
第七話
〜タンゴ・ジェノシディオ ballare il tango
genocidio〜
(前編)
ひたすら荒野を行く二人の男がいる。
一人は己の生きる場所を求め、一人は己の死に場所を求めて。
第一章 SHOULD AULD AQUAINTANCE BE FOGET 故旧忘れ得べき
小糠雨は朝から続いていた。この初夏のローマでは、珍しい天候の早変わりだった。
サン・ピエトロ広場を望むイル・クッポローネ(クーポラ)は、くすんだセピア色に変わっていた。雨を避けて、十数羽の鳩たちが建物の窪みに止まっている。
ブロンズ扉側から行進は始まり、衛兵達の長い列が進み始めた。霧のように降り注ぐ雨を凌ぐだけの、薄い外套しか被っていない。雨を撥ね上げないように、正しい歩行をするのも訓練の一つだった。
衛兵を見守るのは、儀式を監督する枢機卿ジョナサン・フュリエリ聖務省長官と、秘書の助祭のみだ。フュリエリの黒い肌膚は、湿っていた。遠めにも光って見え、モノクルの下と、深く刻まれた頬の皺には、小汗が溜まっている。
折からの天候不順と、この度の出来事で、枢機卿はすっかり疲労していた。微熱が続いている。だが、大事な儀式は五日後に迫っている。
五日後の儀式。
フィレンツェ司教区大司教・ファビオ・キアラモンティの葬儀である。何故に、このような予行演習を厳正に行っているかなどと、聞くまでもない。キアラモンティ大司教は、現教皇シクトゥス13世の大叔父にあたる人物なのだから。
助祭は、屡不安そうにフュリエリ枢機卿の汗を見遣り、清潔なハンカチーフで拭う。
丸い広場は、十七世紀半ばに建設された。それ以来、威厳あるクッポローネを抱く広場は、この形を存続し続けている。建築師ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの才が遺憾なく発揮された、世界遺産。通廊と柱廊とで大聖堂を伸長することによって、建築全体の焦点が広場の入り口に定まっている。
広場中央のオベリスクは、殆ど最古といっても過言ではない。
花崗岩製の角柱は、紀元前37年にエジプトのヘリオポリスから運ばれてきたもので、ヴァティカンの丘近くにあったカリギュラ帝の戦車競技場で使われていたという。十六世紀になって、教皇シクトゥス5世がオベリスクの建立を指揮した。以後、オベリスクの頂上にはイエスが架かった十字架が置かれている。
オベリスクを見遣る二つの影は、丁度ピアッツァ・デル・サント・ウフィツィオ(ウフィツィ広場)側に立っていた。
両人共に黒いインバネスを頭からすっぽりと被っており、遠目には男女の区別は付かない。
「今度のフューネラーレ(儀式)において、私が果たす役目とは何なのですか?」
背の高い方が、言った。ややトーンは低いが、明らかに若い女の声だった。フードから覗く小麦色の肌は、高貴な鼻梁の線を描いていた。雨垂れが、布の端を伝って落ちていく。
「教皇の身辺警護です」
やや、間を置いて答えたのは、男の声だった。傍らの女よりは、やや小柄で声の印象と共に快活な感じがする。
「それなら、私よりもアナタの方が適任ではないのかしら?チンザーノ司祭」
女は、漸く衛兵から視線を逸らし、男の表情を覗き込んだ。男は、やや驚いた様子で茶色い目を丸くした。形は悪いが、長く高い鼻。眉と目の間隔はやや広めで、年齢の割には禿げ上がった頭。まだ三十代だ。
「いえ、ヴェッキオ・チンザーノ異端審問官」
陽気なミラネーゼ(ミラノっ子)の男は、柄にも無く緊張した。目の前に妙齢の美女の顔があったからである。
「ですが、私は聖務省配属とはいえ、専門が違いますよ」
チンザーノは、ちらと女の顔を振り切って、フュリエリ枢機卿の方を見遣った。黒人枢機卿は、依然として寡黙に演習を見守っている。衛兵は、もうじきオベリスクを廻って、サン・ピエトロ大聖堂の入り口に向かうだろう。
「サフィール特務巡検使殿。貴女ときたら、パウダーガンにおいても剣技においても、あの衛兵全員がかかっても敵わない腕をお持ちだ。身辺警護において貴女の他に適任者はいませんよ」
チンザーノは憧憬を含めて言った。サフィールと呼ばれた女は、濃く長い睫毛を瞬いて、異端審問官の顔を見るだけだ。あまり、見詰められても困るのだが、とチンザーノは内心冷や汗を掻いていた。何しろ、女は上司の血縁であるし、強く美しい。
下世話な表現をすれば、男好きのする、つまりは無意識に男の本能的な部分を直撃するような類の美しさだといえる。
それでいて、立居振舞はまるでキャバリエーレ(聖堂騎士)そのものであるこの女は、チンザーノにとって畏れ多い存在だった。そして、チンザーノ自身は叙階を得ているので、女犯を断つ身であるが、女は民間人の身分だ。
美女の日焼けした肌は絹布のように雨粒を弾き、広場を見詰める青い瞳は強い意志の篭った光を湛えている。
アルテミス・サフィール特務巡検使。
通り名を、ミスティ・サファイア。その昔、誰かが瞳の色をそう賞して以来、彼女の呼び名になった。
枢機卿会筆頭のグレナデン・サフィールの姪であり、ヴァティカン騎兵隊に属していた才色兼備にして、文武両道の経歴の持ち主。カルタヘナの名門、サフィール家の総領。或いは、二十代前半の若さにして、緋の絨毯に最も近いと言われる執行官。それは、七光りだけではないと噂されるだけの実行力とカリスマ性を持ち合わせているからだと、チンザーノは信じている。
「あら。インクィジション(異端審問所)には、私と同じく《銃王》を名乗るパウダーガン使いがいる、と聞いていますわ。えっと・・・」
ミスティは自分の頬に手を当てた。面識が無いので、名前を思い出せない。
「ああ、あの男のことですね」
チンザーノは、眉尻を下げる。まるで、悪友の噂でもされているかのような表情だ。
「彼は、いま別の任務でのっぴきならない様子です。直ぐには戻って来られないようですし。とにかく、当日、何が起こらないとも限りませんから・・・」
「何かが起こる事を期待しても困るわ」
ミスティは溜息と共に言葉を吐き出した。
そして、ミスティが見遣ったのは、教皇宮殿の窓だった。
《教皇の窓》は、宮殿四階の教皇個人用書斎の窓のことである。1958年のヨハンネス23世在位時代以来、教皇は毎日曜日の正午に、ここから姿を現すのが慣わしとなっていた。その扉が開かれなくなって、一体何年だろうか。
シクトゥス13世が儀式に参列される。
この報道が流れて、俄にヴァティカン周辺は色めきたった。大司教の葬儀であるというだけで、ローマを訪れる人間も増えることだろう。それに加えて教皇が出席されるとなれば、騒がない方が不自然なのかも知れない。
シクトゥス13世の病弱は押しも押されぬ事実として、諸国の知り得る所である。当初、13歳の少年教皇が即位したというだけでも話題を浚ったものだ。それが、病弱故に執務に耐え得るのがやっとで、行幸も出来ないと判ったのは間もなくだった。
ミスティ・サファイアが、特務巡検使アルテミス・サフィールとして教皇に謁見したのは、彼是五年も前のことだろうか。当時、教皇は二十代後半だった筈だ。
謁見の間に通された時、真っ直ぐに教皇の瞳を見た。灰色の理知的な瞳だった。顔色は優れなかったが、神経質な雰囲気ではなく、至って柔和な、思慮深い印象を与える面立ちだったのは確かだ。年齢の割には、落ち着いて見えた。
だが、もしかしたら、最初からこの青年教皇は、傀儡であって、実務を執り行わない只のお飾りなのかも知れない、という感じも否定出来なかった。少年のような透き通る声がミスティの耳奥に甦る。
宮殿から姿を現さない教皇。
その教皇が数年ぶりに式典に出るというのだ。
ヴァティカンの遣り方を良しとしない輩が何か企んでいても、不思議はない。いや、何も無いほうが不気味だろう。
「とはいえ、殆ど一面識しかない私が教皇の身辺警護など・・・」
ミスティは声を潜めた。
そして、広場の南一隅に視線を遣る。薄汚いコートを頭からすっぽり被った老人が二人、離れて座っていた。老人の顔は見えない。皺と血管の浮いた枯れ枝のような手には、何か小袋らしきものが握られている。それが、鳩の為に用意された餌であると、ミスティは直ぐに気付いた。
チンザーノは、ミスティの視界を遮るようにして言った。
「面識が薄いからこそでしょう。当日の警護は本来のSPが任務に預かっている筈です。それとは別の命令系統から、武器携帯を許される訳です。飽くまで、有事の時だけですよ。後は素知らぬ顔をなさっているといい」
「有事、ね」
ミスティは、教皇宮殿から視線を外し、大聖堂に入って行く衛兵の列を眺めた。
「やれやれ、伯父貴の依頼は断りにくいわぁ」
「早くこんな仕事終わればいい、というお顔ですな」
チンザーノは、微笑を浮かべて言った。
「その通りよ。私は聖庁の仕事、ましてや事務官には向いていないわ。早く、現場に戻りたいものね」
ミスティは曇天を見上げる。そこに見えるものは、高く広がるローマの青空ではない。何故か思うのは、遥か東の黄砂に煙った空だった。
黎明が、あっという間に行き過ぎた。濃く立ち込めていたミルクのような朝靄が、やがて足下に沈殿していった。残された薄いガスだけが、所在無く朝の外気にたゆたう。まさに、霧は朝に山より生まれて、夕べに山へと還る、というが最早その幽玄な美しさも、このアジアの山中でしか目の当たりに出来ないとは。
人はあらゆる場所に踏み込み、足跡ばかりを残してきたらしい。
尤も、ジン・スティンガーにとっては、その如何にもプロパガンダか変装か、といったサングラスを通してしか緑も映らない。灰色に見えるだけだ。目の奥まで染み入るような緑なのだから、いい加減裸眼で見ればいいものを。
人間の侵入を拒み続けていた森の木々が、やにわに腕を天へ向かって投げだしていた。
「村や!」
真っ先に叫んだのは、ピーチィ・フィズだった。不意に何者かに背中を衝かれたかのように走り出す。
「ああーん。これでやっと甘いモン食べられるぅー。抹茶パフェや!トラットリア(食堂)は何処や?」
「おい!」
少年のように長細い手足を振って走るピーチィを追ったのは、ジンだった。
ピーチィは、先刻までとは打って変わって、俄然元気になったらしい。朝も暗いうちから起こされて、眠いだの腹が減っただの、ぶうつく言っていた少女は、既にジンの視界から遠ざかっていた。
「何があるか判らんだろ。迂闊に走り回らせるなよ」
ジンの背後から中低音の若い男の声。加えてぜいぜい、と荒い息。
アーチレリー・ブールヴァルドは、白衣の肩にロープを二本食い込ませていた。足取りはやや重く、息が弾んでいる。重い足取りの理由は、ロープの先の二台のオンロード・バイクに他ならない。総重量は二台で七百キログラムは下らないだろう。ガス欠ではない。如何せん二台とも山越えには不向きな上、放って行く訳にも行かず、已む無く引き摺って来たのだ。
通常なら麓の村落で輸送業者に預け、目的地まで先に運んで貰うのだが、運送代も馬鹿にならない。何しろ、二日ぶんの送料で三人の三日分の食費が浮くのだから。結論は、多数決の原理で決まった。二対一。どちらがどうだったかは、言わずもがなだ。
「くそ、頭脳労働ばかりか、肉体労働までオレの仕事かいー!」
アーチは中指を立てて叫んだ。とはいえ、文句の一つ二つも言いながら、それでも三時間あまりの山越えを耐えた。フォーティファイド(強化人間)でなければ到底耐えられない重労働である。
「ほれ」
と、アーチはジンに一本のロープの端を預けた。
「もう良かろう。道も開けた」
「ああ」
ジンは愛車《イケヅキCR−X》に跨った。イグニッション・キーを回す。重厚なエグゾーストがマフラーから吐き出された。山中には似つかわしくない風体の男に、重挽馬を思わせるバイク。
テンガロン・ハットを被り直し、紐を短く調整する。
「ったく、人を馬並みに扱き使いやがって。尤も、最近は馬は扱き使うほど安くはないが・・・」
「あれ?お前、自分で馬並みだって言ってたんでねーの?」
ジンはグラブを嵌め直しながら、嘯くように言う。
「そりゃ旦那、頑張るシチュエーションが違うっての。せめてバイクに可愛い子ちゃんでも乗ってたら、話は別だがな。『シートを降りたら、今度はオレ様の上に乗れい』『やだぁ、そんなハシタナイ体位』『何を言うか、オレ様はこれがいいんだっつーの』って・・・あれ?」
うだうだ言っている間に、《イケヅキCRーX》はとうに村の入り口まで到達せんばかりだった。アーチも慌てて《デアデヴィルXIX》のエンジンを温める。
「恩知らずの役立たずな、ちきしょー共め!なーにが抹茶パフェだよ。オレにも食わせろってんだ」
罵声を飛ばしながら、アーチは柔らかな金髪を撫で上げる。早朝の清々しい空気が冷やりと頬を這って行った。
我知らず、笑みが浮かぶ。
それもそうだ。ホンコンを出て数日は、ジンは生きているのか死んでいるのかも判らない程に憔悴し切っていた。
原因が気分的なものだというのは一目瞭然だった。銃創は癒えていないが、何よりも精神的ショックは隠せない。
マルド・スタウトの死。遡って、死んだ筈のロブ・ロイが甦り、また謎の言葉を残して逝った。ホリー・ディプシーを死なせたのもジン自身に責任があると考えていただろう。でなければ、危険を冒してフィルム・チップを持ち出したりしなかっただろう。
いつものアーチレリー・ブールヴァルドなら、一笑に附すだけだ。「アホが考え込んでも何の解決にもならないぜ」と。
だが、今度ばかりは放って置くことにした。
何しろ、アーチ自身にも宿題がたんまりとあった。本当は、《PE》の件に関して教皇に直接報告したいくらいだ。だが、その件は総てカッサンドラ・ブルーネレスキ医局長に任せた。医局長がどう処理するも、構わないという腹づもりはアーチにはあった。
そして、結果どうなってもアーチは動じる必要もない。
取敢えず、確かなことは、ジン・スティンガーのお守役としてのお役目が優先だということだ。
ジンが《神鎗》シルヴァー・ブレットを見つけるまでの、保護責任者としての。
「ジン。お前に感じられることが、オレには感じられない。だが、オレに見えるモノがお前には見えない」
かといって、生き方を変える気など、アーチには毛頭無い。二人が二人共、同じ場面で腐っていたら、お互いに長生き出来ないというものだ。守役が同じように悩んでいては、共倒れだ。さすがにサフィール枢機卿は心得ているらしい、と今更アーチは思う。ある程度、冷血漢の部分を持ち合わせた人間をジンの相棒に良く選んだものだ。
ふと、何気なくヴァティカンの光景を思い返したが、こういう時は同時に嫌なヤツの顔まで思い出すというものだ。
マキシム・デ・リガール教皇報道秘書官。
アーチの美貌をを太陽の輝き、或いは熾天使の美と賞するならば、リガールの美貌は下弦の月、堕天使に似た妖しい美。天衣無縫とも言うべき言動で、医局の問題児扱いされているアーチに対して、リガールは緻密な計算家で品行方正の評判があり、上層部の信頼も篤い。
どうも、アーチはリガールのような生まれながらの策士タイプは不得手に感じる。国境警備隊のキール・R・スタンレーも然り。
当初、この男、リガールこそが、ジンの守役に選任される筈だった。それが、どういう風の吹き回しでアーチになったのか、今はサフィール枢機卿とアーチ本人にしか判らない。それとも、出世に関係無い任務だと知って、リガール自身が断ったのか。アーチの扱いを持て余していた医局がこれ幸いと、外に追い出したのか。いずれにしても、第三者の知る所ではないのは確かだ。
「いかんいかん。ヤなヤツを思い出しちまった」
とにかく、ジンが漸く口をきいてくれるようになったのは、喜ばしいことだ。
いちばん喜んでいるのは、ピーチィかも知れないが。
やがて村の入り口に差し掛かった。道路は舗装されていない地道だ。土埃が舞うような乾いた季節は、やがて終わりを告げる。雨季になれば、地道では輸送に一苦労するだろうが、殆ど自給自足に近いのだろう。
ここら辺りは、第三次大戦の煽りで、難民が多く流れてきた所だという。成る程、建築は都市部に比較するべくもない。木造建築とモルタル造りばかりだ。気候の所為もあろう。だが、この不似合いな雰囲気は、明らかに移民の村を表していた。恐らくは、戦役の激しかった中国東北部か朝鮮半島から移動に移動を重ねてやって来たものと考えられる。もしくは、脱走兵士が築いたカモフラージュの為の村か。
アンダー・ホンコンの教会で聞いた時に想像したものと、そう大差はない。
「日本人村・・・では無さそうだな。尤も、日本人が未だに集団で残っているなんて、眉唾モノの話だが」
それにしても、この静けさ。
「こんなんで、食堂なんかあるのか?抹茶パフェ?とんでもないね」
アーチは覚えず独りごちた。
その時、少女の叫び声が耳に飛び込んで来た。
喜び勇んで村に駆け込んだものの、ピーチィはふとその状況のおかしさに気付いて、立ち止まった。
村全体に漂う異様な気配。人気は無いが、それが却って不気味な雰囲気を醸し出している。
「だ、誰かおらんのー?」
ピーチィは尻すぼみに叫んだ。
「ひっ!」
家屋の壁を見て、ピーチィは思わず飛び退いた。
木造の壁は、半分以上剥がされ、ささくれ立った木片に血糊がべっとりと付着している。そればかりではない。血は壁全体に塗りたくられていた。どす黒い塊がところどころこびり付いている。しっかり見たくはないのだが、恐怖心と好奇心が綯い交ぜになった心地で、ピーチィは薄めを開けた。両手で顔を覆い、指の隙間から覗く。
家々は、皆それぞれ、様々な形で破壊されていた。どの家屋にも、血の跡が描かれている。中には、髪の毛と思しき塊も引っ掛かっていた。
「な、何やの・・・これは」
声にならない声で、ピーチィは呟いた。嘔気が込み上げてくる。少女の褐色の肌が、血の気を失っていくように乾いた。
意味の判らない表意文字を血で書いた漆喰の壁。内臓の断片と見える青白い汚物の残滓は、これも赤黒い血溜りに漬かっている。恐らくは、総て村人のものだったのだろう。この凄惨な事件跡を見るに耐えず、ピーチィは蹲った。
「おい、どうしたよ。これは!」
駆け寄って来たジンに、少女は首を振った。見回すと、朝日にぎらぎらと反射する異様なまでの赤い血の色が網膜に映し出される。事件が起こってから、そう時間は経過していないだろう。それは生臭い独特の臭気からも容易に推測出来た。
「ほほーひ、られかいねへほかぁー?」
ジンは鼻を摘みつつ叫んだ。反応は全く無い。
「アンタ、それじゃ何言うてんのか判らへんよ」
「おお。そうか。そんならも一度!」
ジンは大きく息を吸い込んだ。
「誰かいねえのかああ!」
やがて、風向きが変わり、別の臭いがジンとピーチィの鼻腔を刺激した。
「むっ、またヘンな臭い」
「なあ、アレ・・・」
と、ピーチィが指差した方向に灰色の煙が一本立ち昇っている。進んで行くにつれ、当然だが悪臭は強まった。
「おえっぷ」
ジンは堪らず、嘔ずきそうになるのを我慢しいしい、村の中央に進んだ。明らかにタンパク質を焼いている臭いだ。それも大量の。
「ははぁ。人間を焼いてるなぁ」
何時の間に現れたのか、背後でアーチが呟いた。しかし、表情は強張っていた。鼻が利く分、悪臭の辛さに耐えかねるところだ。美形も台無しの渋面に、ジンは笑い出したかったが、口を押さえているので噎せかえっただけだ。
「人間だって?もちっと、デリカシーのある言い方出来んのか」
「事実を述べたまでだ」
「何ぃ?」
ジンは早足で煙の方向へ近付いた。心持広がった道路の脇にある家屋は、やはり何れも半壊で、焼かれている人間とやらが、村人である可能性を強くした。
果たして、火元はそこにあった。互い違いに組上げられた木材は、キャンプファイアを思わせたが、何より物騒である。木材の一本一本は不揃いで、各々の長さは4メートル程あろう。生の木材では、こうも燃えない。恐らくは家屋の一部だったものばかりと、ジンは見た。
そして、木の枠組みの中に件の遺体は焼かれているのだろう。
「うえ」
ピーチィは、げほげほ、と胸を叩いて蹲る。その背中をアーチは支え、擦ってやった。やさしい心遣いというよりは、小児科医の本領発揮だろうか。嘔気は込み上げてくるが、ピーチィには吐く物が無い。昨夜からろくに何も食していないからだ。
「一体、誰が・・・?」
不意に、何者かの気配が空気を揺るがした。ジンは腰のホルスターに右手を掛けた。
一瞬の静寂の後、炎の向こうから人影が現れた。
「驚いたな」
男の陽気な声が発せられると同時に、ジンは《ブラックホーク・ディオファイア》を抜く。10.5インチバレルの美しく長い銃身が、弧を描いて炎の前を過ぎる。ジンの水平に伸びた腕が、体重移動と同時に男の胸を指す。
「や。こんな所にお客さんだなんて、しかも三人も」
流暢だが、砕けた感じのトランス(共通語)。煙を吸い込まないように、男は赤いバンダナで口元を覆っていた。その覆いが、はらりと落ちる。
そうして、男は目の前のジン、ピーチィ、アーチの順に視線を泳がせた。
如何にも胡散臭い男。ジンは、声を聞いた瞬間からそういう中りを付けていた。
白髪混じりのぼさぼさした灰色の髪。疎らな無精髭。背は6フィートくらいか。衣服の上から見ると、割合に筋肉質な感じである。成る程、これらの木材を一人で組み上げるのは、そう難しいことではなさそうな位に。その衣服はといえば、泥と血に塗れているが、肉体労働にお誂えという代物ではない。白い詰襟風のシャツ、黒いスラックスに黒い革靴、という出で立ちだ。
年の頃は三十代の半ばか、後半かというところだろう。
「オレ達は招かれざる客というワケか?」
ジンは息継ぎ無しで、一気に喋った。
「どういう意味かな、それは?」
男は肩を竦めた。目尻が下がる。決して二枚目ではないが、垂れた目元に愛嬌が漂う。十人の女がいれば、一人や二人は好みだという者もいるだろう。だが、こういう手合いこそ、得体の知れない本当の悪党であるパターンが多いことも、ジンは心得ていた。
「・・・ある意味そうかも知れんが、実はオレもそのクチでね。いや、まったく驚きも二倍だよ。しかも、キミ達パウダーガン使いだなんて。プレミオーロ(賞金稼ぎ)か?だが、そいつは物騒だから、下ろしてくれないか?」
「ワケの判んねえコト言ってないで」
ジンは、《ブラックホーク》のシリンダーを回した。音楽に似た耳に心地良い金属音が、カチャリと響く。
「銃を下ろす前に、はっきりさせておくコトがあるだろ?」
「は?」
男は再び、首を竦めた。目を大きくして、ジンの顔を凝視する。火の粉が両者の間を蝶々のように舞い飛ぶ。
アーチは、ピーチィの背中を擦りながら、男の胸元を見詰めた。開いたシャツの間から覗く、銀の十字架。無防備な両手の掌。思いの外分厚く、右手の股に深いひび割れに似た傷が走っている。警戒心が無いことは確かだと、アーチは思った。普通、殺しや犯罪を生業にしている者は、手を隠したがる。だが、この男はあまつさえ、自ら手を差し出している。
「村人を殺したのがあんたか、あんたじゃないのか、ということが一つ。死体をここで荼毘にしているのはどういう了見か、というのがもう一つ。さあ、答えろよ」
「は」
アハハハ、と男は弾かれたように大声で笑い出した。炎が揺らぐ程の声だった。ジンの顔が歪む。小馬鹿にされたと判って、頭に血が上ったようだ。
「な、何が可笑しいってんだ!」
「ハハハ、キミこそ何言ってんだか」
男は、眦に涙を浮かべて笑い続ける。
「オレが村人を殺したって?うーむ、この状況じゃそうとられても仕方あるまいが。それじゃ、何でわざわざ荼毘になんかする必要があるんだ?」
「証拠隠滅の為に決まってる」
「あのな。オレならこんな残虐な、しかも手間の掛かる遣り方はしないよ」
男は、そう言って、自分の顎を撫でた。
「大量虐殺のマニュアル通りに、即効性で無味無臭の神経ガス或いはエアロ・ゾルを撒いて、一旦引き揚げる。ここは通気性がいいから、三十六時間後、死体を始末にくればいい。山火事と見せ掛けて火を放てば御仕舞い、だ」
次の句を継いだのは男の声ではなかった。
アーチは、立ち上がると、意味ありげな微笑を片頬に浮かべて、ジンと男の間に割って入った。
ジョーは、改めてアーチの容貌をしげしげと眺めた。
以前、何処かでお目に掛かったことがあるように思えたからだ。
やたらと細長い印象の、浮世離れした美男子だ。珍しいビオンディ(金髪)と緑の瞳。アンニュイな地中海の海岸で過ごす晩夏の、夕暮れ前の太陽の匂いがしてきそうだ。つまり、そういう背景が似合いそうな。
「その通り。あんたよく判ってるな。軍隊上がりか?」
「の、ようなモンではあるけど」
と、アーチは、男に向かって左腕の腕章を見せた。銀十字軍の印だ。男は一瞬、目をぱちくりさせた。
「医局のアーチレリー・ブールヴァルドだ。お初にお目に掛かります。ジョー・クリサンスマム神父」
アーチは右手を差し出す。
「これはこれはドットーレ・ブールヴァルド。ご高名な医学博士じゃないか。写真で見るよりずっと男前だなぁ」
「どういう意味でご高名なんだか」
「そりゃあもう、腕もかなりのものだが請求金額も負けてないくらいいい、とか」
「オレは基本的に子供専門だ。それ以外は高く取るぜ」
「聖職者割引とかないのか?」
ジョーは、漸く花開いたように笑顔を見せ、その手を握り返した。
「え?し、神父ぅ?」
男二人が握手を交わす光景を目の前にして、ジンは呆気に取られた。
出した物を引っ込めるには、どうすりゃいいんだ。
《称号(ティットーロ)》を持つことは、パウダーガン使いにとって栄誉である。それに命懸けてる連中が殆どだ。金は二の次、男の名誉。
この荒れた世界、ディアスポラの男として生まれたら、一度は握ってみたいと思うパウダーガン。今や、簡便さと廉価において、ブラスターにとって代わられたが、それでもパウダーガン使いと言えば、一般人には恐れられる存在である。
かくいう《称号》は、ヴァティカンから授かる十二使徒に擬えた《十二鎗》。
上から《銃聖(サンテ)》《銃王(プリンキパス)》《銃将(カピターノ)》《銃星(マエストロ)》。その頂点に、《神鎗(ディーオ)》。そして、《十二鎗》以外の《員外(アウト・ティットーロ)》。
スロッピー・ジョーといえば、《銃王》を戴くダブルアクション・リヴォルヴァーの名手であることは、同じくファスト・ドロウを得意とするジンも知っていた。
ジョーの真骨頂はアクションの素早さにあるという。
トリガーを引く動作もともかく、抜き撃ちの速さは驚嘆すべきもので、懐から出す右手が一瞬見えない、というまことしやかな噂が流れている程だ。
然らば、出来得る限り敵を引き付け、至近距離で狙い打つ。返り血を浴びる必然性が高くなり、いつもジョーは対決後血塗れに汚れているという。
SLOPPY JOE―《汚れたジョー》の異名は、そんな由来でもって呼ばれているらしい。真偽の程は定かでない。
一頻、火葬が終わる頃は、もう午睡もとうに過ぎた時刻だった。ジンも行きがかり上、手伝うことにしたが、何しろ悪臭の御蔭で思うように体が動かない。気分が悪くなるのだ。
ジョーは、ジンの目の前で汚れたシャツを脱ぎ捨てた。それを丸めて、トランクに突っ込み、代わりにクリーニング仕立ての新しいシャツを羽織る。
普通、聖職者は人前で肌を見せるものではないが、ジョー・クリサンスマムには、そのルールは通用しないらしい。垣間見た上半身は、およそ聖職者に似つかわしくない、筋肉で固められた肉体だった。ところどころ、銃創の名残があり、そこは盛り上がっていた。
トランクの中は、毛布に包まれた銀の聖杯、聖餅の入った聖体器、薬瓶に入った聖油と香炉、そして聖像を収めていると思しき縦長の箱が納まっていた。聖書を加えれば、神父の七つ道具だ。
「そりゃ、興味は充分あるさ。教皇の命であのシルヴァー・ブレットを探す男。まさか、キミとは思わなかったが」
ジョーは、短衣を着込み、帽子を被った。これで、立派な聖職者の出来上がりというわけだ。
「こんな若造で悪かったな」
「若いということは、素晴らしき哉」
ジョーは、鼻歌雑じりに言い、懐からタバコを取り出した。ダンヒルだ。清貧をモットーとする聖職者の割には、贅沢な物を吸っているな、とジンは観察した。
陽が傾きかけていた。
ジンは、燻った炎を小枝に移し、薪を集めて小さな焚き火を作った。その上に組み立て式の三脚を置き、ポットを乗せる。
ジョー・クリサンスマムがこの村を通り掛った時、既に犯行は行われた後だった。
丁度二十四時間ほど前のことになる。
「酷いったら、筆舌に尽くしがたい有様だった。無論、家々の扉や窓はブチ破られ、そこには血が塗りたくられていたし、中はそりゃもう。首の皮一枚残して鉈みたいな物で切られ、梁に逆さ吊りになった娘。床は血溜りだ。首から下を三枚におろされた子供。内臓と目玉を抉られてバケツに入れられ、風呂桶に突っ込まれた老人、腹を割かれた妊婦はドアに磔にされ・・・」
そこで、ジョーははた、とジンの顔を見上げた。げんなりした表情を見て、咳払いする。
「現場も見てないのに、何だぁその顔は。オレなんか始末してる間、四回も吐いたぞ。もう、出るモンもねえ。ま、詳しいことはいいとして。村人四十名あまりが、皆殺しだ。オレも一応聖職者だしな。せめても、と思って火葬にしてたところだ・・・あ、お嬢ちゃんはどうした?」
「ああ。今し方寝たところだ」
ジョーの目の前に歩み出たのは、アーチだった。不審気な顔付きである。
ピーチィは、直ぐ傍の、被害の比較的少ない民家に寝かせてある。気分が悪くなったのは、寝不足の所為もあろう、と見えた。何にせよ、思春期の少女の体は意外にデリケートなようだ。アーチは、ピーチィが軽く寝息を立て始めたところで、ジンとジョーの所へ戻って来たのだった。
「もしかして、アレかなぁ?別段、ウイルス性の風邪とか胃腸炎でもないし」
「アレって何だよ?」
ジンは、きょとんとした顔で訊き返す。アーチは一瞬、あからさまに眉を顰めた。
「一応女じゃないか、ピーチィも。今年で十三歳だっけ?にしてはオクテだが」
ぱっ、とジンの顔色が変わり、アーチを徐に疑惑の眼差しで見据える。
「・・・お前、まさか手ェつけようなんて思っちゃいねえだろうな?」
「何言ってんだ、ハハ。オレは処女は苦手だっての。あと五年くらいしたら、ちっとはナイスバディになるかどうか判らんが」
「いいや、あれは洗濯板のクチだ」
「真の助平は、スレンダーな女を好むというが。あ、もしかして、お前こそ・・・」
「バカ言え」
当の本人は下世話な話題を聞かなくて幸せなのか、不幸せなのか。一頻り盛り上がったところで、アーチは話題を変えた。
「ところで、死体は検死も出来ないほど傷んでいたのか?」
「この季節だからな。しかも空気に触れた血や内臓は、とてもかなわんよ」
「いいさ。どうせオレが見たところで仕方無い。おたくはどう思う?」
アーチは肩を竦め、ジョーの灰色の瞳を見た。ジョーは、紫煙をぷかり、と噴かした。目が遠くを見つめるように、細まる。
「複数の人間の手口かな。獲物は、ハンティング・ナイフ、チェーン・ソーなど。銃は一切使っていない。寝込みではなく、夕餉時を襲っている。プロの集団だ」
「連中は、そう遠くには行ってない筈だ。夜っぴてここから先を越えるには、ちっとばかしきつい峠だからな」
と、アーチは白衣のポケットに両手を突っ込んだ。ほぼ、断言できる。フォーティファイド並みの集団だったら、話は別だが。
「それはそうと、あんたは何でこの村に?布教ってことはないだろう?」
ジンは沸騰した湯をマグカップに注ぎながら、疑問を口にした。フリージング・キャッフェの香ばしい匂いがほんわりと立ち昇る。ジンは、この匂いが好きだ。そして、アーチは非常時でなければ、決してこんな物は口にしない。まともな街があれば必ずバールへ行く。だが、今はこんな物でも美味しく感じられる。
ジョーは、咥えタバコでくすり、と笑った。シャツの下から十字架を取り出す。
「お仕事だよ」
そう言って、十字架をはずし、ペンダント・ヘッドをジンに見せた。
純銀のラテンクロスは、取り立てて何の変哲もない代物のように見えるが、裏には何か書かれている。
「Quem di diligunt juvenis moritur」
「《神々が愛するものは、若くして死ぬ》。早い話が、憎まれっ子世に憚るって意味さ」
アーチがすかさず解説を加える。ジンは、目を瞬いた。ラテン語で書かれた文章を読めないでもなかったが、表面的な意味しか判らなかった。それでは、ただの美麗な文句にしか受け取れない。
「これって、もしかして・・・」
「ヴァティカン異端審問所の掲げ文句。ギリシアの喜劇作家メナンドロスの言葉だ。異端審問官は、殺しても死なないっていうジョークのつもりらしい」
ジョーは、ダンヒルをフィルターぎりぎりまで吸って、地面に揉み消した。面白くもない、といった風情だ。
「ってことは、あんた」
「そゆこと」
ジョーは、ジンに向かって片目を瞑って見せた。
異端審問官(インクィジター)。
正式には、教皇直轄機関・異端審問所(インクィジション)職員。
中世より発した異端審問所は、二十三世紀現在ヴァティカン聖教省に属するが、完全な独立機関である。
聖教省が異端とみなした教義、或いは人物などを罰するための機構。異端審問は、一旦は十八世紀スペインで行われたのを最後に歴史上から消失したと考えられていた。
表向きは。
実際、異端審問は水面下で行われていた。
近代化、戦争と血飛沫と金権に塗れた世界の裏舞台で動くことを、ヴァティカンは指示したのだ。以後、二十二世紀の後半まで、異端審問所の看板は掲げられず、聖教省の下に隠された機関として聖庁職員に認識されていた。その名残が、今日まであるのだ。
そして、異端審問官は、クリスチャンの信仰を守る執行官。特務巡検使などの査察官が摘発した事件、人物を裁く職務を持っている。特務巡検使にも制裁権利があるが、これで手に負えないときはすべて異端審問所の管轄となる。
「とはいえ、オレ等は異端とみなされた・・・つまり、ヴァティカンにとって害を及ぼす連中をしょっぴくだけだ」
「はー」
ジンは、ぽかんと口を半開きのまま、ジョーの話を聞いていた。
「お、お前!」
アーチが叫んだ。ジンは、漸くマグカップから湯を零し掛けているのに、気付いた。どうりで手首が重いと思ったら、この調子だ。
「あちゃー」
「どアホ、なんちゅうことしてくれんだ。そんな激薄の激マズカッフェなんか飲めるかいー」
「アハハハ」
「こいつ。最悪だぜ」
アーチは両膝に両腕を突いて、がっくりと項垂れた。フリージング・キャッフェに余分は少ないのだ。他人事は面白い、とばかりにジョーは腹を抱えて笑い続けるだけだった。
BBWはBig Bad Wolf(ビッグ・バッド・ウォルフ)の略称。
「今のオレのヤマはこいつだ」
ジョーは土の上に大文字で書いた。ジンは、身を乗り出して、見る。
宵闇が辺りを包み、炎が照らすのはほんの直径数メートルのみだった。地面に書かれた文字を見るのも、そう楽な作業ではない。
「テロリスト集団。ゼノホビアの集まりだ。組織的にはそうだな、総勢百人余と聞いている。まぁ、この手の集団としちゃ多いほうだな」
「ゼノホビアって?」
ジンは訊き返した。
「ああ、外国人嫌いが原義でな。BBWの母体はアイルランド系だ。そもそもは、独立運動から始まった古い組織だったんだが・・・」
大英帝国からのアイルランドの独立は、二十世紀以前から叫ばれていた問題だ。それが、念願叶ったのは、二十一世紀後半の事だった。漸く独立を廻る攻防とテロリズムは収束を見せていったのも、束の間。二十二世紀には、第三次大戦が勃発した。ヨーロッパは、アジアほどではないにしても、大打撃を受けた。特に、ユーロ共同体を結ばなかった英国への攻撃は容赦無く、そのとばっちりでアイルランドも大きな被害を被ったのである。
無論、独立して間もない小国に復興の力などなく、終戦後は衰弱の一途を辿るばかり。それを見かねたヴァティカンは、助け舟とばかりに経済援助に乗り出し、アイルランドを救ったが、それがヴァティカンの世界支配であることを判らない筈もない。
今や、アイルランドは名ばかりの国家で、実験を握っているのは国内の各教区に設置された司教なのだ。
「当然、独立運動はまた持ち上がるわけだ。何も、独立したからといって、直ぐに過激派が活動をやめたわけじゃあない。ひっそりと、有事の時を待っていたんだな」
ジョーは、ダンヒルに火を点けた。
「ヴァティカンは、あれはあれでえげつない。パクス・ムンディ(世界平和)を謳っていた二十世紀から二十一世紀中葉までとは、訳が違うからな」
「そんなこと言っていいのかよ?」
「外に出てりゃ、言い放題だ。別段、オレは上層部を信奉しているわけじゃない。雇われ神父兼始末屋だ」
ジンは、ジョーの灰色の瞳を見詰めた。何処かに冷めた悪魔を潜ませているような瞳の色。この男は、ジンが表面的に抱いた印象とは別な、もっと重い何かを引き摺っているのかも知れない。
「BBWが活動し始めたのは、十年以上前だ。初めはこんなに大勢じゃなく、テロの攻撃対象も、今とは違っていた。本来は、独立運動を妨げるヴァティカンに対して、反抗をするのが目的だった」
ジョーは、煙で器用に輪っかを作った。
「今は、無目的に破壊しているとしか思えん。しかも、犬猿の仲の英国人でなく、有色人種ばかりを対象にし始めた」
「有色人種を?」
ジンは訝った。
「もしかして、じゃあこの村を襲ったのは・・・」
「十中八九」
と、ジョーは大息とともに答えた。額に手を翳す。
「一足も二足も遅れたってザマだよ」
「・・・・・・」
「だが、ヤツらの手口はこんなじゃなかったと思うがな。こんな、殺人を愉しむような遣り方じゃなかった」
半年前。
北京の空は低かった。ジョーは今でも、克明にその風景を述べる事が出来る。雲の垂れ込めた北のどんよりした空。午前七時にもうもうと煙をあげる市場の屋台。揚げたての油条と粥の甘い香り。ごったがえす仕事前の人々の群れ。豆腐売りの名調子。
ガタが来ている路線バスに飛び乗る少年達。
利用されなくなって十年以上経つ廃ビルの立つ場末。あの時すれ違った美しい瞳の娘さえも。思わず叫び出してしまうところだった。
「ジャスミン・・・」
翡翠飯店(ジェイド・ホテル)。
さして大きくもない、繁華街の外れにあるホテル。ここのリストランテの名物は四方鮮蝦餌(えびぎょうざ)だ。もともとは、広東料理だが、新しい料理長が広州の出身だということでメニュー入りし、少しばかり有名になった料理だ。
ジョーは、なるべく目立たぬようにして末席に座り、いつものように四方鮮蝦餌と安くて不味い地ビールをオーダーした。
その時気付けば良かったのだ。ウエイターの蒼褪めた顔色に。立ち位置が刻々と入り口に近付いているのを。
そして、午後二時。真昼間に惨劇は起きた。厨房からの大爆音。ジョーの座っていたテーブルに、コックの太い腕が千切れてでん、と乗った。こんがり焼けて異臭を放っていた。
瞬間的に、ジョーはテーブルを倒した。脇のホルスターからリヴォルヴァーを抜く。
357マグナムを抱いたシリンダーを回す。
その時、第二弾が爆発した。
先程の比ではないが、テーブルが跳ねた。客は既に散り散りに逃げていた。差し詰め、ウエイターは脅迫されて手引きをしたのだろう。いの一番に飛んで逃げて行った。ジョーはリストランテを出た。目指すはホテルの最上階だ。
エレヴェーターは押すなの大騒ぎ、フロントでは係員も慌てふためいて、接客どころではない。
「ヤツは必ず何処かで見ている。遠くじゃない」
ジョーは閉鎖された扉をブチ破り、非常階段を早足で駆け上った。最上階は二十二階。一気に上るには、そう若くない。だが、休憩も無しでジョーは一気に進んだ。
屋上に、男はいた。
「グラッド・アイ」
ジョーは呟いた。右手のリヴォルヴァーが汗を掻いている。
グラッド・アイと呼ばれた男は背を向けていた。広く、がっしりした肩幅。チャコールグレーの長いコートは、大きな怪鳥のようなシルエットを、冷たいコンクリに映し出していた。見るからに強面を思わせる風体。
「高みの見物とはな」
グラッド・アイは振り返らなかった。肩先が、微かに揺れた。
「見物ではない。我々の成果を観察しているだけだ」
「ふん」
ジョーは、ありったけの侮蔑を込めてせせら笑った。
「こんな物が成果だと?こんな無差別の人殺しが!」
「無差別ではない。我々は、取るに足らない蛆虫みたいな連中を駆除しているだけだ。それをヴァティカンの狂信者ジジイ共に見せて遣ろうと思ってな」
グラッド・アイは低いくぐもった声で答えた。
「お前、またそんな物騒なおもちゃを持って、どうする気だ?」
グラッド・アイが斜交いに身体を傾けた。振り返ろうとする瞬間、閃く銀の光。ジョーはトリガーを引く。だが、大男は予見していた。身を屈め、ジョーに向かって突進してきた。体に似ず、身軽な動きだった。
ジョーの僧服の袷は掻き切られた。遅れて胸に痛みが走る。
グラッド・アイはナイフの名手。いや、刃物なら何でもまるでカジノのディーラーがカードを扱うみたいに操る。
だが、ジョーが放ったのは一発ではなかった。二発目は正確にグラッド・アイの胸を穿った筈である。グラッド・アイの体が、ぐらりと揺らいだ。
コマ落としのように、大男の体は仰向けになり、仰け反っていく。見開かれた茶色い瞳。薄い唇に貼り付いた細長い葉巻が、零れ落ちた。嫌な薄ら笑いを浮かべて、男は床を蹴った。
「・・・・・・!!」
ジョーはグラッド・アイの体を追った。
グラッド・アイの体はみるみる最上階を越し、下降していった。飯店の下には、蟻の様な人々の群れ。その瞬間に、僅かに広がった赤い染み。それがグラッド・アイの最期。
ジョーは再び非常階段を、今度は飛ぶようにして下って行った。だが、グラッド・アイの屍は既になかった。仲間が運び去ったのかも知れず、ジョーは諦めた。
「ヤツが生きている筈がない。ヤツでなければ、他の誰か・・・?」
ジョーは眉間をきつく寄せた。ジンは、一瞬どきりとした。
振り返ると、日焼けした少女の姿があった。肌が浅黒いので、宵闇にはその大きな猫みたいな瞳がギラギラと光っているのしか、殆ど判らない。
「どうした、嬢ちゃん」
先にピーチィに声を掛けたのは、ジョーの方だった。ジンは、焚き火を前に黙々とスキットルに口を付けているばかりだ。
「どもない。トイレに行きとうなっただけ」
ピーチィは、寝起きで不機嫌な声だ。
「何だ、そこのは使えないのか?」
「・・・死体が置かれてたトイレを使えっての?」
その返答に、さすがにジンとジョーは、顔を見合わせた。
「アーチは?」
「バイクの所。電話が圏外なんで、パソコン弄ってるらしい」
と、ジンはぶっきらぼうに答える。カード式電話は、こんな山奥とも呼べる場所では、絶対に通じない。仕方なくオートバイのバッテリーを利用してパソコンを繋ぐのだ。それも長くは出来ないのでまったくもって、不便なのだった。
「一人で大丈夫かあ?おじさんがついて行ってやろーか?」
ジョーが言い終わらないうちから、ピーチィは顔を真っ赤に膨らませて言った。
「どスケベ、ロリコン中年!」
ピーチィは、どすどすと足音を鳴らして、遠ざかって行った。
「・・・だとさ」
「女の子ってのは難しいねえ。危ないから、折角親切心でついて行ってやろうってのに」
「あいつは超面食いでな。男前でないと、アカンらしい。まともに話しになんねぇよ」
ジンは頭を掻いた。
「それで、ドットーレ・ビオンディ(パツキン博士)をお探しか」
ジョーは納得して腕組みをした。
「ホンマ、男って何であんなにデリカシーのないヤツばっかなん?」
ピーチィは、用を足し終えると、上着を整えた。キミの悪いトイレットを早く出てしまうのだ。
家屋はもう、めちゃめちゃで電気も通っていない。暗い中をゆっくりと手探りで歩く。
「さて、と」
個室のドアを開けると、一瞬冷やりとした空気が流れ込んで来た。古びたタイルの上。モルタル造りの壁。洗面台。何も変わった所はない。さて、水は出るのだろうか、と洗面台を覗き込んだところ、ピーチィの背後に影が現れた。
「ひっ」
驚いて振り返るピーチィの目の前に、覆面の男が現れた。
「へ、ヘンタイ・・・もがっ」
騒ぎ立てようとしたピーチィの口が塞がれる。咄嗟に、男の指に食いつこうと思ったが、男は図体の割りに素早く、しかも掌は異様なまでに分厚かった。
「んんんんん」
ピーチィは、唸りながら、体が宙に浮くのを感じた。記憶はそこまでしかない。
「しかしまた、おたくらはどういうワケでわざわざ、こんなド田舎を通ってるんだ?」
ジョーはダンヒルをフィルターぎりぎりまで吸って、地面に押し付けた。
「アンダー・ホンコンの修道院で聞いたんだ。この辺りに村があるってな。日本人がいるかも知れないって」
ジンはまともに答える。ジョーは即座に、首を傾げた。
「日本人!?そんなバカな」
「半信半疑だ」
「半信半疑も何も、日本人はこの世に一人もいない・・・ってまさか?」
ジョーは怪訝な面持ちでジンに顔を近付ける。サングラスの下のジンの目の色を確かめようと、ためつすがめつジョーは角度を変えて観察しようと試みる。
「あ、あんましマジマジ見ないでくれよ」
「ああ、済まん。いやあ、本物の日本人を初めて見たもんでな。国連が言ってたのはウソかぁ」
ジョーは腕組みをした。まるで天然記念物にされた気分のジンは、どうも落ち着かなくて尻が痒い。国連では、日本人の絶滅が声高に発表されている。
「オレもよく判らないんだけど、どうもそうらしい。遺伝子的には」
「ふーん。こりゃ、またオドロキだ」
「オレは日本語も知らないし、生まれも憶えちゃいない。日本人が懐かしいワケじゃあないが、ディアスポラの人間に特別親近感を覚えるでもない」
ジンは目の前の炎を見詰めた。
そこはかとない不安はあった。マイノリティだけが感じる、疎外感。同じアジア人とはいえ、同じトランスを喋り、同じ教育を受けてきたとはいえ、やはりチャイニーズ系、コリア系とは異なる感覚というものを、ジンは否めなかった。少なくとも学校教育を受けていた時点では。それを、培われて来た文化的思想が遺伝的に染み付いていると一言で言ってしまってよいものかどうかは、ジンには分らなかったが。
「そういやぁ、遅いな嬢ちゃん」
ジンはそう言われて、腕時計を見た。午前零時五分。ピーチィが起き出して来た時は、まだ前日だった。
三十分以上経過している。
「オレ見てくるよ」
ジンは立ち上がった。まさか、トイレットから出られなくなってしまったのではあるまい。
「お嬢ちゃんに殴られるんじゃあないぞ」
ジョーは、ダンヒルの端を炎に近付けた。ジンは、あっと言う間に暗闇に消えた。
二三度、肺に達するまで深くタバコを味わったところで、ジョーはふと耳に嫌な寒気を感じた。
第六感というほどのものでもない。長年の諜報員生活が培った、奇妙なカンでもって、ジョーは静かに立ち上がった。
壊れかけた民家のトイレットは、人影もない。ジンは《ブラックホーク》を構えた。
ピーチィの姿は、何処にも無い。まるで、狐につままれたみたいに、忽然と消えている。
「冗談はよせ、ピーチィ」
ザッ、と砂埃が舞う。ジンは民家の裏手に回った。サングラスの裏側にちら、と何かが映った。大きな男の影だ。
「お前が」
ピーチィを攫ったのか、と言い掛けて、ジンは後頭部に強い痛みを感じた。一人だけではなかったのだ。
「何しやがる、畜生」
ジンは振り返る間も無く、前後から滅多打ちに殴られた。声を出す暇も与えられない。一体、何人がよってたかって殴っているのか判らないくらいに。
黒い布が被せられた。ジンは、必死の抵抗も空しく、袋詰にされてしまった。
ヅギュン。
パウダーガンの発射音。紛れも無く、ジョー・クリサンスマムのリヴォルヴァーだ、とジンは気付いた。見えないが、そうに違いない。
「ジョー!」
ジンは叫んだ。大きな掌の感触が、がっ、とジンの頭蓋を掴む。人間離れした力だった。余りの激痛に涙が迸った。
「ジーン」
ジョーの叫びも、ジンの耳には届かない。それもその筈。ジンは既に民家から連れ出されていたのだ。気が遠くなる。不覚を感じながら、ジンは体の力が抜けて行くのに抵抗出来なかった。
一面の黄金色。
風になびく金色の柔らかな穂。掌にちくちくと、そして陽の光を含んで暖かく、香ばしい匂い。初秋の日向の匂い。何処までも続く黄金の海。
「お兄ちゃん」
両腕を不器用に振って黄金の波を渡る少女がいた。青く大きな瞳。金色のふわふわとした短い髪。半分べそをかいた少女の顔が近付いて来た。
「お兄ちゃん」
「何慌ててるんだ」
アーチは振り返った。小麦色を反映した頬の少女は、手を差し伸べた。
「ディアーヌ」
少女の細い指が、少年の右手指に絡み付く。まだ八歳の妹。だのにその濡れた青い瞳は、底の見えないカルデラ湖のように人を惹き付ける。美しい薔薇色の唇。黄金の髪。ミルク色の肌。
まるで鏡合わせのように自分に似た、一つ違いの妹。
違うのは瞳の色だけ。妹が冷たい朝靄の中から姿を現す湖の色ならば、兄は太陽に抱かれた真昼のオリーヴの若実のよう。
「泣くようなことでもあったかい?友達とケンカした?」
ディアーヌは首を振った。短い髪が揺れる。
「友達なんていないわ。お兄ちゃんが突然いなくなってしまうような気がしたの」
少女の湖が溢れ出さんばかりに潤んで、兄の顔を見詰める。少年は、両手を伸ばして妹の頬を伝う涙を拭ってやる。
「何処にも行きやしないよ」
「嘘付き。お兄ちゃんは、いつも私を置いてきぼりにするもん」
「そんなことない」
少年は微笑した。遠くに若い女の声がした。小麦畑を渡る風に乗って、良く通る呼び声。
「ほら、シモーネが呼んでる」
少女は漸く、顔を背けた。
「お兄ちゃんを呼んでおいで、って。お茶の時間なの」
あからさまに仏頂面を見せる妹の頭を、アーチは撫でた。父親の新しい恋人を嫌っているのだ。
「お兄ちゃんをあんまり困らせるなよ」
初秋の日向の匂い。妹の手は、太陽を浴びて温かい。そして、涙の味がした。
眠いのが判っていても、無理矢理現実に引き戻さねばならない、と思う時がある。まさしく、アーチは力いっぱい夢の海を渡り切って、くたくたになりながら目覚めた。
「今更、妹の夢を見るなんて・・・」
二ヶ月振りだ。いや、以前はこう頻繁に見ることもなかった。むしろ平生、身内の事など念頭にも無い。
「実に寝つきのいい男だな」
消えかけた焚き火の向こうから、ジョー・クリサンスマムが現れた。咥えタバコの赤い火口が目に止まる。
「きっちり八時間寝るのが、オレの健康法でね」
「なるほど、ほぼ正確だ」
ジョーは自分の腕時計を確かめた。
「ところで、二人はどうした?」
アーチはネクタイを襟首に回した。面倒なので、プレーン・ノットで結ぶ。
「・・・それがな」
ジョーは頭を掻きながら、焚き火を熾す。燻っていた小さな赤いともし火が膨らみ始めた。
「ううむ。ま、とにかく朝メシでも食いながら話そうじゃないか」
「朝メシなんて何処にあるんだ」
「あんた名前はフランス人だが、イタリア系だろ?」
「半分はな」
アーチは胡散臭そうな目付きで、ジョーを見据えた。ジョーの右手が、アーチのジュラルミンケースを指した。
「服装を見りゃ判る。今時、医者でネクタイを締めてるなんて、上層都市でもホワイトカラーのイタリア系だけだ。しかも、すげぇ柄物」
「ヴァティカン御用達に文句を付ける気か?」
「いやいや、そーゆう話じゃなくて。カフェ・エ・オ・レ淹れるから、ビスコッティーノ出してくれ」
「ったく、調子のいい聖職者だな」
アーチは溜息を吐いた。文句を言いながらも、ジュラルミンケースを開けた。
第二章へ続く
「前回までのSTORY」へ戻る