、別の事件が報道されていた。
「相次ぐ変死体事件。25日早朝、7−2区ゴミ収集所で、マリア・アウラ・タンディットちゃん(十歳)の遺体が発見された。マリアちゃんは、24日に中学校へ登校したまま、帰宅しておらず、両親が捜索願いを出した矢先、25日午前5時45分頃、7−2区ゴミ収集係によって発見された。遺体は大量に失血しており、喉頭からの出血が著しいと断定された。国際警察は、17日の事件との関連性を・・・」
 ミスティは、読み進めた。
 そして、最後の関連記事4月18日分を読み終えた時、思わず嘔吐(えず)きそうになった。
 何という事件なのか。
 残虐性云々ではない。事件の扱い方が、あまりにも淡々としているにも拘らず、吸血鬼の冠を被せている。そのうえ、何の解決の記事も掲載されていない。その一ヶ月後にも、半年後にも、一年後にも。
「これは・・・」
 ミスティは、ライブラリの個室で、頭を抱えた。嫌だが、上司を問い質す必要がありそうだ。
 監視カメラが作動している。カメラに映らない様にして、ミスティは冷や汗を掻きながら作業に取り掛かった。
 IDカードに貼付された自分の網膜データを取り込み、更にパスワードを入力する。それだけでは、ヴァティカンの深遠に入ることは出来ない。ここから、ラテン語の問答を経て、枢機卿室に入室する。
「おじさま」
 ミスティは、モニターが切り替わる前から、声を出していた。
「アルテミスか。何だ、珍しい。お前の方から連絡をくれるとはな。嬉しいよ」
「悠長な事を言ってる場合じゃないのよ、おじさま」
 画面の中のグレナデン・サフィール枢機卿は、目を丸くした。姪は凛々しい眉を吊り上げている。
「何かあったのか?こちらは、猫の手も借りたいほどの忙しさでな。教皇の大叔父殿が危篤に陥っておられて・・・」
「それは御悔み申し上げますわ」
「まだ、亡くなってはおらんぞ」
 サフィール枢機卿は、溜息を吐いた。姪の短気は今に始まったことではない。実妹にそっくりだ。
「おじさま、ホンコンの近況を御存知ですか?」
「いや。特には変わりないと聞いているが」
「あ、そ」
 ミスティは舌打ちした。
「ときに、おじさま。吸血鬼を信じます?」
 だしぬけな質問に、枢機卿は目を瞬いた。ミスティは、本当のところ、返答なぞどうでも良かった。
「おじさま御幾つでしたかしら?ラヴェンナの吸血鬼騒ぎの時は」
「ラヴェンナの?」
 サフィール枢機卿は、記憶の糸を辿った。
「四十年前だな。その時は、まだ私は学者だったよ。神学生から考古学に転身して浅い頃でな・・・」
「ええ」
 伯父の若かりし頃の思い出話などどうでもいい。
「成る程、知ってらっしゃる。じゃ、その後似たような吸血鬼騒ぎはありました?」
 ミスティは、声を低くして聞いた。サフィール卿は、眉を顰めて、やや考え込んだ様子だった。画面に、蜂のようなアニメーションが乱入してきた。外線からのメールの到着を知らせるマスコットだ。公衆電話に電話を掛けるような真似をするなんて、誰か自分がこの場所に来ている事を知っている者しか考えられない。
 サフィール卿は、漸く目を開いた。
「いや、なかったと思うが」
「今後、もしあったらどう思います?」
 と、ミスティは思わせ振りな言い方をした。サフィール卿は、首を傾げた。
「何を言ってるんだ、さっきから?」
 ミスティは、画面の前で両手指を組んだまま、目を細めた。
「おじさま」
「何だ?」
「レヴェルS極秘事項に相当する事態が起こった場合の、我々特検が処置出来るカテゴリーは、何処までなんですの?」

 安酒を飲む気にもなれず、漠然と考え事をする時間ほど自虐的なものは無い。
 アーチは、アンダー・ホンコンの路地裏を歩きながら、とてつもなく風呂に入りたい気分になっていた。修道院で皆を集めて話をした後、たっぷり半日は眠った。だが、起きてみても、すっきりしない。
 まるで、自分が《PE》という化け物にとりつかれてしまったかのようだった。
「異常プリオン遺伝子を発現させるには、きっかけが必要だ」
 だが、それが見当付かないのだ。冴えない頭を振るってみても、どうにもならない。
「人間が牛を食えば、牛になるワケじゃない。体内に直接採り込んだタンパク質を、アミノ酸に分解して人体と同じタンパク質を合成するだけだ。その過程で、異常プリオンが侵入すれば、そのまま異常を複製することになる」
 アーチは初歩的なところから考え直してみた。専門家の目だからこそ、見落とすようなこともある。
「血を媒体に増殖する吸血鬼だが・・・それでは逆だ。血を吸われた側が発病するのでは、おかしい。血を吸う代わりに何かを残しているのか?」
 蚊じゃあるまいし。
「輸血というのは直接的に効果ある手段だが、そんなんじゃ生物兵器としての意味がない。地球上の人間が吸血鬼になるまで、何年掛かるんだか」
 何か他に、この土地に独特の食物でもあるのではないか。
 そう思って、町中を歩いてみたが、特別変わった食べ物があったわけではない。それこそ、脳味噌を食う習慣でもない限りは。
「何だ、何だ。何なんだってんだ。何食ったら、ああなるんだ」
 髪の毛を掻き毟りたい衝動に駆られる。こんなことは滅多にないのだが、科学者としてのプライドがそうさせるのか。
 いや、腹立たしいのは自分自身でもあり、何一つ返答をくれないヴァティカン科学アカデミーの、あの態度だ。
 カッサンドラ・ブルーネレスキ医局長とは、依然として連絡が取れない状態だった。
「医局長の折り紙付き天才を自認するというのなら、自力で解決してみろ」
 とでも言いたいのか。アーチは、力任せにゴミ箱を蹴倒した。プラスティックは粉々に砕け、中の腐乱した食物は壁に飛び散った。思わず、飛び退いたところで、誰かがアーチに声を掛けた。
「あら、おにーさん」
 飾り窓の女の一人だ。若い女の方だった。アーチは、振り返った。当て所なく歩いている間に、袋小路に突き当たったようだ。古びた煉瓦の並ぶ奥まった町並みには、夕靄が掛かり始めていた。
 女は、乾燥した肌にたっぷりと香水を振り掛けていて、一千人の人波でもその女と判別出来るくらい派手なルージュを塗っていた。腕と脚を露出した服装だ。何だか貧相な黒猫みたいに見えた。
「商売の邪魔はしないよ」
 アーチは、立ち去ろうとして踵を返した。その腕を、女が捉える。
「思いのほかいい体してんのね」
 女は笑った。アーチは、愛想笑いも出ない。
「今、ホントに素寒貧でね。悪いがキミに支払う金もない」
 アーチは率直な方便を使った。女を抱く気分じゃない、とは口に出したくなかっただけの可愛い嘘だ。
 だが、すぐに後悔はやってくる。
「お金なんて。あたい、今日は非番なのよ」
「そりゃ、悪かった。退散するよ」
 その言葉も聞かず、女は瞳を輝かせて、身体をアーチの腕に押し付けてきた。鶏ガラみたいに細い女だが、胸は大きいらしい。柔らかい肉がぐりぐりと、アーチの肘から脇腹をくすぐる。
「忙しいの?」
「・・・まあ、な」
 アーチは無碍に女を突っ撥ねる事が出来ずにいた。下手に力を出すと、女の肋骨を複雑骨折させてしまう。そうなると、大変だ。お世話しなきゃならない。お世話したらしたで、そのアフターケアがまた一苦労なのだ。色男はつらいよ、とアーチは我ながら思う。
「少しくらい、いいじゃないさ。こないだ、言い掛けた話、どう?」
「こないだ、ねぇ」
 アンダー・ホンコンに着いて直ぐの事だ。あの時は娼館のおかみが、彼女たちを呼んだので話は聞けなかったが。
「聞いてもいいかな」
「じゃあ」
 と、女は呆れるくらいにこやかな笑みを作った。商売用にしても、上出来の笑顔だ。これなら、大抵の男は騙される。
 女は、アーチの首っ玉にぶら下がるようにして、背後から抱き付いた。誰も、咎め立てする者はいない。心地良い弾力がアーチの背中に当たる。
「いい匂いがするわ、あんたも」
 女の熱い吐息が耳朶に掛かる。くすぐったいので、アーチはさりげなく引き離そうとしたが、女は察してくれない。女は、人通りが殆どないのをいいことに、大胆にもアーチの耳たぶを舐めた。猫のようにざらついて、それでいてねっとりとした熱い舌だ。
「あんたも?」
「あんたがこの町に来る少し前にさぁ、旅の男があたいを買ってくれたのよ」
 女は、いささか興奮気味に言った。
「その男もあんたに似て、いい匂いがしてたわよ」
 アーチは、目を瞬いた。
「黒い服の男だったか?」
「そうだけど。何で知ってるの?」
 アーチは、さりげなく通りを見渡した。入り組んだ、古煉瓦の壁際から、長い影が伸びる。アーチは、無意識に白衣の下に右手を入れた。次のアクションで《キングコブラ》のフロントサイトは鼻先に見えるように。
 ズチャ。
 と、重い音を立てて《キングコブラ》が抜かれた瞬間、アーチは思わず半開きの唇の形のまま、息を呑んだ。
 薄汚れた路地にはおよそ似つかわしくない空気が、人の形をして立っていた。
 ミスティ・サファイアが、微風に撫でられるブルネットの乱れも気に留めず、左手を挙げてアーチを見詰めていた。無論、鹿皮の手袋に包まれた左手に握られているのは、守護神《パイソン・シスタームーン》だった。
 ごく普通の小市民なら、少なからずこの女巡検使の特別な雰囲気に気圧されるだろう。何しろ、相手は神の裁きを代行する執行官、しかも生まれながらの貴人なのだ。
 だが、銃を向けられた相手はいっかな驚かなかった。
「よせよ・・・」
 アーチは、困惑した声でその一言だけを呟いた。
 銃声が発せられる前に、アーチは耳を塞いで腰を屈めた。まともに、銃弾が耳元を掠れば、そんなものでは何の慰めにもならないのだが、この男の場合はちと違う。鼓膜がびりびりと震え、暫くは右耳が聞こえない状態だけで済むのは、強化人間の面目躍如だ。
「・・・ああ、びっくりした」
 アーチは這い蹲ったまま、顔を上げた。既に目の前には、女巡検使の姿がある。軍用コートの下から、自信に溢れた見事なプロポーションが拝める按配だった。女巡検使のスタイルは、シチュエーションに関係なくいつも扇情的だ。
「都合よく現れてくれたんじゃなくて、ずっと見てたのか」
「当然」
 ミスティは、冷めた視線でアーチの背後を見ていた。
 そこには、飾り窓の女の屍が転がっていた。額のど真ん中を撃ち抜かれている。貫通したマグナム弾は、何処かへ消え失せていた。血や脳漿は殆ど飛び散っていない手際の良さ。これほど正確な射撃は返って残忍というものだ。
 ミスティは、女の死体の上に屈み込んだ。真っ赤な唇をこじ開けるまでもなく、タバコで黄ばんだ歯が覗いた。
 犬歯の二本が異常発達していた。まさしく、吸血鬼そのものの形相だ。
「しかし、撃つ前に言ってくれよ」
 アーチは、右耳を押さえて、ミスティの顔を覗き込んだ。
「首筋に噛み付かれてから『撃つわよ』って言うのね。今度からそうするわ」
 ミスティは、眉一つ動かさずに言った。何がいけないのか、ひどく機嫌が悪いらしい、とアーチは覚った。
「・・・で、オレのメールは読んでくれたのかい?」
「だから降りて来たのよ」
 ミスティはつっけんどんに応える。広報局で受け取ったメールの内容は、ミスティの予想以上に衝撃的な事実を示していた。到底自分一人の手に負える事ではない。それは、アーチにとっても同じ事が言えた。
「気味が悪いったらありゃしないわ。何が《・・・貴女の情けは小生一生の輝石》なのよ。大笑いだわ」
 ミスティは、自分で言って顔に血が上る思いをした。アーチがよこしたメールは、始めは兎も角、最後は読み返す気にもなれない、こっ恥ずかしい口調で結ばれていたからだ。しかも、普通は手紙に使わない、ごく緊密な間にだけしか用いない二人称を使って。
「オレの偽り無い、本当の気持ちさ」
 アーチは自分の胸に手を当てた。
 大袈裟もここまで来ると滑稽を通り越している。普通は笑い飛ばすか、本気になって上せるかだ。いずれにしても、女心のつぼを知り得た手口であることには変わりない。馬鹿馬鹿しくて、無視も出来ないから付き合ってやるだけだ、とミスティは自問自答した。伯父貴の命令でなければ、果たしてどうだろう。
「でもまさか、ここまで吸血鬼が来ているとはね」
「初めは、このアンダー・ホンコンからなんだ」
 女の死体が冷え切っていく様をいつまでも見ているワケにはいかず、アーチは不承不承背中に担ぎ上げた。
「どういう意味?」
 ミスティは、《パイソン》をホルスターに仕舞いながら、アーチに問い掛けた。
「つい、今しがた、《PE》の媒体が判った」
 アーチは、静かに言った。
「異常タンパク質やウイルスを食物や空気感染以外で他人の体に摂取させるには、どんな方法がてっとり早いと思う?」
「血液感染」
「見ず知らずの健康体の他人に輸血出来るか?」
 アーチは肩を竦めた。そして、唇に皮肉めいた微笑を浮かべた。
「病院でオレがキミに何か言ったっけ?」
 そう言われて、ミスティはすぐに思い当たる事に突き当たった。
「・・・吸血鬼のナニを飲んだら、自分も吸血鬼になるってこと?」
「ナニって何だよ?」
「アナタ、そんな事言わせる為に私に話を振ったワケ?精液に決まってるでしょ。精液。幾らでも言ってやるわよ」
「そんなヤケクソにならなくてもなぁ」
「精液から感染するんでしょ。精液から」
 アーチは、苦笑した。幾ら学術的な話をしていても、余り居心地のいい対話ではない。
「ドミナント・ネガティヴ作用。男女問わず、体液に含まれた微量なタンパク質は、ヒトの最も傷付きやすい粘膜を通して血液中に侵入する。律速酵素に反応して、感染性プリオンが正常プリオンにぶつかれば、将棋倒し式にすべてが異常プリオンに置き換わる仕組みだ」
「よく出来た話ね。食べ物は人種によって好みがあるけれども、セックスの嗜好は人種間に無関係だわ。人間は他の動物と違って年中発情しているようなもの。アナタのような、来る者拒まずタイプは覿面、吸血鬼の餌食というワケね」
 ミスティは、嫌味に聞こえないようにさらりと言った。
「誰が考えたの?こんな恐ろしい生物兵器を」
 アーチは、ミスティの瞳を見た。黒い瞳孔が翳り始めた夕空に曇って見えた。
「ジャック・フィリップ・ブールヴァルド。・・・オレのオヤジだ」

第四章へ続く


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