
第八話
〜タンゴ・ジェノシディオ ballare il tango
genocidio〜
(後編)
終章 SLOPPY JOE 汚れた英雄
ローマ市内の朝は、例によって早い。夜明け前から鐘の音がリンゴン、と響き、いつものように午前七時には鳩の群れがサン・ピエトロ広場に集まる。
一昨昨日の惨劇は跡形も無く、広場に流れた無数の夥しい血溜りは、その日のうちに消え去っていた。
思い返すもぞっとする、出来事だった。ヴァティカン執政が始まって以来の大事件。
今日はまた、一段と晴れ渡った空である。ヴェッキオ・チンザーノ異端審問官は、二階の窓から遠く東の空を見遣った。
異端審問所の執務室が、地上に現れて数十年。
無論チンザーノは、この施設がローマ市内に三十五箇所あるというカタコンベ(地下墳墓)の一つにカムフラージュされていた歴史は知っている。だが、数世紀前の冷たい空気と、現在陽の目を見た異端審問所の存在とが如何に似て非なるものか、知る由もない。
殺しと略奪の言い訳を造る裁判に熱中していた権力者に諂う、異端審問官。正義とは如何なるものなのだろう。それは、普遍のものでも、人類共通のものでもない。
ヴァティカンにとっての正義と、民間レヴェルの正義は意味合いが異なる。異端審問官にとっての正義と、私的な正義とも然り。幾つもの正義を使い分けることなど、無意味かつ不可能だ、とチンザーノは日頃思う。
チンザーノは熱いカッフェを飲み干すと、書類を携えて、所長室のドアをノックした。
コンコンコン。ノックに応えて、耳に馴染まない声が返ってくる。
「お入りなさい。チンザーノ司祭」
応答も違う。いつもなら、「ヴェッキオ」か、「チンザーノ異端審問官」だ。
所長室の椅子には、太り肉の頬の垂れた聖職者が鎮座していた。紫檀のデスクの前には、立体映像を映し出す最新鋭のパソコンが置かれている。訪問者側に向かって、ディスプレイが表示される。
「恐れ入ります。ディベルニーニ所長代理」
チンザーノは恭しく言った。
そして、ディベルニーニのむっつりした顔を真正面から見た。チンザーノは自分の方から切り出す。
「案件ナンバーE01816の件についての処分ですが・・・」
「認識ナンバー072ジョー・クリサンスマム異端審問官のことかね?」
ディベルニーニは、二重顎を自分の手で撫でた。
既に、昨日異端審問所には、ジョー・クリサンスマムの名でテロリスト集団BBWの殲滅が報告されていた。初めに受け取った人物が、本来の所長であるグレナデン・サフィール枢機卿であるならば、即、訝っただろう。
普段のジョー・クリサンスマムの報告にしては、緻密過ぎた。証拠として首領格グラッド・アイことイアン・マッカルパインの武器を押収、遺体の回収を現地巡検使に依頼、負傷傭兵の身柄を確保。更に、コリア村での大量虐殺の痕跡を記録したディスクまでもが、速やかに送られて来た。
チンザーノは首を傾げた。言っては悪いが、ジョーがここまでまともで迅速な報告をした記憶など、チンザーノの知る限りでは有り得ない。普段は、
「しまった。余計な連中まで殺っちまったな。始末書二つも書かにゃあならん」
という、大雑把な仕事ぶりなのだ。サフィール枢機卿こと異端審問所所長のお小言を頂かないことは、稀だ。
実は《スロッピー・ジョー》の異名の本当の由来は、そこにあった。異端審問官の業務記録には、いつからか始末書の記入欄がある。大抵の異端審問官は、年に二、三も印が付いていれば多いほうだ。だが、ジョーの場合は任務の度に始末書、しかも複数のこともある。業務記録がびっしり黒いもんだから、それが事務官の間で、《汚れたジョー》と呼ばれたのが、そもそもの始まりであった。
チンザーノは頭を振った。それとも、積年の蟠りが解決して、ジョーの精神に何か変化があったとでもいうのか。でなければ、誰か第三者がジョーの名を使って、虚偽の報告をしたものか。
チンザーノは慌てて、近隣の派遣員にメールを打ち、確認に行かせたものだ。
果たして、結果は事実だった。
そして、もしやジョー自身が報告出来ないのは、最悪の事態が起こったからではないのかとさえ思った。
「根本的な疑問だが、ジョー・クリサンスマムは生きているのかね?」
ディベルニーニは、薄い眉を顰めた。
「報告は本人名義です。サインも」
チンザーノはきっぱりと言った。ディベルニーニは、うーん、と唸って落ちそうな頬に手を当てた。
「代理の人間が報告を上げることはあるが、事件が解決して一日しか経っていない。クリサンスマム本人が瀕死の重傷を負っているとしたら、口述でも第三者にここまで正確な記述が出来るだろうか?」
「尤もです。ジョー・クリサンスマムに同行者がいたと考えるのが適当でしょう。ですが、現地巡検使はこの事実を知っていませんし、派遣員も同じです」
「外部の協力者がいたという事か」
ディベルニーニは納得しないまでも、軽く頷いた。
「で、処遇は規則通りで構わないでしょうか?」
チンザーノは、笑みを湛えた表情で訊いた。
異端審問官が任務遂行中、余人を不慮、或いは任務完了に不可欠の理由で殺害した場合に適応される規則。
『十五日間の断食と祈祷書暗誦を行い、斎戒に勤めなければならない』
無論、断食といっても朝夕に水とパン一欠けらを摂取することは許されている。そして、それは異端審問官が任務終了後ヴァティカンに帰還してからの執行である。
ディベルニーニは無言で、チンザーノの差し出した始末書にサインを書いた。
「クリサンスマム異端審問官の無事を確認したら、速やかに帰還命令を出すように」
「了解しました」
チンザーノは慇懃に頭を下げ、所長室を出た。
廊下に佇んでいた人物に、チンザーノは会釈をする。背の高い女は、いつものように厳しい制服を身に着けて窓辺に凭れていたが、表情は柔和だった。というよりも、疲労の色が濃い。左腕を三角巾が覆っている。
ミスティ・サファイアはチンザーノの顔色を見て、赤い唇を弛めた。
「お忙しい様子ですわね」
「急な仕事が舞込んで来ましたからね」
チンザーノは言った。ミスティは頷く。
昨昼、麻酔から目覚めたサフィール枢機卿が、チンザーノを枕元に呼び寄せて言った言葉。
『傭兵達が握っていた現金を洗い出すように。首領格は、まず生きてはいまい。それと、フュリエリの常備薬をすり替えた人間を捜し出す。時間が掛かるだろう。だが、雇い主は決して足のつく電子マネーは使っていない。何ヶ月、何名動員しても構わん』
恰も、サフィール枢機卿は怒りを鎮めて言った。
狙い通りに、異端審問所は打撃を受けることとなった。もしかすると、枢機卿自身は真の首謀者に気付いているのかも知れない。それは、チンザーノには判断しかねた。だが、信頼を置かれている以上やらねばならない。
「所長の具合は?」
「御蔭様で・・・今朝は早速、ベッドの上で仕事の指示を出していましたわ」
ミスティは、長いブルネットを振るった。早朝にしてはアンニュイな横顔が、笑みを作る。チンザーノは、満面の笑みをミスティに向ける。
「貴女こそ、ご無事で何よりです」
「悪運の強いところは、伯父貴に似たのかしらね」
と、ミスティは自嘲を込めて言う。
礼を言うなら、マキシム・デ・リガールに言うべきところだ。だが、本人とはサン・ピエトロ広場で別れたきり、一度も顔を合わせていない。今回のテロ事件終了後、最も繁忙の渦中に投入されたのは、アルフレード・ティレリ教皇代理枢機卿、そしてカッサンドラ・ブルーネレスキ医局長をはじめとする医局員と、教皇報道秘書官達だった。事件後半日も経たないうちから、ユーロ各都市のマスメディア、上層都市の報道陣がローマ市内に押し寄せて来た。
割りを食ったのは、グルッポ・カルディナーレと負傷した聖職者ばかりで、ローマの商売人と新聞屋はウハウハだろう。
教皇は一時心労で臥せったものの無事、テロリスト以外に死者が出なかったのは不幸中の幸いといえる。
そして現在、事実上、ヴァティカンの首都機能は停止状態である。枢機卿二名は急病と重傷に倒れ、教皇代理枢機卿はマスメディアの応対に忙殺され、グルッポ・カルディナーレという頭部を麻痺させられた聖庁でまともに機能している部署は数える程だ。
こういう時にこそ、各教区の独立執権制が物を言わねばならないのだが、実際のところは中央から出張った執行官と名ばかりの司教で、何が出来るというのだ。
思わぬところで足元の弱さを露呈した聖庁は、今後の改革を強制されることだろう。
尤も、一異端審問官に過ぎないチンザーノには、直接関わりのないことではあったが。
チンザーノは、ディベルニーニ所長代理のサインが入った始末書をひらひらさせた。
「まったく、人騒がせな男です」
「クリサンスマム異端審問官の事ですの?」
チンザーノは頷いた。
《汚れたジョー》。スロッピー・ジョー。
「誰に命を救われたのか知らないが、あの男も相当に悪運が強いと見えますね。一度手合わせしては如何ですか?」
「そうね。面白いかも知れない。どちらの悪運が勝っているかしら」
ミスティは苦笑した。
チンザーノは、女巡検使に別れを告げると、異端審問所の建物を後にした。
窓から覗く青空に、鳩が舞う。建物の入り口に掲げられた看板に、幾人が注意を払うだろうか。
「Quem di diligunt juvenis moritur.《神々が愛するものは、若くして死ぬ》」
<DISMISSED!>・・・CONTINUED ON NEXT DUEL
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