第八話
 〜タンゴ・ジェノシディオ ballare il tango genocidio
(後編)


第三章 BROTHER SUN AND SISTER MOON 太陽と月に向かいて 

 情緒も何もあったものではない。機械じみた事務員の声で、ミスティ・サファイアは叩き起こされた。
 午前十二時寝入りばなである。ベッドから這い出し、ナイトテーブルの上のパソコンをオンにする。
「いったい、誰なの!?こんな時間に」
 画面が明るくなった瞬間に、ミスティはげんなりした。相手の嬉々とした表情が、辛うじて冷静を保っていた脳神経を悪戯に刺激したのだ。即座に「通信拒否」モードに切り替える。警告画面に変わり、溜息一つでベッドに再び潜り込んだ。
 が、ものの数秒も経たない内に思い返し、また通信電源を入れた。
「ひどいじゃないか。人の顔見るなり消すなんて」
「夢見が悪くなるわ」
 ミスティは、ぶっきらぼうに答えた。
「キミの夢にオレが一度でも?出演料を頂きたいね」
 アーチレリー・ブールヴァルドは、膝の上に載せたパソコンを抱えてけらけら、と笑った。
 映りの悪いディスプレイの中でしかめっ面をしている美女は、無防備にしどけない姿を曝け出していた。寝起きはまるで、世を拗ねた美少年みたいな顔付きだ。他人の寝姿を見るのは失礼にあたるが、専ら女巡検使の方は羞恥心よりも眠気が勝っているらしい。
 厳つい制服姿からは想像し難い、着る物なんてどうでもいいといった感じの薄物である。青いサテン地のスリップは、形の良い臍の上までの丈で、その下はシーツに覆われている。
 見てる場合じゃないが、どうしても視線はミスティの誇らしげな胸元と露出した平らな臍の辺りに行ってしまう。ここのところ、半強制的とはいえ、大人しく禁欲生活を余儀なくされているからだろう。不覚にも必要以上に想像力が豊かになってしまう。甘いエジプシャン・ミモザの香りが混じった彼女の体臭まで、芬々と漂ってきそうだ。
 スリップの下で自由に動く見事に形の良い乳房は、見る者を挑発しているとしか思えない。
「ところでキミさ、そんなカッコで寝てたら、性欲の抑圧されたオッサン、ジジイ共に襲われたって文句は言えないぜ」
「お生憎さま。ここには誰かさんのような、取り敢えず穴があったらいい、という野蛮な人種はおりませんの」
 と、ミスティはすかさず応酬した。育ちの良い女ほど、平気でこういう冗談を言うとみえる。
「野蛮な人種?オレの相方のことかい」
「何処までもお目出度いのね、アナタ」 
「お褒めの言葉をありがとう、シニョリーナ」
 本気で言っているとしたら、相当な馬鹿である。馬鹿でなければ、多少自虐的趣味があるかも知れない。そうでなければ、無意味な相槌の一種だ。
「なぁに?気持ち悪いわね。もしかしてアナタ、相手に事欠いて、私にテレフォン・セックスの相手でもしろって言うの?」
「ハハ。滅相も無い。そんな畏れ多い事言えるワケがないじゃないか。特務巡検使サマに対して」
「畏れ多くなんかこれっぽっちも思ってないクセに」
 語尾が甘ったるいイントネーションに変化した。ミスティは、気怠げに長いブルネットを掻き上げる。青い瞳が妖しい光を点した。ついでにスリップを鎖骨の上まで、たくし上げる。勢い脱いでしまうのかと思いきや、両手で自分の乳房を覆い掴み、揉みしだく。
細いしなやかな指の間から、はみ出す危険な塊。
「うわぉ・・・大胆だなぁ、もう。でも、映りが悪くて何だかなぁ」
「シーツが邪魔なら・・・こう?」
「ううん、オレも脱いじゃおうかな」
「もっと、声を出したほうが良くて?」
「ああ、オレも声を出しちゃおうかな」
「ああん、とても残念なんだけど。・・・これ以上やると自動的にセキュリティが働くからダメよ。ここのパソコンは自主規制型なのよねぇ」
「いやぁ、もう充分です」
 アーチは、痛む脇腹と股間を押さえて言った。ミスティは、目に見えない程の早業でスリップの裾を直すと、いつもの平然とした顔付きに戻った。どこまでが芝居なのか、本気なのか線引きが出来ない。これも特務巡検使の訓練の賜物か、それとも単にオレを練習台にしているだけなのか、とアーチは悲しげに訝った。
「おバカさん、おふざけはここまでよ。・・・で、よく、私がここにいるって判ったわね」
「サフィール枢機卿の許可を得ている、とアクセスしたらすんなり入れてくれたぜ」
「いやな男」
 ミスティは口に手を当てて、欠伸をした。アーチは腕時計を見る。世界時間でローマを示す時間を確認する。
「こんな宵の口からおネムかい。残念ながら、どうもキミとオレのベッドタイムとは相性が悪いようだ」
「何悠長なこと言ってるの。教皇庁の朝は早いのよ。これでも、大事な任務をひかえている身でね。用件ならさっさと済ませてくれる?」
「大事な任務って、教皇の御守かい?」
「その通りよ。相変わらず、そういう察しだけは素早いのね。同じ御守でも、アナタとは雲泥の差だわ」
 ミスティは、無駄話を遮るように画面に掌を置いた。
「あのねえ」
 と、アーチは声のトーンを上げて言った。
「今、とっても殺伐とした雰囲気なんだよ。あの、もうちょっと手心を加えてくれたりしないのかなぁ?」
「アナタが殺伐としていようがいまいが、こちらには関係のないこ・・・」
 ミスティは掌を離した。そして、ナイトテーブルの端からミネラル・ウォーターのボトルを取ろうとして、はっと目を見張った。
「その傷、どうしたの!?」
 電波状態の悪い画面から見るにしても、驚いた。アーチは、さっきからシャツの前をはだけていた。贅肉の無い上腹部に巻かれているのは見紛うことのない包帯だった。些か大仰ではあるが、別段同情を買う為の演出でもないだろう。
「出血大サァビスだっての」
「・・・悪かったわ。何があったの?銃創じゃないのね、その様子だと」
 ミスティは、途端にあどけない表情になった。まるで別人のように、柔和な表情に変わった。今にも蕩け出しそうに、唇が窄まる。これと同じ唇が、あの毒サソリのような悪言を吐き出すとは。肌までが上気しているように見えるのは、気のせいか。
「三日もすれば大半治るさ。心配なら今すぐ飛んで来て、熱ーいチューの一つでも・・・」
「アナタは神に見放された男。殺したって、死にやしないわ」
「痛いとこを突いて来るよな。キミの言葉はまるで氷の弾丸だ」
 アーチは嘯くように言い、苦笑した。
「おかしな譬えだこと」
「いや。氷の弾丸は痛いが、撃ち込まれてもオレは決して倒れない。オレの心はいつも熱いから」
「もう寝てもいいかしら?」
 アーチは、慌てて首を振るった。
「済まないね。で、本題だが―異端審問官のジョー・クリサンスマムを知っているか?」
 ミスティは首を傾げた。そして、チンザーノ司祭との会話を思い出した。そうだ、パウダーガン使い《銃王》の名前だ。
「ええ、名前だけならね」
「ジョーの経歴を調べて欲しいんだ。出来れば異端審問所に入る前からの」
「無茶を言わないでよ。ヴァティカン職員の履歴は門外不出なの知ってるでしょうに。それも、よりによって異端審問官。たとえ内部の人間といえども、おいそれと拝見出来ないわよ」
「そこを何とかァ。頼むよ」
 アーチは画面の前で頭を下げる。
「それは何のつもり?もしかして、私に伯父貴の七光りを使えっていうの?冗談じゃないわよ、本人に聞きなさいよ」
「聞けないから頼んでんじゃん」
「あら、本人と一緒にいるのね?」
 ミスティは訝った。
「どういう事なのよ、説明を乞うわ」
「邪魔臭いな。いや、話せば長いんでね。それに時間の余裕がない」
「尚更ダメよ」
 と、ミスティは頑として聞かない。何れが段々どうでもいいか、という気になってくるのだが、お互いに引くところを知らない。敢えて引かないのだ。
「いったい何だって、私がアナタの為に一働きしなきゃならないのよ。それで一杯食わされてるのは、いつも私の方じゃないの。いい加減になさいよ」
 徐々に眠気が薄れて頭が冴えてきたらしく、ミスティはべらべらと捲くし立て始めた。
「一杯食わせた覚えなんかないぜ」
「アナタという人間は、そういうタイプなのよ。総て自己中心的というか、外交的に見えて、結局は他人に無関心だわ。他人が被った出来事を、頭の中でしか判断しない。デジタル処理ね。それが証拠に自分は意識していなくても、無意識に他人を利用して傷付けてるんだから」
「キミはオレの言動の所為で、今迄幾度となく傷付いたというのか」
 アーチは、溜息混じりに申し訳無さそうに言った。母性本能をくすぐるような上目遣いの目付きに、一瞬ミスティはどきりとしたが、それも束の間。
「・・・なんて反省なんかすると思うてか、このオレ様が。そりゃ、キミみたいな世間知らずのお嬢サマは、さぞかし傷付きやすかろう」
「何ですって」
「世間知らずのお嬢サマ、と言ったんだ。他意はない。本当のことだ。それ以上でも以下でもない」
 ミスティは暫く画面を見詰めて黙っていた。
「アナタこそ、全くもってわかってないのね。アナタのそういう所が無神経だと言ってるのよ!」
 ブチッ。
 ひょっとすると、パソコンを放り投げたのかも知れない。鈍い音がして、通信が途絶えた。何度アクセスしようとしても、「通信不能」の文字が並ぶだけだ。
「まいったなァ」
 アーチは独りごちた。何でこうなるのだろう。3500キロメートルの距離を隔てても、女という生き物はつくづく量り難い。だが、これで嫌われただの、バカにされただのと思わないのが、この男のこの男たる所以である。
「本当はオレに惚れてるクセに」
 ここまで来ると、自惚れも立派な長所と呼べるかも知れなかった。

 『骸は語る術を知らず。されど、骸に代わって月は語らず。月は嘆く術を知らず。されど、月に代わって陽は嘆かず』
 ジョー・クリサンスマムは、人生で二度、この詞に出会った。
 この詞が銃身に刻まれているのは、《パイソン》の名を冠するリヴォルヴァー・レプリカ二丁のみである。世界でたった二丁の《パイソン》。ブラザーサンとシスタームーン。対になったパウダーガンの、片割れの行方を、ジョーは知らない。
 ジョーは銃の手入れを終えた後で、一時軽い眠りに就いた。
 一面の星空が森林の上に広がっている。
 詞の意味は何だろう。長年思ってきたが、未だによく判らないままだ。
 月の明るい夜だった。
 ジャスミンの横顔が、小さな街灯に照らされているのを、ジョーは今でもはっきりと思い出せる。透き通った声が、ジョーの耳に甦る。
「『骸は語る術を知らず。されど、骸に代わって月は語らず。月は嘆く術を知らず。されど、月に代わって陽は嘆かず』。図書館の石碑に刻まれているの。作者は不明らしいわ。この詞の意味?何だか恐いわ。人が死んだということ?それも、誰かに殺されたみたい。マザーグースに似ているわ」
 ジャスミンは寂しげな笑みを浮かべた。
 その翌日だ。
 市立図書館が爆破されたのは。
 ジョーは大学の帰りに、その騒ぎに出くわした。自転車を路上に放り出し、一目散に建物内部に駆け込もうとした。
 その時、既にUP(国際警察)が出張っていて、部外者は総て追い返されていたのだが、ジョーは無視して入り込んだ。煉瓦造りのゲートは粉砕され、芝生は踏み躙られ、その車輪跡を辿っていくと、タンクローリー車が、垂直に図書館の書庫棟に突っ込んでいた。煙はもうもうと燃え上がり、消防車と救急車が並んでいる。
 そして、炎は建物全体を包み、異様な化学物質の臭いがする。ジョーは慌てて、口許を覆った。
「何があったんだ?このタンクローリー車は!?」
「一般人は立ち入り禁止だと言った筈だ」
「バカ言え!警察だって生身で入ったらダメだ!異臭がする。あのタンクの中身はPCBかも知れないんだぞ!」
「ピ、PCB!?」
「ポリ塩化ビフェニール。人体に触れるような使用は全面禁止されてる毒物だ」
「げげっ」
 ジョーの言葉を聞いた警官は、すっ飛んで行った。
 警官が走り回っているのを尻目に、ジョーは司書室へと急いだ。煙を吸い込まないように、顔も目だけを出して歩いた。例え人体に接触することを禁じられていても、PCBは安定性、脂溶性、絶縁性等にすぐれる故、いまだ変圧器やコンデンサーに使われている。日常出くわす毒物でないだけに、馴染みが無いのは当然だ。
 ジャスミンは書庫の地階に倒れていた。
 発見した時のジョーの絶望感は譬え様も無いものだった。爆破による外傷は少なかったものの、明らかにジャスミンは毒物を含有した空気を多量に吸い込んでいた。
 如何程、絶望的かをジョーは他人に説明されるまでも無い。
 PCBの類はつまり、悪名名高いダイオキシンの仲間である。ダイオキシンの持つ遅延性致死毒性は、中毒してから一日やそこらでは死に至らないが、数週間苦しみ続けた上で命を奪う。甲状腺機能障害、肝臓障害、心筋障害、これらの中毒症状が一気に押し寄せてきて、死亡するのだ。その毒性は青酸カリの千倍、サリンの二倍ともいわれる。
 最早、ジャスミンは口も聞けない状態になっていた。気管を毒ガスでやられていた。
 その夜、ジョーはイアン・マッカルパインを訪った。
 お互いが顔を見るなり、真っ向からの掴みあい殴りあいになるのは必定だった。だが、ジョーは会わずに済ませられない。一発、いやイアンを殴り殺したところで腹の内が収まる筈も無い。それはわかっていたのだが。
 背を向けていたイアン・マッカルパインは、地下室のドアが開いた途端に、ジョーの顔も見ず殴り掛かった。ジョーも同じく、拳を振り上げていた。リーチの長いジョーの右拳が、イアンの左頬に食い込み、イアンの拳はジョーの鳩尾に填った。両者は一旦、無様に倒れ、そして再び起き上がった。無言の対決が始まる。その事を誰もが黙認しているかのように、アジトは静まり返っていた。
 イアンの拳はジョーのそれよりも一回り大きく、パンチも重い。身の軽さに関しては、ジョーの方が上回っていたが、殴り合いでは分が悪い。普通なら、まともにパンチを食らわないように、ジョーは避け回ってイアンを疲れさせるべきだ。だが、頭に血が上った若者の思考回路にそんな余裕が入る隙など無かった。
 ジョーは闇雲にイアンの懐に飛び込むと、無言で何度も殴り付けた。これで黙っているイアンではない。だが、暫くは殴られっ放しのままだった。
 一頻、組み敷いたイアンを殴った後、ジョーはくらくらする頭を抱え、上半身を起こした。
「・・・どうした。もう終わりか?」
「・・・・・・」
 ジョーは、返答を忘れた。脳貧血を起こす程に殴り続けていたのだ。いったい、何発イアンの頬にお見舞いしたのだろう。右の拳は、じんじんと血流が外気に伝わるほどに赤くなっている。
「あんた、知っていたのか!?」
「何をだ?」
「知っていてわざと、わざと図書館を襲わせたのか!?」
 イアンは答える代わりに冷笑を浮かべた。
「何故、妹がいるのを分っていて・・・!!」
 ジョーは再び拳を振り上げ、宙で思い止まった。
「2,3,7,8−TCDD。テトラクロロベンゾジオキシン。PCBどころじゃなかった。最も毒性が強いダイオキシンをあんなところでブチまけるなんて!」
 正気の沙汰じゃない、と言おうとしてジョーは喉を詰まらせた。
 イアンの左手が、ジョーの喉を掴んでいた。
「ぐ、ぐ・・・!」
「その口いつまでも聞けると思うのか?」
 イアンは笑っていなかった。鳶色の瞳の奥にどす黒い雲が横たわっていた。その瞳の色を、ジョーは生きている限り忘れないだろう。
「気違いは、手前ェら共の方だ!どいつもこいつも寄ってたかって・・・口にする言葉は金か女か!?」
「・・・・・・」
「そんなカスみたいな値打ちしかねえモノに命懸けてどうする?女や金は消えて無くなるじゃねえか」
 イアンの太い指が気道を圧迫する。ジョーは、ぼんやりと仕掛かった頭で、イアンの吐き出す呪いの詞を聞いているしかなかった。
「挙句の果てに、オレの妹にまで手を出しやあがって!!」
「ご・・・」
 ジョーは藻掻いた。だが、指は強く食い込んだまま微動だにしない。真正面にあるのは、鳶色の半狂乱に近い瞳。イアンの額に浮かんだ血管は、今にも張り裂けそうに脈打っていた。
 狂っている。幾ら血の繋がらない妹恋しさだといって、無関係の人間を巻き込んで毒物を撒き散らすなど、言語道断だ。
 殺したけりゃ、オレだけを殺せ。ジョーは叫ぼうとした。
「お前が!!」
「ごほ・・」
「お前がどうやってジャスミンを唆したんだ!?」
 指に力がこもる。
「どうやって、抱いたんだ!?え?」
 イアンの表情には、すでに冷静さというものが欠落していた。まるで悪鬼のような皺が頬を隈取り、ジョーの魂を地獄に誘い込んでいる。ジョーは痺れる両腕でイアンの手首を掴んだ。びくともしない。
「フハハハハハハハハハ!」
 甲高い笑声が地下室に響く。が、ジョーは諦めなかった。イアンの鳩尾に右膝を突き出した。怯んだところを素早く身体を引き、ようよう悪魔じみた手の恐怖から逃れることが出来た。
 しかし、ジョーは数歩後退さったところで、壁に手を突き、よろぼうた。脇腹に刺さったナイフを認めると、ジョーは力任せにそれを引き抜いた。
「うああああッッ」
「・・・ふ、刺しどころを違えたんじゃない」
 イアンは噎せ返りながら起き上がった。
「お前は殺さない。生きて苦しめ。この代償は高くつくと思え」
 ジョーは腹圧から免れた動脈血に両手を濡らしながら、イアンの声を聞いた。転がるナイフの乾いた金属音。
 それきりだ。
 裏切り。自己愛。偽善。自己欺瞞。
 何と言われようが、ジョーは逃れたかった。最も逃れがたきは、ジャスミンの死。
 そして、逃れられないまま一週間を過ごし、二週間を死んだように生きて、ダブリンを出た。
 頭が痒い。寝汗を掻いたのか。ジョーは後頭部に手を遣り、抜けた髪の毛を掌に載せた。
「こんなに増えたか・・・」
 白髪が三本。目に見えないダイオキシンの恐怖に晒された結果が、こうだ。淡い灰色だった髪は、十数年前の出来事以来、半分近くが白髪に変わってしまった。表面にこそ現れないが、ジョーの肉体は確かに蝕まれている。故に家庭を持つことを絶った。元々、どうでもいいことだったが、神父であれば妻帯していない理由を聞かれる必要も無い。
 まして子供など望むべくもない。殆ど百パーセントの確率で奇形児が生まれるのは分っていた。
 五十歳まで生きられたら、と思う。どのみち生きていたところで何かを残せる訳でもないが。2,3,7,8−TCDDの悪魔の爪が、全身を這いまわって掻き毟り、惨めな死に様を見せるくらいなら、鉄砲玉に撃たれて死んだ方が本望だ。
「だが、何でオレはこうまでして生きたいんだ?人間ってヤツは業が深い生き物らしいな。あの時、キミと一緒に死んでいれば良かったのかもな、ジャスミン・・・」
 ジョーは呟いた。その傍らに広げられた毛布の上には、鑢と散らばった弾丸。ラウンド・ノーズであった筈の弾頭は、何れも皆平たく削られていた。
 ジョーは、パソコンを抱えて戻って来た、アーチの姿には気付かなかった。

 時と荒廃のかさぶたを照らし出す陽光がない暗がりの中に、その豪壮な邸宅は存在した。
 サウザ邸の一段低くなった地階部分には、個人的な祭壇があった。そして、今その祭壇の前に二つの影がある。
 小柄でやや痩せ肉の老人と、背の高い女。老人こそがセノビオ・サウザ。脚こそ短いが、しっかりとした腰つきは若者の動作に引けを取らない。丸い顔に大きく開いた耳朶が、小動物を思わせる愛らしさだ。だが、齢八十になんなんとしていた。
 そして、女のほうはミスティ・サファイアだった。
 セノビオ・サウザは十字の形に掲げていた二本の剣に接吻した。
 祭壇の部屋は、さまざまな意味で中世的だった。それこそ、二十三世紀の現在では御伽噺の中にしか出てこないような武具が並んでいる。
 石壁に掛けられた掛け台の上の細身の剣は十七世紀の物である、あるいはずらりと並んだハーネスは後期十字軍時代の記念的な甲冑でもある。石弓、手斧。トライデントと呼ばれる三叉槍。
 これら総ては、セノビオ・サウザの私物ではない。
 名誉聖堂騎士の称号を与えられたこの老人に管理を許された貴重品であった。何しろ、鉄壁の警備で名高いヴァティカンの宝物庫は既に余裕が無いほど満杯である。それでも、密かに領外へ流出しているというのだから、これは内部の者の仕業としか言いようがない。という所以でもってここは、格別をもって貴重な武具を管理しているのである。
 セノビオ・サウザは言った。
「甲冑を着けるかね?」
「結構ですわ」
 と、ミスティは答えた。その化粧っ気のないぽってりとした唇に、微笑が浮かぶ。
「折角のビロードを台無しにしたくはありませんから」
 視線の先には、イタリア製の胸甲があった。名だたる職工の手で加工された美しい赤のビロードは、試合後も傷一つ付いていないことを、かつての剣士は自慢したものだ。
「謙遜は飢えた獅子を殺す、と言うが」
 セノビオ・サウザは微笑んだ。
「謙遜ではなく、事実ですわ」
 ミスティは、三フィートある長剣を手に取った。十五世紀スペイン製の物である。真鍮の握りが手に心地良い冷たさを齎す。セノビオ・サウザも同じくスペイン製の、これは十六世紀の物を握った。
 師匠と弟子は、冷たい半地下の小部屋で向かい合った。
「構えて」
 セノビオ・サウザの声が響いた。
 次の瞬間、セノビオ・サウザの剣が唸りを生じて、ミスティの首筋へ飛んだ。ブルネットの数十本が舞い落ちる。
 二本の剣が音と見えない火花を散らしてぶつかり合う。ミスティは攻撃を受け止めながら、老人の腕に短剣を突き出した。セノビオ・サウザは武器をかわし、その反動でミスティは突き倒されかける。
 セノビオ・サウザは猛然とミスティの左肩目掛けて切り掛かり、返す剣で右足を狙った。ミスティは攻めをかわしながら、一転、セノビオ・サウザの目に突きを入れたが、ブロックに阻まれた。
 老人の攻めの手は、総て二秒と掛からない。
 それを読み切るのは訓練不十分な剣士なら、到底敵わない。初めて剣を握る者なら、最初の一振りで脱兎のごとく逃げ出しているだろう。
「切れのいい動きだ。腕を上げたな」
 セノビオ・サウザは言った。息は全く上がっていない。
 伊達に黒十字軍にいた訳ではない、とこの剣の師匠は内心感心した。
 剣技の四つの防御の門。右高の門は右肩及び頭部半分を守り、左高の門は左肩と頭部残り半分。そして右下の門は右腰、右脚、左下の門は左腰、左脚。屈強な男の手に掛かれば、剣の切先は武道でいう手刀の二倍の速度で繰り出される。そのうえ剣自体の重みが加わる計算をすれば、衝撃は四百ポンドを下らない。
 精神面においては、言うまでもない。意識を常に反射運動の高みにまで持っていかねばならない。
 セノビオ・サウザが右高の門を突いて来ると、ミスティは剣をずらしてこれをかわし、同時に突っ込んで反撃に転ずる。次に左高の門、左下の門。
 足捌きの悪さは、防御の命取りとなる。故に、足の形は常に、長剣でかわせる範囲内で動かす必要があるのだ。
 躊躇いは無用。
 たとえ形通りの練習とはいえ、剣同士の擦れ合う耳障りな金属音に集中力を殺がれては、話にならない。
 セノビオ・サウザはミスティの肩と腰をすれすれに切り、腿に一突きを与える。そして、喉に飛び込んだミスティの短剣をかわした。
「腕よりも、背筋と足の力を利用せよ」
 という、老人の言葉を思い出しながら、ミスティはじりじりと師匠を後退させるに至った。
 セノビオ・サウザは筋力において、五十代の頃と何ら遜色の無い動きをしていたが、それでも筋肉の張りだけは、年々早まっていくことを自覚せざるを得ない。今も、事実そうである。
 そして、ひたすら攻めに出る。重い長剣の衝撃を受け止める思いをすれば、その何倍か自前の剣を振り回すほうが楽であるからだ。
「うぬ」
 セノビオ・サウザの剣が唸りと共に真っ直ぐに飛び、ほぼ直角にミスティの胸元を裂いた。分厚い革の制服に、丁度十字の傷が入る。ミスティの返しの一太刀を、セノビオ・サウザは剣の平で受け止め、そのまま右回りに回した。切先は、するりとミスティの顎の側まで滑り、覚えずミスティは柄を離した。さもなくば、切先に手もろとも尖った顎まで裂かれていたところだ。
 セノビオ・サウザは空中でミスティの剣を自分の剣で受け止め、放り投げた。
「はっ」
 ミスティは、今一度石壁の短剣を引き抜き、振り下ろす。二本の剣を交差させ、柄と柄を捻じり合わせるように重ねた。剣の切先は、ミスティの額の中央部へ直線を描くように、V字型の溝に振り下ろされた。火花が散り、金属音が軋んだ。セノビオ・サウザの長剣は、がっしと押さえられてしまった。
 ミスティは剣を耳元から押し戻し、セノビオ・サウザの右腕の下へもぐって突き出した。
 ミスティの利き腕が左手でなかったら、確実に剣は老人の背骨まで貫いていただろう。セノビオ・サウザは、石壁に背中を強か打ち付けるだけで、無傷だった。
 ミスティは、剣を床に投げ捨てた。汗ばんだ長い髪を掻き上げる。
「師匠もお人が悪いですわ」
 セノビオ・サウザは苦笑を押し上げた。薄っすらと額に汗が滲み出している。
「わざと突かせるなんて」
「そうだ。だが、他の人間なら刃で打って来たに違いない。ならば、どうする?」
「とどめをさす・・・殺すまでです」
 師匠は深く頷き、ミスティは、その手を取った。セノビオ・サウザは若い愛弟子の柔らかい手に引き揚げられた。その時ミスティの頬は、緩んでいた。
 それは、若かりし頃の彼女の母親の姿を思い起こさせた。剣を結んだ刹那は、この娘の中に一欠けらの雑念を感じたが、それも瞬間的なこと。二振り目には、情け容赦ない女剣士の顔付きに変わっていた。雑念の原因は、生理的なものではなく、彼女を取り巻くもっと複雑な環境に由来するものだろうと師匠は見た。
「ヴェルジーネは元気かね?」
「母にはもう三年以上会っていませんわ。今はバルセロナにいます」
 ミスティは静かに答えた。老人の茶色い瞳が、ミスティの青い眼を見上げた。
「血は争えんな。キミの強気な剣の構えは、ヴェルジーネに似ている」
 
 ポジターノの入り江は、夕焼けの荘厳な色彩に包まれていた。紫色掛かった光、緑の丘、鴇色の断崖、総てが一幅のパステル画のごとくに視界に収まる。アマルフィへのアウト・ストラーダは灯火が着く頃だ。夕餉の支度が匂って来た。レモン畑に続く小道を駆け上がれば、赤茶けた壁の瀟洒な邸が見える。
 ローマの引退者が住んでみたいとされる町。荒廃したディアスポラの何れの土地に比較しても、ここは数世紀前と変わりが無い。いや、変わらないように努めて来たのだ。
 沈む夕陽を眺めるには、そこが絶好のポイントであることは、何よりも邸の小僧が知っていた。
 そしてまた、そのテラスには夕陽に映えて赤く輝くブルネットの女が座っていた。少年は、女にはにかんだ笑みを見せて、赤いオレンジを差し出した。黙って、少年は背を向けた。こんな鄙びた所に似つかわしくない若い女を、まともに見るには少年は幼過ぎた。いや、女が厳しい黒づくめの制服でなく、リゾートドレスでも身に纏っていたなら、さぞかし絵になるだろう。
「口をきくのが恥ずかしいのかしら」
 ミスティ・サファイアは呟いた。
 半時ほど前から、テラスに出てパソコンを駆使しているが、どうも上手く端末に入り込めない。ヴァティカンのマザー・コンピュータは不機嫌らしい。なまじ人工知能を使っているだけに、メンテナンスの時間に多くを割かれるようだ。
 異端審問所。ミスティの伯父グレナデン・サフィールこそが、異端審問所所長を兼任している。早い話が、伯父貴に言えば何とかなるのだが、とてもそういう気になれなかった。
「ああ、何で私がこんな事をしなくちゃならないの」
 と、ぼやきつつ、ミスティは頭を抱えた。自分に言い訳をしてみても、腹の内は収まりそうにもない。
 アーチレリー・ブールヴァルドの言った言葉が妙に引っ掛かる。「お嬢サマ」発言ではない。ジョー・クリサンスマムの事だ。何ゆえに、あの一行が異端審問官ジョー・クリサンスマムと行動を共にしているのかは分らない。だが、満更こちらに関係が無いとも言えないのではないだろうか。
 とはいうものの、昨晩は腹立ち紛れにああいう切り方をしてしまったので、今さら何だったのかとは聞けない。口が裂けても、太陽が西から昇っても、ヴェネツィアが完全にアドリア海に沈没しても、聞くつもりはない。
 再び、ミスティは溜息を吐き、椅子の背凭れに腕を掛けた。
 風向きが変わりレモン畑の匂いに混じって、人工的な香りが流れた。
 ミスティは咄嗟にテーブルの下に置いた一対の剣を取る。鞘は一払いで茂みまで飛んだ。左手に長剣、右手に短剣。椅子は派手な音を立てて倒れた。
 長剣の抜き身が描いた弧の延長線上に、男の姿があった。
 男は初夏というのに深緑のロングコートを羽織っていた。ミスティは一振りで、男のコートのボタンを削ぎ落とす。
 パラパララッ、と軽い音を立てて飛び散ったボタンの行方を、一瞬ミスティは追った。それが隙を生じて、男は不意にミスティの胸元に飛び込んで来た。男が取り出したのは、旧式のリヴォルヴァーだ。短剣の刃が、銃身に押さえられた。
「ここではパウダーガンを抜いてはならないわ。《銃星》マキシム・デ・リガール」
 ミスティは、言った。
「帯剣は許可する。ここはヴァティカンと同じ規則なのよ」
「それは初耳です」
 リガールは、そう言いながら、パウダーガンを仕舞わなかった。ミスティが剣を収めるならば、話は別だが。
「よく覚えておくことね」
 ミスティは、長剣を引き、切先をリガールの喉元に突き付けた。
 リガールのパウダーガンは、《リトル・ドラグーン・インペリアル2121》。
 もしくはベビー・ドラグーンと呼ばれた小型拳銃が土台になっている。本来は合衆国の誇った騎兵隊用のドラグーンピストル《竜騎兵拳銃》の後に、十九世紀に発売された同じモデルの小型版である。雷管キャップを埋める先込め式のものであったが、新たに改良を加えてリヴォルヴァー式にした。銃としては、名前のみが残っており、性能は全く本来と別物である。
「アナタが幾ら有能な報道秘書官か知らないけど、武器を取っては私の右には出られない」
 長剣が閃いて、リガールのコートの裾を串刺しにした。コートごと、後方へ飛ばされ掛けたリガールは、すんでのところで植え込みに頭から突っ込み掛けた。その長身を支えたのは、小柄で痩せ肉の老人だった。
「師匠」
 ミスティは言い、短剣を収めるべく鞘を目で探した。だが、何処にも無い。
 リガールは流石に直ぐ体勢を立て直した。そして、老人に一礼をする。
「申し訳ありません、セノビオ・サウザ殿。とんだところを・・・」
 ふん、と鼻を鳴らしたのはミスティだった。老人は、皺ぶいた掌を撫でながら、破顔した。
「いや、わしのような年寄りには、若い男女のもつれ合いは刺激的過ぎての」
 言われて小汗が噴き出たのは、ミスティの方だった。好戦的な自分の性格を窘められているような気がしたのだ。
 リガールは、コートに刺さった長剣を抜くと、紳士的な手付きでミスティに渡した。
「まだ陽は高い」
「ヴァティカン直轄の保養所でパウダーガンを抜いた故の制裁ですわ、師匠」
 ミスティはあっさりと言った。セノビオ・サウザは鶴のように細い首を竦めた。
 この孫娘ほどの若い愛弟子は、今まで老人が仕込んだ使い手の中でも、最も扱いにくい悍馬の類だ。先程の指南中は全く冷静さを欠くことが無かったというのに、集中力を殺がれる相手だと、まるで暴れ馬だ。
 兎に角、そこらの男をものの数秒で蹴散らす腕前は瞠目に値するが、それ以上に血の気が多い。
「いっぺん血抜きをしたらどうかね?ミスティ」
「は?」
「それとも、いい男でもいれば少しは変わるかのう」
 セノビオ・サウザはリガールの方を見ながら、小さな声で言った。
 ミスティは敢えて聞こえない振りをしていた。
「宿舎に連絡をしたら、ここにお出でだと伺ったもので」
 と、リガールはミスティに向かって言った。全く取り乱した様子は無い。冷静な美貌には、先刻の騒ぎもネズミ一匹が出た程度にしかならないと見える。
「わざわざ出向いて頂くとは、緊急の用件でも?」
「今朝ほどこんな物が教皇宛に送り付けられて来ました。当然ながら、送り主は不明です」
 リガールの右掌に載せられた小さな再生紙の包みを、ミスティは受け取った。やや、重みを感じられる。包みを開くと、中には二個のラテン十字のバッジと、0200の数字を記した紙切れが入っていた。
「0200は、都市ナンバー。トゥールーズです」
 リガールは言った。
「トゥールーズ」
 十三世紀南フランス最大の都市トゥールーズ。一二二九年のパリ和約は、フランス王家における当時最大の議題アルビジョア十字軍後の現地領有関係の整理を取り決めたものである。トゥールーズ伯レモン七世は、独立不羈を敢え無く水泡にされ、国王ルイ九世との和議に調印し、そして異端の摘発と処断に努力を惜しまない旨誓った。同年、十一月枢機卿ロマン・ド・サンタンジュはトゥールーズに教会会議を召集し、パリ和約の実施細目を確定させた。
 これが世に言う「トゥールーズ教会会議」である。
「第十条にこうあります。『さらに定める。自発の意志にもとづいて邪説を捨て、みずから過誤を認めてカトリックの教会に帰参する者は、同人の居住せる町に異端の疑いある場合、もとの地に居住させてはならない。何ら異端の疑いなきカトリックの町に置く。また、旧事の過誤に対する嫌悪の標識として衣服の上に』・・・」
「『衣服の色とは異なる色の判然たる十字を二つ。一つは左、一つは右の胸につけさせる』」
 ミスティは、リガールの言葉を継いで言った。
「所謂、異端審問制度のはしりですが、何の意味があるか心当たりはありませんか?」
 リガールの緑の瞳が、ミスティの顔を見詰めた。
「教皇ではなく、異端審問所を狙っているということかしら」
「そう考えられます」
 ミスティは首を傾げた。
 ジョー・クリサンスマムの名前が頭に浮かぶ。だが、黙っていた。
「心当たりはないわ。伯父貴に聞いた方がよくてよ」

「キミの方から連絡をくれるとは、甚だ珍しい」
 グレナデン・サフィール枢機卿は、事務机に向かって微笑んだ。虚飾に彩られた微笑ではない。
「御機嫌麗しいご様子で何よりです、モンシニョール」
 中低音の声が答える。画面の中のアーチレリー・ブールヴァルドは、本人を目の前にするよりもずっと畏まって枢機卿の目に映った。相変わらず、きらきらしい美男子振りだ。彼の父親と同じ鼻筋をしていても、数段男前が違う。
「で、どうだね?」
「さっぱりです。ディアマントスでもホンコンでも、シルヴァー・ブレットらしき人物の噂は耳にしましたが、さて尻尾どころか影も掴めませんね。そのうえ、ジンときたら・・・いや、それはさて置き」
 アーチは取り澄まして、片方の眉を上げた。ジンが刃物キチガイのテロリストに捕らわれているなどと知れたら、お小言頂戴するだけで済むかどうか。いつぞやの、ミスティの台詞が頭に浮かんだ。
 『お守役としては無能ね』
 この男にしては珍しく、引っ掛かる言葉として、頭の片隅に残っているらしい。
「それも勿論だが、私が聞いているのは、そうじゃなくて」
「御心配無く。取り敢えずは、薄給ながら食っていってます」
「給料上げろと言うのか?ま、考慮しておこうか。私の管轄じゃあないんだが・・・。いやいや、そうじゃなくて」
「ああ、医局長のヒステリー、治りました?相変わらず枢機卿の面々とは仲が宜しくないようで」
「先日の一件・・・《PE》の件以来ますますだ。頓に口もきいてくれない。いや、それもともかく、キミどんな具合かね?」
 理知的なサフィール卿の目が丸くなった。アーチは暫く見詰め返した後で、敢えて視線を逸らせた。枢機卿が言わんとする事は、とうに判っていたが、答えようがなくて適当に茶を濁すしかない。ここは、愛想笑いだ。
「オレの口からは・・・何とも言えませんねぇ」
「うむ」
 サフィール卿は唸ったきり、その話題についてこれ以上触れる必要はない、と判断した。
「話は変わりますが、異端審問官ジョー・クリサンスマムが今遂行している任務に関して、お答え頂けますか?」
「ああ」
 あまりに唐突な、だが如才ない口振りに、サフィール枢機卿は、ごく自然な受け答えをしてしまった。
「テロリストBBWの追跡だろう?半年前の北京事件以来、まとまった報告は上がっておらんが。それがどうかしたのか?」
 アーチは、サフィール卿の顔を見て片頬に苦笑を押し上げた。確認するまでも無かったようである。それは、ミスティ・サファイアが教皇庁に呼び戻された時点で判っていた。
 ファビオ・キアラモンティ大司教の葬儀には、教皇シクトゥス13世が現れる。その教皇の命を狙っている輩にとっては、願ったり叶ったりの大舞台だ。たとい失敗に終わったとしても。
 そして、敵は必ずしも外部にいるとは限らない。
 アーチレリー・ブールヴァルドは、今度の儀式及びテロリズムの予測に関して全くの外野である。とはいえ、第三者であればこそ、読める事がある。だからこそ、ここは枢機卿に対して一つ芝居を打って置く必要があった。
「正直にお話しましょう」
 と、アーチは勿体ぶって言った。
「今、ジョーと行動を共にしています。いえ、偶然なんですがね。昨晩BBWのボスとやり合ったところで」
「BBWと?」
 サフィール卿の顔に険が差した。
「それが、どうも妙でして。BBWは百人からいる組織ですが、どうも傭兵ばかりでテロリストの姿が見えないんです。何処かに潜伏しようにも、このアジアの山奥じゃ、無理があるといえばありますしね。で、考えたんですが」
「ローマに潜んでいるとでもいうのかね?」
「よくある撹乱的手段でしょう。問題は、連中の狙いが何処にあるかということですが・・・」
 アーチは腕組みをした。サフィール卿は、頷いた。
「それなら、つい今朝ほど丁重な手紙を頂いたよ。トゥールーズ教会会議と十字を示すメッセージでな」
「異端審問所に対する挑戦状とみなしていいわけですね」
 目から鼻へ抜けるとはこういう対応を言うらしい、とサフィール枢機卿は感心した。
 だが悲しい哉、科学者にしてはこういう頭の回転の良さは、逆にマイナスでしかない。芝居っ気のある口調といい、むしろ政治家向きの才能だ。何処まで本気なのかどうか、誰にも量ることが出来ない。その点、マキシム・デ・リガールはやはり不適格だった、と改めて知る。良くも悪くも、あのスラブ人は真面目過ぎるのだ。
「オレみたいな若輩者が言うまでもないことですが、本当の敵は外部の人間とは限らない。何しろ、ゼノホビアのテロリストが一体、それだけで今の世の中どうやって食っていかれますか?スポンサー無しで傭兵を雇うなんて出来っこない。何がしか、お互いに利益を齎す取り引きを、誰かと交わしているに相違無いでしょうね」
「キミは、ヴァティカン内部に連中を雇った者がいる、と言いたいのか?」
 サフィール枢機卿は、訊き返した。アーチは、少しも動じない。新米の執行官ならびびってしまう枢機卿の鋭い眼光にさえ、眉一つ動かすことはしない。度胸と厚かましさだけならこの男、老獪な枢機卿連中をはるかに凌ぐだろう。
 沈黙が枢機卿の方に焦慮を齎し始めた。
 その頃合を見計らったように、アーチは唇を開いた。
「・・・少なくとも、異端審問所所長である卿に敵意をお持ちか、利害関係のある人物が。お心当たりでもおありですか?」
 アーチは飽く迄、冷めた目付きでディスプレイを見詰める。昼間は電波状態が特に悪い。画面は、目の粗いサンドペーパーのように見えた。
「心当たりが多過ぎてな」
「お気の毒です」
 これでいい。アーチは用件が終わると、さっさと通信を切った。
 これで、女巡検使ミスティ・サファイアは今後起こり得るだろう儀式での事件に、直接関与しない裏付けを作ったつもりである。たといミスティが真の首謀者を殺害しようが、それは彼女の意思ではない。少なくとも総ては彼女の伯父貴が差配しているという証言を、アーチ自ら演じ切ることが出来るのだ。
 最悪の場合を想定しても。
「ホンコンでの借りを返すぜ、ミスティ」
 アーチは胸中で呟いた。
「そうさ。仮にキミのおじさまが連中を雇った人物だとしても、キミには伯父貴を殺せまい。おじさまでない他の誰かを殺したとしても、おじさまはキミを擁護してくれる。・・・いや、万が一、おじさまを殺害したとしても、術中に嵌ることに変わりは無いだろう。むしろ最悪だ。何れにしても、キミはまだまだサフィール卿の掌の上で転がされているだけなのだという事実を知っている第三者が、一人くらいは必要だろう?」
 剣呑な考えを巡らせているにしては、些か不謹慎な笑みがふと、アーチの片頬に浮かぶ。
「いや、一人とは限らないか」
 癪に障るが、マキシム・デ・リガールもあれで同じ事を考えているに違いない。だが、事情に明るい人間が多いに越したことはないだろう。
 振り返った時、ジョーが毛布の上から起き上がるのが見えた。アーチは《キングコブラ》の雷管に、真新しいフルメタル・ジャケットの弾丸を込めた。火薬を多めに調合した、人殺しの為の最高の小道具。

 鼓膜を劈くようなギャリギャリ、というブレーキ音と、猛烈に環境を悪くさせる2サイクルエンジンの排気ガス。その白煙がもうもうと臭ってきた。オイルの焦げる臭い。
「げほ、たまらん臭いだ。もっとおとなしく走れよ!」
 タンデムシートから叫ぶジョーの訴えを無視して、アーチはスロットルを開ける。わざと乱暴な運転をしてみせるのも楽じゃない。
「乗せて貰ってるだけで有り難いと思え、白髪アタマのヘタレ神父が!」
「何か言ったか?」
「おお!絶好おおのツーリング日和だぜ!」
 《デアデヴィルXIX》は、爆音を上げて峠を下る。両脇に緑の波が押し寄せてくる。そして、後ろに繋いだ《イケヅキCR−X》を振り返ったジョーは、眩暈を覚えた。狭い凸凹道で、体ががくんがくん揺れる。小枝は衣服の上から突き刺さるわ、蔦は絡まるわ。後ろ向きでいたら、嘔吐は必至だ。
 タンデムしている人間でさえ、この重力だというのに、深手を負っている人間のライディングとは思えない無茶な走りだ。
「こいつ、ホントに殺しても死なない強化人間だった・・・」
「何くたばってやがんだ、ジョー!こんなトコでゲロ吐くんじゃないぜ!」
 アーチは叫んだ。
 前方に見えてきたのは、ジープの群れの最後尾だった。
「さあて、お手並み拝見だ。スロッピー・ジョー」
「おう」
 《パイソン・ブラザーサン》のトリガーを引く。毒蛇が獲物を狙って鎌首を擡げるように、ハンマーの首がぐっと持ち上がった。ノッチ音は一回のみ。
 ハンマーは落ちてサイトの向こうに白い閃光が流れる。一発目でジープの左後輪が傾いた。矢庭に原則を余儀なくされたジープは、安定性を失いかけていた。
 着地の安定感が無い分、パウダーガンの命中率は下がる。しかも、衝撃は幾分増す。だが、ジョーは微塵も揺れ動かず、二発目に入った。二発目はジープのどてっぱら。ガスタンクに見事命中。ジープは黄色い植物性ガスを垂れ流しながら、減速していった。
「さよーならあ」
 ガタピシ音を立てていくジープを尻目に、ジョーは余裕のウインク。
 火傷しそうに熱い銃身は、まだ踊る。三発目が次のジープを狙った。が、予想だにしない反撃がジョーとアーチを待ち構えていた。
「うわわわわわ!」
 ぐっしゃ。
 ジープの助手席に座っていた男が投げた物は、鶏卵だった。あらかた、先日襲った村で掠め取って来たものだろう。
「またプリプリとした濃い黄身じゃねえか、この」
 ジョーの耳元に黄身がべったりと貼り付き、僧帽のつばからだらりと透明な白身が垂れ下がった。ジョーは、唇に貼り付いた卵の殻をぺっぺ、と吐き出した。
「頭の上に落とすな!・・・がっ!」
 アーチは逆上して叫んだ。その横っ面に、鶏卵が命中する。
「ゲラゲラゲラ」
 ジョーは大笑いだ。
「いや、笑ってる場合じゃねえ!」
 四発目こそは、真横に並んだジープのフロントガラスを撃ち抜いた。ハンドルがもげる。
 アーチは、むかむかしながら生卵を拭い去り、ハンカチーフを捨てた。目の前に手を振る少女の浅黒い顔が見えた。
「おーい!」
 ピーチィ・フィズは縛めを免れていた。ジープの後部座席から、荷台に移ろうとしている。まるで迷った子犬が飼主を見つけて、千切れんばかりに尻尾を振っているかのような様子だ。
「あ、あのアホでかい声出しやがって!」
 思わず減速して、Uターンしたい気分に駆られたが、行き掛かり上アーチはスロットルを全開にしたまま、神妙な顔で坂道を突っ込んで行った。時速百キロは下らない。
「ここで引けるか!」
「おいおいおいおいおいー!何やらかそうってんだ。ぶつかるじゃねえかあ!」
 ジョーは必死で僧帽を押さえた。が、アーチは聞く耳持たない。成る程、仕方ないと腹を括ったジョーは、えいやと中年の肉体に鞭打って、タンデムシートの上に立ち上がった。
 アーチの肩に左手を置き、身体を支えつつ、狙いを定める。《デアデヴィルXIX》が、すんでのところでジープのテールランプを掠り掛けた。今だ、とばかりにジョーはジープに飛び渡った。《パイソン・ブラザーサン》の銃口は、ピーチィの傍らにいるひ弱な男の方を向いていた。運転手は、頻りにバックミラーを覗きながら、ジョーを警戒している。
 前方のジープが異変に気付き、助手席側にいる男が武器を構えた。
 大型のマシンガン・ブラスターである。昨晩お見舞いされたものだが、こんな状況でぶっ放されたらジョーは一溜まりもない。いや、ジョーだけではなくジープの運転手も同乗者も諸共だ。
「よ、よせっ。それだけはよせって!」
 ジョーは《パイソン》を構えながら、左手を突き出した。ジェスチュアで制止を示してみるが、男は無視してトリガーを引いた。
 発射音と共に、ジョーはジープの助手席に転がり込んだ。運転手は、慌ててハンドルを切る。だが、下り坂で加速が付いているうえ、空気抵抗があるものだから、ハンドルはブレた。サイドミラーが脇の常緑樹に当たり、ジープは半回転した。
 同時に、振り落とされ掛けたピーチィの首根っこを、併走していたアーチの右腕が引き上げた。
「ひ、人殺しぃー!」
 叫ぶピーチィは、そのままアーチの胸元に抱えられた。
「いやん」
「大人しくしがみ付いてろ」
 言われなくても、少女はガスタンクの上に跨ると真向かいになり、木登りサルみたいにアーチの腰に抱き付いた。ここぞとばかりに、だ。
「いででで」
「あ、堪忍なぁ。包帯?酷い怪我やん!これって、もしかして・・・」
 ウチの為に、と言い掛けたピーチィの頭を、アーチは思いっきり押さえ付けた。
「じっとしとけっての。そんなにオレと心中したいか?」
「うん」
 少女は柄にもなく、頬を赤らめた。アーチは、少女のか細い声など聞いちゃいない。
 ジャカッ。シリンダーが回り、《デアデヴィルXIX》は速度を弛めることなく、後尾のジープを追い越した。マシンガン・ブラスターに狙いが定まる。まるで黒馬を駆るカウボーイのように、腰を浮かせて右腕を伸ばす。
 狙いは定かだ。《キングコブラ》の放つ重低音が、重数キログラムは下らない鉄の塊を一瞬にして屑同様に変えた。マシンガン・ブラスターは既に男の手を離れて、林の奥に消え去った。同時に上がる男の絶叫。右手首を貫いた穴から、黒味を帯びた血が噴出している。
 ジョーは、硝煙の流れる方向へ顔を向けた。
「まったく、《称号》なしにしては、イイ腕だ」
 俄仕込みの相棒に感心している間もなく、ジョーは助手席から這い上がり、右手に握り締めた《パイソン・ブラザーサン》のハンマーを落とした。そして、左手を僧服の懐に突っ込む。取り出したのはセミ・オートマチックのルガーPPK・リヴァイバルだ。こちらは、専らセコンド・ガンとして滅多に使用しないのだが、数年ぶりに弾を装填する事態となってしまった。
 運転手は隙あらば、ジョーの太腿にでも食らいついてやりたいところだったが、ハンドルから片手を離した瞬間に、頭はスイカ割りのスイカのごとくマグナム弾に粉砕される運命にある。
 そして、ジョーはルガーPPKのセフティを外し、発砲した。
 ガシャガシャ。
 前方のジープのフロントガラスが砕け散った。ルガーの弾き出した弾ではない。明らかにフルメタル・ジャケットの357弾の発射音だった。カノンのようにして、二十二口径弾の連続音が重低音を追った。それを更に追う銃声。
 ガラスと共に血飛沫が上がる。ジョーの顔に、生臭い飛沫が掛かった。ほんの僅かだが、ジョーは目を瞬く。ジープが不意に安定感を失った。運転手の左手が、旧式のサイドブレーキの脇に伸びたのだ。
「うっがっ!」
 ジョーは既に、《パイソン》を二発発砲していた。その時間は僅かに0コンマ62秒。運転手の両腕は一瞬にして、使い物にならなくなった。
 フラット・ノーズに加工された357弾は、運転手の二の腕に填ったまま、まるで肉食魚のように離れない。そして、骨は粉砕されていた。ジープが不自然な失速をする間際、ジョーは前にジャンプした。辛うじて、荷台にしがみ付き、攀じ登る。
 僧帽が後方に流れ飛んだ。
「ジョー!」
 ピーチィが叫んだ。ジョーはウインク一つを少女にお返しして、ルガーのグリップを素早く直す。
 続けざまに三発。後部座席の男二人の肩に仲良く一発ずつ、そして助手席の男がブラスターを抜きかけたところで、左腕に一発。お見事としかいいようのないタイミングで発砲。
「どきやがれ!」
 ジョーは運転席の男の後頭部に《パイソン》の銃口を押し当てた。
「シートに失禁したら承知しねえぞお」
 そう言いながら、ジョーはルガーを左手中指に引っ掛けたまま、男の襟首を掴むという芸当で、男を運転席から放り出した。無論、男は自ら進んでドアを開けたのだ。頭を撃ち抜かれるよりは、マシだ。
「あーれー」
 時速百キロは下らないジープから身を投げた男の絶叫は、林の中へ吸い込まれていった。ジョーは助手席と後部座席の男達を摘み出し、運転席に陣取る。
 ボンネットの向こうに見えたのは、灰色のコートの襟元。振り返った男の顔には、凄惨な笑いが浮かんでいた。
「舞台は整ったな。スロッピー・ジョー」
 赤ら顔のグラッド・アイが言った。尤も、その呟きがジョーの耳に届いているのかどうかは判らない。
 ジョーは大きく呼気を弾ませた。
第四章へつづく

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