第十話
〜光と海と涙と la luce e del mare tra le
lacrima〜
(後編)
第二章 秘密なアトラクション THE FIRST TIME I SAW HEAVEN
暁は、金の砂を知らぬ。時刻は過ぎて行くが、旅人は心を留める場所。それが、朝日を浮かべたガンガーの河口だ。夜明け前から、行水の人々がぽつぽつと見受けられたが、ボートが進んで行くに従って、人々は減った。
適当な入り江に着いたところで、舟は停泊した。
まったく縁もゆかりもない土地だ。だが、母なる海への望郷の念は、何処の海でも変わりなく呼び起こされるものだった。
半ば、都市部が沈没し、新たなる人工の島が浮かぶアドリア海の環礁。
カモメは飛び交い、やがて春には《海との結婚》なる儀式が行われる。いったい、幾世紀もの間、同じ光景が繰り返されてきたのだろう。人は変わり、世情も人情も移ろうけれど。
潮の香りは変わらない。海の深さは変わらない。
「何を、ぬぼーっとしておるんだえ!」
テワナ・デメララ村長の一喝で、アーチはまどろみの海から一気に引き摺り出された。
「何をって、寝てたんだ」
ボートの上から半身を起こし、アーチは眠い目を擦った。
「いい若いモンが、いつまでも寝汚いのう。まったく」
「オレは最低、八時間寝ないとダメな体質でしてね」
ぶうつく言いながら、アーチは村長の相変わらず無表情だが滑稽な仮面を見遣った。
「くそばばあ・・・」
「むっ。何か言ったか?」
「くそ暑い、と」
村長は疑いもせずに、頷いた。確かに、朝まだきとはいえ、熱気の漂う河口。
「むうう。暑いのう。こういう、風の凪いだ蒸し暑い時には、人魚は現れるもんだのう。この間の晩も、確かそうじゃった」
本当なのか、と疑りたかったが、アーチは黙って水面を見詰めるだけだった。
《溜まり場》というトラットリアの息子が人魚を見た、という噂は一晩のうちに村の隅々まで行き渡っていた。小さな村のことなので、当然といえば当然なのだが、異様ともいえた。どうして存在するかどうかも判らない人魚探しに血眼になる必要があるのだ。所詮、肉を喰らうだとか売り飛ばすだとか、貧困な発想しかないのだ。
「大体、人魚がいると判ってんなら、一人で捕まえろよな。オレは用なんて無いじゃないか」
どうせなら、美しい人魚と一晩恋を語るくらいの風流な気持ちはないのだろうか、とアーチは思った。経済的な事以外、殊に女と名がつくと、途端にいつもの打算を捨ててしまうのが、この男のこの男たる所以だ。
村長は、さも得意げに自分の肩を揺する。
「人魚は美しいものに目が無いというでの。お前には、その男前で人魚を惹き付ける役目をして貰おうではないかえ」
「へいへい」
アーチは、長い溜息を吐き出した。
やがて、東から太陽が昇り始めた。
海は静かに、刻一刻と満潮を迎える準備をしているだけだ。
ボートの上には、村長とルシアン、船頭、そして吊り目の少女、アーチの五人のみだ。全員が、黙りこくっていた。
ルシアンの右手には、薪のように握りの太い釣竿が握られていた。
「そんなもんで釣れるのかい?」
アーチは揶揄するように訊いた。ルシアンは、相変わらず無口なままだ。代わって、村長が身を乗り出す。
「人魚の好きな光り物をルアー代わりにしてあるんじゃ。引っ掛かるて」
「はー」
そんな小細工で引っ掛かるような人魚なら、今までに何万回釣れているのやら。だが、村長の言に誰も反論しなかった。
糸が、微かに突っ張った。ルシアンは、中腰になった。
「おお!掛かったかえ!?」
村長は狂喜の声を上げた。
「そ、そんな大声を出されると、人魚が逃げてしまいますよう」
「ややっ。済まぬ」
船頭に諭され、村長は仮面の上から口を押さえる格好をした。そうしているうちにも、棹はぐぐい、と強く引かれ始めた。ルシアンは立ち上がった。体重移動に連れて、ボートは横に揺れた。
海面には、確かに大きな魚型の黒い影が映って見える。体長二メートルばかりだろう。まさしく人魚程度の大きさだ。一同は、色めきたった。
相変わらず疑り深いのは、ダシにされたアーチのみである。
「ぬぬぬ」
流石に無口なルシアンも、唸った。ボートは激しく上下左右に揺れた。
リールを巻き上げながら、ルシアンは負けじと踏ん張った。だが、人魚と思しき黒い影は、ボートの周りを旋回しようと試みている。
「あわあああわ」
村長は、小柄な体を転がすようにボートの中でもんどり打った。吊り目の少女が、村長を支えようと必死で這い蹲るが、突然の揺れと、満潮に拠る波のうねりで、二人共立ち上がれない。
ルシアンも、額から滝のような汗を迸らせていた。棹は今にも折れんばかりに、撓っている。
「貸せ」
アーチは釣竿に手を伸ばした。ルシアンは火が付いたように、咄嗟に左手でアーチの手を払い除けようとした。バランスが崩れ、一瞬のうちにして、釣竿ごと海に引き込まれそうになりながら、ルシアンは前のめりになった。海面すれすれに、鼻先が傾いた。
「素直に貸せよ、まったく」
アーチは、釣竿をひょい、と持ち上げた。ルシアンは瞠目する。自分の一回りも二回りも痩せているひょろ高いだけの男が、まともに棹を握っていられる訳がないと思っていたからだ。
波は次第に増してきた。ボートの揺り返す間隔が短くなっていく。黒い潮の飛沫と、船底に砕破された泡が飛び散った。朝日は既に、海面を橙色に照らし出していた。
自在に揺す振られていたボートは、持ち直していた。力自慢のルシアンでさえも御し得なかった釣竿を、アーチは人間業とは思えない力で捻じ伏せていた。だが、皆必死なので、その怪体さに気付かない。
「おぬし、口ばかりでなくやるのう!」
「あのー。これ、本当に人魚なんだろうか?」
アーチは、棹を握っても疑念を一層膨らませただけである。
「ええい!人魚に決まっておろうが!」
村長は堪らず、ボートから身を乗り出した。
ばばっばばばっ。
水面に、水柱が上がった。一直線だった。村長は、仮面に強烈な水飛沫を喰らった。意味不明な奇声を上げ、危うく転がり落ちるところだったのを、すんでのところで引っ張り上げたのは、他ならぬボディー・ガードのルシアンだった。
アーチは、左手に棹を持ち替えると、目にも止まらぬ早業で白衣の下のパウダーガンを抜いた。
《キングコブラ・バニッシュメント》。
357マグナム弾を使用する6連発、ダブルアクション・リヴォルヴァー。スタンスを確定してからトリガー・プルまでに要した時間は、およそ一秒。右手を抜くと同時に、時計回りに九十度上半身を捻った姿だ。
銃口を中心に、環状に広がった硝煙は、一瞬湿った空気中に虹を走らせ、電光石火で霧散した。フロント・サイトの向こうに白煙が棚引いて流れた。
「よう、兄弟」
叫んだのは、音も無く近付いたもう一艘の手漕ぎボートの上の影だった。
アーチの右頬に、苦笑が押し上げられた。
丁度陽の昇る方角に向けて放った357マグナム弾は、角度の緩やかな放物線を描いて空の彼方へと消えた。無論、本気で仕留めようとして撃った訳では無い。それは、海を挟んで向かい合う両者、承知の上だ。
アーチは、《キングコブラ・バニッシュメント》を下げないで、逆光を背負った男達を見た。
黒いフロント・サイトのど真ん中に、昇り始めた太陽の光が白く当たる。
さすが、《追放者の銃》と呼ばれる曰く付きリヴォルヴァーを持つだけのことはある。いきなり逆光を向いても、決して的外れな射撃をしない。それは、アーチの格別優れた動態視力を差し引いてもだ。
だが、男の口から出たのは全く思惑とは違う言葉だった。
「気を付けろよ。ノーコン」
風圧で飛ばされ掛けたテンガロン・ハットを被り直す姿と、やや型崩れした僧帽は、紛れも無い、イカレたパウダーガン使い二人の見慣れた姿だ。
離れて平行に並んだ小さなボートには、もう一つ、少年の影が見えた。操舵は少年に任されているらしい。
「誰がノーコンだ、この青臭いくされ××ポコ野郎!」
アーチはお返しとばかりに叫んだ。朝っぱらから、穏やかではない単語が、端整な顔の形の良い唇から飛び出す。
「手前ェのナニもノーコンじゃねえのか?ははん、羨ましいってもんだ。幾ら寝れども寝れども、掠りもしねえってのはよ!」
「早撃ちだけが取り得のヤツよりは、随分マシだと思うがな!」
「けっ、見た事もないクセに!」
「はん、笑わせるなよ!誰が見たいか?三擦り半劇場なんて!」
ぬぬぬぬ、とジン・スティンガーは唸った。会心の一撃を喰らったようだ。舌鋒では、やはり太刀打ち出来ない。ジンは、《ブラックホーク・ディオファイア》の銃身を上げた。トリガーに掛けた指が、震える。
「まあまあ、そうカッカしなさんな」
そう言って、ジンの肩に手を置いたのは、《スロッピー・ジョー》ことジョー・クリサンスマムだった。
「いや、しかし・・・三擦り半劇場?秀逸な譬えだよな。ひゃひゃひゃ。さすが、ドットーレ」
「感心してる場合か!?」
ジンは耳まで紅潮させて、ジョーをどついた。
そうだ。我々の使命は、阿漕なデメララ村長から人魚捕獲を阻止することだった。と、ジョーは手を打った。
「やい!その釣竿を離せ。離さないと、手前ェの×××に全弾ブチ込むぞ!二度とファック出来なくしてやる!!」
ジンは大声で罵りながら、《ブラックホーク》の銃口を、アーチの股間に狙い定めた。
「ほい」
思いがけず、アーチはあっさりと釣竿を手離した。ばっしゃん、という音と共に水面に落ちたぶっとい釣竿は、みるみるうちに海中に引き摺りこまれていった。
「ああああああああ!!」
村長は、仮面を引き剥がしそうになる程、興奮して叫んだ。
「に、人魚がああああ!!」
「喧しいクソばばあだな。オレ様のぶっとい釣竿と人魚じゃ、どっちが値打ちあると思ってるんだ?」
アーチは飽く迄優雅に眉を顰め、両肩を竦めて見せた。デメララ村長は、ショックのあまり、あわあわ言うばかりで、ボートの上にへたり込んでしまった。
むしろ、拍子抜けしてしまったのは、向かいのボートに乗った三人だった。村長の館から、夜明け前にこっそりと複数の人影が出て行ったというので、勢い込んで勇ましく出掛けたのだが、何のことは無い。
「うう。人魚が・・・長寿が・・・」
村長は、吊り目の少女に宥められながらも、ぶつぶつと呟いていた。
「ちぇ」
と、ジンは舌打ちした。所在無さげな《ブラックホーク》を渋々、腰のホルスターに仕舞い込む。
「てやんでえ」
「ホントに人魚だったのかなあ?」
ジョーはぽつり、と言った。海面は、満ち潮のピークに達していた。
「知らねえよ」
ジンはむっつりとして、答えた。急にマルボロが恋しくなったが、ベッドの脇に忘れてきたらしい。革ジャンのポケットには、古びたジッポ・ライターしか無かった。
村一番のケバケバしい看板。
《オクトパシー》と書かれたネオンサインが点滅している。立看板のお品書きなど、見る気も起こらないのだが、立派なバーには違いない。何しろ、村で一番大きい飲み屋が、ここなのだ。
「実に判りやすいね」
アーチは唸った。このような片田舎に資本主義の権化のような酒肆が存在するのもさることながら、これが実に流行っているらしい。さっきから客の出入りが激しいのだ。
いや、田舎だからこそか。アーチは、後方の男を見遣った。村長の付き人兼ボディーガード・ルシアンは、少し恥ずかしそうに肩を竦めた。だが、相変わらず寡黙なまま、手振りで入店を勧めた。
「・・・・・・」
村長は、今朝ほどの騒ぎ以来、寝込んでしまった。
勿論、眠っていても仮面は片時も離さない。
吊り目の少女がつき従っているが、「人魚、人魚」と唸ってばかりで当分目覚める気配はないようだった。或いは詐病かも知れないが、これを機会とばかりに、アーチは外出することに決め込んだのだ。
「ち。何が《オクトパシー》だ。タコ親父が出てきたら、承知しないぜ」
ドアを押すや否や、黄色い声のお出迎え、と思いきや、ガラガラ声が耳に飛び込んで来た。
「いらっしゃあーい」
目前に生っ白い男の顔が迫り、アーチは覚えず反射的に後退った。が、後のルシアンにぶつかって、跳ね返されたに過ぎなかった。
「ここは、おかまバーか?」
「あらん、失礼ね。でもいい男だから許しちゃう」
おかまと言われて、蝶ネクタイの男は愛想笑いを浮かべた。くねくねを両手を合わせて、腰を突き出す様は、小用でも我慢しているように見えた。いきなり承諾も無しに、アーチの胸元にぺたぺたと掌を押し付ける。
「スゴイわ。見れば見るほどいい男。ルシアン、あんたんトコ、いえ村長のお客様?」
ルシアンはむっつりとした表情で、肯定する。
「ささ、どーぞ。お入りになって。あたしが《オクトパシー》店長のエンジェルよ」
エンジェルは、アーチのネクタイをぐい、と引っ張った。
店内はネオンサインに反して、比較的上品だった。ありがちな薄暗い照明と、そして殆ど満席のテーブル。奥のステージには、巨大な水槽が置かれている。何も泳いではいない。
客は、皆どっかで見たような漁師達だ。鄙びた田舎だからといって、金が無い訳ではない。使い途がないから、使わないだけであって、こういうところが出来てしまえば、嫌でも金遣いが荒くなるというものだ。
男達は、何れも魚臭さと安っぽいオー・デ・コロンの入り混じった独特の臭いを発散していた。
そして、陸では魚の群れと化した漁師達の間を縫って泳ぐネオンテトラのような娘達。
「いらっしゃいませぇ」
娘達は、めいめい銀のトレイに色とりどりの酒とグラスを載せて、すれ違う。
所謂、バニー・ガール姿だ。
「おお」
「ねえ?お気に召しまして?もう、そりゃあ、選りすぐりのオンナの子達なのよ。そこらの乾物臭い小娘じゃあないわよ」
エンジェルは、ルシアンにウインクを送る。ルシアンは硬い表情のままだ。
「さて、どの子がいいかしら?うちはノーチャージ。指名も可。飲み放題もあるし、二時間コースってのもあるわよ」
「二時間って、何をしてもいいのか?」
「商品には手を出さないでね」
そう言って、エンジェルはアーチの耳元に口を寄せた。
「個人的にお近づきになれば、店を出ての話は別ですけどね。ほほほ、何なら私でどう?」
「遠慮しとくわ・・・」
アーチは、鳥肌が立った首筋を擦りながら、店内を一通り眺めた。そして、やおらカウンター席を指差した。客が十人程並んでいるその間に、バニー・ガールが入り込んでいるのだが、アーチが指したのは、最も奥の席だった。
「あのでかいウサギが美味そうだな。根性入ったケツしてやがる」
「あ?あれですか。もおう、爆裂ぴっちぴちナイスバディでしょ。スゴイのよ。スゴイんだから。でも、カノジョは新入りで、既に御指名が・・・あらん」
耳元に熱い息を吹きかけられ、エンジェルは忘我の境地に突入した。
「キャッシュで払うからさ。OK?」
「お、オッケエよ!」
アーチは、指先まで真っ赤になった腰砕けのエンジェルを置き去りにして、ずかずかとカウンターに歩み寄った。
「お・ひ・さ」
バニー・ガールの右腿の裏に右手中指を当て、ストッキングの細いシームを下から上になぞる。『黄金の右手中指』と自負する必殺テクニックだ。マグナム弾を使わずして女を骨抜きにする。
だが、バニー・ガールは絶妙のタイミングで、右手に掲げていた銀のトレイを後方へ振った。盤上のカクテルグラスが飛んだ。
アーチは、瞬間最高時速九十キロのトレイの迎撃をひょいと交わし、カクテルグラスの台を掴んだ。
「おお!」
だが、中の液体だけは如何ともし難く、そっくりそのまま零れ飛んだ。
「・・・・・・」
振り返るとそこには、カクテル・ピンに貫かれたオリーブを咥えるルシアンが、呆然と突っ立っていた。刈り上げた頭髪から顎まで、ぐっしょりと35度のアルコールを滴らせているのは、いわずもがなの事実であった。
「気安く触らないで頂戴。今の私は体が商品なのよ」
大柄なバニー・ガールは、カウンターに凭れて静かに振り返った。ほんの五秒前の、神業に近い反応が嘘のような気怠い仕草だった。
キツイ台詞の割には、ぽってりと小振りな唇には、悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。
深い青の瞳は、カクテル光線を反射してブラックオパールのような光を宿す。熱気で蕩けそうな飴玉のようだ。
ミスティ・サファイア。通り名のごとくミステリアスな霧に包まれた青い双眸。豊かな長いブルネットが、剥き出しの背中を流れる。コスプレみたいなウサギの耳としっぽがついていなければ、何処の貴婦人かという趣だ。
いや、《オクトパシー》店内の一応の美女達など、あっさりと束ねて一山幾らの籠に盛られて然るべき地点に追い遣るほど、特別なオーラを纏った女。最早、造作の問題ではない。
「そりゃどーも」
アーチは襟元を弛めながら、一歩近付いた。脇から、小太りの禿げ親父が頭を出した。
「おどれ、オレのバニーちゃんだぞ。何ちょっかい出してくれて・・・ぴぎゃ!」
アーチは、禿げ親父の団子っ鼻をわし、と摘んだ。そして、軽々と引き回してテーブル席へと放り投げた。少々派手な音はしたが、それもほんの一瞬のことで、直にまた賑やかさは戻る。
「キミのお客は、たった今からこのオレということになってな」
アーチはエンジェルの方を指差した。エンジェルは、必死で目配せをバニー・ガールに送っていた。
「あんの、くそオカマ××チン野郎。ちょっと見た目がいい男だと、甘いんだから。サイテー」
ミスティは聞こえるように独りごちた。ルシアンは、頭を拭きながら目を丸くした。顔に似合わぬ凶暴な事をいう女だ。
アーチは、バルマンが差し出すシャンパングラスを直接受け取った。
「そういう品の無い衣装も、キミが身に着けると、格別有り難く見えるもんだね」
「余計なお世話よ」
「褒め言葉さ。尤も、オレは下品なの歓迎だぜ。キミと違って、生まれも育ちも良くないもんでね」
「いちいち引っ掛かるわね」
ミスティは唇を尖らせた。アーチは、徐に、その唇の隙間に右手人差指を突っ込んだ。
「んー!」
ミスティは無防備な口の中を無理矢理扱かれて、憤激のあまり、顔が真っ赤になった。いや、顔ばかりでなく首筋や、半分衣装から零れ出そうな水蜜桃の谷間まで。
並みの男など、後を向いていても軽くぶっ飛ばす腕力と度胸の持ち主でも、こうなってはあえかな呻きを洩らすだけだ。
僅かな隙を突いて来るピンポイント的攻撃に、してやられた。
そのうえ相手は、見た目インドア派風の優男でも、歴としたフォーティファイド(強化人間)であることを忘れてはならない。
「痛い?さっき見えたけど、歯茎から血が出てる。歯肉炎だなぁ。痛いからって磨きが悪いと余計に悪化するぜ。いいもんばっか食べてちゃいけません。ワインばかりってのも良くない」
「・・・・!」
アーチは、漸くして指を引っこ抜いた。
「なななな、なにすんのよ!」
ミスティは、唇についた自分の涎を拭った。アーチは、リップグロスがてらてらと付着した指をさりげなく舐めた。
「噛み切ってやろうかと思ったわよ!」
「はは。指の一本くらい、何時でもくれてやるさ。でも、ナニだけは勘弁してくれ」
「・・・とにかく、座って頂戴」
ミスティは、アーチの腕をひっ掴んで歩き出した。腹を空かせた痩せ狼が、でっかいウサギに引き摺られるの図。これではまるで逆じゃないか、とルシアンは顔を拭いながら、ついて行った。
ところで、《溜まり場》は、今夜も客で満杯だった。
カウンターに追い遣られたジン・スティンガーとピーチィ・フィズは、一つの皿を二人で突付きあっていた。
「おまえな、さっきから何でアンチョビばっか避けてるんだよ」
「嫌いなんやもん。アンタこそピーマン残さんといてや」
「るせえ、小姑みたいに」
「何やの?その言い草は」
「うぬう。・・・この世知辛い世の中で、ガキのクセに好き嫌いとは!」
「オトナになっても、好き嫌いあるヤツに言われとうないわ!」
どん。カウンターに新たな料理が置かれた。もうもうと湯気が立ち上り、その後ろにむっとした顔付きの青年が立っている。アラックだ。ジンは一瞬うろたえた。
「ああ、あの・・・」
「飯を食べる時くらい、つまらないケンカはよせ」
アラックはそう言って、またカウンターの奥に引っ込んだ。怒っている訳ではなかったようだ。ピンガ少年がカウンターの外に回り出た。
「アラックもああ言ってることだし。冷めないうちにどうぞ」
「気を遣わせて済まねえ。ったく、こいつが我儘でな。キミと同じくらいの年だってのに、全くもってガキなんだからな」
ジンは言った。
「え、偉そうに何やのん!」
ピーチィは頬を膨らませる。ピンガは、まあまあ、と二人の間に割って入った。
「あれ?神父さんはいないんですか?」
「あんなテロ神父なんか知らへんわ」
「ああ。退屈しのぎ、って一人で出掛けてったけど・・・」
と、ジンはすかさずフォローを入れた。
「とにかく、今朝はありがとうございました。すんでのところで、あの村長に人魚を捕られるとこでした」
少年にぺこりと頭を下げられて、ジンは照れ臭くなった。賞金首を生け捕りにしても、こういう風に感謝されることは滅多に無いのだ。
「・・・しかしよ。あれ、ホントに人魚か?あんな単純な方法で釣れちまうなんてさ。どーうも納得いかねえな。純粋な心の持ち主にしか姿を現さないってのに、拠りによって超俗物の腹黒いヤツなんかに釣られるとは」
「ま。そんな言い方ないやろ!自分の相方に」
ピーチィは言った。ジンは、にんまりと不気味な笑顔を見せた。
「何だ。お前も認めてるんじゃねえか?」
ピーチィは、黙って口元を押さえた。失言だ。
「僕にもわかりません。本当に人魚だったのかどうか・・・」
ピンガは首を傾げた。ピーチィは、ストゥールから身を乗り出した。カウンターの奥を伺って、小声で少年に話し掛ける。
「なあ。何で人魚を捕って食べたらアカンの?」
ピンガ少年は、ぎょっとなった。
「な、何考えてるんだよ。とんでもないよ、昔から言われているんだ」
「神の御使いだってえの?」
「当然だよ。キミ《海の民》だろう?そんな禁忌は無かったのかい?」
ピーチィは肩を竦めた。
「あるわけないやん」
うう、と少年は額を押さえた。この少女には伝説だとか、古えからの教えなど通用しないようだ。
「・・・とにかく、ダメなものはダメなんだ」
「我々エラドゥーラの村は、昔から漁業で生計を立ててきた。今でこそヴァティカンに税金を納めて、それである程度の整備や補助を受けてはいるが、元々はもっと慎ましい生活をしていたんだ」
少年の言葉を継いだのは、アラックだった。どうにも黙っていられなかったらしい。お節介なのか親切なのか、それとも講釈垂れなのか、とジンは首を傾げた。根は悪くなさそうだが。
「漁業は、この聖なる河ガンガーがなければ成り立たない。総ての恩恵は、そこにあるんだ。何度も言うが、古人が祀った河の神、その御使いといわれる人魚を生け捕ろうなんて、ぞっとする話だ」
アラックは鷹のような光を放つ目を、遠くへ向けた。
「確かに、あまりいい事じゃあないがな」
と、ジンはメスカルの入ったタンブラーを舐めながら言った。
「あんた達は半信半疑だろうが。人魚の伝説は、たとえ実際に見たことがない者でも、やはり少しでも漁業に携わっている者なら、信じていたんだ。・・・その、信心というのでなくて、自然の恵みに感謝するといった意味でだ」
「成る程な。大漁や豊饒の象徴か」
「最近は、近海物にまで奇形種が増えて来たが、それでもここらはまともな漁場だ。生活も安定してる。ところが・・・」
アラックは険しい顔付きになって俯いた。
「あの女が村に来てからというもの、村長は本気で人魚探しに血道をあげちまった」
ジンとピーチィは顔を見合わせた。あの女、とは先日《溜まり場》にやって来たジプシー・クイーンの事だろう。
アラックは、不意に顔を上げた。
「何だ?詳しい話が聞きたいのか?」
「うん!」
ジンとピーチィは一も二も無く頷いたのだった。
客達の笑いさざめく声を、娘達の声がかぶさるように響く。
舞台の上では、「人魚とタコショー」なる奇怪な催し物の準備がせっせと行われていた。人魚に扮したバニー・ガールが本物の大ダコとくんずほぐれつ格闘し、見事倒したタコをカルパッチョとして料理にしてお客に出すという、馬鹿馬鹿しい見世物だ。これが目当てで、漁師達は来ているらしい。
さて、催し物に無関係な黒いテーブルの上には、二と四分の三オンスのショート・カクテルのグラスが一つ。そして、トロピカル専用の大型フルート・グラスが向かい合う。
シンプルなカクテル・グラスには黄金の液体が満たされており、フルート・グラスにはクラッシュド・アイスをぎゅうぎゅうに詰め込んだ、オレンジ色の毒々しいカクテルが半ばまで注がれていた。カトレアに似た花弁の黄色い蘭がデコレーションされている。
「『ふうん、そうなの』くらい言ってくれよ」
「ふうん、そうなの」
「投げやりだなぁ。ま、いいか」
「だって、私には関係無いもの。第一、面白くも何とも無いわよ」
ミスティ・サファイアは、テーブルの下で長い脚を組み換えた。
斜向かいの男達が、鼻の下をうんと伸ばして、この大柄なバニー・ガールを見ている。まるで、自分達の相手であるバニー・ガールに不服でもあるのか、こちらの芝生が青いとでも思っているのか。
「アナタが村長の養女と称する売女の一人と寝ようが、べらぼうな慰謝料払えと言われようが、慰謝料の代わりに賦活剤だか精力剤だかを処方しろと言われようが、本当にいるのかどうかも判らない人魚を捕まえさせられようが、相方に撃たれかけたでしょうが、私にはまったくかかわりの無い出来事だわ」
ミスティは、早口にそう言って黄金のアラスカ・カクテルを一気に飲み干した。だが、こんなイカれたウサギの格好をさせられて自暴自棄なのでも、不機嫌な訳でもない。本心は。
「相変わらず冷たいね。オレはキミを毎晩夢に見ては、狂い死にしそうに切ないってのに」
さらりとさりげなく、直裁過ぎる口説き文句を紡ぎ出す、形の良い唇。
一体、、脳内の言語中枢のどの部分が、こういうキャラメルソース掛けチョコレートケーキのような甘ったるい言葉を記憶しているのだろうか。
ほんの瞬間的に、不覚にも胃の辺りが熱くなってしまったミスティは、血の気が降りてから、このままテーブルを蹴り上げてやろうかと思った。
その逡巡を覚ったかのように、揃え直した脚の間に、アーチの膝頭が割って入った。またもや、不覚を取ったミスティだったが、今度は無闇に腹を立てはしなかった。
カフスをつけたしなやかな右腕が、そっとテーブルの下に伸びた。銀色のマニキュアをした五本の指が、蛇のようにアーチの膝蓋を撫でた。柔らかい鹿革越しに、腿の内側まで弄る。
「私は、アナタのこういうところが・・・イヤなのよ」
「あ・・・!」
アーチは思わず飛び上がり掛けて、強かにテーブルの裏に膝頭を打ち付けた。
「いっ、痛いなぁもう」
そう言いながらも、相好を崩している。思いっきり抓られた腿の皮は、下手をしたら血が滲んでいるかも知れない。見事に五本の爪が食い込んだのだ。だが、忌々しくもお互いの膝はくっついたままだ。まことに、このテーブルは規格内でも、この二人には窮屈過ぎた。
「ふん。何時でもお好きに、勝手に狂い死にしなさいよ」
「勝手に、ね。で、おじさまの具合はどうだい?」
と、アーチは苦し紛れに話題を変える。
「ピンピンしてるわ。殺したって死にやしないようよ。・・・そんな事を聞きに来たの?」
「判ってるクセに」
アーチは不意に膝を引いて、横座りに脚を組んだ。テーブルの上に半身を乗り出す。
「私に今どうしろと言うの?アナタが私にどんな嘘臭い口説き文句を言おうが、真っ裸になって乗馬しろと言おうが、夢の中なら一向に構わないけどね」
ミスティは、呆れ顔で肘をついた。
「それは、ちょっとオレの趣味と違うけど。そんなカッコまでして、キミこそこんな超ド田舎まで、何を探りに来たんだい?」
「コスプレは私の趣味よ」
「ほう。で、ここのおかま店主が、何かしたのか?」
ミスティは、上目遣いに目の前の男を見詰め返した。
「もっと、こっちへ来て」
ミスティはアーチの趣味悪いネクタイの結び目を掴んだ。思い切り引き寄せられて、ミスティの頬に息が掛かるほど。甘い香水の馨りが、否応無く吸気に迷い込んで来る。
「アナタ、ここのオーナーが誰か知ってるの?」
「いや。・・・はは、くすぐったいな」
「何処も触ってないわよ。あら、耳たぶヨワイのね。・・・ここの実際のオーナーは、あのおかまちゃんじゃなくて、村長なのよ」
「村長。道理でねえ」
会話は、当人同士以外に聞こえているかどうか。後ろの席のルシアンは、常に任務としてアーチを見張っているものの、会話まで盗み聞きする権限を与えられているのだろうか。
「ここの女の子達は、だから判るでしょう?マトモなルートからやって来た娘達じゃあないのよ」
「そうだろうなァ。キミが簡単に潜り込めるくらいだから」
「どういう意味よ」
「別に」
ミスティの左手の爪が、アーチの腿を逆撫でした。まるで、猛獣みたいな女だ。
「兎に角、判るでしょう?人身売買は立派なA級犯罪なんだから」
「お仕事ご苦労さんだねぇ、女巡検使ドノ・・・」
言い掛けたアーチの顎を、ミスティはがくん、としゃくりあげた。
「その肩書きは、ここでは二度と言わないで頂戴」
「・・・ふぇいふぇい」
幾ら悩殺的な姿の美女でも、やられっぱなしというのは、気分の良いものではないな、とアーチは思った。
ミスティは、二杯目のアラスカ・カクテルに唇を付けた。青い瞳が、ほんの僅かだが潤んでいる。
「それが、UPでもこの村に目を付けているらしくて。近頃聞かない?警察の間諜がうろついているとかいう噂。尤も、いきなりあからさまにばれる様なヘマはやらないでしょうけど」
「・・・うーん。どうだろうなァ」
アーチは、ストローを咥えた。途端にミスティ・サファイアの表情が豹変した。険しい目付きは何処へやら、妖しい光が瞳に点る。
「ああん、隠し事はダメじゃないの・・・」
銀の爪が、誘うようにアーチの首筋を這う。右手はそれでいて、一方左手は素早くアーチの手を掴み、自分の両腿の内側へと導いた。良識ある紳士なら、激怒して即座に席を立っただろう。だが、ドットーレ・ブールヴァルドはそうではない。よくある事だ。
「オレがいつ、キミに隠し事なんかしたっけ?」
「惚けないで。毎度毎度よ」
ミスティは、アーチの右手の甲を抓った。
「いて。・・・しかし、こんな所じゃ話しにくいな。積もる話もあることだし、河岸変えないか?」
「仕事中よ」
ミスティは、あっさりとアーチの提案を一蹴した。
「午前三時に私のベッドに丸腰でいらっしゃい。今のところ、他に誰も乗り込んで来る予定は無いわよ」
魅惑的な唇に、嘲笑が浮かんだ。
「バカにしやがって」
アーチは、頬杖をついた。
村長宅で監視下に置かれている以上、女巡検使の所へ夜這いに行くなど、月が西から昇っても不可能だ。判っていて、意地悪を言うのだ。
恩を着せるつもりなど毛頭無かったが、二ヶ月前、遥か東方の彼方から、ローマにいるキミを救ってやったのは、このオレだぞ、とアーチは思った。
「バカになんかしてないわ。今のところ、本気よ」
濃い睫毛が瞬かれた。ルージュが光る唇は、相変わらず微妙な笑みの形を作っていた。
アーチは、ややあって苦笑を返しただけだ。酔いは回っていない。会話は手詰まりではなかったが、気分的な方向転換に数秒の時間を食った。
これが相方なら、はいはいと二度返事でついて行くだろう。だが、アーチは、あっさりと降参することに決め込んだ。
「キミが会いたい人間は、確かにこの村にいる。村長の屋敷にだ。恐らく、彼女もキミと同じ事を考えているだろうな」
「村長の?」
ミスティは、訝った。既に、ぬめったような瞳は、強い輝きを増していた。アーチは、トロピカルなカクテルをストローで、ずい、と飲み干した。
「もう一つ。・・・教えてやるよ」
アーチは、そう言ってミスティの胸元に右手人差指を掛けた。だが、女巡検使は、流石に驚きもしなかった。深く切れ込んだバニーの黒い衣装の胸元が押し下げられる。掛け値なしに中身の充実した水蜜桃が、零れ掛けた。
ミスティの表情は、また変化した。殆ど無意識に縋るような、飢えを感じた目付きになった。衣越しに、痛い程両の乳首が尖っていた。
「キミのおじさまと異端審問局を狙った、卑劣なヤツの正体を」
無理矢理ではなく自然の造形で生まれた深い谷間に、アーチはグラスから引き抜いた蘭の花を差し込んだ。
じゃあな、と淡々と手を振り、アーチはテーブルを離れた。その背中を、ルシアンが追う。
ミスティが漸く中腰で振り返った時、アーチは既に勘定を済ませて、出て行くところだった。
「何よ・・・」
慌てて、蘭の花を毟り取った時、掌に丸めた小さな紙切れが残った。いつの間に、花と一緒に胸の谷間に押し込んだのだろう。ミスティは、こっそりと周囲を気遣いながら、広げてみる。
「・・・・・・」
紙切れには、確かにアーチレリー・ブールヴァルドの筆跡で、文字が書かれていた。医者は万国共通、大抵悪筆だというが、思いの外達筆だ。その綴りを、ミスティは何度も繰り返し、目で追った。
何度も。数え切れないくらい。そうしないと、とても平静ではいられなくなったからだ。
《オクトパシー》を一歩出ると、静かなものだ。アーチは、ネクタイを緩め掛けて、不意に息苦しさを感じた。それは現実の物だった。
抵抗する間も無く、後ろから首根っ子を掴まれ、路地裏に引っ張り込まれる。流石にファーティファイドとはいえ、油断したものだ。ルシアンは、気付きもしないで先に歩いて行ったようだ。
「人魚とタコショーは観ていかねえのか?」
振り向かなくても、声を聞かなくても、タバコの匂いで判った。アーチは、漸く解放されて、喉を押さえた。
「誰が。『北斎漫画』じゃあるまいし」
「何だ?ホクサイマンガってのは?」
ジョー・クリサンスマムは、咥えタバコで首を傾げた。
「昔のジィヤポネ(日本)の絵画だよ。浮世絵って言っても知らないか。よくあるんだがな、タコに美女が襲われるの図・・・いや、どうでもいい。こんな説明は」
アーチは、煩そうに金髪を掻き上げた。
「あんたこそ、何だ。店の中にいたのか?」
「そりゃ、もう。いい加減退屈でな、この村。何か目新しいものはねえかなぁ、と思ってたところでそこを見つけたんだ。なんだ、男ってのはみいんな同じ事考えるよなぁ?」
「オレはもっといかがわしいのを期待してたがな」
ジョーはアーチの言葉に頷いた。唇の端から紫煙をくゆらせ、ジョーはニヤニヤ笑いを浮かべている。やはり、風体といい、神父らしからぬ男だ。そこが人間的な魅力といえば、そういえるにしても。
「ところで、お安くないねドットーレ。あの美女は知り合いか?」
「ああ?知り合いも何も、あんたの上司の姪御ドノだ」
「ほー」
ジョーはふん、と鼻から煙を出した。
「え?じょ、上司というとアレだな。モンシニョール・サフィール、異端審問所所長のか!?」
アーチは黙って頷いた。崩れたネクタイの結び目を、今更直すでもないが、手持ち無沙汰に弄っていた。
「凄腕の女巡検使ミスティ・サファイアか。伯父上には似てないなぁ」
と、ジョーは眼底に焼き付いた美女のいかれぽんちな衣装を思い出す。あれで、数千人に一人の逸材を選出する《特務巡検使試験》に合格した女か。
ウサギの衣装を差し引いても、グレナデン・サフィールに似ているところは多くない。
ジョー自身の持つ《パイソン・ブラザーサン》の片割れ、《パイソン・シスタームーン》を自在に操る左利きのパウダーガン使いという事も、既知の事実であったが、どうも印象にそぐわなかった。
「いい女だねぇ。足首の締まり具合が何とも・・・。しかし懲りないねえ、あんたも。つか、無謀に過ぎるな」
「ふん。あんたが想像してるような楽しい会話が、もう少しあればな」
アーチは、皮肉な笑みを浮かべた。モテる男の余裕というやつだ。だが、今夜は少しばかり精彩を欠いている。尤も、ジョーがその変化に気付く筈も無かったが。
「手強いな。オレには太刀打ち出来そうに無いねぇ。いやー、《身分違いの恋》というのもまた一興、だがな」
ジョーは、きひひ、と小さく意味深な笑い声を立てた。その後で、さらに小さく呟いた言葉を、アーチは聞き逃した。
「おっかないおじさまに殺されたって、オレは知らないぜ」
「ははは。局長は見た目よりずうっと、懐の深い御方だ。大体あんたが、人の事言えるのか?」
「さてね」
ジョーはアーチの鼻先に煙を噴き掛け、アーチは、ふふん、と冷ややかに応じただけだ。
「で、女巡検使サマは、何を探りに来たっていうんだ?」
「コスプレが趣味らしい」
「へ?おいおい。そんなこと聞いてたのか。やっぱ、何かあるんだろ、ここの村か村長には」
ジョーは、吸いかけのダンヒルを自ら毟り取った。
「さあな。オレにもよく判らんね」
と、アーチは、ジョーの青く澄んだ双眸を見た。
「相方はさ、ジンはあれでいて、あんたを心配してるらしいぞ。素直じゃないが、な」
「ふん。御守役が逆に心配されるとは、オレも墜ちたもんだ」
アーチは、踵を返した。そろそろいい加減、ルシアンも気付く頃だろう。幾らなんでもジョーといる所を見られるのは、現段階ではまずい。
「まさか、本気で人魚を信じているワケじゃあるまいな?ドットーレ」
「あんたこそ」
アーチは振り返った。だが、また街中に向かって歩き出した。
「一つだけ言っておくぞ」
ジョーは叫んだ。
「人魚も女だ。気を付けろ」
アーチは、苦笑を押し上げた。だが、返事はしなかった。《オクトパシー》のネオンサインが見えなくなった頃、アーチは独りごちた。
「馬に蹴られて死にたいのか、あのオヤジは・・・?」
テワナ・デメララ村長は、先代の村長の一人娘だった。
隣村に嫁いでいたのだが、わけあって出戻った。そして、二十年前、父親が亡くなった跡を継いだのだ。エラドゥーラ村自体が、世襲制の村長と決めているわけではない。たまたま、やる人がいないのでそうなった、というかなりいい加減な決め方だ。つまりは、村長など名ばかりでも、別段、大きな問題のないような、平穏そのものの村だったのである。
ところが。
「先代と違って、テワナ村長は体制派だ。女だ男だなんてこの際言わないが、ある意味野心家というべきか」
アラックは淡々と喋った。《溜まり場》の店内は、すっかり静かになっていた。夜も更けている。客はといえば、ジンとピーチィ以外は帰ってしまった。
「村長は、まず村をヴァティカンの準統治下に置くことに賛成した。先代からその話があったそうだが、とりわけメリットがあるわけでもないし、保留されていた事だ。何しろ、今まで無政府自治区だったのが、税金を払う必要に迫られるからな。当然、オレ達にもそれ相応の納税義務が掛かってくる」
「反対は?」
「あったが、無意味だった。反対する者は、無論追放だ」
アラックは肩を竦めた。
「そんなん!出てったらええやん。皆出てったら、税金納められへんで、ええ気味や」
ピーチィは言った。ピンガ少年が、少女を見詰め、それからアラックの顔を見上げる。
「キミの言う通りだ。でも、そういうわけにいかないんだよね・・・?」
「・・・・・・」
アラックは、黙って腕組みをするだけだ。《溜まり場》の入口が開いた。生ぬるい風とともに闖入してきたのは、黒服のジョー・クリサンスマムだった。
「ディアスポラは見ての通り、殆どがヴァティカンの統治下にある」
ジョーはそう言ってニヤニヤ笑いを浮かべながら、客席に近付いた。
「そして、統治下にない村々は自給自足の生活だ。ま、いわば半強制的経済封鎖のようなもんだな。勿論、上層都市には逆立ちしたって入れない。・・・どうする?」
ジンはマルボロの煙をふかし、ピーチィは頬を膨らませただけだ。
「結論としては、このまま自給自足の生活を続けるか、統治下に入ってある程度安穏を夢見るかのどちらかだ。いずれにしても、村を出たところで、人間の一人や二人がどうすることも出来ないんだ。たとえ他所の村に受け入れられたとしてもな」
ジョーは、行儀悪くテーブルに腰を下ろした。アラックは、鷹のような目を冷ややかに光らせる。
「あんただって、所詮はヴァティカンの手先なんだろう?神父さん」
「オレは傭兵稼業さ。望まれれば、何処へでも行く。まあ、カトリックを捨てるようなことがあればだがな」
ええカッコしい、とピーチィは呟いた。無論、ジョー本人には聞こえていない。
アラックは、ジョーを真正面から睨んだ。そして、乾いた笑みを浮かべた。
「本当は、村長に勧告に来たんじゃないのか?早く統治下に入るように」
ふん。と、ジョーは鼻を鳴らした。
「とんでもない。オレは上司に命令されてヴァティカンの教義に背く連中をお裁きするだけの、しがない執行官。尤も、オレよりも遥かに強い権限を有した御方も、その辺を歩いているのかも知れんが・・・」
「何ィ!?」
アラックは、立ち上がった。ジョーは慌てて口元を押さえた。
「う。失言・・・」
「本当か?それは」
アラックは、フロアに出て、ジョーに詰め寄った。
「ヴァティカンには巡検使という、教皇の特使として各地を巡り、悪政やら悪行を糾弾する隠密の高官が存在すると聞いている」
「ええ?じょ、冗談。それは特務巡検使っていう、フツーの巡検使とは別物でな。うえで言う検察官と刑事と弁護士を一緒にしたような、超エリートだ。いや、そうそうそんな方にはお目に掛かれないって」
ジョーは、口が滑ったとはいえ、内心冷汗ものだった。たとえ、教皇庁内部の人間であっても、特務巡検使(セルヴィツィオ・セグレト・ジロンターレ)の捜査に直接関わるのは、禁物だ。ましてや、外部の人間に特務巡検使の現在の状況を知らせてはならない。
「ウソは言っていないだろうな?もし、おられるなら、それこそ準統治下であるこの村の状況を正しく認識して頂いて、UPの介入と村長の企みを阻止して貰うしかない」
アラックは半ば、いや本気だ。目が据わっている。
「そういやぁ、そのUPとかあの女ってのはどうなってんだ?」
ジンは漸く、口を開いた。アラックは、鋭い眼差しをジンに向けた。
「UPは、ヴァティカンよりも先に、この村に国連軍駐屯地を設置しようと動いていた」
「国連軍!?」
ジョーとジンは同時に声を発した。
国連とは、言うまでもなく国際連合機構のことだ。上層都市国家で構成された、新国際連合機構のことであり、前身はいうまでもなく、国際連盟にある。加盟都市は約五十にして、独自の軍隊と警察、司法、経済の三機構を持つ。常任理事、などの権力集中を廃止し、軍を除く三機構の相互監視でもって、平和維持活動を行っている。
「国連軍のディアスポラ駐屯地は、北米大陸にのみ二箇所ある。ユーラシアで初めての駐屯地をここに作るたあ、どういう了見だ?」
ジョーは、ぽりぽりと灰色の頭を掻きながら、言った。ややかさついた唇に、ダンヒルを素早く咥える。
「事情は、オレ達民間人にはよく判らない。だが、村長があっさりとヴァティカンの準統治下に入ったもんで、UPのヤツら慌てて視察にきやがった」
アラックは渋面を作った。
「それが、あのジプシー・クイーンだってのか?」
「いや。その前にも何人か来た。だが、皆村長に体よく追い払われてしまってな。・・・ところが、どういうわけか、あの女は上手く村長の懐刀として入り込んじまった」
忌々しげに、アラックは吐き捨てた。
「オレは、UPだろうがヴァティカンだろうが、村が不当な支配を受けるのは反対だ。とにかく、あの女も余計な連中も追い出したいだけだ」
「・・・なるほど」
ジョーは、ジンの手からジッポ・ライターを借り、自らタバコに火を点けた。唇には、不敵な笑みが浮かぶ。
「お前さんの言いたい事は判る。だが、ちいと虫が良過ぎやしねえか?」
ジョーの言葉に、ピンガ少年がぴくり、身動ぎした。
「ヴァティカンの名実背負った特務巡検使に、UPを蹴散らして貰っておいて、おまけに村長の悪行を暴いて貰って。そんでもって、解決したら村は元の鞘に収まって、ヴァティカンともオサラバ?んな手前ェに都合のいい話は、何処を探したって見付かりゃしないぜ」
「何も、そこまでは言ってない・・・」
言い掛けたアラックの胸元を、ジョーはむんず、と掴んだ。ピンガもピーチィも思わず一瞬目を閉じた。だが、拳を握っていたのは、アラックの方だけだった。
ジョーは、青年の右手首を、容易く掴み上げた。
「甘ったれんな。坊や」
ジョーは咥えタバコのまま、静かに言った。アラックの拳は、ジョーの無駄なく鍛え上げられた腕力に否応無く屈した。
「何がお前にそう思わせるのか、知らねえが。自分でやってみな。自分で血路を切り開いてみなよ。・・・それからだな。オレに文句言うのは」
腕が離れた。ジョーは、入ってきた時と同じように靴音高らかに出て行く。何しに来たんだ、あのオヤジ、とジンは内心首を捻りながらも、ジョーの背中を見送った。相変わらず、役者が上手なのは認めざるを得ない。
アラックは、両肩を震わせたまま、床を見詰めていた。ピンガ少年は、そんな幼馴染で兄代わりの青年に近付けなかった。人一倍自尊心の強いアラック。そんなアラックが、無力感の上に更に劣等意識に苛まれている姿に、触れられなかった。
そんなところが自分の臆病な心だと、ピンガ自身は知りながら。
昼下がりの街道には、干魚のにおいが立ち込めていた。
天気は上々、風は適度に南から吹いている。乾期に入って間もない季節にしては、穏やかだった。
干魚は勿論、家々の前などではなく、港のある一画に確保された場所で、天日干しにされているのだ。少しでも、風がそよぐと、捌きたての生臭い臭いが、多少は混じって鼻腔を突く。
肌に汗ばむ塩気が纏わり付いていた。
ミスティ・サファイアは、右手の甲で額を拭った。黒いボンデージ風のスーツにも、熱が篭っていた。
このじっとりとした空気は、不意に何故かタンゴを踊ったあとの男達の体臭を連想させた。今まで幾人と踊ったか、覚えていないが、いずれもあまり高揚する気分にはなれなかった。だから、踊ったからといってそう容易く男と寝る気にもならないのが、必定だった。
「低気圧が近づいているみたい」
旅慣れた者なら、切実に、体がそう感じる。
街の賑わいから一本海側に外れた道だ。
誰も通っていない。三点透視のお手本みたいに通った白い砂利道に、照り返し。中心点にあたる道の彼方から、人影が近付いて来た。殆ど反射的に、ミスティの瞳の虹彩は縮み上がった。猫ならば、背中の毛まで立つといったところだろう。
それから、左手で《パイソン・シスター・ムーン》を抜くのに、五秒を有しなかった。
だが、トリガーに指を掛けたまでで、アクションは止まった。
「抜け」
ミスティは、恫喝に似て、静かな低い声を放った。
パウダーガンの先から約十メートルのところで、女は立ち止まった。見事に計算し尽くされたように、フロント・サイトの延長線はは女の鎖骨の真下にある。
女は、テンガロン・ハットを持ち上げた。
ティアール風に編み上げた美しい髪型が明らかになる。女の黒く光る双眸は、ミスティを見据えた。
「何故?」
「アナタがUPの雇われ捜査官だということは、判るわ。遠くから見ても鳥肌が立ったもの」
ミスティは、一句一句はっきりと応じた。
「しかも優秀なパウダーガン使いでなければ、感じないわ・・・」
女は、赤い唇に微笑を浮かべた。言い逃れなどしない。それは、もう明らかに女の腰にはホルスターが提げてあるからだ。
「ジプシー・クイーン」
ミスティは、仮面をつけた様な無表情で呟いた。
「よく判ったわね、お嬢さん」
ジプシー・クイーンは、やや厚めの形の整った唇を開いた。
「三度目はない。抜け」
ミスティは荒々しく言い放った。両者の間に冷たく引かれた緊張の糸が、縺れた。
ややあって、ジプシー・クイーンの両手が霞んだ。高い空に、破裂音が上がる。
空薬莢が、煌いて散った。白い砂利道は、もうもうと砂埃を上げ、両者の視界を遮った。
「う」
ジプシークイーンは、眼下に地面を見た。しなやかな受身技で、357マグナム弾の攻撃を逃れ、態勢を立て直す。横様になりながらの発砲は、慣れたものだ。しかも二挺拳銃とあっては、生まれ持っての反射神経の鋭さが、ここに集約されていた。
凶暴極まりない毒蛇の猛牙は、急所を外しても生身で当たれば致命傷にもなり得るのだ。
《パイソン》のシリンダーが一旦空になるまでは、否が応でもかわすしかない。
「本気だわ。この女」
《SIG・P230・アイアンウィドウ》のマズルが、白く光った。
銃身は、掌中で僅かに撥ね上がり、閃光と硝煙は短く二発だけ上がった。《パイソン・シスタームーン》からの発砲は無かった。
ジプシークイーンは、危うく足元を掬われた。一瞬、体が宙に浮き、右肩に激痛が走った。
途端に、乾いた銃声が響く。連続発射の為にトリガーに掛けたままだった、人差指が動いたのだ。弾は、情け容赦無く空間に消えたに過ぎなかった。
「くっ!」
だがしかし、ジプシー・クイーンの恐るべき反射神経は、次の刹那には《SIG・P230》二挺の銃口を、ミスティ・サファイアの額と鳩尾に押し付けていた。
トリガーに掛けた指は、硬直していた。
ジプシー・クイーンの下顎には、《パイソン》の熱い銃口が開いていたからだ。
《SIG・P230・アイアンウィドウ》のトリガーが絞られる寸前に、自ら前方へ飛び込み、肉体の優位を使って喉元まで詰めた女巡検使の技が神速と呼べるなら、孤高の女パウダーガン使いの常人離れした迎撃は、殆ど魔法的とも言えた。
「・・・凄いのね、お嬢さん。大した腕だわ」
ジプシー・クイーンは言った。
「勘違いしないで。私は上位者のアナタを不意打ちにして、《銃聖》に成り代わろうとなんて思っちゃいない」
ミスティは冷ややかに応える。
「アナタが何の目的でエラドゥーラに来たのか、聞きたいだけ」
「随分と乱暴な聞き方ね。そうやって、男も押し倒すの?」
「私は、気が短い性質なんだけど・・・」
ジプシー・クイーンは、漸く合点がいった。自分以外のパウダーガン使いには興味がなかったが、訝っていた事が見えたからだ。
「アナタが、そうなんだ。特務巡検使が来ているかも知れないっていう噂は、本当だったという訳ね」
二人は依然として、がっぷり四つに組み据えたままだ。砂利に背中を苛まれているジプシー・クイーンは、真上に眩しい太陽を睨み、膝頭を地面に付いた格好のミスティ・サファイアは、照り返しと熱気に包まれていた。
「気が短いと言ってるでしょう?」
視線一つで男を沈黙させる女巡検使も、さすがにこの年上の女相手では、訴える術が限られていた。
「まさか、UPがあのこっぱずかしいおかま店長を探りに行けとでも、村長のご機嫌取りに行けとでも言った訳じゃあないでしょうに」
ミスティは、自分の台詞をとんでもなく陳腐で滑稽なものと感じた。ジプシー・クイーンは、微かに長い首を動かした。
「ふ。感付いているクセに回りくどい言い方はよしなさい」
「何!?」
「私に脅迫は有効ではない、という事よ。口笛を吹けば、直ぐに村長の手の者が飛んで来る。アナタは逆に正当な理由も無く、私を暴力的に脅したということで、訴えられるわよ」
ジプシー・クイーンは白い歯を見せた。ミスティは、飽く迄冷静を保って答えた。
「特務巡検使の権限は、揺るぎ無い」
「任務に失敗しても?」
そう言われて、ミスティは遁辞を失った。身分がばれてしまえば、一巻の終わりだ。
そんな逡巡が、脳裏を一巡りもしないうちに、ミスティは下腹部に鈍痛を覚えた。
ジプシー・クイーンは既に立ち上がり、ホルスターに《SIG・P230・アイアンウィドウ》を仕舞い込むところだった。
ミスティは、強か膝蹴りを喰らった腹部を押さえながら、膝まづいた姿勢でジプシー・クイーンを見上げた。ティアール風の見事な髪型が、逆光に煌いていた。
「・・・まだ、言いたいことがあるの?」
ジプシー・クイーンは去り際、半身を捻ってミスティを見下ろした。ミスティは、答えなかった。答える必要を感じなかったからだ。
負けた。やられた。
激しい屈辱の念が、左掌に滲み出して来た。堪らず、地面に押し付けたパウダーガンから五指が滑った。
《溜まり場》は開店前だった。
乱暴に、その出入り口が開いた。明るい笑顔で、出迎えようとしたピンガ少年は、思わずあんぐり口を開けた。
ピーチィ・フィズは、無言でどかどかと足音を立て、店内に入り込んだ。
その後を追うようにして、ジン・スティンガーが戻って来た。
「ど、どうだった?」
ピンガはさも心配そうに両の指を組み合わせる。ピーチィは、少年をじろりと睨み付けただけで、カウンターの前に立ち止った。
ジンの方を見て、見れば判るだろう、と言いたいらしい。
ピンガは、ジンに近寄った。
「どうもこうもねえよ」
ジンはテンガロン・ハットを脱いだ。肩に背負っていたのは、ジンの革ジャンを被せた大柄な女だった。
「オレはまた、人魚ちゃんでも倒れてるのかと思ってすっ飛んで行ったけどよ」
ウエイトレスが指し示した通り、ジンはうんせ、と女の体を店の長椅子に横たえた。女にしては、実に重かった。ジンは数キロ担いで歩いて、既にぐったりだ。
「オレの知り合いだ」
「え?」
ピンガは長椅子の上の美女を見詰めた。瞼は伏せたままだが、子供心にも一目でそれとわかる器量だ。
海浜に近い道端で、昼の日中からぶっ倒れている人間がいる、と聞いて駆けつけたはいいが、いざ、いの一番でやって来たジンは見てびっくり。女巡検使ミスティ・サファイアではないか。
「何でこんなところにいたんだろうなぁ?」
「知るわけないやん」
と、漸くピーチィが応えた。視線は冷たいものだ。モジトの一件以来、ミスティを天敵と見なしているからだ。
「お知り合いっていうのは?」
ピンガが訊く。ジンは、何気なく答えた。
「ヴァティカンの特務巡検使だ。かくかくしかじかで、わけあって少しは知った間柄だけど・・・」
「ええ!?」
少年は目を丸くした。まさか、噂の特務巡検使がこんな所にいたとは。しかも、ジンの知り合いだったというのが驚きだ。ウエイトレスが、固く絞った濡れ手巾を持って来た。昏倒したままの、ミスティ・サファイアの額に手巾を当てる。
「じゃあ、この方がもしかしたら、村長を止めてくれるかもって事?」
「甘い!」
ピンガの希望に満ちた声を、ピーチィは素早く遮った。
「この女が、すんなりいう事なんか聞いてくれるわけないやん。言うとくけど、見掛けに騙されたらアカンで。性格サイアクやで。他人の金は巻き上げるわ、権力はカサにきてるわ、男を足蹴にするわ・・・」
「・・・はは」
相当に悪意の篭った言い回しに、誰もが反論出来なかった。ピーチィの言う事は半分以上が偏見だとしても、そうそう簡単に特務巡検使が、民間人の要求など聞き入れる事は、幾ら政事に疎いジン・スティンガーでも容易に想像出来た。
「・・・う」
ミスティ・サファイアの唇から、呻きが漏れた。ウエイトレスは、きゃ、と後退した。
矢庭に女巡検使が起き上がったからである。
「何やってんの、アナタ達」
重々しいハスキー・ヴォイスが、余計に掠れて響いた。無造作にジンの革ジャンを掴んで、突き返す。
「な、何って。第一声はそれですか?」
ジンはあんぐりと、口を開けた。
「ひひひひ、他人に助けて貰って置いて、礼の一つも言うつもりはねえのかよ、この御仁は」
「じゃあ、ありがとう」
ミスティは何の抑揚も無く淡々と言い、長いブルネットを振った。相変わらず、見た目はお見事だが、愛想の無い返答だ。
ジンは握った拳のやり場に困って、唸ったままだ。
ピンガ少年は、ぽかんと目を見開いていた。聞こえよがしに、ピーチィは歯を剥き出しにして、笑う。
「な?言うた通りやろ?」
「・・・・・・」
ミスティは、ウエイトレスに小声で礼を言うと、長椅子から立ち上がった。出て行こうとする後姿を、少年は引き留めた。
「待って、巡検使さん!」
ミスティは、勢い息を呑むような鬼気迫る声で、振り返った。少年の丸い瞳を、じっと見詰める。
「・・・何で知ってるの?」
ジンは、まるで悪魔にでも肩を掴まれたような顔付きに変わった。その顔を見て、ミスティは凄まじく剣のある笑みを浮かべた。左手に、《パイソン・シスタームーン》が構えられていた。
ピンガ少年は、一歩後退りしたまま、全身を硬直させた。
「じょ、冗談だろ、おい!?」
「私の身分を口外したら、承知しないわよ」
銃口は、約五メートルを隔ててジンの鼻先に向けられた。ジンは、反射的に両手を挙げた。
「あんたこそ、何で・・・」
「仕事に決まってるでしょう?」
「いや、どうしてあんな所で倒れてたんだ?」
ミスティは、冷笑を浮かべた。気を失うまで、総て正確に覚えている。下腹部を襲った痛みは、二ヶ月前のサン・ピエトロ広場での負傷を再び疼かせた事も。腕に負った傷は、直ぐに癒えたが、打撲に拠るダメージと、それに伴う鍛錬不足が、余計にミスティ・サファイア自身を苛立たせていた。
そうでなければ、幾ら不意に喰らった膝蹴りであっても、所詮は女の力だ。
しかも、酷く屈辱的に感じている時に限って、笑いたくもなるものだ。
「聞きたいの?」
「・・・いえ!」
ジンは両手で自分の口を押さえた。まるで、丸腰でライオンの眼前に立ったみたいな気分にさせられる。ミスティは、漸く《パイソン》を下ろした。
「そうだわ。村長の屋敷は何処にあるの?」
「何処って・・・」
「村の北。ガンガーを西に臨む高台にあるよ、白い壁に囲まれたおっきな屋敷だよ」
ピンガ少年が答えた。ジンは、ミスティに一歩、歩み寄った。
「そ、村長をどうするんだ?」
ミスティの青い瞳が、妖しく光った。
「どうもしないわ。私は、あのクソ女に一発くれてやる為に行くだけよ」
ミスティは、きっぱりと捨て台詞を残して、大股に《溜まり場》を出て行った。ピンガはジンの顔を見上げた。ジンは言うべき言葉を見付けられないので、首を傾げただけだった。
「クソ女はどう見たってあんたの方だろうけど・・・」
第三章に続く
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