第八話
〜タンゴ・ジェノシディオ ballare il tango
genocidio〜
(後編)
第四章 DEAD OR ALIVE 生死を問わず
壮大なイル・クッポローネ。今朝はまた、雲一つ無い晴天にその気高い姿を現している。ローマ市内に集まった人々の群れは、既に朝まだきから動き始めており、午前七時半の今もまだサン・ピエトロ広場に流れ込んでいる。ティベル川の流れのようにゆったりと。
平和の象徴は、総て広場から建築物の屋根屋根に追い払われてしまった。
衛兵はブロンズ扉の向こうに控えていた。
一般の司祭・司教は、それぞれ指定された区画に整列していた。総勢五千人余の一般聖職者は、特別な理由でもない限りはめいめい参列の義務があった。彼等が黄金率の3対4の長方形に並んでいるその前方、つまりよりイル・クッポローネに近い側に各司教区長が並ぶ。そのまた前方に南面して横一列に並んでいるのが、グルッポ・カルディナーレ(枢機卿会)の面々とヴァティカン各庁の首長だった。
聖職者でない者は、司祭らの後方に陣取っている。
オベリスクの上に白い鳩が舞っているのを、カッサンドラ・ブルーネレスキは視線で追った。
ヴァティカン科学アカデミーの若き女医局長は、今日はさすがに無粋な白衣姿ではない。漆黒のスーツは紛いなくイタリアン・ブランドだ。ウエストを絞った短いジャケットに、マキシのスカート。一切の装飾品が無いという点に目を瞑れば、ある意味スタイリッシュに着こなされている。
目立つ赤い髪はきつく結い上げられていた。
その視線は、最初退屈げに枢機卿らの雁首を左から順に動いた。
ローマ司教総代理アルフレード・ティレリ教皇代理枢機卿。本来は教皇が治めるローマ司教区の代理を行っている、枢機卿会最長老。カッサンドラがまともに拝顔したのは、何年ぶりだろう。薄い青の瞳をした、神経質そうな顔付きの典型的な北イタリア人だ。
その右に枢機卿ロドリゴ・サン・トゥルメ国防省長官、ジアチント・バルベリーニ財産管理局長。枢機卿ジョナサン・フュリエリ聖務省長官の席は空いている。葬儀の最高責任者は、棺に並んで出てくるのだ。
「少なくとも儀式が終わるまでは、解熱剤がいうことをきいてくれるといいのだけれど」
カッサンドラは一抹の危惧を覚えた。
昨夕、ジョナサン・フュリエリ枢機卿はひどい咳と呼吸困難を訴えて医局に担ぎ込まれた。
診断結果は軽い肺炎だった。むくみもあり、肺に僅かな水が溜まっている様子があった。軽いとはいえ、腎機能に低下が見られた。その低下が招いたむくみが、結果的に肺を苦しめたのだが、本来は起き上がって動き回るような病状ではない。安静にして貰わなければ、というカッサンドラの諌言を振り切っての執務だ。
儀式が終われば医局に直行。緊急処置の出来る体制を持しての、医局員の出席だ。
そして、枢機卿マッフェオ・キアラモンティ科学省長官。カッサンドラの直属の上司に当たる人物だ。ファミリーネームから瞭然としているが、死者の遠縁にあたる。つまりは教皇とも血筋が繋がる。とはいえ、本来ヴァティカン内の政治的人間関係において、この男は最も意欲的ではない。名前だけは枢機卿だが、カッサンドラに言わせれば、研究者肌、学問バカの部類だ。
次に枢機卿ヤン・フランツァ・ドブチェク法務省長官。
最後に枢機卿グレナデン・サフィール異端審問所所長。いつもと変わらぬ冷静な顔付き。
「何が嬉しくて、こんな天気の良い日に朝っぱらからタヌキオヤジ共の顔ばかり見なくてはならないのかしらね・・・」
四十女の溜息を聞く者はいない。
並居る聖職者に混じって、執行官が立っている様を、カッサンドラは見遣った。
中でも、見るともなしに目に付くのは、厳しい制服姿の女巡検使ミスティ・サファイアだ。屈強な男達に混じっても遜色の無い長身だが、やはり造りはかなり華奢に見える。
「あら、戻っていたのね。あのお嬢ちゃん」
思わず声が出た。そして、ほんの一瞬お互いの目と目が合ったような気がした。
カッサンドラは仄かな笑みを艶然と浮かべ、ミスティの方はやや侮蔑をこめたような雰囲気で目を細めた。
「あんな若い娘が、いずれ緋色の法衣を纏うのかしらね」
そんな女を捨てるような真似はしたくないものだ、とカッサンドラは少し気の毒に思った。がちがちの秀才肌ならともかく、あの《ヴァティカンの頭脳》といわれるグレナデン・サフィール枢機卿の姪にしては、些か毛色が違うような気がするからだ。
オベリスクの頂上にある十字架に、灰色の鳩が止まった。
ミスティは、鳩の動きに目を遣った。今朝はいつもに比べて数が少ない。儀式の御蔭で鳩は殆ど他所に追い遣られているのだ。彼女が知る限りは、毎朝、このサン・ピエトロ広場に数名の老人がやって来て、パン屑を撒いている。午前七時から八時の間にだ。それは、もうかなり前、ミスティがまだ修道院に預けられる前からの慣習だった筈だ。
今日はさすがに老人達も現れまい。いや、弔問に訪れるやも知れない。
ファンファーレが響いた。
午前七時五十分。
その盛大な音に驚いて、鳩が飛び立つ。
いよいよ教皇シクトゥス13世が登場するのだ。ミスティは自分の位置関係を確認した。教皇がブロンズの扉から現れ、緋色の絨毯の上を自ら歩いて祭壇に進むことは、進行の上で知らされていた。勿論、一般聖職者は露も知らない。何処から洩れるとも限らないからだ。
衛兵が先駆けを務める。いつもの鮮やかな制服ではなく、弔意を示した黒い制服姿のがっしりした美丈夫達が、整然と歩き出した。
一般弔問の信者達が息を飲む音が、伝わる。
そうして、教皇の姿は数年ぶりに白日の下に現れた。覚えず、一同の感嘆の声が洩れ聞こえる。この場面だけを切り取って見てみたならば、誰も荘厳な葬儀の場面とは思わないだろう。教皇の行幸のように、皆は明るい顔、或いは驚きの表情で進行を見守っていた。
教皇の顔色は、さほど悪くも無く良くも無い。ミスティは数年前と比較して、やややつれた感じを否めなかった。だが、柔和な印象はそのままである。青年教皇と呼ぶに相応しい雰囲気であることには変わりない。そして、その瞳は信者、或いは聖職者に迎合したり自信の無い目ではなく、ただ真っ直ぐに祭壇に向けられていた。
ゆったりとした足取りで緋の絨毯の上を、流れるように進む教皇。
わざわざ振り返って見る者はいない。だが、誰もが横目でしっかりと教皇の姿を追う。秀でた鼻梁。やや落ち窪んだ灰色の瞳は思慮深さを表している。ガラスのように繊細な頬。尖った顎。聖杖を携えたしなやかな手指の動き。華奢な身体を包む、純白の法衣。
あまりにも慈愛に満ちた眼差し。どれをとっても非の打ち所が無い。意地の悪い人間なら、何処からか隠れた才能を持つ若い男優を雇って、教皇を演じさせているのでないかと思うほどだ。
ミスティは微かに違和感を感じた。
シクトゥス13世の姿にではない。
広場に漂い始めた密かな悪意。ミスティの青い瞳が泳いだ。
広場を取り囲む肌色の壁。青空に僅かに刷いた白い雲。オベリスクの頂上に一羽の鳩。何がどう、という訳ではないが、気味の悪いくらいに揃った舞台。
道は緩やかに平地に向かっていた。ジョー・クリサンスマムの操るジープは、前方のジープに微かに触れた。ほんの僅かな接触とはいえ、速度が速度であるので、かかる重力も半端ではない。グラッド・アイは後方を見た。荷台に乗った傭兵がブラスターを構える。
赤い熱線は、ジョーの左肩を掠めて散った。まことに狙いが悪い。だが、無理からぬ事だ。
ジョーの《パイソン》は、既に二度目の装填でこめた弾丸を使い切っていた。
敵が体勢を定めている間に、ジョーは素早くエンプティ・カートリッジを落とし、処女弾を詰め込む。
フラット・ノーズの弾丸は、今詰め込んだ六発しか残っていない。後はいつものラウンド・ノーズのみだ。
アーチの脇腹にしがみ付いていたピーチィが、もぞもぞと動き出す。
「何だよ、くすぐったい。よせって、そこは。コドモが触るんじゃない」
「違うねん、アホ。ジープの荷台!」
ピーチィに言われて、アーチは荷台に無造作に乗っかっている麻袋を見た。麻袋は、芋虫みたいにもぞもぞと奇妙な動きをする。
「まさか、あれ・・・」
アーチは舌を出した。間抜けな相棒が、麻袋と格闘している姿など、見るに耐えない。
ピーチィは、白い歯を見せてにんまりと笑う。
「じゃん」
少女のか細い手に握られていたのは、ジンの《ブラックホーク・ディオファイア》だった。
「何でお前が持ってんだ?」
「そりゃあもう。ウチを何やと思うてるのん?盗賊の首領やで」
義賊だと言っていたんじゃないのか、とアーチは思ったが、この際細かいことなどどうでもいい。実を言うと、没収されていたパウダーガンを盗み出したのは、ピーチィの話し相手をしていた海賊好きのひ弱な男だ。少女の口車に乗せられて約束を果たしたものの、本人は先程ジープから振り落とされて何処へやら。
アーチは《キングコブラ・バニッシュメント》を構えた。
動態視力が命の、この作業は果たして上手くいった。麻袋の紐は危うい軌跡を描いて断ち切られ、中から乱れ切った長髪のジン・スティンガーが顔を出した。
「ちくしょう、殺す気か手前ェ!」
ジンは麻袋を脱ぎ捨てた。ブーツの底を指差して罵る。靴の先に穴が開いている。かろうじて足指は避けているものの、衝撃でじんじんする。
「助けて貰って何を抜かす!礼の一言くらい言え」
「お前の仕事だろーが!」
「自分がドジを踏んでおいてよく言えるな。それでよくシルヴァー・ブレットを撃つだの何だのと・・・!」
「あー、二言目にはそれかい!いい加減聞き飽きた!」
ジンはあかんべえをして見せる。アーチはさすがにカチンと来た。今度は無言で《キングコブラ》のハンマーを落とし、ジープに向かって発砲する。357マグナム弾は、跳ねることなく、金属音を揉み消して荷台に埋まった。積まれていた麻袋が破け、大豆の粒が黄金の滝のごとく流れる。
「ななな、何しやがる手前ェええ!!」
ジンは側にあった自前のテンガロン・ハットを拾い上げ、うつ伏せになりながら吼えた。
「やかましい。テロリスト征伐だ。流れ弾に当たりたきゃ、お好きにどーぞ!」
アーチは無慈悲な笑みを浮かべて、立て続けにトリガーを引いた。ジープは走り続けるが、穴ぼこだらけ。ジンは器用に転がりながら、後部座席に割り込んだ。
「手前ェらいい加減にしやがれぃ!」
叫んだのは、後方のジープを操るジョーだ。
「・・・ったく、血の気の多いヤツらだな」
ジョーはダンヒルを咥えながら、《パイソン・ブラザーサン》のフロント・サイトを定める。《デアデヴィルXIX》をちら、と見遣り、ほんの瞬間唇の端を歪めた。《パイソン》とルガー二丁の、貴重なリロード時間を作ってくれた賢い男に感謝せねばならない。
胸の上で十字を切ると、ジョーは右手人差指に力を込めた。
フラット・ノーズの357マグナム弾は、グラッド・アイの右肩を目掛けて飛んだ。だが、弾は届かない。
グアン。という鈍い音と共に弾き返された弾頭の平たい粒は、隣の運転手にめり込んだ。
声にならない運転手の悲鳴が、ブレーキ音に混じる。
「ウソだろ、おい!」
声を合わせて上げたのは、ジンとアーチだった。
スロッピー・ジョーのファスト・ドロウに勝る早業で、ククリを抜いたグラッド・アイ。しかも刃零れすら許さない。グラッド・アイの鳶色の眼に余裕の色が浮かんだ。
「人間業とは思えねえ」
ジンはジープに這い蹲ったまま、グラッド・アイの方を振り返った。緩く波打った長髪が、風に流れ、凄惨な笑みは地獄の使者を思わせる。グラッド・アイは交差させた両手を開いた。二枚の刃が躍り、運転手の腕の肉を削ぎ落とした。
「うぎゃああああ!」
頚動脈を断ち切られた運転手は、血飛沫を上げながら首を振り、ハンドルにうつ伏せた。コントロールを失ったジープは、急激に失速しながら尻振り回転する。
グラッド・アイは、助手席に立ち上がった。血糊のべっとり付着した刃を、長い舌で舐め上げる。
ピーチィは、その光景に眩暈を覚えた。仁王立ちになったグラッド・アイは、まるで破壊と殺戮の権化と化していた。血煙に包まれた屈強な肉体を弾ませ、グラッド・アイは跳躍した。
前方のジープが横転して、既に息絶えた運転手を吐き出し、燃え上がった。ジョーは、ボンネットにしがみ付いたグラッド・アイに対峙していた。
「よう。久しぶりだな」
グラッド・アイは己の巨体を軽々と持ち上げ、ジョーの眼間にククリの刃先を向けた。同時に、ジョーはグラッド・アイの胸の中心に《パイソン・ブラザーサン》の銃口を押し当てる。ジョーは、額から流れる汗を拭うことも出来ず、瞬きした。
「久しぶり?昨夜、貴様の薄汚い顔を見たばっかりだぜ」
「昨日の事は遠い昔というんだ。オレにとってはな」
グラッド・アイは、尖った犬歯を歯茎まで剥いた。
衛兵の引導で、枢機卿ジョナサン・フュリエリ聖務省長官が現れた。
そうして簡素な棺が運ばれる。生前から質素を殊に重んじた、キアラモンティ大司教の遺志を尊重しているとの事だ。
ミスティ・サファイアは訝った。ジョナサン・フュリエリ枢機卿の顔色が、優れない。先日の予行演習の時から具合が悪いと見受けられたが、褐色の肌に些か脂汗が滲んでいる。大役ゆえの緊張などではない。経験豊かなこの聖人が、今更緊張する筈もない。
心穏やかでないとすれば、それは只一つ。教皇シクトゥス13世の身を案ずるあまりのこと。
「そうではない。フュリエリ枢機卿は本当にお具合が悪いのだわ」
ミスティは感じた。
かなりの高熱を堪えているように見えた。
元来、丈夫な方ではないと聞く。然らば、この大事に病気などすまい、と事前に身を安らかにして置く筈。それが不調を訴えるようならば、誰かの差金である可能性は有り得る。
ミスティは、専ら瞳だけを動かして周囲に注意を払った。
「いったい、誰?誰が枢機卿を」
視線の先に、深い緑の瞳が当たった。マキシム・デ・リガールは、何か物言いたげにゆっくりと瞬きをして、ミスティの瞳を見遣った。
棺は祭壇に近付いた。
オベリスクの上の鳩が静かに飛び立つ。誰も空に注意を払う者はいない。ミスティは、僅かに指をずらしながら、インバネスの下のガンベルトに手を掛けた。
広場は、そう。一般弔問者が後方に控えており、回廊の半分以上が人の頭に埋もれている。
その人垣の間を、襤褸を纏った二人の人間が動いたように、見えた。ミスティ・サファイアは、素早く列から後退した。両脇にいた執行官は、何食わぬ顔でミスティ一人分の空間を埋める。総てが段取り良く訓練された者達だ。既に、SPは静かに動いていた。
襤褸を纏った男達は、広場の後方で黒ずくめのSP二人に咎められていた。
男達の顔が明らかにされる。
ミスティは愕然とした。いつもの老人ではない。浅黒い肌のイスラム系住民だ。ローマの貧民街に塒を持っている連中の仲間で、日雇いの仕事、それも大っぴらに出来ないような類の仕事を請け負う男達だ。
「しまった」
と、ミスティは男達が何やら喚いているのも聞かず、引き返す。SP達は、男達が握っていた汚い袋を引き千切った。
パン屑が零れ、イル・クッポローネに止まっていた鳩達が一斉に向かって来た。
羽ばたきの音と白黒の塊の来襲が、人々の頭上を掠め、折りしもほんの瞬間的に、棺を運ぶ聖職者の足取りが止まったかに見えた。
ざわめく人々の間を縫って、別の襤褸を纏った影が走る。それは、到底普段鳩に餌を撒いているだけの老人の足ではない。充分過ぎるほどに訓練された傭兵の走りだった。
影は九つ。
ミスティは、過たず緋色の絨毯を横切った。まずは、一般弔問者の人垣が崩れた中を、太陽が沈む方角へ向かって一人の男が走る。民間人の中に入れば発砲出来ない、という決まり切ったセオリーに基づいて。
そして、逃げ込んだ側はお構い無しだ。男は、コートを脱ぎ捨て、ブラスターを発射した。人々の悲鳴が上がる。
《パイソン・シスタームーン》は、人垣にあっても容赦無く発砲した。
男の表情が、そんなバカな、という驚愕に変わる。ミスティ・サファイアの特命は、市民の保護にはない。それは、一般警備の者の任務であって、女巡検使に与えられた任務は飽く迄、教皇の御命を守ることのみ。
男の身体は、石畳に突っ伏した。骨を砕いた357マグナム弾が穿った穴からは、どくどくと鮮血が溢れ、美しい広場を汚した。返す左腕を振るうと同時に、前方の男が倒れる。これで三発目だ。
最早、広場は先刻の整然とした儀式の様相を呈しておらず、市民、聖職者入り乱れて混乱の極みに陥っていた。
「どういうことだね、フュリエリ枢機卿!」
アルフレード・ティレリ教皇代理枢機卿の大声が、響く。助祭に抱えられたフュリエリ枢機卿は、よろめきながら緋色の絨毯を行く。だが、フュリエリ枢機卿自身は何の指示も与えないまでも、SPは動いていた。衛兵もシミュレーション通りに、いやそれ以上に素早い対応を見せている。
「最悪の事態、いやこんな事があってたまるものか!血塗られた葬儀など!」
ティレリ枢機卿の声は上擦った。その剃刀のような瞳を、フュリエリ枢機卿は見上げた。
「最悪の事態は想定していました」
褐色の肌に浮かんだ汗が、目尻に流れ込む。
「教皇が参列なさるという事が決定した時点で。だが、最終的に判断なさったのは教皇。そして、お止めしなかったのは貴方ですよ、ティレリ教皇代理枢機卿・・・」
そう言って、フュリエリ枢機卿は激しく咳き込んだ。救急隊が酸素吸入器を抱えて、フュリエリ枢機卿の元へ駆け付けた。
「口数が多すぎるぞ、卿は」
アルフレード・ティレリ枢機卿は小さく呟いた。その冷然とした顔を、助祭は見上げた。だが、助祭はフュリエリ枢機卿が担架に乗せられた為に、その真意まで読み取ることが出来なかった。
この騒然たる儀式。総てが計算し尽くされた芝居だとしても、これほど上手くはいかないだろう。
ミスティは、インバネスを脱ぎ捨てて走った。既にテロリストの半分は、SPに仕留められていた。騒ぎが始まってまだ一分と経たない。聖職者らが右往左往する中を、ミスティは教皇の姿だけを目で追っていた。
何故に、わざわざこのような手の込んだ、しかもやりにくいシナリオでもって、テロ活動を行う必要があるのか。爆弾の一つでも仕掛ければ、教皇の命ばかりか、グルッポ・カルディナーレ諸共一掃出来るというのに。
何故だ。今は、このような疑問に頭を満たされている場合ではないのだが。
思い至れば、話は簡単だ。
そうだ。
「明らかにこのテロリズムの首謀者は、この舞台の真ん中にいる。舞台に出て来ざるを得ない人物であるのだ。爆弾なぞ用いたら、自分も危ういということか!」
ミスティは、唇を噛んだ。改めて、自分の愚行が忌まわしい。異端審問所に突き付けられた挑戦状の意味。
アーチレリー・ブールヴァルドに取り縋ってでも、真意を確かめておくのだった。女のプライドなど、この際どうでもいい。
「おじさま!」
ミスティは右肘を掴まれ、すんでのところで伯父貴に向けて、《パイソン・シスタームーン》のトリガーを引くところだった。
「教皇は聖堂の中へお入りになった」
サフィール枢機卿は、鬼気迫る表情で愛しい姪の顔を見詰めた。
「お前も・・・」
枢機卿は絶句した。ミスティの肘を掴んだ手から、不意に力が抜ける。ゆらり、と前に倒れ掛けたサフィール枢機卿の唇から、どす黒い血が溢れ出した。
枢機卿は振り返る。背後に若い男が立っていた。長白衣を着た司祭の格好の男は、口許に皮肉な笑みを浮かべた。見たことの無い、誰も知らない聖職者。そして、その明るい髪の色や肌の色は、決してローマ市民でもラテン民族でもないことを明確にしていた。
「おじさまぁ!しっかりなさって!」
ミスティは伯父の身体を抱き止めると、男に向かって《パイソン・シスタームーン》を放った。
男は、357マグナム弾を撃ち込まれながら、二三度ダンスでも踊るように身体を震わせた。
「へへ・・・へへへ」
頭を振りながら、男は仰向けに倒れた。胸の中心と脳天を撃たれて、夥しい血と脳漿を吐き出しながら。ナイフが男の右手から転がり落ちる。べっとりと付いた血は、サフィール枢機卿のものだ。
ミスティは、我を忘れる程、トリガーをきつく引き絞っており、男の手首をブーツの底で踏み躙っていた。
その左腕を、誰かが切り裂く。
思わぬ油断に、《パイソン・シスタームーン》が転がり落ちた。弾丸は一発も装填されていない。
振り返ったミスティは、テロリストの顔を見た。男は両手にかざした短剣を光らせ、舌なめずりした。
《デアデヴィルXIX》の排気音が、静まった。後方に繋がれた《イケヅキCR−X》は、横転している。この調子だと、部品の一つや二つは吹っ飛んでいるかも知れない。
ジープは既に道端に投げ出されていて、ジンは木々の間から漸く這い出して来るところだった。
「くそ乱暴な連中だな」
丁度辺りは道が開けた三叉路で、泥濘だらけではあったが、見通しは良い。
およそ十五フィートの間隔でもって、スロッピー・ジョーとグラッド・アイは見詰め合っていた。
「ちくしょう。出るに出られねえ」
容易に動いたら、いつグラッド・アイのククリだか何だかが飛んでくるか知れないので、ジンは蔦の間から首だけを出して様子を見守っていた。大分離れて、その真向かいにアーチとピーチィの乗った《デアデヴィルXIX》。
ここは、どうがこうでもジョーに勝って貰わねばならない。でないと、グラッド・アイがジープで移動中に言ったおぞましい行為が現実のものとなる。
「最悪じゃねえか。ジョーが倒れたら、グラッド・アイはアーチを切り刻む算段だ。傭兵どもは全員倒れて動けねえ。となると、あいつのオカマを掘るのはやっぱ、オレの役目じゃねえかよ。くっそう」
ジンは、我が事のように手に汗を握った。一世一代の賭けのような気分だ。
風がそよいで来た。
ジョーは、僧服を脱ぎ捨てた。無言で《パイソン・ブラザーサン》をベルトに挿み込む。そして、同じようにルガーPPKを背中側に差し込み、両手を挙げた。ゆっくりと一回転して見せる。
グラッド・アイは、これもコートを脱いだ。それから両手のククリを二丁拳銃のごときスタイルで、腰の両側に差す。
両者はこの時点で両手に武器を手にしていない。まるで、ジャッジのような神妙な顔付きのアーチを、ジンは見遣った。
アーチは、僅かにオリーヴグリーンの瞳を泳がせて、ジンを見る。
「おっと、そこの色男。弾を総て抜け」
グラッド・アイは突然に指示を出した。アーチは、一瞬トボケて見せたが、冗談もあったもんじゃない、と判ると素直に従った。わざとらしいくらいに《キングコブラ》を突き出し、スイング・アウトさせて357マグナム弾を掌に落とす。グラッド・アイは背後を警戒しながら、アーチに近寄った。掌からもぎ取るようにして、六個の弾丸を奪う。
と、同時にグラッド・アイの左手がアーチの脇腹を抉るようにして擦った。鳶色の眼が、舐めるようにして白皙を見詰めた。
「どうだい?傷は痛むかい」
アーチは、眉を顰める。
「心配ご無用、ゴム用品ってトコだ。生憎、おたくのような人間を千人縊り殺したところで、傷どころかオレの心は痛まないね」
グラッド・アイの指に力が篭った。ピーチィは、声を殺して息を呑む。
「いい度胸してやがる。お前を先に切り刻んでやろうと思ったが、ジョーを始末してからでもいいだろう。その口で悪口雑言垂れながら、血飛沫上げて最期のタンゴでも躍るといい」
意味深な言葉を投げ掛け、グラッド・アイは手を離した。
アーチは、白衣を脱ぎ、ベレッタ・モデル21Aも一緒に林の中へ投げ捨てた。丸腰だということをパフォーマンスする為だ。
「離れな、お嬢ちゃん」
グラッド・アイの声に、ピーチィはびくん、と肩を動かした。
「幾らいい男か知らないが、場面を弁えるのが淑女ってもんだ」
グラッド・アイは、冗談ではなく恫喝した。
とはいえ、今アーチから離れたら、自分が《ブラックホーク》を持っていることがバレてしまう。それは余りにも拙い。ピーチィは、目を潤ませて、アーチに訴える。
「どうしたらええのん?」
「とにかく、離れろ。銃は離すな。背中に入れとけ」
「せ、背中ぁ?」
ピーチィはアーチの言う通りにして、両手を上げ、半泣きの顔で《デアデヴィルXIX》を離れた。
こうしている間、ジョーはダンヒルのフィルターを噛み破ってしまう程、考えを巡らせていた。口腔に苦いニコチンの味が染み渡る。
一般的に考えたなら、銃と刃物の対決は無理がある。
刃物は幾ら長くても、十フィートが精一杯だ。それも投擲出来得る獲物でなくてはならない。そうなると、機動力に問題がある。生身の人間では、パウダーガンのような飛び道具に敵うわけがない。どうしてもショートレンジの戦いでしかないのだ。
だが、敢えてその垣根を破ってくるのなら、グラッド・アイにはそれなりの自信があり、また対決せねばならない何かが両者に横たわっている。
とはいうものの、グラッド・アイは何れにしても目算を誤っている、とジンは思った。観衆は二人では無い。しかも、一人ははフォーティファイドだ。幾らパウダーガンを取り上げたところで、幾ら刃物の名人だといって、生体サイボーグともいうべき強化人間に敵う者はいまい。
だが、手出しは無用だ。因縁の対決に第三者の出る幕は無い。
ジョーは、短くなり過ぎたダンヒルを吐き捨てた。
それがゴングの代わりだった。
ジョーがベルトから《パイソン》を抜いた瞬間、グラッド・アイは素手で突進を掛けた。ジョーに肉薄したその時、ベルトのククリを抜き、素早く刃を交差させる。
すんでのところで、ジョーの腹筋は切り刻まれるところだった。ジョーは自分から仰け反り、背中を強か地面に打ちつけながら、《パイソン》のトリガーを引いた。
グラッド・アイはクロスさせた腕を突き出し、357マグナム弾を回避するでなく、受け止めた。
「ぐ、がっ」
咄嗟の事とはいえ、恐るべき勘の良さだ。フラット・ノーズに削られた弾丸は、ククリの刃に垂直に命中した。跳弾は、ジョーの耳朶を掠った。弾は短く跳ね返って、泥水に落ちる。ラウンド・ノーズだったなら、運悪く顔面に当たっていたかも知れない。
ジョーは自分で自分の命を拾った。
ジョーは、自分の上に馬乗りになったグラッド・アイに力負けしつつある。喉元には、ククリの鋭利な刃が迫り、そのV字谷に嵌れば、間違いなく死が訪れる。それも、考える暇すら与えられず。
「くぉのっつ!」
ジョーは地面を蹴り上げた。自分の一・五倍はありそうなグラッド・アイを押し退けるのは容易では無かった。むしろ、グラッド・アイの方から退いたと見える動きだった。
《パイソン・ブラザーサン》の反撃は、グラッド・アイの右肩を貫いた。
一瞬だが、巨体が揺らめく。ジョーは、喉元を拭った。薄く削がれた皮膚が、ぺろりと垂れ下がった。そこから血が滲み出している。跳ね起きるあの瞬間、ククリの刃が滑った時にやられたのだ。一秒の油断も許されない。
まさか、銃と刃物の戦いが、これほどまでに緊張感を高めるものだとは、誰も思うまい。しかも、パウダーガンと曲刀。ガンブレードでもない刃物。相手が、距離を必要とする、しかもリスクを背負うパウダーガンだからであるからかも知れない。ブラスターなら、端から勝負にもならない。
グラッド・アイは身を楯にしても、ジョーに向かった。虎の子のククリを投げる訳にはいかないのだ。ジョーは止むを得ず、ハンマーを落とす。
そして、チャンスは《パイソン》が総ての弾丸をはじき出してしまった瞬間、或いはルガーPPKに握り替えるまでの時間に訪れる。
ジョーは間合いを取った。グラッド・アイがククリを構えて走り出す瞬間に、ファニングで弾丸を真正面に放つ。伊達に曲撃ちを始めた訳ではない。
弾は二発。これで、六発使い果たした。ジョーはトリガープルを終えるや否や、《パイソン・ブラザーサン》を投げ出し、腰に右手を滑らせた。ルガーPPKを抜いた瞬間、グラッド・アイの顔が目の前に飛び込んで来た。
ジョーは指を硬直させたまま、グラッド・アイの火を噴きそうな熱い吐息を喉元に感じた。
互いが息も吐かないで、視線をがっぷり四つに絡み合わせる。
最初に息を詰まらせたのは、ジョーの方だった。
「ぐ、ぷぷ・・・」
唇の端から血が流れた。口中を切ったのも相俟っているが、それはククリの刃が肺の一部を傷付けたからに他ならない。
ククリの刃は、半ば以上ジョーの上腹部に埋まっているかに見えた。それも、斜めに向かって。漸くグラッド・アイが刃を抜いた時、ピーチィは思わず顔を背けた。
ジョーは反動で些かふらついたが、立ったまま堪えることが出来た。痛みよりも何よりも、刃の味は吐き気を催す。だが、平常心は失わない。
ククリの刃先から滴る脂と血に、グラッド・アイは興奮を覚えた。
「いよいよだな・・・」
グラッド・アイの目が狂気に濡れる。
ジョーは血塊を泥濘の中に吐き出した。ルガーPPKの銃口からは硝煙が上がっている。無論、スロッピー・ジョーは狙いを外したりはしない。
アイルランド人の右肘は、解れた繊維から血に塗れた皮膚を剥き出しにしていた。ジョーの狙いは何なのだ。ジンは首を捻った。
「そろそろ本気を出して貰おうじゃあないか。尤も、本命は使い果たしただろうがな」
グラッド・アイはどすの効いた声で笑った。捨てられた《パイソン》の行方を横目で追う。最早、ジョーには二十二口径のセミオートマチック銃しか残されていない。
ジョーは顎を伝う汗を拭いもしないで、グラッド・アイの瞳を見据えた。
「でやああああ!」
男の短剣が、叫びと共にミスティの左腕に突き立った。ミスティは、骨に食い入る激痛を堪えながら、伯父の身体を庇っていた。
男は薄ら笑いを浮かべる。そうして、懐から取り出した両刃のナイフで、ミスティの制服を切り刻む。美しいブルネットは、男が刃を振るい、ミスティがかわす度に、少しずつ毛先を削がれた。
気丈を通り越して激しい気性の女巡検使は、刺さった短剣を力任せに引き抜いた。
右腕で伯父の身体を担ぎ上げ、利き腕の左手のみで応戦する。
セノビオ・サウザとの手合わせ通りの動きだ。だが、条件は劣悪だった。男はずぶの素人ではない。ミスティが左高の防御の門を示すと、男は左下を狙い、逆はまた同じ。決して、右だけは攻められまいとする分、ミスティは不利の崖っぷちに追い遣られていた。
男はナイフをくるくると回転させ、ミスティの首筋まで飛び込んで来た。後ろへ退いた瞬間に刃は回転し、ミスティの左顎に薄っすらと刃が通る。
玉のように浮かび上がる血。ミスティは短剣を男の鎖骨に突き刺したまま、つい手を離してしまった。
「終わりだ」
呟いた男のトランスは、語尾が掻き消されていた。
「・・・・・・」
大きく見開かれた眼球が、今にも飛び出しそうな表情のまま、男は真正面から倒れた。
男の背後に立っていたのは、マキシム・デ・リガール。いやしくも《称号》保持者、《銃星》を持つ男の姿だった。リガールの右手に握られた《リトル・ドラグーン》の銃口は、ミスティを認めると、下ろされた。
こんな至近距離で。男に気取られぬように、リガールは近付いたのだ。並みのパウダーガン使いなら、やはり出来まい。
リガールは至って慎重な口調で言った。
「サフィール特務巡検使。貴女は一刻も早く、サフィール枢機卿を医局へ」
ミスティと伯父の二人を、医局の救急班が取り囲んだ。リガールは、笑みも漏らさずに《リトル・ドラグーン》を上着の下へ押し込む。本来なら、儀式上は教皇報道秘書官は武器の所持を許可されていない。何故、携帯を許されていたのだろう。身体検査は行われた筈なのに。
リガールの瞳が、ミスティの横顔を追う。ミスティは振り返る。
「心配召されるな。サフィール卿・・・伯父上は助かりますよ」
「何を根拠にそんな事が言えるの?」
ミスティは唇を震わせた。自分の両掌と腹部には、夥しい伯父の血液が染み込んでいた。
「貴女の伯父上は稀に見る強運の持ち主ですから」
「・・・・・・」
ミスティは口篭った。意味ありげな言葉の裏に、何かが隠されているのではないかと、訝った。だが、反駁しようにも二人の間には医師らが大勢居過ぎた。普通の話し声では届きはしない。リガールは、ほんの瞬間、悲哀とも読み取れる表情をミスティに見せた。
「何が強運だというの!」
ミスティは、医師らの成すがままに引っ張られて行く。自らも手当てを受けねばならない傷を負っている。視線は、広場に残ったが、やがてリガールの姿が消えると、何も残らなくなった。
勝負は一瞬で決まる。だが、既に互いが見詰め合った時から決まっていたのかも知れない。
「来やがれ!」
「ぬうおあああ!」
グラッド・アイの絶叫が谺した。アイルランド人の分厚い体躯は、再びジョー・クリサンスマムの胸元に飛び込んだ。今度こそは絶対に心臓を外さない。そのつもりで刃を外側に向け、ほぼ垂直に突っ込んだ。
ずぶり、という鈍い音が重なり、二つの身体は組み合ったまま、動かない。
やがて、グラッド・アイが呟く。
「・・・どうだ、兄弟?刃の味は」
聞いてか聞かいでか、ジョーの肩がくつくつと震えた。いや、震えではなく、笑いだ。
「つまらねえ事を訊くなよ。お返しを味わえ」
ジョーは右手首をグラッド・アイの背中に向けた。何の躊躇いもなく、ジョーはルガーPPKのトリガーを引き絞った。
「ジョー!」
ジンは覚えず、声を上げた。既に、発砲は終わっていた。硝煙を棚引かせるグラッド・アイの背中から、銃口が離れた。と、同時にグラッド・アイとジョー・クリサンスマムの身体はその場に屑折れる。
「アホンダラが・・・!」
アーチは、口中に溜まった唾を吐き捨てた。ルガーPPKに入っていたのは、紛れもなくラウンド・ノーズの弾丸だ。敵を抱いたまま、自分に向けて貫通弾を撃つなど、愚の骨頂。
泥濘に、空の弾倉がぽしゃり、と落ちた。
グラッド・アイの身体がずるずると、滑り落ちた。同時にジョー・クリサンスマムの膝ががくん、と折れる。ジョーは下腹にククリを二本突き立てたまま、仰向けに倒れた。
「いやああ」
ピーチィが叫ぶ。叫ぶ少女の肩を押して、アーチは両者に駆け寄った。グラッド・アイは背中を、丁度心臓の裏側を撃ち抜かれていた。
そして、ジョーはグラッド・アイを貫いた弾丸を鳩尾に受け止めている。男達の傷からは、やがて血が流れ出した。
不意に手が動いた。それはどちらが先だったのかは判らないが、グラッド・アイの右手は刃物を求めて空を掴み、ジョーは自分の腹に突き立った凶器を抜かんとしていた。
「うう・・・」
ジョーは両手を添えて引き抜こうとしたが、力が入らず、血糊で滑った。無駄と判ると、投げ出したルガーPPKに右手を伸ばす。その動きをグラッド・アイが追った。這い蹲りながら、アイルランド人はジョーの足首を掴んだ。
手出し出来ないと判ったアーチは、再び後退する。
ジョーの右手指が、オートマチック拳銃に届いた。瞬間、グラッド・アイは最期の力を振り絞る羆のように、重い身体を弾ませた。
飛び上がるグラッド・アイの身体。ジョーはルガーPPKを手離した。
そして、自由な左脚で泥濘を蹴った。そこから飛び出したのは《パイソン・ブラザーサン》。残弾を使い果たして、役目を終えた筈のリヴォルヴァーを、ジョーは上体を捻って掴み上げた。左手が《パイソン》を握る。と、殆ど同時に発砲。
ドギュアンンン。
たった一個の357弾が、両者の運命を分けた。
グラッド・アイは喉仏を撃ち抜かれた。数十センチという至近距離でリヴォルヴァーの弾丸を食らい、グラッド・アイの体は硬直したまま仰け反った。口腔から溢れる赤黒い血が、ジョーの額に飛び散った。
これで、ジ・エンドだ。
藪の中から、傭兵が飛び出して来た。さしものジョーも、次の手は考えていない。
「なっ、何すんの!?」
アーチは、ピーチィの身体を掴むと、ジンに向かって軽々放り投げる。
「おう!」
ジンは低い姿勢から飛び出した。少女の身体を受け止め、ジンは剥き出しになった背中から《ブラックホーク・ディオファイア》を素早く抜き放った。
重低音に遅れて、傭兵の身体が沈んだ。見事ファスト・ドロウの真骨頂である。しかも、いかに軽いとはいえ、ピーチィの身体を背負いながら。
「・・・オレの出番はこれだけかい」
とほほ、とジンは泥塗れになったシャツの前を払いながら、悶絶した傭兵の身体を転がした。とはいえ、一安心だ。
ジョー・クリサンスマムは、汗で目が霞むのを感じていた。いや、自分の汗とグラッド・アイの返り血にだ。もしかすると、失血のあまり意識を失いかけているのだろう。どうでもいい。これで、スロッピー・ジョーの面目は立つ。
ジャスミンの事が脳裏を過ぎる。死神に纏わり付かれた女の顔ではなく、あの詞を口ずさんだ時の横顔。
『骸は語る術を知らず。されど、骸に代わって月は語らず。月は嘆く術を知らず。されど、月に代わって陽は嘆かず』
「・・・あんたの忠告通り・・・二度と起き上がれないようにしたぜ」
ジョーは苦しい息の下で言った。真上に、アーチの沈着な面があった。アーチは、ジョーの脈を取り、灰色の髪に掛かった血を拭う。ジュラルミンケースから取り出した滅菌済みの手術道具が、現れた。まるで野戦病院の趣で、アーチはジョーを広げたシートの上に横たえる。
「あんたほどの腕なら、勝負が始まった瞬間に、ヤツの喉を撃ち抜けた筈なのに」
アーチは、注射器の針を麻酔剤のカンフルに沈めながら、静かに言った。
「・・・心残りがあるだろうよ、ヤツも。オレに、一度でも刃を突き立てれば、本望だった・・・と」
「あんまり喋るな」
ジョーはその応えに、微笑を浮かべた。
「カッコ良く死なせてくれ、よ」
そう言って、ジョーは瞼を閉じた。
終章へつづく
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