
第十話
〜光と海と涙と la luce e del mare tra le
lacrima〜
(前編)
ひたすら荒野を行く二人の男がいる。
一人は己の生きる場所を求め、一人は己の死に場所を求めて。
第一章 伝説と真実の扉には A VIEW TO THE RIVER
川を下れば、なだらかな丘が削り取られ、暗い夕べの海に一筋の光が射す。飛び立ったのは珊瑚色の羽をした水鳥達。
その鮮やかな色彩は、少年の目に届かなかった。
少年の黒い瞳は、陽が溶け落ちた歪な形の環礁のみを見詰めていた。その発達途上な筋肉は、間断なく動く二の腕の下で上下していた。ただ、オールを操る手の動きは、大人でも敵わないくらいに達者だった。
薄紫色をした水平線が微かに揺らぐ。否、少年の漕いでいた小さなボートが僅かに波を含んだのだ。
いつもより水鳥の群れは素早く環礁を離れ、各々がくの字を象って八方に散る。
「どうしたんだ・・・」
少年は、不意に独りごちた。オールを握った手が止まる。
やがて訪う完き日没の時間を目前に、海は大きく震えた。それはこの聖なるガンガーの河口一面に。
ザザザザ、と激しい水音を伴って潮が満ちた。少年のボートは、はかなく揺れた。横に大きく揺さぶられるボートの縁に、少年はしがみ付いた。
「ああっ」
少年は、奇声を上げた。
波間に浮きつ沈みつ現れたものは、まるで未知の存在であったからだ。水飛沫を霧の様に噴き上げて躍るその姿は、まるで大洋の長大な勇魚のよう。だが、黒い影は、ちょうど一抱えほどであった。しかも、その頂きははまるで人の頭のように見えた。
影は波間から、少年を見詰め、優雅な腕と思しき二本の物を揺らした。そうして、あまつさえ少年を海の都へ手招くように見えた。
《イル・ジオルナーレ・ナッツィオナーレ(世界新聞)》は、発行部数二億一千万部と推定される。無論、この数字は日々変動する。しかも、再生紙使用の頒価は、一部10ダッシュという薄利多売。パソコン上で配布されている部数は、その三十分の一にも満たない。
パーソナルコンピュータの普及率の低さは、ディアスポラと呼ばれるユーラシア大陸と、一部のアフリカ、南米地域の電波状態の悪さを物語っていた。
家庭は自給自足の自家発電である以上、無駄に電力を使わない。
新聞記事は黄ばんだ再再再生紙に刷られた、最速とはいえない情報で充分なのだった。
さて、ここにも一人《イル・ジオルナーレ・ナッツィオナーレ》の購読者がいた。
尤も、男もご多分に漏れず、新聞の必要事項だけ読んでしまうと、所用を足すのに使ったり、宿無しの連中にくれてしまうのだったが。
「なになに、《サン・ピエトロ広場》テロ事件の実行犯は・・・」
声を上げて読むのが、ジョー・クリサンスマムの癖だ。
「BBWは、なお異端審問所の武力的解決によって壊滅。現在もなお残党を探索中――オレ様のことが一行も書かれてねえな」
ち、とジョーは舌打ちした。
オープン・カッフェといえば聞こえはいいが、ここは野晒しのバールである。屋根があるのはカウンターの一部と小さな厨房だけだった。
漁村エラドゥーラまでには、まだ数キロ歩かねばならない。この炎天下、喉も渇いたし、腹の傷は完全に癒えていないので、こまめに休憩を取っている。
「なーにが武力的解決だぁ?ばーろーめ。記者はどこのどいつだ、一発ぶん殴ってやる」
と、ジョーは丸めかけた新聞を再び広げた。芥子粒のような文字に目を凝らしてみる。記者のイニシャルを見つけたものの、目に止まったのは、そのずっと下に書かれた記事だった。
『東インド洋にて海難頻発。海賊再び出現か!?』
白抜きゴシック体の文字が躍る。
『ここ数ヶ月間の被害状況は、三月12件、四月22件、五月28件、6月34件、と増加傾向にある。先日6日、シンガポール港を出航したサウジアラビア行き国連軍巡視艇ミネルヴァが、ニコバル諸島北部の十度海峡にて海賊と思しき船団に、遭遇した。幸い艦は威嚇射撃等により、被害を被ることなく海峡を脱出した、との報告を受けておるものの、ヴァティカン・ヴェネツィア海上保安庁は、海上航行船舶に厳重な注意を呼び掛けている。・・・』
「この近くじゃねえか。海賊か・・・案外、海軍の連中が巡視艇を襲ったんでねーの?」
ジョーは、解禁シャツの襟元をぽりぽりと掻いた。
「つか、アレだな。国連海軍がこの付近を通るなんざ、不自然だ」
何か裏がありそうだ、とジョーは新聞を穴が開くほど見詰めつつ、タンブラーを手に取った。
巡視艇と偽って、化学兵器を輸送しているというパターンはありがちだ。フレンチ・ティクラーのような大人のおもちゃを秘密裏に運んでいても、それはそれで名誉に関わるが。
何事も疑って掛かるのが、ジョー・クリサンスマムの仕事であり、既にそれは日常の一部と化していた。
「こないだのホンコンの騒ぎといい、ディアマントスでも何やらあったようだし、胡散クサイ。ぷんぷん臭うぜ。ヴェッキオのヤツ、オレに帰って来いだのと抜かしやがったが、どういうつもりなんだ?」
ジョーは、氷の塊ごと冷たいカッフェを口に含んだ。
がさ。新聞の真ん中が押し下げられた。
「およ」
「おっさん、さっきから何一人でぶつぶつ言ってんの?」
見上げると、そこには薄汚れたテンガロン・ハットの男が立っていた。ジョーは、思わず褐色の液体を拭き零すところだったのを、慌てて飲み込んだ。
朝も夜も、寝るまでサングラスを外さない男の顔は、つい数日前に別れを告げたばかりだった筈だが。
「よう!さすらいのプレミオーロ(賞金稼ぎ)」
ジョーは景気よくタンブラーを掲げた。
その拍子に、中のカッフェが氷ごと飛び散り、辺りの客はみんなすっ飛んで逃げた。
「・・・相変わらず、傍迷惑なオヤジ」
ジン・スティンガーは呟いた。
月も無い闇夜。
闇の幕間を縫ってパピヨンのように飛んでくる、甘い香り。エジプシャン・ミモザの香りだった。たとえ暗闇でも、私はここにいる、といわんばかりの存在感を示す女。
夜は、柔らかいその手指の腹で、女の項をそっと逆撫でた。
長くなだらかな曲線は、装飾窓の桟にほぼ水平になって、微かに動くばかりだった。豊かな河の流れを思わせる長い黒い髪は、闇の海にどっと流れ込んでいる。
女の瞳は、深い大西洋の春の潮を思わせる青だ。瞬きの少ない、ぬめった大きな瞳は、こんな闇の中では、猫の目にも似た妖しい輝きようだった。
「何を見ているの?」
女は、やや重いハスキー・ヴォイスで言った。どこか、母親の諭すような厳かな雰囲気だ。姿勢は変わらない。
不自然ともいえるポーズは、猫足の古びた椅子の上でとられていた。女は肘掛に右腕をついて、首を右肩の上に擡げていた。自嘲的な微笑を含んだ美貌は、斜めになって、女を見詰めるアーチレリー・ブールヴァルドの瞳に向いていた。
女は、血のしたたりを思わせるような深紅の薄い布一枚しか身に付けていなかった。
剥き出しの肩は、女にしては広く、長い手脚をどうやってちぢ込めても、放恣な彼女の肢体はどの男の腕にも収まり切らない。
自分の手に余る獲物を狩りたい。男のそういう征服欲を違う角度で燃え立たせる種類の女である事は、確かだった。尤も、今夜の狩人が百戦錬磨の手だれであることも。
「地球の果て」
と、アーチは低いトーンで答えた。
「私の何処が?」
「キミの瞳を通して見た世界は、ぐるっと回って、オレに戻ってくる。地球一周だ」
「相変わらず、判らないことばかり言うのね」
女は、静かに言った。組んだ脚の間の微妙な翳りが、軟体動物のような淡い影を象っている。女はゆっくりと、脚を広げて、椅子に跨るようにして座り直した。
「世の中、判らないことだらけだ。殊に・・・」
言い掛けたアーチの薄い唇に、女は自分の柔らかい指を押し当てた。女は立ち上がっていない。アーチの腰を、裸足の両足が挟んでいた。長い引き締まった両の脛が、思いの外、力を込めて、アーチの身体を引き寄せた。
「もう一度、地球一周してみないこと?」
女は、仰け反るように両腕を肘掛に付いて、くすりと笑った。こういう時に女の意見に反対するのは、野暮な神父ぐらいのものだ。女の左足の爪先が、アーチの胸元を開いた。素肌に引っ掛けただけのシャツは、あっさりと剥がされる。
アーチは、しばらく女の成すがままになっていたが、ややあって女の足首を掴むと、ひょいと女の身体を抱え上げた。並みの男に出来ることではない。何しろ、グラマラスで筋肉質な彼女だ。
「もう一度だなんて、言ってごらん」
「どうするの?」
女は、濡れた唇を開いた。瞳が胡乱げに交錯する。アーチは両腕の力を抜こうとした。
「・・・やめて。だから、これは仕事じゃないのよ。私を殺す気?」
「ウソツキ女は修道院送りだ。改心してから逝きたまえ」
「何言ってるの。まだ死にたくはないけど、『死ぬ』と言わせてみてよ」
女は、太腿でアーチの脇腹を締め上げた。
「このままでいいのか?」
「このままがいいのよ」
女は、目を開いたまま、柔らかい唇を、アーチの唇に押し当てた。膝頭が砕けそうな、脳髄を蕩かす熱い吐息が口腔に流れ込む。
「ああ・・・」
本当に膝頭に激痛が走った。
「いっ、いでででで」
起き上がると、目の前にいたブロンドの女が笑った。強烈に皮肉を帯びた眼差しは、折角の綺麗な顔を台無しにしていたが。女は半裸で、豊かな髪を掻き上げていた。女の右手に握ったブランデー・グラスが、アーチの膝上に置かれていた。
「ミスティって、そんなにイイ女なんだ」
「へ?」
「寝言にきまってるでしょーが。何処の玄人か知らないけど」
アーチは、膝頭を抱えながら再びばふん、とシーツに埋もれた。我ながら、どうも夢見がちな体質じゃないか。しかも女絡みで、いつもロクなもんじゃない。
「ちくしょう、お約束のオチかよ・・・」
呟きがブロンド女に聞こえたかどうか。
昨夜、意気投合した筈の女が悪魔に見えて来た。名前も本名かどうか判らない。その時、気に入った女の名前など聞く必要ない。だが、まったく、女という生き物は、悉く所有権にこだわる生き物だ。相手の存在もともかく、自分の存在さえも。
その時、窓が不意に開いた。折からの南風が流れ込んできたかと思うと、反対側の入り口までもが開いた。見知らぬ男達が、五六人ばかり、どっと湿気た部屋に闖入したのだ。
「なんの余興だよ、こりゃ」
アーチは丸めたシーツを抱えたまま、起き上がった。眠気はまだ冷め遣らない。ブロンド女は、一瞬目を剥いたが、眉を顰めて何気なく男達の方に後退した。
刈り上げ頭の男が、前に歩み出た。
「きさま、この御方を何と心得て、無礼を・・・!」
「この御方って、いうほどのものではなかったと思うがな?」
口答えしたアーチの目の前に、マシンガン・ブラスターの銃口が突き付けられた。こちらは、丸腰も丸腰。衣服は投げ出しっぱなしの貧弱な丸裸である。シーツ以外は何も真っ裸を隠すものがない。肝心のパウダーガン《キングコブラ・バニッシュメント》すら、椅子の上だ。
「失敬ね!」
ブロンド女が悲鳴のような声を上げた。
「さっさとこの男捕まえて頂戴っ!」
「・・・美人局(つつもたせ)かい、ちくしょう」
アーチは、漸く眠気の壁が音を立てて崩れ去るのを悟った。不承不承、片手を上げる。厳つい赤銅肌の男は、鋭い眼光を放った。
「両手だ」
「それは勘弁してくれよ」
「いいや」
「天地神明に誓って、自前のガン以外何も持ってないぜ」
マシンガン・ブラスターの銃口が、キラリと光る。鈍色を帯びた銃身に熱が伝わり始めているのだ。男は笑みも浮かべていない。こうなると、不本意だが両手をホールド・アップせざるを得なかった。アーチは、左手の指をシーツから離し掛けた。
「そこまでよ」
不意に、掠れた女の声が割り込んで来た。ブーツの踵が規則的でリズミカルな音を立てて、迫って来た。足音の主である女は、男達を押し退けて、部屋に踏み込んできた。
「おひさしぶりだこと」
女は、マシンガン・ブラスターの銃身を素手で押し下げた。そして、アーチに余裕の笑みを投げ掛けた。
何の変哲も無い田舎の漁村。只、通りを歩けば、磯と干魚のにおいをぷんぷんとさせて歩く男達とすれ違う村、エラドゥーラ。こんな南アジアの小さな村にも、カトリックの波は確実に押し寄せていた。町並みはすっかり、ディアスポラと呼ばれる荒廃地域とまるで同じだ。だが、この村は実際には税金を納めているというだけの、準統治下区域に属していた。
街角の《溜まり場》という、何の捻りも無い名前のトラットリア(食堂)は、魚臭い男達でわんさと賑わっていた。
だが、今日は少しばかり様子が違う。いつも同じ面子に見慣れたウエイトレスも、些か浮き足立っていた。
「・・・というわけでだ。今アイツは、ここにいないんだよ」
語尾が震える。ジン・スティンガーは、口元を左手で覆いながら、タンブラーの中の茶色い液体を呷った。キューバ・リブレは、氷が溶け切って、只でさえ薄い味が、より一層薄くなっていた。
「やるねえ、あの色事師。二十三世紀のカサノヴァ」
ジョー・クリサンスマムは、指を鳴らして、言った。唇の端から紫煙が立ち昇る。見事に美しい煙が、東洋の昇竜のようにうねりながら、天井に掻き消える。
「ぶほっ。カサノヴァだって!どうよ!?」
「サイテー」
噎せかえるジンに、冷たい視線と言葉を突き付けたのは、ピーチィ・フィズだった。少女は、鈴を割った様な目を細めて、あからさまに男達を軽蔑していた。尤も、カサノヴァなる人物の伝説や史料について、少女が知る筈もない。
「ごっつサイテーやん。女ったらしが、そんなんでお縄頂戴になったやなんて」
「まだ、お縄になったワケじゃねえだろ?」
ジョーは、真顔で言う。こちらは、既に安いメスカルを一本開けている。ここらでは、純粋なテキーラは上等な酒の部類になる。やや安価なメスカルのほうが、同種の酒でも売れ筋なのだ。
「一緒やんか」
「きっついなァ、お嬢ちゃん」
「恥や恥!で、大体、アンタが何でここにおんの?アンタ、ヴァティカンに帰って来い、って言われとんのちゃう?」
ピーチィは、ズバリ的を得た台詞を言い放つ。あっ、とジョーは左胸を押さえてよろける振りをした。
それから、またグラスに手ずからメスカルを注ぎつつ、カカカ、と上機嫌で笑った。シャツのはだけた間から覗く灰色の胸毛を、ぽりぽりと遠慮無く掻く。
「ヴァカンスだよ、ヴァカンス!まだ傷も癒えてないしな。ほら、オレって都会っ子だろ?こういう南国情緒溢れる海の側で、のーんびりしたかったの!」
「何言うてんねん、テロ神父!」
少女の容赦ない舌鋒に、他の客達も振り返る。
「テ、テロ・・・まァ、確かに。いやいや、そう言うなよ」
ジンはそう窘めて、ピーチィの頭をぐりぐりと、押さえ付けた。客達の不審顔に向かって、ジンは引き攣った愛想笑いを振り撒いた。見知らぬ土地で、妙な勘繰りを入れられるのは愉快な事ではないからだ。ましてや、こちらは明らかに無法者の体だ。
プレミオーロにして、パウダーガン(火薬銃)使いのジン・スティンガー。二十歳を越して間もないが、湿気た色のテンガロン・ハットにサムライ風の長髪。そして極端に人目を避けた濃い色のサングラスと、左頬の三条痕。どれをとっても、堅気の人間にしては変わり過ぎている。
しかも、ここのところ賞金首にありつけなくて、ひもじい思いをしている顔付きがありありと伺える。何も自ら、争いの火種になる必要は無いだろう。
「何すんねん!痛いやん!」
「うるせえ。面倒沙汰は御免被る」
「ぬぬぬ・・・」
ピーチィ・フィズの不機嫌を増長させた理由は、今更述べるべくもない。それは、白衣の王子様ことドットーレ・アーチレリー・ブールヴァルドの所在が物語っていた。一部始終を知っているのは、同宿の階下に泊まっていた相棒、ジンのみだ。
「まァ、まァ、お嬢ちゃん。そんなに目くじら立てなさんな。オレも、ドットーレには随分と世話になったことだしな。袖摺り合うも他生の縁、とか何とか。このオレ様が神父として、何とかしてやるって」
ジョーは、嘯くように言って、自分の厚い胸板を叩いた。胸の十字架が揺れる。これがなければ、まるで神父どころか敬虔なクリスチャンにも見えない。只のフーテンオヤジだ。
「はァ?たしょうのえん、って何?」
「これも神のおめこぼし、じゃない思し召し、というワケだ。オレに任せとけ」
「ふん!酔っ払いが何言うてんねん」
呵呵大笑する神父を、ピーチィは呆れ顔で見るしかない。
ぐるりと見回した店内には、子供など自分以外は一人もいやしない。本来なら、大人達の中にいるなんて、この上ない退屈な筈だが、少女は少し勝手が違った。物心も付かない頃から、大人に囲まれて育ってきたからだ。むしろ、子供同士の輪に入るほうが不自然に感じられるくらいだった。
ピーチィの目が、一人の男の視線とぶつかった。
男は、カウンターの中程から、こちらのテーブルを見ていた。日に焼けた銅色の肌。逞しい両の二の腕。若い面差しには、まだ一部あどけない少年ぽさを残した雰囲気がある。眼の大きな、猛禽を髣髴させる青年だ。
「な、何やのあの人。さっきから、ずっとこっち見てるわ。ウチの顔に何か付いてんのかな?」
ピーチィは、慌てて自分の顔を弄り、首を傾げた。
青年は、依然として少女の方を見ている。
トラットリアの扉が勢いよく開いた。
飛び込んで来たのは、少年一人だった。
手足どころか全身水浸しになった少年が、一目散に駆け寄ったのは、カウンターの青年の前だった。
「アラック!」
少年は息切れしながら、青年の名前を呼んだ。
「どうした?ピンガ」
青年は、飲み掛けのグラスをカウンターに置き、少年の方へ向き直った。
少年は、首を何度か振ったが、まだ声が出ないらしく、頭からひどく水を滴らせたまま、肩で息をしている。見かねたウエイトレスが、奥からタオルを持ち出して、少年の頭に掛けてやった。
「こんな時間に行水?」
「・・・見たよ」
「何を?」
青年の声は、飽くまで落ち着いていた。
「オレ、見たんだ。ガンガーの・・・」
「ガンガーの?」
青年は、はじめ何のことかぴんと来なかったようだ。少年の黒い瞳を見詰め返して、震える唇から読み取ろうとして、漸く悟った様子だった。
「何だって!?見たのか?本当だな?」
「本当だって・・・!ボートが引っくり返されて、こんなずぶ濡れになったんだよ。あいつ、オレを手招きして・・・」
「入り江にいるのか?」
青年は、ストゥールから立ち上がった。
「もう、いないよ。岸に上がった時は、もういなかった」
少年の声を聞いた者が何人いたか。客達は、一斉に立ち上がった。そうして、めいめいがテーブルの上を散らかしたまま、慌てて店を飛び出して行くのだった。
「おい、何だってんだ!?」
ジョーは、椅子の脇をすり抜けようとした男の襟首を、むんずと掴んだ。
「何が出たんだって?幽霊か、人食いザメか?それともウェアウルフ(狼人間)か?」
「そんなけったいなモンじゃねえ。とにかく、離してくれよ、急いでアイツを捕りに行かないと!」
男は浅黒い肌膚の下で、奥目をぎょろぎょろさせて、口角泡を飛ばした。ジョーは何の事か判らないまま、男を自由にしてやった。
男達が総出で店から河口に向かっていったのとは逆に、店内に入ってきた者がいた。
「もう閉店かしら?」
女は大振りのテンガロン・ハットを摘むと、脱いだ。騒然となった道を背に、店内を見遣った。
「いえ、まだやってます」
ウエイトレスが答えた。
大きな黒い瞳の女。黒檀を思わせる滑らかそうな肌には、白目が際立って映る。そう、女の全体的な印象は、まるで毛皮を脱いだ黒い女豹だった。
女は、ティアール風に編み上げたストロー色の髪を頭頂で束ね、垂らしている。歩き出すと、それは猫の尻尾のように優雅に揺れた。
「ひゅう」
ジョーは口笛を吹いた。すかさず、ピーチィがジョーの腋を抓った。
「いでっ。何すんだよ。ドットーレの代わりに言ったんだよ」
「このドスケベ神父」
小気味良く引き締まった長い腿に、皮膚のようにぴったりと貼り付いた真っ赤なジーンズ。黒い細身のショートブーツ。形良く高く盛り上がった胸が、白いシャツを押し上げている。
一分の隙も無いファッションセンスだった。
女は、ちらとジン達に視線を送り、意味ありげな笑みを浮かべてカウンターに凭れた。仕草も決まっているではないか。
「神に仕える身でありながら・・・!」
ピーチィは、ぐりぐりとジョーの革靴を踏み躙る。
「あああああ」
「バカ。よせって」
ジンはピーチィの腕を掴み、ジョーから引き剥がした。
「な、何やの!?」
「あの女の腰を見ろよ」
「うーん。ナイスバディ」
ジョーは無精髭を生やした顎を撫でながら、目尻を下げた。力任せにピーチィは、ジョーの後頭部に拳を入れる。
「いってえ!」
「違うぜ、おっさん」
ジンはまだ息が荒いピーチィの頭を押さえ付けながら、言った。
女豹のような女のしなやかな腰には、不釣合いに幅広のガンベルト。そして、その下に提げられているパドルタイプ・サムブレイク・ホルスター。しかも両の腰にだ。黒いグリップは、間違いなくパウダーガン。だが、リヴォルヴァーではない。
ジンとジョーは期せずして、目を合わせる。
「何の騒ぎなの?外は」
女は鼻に掛かった甘い声で、バルマンに訊ねた。女の両の手首には、じゃらじゃらと重たげなゴールドのブレスレット。幾重もになった金の輪が、心地良い音を奏でている。
だが、答えたのはバルマンではなかった。
「あんたには関係のない事だ」
そう言ったのは、アラックと少年に呼ばれていた若者だった。若者はまるで挑むような目付きで、黒い肌の美女を見据えていた。その傍らに少年が佇む。
「あら、どうしてかしら?」
女は余裕たっぷりの口調で若者に相手する。アラックは唇を歪めた。どす黒い表情は、若者の生来持つ雰囲気にそぐわない様子だった。
「薄汚いUP(国際警察)の手先のあんたに、話すことなんて何もないよ」
アラックはそう言うと、カウンターを離れた。振り返りもしないで、店の奥に引っ込む。どうやら、この店の関係者らしい。少年が、後を追おうとするのを、ウエイトレスの娘が引き止めた。
どうやら、それぞれに事情ありの様子だ。
「それで、何だいありゃ?」
ジョーは戸口を指し、バルマンの方を見た。
「まただよ。あいつが出たって騒ぎだ」
「あいつ?」
「ああ。あんた方知らないんだったな」
と、バルマンはウエイトレスと顔を見合わせた。
エラドゥーラの村は、ガンガーを挟んで東と西の地区に分れている。村の歴史そのものは、浅くない。元々は、村は一つの地区だった。そして、つまらぬ争いも無かった。その噂が広まるまでは。
東地区の一画に、広大な屋敷はあった。
テワナ・デメララ村長宅である。ガンガーを西に臨む高台に、白い壁が続いている。恰も蛇のうねりを思わせる曲線は、台地の地形をそのままに利用したものだ。敷地は約一辺が五百ヤードの正方形に準ずると考えれば、近いだろう。
建物は、敷地の西南に集中していた。というのは、村長の意思を反映しているからに他無い。西南に向けて屋敷の門扉を開いていれば、幸福に縁があるのだとか。思いの外、この村の人間は迷信深い。
「非科学的な設計だ。洪水でもあったひにゃ、建物が総崩れだぜ」
アーチレリー・ブールヴァルドは、心中で呟いた。
実に落ち着いて自分が座っている周囲を観察出来るのは、少なくとも真っ裸ではないからだ。それどころか、まともにネクタイを締めてさえいられる。
そして、ソファに深く腰掛け、脚を組んで非常にリラックスした心地だ。尤も、地球上の何処でも平常心であるこの男に、環境が違うもへったくれもない。
アーチの目前には、奇妙な仮面を付けた小柄な姿があった。
丸い輪郭で黒い顔料を塗りたくり、左右の目尻が互い違いに上下に向いている。白い涙のような点線を頬に数本いれた仮面。コリアの民俗舞踊に使う面にも似ている。
「チャンスン(道標)・・・いや、《破戒僧》の面にそっくりだ」
そうとわかる人間は少ないだろう。博覧強記の軽薄才子でも、東洋に精通している者はヴァティカン周辺では多くない。会ったことも無い祖父の影響だ、とアーチは公言しているが。
さて、仮面の下から流れ出た黒い髪は、つやつやと長い。真珠を散りばめたネットが、黒髪に纏わり付いている。
女の登場前から、そのぞろっとした呪術者のような衣服に焚き染められた香の匂いは、芬々と漂っていた。
「貴女が村長ですか。女性だとは思わなかった」
アーチは、全く臆せずに感想を述べた。
テワナ・デメララ村長の後には、二人の付き人が従っていた。まるで、ここら東洋世界でいう黒社会の頭領のようである。
左に無口な厳ついレスラー並みの赤銅肌の男。こいつが昨晩、真っ裸のアーチにマシンガン・ブラスターを突き付けた男だ。右には目の吊り上がったスレンダーな若い娘だ。初めて見る顔だ。何れも黒い詰襟の衣服を暑苦しくぴっちり着込んでいる。
アーチは、イタリアン・フレンチの悪い性癖でつい、娘にウインクしてみせたが、ナシの礫だった。
予備知識では、村長は六十の坂を越したばかりだと聞いている。何故に仮面をつけ、息が詰まりそうなほどに強い白檀の香りを焚いているのか、不思議といえば不思議である。
女性は容色が衰えることを恥とするが、六十やそこらになって今更、さほど他人の目を恐れる必要もないのではないだろうか。
「・・・声も聞かずに女だと判るとは、オヌシやるのう」
村長は、アーチの顔をしげしげと眺めた。こんなディアスポラの大田舎では、滅多にお目に掛からない美貌の若い男だ。嫌味を通り越して、別な次元の生き物のようにさえ見える。
「ふうん。成る程いい男だのう。ここらの魚臭い男どもとは、匂いも違うのう、さすがに」
デメララ村長は、気味悪い仮面を擦り付けるようにして、アーチを品定めする。枯れ枝のような十指が、衣服越しにぺたぺたと這い回る。
「すると、アレかね。アイーラと寝た男っていうのは、お前か」
「そうです。・・・ちょっと、そこはやめて貰えませんか。ひゃひゃ」
「おお。私としたことがはしたない。で、如何ほど?」
「三回半。途中で寝てしまったもんで」
アーチはきっぱりと、答えた。本当は金髪女の名前すら、覚えていなかったが。村長は手を離し、笑った。
「ほっほっほ。ここまで堂々と言う男は、初めてだの。今まで随分、うちの娘(こ)達に手を出したりしたヤツはおったが・・・」
うちの娘(こ)という表現が言い得て妙であったが、アーチは何も言わなかった。直ぐに悟ったからだ。
アイーラという娘の名目は養女だが、既にして村長の養女は十五人程いる。それに加えて養子は二十人いるというではないか。
養子なんてものは実際は、小姓以外の何者でもない。未婚である村長の総てのお世話をするのだ。力仕事以外は。養女の使い道は、今アーチが身を持って知ったばかりだ。
そして、その何れに手を出した者も、末路は大概決まっている。
「で、幾ら慰謝料をお払いすればいいんですか?」
アーチは、冷ややかに切り出した。村長の付き人達は、目を剥いた。とても、村長の養女を誑かした男とは思えない、大胆な言葉だった。
「ふん。見てくれだけでなく、頭も悪くないようだの。こういう場合、一千万ダッシュが相場だが・・・どうする?」
「何だ。オレの体が目当てじゃないのか」
「それも悪くは無いが・・・だけでは済まん」
「払えないね。一千万?はん、ぼったくりだ」
アーチは、脚を組み替えた。ネクタイの端を弄いながら、村長の仏頂面を斜交いに見遣る。
「言っちゃ悪いが、それほど良くなかったもん。酔ってたのを差っぴいてもな」
「うぬ。ずけずけとぬかす男だのう」
「男の方が疲れて、酒代宿代払って、何でそのうえ慰謝料払う必要がある?そこをめいいっぱい譲歩して、『幾らか』って聞いてるんだから。これじゃ、美人局だぜ。あんた、今までその金でこの豪邸をおっ建てたんじゃあないだろうな?」
聞く者が聞いたら、全身冷汗が噴出して脱水症状になりかねない台詞だった。だが村長は、顔色が冴えない上に、更に眉を曇らせただけだ。
「村長の養女という名誉を汚した代償は高い」
「自分から誘ってくる女の何処が?」
「簡単に誘われる男に、屁理屈を捏ねる権利があるのかのう?」
アーチと村長は、顔と仮面を近付けて睨み合った。お互いに引くつもりはないようだ、と付き人達は半ば呆れ顔で二人を見詰めるしかない。
「陰険ごうつくエロばばあが!」
「顔と口先だけの若造がぁ!」
村長は、歯軋りしてアーチのネクタイを掴んだ。不意に、薄い唇に、不敵な笑みが降って湧いた。
「・・・払う気がないというのなら、無理にでも払わせてやろうじゃないかのう」
アーチは、香の匂いに噎せ返りそうになりながら、村長が手を離すのを待った。それは、直に訪れた。
「無理も何も、オレの口座にはせいぜい掻き集めて十万ダッシュくらいしかない。しかも、そいつはバイクのレストア用資金でね。バイク屋がいずれ取り立てる金だ」
「それも勝手に調べさせて貰ったでの。持ち物から」
「IDカードのデータを盗み見たな。B級犯罪に値するぞ」
「ふん。『色男、金と力は無かりけり』を地で行くような男だの、お前は」
村長は甲高い声でせせら笑った。アーチは、生憎だが金はともかく後半部分は違う、と思ったものの、手の内を見せるつもりはないので黙っていた。
「何なら、一千万ダッシュ分の手術をタダでして差し上げましょうか?」
村長は、むっとした素振りで振り向いた。一瞬、また癇癪起こすのか、と付き人の二人は震え上がった。この小柄な女村長の発作的な怒りの表現ときたら、どんな大男も手を付けられない程だ。思い起こすだけで、ぞっとする。
だが、村長は声を荒げることはしなかった。
「今の言葉に二言はないかの?」
「勿論」
「・・・よかろうて」
村長は、仮面の下で、にんまりと笑った。
聖なる大河ガンガーに人魚が出現するという、まことしやかな噂が流れ出したのは、かれこれ二世紀ほど遡る。
新月の夜にのみ、人魚は現れる。
その姿は、古えの世界各地の伝説とそう違わず、半人半魚であり、上半身が美しい女、下半身は銀の鱗に覆われた魚であるという。
だが、姿が伝えられているのは目撃譚の範疇のみを示すのであって、飽くまで村の誰もが人魚を捕獲したことはない。
「今日はじゃあ、新月か?」
というジョー・クリサンスマムの問いに、居合わせた人間が皆、顔を見合わせた。
「ウソじゃないよ。見たんだ」
静かに言ったのは、ピンガ少年だった。少年の黒い瞳には、訴えるような彩りが映っていた。ジョーは、頭を掻いた。カウンターの奥から、不機嫌な顔付きの若者が顔を出した。
「いや、疑ってるワケじゃあないんだけどな。な?」
ジンに助け舟を求めるジョー。だが、ジンは言葉に詰まっただけで、応じなかった。こういうところがアドリブ利かない朴念仁と言われる所以だな、とジョーは改めて悟る。カウンターに凭れて、ジョーは店内を見回し、ダンヒルを咥えた。
次に口を開いたのは、さっきから何か言いたくてやきもきしていた若者だった。
「あんたがた、本当に何も知らないんだな」
アラックは、鼻の頭に細かい皺を寄せて、ほんの一瞬だけ店の奥に視線を遣った。テーブル席には、一人離れて女が座っていた。闇になら溶け込む筈の女の黒い肌が、薄暗い灯りに仄白く浮いて見えた。
「人魚は聖なるガンガーの御使いと呼ばれているんだ。だから、滅多なことでは姿を現さないのは当然だ」
「その子が見たってのは・・・?」
ジンはサングラスを押し上げた。アラックは訝しい目付きをジンに送った後で、カウンターから外に出た。そうして、ピンガ少年の頭に手を置いた。
「人魚は純粋な魂の持ち主にしか、見えない」
「じゅ、純粋!」
ジンとジョーは顔を見合わせる。
「あんたには絶対無理だよな」
「お前さんには一生見えねえな」
同時に指をさしつさされつ、二人はピーチィの方を見た。
「な、何やの?」
「・・・こいつはウロコの一欠片も見えねえだろうな」
「しっつれいな」
ピーチィは、拳と右脚とを振り上げた。すんでのところでジンは向こう脛を蹴られ、ジョーは左頬にパンチを喰らうところだった。
「見えたらどうや、っていうのん!?別にええやん、そんなもん見えいでも!」
「よかないから、皆大騒ぎしてんだろ?」
ジョーが若者に問う。アラックは黙って頷いた。
古来、人間は長寿或いは不老不死というテーゼにこだわり続けてきた。それは何故か。問うてみるまでもないことだが、生存欲というものが形として現れるとするならば、その端的な具象が不老不死へのこだわりとなるだろう。
殊に東洋に於いては、不老長寿への道というものは、国家を揺るがす程に重大な問題でもあった。古の中国に始まる煉丹術、仙術思想、或いは不老長寿の薬を求めて東方へ旅立った、徐福という気の遠くなるような大昔の人間もいた。
その中の一つに、人魚の肉を喰らえば若さと長寿を保てる、という伝説が存在するのだ。今でも、その思想は連綿と続いている。
尤も、オギャアと生まれた時からクリスチャンだったジョー・クリサンスマムには、理解し難い発想であるが。
今は専ら、人魚の肉を喰らえば長寿を保てる、という根拠の無い伝説が真実かどうか、試してみようというのが多勢の興味の中心だという。
「ウソくせえ」
ゲラゲラゲラ、とジョーは声高に笑った。
「人魚伝説なんてものは、確かにオレの生まれた田舎でもあった。ヨーロッパには昔から、ライン川にはローレライという人魚だか妖魔だかがいて、バスク地方だったか?そこにはヴィヴィアンとかいう水妖がいるってのは聞いた。だが、彼女らを食って長生きしたって話は聞かないな」
アラックは、不機嫌の様相を呈していた。だが、無意味な癇癪を起こす程、子供ではない。決して感情に任せてのみ語るつもりは無かった。
「バカにするな。神聖な河の神の御使いを食するなんて、イカれた連中の考えることだ!」
語気に怒りが篭っていた。どうやら、アラックは本気で人魚を信じているのだということが、漸くジョーにも判った。この不良神父ときたら、怪力乱神の類には、まったく畏敬の念を示さない現実主義者だ。ある意味、観念的にアーチよりも激しいだろう、とジンは思った。
「何としても、それだけは止めさせないといけない」
アラックは、大きな切れ長の目をぎらつかせた。ピンガ少年は、アラックの険しい表情を見上げた。
食事をするのが一人では味気無い、と思う事も少なくない。幼い頃から、家族全員でないにしろ、一日二度は誰かと揃って食事を摂る習慣があった為だろうか、それとも今の行き当たりばったりな生活に、刺激はあっても平穏はないからだろうか。そもそも、相棒とは食事の趣味が合わない故に、御一緒しないことが殆どなのだが。
と、不味くはないが美味くもない食事をつつきながら、アーチは思った。
出来れば、食事の時に同席する人間は、男も女も少しお喋りな方がいい。
「オレを監視しているのか?」
「・・・・・・」
「ところで、あんた何て名前?」
「ルシアン」
刈り上げ頭の男は、それ以上答えなかった。とうに男自身は別のところで食事を済ませている。アーチがテーブルに肘をついて行儀悪く食べているのが、気になるらしい。
「オレはあまり育ちが良くないの。出る所に出れば、それなりに弁えてみせるが、こんな砂を噛むような食事でマナーもへったくれもあるもんか」
ルシアンは黙って頷いた。
どうやら、村長の命令に、まるで執心している訳でもないらしい。
「判ってるなら、あまりじろじろと他人の食事風景を見るもんじゃあないね。男には、他人に見せてはいけない顔が三つあるってのを知っているか?オレのセックス・ライフまで覗き見されてるみたいだ。・・・あ。あんたに今更隠しても始まらないか」
「他人に見せてはいけない顔?」
ルシアンは、その言葉に関心を抱いたらしい。テーブルの上に、身を乗り出して来た。
「そう。一つは、トイレットで頑張ってる時の顔。もう一つは、財布を落とした時の顔。最後は、ナニをしてる時の顔」
アーチは言った。
「ほう」
ルシアンは、心底感嘆した声を出した。むっつりした顔から、緊張が解れる。
「それにしても、この魚は何なんだ?目玉が四つもあるんだが・・・」
と、アーチは平たい皿の上に載った煮魚をフォークで指し示した。香草で飾られた体長十五センチ程の、真鰯に似た魚。ルシアンはちら、とだけ覗き込んで答えた。
「心配要らない。只の奇形だ」
「奇形?何抜かす」
アーチは、思わず椅子を倒し掛けた。フォークをテーブルクロスの上に放り出す。
「心配要らないことないだろう?トリクロロフェノールだか放射性同位体だか、何だか判らないが、汚染物質を生物濃縮された魚じゃないか。近海物か?」
ルシアンは、こくんと頷いた。
「遺伝子的には問題ない、と自治区の水産管理局は言っている」
「・・・信じられん無神経さだ。管理局が何処にあるか教えろ。即刻、ヴァティカン科学アカデミー水産局に査察に来させてやる」
アーチがやり場の無い苛立ちを、ルシアンに向けている最中、ノックの音もそこそこに、ドアが開いた。割合乱暴な開き方からして、一瞬何処の猛者が現れたのかと、アーチは訝った。
だが、ドアを後ろ手に閉めたのは、女のしなやかな黒い手だった。
「お食事中失礼」
女は先手を打って言った。褐色の肌が、薄暗い照明に映えている。両手首に纏った金の腕輪が、しゃらんしゃらん、と軽やかに鳴った。アーチは、女の姿を睥睨した。
「本当に失礼だな、キミは。昨夜も今日も。そんなにオレのアレに興味があるのか?ジプシー・クイーン」
アーチは、片方の眉毛だけを吊り上げて見せた。
ジプシー・クイーンと呼ばれた女は、両肩を竦めた。ティアール風の髪の端が、優雅に揺れた。長い睫毛を瞬くと、女は残酷にも見えるほど輝く笑顔を見せた。白い歯は、格別に美しい。
「とんでもない。一度試せば充分だわ。そんな貧相なモノ」
「へえ。キミもありふれた女みたいな事を言う」
ジプシー・クイーンは、きっ、と山猫みたいに輝く瞳で、アーチを睨んだ。アーチは、黙ってココナッツ酒を飲み干した。生温くなって、アクが強みを増していた。
「事実を述べたまでさ。ありふれた女は、直ぐに男の実力をそういうところで測ろうとするからな。殊に昔少し知っていただけの男を。人間誰しも、大抵は日々進歩しているだろうに」
「アナタも進歩した、と言いたい訳ね」
ジプシー・クイーンは、艶のある微笑を浮かべた。赤い下唇に親指を当てる。幾ら女性経験を積んだ男でも、同じだけの数をこなした女に比べれば、幾分とっぽい。ジプシー・クイーンはアーチの言葉に、まだその若さを少し感じた。
だが、アーチは、ジプシー・クイーンと村長の毒気に中てられて、すっかり食欲を失っていた。
「で、オレに何の用だ?」
「ここにいるということは、村長の無理難題を聞き入れたということね」
ジプシー・クイーンは、食卓の端に腰を掛けた。アーチは、横目で女の小さな顔を見た。ルシアンの表情が、瞬間的に固くなった。
「聞き入れたくなくても、オレがあんなごうつくばばあに犯されたうえ、一千万もふんだくられると判ったひにゃ、仕方あるまい」
テワナ・デメララ村長は、ある提示をした。
「お前、確か腕の良い医者だと聞いたが、薬を処方してくれぬかのう」
「腕は勿論。・・・いえ、只の医者です。とはいえ、もともと臨床医ではありません。専ら研究室に篭ってるほうが好きですから。つまり、処方出来る薬なんて、オーソドックスに限られますけど」
アーチは、ありのままを答えた。他人の解釈など期待してない言い方だった。
「それで、病状は?場合によっては、優秀な薬剤師を紹介しますよ」
「病気ではない。精力剤を作ってくれぬか」
「精力剤?」
アーチは、ほんの一瞬目を見開いた。だが、真面目な顔付きで、村長の仮面を見据えた。
「そんなに欲求不満なんだ」
「失敬な」
否定するところをみると、成る程、とアーチは納得した。
「それだけではない!わしは長生きしたいんじゃ」
村長は冷たい仮面を、ぐりぐりとアーチの頬に押し付けた。
精力剤で長寿の薬。何という無謀な依頼だろう。普通に考えると、ローンを組んででも一千万ダッシュ払う方が賢い選択に違いない。最早、デメララ村長は、はじめからこれが狙いで美人局をやっているのではないか、ともアーチは疑ってもみた。
だが、アーチは結局唯々諾々と村長の願いを聞き入れることになった。何となれば、適当に鹿の角だか高麗人参だかの粉末を調合した、それらしい薬を与えてとんずらすればいい、という算段だ。
当然、一千万払うつもりなどない。万が一でも、村長が自分の犯罪行為を棚に上げて告訴するような事でもあれば、それはその時だ。助け舟など、向こうから名乗りを上げてくれるだろう、という根拠のない自信だけは、この男には常にあった。
「ふ。どうせ、アナタのことだから適当にやり過ごす方法でも考えてるんでしょうけど・・・」
ジプシー・クイーンは、アーチの胸中を見透かしたように言った。
「そんなに甘くないわよ」
「甘くないのは、オレの人生とエスプレッソだけで充分」
アーチは、唇を皮肉に歪めた。
「河口で人魚が出たという話を聞いたわ」
「人魚?いつの御伽話だい」
「ついさっきの事らしいわよ。村の《溜まり場》っていう食堂で聞いたわ。そこの息子が見た、って。人魚を」
アーチは、目を細めた。
「オレは下半身がちゃんとある人魚がいいね」
「冗談はさて置き。村長が知ったら、アナタもそう簡単に誤魔化して逃げようったってそうはいかないわ」
ジプシー・クイーンの言いたいことは、聞くまでもない。
人魚の存在は兎も角も、その有用性が伝説には関わりのないところで、実に謎に満ち満ちていることは、アーチも既知の事である。所謂、かつての日本には「八百比丘尼(やおびくに)」なる長寿の尼の存在が伝わっていた。人魚の肉を食した者のみが与えられる長寿。何処に依拠するのかも定かではない、出鱈目な伝説だ。医者にとっては、全くの噴飯物だと言っても過言では無い。
「はは、下らないね。まさか、オレに素っ裸になって人魚ちゃんを釣りに行けとでも言うのかい?」
「どうだか」
ジプシー・クイーンは、含みのある言葉を残して、立ち上がった。扉を押し開けようとする、クイーンの後姿に、アーチは視線を遣った。先程から、話に取り残されているルシアンもだ。
「一つ聞きたいんだが・・・」
「私が何で、村長の屋敷にいるのか、って事でしょう?」
ジプシー・クイーンは、先取りして言った。振り向いたポーズが、いやに艶めかしい。
「キミが何処で何をしていようが、別段驚きはしないさ。香水を変えたな?」
アーチは、ジプシークイーンの横顔を見詰めた。
「・・・相変わらず、鼻が利くのね」
扉が閉まった。残り香は、ラスト・ノートのアンバー。オリエンタル調の神秘的な匂いが、アーチの鼻腔に広がった。
「思い出したぞ」
ジョーはトランクの中身を放り出しながら、言った。床一面に、僧服だのノーカラー・シャツだのが広がっている。
「何をだ?」
ジンは、ジョーの引っ張り出したものを拾い上げながら、訊いた。ジョーは黙って、手帳のような冊子をジンに突き出した。
「《プレミオーロ手帳》。こんなもんあんの?」
「持ってないだあ?お前さん、モグリか?」
「何言うか。・・・ええ?」
ジョーが開いた手帳を覗いて、こんなの捨てたかも知れないと思いつつ、ジンは目を見開いた。パウダーガン登録者の名簿が記載されている。
「あの女。ジプシー・クイーンだ。《銃聖》ジプシー・クイーン。本名は不明。年齢もヒ・ミ・ツ」
「じゅ、じゅじゅ《銃聖》!?」
「そうは見えないだろうが、凄腕だ」
と、見てきたようにジョーは言った。実際は、知っているのは噂だけだが。
「しかし、あのグリップはどう見てもオートマチックのものだったぜ。《称号》保持者にオートマチック使用者がいるなんて、初めて聞いた」
ジンは、サングラスの下の目を擦った。何度も手帳を見直す。ジョーは、苦みばしった笑みを浮かべる。
「ふん。二刀流という訳だろう。何しろ、リコイル(反動)は少ないし、リロード(装填)の手間を考えたら、オートマチックが楽だ。女の柔手に大口径のリヴォルヴァーは厳ついぜ」
「むむ、そうだな」
確かに、ジョーの言うのは常識的なセオリーだ。女巡検使ミスティ・サファイアのような手の付けられないじゃじゃ馬は別として。あれは、既に野獣だ。「美女と野獣」という譬えがあるが、「美女で野獣」だ。ジンは唸った。
「けどよ、つくづく勿体ねえ。ジプシー・クイーン。あんないい女が、パウダーガン使いだなんて」
ジョーは、咥え煙草でジンをじとっ、と見た。青灰色の双眸に鈍い光が宿る。
「まあな。・・・しかし、お前さん。まだ女という生き物にに幻想を抱いているな?」
う。と、ジンは言葉に詰まる。
「相方の血の半分くらいは入れて貰ったらいいがなぁ」
「うっせえ、余計なお世話だ」
ジンの真顔を見て、ジョーはこれ以上言わないことにした。何だか、如何にも女運が悪そうな顔付きだったからだ。深く詮索するのはよそう。
「ところで、そのジプシー・クイーンが何でこんなとこに?」
「さあな。本人に聞いてみろや」
アラックという青年は、確かクイーンのことを『薄汚いUPの手先』だとか何とか、言っていた。その事と、今の人魚騒ぎと一体何の関わりがあるのだろう。ジンには、まるで見えてこない。
「パウダーガン使いがUPに関わっているだなんて、どういう事なんだ?」
「有り得ないこともないな。《称号》と職業は別物だからな。現に、オレ様のように聖職者でありながら、マーダー・ライセンスを持つ人間もいることだ。何も、パウダーガン制度はクリスチャンの為にのみあるわけじゃない」
ジョーは、言った。
「お前さんだって、プレミオーロである以上何をやっても構わない。裏でUPと繋がっていようが、ヌオーヴォ・ニザリと関係してようが、ヴァティカンの御国を守護するのと、身分としてのパウダーガン使いとは直接関係の無い事だからな」
「そう言われりゃ、そうだけど」
ジンは、口篭った。ジョーの言うように割り切れるかどうか、ジン自身には判らない。
「要は強けりゃいいんだ」
階段を軽やかに駆け上がる音が近付いてきた。
ノックの後で、顔を覗かせたのは他でもない。ピンガ少年だった。
「何だ、嬢ちゃんかと思った」
ジョーは、慌ててトランクの中身を詰め直していた手を止めた。皺くちゃになった下着類やらが、半開きの鞄から不細工にはみ出している。これだから、中年のおとこ寡は、と言われかねないのだ。神父のクセに、聖書がトランクの最も底に追い遣られている。
「あのう・・・」
と、少年はもじもじしながら、ジョーを見上げた。わざわざ、筋向いのトラットリアから、この宿まで来たからには、何か重要な事を伝えにきたには違いない。
「アラックの言ったことは気にしないで」
「そんな事を言いに来たのか?気を遣わなくてもいいのに。オレ達は一向に気にしちゃいないぜ。なあ?」
まるで十年来の気心が知れた相方のように、ジョーはジンに顎をしゃくった。ジンも思わず頷いた。
「アラックは、口は悪いんだけど、あれで村の事をいちばんに心配しているんだ」
ピンガは、頬を膨らませて言った。まるで、こちらが青年のお守役のような口調だ。
「人魚の事だって・・・」
少年は言い澱んだ。その理由は判然としている。ジンとジョーがまるで、少年の見た真実を信用していない、と思っているからだ。
「オレは、この子の言うことを信じるぞ」
ジンはジョーを押し退けて、少年の前に歩み出た。ジョーは、煙草を唇に貼り付けたまま、あんぐりと口を開いた。
「手前ェ、態度を変えたな?節操の無い男め。ぼうず、こんなオトナにだけはなるなよ」
ジョーは、ジンの胸を軽くどついた。よろめきながら、ジンは下唇を突き出した。
「何を言うか。夢も希望もねえ、現実主義者にはなりたくないよな?」
「ま、まあね」
ピンガ少年は、遠慮がちに答えた。
「それよりも、実はお願いに来たんだ」
遣り取りがしやすくなったと感じて、少年は切り出した。
「勝手に話を聞いちゃって、申し訳ないんだけど・・・。お連れの人が村長のところに連れて行かれたんだって、話してたのが聞こえて。聞いたのはアラックなんだよ、僕じゃなくて」
ジンは唇をへの字に曲げて、ジョーを見た。ジョーはジョーで、湿気た煙草をがちがちと噛んでいた。子供が聞いて良かった話だったかどうかもともかく、何だか締まりがない。
「村民としては、恥ずかしい話なんだけど」
ピンガとジンが同時に言った。二の句は、ジンがピンガに譲った。
「村長は、いつもああやって若い男の人や女の人を騙すんだ」
「騙すぅ?」
少年は耳まで真っ赤になった。あまり多くを語りたくないようだ。ジョーは、ニヤニヤ笑いを浮かべた。
「ははーん。所謂、美人局ってワケだな。で、目的は金か?金ならオレ達をだまくらかすだけ、骨折り損ってもんだがな」
「お金なんて払わなくていいです。どうせ、インチキなんだから。それよりも、村長は無理難題を言って、騙した人に人魚を捕らせようとするのが、問題だって、アラックが・・・」
ふーん、とジンは腕組みした。
「悪いが、相方とはいえ、保釈金払う甲斐性はオレにはねえしな。アイツがみすみす払うとも思えないな。オレ達は、ヤツが自力解決するのを待つだけだし」
身も蓋も無い返答に、ピンガは少し面食らった。ジンは、アーチのいないところで、普段のささやかな復讐を試みているようだった。ジョーは、内心込み上げてくる無意味な笑いを堪えながら、大真面目な顔付きで少年に向き合った。
「なあに、村長も人魚の肉を食って長生きしようってえ算段なのか?」
ピンガは、こくん、と頷いた。大きな黒い瞳に寂しげな灯が点っている。
「ううむ」
と、ジョーは唸った。
「やはり、殺生はよくない!」
何を言うかと思いきや。ジンは、ずっこける寸前で踏み止まり、少年の肩に手を遣った。
「神父としてだな。実にけしからん!」
またしても、噴出すような台詞だ。この元テロリストの口から出て相応しくない言葉の数々。今度こそ、ジンは片腹を抱えた。
「おっさん・・・」
「ぼうずの言うことはよっく判ったぜ。オレ達が、その、間違ってもドットーレを助ける為に人魚捕獲に加担しないようにってことだよな?な?」
「・・・うん。そういう事だね」
ピンガは言った。ジョーは、ややタバコの脂に黄ばんだ頑丈な歯を剥き出しにした。
「心配しなさんな、ぼうず。場合に拠っちゃあ、命の恩人とはいえ、あの色男を片付けにゃあならんが・・・」
「ええ?」
少年は目を丸くした。神父は、すっかりくたびれたダンヒルを唇から毟り取った。
「そんくらいの覚悟という事でな。なあ、相方?・・・この兄ちゃんもそう言ってるし、安心しな」
ジョーは、勝手にジンの返事までも決め付けると、少年の背中を優しく送り出した。
ピンガ少年は、何度もジンの茫然とした顔を振り返って見たが、何も言わないで階下へ戻って行った。ジョーは、部屋のドアを静かに閉めると、急に真顔に返った。
「あ、あんたなぁ」
言い掛けたジンの台詞を、ふふふ、というジョーの乾いた笑いが遮った。
「あのぼうず、可愛いねぇ。アラックの言う事をそのまんま伝えに来たって、感じだ」
考えていたのは、ジンも同じである。だが、流石に年の功というべきか、海千山千の異端審問官というべきか、ジョーの方が役者は数段上だったようだ。
「なかなかどうして、一波乱ありそうじゃねえか?」
と、ジョーは期待をたっぷり込めて言う。
「捨て置けんセリフ。揉め事を期待してるみてえな言い方だな。《スロッピー・ジョー》」
ジンは、鼻息を荒くした。
「当ったり前だ。これが楽しくて、異端審問官なんぞ、うざい仕事やってんだ」
異端審問所所長にして、枢機卿、モンシニョール・グレナデン・サフィールが聞いたら激怒するか、溜息を洩らすような発言だ。
「ああ、面白れえ、面白れえ」
がはは、と笑いながらジョーはズボンに手を突っ込んで尻を掻き掻き、階下のトイレットに向かった。
『テロ神父』。ピーチィの言は正しいようだ、とジンはしみじみ思った。
第二章に続く
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