第六話
〜シルヴァー・アイズ・アンダー・ザ・ムーン vampiro del HongKong〜
(後編)
第四章 NOBODY CAN MAKE SAME DAYS 夜はやさし
「正確に言えば、《PE》は、オレのオヤジが所属していたユーロ総合科学研究所所属、生物工学研究所のプロジェクトチームが極秘裏に開発していた生物兵器だ」
アーチは、温められたワインを飲みながら、窓を眺めた。
ユーロ総合科学研究所は、かつてスイス連邦のジュネーヴにあった機関。ヨーロッパの名だたる人文系、理工学系の学者数千人で構成された、巨大研究所だった。
「プロテオリシス・システム・プロジェクトチームは、《ジェネトン》という、フランスのゲノム計画の総本山を前身に持つ。そのグループの一員がオレのオヤジだ。専属の研究員は、自分の研究だけでなく、複数のプロジェクトに嘱託の形で参加している。プロテオシリスは「タンパク分解」を意味する。タンパク質分解のシステムを、人間に限らずあらゆる生命体において解明しようという計画の研究班だな」
半分ほど中身の減ったワイングラスを、パルメット・ソノーラは見詰めた。アーチの頬は心なしか血色が良く、ランプの炎に照らされていた。
「どうして、生物兵器など・・・」
ミスティは、言い掛けてやめた。愚問だと感じたからだ。状況は現在と違う。四十年以上も前の話だ。第三次大戦後の余韻が残っている時代のことだ。今よりあからさまに兵器開発が行われていたことは、当然なのだ。
かくいう強化人間も、元々は生物兵器の延長線上に作られたものなのだ。そのことは、痛い程アーチが判っている筈だ。
「研究所は、いろいろあって、解体後各機関に統合された。ヴァティカン科学アカデミーが大半を吸収したというわ」
ミスティは、手ずからワインをグラスに注いだ。先刻から殆ど一人で飲んでいる。だが、顔色一つ変わっていない。
ユーロ総合科学研究所の解体は、様々の原因を含んでいる。が、その最も大きな要因はジェノサイド条約の改正からだ。
当時の教皇クレメンス21世は、ユリウス11世の提唱した科学撤廃主義に基づいて、ジェノサイド条約改正を国連に提唱した。これが、後に《セヴンス・ジェノサイド条約》と呼ばれる、第七次《集団殺害の防止及び処罰に関する条約》である。
二十世紀半ばに国連で採択された《集団殺害の防止及び処罰に関する条約》から約百五十年後に制定された国際条約。
世界は紛争と大規模な戦乱の度にジェノサイド条約を改正してきたが、この回で、更新されたのは、集団虐殺使用目的で開発された兵器の撤廃、回収、製造禁止をAランク(民間標準生活区域)まで広げたこと。
「ヴァティカンは、そこで徹底的に人類を脅かす兵器の数々を封鎖する為に、研究所を取り込んだ筈よ」
「それは建て前ってものだぜ」
と、アーチは言った。長い脚をソファに投げ出す。その向かいに座っているソノーラとミスティにはお構いなしだ。まるで、安宿に泊まっているかのようなアーチのくつろぎっぷりに、ミスティは半ば呆れていた。
「事実、オヤジは防衛生物工学と称して、研究所時代と同じような研究に従事していたみたいだしな」
まるで他人事のように、アーチは言い、ワイングラスを揺らす。唇に薄い笑みが浮かんでいる。
「キミはオレよりも上層部にずっと近い筈だが、何も知らないんだな」
「当たり前よ。私は内部のことなんて知らない、一執行官よ」
ミスティは腕組みをした。その言葉は嘘ではない。
アーチは、瞳だけを泳がせて、ミスティの不機嫌そうな表情を盗み見た。
「尤も、何も知らされないということには、二つの意味があるけどな・・・」
「どういう意味よ?」
今にも食って掛かりそうなミスティを制止したのは、ソノーラだった。
「まあ、落ち着け。今はそんなことで言い合ってる場合じゃない。こうしている間にも、吸血鬼は増えているかも知れん」
ソノーラの言は的確だった。
「・・・それもそうだわ」
ミスティは、一応の落ち着きは見せたものの、腹立ち紛れにもう一杯、くいと飲み干す。空のボトルが三本になった。
「で、アナタ。吸血鬼の正体が《PE》と判ったのなら、対処方法はあるんでしょうね?」
「いや」
アーチは、間髪入れず答えた。ソノーラはミスティの顔を見る。予想通りの答えしか返ってこないことに、ミスティは失望を隠せない。
答えが変わっていれば、そう、アーチはさっき飾り窓の女を庇った筈だ。殺さずに済んだ。
DNA操作で完治する遺伝病とは異なるプリオン病は、薬物投与が出来無い。予防手段はあっても、現実に完璧な治療は施せないのが事実だ。
タンパク質を変性させるには、アルコールやフェノールで充分と考えられるが、異常プリオンはホルマリンに漬けてさえ感染性を残す。現在判っている有効な除去方法は、塩素漂白で、あとは焼却しか手立てがない。
タンパク質合成・分解過程に関与する、プロテオリシス酵素が人工的に作られたものの、それも功を奏さなかった。本来は、《PE》はクロイツフェルト・ヤコブ病などの治療用プロテオリシス研究過程で出来た副産物なのだ。
「プロジェクトチームは、その治療方法を解析し切るまでの結果を出していない。単なる副産物だから。人殺しの道具は、それ以上の役目も必要無いしな。だから、封印されたと考えるのが妥当じゃないか」
アーチは、瞼を閉じた。
「だからといって、再び開けられた《開かずの箱》の始末はどうする?」
ソノーラは、黄ばんだ白目を剥いた。アーチは、鳩尾の辺りで両手を組んだまま、無表情に瞑想に耽っていた。
「誰が開けたかも判らないものを、か」
そんな事はおおよその察しはつかないでもない。ヴァティカンの深部を知っている者か、アカデミーの関係者か、二重スパイか。或いは外部の人間かも知れないが。目的もそれによって違うだろう。
「誰がどうだなんて、そんな事をあれこれ考える暇があるのか?ホンコン中焼き打ちして回るのか?」
「それじゃ中世に逆戻りだな」
アーチは、漸く重い瞼を上げた。ソノーラの目付きは、据わっていた。怒りを露わにしているというよりは、尋常の域を逸脱しているかのように見えた。アーチは、ふと女医ホリー・ディプシーのエキセントリックな瞳の輝きを思い出さずにはいられなかった。
狂信者とまではいかないが、何か自分の考える正義とか快楽とは違った範疇を、彼らは持っているのではないか。彼らの言う組織とは、何なのだろう。単にジェノサイド条約違反を告発する仕事のみで、やっているとは思えない。
「オヤジの作ったものだからって、オレが面倒見る義務なんてないぜ」
と、アーチは言いたかったが、やめた。女巡検使はこういう話題には無慈悲なくらい冷徹かもしれないが、ソノーラに向かって言ったひにゃ、どうなることか。アーチは直感として、そう悟った。
「しかし、止むを得まい。そうするしかなけりゃ、そうするさ」
「言って置くけど、私にその権限は無いわよ」
ミスティはすかさず反応を示した。
アーチは、グラスを持ったまま、音も無く立ち上がった。ソファの背凭れに腰を掛け直す。目の前の二人に気を遣って殊勝な態度をとるつもりは、毛頭ないらしい。
「一つだけ、言えることがある」
そう言って、アーチは不躾な視線を、ミスティの胸元に送った。
「異常タンパク質が正常タンパク質の作用を消してしまう、ドミナント・ネガティヴは、すべての人間に起こるとは限らない」
「感染したからといって、発症するとは限らないということ?」
「そう」
アーチは、温くなってしまったワインを干した。ソノーラもミスティも、同様に耳を澄ましている。普通、臨床医でこういうドラマティックな話し振りをする人間には滅多とお目に掛からないものだ。
「タンパク性感染粒子、つまりプリオンは外来性の物質ではなく、我々ヒトが持つ普遍的タンパク質だ。プリオンはウイルス同様種を選ぶ。例えば、ネコの感染性プリオンを人間に接種しても発病するとは限らないが、同質のプリオンを人間にあらかじめ接種しておくと、必ず発症する。また、同じネコでもプリオンを作らせない状態・・・ノックアウト状態にすれば発症はない」
アーチは、グラスをテーブルに置いた。長い手指の動きが流麗な線を描く。
「早い話が、プリオンをどの程度初めから持っているかが、発病の決め手だな。ユーロ総合研究所が開発していたのは、プリオン・ノックアウトを人間に適応させる治療法だ」
「ならば、その研究を何処か他の組織が継続しているんじゃないのか?」
ソノーラの言葉に、アーチは首を横に振った。
「プリオンは種を選ぶと言ったろ。アルツハイマーやクロイツフェルト・ヤコブ病に関する治療法は確かに上層都市ではほぼ完成なされているが、《PE》は未知の病だ。《PE》に対応するプリオンのみを死滅させる方法は誰も知らない。仮に、判ったからといって、直ぐに治療は出来ない」
アーチは、腕組みをした。窓の外は、暗闇が支配していた。月も出ない夜。薄墨のような雲が流れていく。風の音だけが、立て付けの悪い窓を揺らしている。
ミスティは、悲観的にアーチの顔を見た。次の句を待っている。
「・・・何故なら、プリオンは人間の身体機能に関わっているタンパク質だからだ。プリオンを総て無くしてしまった結果、どうなるかはまだ判っていない。未知の領域だ」
アーチは、掌で顔を拭った。
「そんなものをどうやって治療出来る?」
流石にお手上げだという表情で、アーチは二人を見返した。しょぼくれた喪家の犬みたいな目付きに、ミスティは一瞬心動かされた。この傲慢な男でも、こういう表情をすることがあるのか。
「・・・オレには判らんな」
ミスティは立ち上がった。
「何言ってんの。アナタ以外にここの誰が判るって言うのよ」
ミスティは、我知らずテーブルを跨いで、アーチの白衣の襟元を掴んでいた。素手の女、しかも妙齢の美女に似つかわしくない力強さだ。
「なっさけない!それでヴァティカン科学アカデミーの一員なワケ?十六歳で博士号を取ったなんて大ぼらなんでしょう?大抵、あのオバサンと寝て、ちやほやされてるってだけね!」
ソノーラも目を剥く勢いで捲くし立てる。ワインの芳香がアーチの鼻先で芬芬と漂う。毒舌の香りがこんなに良いものとは。
「オ、オバサンって誰だよ」
「医局長に決まってるじゃない!」
サフィール枢機卿とブルーネレスキ医局長のそりが合わないのは、ヴァティカンでも知れ渡った事実である。実の姪が医局長に偏見を持っていても無理からぬことだった。
暫く、ミスティはアーチの驚いた表情を見ていたが、溜息を吐くと、腕を下ろした。
「アナタに答えを求めようとした私がおバカだったのかしらね」
そう言って、大股で両開きのドアへ向かう。
「何処へ行くんだ?」
ソノーラが声を掛けた。
長いブルネットを背中に撥ね退けて、ミスティは振り返った。見る者をぞくりとさせるような眼差し。青い炎を点した瞳。仄かに赤みを増した口唇が開く。
「上に戻るわ」
アーチは、ソファに腰掛けたまま茫然としていた。
「媒体は黒ずくめの男」
と、ミスティは呟いた。
「アストリアを誑かしたのもその男なら、街娼を買ったのもその男。男を殺るしか手はない」
バタン。ドアが開き、そして閉まる。風の出入りだけが虚しく余韻を残した。
靴音が遠ざかってから、ソノーラは頭を掻いているアーチを見遣った。
「女を怒らせるのが趣味か?」
「オレ的には、怒りっぽい女に関わるのが趣味みたいだ」
と、アーチは溜息混じりに答えた。ソノーラは真面目な顔付きを崩さなかった。
「彼女を一人で戻していいのか?」
ややあって、アーチは顔を上げた。微妙な笑みが浮かんでいる。
「ああ」
アーチは、自信に満ちた笑みをソノーラに見せた。
「少なくとも、彼女にレズビアンの気がなけりゃ大丈夫さ。それに、並みの人間じゃ《銃王》の称号を持ち、軍隊経験のある彼女に敵う者はいまい。男はいやしない。男じゃないんだ」
「どういうことだ?」
「病院にいた黒ずくめの男の正体は、女」
アーチは静かに立ち上がり、踵を窓の方向へ回した。
「赤毛の若い女だった・・・」
ソノーラは瞠目した。葉巻を拾い上げた手が、所在無く揺れていた。
打ちっ放しのコンクリート。冷え冷えとした空間を、螺旋状の階段が取り巻いている。
ミスティ・サファイアはコートの内側に隠した《パイソン》に左手を伸ばす。
不愉快だ。アーチレリー・ブールヴァルドは、自分から助けを求めておいて、目の前でのうのうと匙を投げ付けた。それで、腹立ち紛れに戻って来た。だが、よく考えてみれば、自分のそういう性格を上手く利用されているのではないか、という気がする。それが、不機嫌の理由だった。
サンタ・ルフェーブル病院に行くと、騒ぎは嘘のように鎮まっていた。血糊がべったりとついた廊下のリノリウムは、この前と違って、すっかり張り替えられていた。
受付嬢は、相変わらず無愛想にミスティに言った。
「517号室の患者さんなら、一昨日退院してます」
「面会謝絶の怪我人だった筈よ」
受付嬢は、三白眼でミスティの美貌を睨み付けた。美人には容赦ないといった風情だ。
「一人で退院したの?」
「いえ。女の方が一緒でした。その女の方が手続きを済まされましたから」
「それって、髪の赤い、派手な服装の女ね?」
受付嬢は、またミスティを睨んだ。平べったい顔の造作をした受付嬢にとっては、ミスティ・サファイアも充分派手に見える。鹿皮のボディ・スーツを窮屈そうに押し上げている胸元も、単なる嫌味ではないかと思うのだ。
「ええ」
それから、またミスティは受付嬢の不機嫌な受け答えに我慢しなくてはならなかった。女の素性を知るには、支払い時のIDカードの番号を聞き出し、名前を教えて貰うしかない。
「マルド・スタウト。住所はヴィクトリア・ストリート5区23番地6号」
金バッヂの威光を元に聞き出した情報はそれだけだった。
ともかく、ミスティはスレイプニルを路上駐車して、このビルディングに入った。
住人は他にいないのだろうか。昼間だというのに、余りにも静かだ。だが、ミスティは堂々と階段を下りていく。恐いもの知らずの子供みたいに。重い鉄扉を引くと、さらに半地下へ向かう階段があった。漸く、人間の住居らしい雰囲気がしてきた。
「誰かいるの?」
ミスティは、低い声を絞り出した。
扉には表札も掛かっていない。ノックしても、返答はない。ドアノブは、回せば簡単に反応した。留守にしては無用心だ。
「入るわよ」
薄暗がりには、寂しい居住空間があった。家具らしい家具はあるものの、生活感に乏しい環境だ。ミスティ自身は、それを余り不自然だとは思わない。定住する生活というものに慣れていないからだ。むしろ、温かい居住空間の方が、違和感を感じる。
居間を通り抜け、キッチンを見渡す。が、人の気配は皆無だ。テーブルに載った小さな食器を見ると、子供がいる家庭であることを彷彿とさせた。
寝室のドアが半開きになっている。
ミスティは、《パイソン》を抜いた。ハンマーを落とし、ドアを右手でゆっくりと押し開ける。途端に、生ぬるい空気がミスティを包んだ。香水の残り香と、汗の匂い。明らかな情交の痕跡を思わせる匂いだった。内側に開いたドアの向こうに、ベッドが見えた。クローゼットの前には、ロング・ブーツが脱ぎ捨ててある。そして、ベッドの膨らみに近付く。
「ジン!」
ミスティは、覚えず声を上げた。シーツに包まっていたのは、ジン・スティンガーだった。
「何してんのよ」
ミスティは、ジンの頬に平手打ちを食らわせた。
「うう・・・」
ジンは、シーツを撥ね退ける。
「ダメだ・・・オレ。もう出来ねえよ」
「な、何言ってんの!」
「・・・もう出ねえって」
「バカ」
もう一発、ミスティの平手打ちが決まったところで、ジンはぱっちりと目覚めた。
「悪いけど、今の私にその気はなくてよ」
ミスティは《パイソン》の銃口を突き付けたまま、ジンを睨め付けた。
「・・・うーん」
ジンは、気怠い身体を引き摺るようにして、上半身を起こした。シーツの下は生まれたまんまの素っ裸だった。
薄暗い部屋にいた為に、時間すら判らない。覚えているのは、マルドの香水の匂い。何が何だか判らないまま、殆ど朦朧とした頭で、マルドと寝た事しか判らない。まるで夢のようだった。記憶の欠落が激しい。
自分の身体であるのに、他人の身体のように感じた。尤も、他人の身体になんか入ったことはないが。
「随分頑張ったワケね。で、女は何処?」
ミスティは問診でもするみたいに、抑揚の無い声で言った。ベッドの脇に備え付けられたゴミ箱の中や外にに、使用済みの紙屑が散乱している。あまり、時間が経ってしまってから始末したくない代物だ。
「女?マルドの事か」
ジンは自分の顎を撫でた。髭が伸びてきている。
「知らない。寝てる間にどっか行ったみたいだな」
「悠長な事ね」
ミスティは《パイソン》を下ろした。小汗を掻いたらしく、無意識に胸元のジッパーを下げる。
「あんたこそ、何しに来たんだよ」
ジンは、言いながら、反射的にミスティの胸元を気にしてしまう自分の浅ましさを呪った。若いということは、愚かだ。
「黒服の男を探しに来たのよ。吸血鬼」
「吸血鬼、ねえ」
ジンは口元をだらしなく緩めている自分に気付いた。ミスティは、唇の端を吊り上げて、妖艶な笑みを作った。
「アナタを狙ってるっていうのなら、せいぜい役立って貰わなきゃね」
「え?ど、どういう事だよ」
「言った通りよ。囮になって貰うわ」
ミスティは、ジンの腕を引っ張り上げた。力が入らないジンは、引き摺られるまま、ベッドを転がり落ちた。
「お、囮って何なんだよ!」
ジンは、シーツを抱えたまま、引き摺られていく。
「せめてパンツくらい穿かせてくれよ、おい!」
ミスティは、途端に手を離した。どっ、と床に倒れ込むジンに、ミスティは無造作に脱ぎ散らかした衣服を投げ付けた。これがお嬢サマのすることか、とジンは思ったが、相手は反論の隙も与えない。
仕方なく、ジンは芋虫みたいに這い蹲ってトランクスを穿き、ブルージーンズを穿いた。身支度の早さは、旅慣れた所為だ。あっという間に革ジャンを羽織ると、ジンは大声を上げた。
「ない!!」
「何よ」
「・・・《ブラックホーク》が、ない」
唖然としたのは、ミスティの方だった。ジンはガンベルトを手にしたまま、ミスティの顔を見遣る。
その時、音もなく寝室のドアが開いた。
葉巻の甘い香りが、部屋中に充満していた。アーチ自身はシガレットの匂いはあまり好きではないが、葉巻の匂いは嫌ではない。
ソノーラは、品の良い葉巻の香りを愉しみながら、真面目腐った顔で考え事をしているらしかった。
「女が五階の窓から飛び降りて、平気。しかも、オレを上回る瞬発力で駆け出した。初めは、どういう事だか理解出来なかったがな」
と、アーチは言い、モバイル・パソコンを立ち上げる。
暗闇でも目が利くアーチは、一心不乱で逃げる女を追いながら、帽子の中からはみ出た赤く長い髪の毛を見た。勿論、髪の色や長さだけでは男女の別は判りかねる。しかし、髪の1本、血液の一滴でも採取出来れば、正体は掴めるのだ。アーチの科学者としての探究心は、運動能力に勝っていた。
逃亡する側は、街中を知り尽くしていた。
これが、外部の人間なら知る筈もないというところへ逃げ込んでいく。追うのに必死だった。相手がインバネスを引っ掛けるまでは。
何も塗られていない裸の壁から飛び出した一本の釘が、黒い外套を引き裂いた。その時、アーチが暗闇で見たのは、女の顔だった。若い赤毛の女。汗に濡れた女の顔は、何かに怯えているように見えた。
女にも見えていたのだ。暗がりの中で、アーチの姿がはっきりと。
だから怯えたのか。自分を追って来る事が出来る人間が存在する、という事に対して。アーチは、女を追うのを止めた。その後、直ぐにソノーラが駆け付けたのは、言うまでもない。
「どうも、新聞記事なんかを分析してみても、《PE》は一時的に身体能力を上昇させる作用があるらしいな。フォーティファイド並みに」
アーチは、信じ難い事実を淡々と述べる。
「理由は判らない。プリオンの作用だろうが、その代償として人間の血を欲するようになる」
「その女が吸血鬼だとしたら、男の方は?」
「半分、用済みだな」
アーチは、言った。梳っていない金髪を掻き揚げる。
「黒服の男は女に感染させるだけの役目だろう。女のほうが性的にタフネスがある。まして、セックスを生業にしている女に感染していたなら・・・」
「むう」
ソノーラは唸った。
「病院に出た連中は、皆あの女の客か?」
「さぁ。病院というところは、ある意味孤島のような環境でね。内部の人間関係が実に濃密だ。一人の人間が複数の異性と深い関係を持っていても別段、どうということもない。オレはあまり内々でドロドロやるのは好きじゃないがな」
アーチは答えた。
「取り合えずは、身持ちの固い人間が多い事を祈るよ」
アーチは、パソコンを操作しながら絶望的な事を言った。ジンがいたなら、「お前にだけは言われたくないや」とでも切り返しただろう。
「だが、吸血鬼がフォーティファイド並みだというのなら、それでは、女と遭遇した時、ミスティ・サファイアでは敵わないじゃないか」
「そうだな。素手ではな」
あっさりと答えるアーチに、ソノーラは首を振った。
「何て男だ」
「何とでも言ってくれよ」
アーチはそう言って、ソノーラの方に振り返る。
「オレは彼女の腕を信じている。パウダーガン使いとして一流のな」
「・・・・・・」
ソノーラは、開きかけた唇を引き結んだ。アーチは、笑っていなかった。伏目がちにソノーラの手指を見詰めている。長い睫毛が小刻みに痙攣しているのを、ソノーラは見て見ぬ振りをした。この男なりに、何かに緊張しているらしい。含む意味は多いだろう。しかし、ソノーラはアーチの複雑な表情の真意を、理解する気は無い。
「オレはもう一仕事しなきゃならんからな」
と、アーチは言い、静かに机に向き直った。
「あんたが戻らないのなら、私は行く」
ソノーラは立ち上がった。軍隊上がりの作法だ。背筋が正しく伸びていた。
部屋を出て行こうとする、パルメット・ソノーラに、アーチは声を掛けた。
「自力でフィルム・チップを捜すのか?」
「あんたが金儲けする気を無くすまで待ってたんだが、くたびれたよ」
ソノーラは、そう言って背を向けた。
「おい、判ってんのか。ジンの居場所」
アーチは廊下に出た。だが、ソノーラは既に廊下の角を曲がった後だった。アーチの声は、虚しく廊下の壁に跳ね返って谺しただけだった。
「何やの?大きい声出して」
ピーチィが、向かいの部屋から顔を出した。内職の最中だったらしい。電磁波遮断ゴーグルを掛けていた。
「二人共うえに戻ったって?ふん、静かになった思うたら。・・・やれやれ、せいせいしたっちゅう感じ」
「お前、やなガキみたいなこと言うなぁ。そんなに嫌わなくてもいいだろ」
「ほっといてんか。あんたこそ出来の悪い相棒の心配したらどないやのん?」
ピーチィは、いつになく不機嫌で、容赦の無い悪態を吐く。
「忘れてた」
アーチは、舌を出した。
「あいつ、何やってんだろうな・・・?」
「おいおい。お守り役」
ピーチィは、本気で呆れ果てた。
それが《ブラックホーク》の銃口だと判るまでに、ジンはたっぷり十秒は掛かった。
更に、リヴォルヴァーを握っている人間を判別するのに五秒。そして、息を吐く。
逆光に映し出された女の赤毛は、禍々しいまでに燃えていた。初めて見た時のような明るい赤ではなく、血塗られた黒い赤。マルド・スタウトは凄絶な美しさを湛えていた。
「マルド・・・」
ジンは掠れた声を絞り出す。マルドは、黒いインバネスを羽織っていた。それが、総てを物語っていることに、ジンはまだ気付かなかった。
「目が覚めたのね」
と、マルドは静かに言った。ジンの顔を見ているようで、もっと遠くを見ているような青い眼。ジンの前にいる、女巡検使の存在など初めからないもののように、マルドは《ブラックホーク》を両手で構え、銃口をジンの鼻先に向けていた。
「アナタ・・・」
ミスティは、マルドの顔を見た。狂気に駆られた表情ではない。だが、尋常ではなかった。
「どういうつもりなんだよ!」
インバネスを撥ね上げたマルドの衣服の前は、血糊がべったりとついていた。白い鎖骨の辺りから、胸元全体に掛けてだ。
「その血は・・・」
ジンは丸腰であることを忘れ、マルドに歩み寄ろうとしたが、ミスティの右腕に押し留められた。マルドは、唇を歪めた。
その瞬間、漸くジンは病院で自分を襲った男の正体を悟った。
そうだ。幾ら何でも都合が良すぎる。自分が何処の病院に担ぎ込まれたかなんて、直ぐに判るもんじゃなかったのだ。しかも、狙われた翌日に退院させるなんて。おかしいことだらけだったのに。
「判ったでしょ」
マルドはぽつり、と呟いた。
「あたしは最初っからあんたに近付くのが目的だったのよ」
「酒場にいた時からか?」
「そうよ」
マルドは苦笑を押し上げた。
「・・・男に」
聞き取りにくい声だった。
「ある客の男に言われたの。300万ダッシュ払うから、ジン・スティンガーという男に近付いてくれ、とね」
300万ダッシュといえば、子持ちの街娼にとってはかなりの大金と言わざるを得ない。ジンは、ぼんやりと口を半開きにした自分を戒めた。
「それと、今の状態と何の関係があるんだ!」
「さあ」
マルドは首を傾げた。
「男は最初、自分であんたを殺る気だったみたいよ。少なくとも、ここの路地裏であんたを撃った時はね」
「だから、男は何者なんだ?」
ジンは、焦慮を隠せずに言った。
「知らないわ」
マルドは、一歩ジンに近付いた。
「あんたが病院に担ぎ込まれた後、男が来たの。『俺は用済みだ。お前がフィルム・チップを盗んで届けた後、ジン・スティンガーを殺れ』とね」
「・・・・・・」
沈黙が流れる。
マルドは、唇の端を戦慄かせた。微妙な表情の変化に、ジンは目を見張った。話がまったく見えて来ない。だが、目の前の若い女の表情は、嘘偽りではない。
「もう遅いわ」
マルドは呟いた。
《PE》に罹患した人間が、一時的に身体能力を向上させてしまうカラクリは、コネクチンとカルパインにある。
アーチレリー・ブールヴァルドはそう予測を付けていた。分析開始約25時間の結果としてである。
コネクチンは、筋肉に存在する弾性タンパク質のことである。筋肉がアクチンとミオシンの二つのタンパク質の相互作用で収縮することは、誰もが知る仕組みだ。
だが、そのアクチンとミオシンをオーバーラップがなくなるまで引き伸ばしても、まだ弾性が残る。そこから、発見された弾性フィラメント(繊維状物質)が、巨大タンパク質コネクチンだ。
そして、そのコネクチンに結合するタンパク質が、カルパインP94。
カルパインというタンパク質は、カルシウム依存性プロテアーゼ(タンパク質分解酵素)であり、細胞内に普段じっと潜んでいる。通常の状態ではほとんど機能していない物質である。ところが、何らかの細胞外の情報が細胞内に届くと、忽ちのうちに活性化され、タンパク質を分解する。
細胞の外には、普段細胞液という液が充満していて、細胞はそこから栄養分を貰っている。
恰も、細胞液は血液から血球成分を抜いたものに似ているのだ。
だが、いったん筋細胞膜が壊れると、細胞液から直接カルシウムイオンが細胞内に流入してくる。しかも、このカルシウム濃度は細胞外と細胞内で一万倍も差がある。無論、細胞外が濃度が高い。結果的に、このカルシウム流入によって、細胞内の筋タンパク質が破壊されてしまうのだ。
そのタンパク質破壊の張本人がカルパインというわけである。
「漸く会議が終わられたんですね」
と、アーチはストレートな皮肉を言ってみせた。
パソコンの画面には、血色の悪い中年女の顔が映っていた。いつもの大輪の向日葵のような明るい美貌は、何処かへ押しやられてしまっていた。
カッサンドラ・ブルーネレスキ博士は、愛想笑いもなく頷いた。
「あなたの嫌味も精彩を欠いてるわよ。ドットーレ・ブールヴァルド」
こういう他人行儀な口調の医局長は、大抵男に振られて自棄酒を飲んだ後か、飼いネコが戻って来ないとかいうパターンの時が多いみたいだ、とアーチは分析している。
「・・・教皇の大叔父がお亡くなりになったわ。昨晩ね」
「判っていますよ。でも、こちらはもっと最悪な状況でしてね。大司教お一人に二日間を裂くのなら、こちらは丸々一月は使わなければならないところです」
我ながら冴えない台詞と思いつつ、アーチは言った。
「《PE》のことね」
「経緯はどうでもいいんです、今は。解決法が知りたい」
アーチは、パソコンのキーボードを探りながら、画面を見詰めた。カッサンドラ医局長は、長い溜息を吐いた。
「極秘事項ファイルにも治療法は載っていないわ」
「それも確証済みです」
「なら、私に聞いてもムダではないのかしら?」
いつになく冷たい口調だ。睡眠不足が続いている所為もあろうか。
「あなたの御知恵をお借りしたかっただけです、医局長」
「悪いけど、今の私に余力はないわ」
即答が返って来た。だが、本当にアーチの相手をする気がないのではない。彼女は事実の心境を述べているまでだ、とアーチは判断した。まだ四十代初めの若い女医局長にとって、この二日間のどたばたは、心身ともにこたえたのだろう。
「解決法が無い筈はない。オヤジがそんな中途半端を許したとは思えない」
アーチの言葉に、カッサンドラ医局長は一瞬目を見開いた。
それとも、解決法は存在していたが、敢えて誰かが握り潰したのか。人間の心は兎も角、病原という入り口がある以上、出口がないなんてことは有り得ない。アーチは、自信を持ってそう言えるのだが、今のところアテはなかった。
「カルパインは気質特異性が高い。特定のタンパク質しか分解しないプロテアーゼ。P94はコネクチンのみを分解する。分解のきっかけを作るのはカルシウムイオンの流入。筋細胞膜破壊を齎すような動きをすれば・・・いや、壊れやすくすればいい」
その前に、脳内に蓄積したプリオンが空胞を作り、神経細胞を圧迫するのだとしたら、それは特異性を帯びている。運動中枢に蓄積するのだ。
「火事場のバカ力」ということがある。
普段我々は無意識に筋力をセーブして動いている。恒常性の一種だが、脳内でコントロールされて、筋肉は使われているのだ。外的要因などにより、そのコントロールの箍が外れることによって、「火事場のバカ力」は発揮される。
所謂、自分の数倍もの重さを持つ家具や機械を持ち上げてしまうのも、本来は個人の筋力で耐えられるものなのだ。だが、毎回階段を昇降したり、物を動かすのにそれでは、伸縮や老朽に耐えかねた筋細胞の生成が追いつかない。それで、一度に出せる筋力は限られているのだ。
「例えば、プリオンが偶然その箍を外す役割を担ってしまったらどうでしょう?人間は無意識に普段からでもバカ力を出してしまう。壊れた筋細胞を補う為に、動物性タンパク質とともに、細胞液と基本的には同質の血液を補わなくてはならない。血液をてっとりばやく補うには・・・」
「あなたの理論は判ったわ」
カッサンドラ医局長は、アーチの意見を遮るように言った。
「とにかく、沈着タンパク質となる《PE》プリオンの複製を阻害する物質を見つけたい。《PE》は、クロイツフェルト・ヤコブ病などのように、潜伏期間が長くはない。感染してから、長くて一週間で発病するんです」
「一週間?」
カッサンドラ医局長の顔色が変わった。アーチは、無表情に続ける。
「性行為で感染した《PE》プリオンは、リンパ系を介して脳に行き着いています。これは他のプリオン病と同じ経路です。感染力価が最も高かったのは、脾臓です」
アストリアの解剖結果、判ったことである。リンパ球が詰まった脾臓に最も強く感染し、リンパ系を伝って中枢に到達する。その速度は通常の細菌性感染症やウイルスに引けをとらない。プリオン病としては異例の速度だ。
「《PE》プリオンの複製は、おそらくサイクリンにくっついて、細胞分裂周期に連動していると考えられます。《PE》は、サイクリンの分解ごとに細胞に影響を及ぼしている。それで発症の速さが考えられます」
「サイクリンから切り離す物質を探し出すことね」
「タンパク質切断酵素が適していると考えられます。《PE》プリオンのドメインは、正常プリオンのαへリックスではなく、ランダムコイルになっています。サイクリンに結合する前に、バラバラに切り離さなくては」
カッサンドラ医局長は、頷いた。
「・・・お願いします」
アーチは言った。
通信が途絶える。
「何者が封印されていた《PE》を放ったかは判らないが、これはオレに対する明らかな挑発だ」
と、アーチは確信した。
何故なら、《PE》は、プロテオリシス・システム・プロジェクトチームが作り出したものであると同時に、フォーティファイド研究の副産物でもあるからだ。
不死身のフォーティファイド《レミンカイネン》を生み出す研究過程に、避けて通れない細胞自己修復の促進。コネクチンに結合して、自己修復を促進する結合タンパク質アンプロイリンβを発見したのもジャック・フィリップ・ブールヴァルドの研究班だった。通常のフォーティファイドは普通人の30倍、《レミンカイネン》は、一千倍のアンプロイリンβ生成能力を持つ。
それが、バカ力の素だ。
仮に《PE》がフォーティファイド並みに同じ効果を齎すものなら、まさしく不死身の吸血鬼と言わざるを得ない。
「神への冒涜・・・」
そう己が口に出すのも憚られる言葉だが、人間が怪物を生み出す。これは背徳の行為といえるのか。
「そして、怪物が怪物を倒す。よく出来た喜劇だと思わないか?オヤジ・・・」
アーチは、誰にともなく呟いた。
終章へ続く
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