第七話
 〜タンゴ・ジェノシディオ ballare il tango genocidio
(前編)


第二章  THE REGISTED HERO  医者の不用心 聖職者の火の用心
 
 目覚めた時の後頭部の痛みが抜けず、ジンは気が付いてみると食欲すらも失っているのに気付いた。
 無論、虎の子の《ブラックホーク》は無い。ガンベルトも外されていた。
 世界が総天然色に見える。
「サングラスまで持ってきやがった。何てこった」
 薄ぼんやりした蛍光灯の下に置かれている自分の四肢に自由がないのは、只縛められているからではない。何かの薬品を投与され、全身がひどい脱力感に苛まれていた。
 ジンが腰掛けているのは粗末な肘掛け椅子で、手擦りも折れそうな古ぼけたものだ。
 ゆるゆると動く首だけを回して、狭い小部屋を見回す。まるで掘っ立て小屋のような殺風景さ。窓は一つ。唯一その窓から、外界の様子がわかる程度だ。恐らくは、農家の作業小屋か納屋だろう。外からは、何やら男のものと思われる複数の話し声が聞こえる。
 侵入してくる空気は、明らかに山のひんやりとしたものだ。
「どういうつもりなんだ?」
 ジンは誰何せず、不意に小屋に入り込んだ人影に向かって言った。男は、厳かな足取りでジンに近付き、見下ろした。
「お前が知ったところで、どうにもなるまい」
 男は何処か訛りのあるトランスを使った。身の丈は、六フィートをやや上回るくらいに見えた。薄明かりの下から見る顔は、やや赤い。左頬の中程に大きなホクロがある。酒の匂いもするが、それだけではない。生まれつき赤みを帯びた肌なのだ。眉は残忍な弧を描いて、その下の鳶色の瞳は、常人にはない狂気じみた光を湛えていた。服装は至って紳士的で、何処だかの弁護士か学者に見えなくも無い。だが、胸板も掌も厚く、少なくとも普通の知的労働者とは思えない部分も見え隠れている。
「それに、聞きたいのはオレの方だ」
 男は野太い声で、言った。
「神父と一緒にいただろう?お前らはあの神父の何者だ?」
「何者?」
 ジンは三白眼を作って見せた。
「神父とは昨日・・・会ったばかりだ。行きずり以外の何でもねえ」
「袖摺り合うもナントカってヤツかい?それにしちゃ、ヤツは血相変えてたじゃねえか」
 男はコートの内ポケットから、ジャック・ナイフを取り出した。初夏というのに、しかもこんな温帯林の山中でコートなど着たままだというのは、そういうことだ。いや、ジャック・ナイフのような小さい代物だけでなく、もっと長いエモノも隠し持っているに違いない、とジンは悟った。
「知るもんか。たとえ赤の他人でも、子供なんかが攫われちゃ、誰だって頭に血が上るってんだ」
「ほおう。ヤツは慈悲深い神父様だからな」
「ピーチィは何処だ?」
「ああ?お嬢ちゃんか。心配するな、ゲストルームだ。オレの弟分達が話し相手でな」
「ゲストルーム?・・・クソ食らえだ」
 男は、傷のある右手に握ったナイフの刃先を、ジンの左頬に当てた。
 丁度、三条痕に水平に刃先をつっと滑らせる。皮膚は切れない。まるで、小鳥の羽で撫でられるような軽い感覚だが、確かに鋭い刃の移動は感じられる。身動ぎ一つで、さくりと身が裂かれるのだ。
 ジンは確信した。この男が、この男こそが村人を皆殺しにしたのだ。他の下っ端なんぞは取るに足らない。こいつこそ、真の殺し屋だ。
「勇ましい傷じゃねえか、兄ちゃん。その傷は。何なら、もう一本増やしてやってもいいが」
「ジョーに個人的な怨恨があるなら、何故ジョーだけを狙わない?」
 これまた月並みな台詞のように思えたが、ジンは言った。
 男は笑いもせず、刃先をジンの頬に当てたまま、ジンの黒い瞳を覗き込んだ。
「・・・お前も所詮は黄色いサルだな」
「それがどうした」
「お前には、オレの崇高な理念が理解出来ないらしい。アジアの類人猿どもめ」
 男は、ジンの頬に唾を吐き掛けた。スコッチの匂いが混じっている。
 男の目には、肉食獣のそれに似た青い灯火が宿っていた。
「口では誠実を語って置きながら、いざとなると肉親をも裏切る薄汚い連中だ」
「何の為にオレらを捕らえたかは判ってんだ。ジョーをおびき寄せるくらいなら、自分が出て行ったらどうなんだ」
 ジンは、頬を伝う生暖かい物を拭えない不快感に、焦慮を覚えていた。
「お前らに言われる筋合いなどない」
 男はそう言うと、ジンに背を向けた。まるで、これ以上の遣り取りは無意味だというように。いや、男は自分の領分を知っている。頭に血が上れば何をするか判らない。折角の人質を殺してしまっては、それこそ無意味だ。
「グラッド・アイ」
 ジンは叫んだ。その刹那だけ、男は振り向いた。まさか、ジンが自分の通り名を知っているとは思わなかったのだ。
「あんたがグラッド・アイなんだろ」
 だが、男は直ぐに平静の顔を取り戻した。右手をコートの中に隠して、小屋を出て行く。本当は、小生意気な東洋人の顔を、血なますにしてみたかったのだが、堪えていた。入れ替わりに入ってきた若い連中が冷笑を見せた時、その右手が僅かに動いた。
 若者のシャツの前は、ほんの一触れで、グラッド・アイのナイフに切り刻まれていた。だが、若者は肩を竦めただけだった。こんなことは、日常茶飯事なのだから。
 
 雨は至る所に足跡を残そうと試みる。この、イル・クッポローネの裏側に位置する建物とて、例外ではない。建物は約二世紀の年代を経ていた。相変わらず完全電化されないのが、ヴァティカンの奥ゆかしさともいえたが、煩わしさでもあった。
 科学撤廃主義もほどほどにして欲しい、と若いミスティ・サファイアは思う。
 建築内部は優雅な螺旋階段が中心を貫いている。各々ヴァティカンの要職にある人物の個人的な書斎が、この棟に設けられている。
 ミスティは、黒い陰気なインバネスを入り口で脱いだ。僅かに長い首筋が見えるだけの、色気も愛想もない黒い制服は、特務巡検使の正装であった。胸に金色の跳ね馬のバッヂ。
 だが、柔らかい鹿革のスーツは、却って若い女巡検使のしなやかな肢体を、一層引き立てる役目を担っていた。誇らしげにつんと高く盛り上がった胸の隆起、蜂のようにくびれた腰、程好く緩い曲線を描く長い脚。総てが天工の仕業と思える完全な調和を保った美の上に、さらに一滴。無意識の媚態という悪魔のエッセンスが加えられたプロポーション。
 聖職者の御前及び聖堂に入るときは、寸鉄も帯びてはならない。丸腰のミスティは、静かに階段を上がる。
 休憩も無しに五階まで一気に上がると、西向きのバルコニーを尻目に休憩所のフロアを突っ切った。相変わらず、陰鬱な雨音は続いている。
「おじさま」
 ノックを立て続けに三回。と、共に声を掛ける。返事は無い。
 ドアノブはゆるりと回った。奇妙だ。主が不在の時はオートロックのセキュリティシステムが働くというのに。或いは、一時間経っても主が戻って来ない時は、自動的にドアは閉まる。ということは、少なくとも伯父が部屋を開けて一時間にはならないということか。
 ミスティは、ゆっくりと右手で扉を押した。利き腕は何も掴まないのが、丸腰で警戒態勢をとる時のセオリーだ。
「おじさま、いらっしゃらないの?」
 ミスティはわざと大きな声を出した。書斎へと入って行く。毛足の長い絨毯に、ブーツのハイヒールが沈んでいく。
「サフィール枢機卿」
 いつも伯父が恭し過ぎるから、といって姪には呼ばせない言い方をする。だが、やはり返事は無しの礫。三十平米ほどのゆったりとした個人用書斎には、紫檀のビューイング・デスク、職務用の事務机と三連の書棚。ティー・テーブル。普段、書斎に客人を招きいれる習慣は無いので、調度は至ってシンプルだ。
「お手洗いにでも行ったのかしらね」
 と、ミスティは一息吐いた。伯父は確か、痔疾を患って長い。所用が長いのは致し方ないだろう。
 見るともなしに部屋を眺めていると、事務机に置かれたパソコンが目に止まった。脇の一輪挿しには紫のバラが一輪。馥郁とした芳香は、このバラが放つものだった。
 パソコンの立体ホログラム式ディスプレイは、立ち上げられたままだった。普段は、キーボード内に収納されている。伯父がさっきまで仕事をしていた、という証明のようなものだったが、放っておくとバッテリーを消耗するので、ミスティは消そうと試みた。
「ファイルも開きっぱなしだわ」
 メールの着信もそのままにしてある。
「不用心だこと」
 メールは使用者本人にしか開くことは出来ない。だが、ファイルは容易に開くことが出来た。ミスティは、好奇心に駆られて覗いて見た。
 どうやら、内容は個人データらしい。枢機卿がディアスポラ及び上層都市に送り出した任務執行官のデータと、実行中の仕事の進捗状況が記されている。これらは、実務に着いている本人が定期的に送ってくるデータだ。
「企業秘密というわけね」
 少しくらいいいでしょう、どうせ自分の事も入ってるのだから、とミスティは画面をスクロールする。
 アルファベット順の先頭に、アーチレリー・ブールヴァルドの名前があった。ファミリー・ネームがAに当たる人物はいないらしい。データ自身は面白いものでも何でもない。本名・国籍・生年月日・身長・体重・身体的特徴、そして経歴を羅列したものが載っているだけだ。興味がないこともないが、あの男の血液型を知ったところで意味は無い。
 だが、ふと家族構成の項目で視線が止まった。
「実父ジャック・フィリップ・ブールヴァルド・死亡、義母シモーネ・ブールヴァルド・死亡・・・それだけ?」
 ミスティは呟いた。おかしなことに気付いた。
 確かアーチには、年子の妹がいると本人の口から聞いた筈だ。だが、兄弟の項目は「無し」と書かれているだけだ。死亡なら死亡の明記がなされている。養子も然り。
 出任せなのだろうか。だが、そんな嘘に何の意味があるのだろう。
 不意に、視界が暗くなった。
「随分とまたご熱心な」
 ドアの隙間から潜り込んだらしい男が一人。部屋の主ではない。ずっと若年の、そして背の高い男だ。
「侵入者にもお気付きになられぬとは、それほど貴女が御執心になるものがおありですか?」
 男は極めて甘く柔らかい口調で言った。微かに抜け目の無さを思わせる言葉尻だ。
 ミスティはこれ以上の侮辱は無い、という感じで男を無視し続けていた。だが、ものの数秒も経たない内に我慢ならなくなった。それは、男が無遠慮にミスティとの距離を縮めて来たからだ。
「ノックくらいなさったらどうなの?リガール卿」
 ミスティは、ディスプレイから顔を上げずに言う。その鋭い言葉の槍先をものともせず、リガールと呼ばれた男は微笑した。また、一歩事務机に近付く。
「これは失礼。だが、ここはサフィール枢機卿の個人的書斎。いくら姪御の貴女とはいえ、同罪ですよ」
「聞き捨てならぬわ、その言い方」
 ミスティは、大きな双眸を上目遣いに、漸くリガールの顔を見据えた。
 青白くさえ見えるが、病的ではない肌膚。整えられた漆黒の髪は、緩くウエーブを描いている。血の様に赤い、酷薄な唇。そして、深い緑の瞳。面長の輪郭の中心に聳える、やや鷲鼻気味の長い山脈。
 ミスティが直立してもやや斜交いに見えるほどの長身。
 マキシム・デ・リガール。ヴァティカンでの肩書きは、教皇報道秘書官。
 名こそラテン風だが、明らかに典型的なスラヴ人の特徴を備えた男。本名は自国語で、マッシミリアン・リグゥエフといった筈だ。この男、他人を苛立たせるに長けている。同罪などと、よくも言えるものだ、とミスティは俄に立腹したのである。
「相変わらず、ハキハキとした物言い、耳に心地好いですな」
 と、リガールは意味ありげに言った。
「そして、怒ったお顔がお美しいのもお変わりない。安心しました」
 リガールは慇懃に腰を曲げ、ミスティの右手を取った。手の甲に親愛の口付けをしようとして、リガールは拒否された。
 やんわりと手を下ろすミスティ。抗う方が、この男が喜ぶのは目に見えている。
「かれこれ一年ぶりでしたかね」
「覚えていない。また、覚える必要も無いわ」
 ミスティは、自分の顎に右手を当てた。
「葬儀に御参列と聞いています」
「いちおうはね」
「このままヴァティカンにお戻り、という訳ではないのですか?」
 リガールは、穴の開くほどミスティの顔を見詰めている。爬虫類のように瞬きの少ない男だ。
「私の任期は、まだ二年残っているわ」
 その応えに、リガールは首を横に振った。
「いつ何時、何が起こるか判りませんよ。この御時世ですからね」
「何が仰りたいの?」
 ミスティは訝った。キーボードをそらで弄り、ディスプレイを仕舞いこむ。
「大司教は三月前までは、頗る御健勝でいらっしゃいましたがね」
 リガールはそう言いながら、窓辺を見遣る。ふとオー・デ・コロンの清々しい、森林の纏う朝霧に似た香が漂う。鬱蒼とした黒い森に住まう魔法使いのような美しい男。こんな男、浮世に似つかわしくない。
 でっぷりとしたファビオ・キアラモンティ大司教の姿が、ミスティの脳裏に浮かんだ。そう顔を合わせたことはないが、数度視察に供した記憶が残っていた。齢は八十半ばだろうか。恐らく、この年まで病気らしい病気などしたことが無かったに違いない。
 それが、みるみるうちに痩せこけて、出歩けなくなったという。百キロ近くあった体重が臨終前には四十数キロだったというからには、如何に衰弱の度合いが激しかったかが想像出来よう。
「病状の程は、私も詳しくは存じ上げないのですが、急性再生不良性貧血だったとか。ご高齢になって突然発病される場合も多いようですね」
「アナタの口振りは、それ以上に含むところが大ありね」
 ミスティは腕組みをした。長いブルネットが胸先に揺れる。
「さあ、どうでしょう」
 リガールは、肩を竦めた。
「ここには聖職者という名の様々な悪魔が巣食っていますからね」
「よく言うわね、大きな声で」
 盗聴器が仕掛けられているかも知れないというのに。いや、知ってのパフォーマンスだろう。迂闊に口車に乗って、寝首を掻かれる事もある。この手の会話は応じないのが利巧だ。
 だが、声高に大司教暗殺を唱える者はいなくとも、リガールのように疑念を抱く者は少なくないだろう。
 事実、枢機卿会の運営に大きく関与していたのはファビオ・キアラモンティ大司教その人であり、そのことで実権を握れぬ枢機卿がいたことは否定出来ない。大司教の死をこれ幸い、と暗躍する輩も既にいるのかも知れない。
 ある意味、リガールの言うことは当たっている。
 また、これを機に遠巻きに教皇を追い遣ろうとする者が出てくる可能性もある。教区の信頼篤かった大司教なくして、人事異動があれば、別な動きがある筈だ。教皇の絶対権力に与する後ろ盾が、激減したことだけは事実だ。
「アナタは日和見主義を決め込むおつもりね」
 ミスティは鼻で笑った。
「何を仰る。私は仮にも教皇付き報道秘書官ですよ」
「でも、枢機卿とは違う。教区も持たない、叙階も無い自由な身分だわ。ヴァティカン以外との接触は?」
 あけすけな質問に、リガールは失笑した。
「心外ですね。貴女からそんな風に言われるとは。私がヴァティカンの情報を何処かに売るとでも?ハハハ、成る程上手い商売だ。考えも及ばなかった」
「白々しいわね」
 ミスティは、気分を害するでもなく、むしろ微笑を浮かべてリガールの顔を見詰めていた。
「私の望みは一つ」
 エメラルドに似たグリーンの瞳がミスティを見詰め返す。同じ緑の瞳は、この世に二つとない。
「一刻も疾く、貴女に枢機卿会に入って頂きたい。それも南面の席へ」
 北側の上座は、言うまでもなく議長席。現在はミスティの伯父、グレナデン・サフィールの席でもある。
「おじさまを引退させろ、と言うの?」
「私はそのような強行派みたいなことは申し上げていません。飽く迄速やかにお引継ぎを、と」
「まだ私の身分は民間人。叙階の秘蹟も受けていないわ。それに、枢機卿は世襲制ではない」
「世襲制ではないからこそ、伯父上はそのお気持ちが強いのではないでしょうか?」
 ミスティは口篭った。一方、リガールは水を得た魚のように生き生きと喋り出す。
「貴女の伯父上は諸兄に比してハンディがおありだ。まったくの民間人から、しかも大抵の聖職者が叙階を終えた頃に、教義を学び始めたそうですね。それにしては、異例の出世です。だが、もう若くはない。先は限られています」
「知った風に言うのね。まだ伯父貴は、七十歳には少し間があるわ」
「人間、いつ果てるとも限りません。年月の流れだけは、万人平等ですからね。さて、伯父上のような聡明な方には、何かお考えがあるのやも知れませんが」
「は・・・」
 ミスティは笑った。やれやれ、赤の他人に何でこんな事を言われなければならないのか。
「まったく、アナタにこんな心配をされる筋合いなど」
 リガールは、不意に困ったような悲しいような微笑を見せた。
「私が個人的に、貴女の身を案じているだけのことです」
 リガールの腕が、ミスティの背中を引き寄せた。魔術師のように静かに、リガールはミスティの頤に長い指を掛けた。
 唇を塞がれている間、ミスティは瞳だけを泳がせて伯父の書斎を観察していた。
 せめて古びた儀礼用の剣なりとあれば、いっそこの男の首筋にでも突き立ててやりたいが、生憎と武器になるような物は見当たらない。
 ミスティは冷ややかな頭脳で思いを廻らせながら、成すがままに唇を開いた。
 リガールの長い手指は、ミスティの耳朶を撫で、首筋をなぞり、鎖骨の窪みに触れた。その下の急激に盛り上がった双丘には触れず、制服越しのくびれた胴を下って行く。
 ミスティは、濡れたような瞳で、リガールの深い緑の瞳を覗いた。そうして、躊躇いもなく舌を誘い込んだのは、彼女の方からだった。舌が絡み合うと、視線は離れる。リガールの指先が、ミスティのブルネットの端を弄ぶ。ロザリオの重い鎖を引き上げようとして、ジッパーに掛かる。
 仕方なく胸の谷間に指が差し込まれると、ミスティは低く喉を鳴らした。
「・・・ああ」
 悩ましい声に、男の呻きが重なる。
 ブーツの踵が、見事にリガールの靴の甲を直撃していた。
「相変わらずなのね。キス上手は恋愛上手というけれど、アナタの場合はどうかしら?」
 ミスティは、微妙な笑みを浮かべながらロザリオの鎖を奪い返し、乱れた髪を直した。大股で部屋を横切って行く。
 リガールは、よろめきながらも冷静な顔付きだけは失っていなかった。
「男性の好みが変わられたのですか?」
 唐突な問い掛けに、ミスティは横顔だけを向けて立ち止った。リガールの意味ありげな笑みが、ミスティの血の気を引かせた。自分こそは何でも知っている、といった口振りにも腹が立つが、それ以上に見る者を屈辱的な気分にさせる表情が忌々しい。
「貴女の瞳が見詰めていたのは、私ではなかったようです」
 何処かで聞いたような陳腐な台詞に、胸がむかむかしながらも、ミスティは階段を下りていった。すれ違う事務官は、匂うような美しい女巡検使に、一瞬見惚れる。そんな反応など歯牙にも掛けない様子でミスティは歩いた。
「いつか殺してやるんだから、あの男」
 絶対権力を持てば、それは可能だ。だが、それは同時にリガールの勝利宣言を意味する。枢機卿なんかになるのは真っ平。取敢えずは、この任務が早く終わる事を祈るだけだった。

 アーチは、不意に胸元の十字架に手を触れた。別に触れたくて触れたわけではない。襟元を緩める為だった。じっとりと絡んだ汗が、贅肉の一欠けらも無い肉体に粘り付く。格別美しくもない、そういとおしみも感じない素人の娘と寝た朝のような不快感が襲ってくる。
 原生林の中を進む。こんな真夜中に一条の光も無く、ただ只管藪掻き分けて行く。しかも常人を越えたスピードだ。
 行けども行けども迫る地形は変わらない。殆ど亜熱帯に近い温帯の密林は、下生えの野生獣も通さぬ笹の群生に覆われている。
 村を出てから約一時間、こうして山道を逸れ、わざわざ南へ迂回して進路を取るには、それなりの理由があった。実際に藪に入ってからは、数十分も経っていないだろう。
 不意に、ジョー・クリサンスマムはよろぼうた。
 靴の裏は赤土でずるずるになり、露に濡れた笹葉を滑ったのだ。こうした少しの油断すら、暗野の中では命取りとなる。
 あやうくジョーは左足を取られ、滑落し掛けた。
 その右腕を白衣の腕が引き上げる。
「ひゃあ、アブねえアブねえ」
 ジョーは片膝を付いて踏ん張った。眼下は浅い渓流が走っていた。笹が生えるような所は概して湿っぽいものだ。
「あんた、プロでしょうが」
 アーチは呆れ顔で言った。何時までも中年男と手を繋いでいたくないので、直ぐにも引き起こす。
「オレ、都会派だろ?こういうサバイバルな所は苦手でねぇ」
「オレだって得意じゃない」
 アーチは両腕を組んだ。傍らに生えているサルスベリ科らしい光沢のある樹木に、背中を預ける。
 オリーヴグリーンの澄んだ瞳が、腰を下ろしたジョーを見下ろした。ジョーは、僅かな月の明かりで、アーチの白皙を見上げた。
「白衣は汚れるし、ネクタイは露浸し。手は引っ掻き傷だらけ。どうせ、引っ掻かれるなら、赤くて尖った爪のほうがマシだ」
「同感だな」
 ジョーは神父にしては不謹慎とも取れる相槌を打って、尻ポケットからスキットルを取り出した。ジンが置いていった物だ。ただし、酒ではなく、水が入っている。ジョーは素早く唇の渇きを癒した。
 本当は一服やりたいが、そうはいかない状況である。
 ジンとピーチィが連れ去られた場所へ近付いているのは、間違いのない事実である。一本道しかないのだ。だが、逆に一本道では逃げ場も失う。だから、敢えて道を外れた藪中を移動したのだ。
 暗視ゴーグルもないのに、まるで舗装された道路を普通に歩いて行くように進む、アーチレリー・ブールヴァルド。訝る間もなく、付いて来たのだが、常人の成せる業ではない。
「何故、フォーティファイドに?」
 ジョーは、スキットルをアーチに投げた。アーチは、見向きもしないで軽くそれを受け取る。
「生まれつきだ、という答えはどうだい?」
「志願したんじゃないのか」
「軍属中の志願兵なら、除隊時にノーマルに戻されるさ。まして、オレは軍医だからな」
 アーチは、スキットルの蓋を回し開けた。ジョーは、眉尻を下げる。
「悪いコト聞いたか?」
「別に」
 アーチの素っ気無い答えに、ジョーは頭を掻いた。
 事の真相を話した時、ジョーは自分の失態を罵倒される覚悟でいた。だが、アーチはそんなことなど意に介さず、直ぐに村を立つ提案をした。腹の底では怒っていても、仕方の無いことだが、無益な時間の使い方はしない主義らしい。ジョーは、ほっとした。
「いや、あんたなら、『二人共放って置けば』とかナントカ言うかも知れんという気もしたが、意外に・・・」
 ジョーは、はっ、と身構えた。一瞬、アーチの拳が飛んで来そうに見えたからだ。
「幾らオレでも、そこまで鬼畜かよ。ま、半分仕事だがな」
「半分仕事ねぇ」
「ジンを死なせるワケにはいかない。今や、インドゾウよりも稀少な、唯一の生きた日本人だからな。それに、ヤツには勅命がある」
「勅命、か。いずれ、ノアの箱舟にでも乗せるのかね」
 ジョーは手の甲で唇を拭った。お互いに手札を全く見せ合わない者同士の会話は、実があるようでないものだ。
 休憩は、現実にはものの五分も無かっただろう。山道に沿って下って行く。微かな川のせせらぎが付き従う。
 この峠道は、数十年前に村人が作ったものだ。もともとこんな所に人はいなかった。少なくとも前世紀は。だが、恐らく二十世紀後半から二十一世紀前半、人口が最も多かった時代には村落が幾つかあった。所謂漢民族ではない、周辺少数民族と一般的に認識されている民族の村落だっただろう。
 アーチは、やにわに歩みを止めた。それと、ほぼ同時にジョーも身を屈める。
 暗闇を縫って、藪を擦り抜けた物体は、ボウガンだ。
 アーチとジョーは目配せした。
 文字通り、鉄の矢を弾き出す、強力な殺傷力を持つ弓。ブラスターに比して扱いにくいが、正確さは格段に上回る。鏃には毒物や炸薬を仕込む場合もある。いずれにせよ、こいつを持った人間には出会いたくないものだ。
 暗黙の了解で、微動だにしない二人。互いの目だけを動かして確認をとる。
 新陳代謝を急激に低下させねばならぬプレッシャーで、血の気が引いていく。
 恐らくは見張りの者だろう。
 ということは、次の村落へ辿り着いたということだ。しかし、侵入は予想通り容易ではない。見張りは、暗視ゴーグルでも備えているのだろうか。
 ともかく、数分がとてつもなく長い時間に感じられた。見張りが去ってしまうまでは、どうしようもない。ライトが、木々の間をゆっくりと照らし出して行く。
 二人は樹木の蔭に中腰でへばり付いたまま、息を殺していた。やがて、光が遠退くと漸う立ち上がる。
 もう、殆ど村の入り口だ。朽ち掛けた木造建築物や、漆喰の壁が見える。それらの一画だけがいやに明るいのは、明らかに人間がいる証拠だ。それも、文明に切り離されるのを恐れた人間であればあるほど、明かりを求める。
「どう思う?」
 と、アーチが横目でジョーを見た。相変わらずの余裕の表情でだ。
 どう、とはこの場合、自分たちがどう出るかの選択だ。それは、予め二つしか無い選択肢から選ばねばならない。『行く』か『行かない』か。
「行くか」
 更に選択肢はある。『正面切って行く』か『こっそり忍び込む』か。
「うーむ。第三の選択ってのは、アリか?」
「・・・例外も然り、ってトコだ」
 アーチは首を傾げ、両手を広げた。

 見張り役が二人。ハンド・ブラスター(小型熱線銃)を小脇に抱えて、村の入り口をうろついている。見た感じは、ぱりっとしていない。眠たげな表情を、必死でカヴァーしている様子が伺えた。
 それもそうだ、真夜中の三時なのだから。
 その奥に並ぶ建物は、いまそこを占拠している住人に似つかわしくないほど、オンボロで素朴だ。所在なげに頬杖を付いたり、船を漕いでいる男達は、一癖も二癖もありそうな風体だ。
「あんなテロリスト、歩いてるだけでバレバレじゃないか」
 アーチは、瞳を凝らしながら言った。
「どう見たって、堅気の連中には見えない」
「金で雇った、寄せ集めの傭兵だろ。何処も人手不足だからな」
 ジョーは、皮肉に唇を歪める。
「BBWは百人からいるって言ってたんじゃないのか?何も皆が一緒に行動しているわけじゃないにしても、だ」
「あんたの言う通りだが・・・もしかしたら、ヤツら・・・」
 ジョーは言い澱んだ。アーチは、振り返る。
「もしかしたら?」
「いや、確証が持てないんでな」
「よく飲み込めないな。テロリストの割には豪勢じゃないか。金で傭兵を雇うなんて、ちょっとしたスポンサーでもいない限りは、出来る筈もない」
 アーチは、嫌味とも率直とも取れる言い方をした。建物は、母屋を東にして、小さな棟が二つ並んでいる。村長の家だったのかも知れない。割合に大きい。外から観察しただけでは、一体何をしているのかは判らない。
「人数は二十ないし三十人程度だな。それも、相当ヤバイ奴ら。ボスは見えるかな」
 アーチとジョーは、茂みの中から、両目だけを見せている。尤も、昼間と違わずはっきりと様子が伺えるのは、アーチだけだったが。
「どんなヤツだ?」
 ジョーは、漸く大息を吐いて、ダンヒルを咥えた。ここなら、煙も見付かるまい。
「出て来た。見張りのヤツに声を掛けてる。灰色のコートに、髪はオールバックの長髪だ。はっきりしないな。赤い顔に獅子鼻。見るからにアイルランド系のようだ」
「・・・・・・」
 ジョーはライターを探りながら、身を乗り出した。
「見た目、手の付けられないイカレ野郎って感じじゃあないがなぁ。左頬にホクロがある」
「ホクロ!」
 ジョーは思わず立ち上がった。ガサガサ、と派手な木の葉の音がする。
「おい、音を立てるな」
 肩を引き押さえようとする、アーチの右腕を振り払って、ジョーは一歩踏み出した。
「確かに左頬にホクロ、と言ったな!?」
「ああ」
 ジョーは、アーチの顔を見詰め返す。その眼差しには、嘘や冗談では済まされない本物の驚愕が宿っていた。ジョーはダンヒルを握り潰し、歩み出した。
「気は確かか?ジョー」
 呼び掛けるアーチの声も耳に入らないかのように、ジョーはついに茂みを脱した。
「正気だとも」
 ジョーの右手に握られているリヴォルヴァー。それは、10.5バレルの銃身を持つコルト・パイソンのリメイク版。銃身に描かれた意匠は太陽。
 《パイソン・ブラザーサン》。女巡検使ミスティ・サファイアの愛銃《パイソン・シスタームーン》と対なす名銃。まさか、この男スロッピー・ジョーが持ち主だったとは。
 アーチは黙って、ジョーの背中を見送った。いや、只見送るわけにはいかないのは、とうに覚悟していたのだが。そして、腋下のホルスターが重みを免れた。

 書斎を出たリガールは、螺旋階段でサフィール枢機卿と出くわした。
 紫煙が絡み合った瞬間、笑みを先に浮かべたのは若い男の方だった。
「姪御どのにはお会いになられましたか?モンシニョール・サフィール」
「いや」
 と、枢機卿は手を振る。
「あれは、ここには寄り付かんのでな。ヴァティカンに戻るといつも、師匠の所へ滞在しておるようだ」
「セノビオ・サウザ殿ですね」
 リガールは、言った。
 元パウダーガン使いで、名誉聖堂騎士の称号を持つ老人。ミスティ・サファイアの元家庭教師であり、剣の手解きをした人物である。今は引退して、ポジターノで悠悠自適の生活を送っていると、リガールも噂に聞いていた。
「でもありませんよ。つい今し方まで、ここにおられました。話していたんですよ」
 リガールの他愛ない返事に、枢機卿は目を丸くした。
「本当か?」
「何か卿に御用があった様子でしたが」
「ふむ。どうせ今度の葬儀のことで、文句の一つも言いに来たのだろう。まったく、いつまで経ってもこの伯父の言う事が気に入らんらしい」
 枢機卿は、眉を顰めた。リガールは、老人の顔斜交いに眺める。
「甘えていらっしゃるのですよ。卿はアルテミス殿にとって、父親代わりのような存在ですからね。可愛らしいではありませんか」
 この男の口から、可愛らしいなどという言葉が自然に出てくるほうが、サフィール枢機卿にとっては意外だった。
「大きな図体しおって、可愛いも何もない。もう二十四だのにお転婆娘みたいに。いつまでも、そういう訳にはいかんというのに」
「では、最初から、お役目私に頂けましたらよろしかったのに」
 リガールの緑の目に、不敵な光が点った。深い深い森のような色に、覗く底なし沼の水面のような秘密な光。
「貴公は適任者とは思えなんだのでな」
 枢機卿は、あっさりと応じた。
「私よりも、あの、人の皮を被った怪物の方が信頼できると仰りたいのですね」
 リガールは焦慮を堪えて、低い声で言った。婉曲的な言い回しをされた、その当人が誰であるのか、枢機卿は思い起こすまでもない。
 そして、リガールの冷たい美貌を、老聖職者は見据えた。辛酸を嘗め尽くした青灰色の瞳は、舌鋒よりも鋭い光を放っていた。リガールごとき若造の嫌味など、毛ほどもない。
「言葉遣いには気を付けられよ」
 そう言って、枢機卿は階段を上った。
「お待ち下さい」
 リガールの声は、平静な口調に戻っていた。枢機卿は振り返った。
「このローマにテロリストの輩が潜んでいるようです。私の部下が探りを入れていますが、恐らくは五日後、葬儀の時に動くでしょう」
「何故、私にそれを告げる?」
 リガールは、頭を上げた。緋色の法衣が目に映る。
「教皇の身辺警護を姪御どのに仰せになりましたね?」
「・・・・・・」
「私とて、教皇の側近の端くれです。いざという時はこの命ヴァティカンに捧げるつもりです。それは、アルテミス殿に危険が及んだ時も同じ・・・」
 そう言い、リガールは静かに階段を下りて行った。振り返りはしない。枢機卿は、暫く若者の姿を見詰めていた。建物の外に出てしまう迄。

 ドガン。ズギュン。ギュン。
 飛び交うのは、赤や黄色の閃光とマズル・フラッシュ。
 ジョーはリロードの為に出した予備のマグナム弾を咥えると、一気に駆け出す。ハンド・ブラスターを操るテロリスト共の懐に飛び込むのだ。相手が一たびトリガーを引いたところを交わし、ダッシュを掛けながら《パイソン・ブラザーサン》のトリガーを引く。
 間違いなく、敵の利き腕はマグナム弾に弾かれて、ブラスターを落とした。
「ひゅう、やるじゃん」
 アーチは《キングコブラ・バニッシュメント》を構えつつ、口笛を吹いた。
「さっすが《銃王》」
「おだてたって、助けてやらんぜ」
 ジョーは歯を見せる。
 アーチは流石に人並みはずれた反射神経の持ち主だ。その動態視力をもってすれば、ブラスターの熱線といえど、蝶々が飛んでいるようなものだ。ひらりと交わして、お返しとばかりに357マグナム弾をブチ込む。普通のパウダーガン使いならリロードに最低でも十秒以上掛かるところを、倍速で終わる。
 惜しむらくは、無駄弾の多さだ、とジョーは思う。
 テロリストの一人が、マシンガン・ブラスターを持ち出して来た。半分火薬を直接シリンダーに詰めた、旧式の銃である。ブラスターが改良期に出回った、軍用のものだ。扱いを誤れば、暴発の危険もある。
 ドガガガガ。
 鼓膜を突き抜けそうな轟音と、もうもうと立ち込める火薬の匂い。
「うわわっ」
 小屋は穴だらけにされ、木材の粉が飛び散る。味方までもが巻き添えを食らいそうな威力に、めいめい踊るようにして慌てふためく。
「手前ェら、何考えてやがるー!」
 アーチは喚き散らしながら、《キングコブラ》で応戦する。そこらに転がったテーブルやら椅子やらを楯にするが、すぐに穴ぼこだらけだ。ジョーの放った一弾が、マシンガン・ブラスターを弾いた。が、手にした筋肉男は、ほんの一瞬ふらりと左右によろめいただけで、銃は手を離れなかった。
「げろ」
 アーチは、ヤケクソ気分で椅子を二つ三つ投げ飛ばしながら、ジョーの身体を後方へ押し遣った。
「あんた、ここに居ても仕方ないぜ。ボスの所へ行けよ」
「あのバケモン一人で相手にすんのか?お前こそ正気じゃねえ!」
 ジョーは口角泡を飛ばしつつ、眉毛を吊り上げた。額には、既に返り血がへばり付いている。アーチは、ジョーに向かって片目を瞑って見せる。
「フォーティファイドを甘くみるなよ」
「ジンとお嬢ちゃんはどうする?」
「まず、こいつらを片付けてから考えようぜ。邪魔臭い」
「了解」
 第三者、或いは人質本人が聞いたら、とんでもない会話である。そうして、二人は互いに背を向け合った。ジョーが立ち去るのを見届けると、アーチはばばっ、と白衣を脱いだ。
 筋肉男はブラスターのトリガーに指を掛ける。

 派手なマシンガン・ブラスターの炸裂音を背後に聞きながら、ジョーは母屋の奥へと踏み込んだ。
 一匹狼のジョー。
 軽薄そうでいて、その実誰にも心を打ち解けない。異端審問官の中の異端児。何故か、それが出会って間もない男達の身を案じている。ジョーは真っ直ぐに、振り返りもしないで歩いた。
 ドアを蹴破り、踏み込んだ。
「誰だ」
 野太い声が応じた。男は、折り畳み式のソファに身体を預けたまま、振り向きもしない。
「外が騒がしいようだな、まったく」
 ズチャ。
 金属音が、男の後頭部を捉えた。ジョーは《パイソン・ブラザーサン》の銃口をを突き付けていた。ジョーの口許は引き攣った。言わねばならない言葉が、歯と歯の間にはざかっているような、嫌な感じだった。
「久しぶりだな、グラッド・アイ」
 漸く嗄れた声が出た。ジョーは、突然に喉の渇きを覚えた。男はやはり振り返らない。ジョーがやや、銃口を離したというのに。
「その声は、スロッピー・ジョーか」
 男は動揺もしていない。そして、ゆっくりと顔だけを動かした。ジョーの全身に、戦慄が走る。予想出来た事であったにも拘らず、冷水を浴びせられるような感覚が背筋を素早く走り抜ける。
「やはり」
 先に呟いたのは、男の方だった。ジョーは、声を喉の奥に貼り付かせたまま、トリガーを引かず、男の双眸を見ていた。
 死んだ筈の男が目の前にいる。紛れも無い左頬のホクロ。その猛犬のような声までも同じだ。
「まるで幽霊にでも遭ったような顔だな」
 男は言い、フフフ、とジョーが笑声を漏らした。
「幽霊の方がまだマシだ。お前は、何故まだ生きてる?」
 グラッド・アイは直ぐには答えなかった。ジョーの額には、じっとりと脂汗が浮かんで来た。
「おかしな事を言う。オレは一度も死んだ事がない」
「嘘を吐け!半年前、オレが撃ったのは、お前の替え玉だとでもほざくのか!」
 ジョーは叫んだ。
「とんでもない。アレは正真正銘オレ様だ。お前はオレに何発撃ち込んだか覚えてるか?」
「・・・・・・」
「シリンダーが空になる迄、全部六発だ。左胸に二発、脇腹に一発、右膝に一発、左腿に一発。で、ドタマに一発だ。ここんとこな。覚えてるとも」
「鉛弾頭マグナム弾をあの至近距離で六発も食らって生きているワケがない。きっかり、骨まで砕いた筈。生きていたって、植物状態だ。お前は、やっぱりグラッド・アイじゃない!」
 ジョーは、再び《パイソン》をグラッド・アイの前に突き付けた。
 グラッド・アイは不敵な笑みを浮かべながら、コートを脱ぎ始めた。シャツの前をはだける。
 鍛え上げられた筋肉の上に、盛り上がった生々しい傷が二つ。ジョーは、確かに見た。二つの弾痕を。グラッド・アイは沈黙したまま、ジョーの顔が能面のように血の気を無くすのを、観察していた。
「どうした、ジョー?気分でも悪いのか?」
「何てこった!オレの頭はどうなっちまったってんだ!オレの目は!」
 ジョーは歯軋りした。グラッド・アイはけたたましく笑った。
「アハハハハハ!オレは死んじゃいねえ。お前には、オレを殺すことすら出来なかった!」
「うう」
 己の無様を、ジョーは呪いながら拳を握り締めた。撃ったところで、またこの男をを殺すことが出来るかどうか。
 グラッド・アイの右手が閃いた。抜いたのは、曲刀剣ククリににた刃物。右手だけではない。両手に、カーヴを描く二つの刃。それが、何であるのか確認するまでの間に、ジョーは僧服の胸元をぱっくりと裂かれていた。
 十字に裂けたのは、僧服だけでなく、中のシャツも同じだった。気が付けば、うっすらと血が滲み出しているのだった。罷り間違えば、無様に内臓をぶちまけている。
「フフハハハハ」
 グラッド・アイは耳まで裂ける程口を大きく開いて、笑った。既に、狂気の兆しが表情を隈取っていた。
 ジョーの目頭に汗が流れ込んだ。決まっている。今度対峙したら、仕留めるしかないと。
「・・・・・・」
 が、一陣の風とともに、ジョーの体は前方に突き飛ばされた。
 ガキン、という鈍い音と共に、グラッド・アイの右手のククリは小暗い部屋の後方へふっ飛ばされる。反射的ともいえる動作で、左手が振られ、鈍い音を立ててククリが飛んだ。
「おのれ!」
 グラッド・アイも思わず目を見張った。
 開いたドアの向こうに立っていたのは、アーチレリー・ブールヴァルドだった。《キングコブラ》は、まだ硝煙を吐き出していた。抱えた白衣に血糊が貼り付いている。
 互いが、刃物の行方を目で追う。
 そして、沈黙の天使は、足早に通り過ぎていった。
 アーチは口許に凄惨な笑みを浮かべて、構えた《キングコブラ》の照準をグラッド・アイの額に合わせる。
「ど下手くそめ。油断か?どうせなら、利き腕を飛ばしておくんだったな」
 まるで勝利を確信した者のように、アーチは声高らかに言い、左脇腹に刺さったククリを引き抜いた。
 ずぶ、という音とともに、パタパタと鮮血が滝のように流れ落ちる。血の付いた刃の部分の多さを見るに、内臓の損傷は必至だった。幾ら丈夫な腹筋とはいえズタズタで、咄嗟のことに応じられただけマシだ。
 アーチは酸っぱい唾に混じった自分の血を吐き出す。それが挑戦状としての白い片手袋の代わりを意味することは、一目瞭然だった。
 凄まじい357マグナム弾の応酬に、グラッド・アイはもんどり打って転がった。後方の部屋へ続く扉を破り、グラッド・アイはククリを拾い上げて飛び出していった。
 一見命からがら、のようだがそうではない。須らく計算された動きだった。グラッド・アイは只の刃物キチガイではない。恐ろしく機転の利く男だ。
 ジョーは汗の引いていく面を上げた。土気色だった頬に、やや血の気が戻って来た。そして、ドアに凭れ掛かったアーチに、飛びつくように駆け寄った。
「あんた、大丈夫か!?」
 アーチは、しかめっ面で首を傾げる。左脇腹からは、まるで穴の開いた輸送船のように血がどくどくと流れ出している。
「おたくを庇うつもりは無かった。オレのドジだ。それにしても、あんたこそどうしたってんだ?スロッピー・ジョー」
 ジョーは、アーチが差し出した右手の掌を見た。跳弾を何処かで拾ったものか、《パイソン・ブラザーサン》の発した弾丸が乗っかっている。
「やる気あんのかい?こんなラウンド・ノーズの357で」
「普段は、異端審問官はラウンドノーズしか携帯出来ない規則になってる」
 丸頭弾。所謂ラウンド・ノーズは、リヴォルヴァー全盛期の主流として使われた弾だ。西部開拓時代の米国では重宝されていたが、二十世紀以降はぐんと使用頻度が減った。
 何しろ、弾の貫通力は優れていても、跳弾が多く、建築物の多い都市での使用は不向きである。銃撃戦ともなると、跳ね返った弾が仲間に当たらないとも限らないのだ。そんな理由から使われなくなった弾を、今だに好き好んで使っているのは、余程の変人ともいえた。
 貫通弾では、急所にでも命中しない限り、確実に相手を仕留めることは出来ない。
 つまりは、本気で人殺しをする気はないのだ。
「《称号》保持者に規則もへったくれもあるもんか」
「・・・あんまり、喋るな」
 ジョーはアーチの肩を抱えた。すんなりと、ジョーの肩に重みが掛かった。
 見かけより重いものだ。その重みは、面映い重みでもある。

 簡易式無菌テントの中の様子を、ジョーはまんじりともせずに伺っていた。掌の中の琺瑯製カップは、とうに冷たくなっていた。中の液体も冷えている。
 アーチの額には嫌な脂汗が浮かんでいた。だが、作業する手付きは恐ろしく素早い。まず、血液凝固剤を打ち、血圧と血中酸素量を測定し、先刻流した血液量を鑑みて輸血量を決めると、血液を造るのだ。
 血液製剤を血漿に調合するだけの、応急処置的輸血である。血漿は人工製の耐蝕真空パックに四百ミリリットルずつ小分けされているもので、血球、血小板等の成分は人間から採取、製造した血液製剤を血漿に注入する。些かインスタントヌードルじみた作り方であるが、流しの医者や軍医なら誰でもが持っている。
 アーチは、血漿パックに、タイプOと書かれた液体血液製剤の注射針を入れた。軽く振り、血管確保して消毒済みの輸血針を刺す。こうしている間も、血は腹部を地面に滴っている。
 次に横腹の傷を消毒し、縫合する作業に掛からねばならない。深さは殆ど、背面に達する程で、腹膜と腸を傷付けている為、消炎剤を打たねばならない。左腕に輸血針と並んで簡易式点滴の針を差した。
 流石に野戦の経験があって、手馴れたものだとジョーは思うが、それでも面白くは無い光景である。いったい、何本の針を刺しているんだ。
 アーチが局部麻酔を終え、縫合に掛かる時間、たっぷり一時間半は、ジョーはタバコを吸う気にもならなかった。
 漸く一連の作業が終わる頃は、夜鳴き鳥の姿すらない真夜中になっていた。
「大丈夫か?と聞くのはマヌケだな」
 ジョーは言った。
「オレの所為だな。借りが出来たか」
「なに、少々のことなら死にはしないさ。脳味噌でも食われない限りはな」
 と、アーチはテントをくしゃくしゃにしながら答えた。使用したもので、血液が付着している物は総て焼却する。アーチは、ハンドボール並みに縮んだテントやら、注射器やらを焚き火に放り込んでいった。
「それよりも、『あんたこそどうした?スロッピー・ジョー』って、返事を聞いてない」
 アーチは、ジョーの傍らに立った。消炎剤入り点滴をぶら下げたままだ。ジョーは、その痛々しい姿を見上げる。痩せた肉体は、貧相という不快な印象を与えないくらいにしなやかで贅肉が無い。
「どうしてあの男を仕留めなかった?」
「・・・・・・」
 ジョーは、口の前で両手を組んだ。ややあって、再び顔を上げる。
「ヤツは半年前、確かにオレが撃ち殺した」
「成る程」
 アーチは何故か、と聞かなかった。
「撃ち殺した筈のヤツが生きている、とは甚だけれん味のある演出だな」
「マジだぜ。確かに胸に銃創を見た。しかも、ヤツは二十数階ものビルディングの屋上から落ちたんだ。生きている筈が無いと思ってたが」
「あんたが言うのなら間違い無い」
 アーチは、肩を竦めた。ジョーの顔色が蒼褪める。汗が引き無精髭は、かなり伸びていた。
「まさか」
「クローンじゃない。クローンは表向きは、研究実験の動物以外、法律で禁止されている。ま、法律なんざは連中には無関係だろうがな。第一、クローンを作るにはまだ大掛かりな施設と維持費が必要だ。肉体の再生は一週間もあれば何とかなるが、脳に移植する記憶データの保存はまだ、研究途上だ。完璧に移植出来ない」
「記憶を移植出来るのか?」
「記憶回路の繋ぎ方だ。一般的な知識は復旧マニュアルが出来つつあるが、個人的な記憶となると、それこそまだ手作業でね。研修インストラクターがつきっきりで丸一年掛けても完璧には元の人間には戻らない、と聞く。・・・したがって、ヤツはクローンじゃない」
 ジョーは頭を振った。考えたくもないような気分だ。
「文字通り、誰かが生き返らせた」
「信じられん」
「魔術師がいる」
「へ?」
 アーチの言葉に、ジョーは鼻白んだ。あまりにも非科学的な単語だったからだ。
「古代アフリカでは呪術師が村人の病気を治療し、降霊も行った。つまり、医者だな。オレ達は現代の呪術師あるいは魔術師というわけだ」
「はぁ?医者が生き返らせたっていうのか」
「少なくともオレ程度に生物遺伝子学の知識があって、実際にいじったことのある人間なら、生き返らせることも可能かも知れない。あんた、延髄には撃ち込んでいないだろう?」
 アーチは声を静めて言った。
 だが、今言ったことには条件が付く。一度死んだ脳を復活させるのは至難の技だ。恐ろしく細胞分裂活性のある細胞を肉体に移植して、血流を甦らせ、延髄の機能が復活すれば生き返ったも同様だ。その為にはある特定の人間の細胞が必要だ。
 《鉄の爪》ロブ・ロイの体は繋ぎ合わせだったが、首から上は本人の物だった。それを生かすのも、その細胞が必要なのだ。
 それは―。
「どうせ殺すなら、二度と起き上がれないようにするんだな。せめて弾はジャケット・ホロー・ポイント、いやフラット・ノーズで。今度こそは」
 アーチは、溜息を吐いた。
「で、あんな刃物キチガイ二度と御免だぜ」
「そうするさ」
 ジョーは漸くダンヒルを咥えた。ライターを探すが、直ぐに出てこない。アーチは、焚き火に突っ込んだ木切れを拾い、ジョーのタバコに押し当てた。やがて、紫煙がくゆり出す。
「あんた、オレに話さなきゃならないことが山ほどありそうだぜ」
「ああ。長い昔話が嫌じゃなきゃな」

 ジン・スティンガーは、その日のうちに移動を余儀なくされた。不味い夕飯の後、俄に外が騒がしくなり、BBWの連中が小屋に駆け込んで来たかと思うと、ジンはあっさりと担がれた。ドンゴロスのような麻袋に詰め込まれ、息苦しい中で聞き耳を立てていると、男たちの会話が聞こえてきた。
「何だって?神父ヤロウが来た?二人組?」
「ボスは殺られてやいねえよ。撃ちまくられたらしいけどな。怪我もねえ」
「殺られちゃ、まずい。まだ報酬貰ってねえもん。でも、オレは逃げるしかねえなぁ。雇われだからな」
 ジンは、無造作にジープらしい車の荷台に放り込まれた。
「いでっ!」
 途端に足蹴にされる。靴先と思しき塊が、袋越しに鼻の手前を掠めた。ジンは内心冷や汗を掻く。連中のブーツだから、恐らくは爪先にスティールでも仕込まれているのだ。まともに食らったら顔面炸裂だ。
「荷物が喋んじゃねえ!」
「ったく、何でボスはこんな色つき野郎共なんか連れ回そうってんだか」
「趣味だよ。お前知らねえのか?」
「ボスは、色つきを嬲り殺しにするのがな。見たろ?村の連中を」
「だっ、だからやだっつーの!気色悪い、悪趣味、外道」
「あの小娘も殺っちまうっての?まだ女にもなってねえようなあんなコドモを」
「色つきは色つきだ」
 答えたのは野太い声だった。
「ボボボボ、ボスっ!ご無事で」
 グラッド・アイはふん、と鼻を鳴らすと、ジープに助手席に座り込んだ。陰口など毫も耳に入らないといった、独行振りだ。指示無しで、運転席の男はアクセルを踏み込んだ。行き先は分っている。泥濘んだ道を抉るようにして、タイヤが無く。
「聞いてるか、坊や」
 グラッド・アイは葉巻を咥えた。
「スロッピー・ジョーの野郎、オレに一発も撃ち込めなかったぜ。代わりにお前の相棒とやらから、左腿に一発頂いたがな。憎らしいくらいいい男だな。男二人連れ、お前らイイ仲か?腕も悪くないが、ジョーほどじゃないな」
「オレはホモじゃねえ!」
 と、ジンは声を大にして言いたかった。譬え同性愛者でも、あいつとだけは御免被る、と思う。
 だが、グラッド・アイはどんどん勝手に喋り続ける。
 明らかに、ジンに向かって話し掛けているのだが、答えようが無い。また、答えてくれ、というでもない。グラッド・アイはどんどん独り言のように続ける。その間手下共は、寝たふりだ。
「しかし、常人じゃねえ。オレ様のナイフを腹で受け止めたヤツは初めて見た。しかも何食わぬ顔だ。ヤツは強化人間か?だが、深手だ。直ぐには治らん」
 勝手に喋ってろ、という気分だが、さすがにジンもそう言われると、相棒を心配せざるを得なかった。
「心配か?だが、安心しな。次は心配するような事もない。確実に逝って貰うからな。まずは、指を切る。長くて白くて綺麗な指だったな。縛めて切るのはオレの趣味じゃない。失血死しないように傷口を焼いてやる。苦しみながら踊るのがいい。その次は、両腕。足は駄目だ。動いている姿が見たい」
 グラッド・アイは、そこで息を継いだ。恍惚とした笑みが浮かんでいるのを、運転手は垣間見た。
「それからナニをちょん切ってやろうか。気絶しなきゃいいが。いや、その前に誰かに一発掘らせてやるか。いきり立ったところを削いでやる。不具になった自分の醜い姿を十分に目に焼き付けた後で、両目を抉り出すんだ。男前が台無しだ。だが、二度と見ることは無い。お次は、腹を掻っ捌いて苦しみながら血を吐き、臓物を撒き散らして歩くんだ。押し込む手もないからな。最後に心臓を・・・」
 言いかけたところで、グラッド・アイは男たちの顔を見回した。一同、血の気が引いている。ボスの視線を感じて、皆が愛想笑いもなく、首を竦めただけだった。村を襲った時の事が甦る。
「面白みの無いヤツらだな」
 グラッド・アイは葉巻を咥え直した。
「ジョーは殺さない。ジョーには観客になって貰うからな」
 ジンは黙っていた。ジープに揺られて気分が悪いのも手伝っていたが、とんでもない。
 グラッド・アイはとんでもない気違い野郎だ。第一、幾ら女泣かせの守銭奴で、罪深い薄情者とはいえ、相棒が切り刻まれるのを想像するだけで、ジンは吐き気がした。ヤツがオカマを掘られるとは、また気色が悪い。いや、ある意味見てみたい気もするが、相手が自分なら、絶対に嫌だ。
 ジンは想像するのを止めた。同じ死ぬのでも、こういうのは、いちばん殺されたくないタイプだ。自分もいずれ、村人と同じ運命を辿るのかと考えると、何も考えようがなかった。
 せめて《ブラックホーク》でも手元にあれば、と思うのだが、手元にあってもこうなる時はこうなるもんだ。
 諦めて寝るか。ジンは、目を閉じた。

 ジャスミン・タン・マッカルパインは、中国系アイルランド人ハーフの美しい娘だった。
 譬えるなら名前のごとく、可憐な芳香を放つ白い花のような。ジョー・クリサンスマムがジャスミンを知ったのは、今から十五年近くも前の話だ。長いようで短い十五年。ウイスキーならいい具合に寝かされた酒になっている。当時の犬が生きているならかなりの老犬だ。
「ジョー・クリサンスマムは、その時はまだジョセフ・クロスフォードという名前の大学生だった。今のヤツの風体からはとても想像出来ないだろうが、化学専攻でな。工業製品なんかに媒体として使う劇薬の研究をやっていた。なに、アイルランドは戦後で貧しくて、実用的な仕事にしか就けなかったからだろうな。本当は、怠け者のヤツはそんなことよりも、くだらねえ与太話の本を読んだり、サイクリングでもやってる方が性にあってただろうけどな」
 ジャスミンはダブリンの私立図書館に毎日やってきた。
 カノジョはアルバイトで蔵書整理の仕事に与っていたからだ。ジャスミンは、ジョーにこう言った。
「つまらない電子ブックなんか読んでるのね。そんなもの読んでもちっとも、感じないでしょう?誰がどうやって、この本を書いたとか。それは、実際に書籍を手にとって初めて判るものなのよ」
 初めは、こいつ何言ってんだ、と思ったジョーだったが、言われるままに本を読んでみると、不思議だ。本の重みを感じられた。いったい、幾人の幾工程を経て作られたものなのか、作者の心は何処に寄せられているのか、思いを巡らす事が出来た。
「ヤツは、腱鞘炎になるほど本を読んだ。化学方程式そっちのけでな。尤も、半分はジャスミン目当てだったかも知れない」
 ジョーがジャスミンにのめり込むのは、そう長い時間は掛からなかった。
 ジャスミンは、後妻の連れ子として、マッカルパイン家に入っていた。マッカルパイン氏とは正式に養子縁組をしていない。実の父親は、自国にいた時、ジャスミンが十二歳の時に亡くなったという。それで、夫を亡くしたジャスミンの母は故郷アイルランドに戻り、再婚したのだ。マッカルパイン氏も同様、男寡であり、ジャスミンより年上の息子が一人いた。
「ジャスミンが過激派団体に属しているというのを知ったのも、じきだ。最初は、何故ジャスミンみたいな娘がこういうことをやってるのか、さっぱり理解出来なかったがね」
「その団体こそが現在のBBW、だな?」
 アーチは尋ねた。ジョーは頷く。
「BBW。当時はBWFだった。BigWhiteFang。白い牙。ネーミングの由来は判らねえな。そのボスの名前は、イアン・マッカルパイン。平凡な名前だ」
 その男こそが、ジャスミンの兄。血の繋がらない、年の離れた兄だった。
「グラッド・アイの本名・・・イアン・マッカルパイン」
 ジョーは成り行きでBWFの活動に参加した。BWFの信念は、アイルランドの復権を願うことだった。つまりは、ヴァティカンの実質支配からの国家権力の奪取である。その為には、過激なプロパガンダも辞さない。所謂テロ活動にさえ甘んじた。
 好き好んで始めた活動でないにしても、何か得るものがあるだろうというささやかな思いで、ジョーはテロ活動に使用する爆弾作りを任されていた。何より、ジャスミンがいるからだ。
「グラッド・アイは今のような雰囲気とは違った。もっと、侠気に溢れた感じで、少なくとも殺人を愉しんでいるような人間ではなかったように見えた」
 ただ、ナイフ捌きは昔から抜きん出ていた。父親が狩猟をしていたので、獲物を捌く訓練を積んでいたという。
 とはいえ、時折見せる表情に何処か狂気じみたものを感じていた仲間も少なくはなかったという。特に、妹ジャスミンに対してだ。
 ジャスミンに馴れ馴れしくする男は、ことごとく粛清された。その優れたナイフの腕で。
 ジョーも初めは、ジャスミンの紹介ということで、イアンからは好ましく見られていなかったものだ。だが、流石に爆弾作りにおける調合が卓越していたので、幸いにも信頼を得ることが出来ていた。
「オレがBWFをやめたのは・・・そうだな、十三年前だったかな」
「やめて敵だったヴァティカンの犬に?よく成れたな」
 アーチは、ホットココアを口にした。傷付いた内臓に染みる熱さだ。
「元々、確固たる信念など無かった。成るようにしか成らず、流れていくだけのモラトリアム人生だ。オレは末っ子でな。家から出て行く気はあったが。で、人間死ぬときは死ぬ。だが、なかなか死なせてくれないと判った時に、今の仕事を選択した」
 ジョーは、目を細めた。笑っているが、空虚そのものだ。頬に刻まれた笑窪が、歪んだ。
 アーチは、ジョーの瞳を見詰めた。信念が無い、などというのは本当に心が空っぽの者が言う台詞ではない。
 グラッド・アイが一体如何程の怨念をジョー・クリサンスマムに抱いているのか、アーチはその身で味わった。腹を突き破った紙の様な薄い刃に込められた一念。刺さった瞬間に脊髄を逆行した寒気と、殺意。息の根を止めないで、神経だけを切り刻む残虐な痛み。何処か人生のボタンを掛け違えた男の苦しみが、あの一刀に凝縮されていた。
 あれが嫌だから、他人の人生が入り込んで来るのが不快だから、アーチは自ら刃を抜いてお返ししたのだ。
 だが、ジョーとてグラッド・アイに対する執念は、信念に近い程胸の奥に深く沈んでいるのではなかろうか。
「変わった男だな。死なせてくれないからって、神父それも異端審問官になるなんて」
 アーチは、微笑した。
「医者でパウダーガン使いよりはマシだと思うがね」
 ジョーは言った。
 何を冗談めかして言ってるんだか、とアーチは思った。半年前、グラッド・アイを撃った時は、明らかにこの男は殺意を持っていたのだ。異端審問官がラウンド・ノーズの弾丸しか持てないというのなら、確実に急所を狙ったか、或いは故意に弾丸を変えていたか、だ。
「目糞鼻糞だっての」
「そうかなぁ?」
「あんたは、オレと似たようなニオイがする。決して手の内を他人に見せない。他人を利用するくせにだ。神様はいるけど、自分以外の他人は身内でも他人だ。だが、他人がいないと寂しい。時々つまらん他人事の為に命懸けてしまう」
 アーチは、空になったマグカップを手の間にぶら下げた。
 ハハハ、とジョーは声を立てて笑った。
「そうかも知れんな」
 ジョーは、ややあって、腰を上げた。
「初夏とはいえ、夜中の山中は冷えるなぁ。しょんべん、しょんべん、と」
「待てよ」
 アーチは声を掛けた。
「何だよ。もう随分我慢してんだ、漏れちまうじゃねえか」
「もう一つ話してくれよ。何でグラッド・アイと袂を分かったのか?」
 その問い掛けに、ジョーは苦笑を返しただけだった。これ以上の詮索は出来ない、とアーチは悟った。ジョーの背中が暗闇に吸い込まれていく瞬間、振り返った。
「ジャスミンが今も元気で生きていたなら・・・ってのが答えだ。済まん」
 ジョーは片手を振った。アーチは、暫くの間焚き火を見詰めていた。一眠りしたら、グラッド・アイを追う。それまでにやらねばならない事が出来たようだ。

 夕食として出された乾いたバゲットとコーヒーを、ピーチィは食べなかった。
 そして、今はジープで強制的に移動中だった。子供であることを考慮されてか、ピーチィはさすがに袋詰にはされていない。
 空腹は募るが、捕らわれの姫君は支給された物にがっつくような人品卑しき者ではない、と多寡をくくっているからだ。この期に及んで自分を捕らわれの姫と思う余裕があるのではない。
 そうとでも思わないとやってられない気分だ。
 果たして、自分を救いに来てくれるのは白衣の王子様なのだろうか。それとも些か頼りないテンガロン・ハットのパウダーガン使いか。
「何で食わねえんだ?」
 目付きの悪い痩せた男が、ピーチィの顔を覗き込んだ。すきっ歯のおさまりが悪い口許が、育ちの悪さを表しているように見える。目はぎょろりとして、暗闇で見たらまるで幽鬼のようだ。
 途端にピーチィは顔を背ける。
「食わねえと、オレが食っちまうよお。お嬢ちゃん?」
「うるさいんや。アンタさっきから」
 ピーチィは、漸く男の顔を見ずに言った。
「ほっといてんか」
「『うるさいんや』『ほっといてんか』・・・?」
 男は低い声で繰り返した。沈黙の帳が下りる。
 ピーチィの心臓が、早鐘を打った。もしかしたら、殺されるのではないか。口答えなんかするんじゃなかったという後悔に、ほんの一瞬駆られた。
「もう一度言ってみな」
 男は腰を屈め、ピーチィの小さい顔を嘗め回すように見た。ピーチィは肩を小さく竦め、男の視線から逃れようとした。だが、男は執拗にピーチィの動く方向に身体を移動させる。
「・・・うるさいんや。ほっといてんか」
「ほおおおおお」
 男の雄叫びが、闇夜の空間に響いた。
「何て、何て、かあいい言葉遣いなんだっ!」
「へ?」
 ピーチィは我が耳を疑った。思わず顔をあげると、そこに男の蕩けるばかりの笑顔があった。
「なっ、なななななな。何やの!?」
 ピーチィは荷台から転げ落ちんばかりに仰天した。
「いやぁ。またまた、かあいい。『何やの』って!このアクセントがいいよなあ」
 男は一人悦に入っている。ピーチィは、どんぐりまなこをさらにさらに大きくしながら、考えを素早く巡らせた。
 男はそもそもピーチィの見張りとして昨日から付けられた。見た感じもそう有能なテロリストには思えない風采の上がらない男である。そんな男とは勿論喋る気にもならなかった。どうせ下らない話をするか、怒鳴り散らすだけなのだ。
 だが、今のこの反応は意外だ。
「嬢ちゃん、やっぱり《海の民》の出身か?いいねえ、あの独特の言葉遣いは。憧れなんだよー、昔学校で習った時からな」
 男は目を輝かせた。
「七つの海を駆け巡る凄腕の海賊、水軍だぁ。国と国、民族と民族。境界線上に生きる男のロマンだ!違うかい?お嬢ちゃん」
「ま、まあそうやけど」
 ピーチィは不承不承頷いた。男は大分と勘違いしているらしい。いや、好きが昂じて妄想甚だしい感じだ。海賊行為はあったとしても、幾ら何でも、《海の民》は七つの海までは制覇していない。しかも、ピーチィの父親オステンド・フィズの時代は既に《海の民》も陸に上がっていたのだから。
「もっと喋っておくれよ。こんな機会は滅多とないからな」
「そんなこと言うて、ウチを油断させて、何か企んでんとちゃうのん?」
「滅相もない!」
 男はぎょろぎょろした目玉を大きくした。そうして、辺りを伺ってから、小声で言った。
「ボスの前では言えないんだよお。ほら、何てったって、ボスはアジア人とか黒人が嫌いだからなぁ。そんで、あの村人を皆殺しだろ?」
「アンタそんな事言うてええの?テロリストが」
「オレ、テロリストになんか向かないよ。母さんが何か男らしい仕事に就けって言うもんだからさ、アルバイトと思ってはじめたんだけど。・・・BBWがテログループだとは知らなくてね」
 男はばつが悪そうに頭を掻いた。ピーチィは呆れ半分の気分で男を見た。
「何やと思うてたん?」
「警備の仕事だって聞いてたんだ」
「はー」
「でさ、辞めようと思ったけどボスがああだろ?恐くてね。辞めるなんて一言でも口にしたら、あのナイフで首を飛ばされるんじゃないかって思うと・・・」
 男は真顔で身震いした。ジープが揺れているので、尚更オーバーアクションに見える。
「お嬢ちゃん、真剣に言うけど、ボスの神経を逆撫でしないほうがいいよ。いつ殺されるか判らない」
「人質やいうことは、いずれ殺されるんちゃうの?」
 ピーチィは不貞腐れた顔付きで言った。男は即座に首を振る。
「いやいや、お嬢ちゃんより先にあっちの男の方が殺される」
「あっちの男って?」
「んーと、長髪を束ねた男。頬に傷がある」
「ジン!?」
 ピーチィは素っ頓狂な声を上げた。男は慌ててピーチィの口を押さえる。
「声が大きいって。心配するのはわかるけど」
「心配ちゃう」
 ふん、とピーチィは鼻を鳴らした。まさかジンも捕らわれの身だとは思いも寄らなかったのだ。だが、これで白衣の王子様がやって来てくれることは判った。何しろ、白衣の王子様はふしだらだが、不死身なのだ。グラッド・アイがどんな残忍な男だろうが敵いっこない。
 それにしても、この男は利用のし甲斐があると見た。ピーチィは、途端に元気が湧いてきた。
「なあ」
 猫撫で声で男に話し掛ける。男は嬉々としてピーチィの顔を見詰める。
「アンタ、本物の海賊見とうない?」
「み、見たい見たい!」
「ウチ心当たりがあってな。アンタにだけ会わせてあげてもええんやけど」
「ほ、本当かい!?」
 ピーチィは満面の笑みを作って頷いた。
「せやけど、ちいと面倒やねん。ウチの言う事聞いてくれたら・・・」
「き、聞きます!何でも。オレに出来ることなら!」
 男は不安定な荷台の上、直立不動の姿勢で答えた。

 第三章へ続く

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