第十一話
 〜光と海と涙と la luce e del mare tra le lacrima
(前編)


 第三章  男たちの決断  THERE HARD SPIRITS 
 岩壁の上方には、円を描いて舞うハゲワシ。多数の禍々しい影が、悪魔のように一つ、二つとゆっくり滑空して来る。
 こんな炎天下。こんな乾いた土地に、彼らは普段いない。今この時、雲一つ無い空の下に群れをなすかのごとく集うのは、他でもない。
 そこに食料があるからだ。
 血の臭い。腐肉の汁。息絶えて間もない屍の累々たる山が。やがて、筋肉が弛緩仕切った後、体内の内容物が外に流れ出してしまえば、程なく皮膚は爛れ崩れる。蛆が湧き、血膿が川を造り、この世のものとは思えない異様なまでの腐臭が辺りに立ち込めるだろう。
 屍が白骨になるのも、そう遠くない未来図だ。
 白い石灰岩に覆われた岩肌を黒く染めているのは、数週間前にあった殺戮の痕跡だ。
 道無き道を行く一台のジープ。シルヴァー・メタリックに黒い十字の意匠がボンネットに描かれていた。マフラーからは、嗅ぐに耐えられない廃油もどきの悪臭が垂れ流されている。
 ジープが止まった。行き止まりではない。一昨日まで、戦場となっていたこの岩場を、これ以上四輪で進むのは困難だった。
 アーチレリー・ブールヴァルドは、イグニッションにキーを差し込んだまま、ジープを降りた。助手席には相方の看護士はいない。兵士もいない。
「コルべーノ軍曹の生死が不明である」
 との通知を受けてから、約二時間余。軍曹はヴァティカン《クローチェ・アルジェント(銀十字軍)》の精鋭部隊における、この地域の作戦指揮官だった。
 軍曹は数ヶ月前の負傷が元で、左足を引き摺って歩行するのがやっとだった。
 本当は、脊髄にごく僅かながらの損傷を受けているのが、新米軍医で臨床経験の無いアーチの目にも明らかだった。大型散弾の被弾が運悪く、軍曹の体の自由を損なったのだ。
 椎間板と軟骨の隙間に入り込んだ強装弾丸は、体内で粉々になり、除去し切れなかった一部が神経を圧迫している。激痛で夜も眠れないところを、モルヒネの投与で誤魔化しているのだが、それも体力の消耗を招いていた。
 このまま動き続けたら、体内に食い込んだ僅かな弾丸の破片が、完全に軍曹を不随に至らしめることは間違いなかった。
「主治医として、オレが捜しましょう」
 と即答したのは、アーチだ。どういう風の吹き回しだったか、自分でも判らない。ただ、疲弊した部隊員に、これ以上の負担を掛けるのは得策ではないと、悟ったのか。強化人間である自分なら、少々の無理は屁でもないからだ。
 黒い岩の染みを横目で追いながら、アーチは歩いていった。左手に、ジュラルミンの、重いメディカル・ケース。右手に、完全装填した《キングコブラ・バニッシュメント》。
 屍の河を進んで行く虚しさは、まるで地獄の最果て。嫌と言うほど他人の生き死にを見てきていても、明らかな不自然死の山を跨ぐのとは大きな違いだ。
 ナヒチェバン戦役。
 ここはかつて、アゼルバイジャン飛び地だった土地。紛争は絶えなかった。カトリックと積年の対立関係を有するイスラム系住民の土地。
 ローマ・カトリックを中心とするかつてのEU諸国と、トルコ・イランを中心とするムスリム圏との対立が一層深まったのは、二十一世紀も後半からだった。
 宗教上の純血を保つ名目で、トルコのEUへの加入を恐れたヴァティカンは、常にEU諸国に緘口令を強いていた。
 だが、プロテスタント国家であり、経済的に最も自立したドイツ連邦がEUを抜けるやいなや、トルコは水面下のパイプラインを利用して、ドイツに同盟を求め移民の流入を図った。
 パン・トルコ主義を主張する《トゥーラン運動》の展開である。世界中のトルコ系民族の独立と団結を謳った運動は、枯野に放った火の手のように速やかに広がった。アゼルバイジャンも、その一国だった。
 その後、EUとそれらムスリム諸国との経済的対立が、宗教的対立に陥るには、さほど時間を要しなかった。
 実際に第三次大戦の舞台主役は、かつての中華人民共和国とユナイテッド・ステイツだったとしても、そのきっかけを数世紀に渡る長年、紡いで来たのは、ここユーラシア大陸の宗教的対立なのだ。
 コンスタンチーヌの乾いた熱い空気を、ふと思い出す。父親の研究所転勤に伴って、一時期住んでいたアルジェリアの中堅都市は、記憶の片隅に茫漠としていた。ムスリムの少年達は、自分達クリスチャン、殊にかつて植民地支配者であったフランス人を目の敵にしていた。それだけは、覚えている。
 アーチは、政事に無関心ではなかったが、敢えて自ら踏み込むまいとして技術者の道を選んだ。だが、世上はそれを許さなかったようだ。
 五年前、ナヒチェバンの地方駐在巡検使が住民の一人に殺害された。それがきっかけで、一気に民族紛争が勃発した。初めは、自治区内の責任問題から、内部紛争が起こったのだが、事はヴァティカンの統治に問題があるとして、住民は聖務省に挑戦状を叩き付けたのだ。
 売られた喧嘩を買う主義ではない筈のカトリック総本山にもかかわらず、ヴァティカンが即日応戦に出たのは、数世紀に渡る浅からぬ因縁と、互いの利益の不一致の為せる業だといえよう。
 或いはこれも、かつての《トゥーラン運動》の埋み火の齎した出来事かも知れない。
 なお、ナヒチェバンの住人とその周辺地域は、独立を求めて国連に帰属する旨を訴えたが、却下された。
 それで、他のイスラム系住人の地域を交えての一大紛争にまで発展したのだ。
 不謹慎な聖職者などは、かつての聖地奪回の歴史に擬えて《新・十字軍》と呼んでさえいる。
 確かにヴァティカン国防省の精鋭《クローチェ・アルジェント》と《クローチェ・ネッロ(黒十字軍)》が派遣されているからだ。
 だが、もう戦役も長くは続かないだろう。
 アーチは、感じていた。初めは五分五分だった互いの軍事力も、次第にヴァティカンの旗色が悪くなりつつあった。
 幾ら民間人を投入しない、プロだけの戦争だとしても、彼らはあまりにも実践に乏し過ぎた。負傷兵の様子を見ても、それは明らかだった。
「あれは・・・?」
 黒々とした、屍の塊は、紛れも無い《クローチェ・アルジェント》の兵士だ。屍同士の夥しい血と、被弾によって流れた脳漿が、軍服にこびり付いて離れないのだ。その向こうで、何かが動いた。
 アーチは、音も無くブーツの踵を静かにつけて、屍の山に近付いた。
 山から流れ出した血溜まりを避けて、その影に倒れていたのは、一人の兵士だった。薄い色の髪に血がこびり付き、一瞬何処を向いて倒れているのか判らない程だった。
「名を名乗るんだ」
 と、アーチは《キングコブラ》を髪の長い後ろ頭に付きつけた。精一杯の力で振り向いた兵士は、肌が浅黒い細身の女だった。
「・・・私はムスリムじゃない。これを見て」
 女は、血に汚れた顔を苦痛に歪めて、ズボンのポケットからIDカードを取り出した。アーチは機械的に、それを受け取るとペン式のIDスキャナで読み取った。医師ならば、外出時に必ず携帯している物だ。緊急時の患者の身分照会の為だ。
「確かに」
 アーチは、IDカードを返却し、女の肩を抱え起こした。上着は汚れた為に捨てたか脱いだかしたのだろう。アンダーウェアから剥き出しの肩は、火が点いたかのように熱かった。
 高熱に喘ぐ女の左腹部に、大きな赤黒い染みが広がっていた。腕にはやや力があったので、担ぐほどではないと判断したのだが、左脚が全く動かなかった。骨折している。
「うう・・・」
 アーチは、女の左脚側のズボンを引き裂いた。既に、左脛は、常時の倍はあろう程に膨れ上がっており、紫色を呈していた。そればかりではない。足首の裂傷には、黴の様に緑色をした膿が溢れ出していた。
「昨夜からここにいたのか?もしかしたら、脾臓破裂かと思ったが、急所は外れているようだし」
「一昨日からよ。・・・陽射しを遮るものがないから、死体の山の陰に入って・・・」
 女は大きな黒い目で、アーチの日焼けした顔を見上げた。女の瞳は、生気が残っていた。白目が美しく、血と土に汚れた頬はこけていたが、端整な顔立ちだった。
 女は、不意にアーチの両腕に縋った。
 生きたい。その為になら、何だってするという激しい情念の篭もった目付きだった。目の前の若くて健康で美貌の男は、軍医の腕章をつけている。もし、助けてくれるのなら、思う存分嬲られたっていい、とでも思う。
 だが、あくまでアーチは医師としての立場と感情しか、戦場では持ち合わせていなかった。
 まして救いの天使ではない。
「運が良かったな」
 アーチは言葉少なに、女を軽々と背負った。
 一旦、ジープに女を運び、応急処置を済ませてから軍曹を捜す方向に転向だった。
「キミ、コルべーノ軍曹を知らないか?」
 アーチはふと、背中の女に呼び掛けた。女は、眠っているかのようにぐったりとして、動かなかったが、僅かに頭を動かした。
「コルべーノ・・・軍曹」
「無理して喋る必要はないさ」
「・・・いえ。軍曹なら、・・・軍曹なら死んだわ」
 女の吐息が、首筋に掛かった。アーチは、振り返った。
「殺したのよ。・・・私が」
 岩肌にこびり付いた黒い血が、遠ざかって行く。人間が離れると、途端にハゲワシは、こぞって屍を啄ばみに降りて来た。
「軍曹とは、殆ど同じ場所で撃たれた。『オレにとどめをさせ。どうせ半日も持たない』と、言ったのよ・・・。だから、撃ったわ」
「・・・・・・」
 アーチは、黙って女の言葉を聞くだけだった。真偽の程は兎も角、帰還後の報告に『グドゥヤマン地域、捜索するも不明』と上げただけだった。
 この二ケ月後、同ナヒチェバン・カルゴルノ丘における戦いで戦役は終結を迎えた。
 
「アナタは肝心の事をさっぱり喋らないのね」
 と、ジプシー・クイーンは言った。テワナ・デメララ村長邸の中庭である。夜も更けた。
 アーチは湿っぽい風に撫でられる金髪を気にしながら、テラスの椅子に腰掛けていた。
「昔から、そうね」
 ジプシー・クイーンは首を傾げて、アーチを見た。ルシアンは、もういなかった。時刻は真夜中の二時を回っていたからだ。
「何の解決にもならないことは、言わない」
 アーチはそう言った。だが今更、何だよという言葉を言っても始まらない。あの時は助けてくれて有難う、とでも言うつもりか。むしろ、逆だ。自分は軍医として、危うくコルべーノ軍曹を見殺しにしてしまうところだったのだから。汚い役を買って出た彼女に感謝したから、報告に上げなかったのだと。
 だが、既に女は、昔語りに気分を引き摺られていたとしても、アーチは内心それどころではなかった。
 記憶が確実なのも、時として嫌なものだ。アーチは、進んで忘却の海に何もかもを沈めて仕舞うほど、情緒的では無かった。だが、非常時における人間関係の感情の齟齬やら、行動は謹んで海に投げ入れてしまっていた。およそサルベージする気もない。
「私だって無駄話をしに来た訳じゃあないわ。アナタにずっと聞きたい事があったからよ。もう六年ほどずっとね」
「どういう質問かな?」
 アーチは、眠たげに腕を頭の後ろに回した。ジプシー・クイーンは、微風に靡いた後れ毛に手を触れながら、向き直った。
「私は、あの後一度も前線に出ることなく、病院で停戦を迎えた。だから、カルゴルノ丘の戦いのことは、何も知らないわ。何故なの?三日間の戦で二万の兵士が、僅か三千人余りのムスリムゲリラ部隊に圧倒されていたというのに、どうして勝てたの?」
 ジプシー・クイーンの瞳が光った。
「神の秘蹟ってヤツだろう」
「誤魔化さないで頂戴。アナタは軍医といっても、ナヒチェバン戦役最悪の戦いだったカルゴルノ丘の戦の、貴重な生き残りなんだから」
「オレは当然生き残るさ。手足をもがれたって、心臓を抉り出されたって。フォーティファイドだからな」
 アーチは、くくっと声を洩らして自嘲的な微笑を浮かべた。ジプシー・クイーンは、むっとして手前まで詰め寄った。
「目の前で見た事を教えて」
 ジプシー・クイーンは、その大きな瞳を開いて、アーチの伏目がちな横顔を見据えた。
「《クローチェ・アルジェント》は壊滅した。私の兄と弟が死んだのを見た!?」
 アーチは、答えなかった。ジプシー・クイーンの頬に皮肉な微笑が浮かんでいた。
「何故、同じフォーティファイドだったにもかかわらず、兄達は死に、アナタは生き残ったの?」
 実際、ジプシー・クイーンの実の兄弟が戦死したかどうか、前線に出ていない筈の軍医が知る由もなかった。
 軍へ入隊してから志願してなる強化人間と、そうではないレミンカイネン(再生促進型強化人間とは似て非なる物だという事は、ジプシー・クイーンも知らない。ごく僅かな人間を除いては。
 その答えを言え、というのか。
 残酷過ぎる、その答えを。
 だが、そんな辛い目をした人間に、何も今更、背中から槍を突き刺すような真似をしても仕方あるまい、とアーチは判断していた。
 この男の意識は、過去に向かっていない。ホンコンで謎の男パルメット・ソノーラが言った言葉を、繰り返し反芻する。
 ナヒチェバンへ行け。
 今ごろ、六年前の戦役を蒸し返そうというのか。だとしたら、やはりムスリム諸派との関わりが、彼等《第三の組織》を動かしているのだろうか。当然、ヴァティカンは、いや異端審問所は動いているのだろう。
 ホンコンの事件を水面下で処理した理由があるとすれば、それもその一つに違いない。
 最近考える事といったら、最早、シルヴァー・ブレットはそっちのけだ。
「無駄死になんて、言わせないわ」
 ジプシークイーンは、苦々しく呟いた。アーチは、まるで女の話など聞いていなかったのように、はたと振り向いた。
「悪いが、オレは五年以上前の記憶は順次削除していってるんだ」
「アナタにとっても、そんなに忘れたいような事なの?」
 ジプシー・クイーンは、優雅な弧を描く眉を顰めた。
 アーチは立ち上がった。オリーヴグリーンの瞳は静かだったが、月の灯りさえ映していなかった。
「何度も言わせるなよ。何の解決にもならない事は言わない、ってな」
「・・・・・・」
「それよりも、オレには大事な仕事がある。人魚ちゃんを捕まえないとなぁ」
 アーチは、空口笛を吹き吹きテラスを後にした。
 ジプシー・クイーンは、重い溜息を吐いた。

 《溜まり場》の勝手口に回ると、ピーチィは少年の姿を認めた。残飯を手桶けから大きなバケツに移し変えている様子だった。少年の額はやや汗ばんでいた。
「朝早くから感心やなぁ」
 と、ピーチィは他人事めいて言った。ピンガ少年は振り返り、含羞んだ笑みを少女に返した。
「ありがとう。僕にはこんな事くらいしか出来ないからね」
「ウチなんておとうちゃんの手伝いなんかしたことない。したら怒られるよってね」
 ピーチィは、肩を竦めた。少年は、意外だといわんばかりの顔付きになって、少女の褐色の顔を見詰め返した。
「ふうん。そうなの。お嬢さんなんだね」
「・・・そういうんやないけどね」
 年端も行かない小娘が、盗賊の手伝いなんかしてたら、そらアカンわ、とピーチィは思ったが黙っていた。義賊《ベイビー・フィンガーズ》の現頭領がこの少女だとわかったら、心優しい少年はきっと卒倒するに違いない。
「そう。だのに、何でまた旅なんかしてるの?」
 ピンガは無邪気に訊ねた。
「いろいろあってな。一言ではよう言わん」
 ピーチィは、自分の胸の上の桃色珊瑚のペンダント・ヘッドを弄った。ピンガは目を伏せた。
「聞かないほうが良かった?ごめん」
 そうなのだ。自分のと同年代の少女が、幾ら腕っこきのパウダーガン使い達とはいえ、赤の他人である正体不明の男達と旅に共寝をしているのだ。深い事情があることは、間違い無い。
 だが、詮索は良くない、と少年は自分に言い聞かせた。
「別にええよ。それより・・・」
 ピーチィは逡巡した。何だか少年の無邪気さに中てられて、調子が狂う。
「相当気になってんやけど。人魚のこと」
「だから、キミも信用してないんだろ?」
 ピンガは完全に作業の手を止め、唇を尖らせた。
 普段は心根の大人しい内向的な少年も、ことこれに至っては、一歩も譲る気にはなれなかった。まったく大人達は人魚の存在そのものに神秘を感じたりするでもなく、まして畏敬の念を抱くでもなく、只己の欲の為にしか動こうとしない。
 《不老不死》《永遠の若さ》。自己が、その人類の永遠の夢を入手しようというばかりか、それを利用して金儲けまでしようと企むのだ。村長も兎も角、皆が皆欲に溺れた怪物だ。アラックは別として。
「見せられるもんなら、見せてあげたいよ・・・」
 ピンガは我知らず、呟いた。
 ピーチィは、にっ、と白い歯を少年に見せた。むんず、と少年の腕を掴んで言う。
「ほなら、見に行こうやないの」
「え?で、ででも・・・あれは」
「ウチが純粋でないから見えへんとでも?」
 ピーチィは少年の狼狽した顔を睨み付けた。ピンガは大きく首を横にぶんぶんと振って、否定した。
「決まりや」
 ピンガは否応無く、ピーチィに引き摺られて行った。店の片付けが、と思ったが既に勝手口は遠ざかっていた。

 テワナ・デメララ村長は、物音で目覚めた。普段、村がこんな朝早くに大きな物音で賑わっていることなどない。まして、この屋敷は河口からかなり北にあるのだ。
 さすがに、この数日間寝たきりだった村長も、跳ね起きて窓辺に走り寄った。夜明け前の薄明るい空には、水鳥の姿もない。海は、水平線は凪いでいた。
「何だ。何にもないではないかのう・・・」
 ドンドンドン。
 激しいノックの音で、村長は何者かの指で弾かれたかのように慌ててベッドに小走りに駆け寄る。仮面をつけると、ドアに近付いた。
「な、なんじゃ。こんな朝はようから!」
 村長は不機嫌な声を発して、ドアを開いた。目の吊り上がった少女が、隙間から入り込んで来た。ドアを叩く音だけはこの世の終わりでも告げに来たような雰囲気だったが、さほど動揺した様子も無い。
「何やら不審な人物が門前に来ておりますもので」
 娘は、相変わらず冷たいハキハキした口調で答えた。村長は、ざんばらに乱れた長い髪を三つ編みに直しながら、廊下を進んだ。
「不審人物のう?門前から入る不審人物などおるのか?」
 村長は素朴な疑問を口にした。
「いえ。何度訊ねても名を名乗らないもので。いま、ルシアンが足止めしておりますわ」
「ふむう」
 門扉の内側で、揉め事は起きているようだった。村長は、仮面が外れないように何度も耳に掛けた紐をきつく直しつつ、人だかりに近付いた。無論、その前をお付きの少女が歩く。
 岩のようにがっしりとしたルシアンの背中越しに、訪問者の姿が見えた。背の高い女だ。
 まず、はちきれそうに誇らしい胸元に、視線が吸い寄せられる。黒いぴちぴちした光沢のあるローハイドに包まれた太腿は、長くて形良い。
 デメララ村長は、既にそれだけで腹を決めてしまった。
「ううむ。あのチチ、あのフトモモ。あんなにあんなに脱いでもスゴそうな女は、断じて許せん!断じて」
 おまけに振り向いた顔の凛々しい美貌ときたら、同性になんか好かれなくても結構よ、といわんばかりの見事な出来栄えではないか。
「村長直々のお出ましだ」
 と、少女は冷たく言った。ルシアンが一歩下がる。
 奇怪な仮面の村長を見て、女は一瞬首を傾げたものの、さすがに驚きはしなかった。
「何者じゃ?こんな朝から」
「ミスティ・サファイア。通りすがりのパウダーガン使いよ」
 と、女はあっさり名乗った。一同は、あんぐりと口を開いた。ミスティは、飄々とした口調で続ける。
「御宅に食客がいるそうね。ジプシー・クイーンとやら・・・そのクソ女に目通り出来ませんこと?」
 村長は、仮面の下で渋面を作った。
 何たる態度のでかさだ。図体もでかいが、口調も上から物を言うみたいな居丈高な雰囲気。美貌さえ、凶暴に見える。見るからに肉食獣。村長は、自分の性格をすっかり棚に押し上げてカギを掛けてしまった、とでも言わんばかりに目の前の美女に敵意を剥き出しにする。
「それは罷りならんのう」
 村長はきっぱりと言った。ミスティは、薄い笑いを浮かべていた。身長差は一フィート以上あろう。文字通り見下ろす格好だ。
「・・・それは、彼女がUPの関係者だから?」
「何の事かのう?」
 デメララ村長は、首を傾げた。ルシアン達は固唾を飲んで見守っているだけだ。
「ここはヴァティカンの準統括地ではなかったの?何でUPの手先なんかがこの屋敷にいるのかしらね」
 ミスティは、極めて穏やかな言葉を選んで言った。だが、毒は大量に含んでいる。
 村長は、だが返す刀で反撃を試みた。
「そういうおぬしこそ、何者だ?いやにここらの事情に精通しておるようだが・・・」
「言ったでしょ」
 ジャカッツ。
「ひいいいいい!!」
 村長の仮面の額に容赦無く押し付けられたのは、《パイソン・シスタームーン》の銃口だった。
「私は通りすがりのパウダーガン使いだって」
 ルシアンと吊り目の少女は身構えた。両人共、素手だった。だが、相当に鍛え上げられた武芸者であることは、隙の無い構えから伺えた。ミスティ・サファイアとて、その道のド素人という訳ではないのだ。
 達人ともなれば、相手が帯剣していようが銃で武装していようが、素手の一撃でジ・エンドにしてしまう事だって可能。
 音も無く、吊り目の少女は跳躍し、ミスティの左腕に蹴りを入れた。少女の身軽な体が空中で半回転し、ミスティの手首を垂直に打撃する筈だった。だが、手ごたえは鋼鉄の硬い感触だった。
 《パイソン》の銃身を楯にしたミスティは、少女の第二撃を交わすべく、身を沈めた。払った右脚の爪先が、ルシアンの硬い腕に塞がれ、跳ね返った。
 防壁と攻撃。役目は分担されているようだ。だが、ミスティにとっては然程分が悪い訳ではなさそうだ。
 少女の反撃が、ミスティの頭上を掠める。遠慮会釈も無い一撃に、間一髪で難を逃れたミスティは、門扉に背をぶつけた。
「村長」
 と、吊り目の少女は、ますます吊り上がった目の端を震わせて言った。
「少々手荒ではありますが、これから破壊するもの総て、好んで行うわけではありませんので、悪しからず」
 娘の唇には、狂気じみた喜悦が浮かんでいた。本質的に、この娘も血を見るのが好きなのだ。村長は鹿爪らしく、うむ、と一言唸ったきりだった。
 それがゴングのようなものだ。
「はっ」
 少女は水を得た魚のごとく、軽快に舞った。危険極まりない舞踏。カーリー神のごとく憤怒の形相と化した少女は、二連の突きをミスティの脇めがけて繰り出す。左を交わし、右を掌底で受け流したものの、ミスティは僅かに態勢を崩してしまった。
 少女の大きく引いた右脚が地面を蹴った時、ミスティの身体は背中から倒れた。
 いきなり、ががっと門扉が開いたのだ。
 肩透かしを喰らった少女は、思わず拳を握り締めたまま地面に這い蹲った。
「神に誓いし、我等の永遠の愛を――アーメン」
 現れたのは、祭儀用の白い長衣にピレタ(角帽)姿の神父だった。左手に分厚い古びた聖書、右手は腰の後に回して、高らかに喋っている。地声が大きいらしい。村長は、その声のでかさに腰を抜かし掛けた。
「なななな、なんじゃい貴様は!?」
「あれれ?・・・ここではなかったのでしょうか?結婚式を急遽行うというので、教会の無いここらに巡回神父の私が、馳せ参じたのですがぁ」
 神父は村長を見下ろしながら、依然としてでかい声で続けた。
「痴れ者!神父なんぞ頼んでおらんわい!一体、どこに新郎新婦がおるというのだえ!?」
 デメララ村長は、起き上がりながら罵倒した。神父は、聖書でぱたぱたと自分の首筋を仰ぎながら、へらへらと笑った。無精髭が小汗に光っている。
「どこって?おや。ここにおられるじゃあありませんか!」
 神父は、漸く立ち上がった吊り目の少女とルシアンの腕を掴んだ。ぎょ、っとして視線を交わす二人。
「さあさ、早く着替えて下さい。いえ、ま。着替えなくてもいいか。早く誓いの儀式を行いましょう!」
「なななな、何をするか」
 少女は叫んだ。だが、ルシアンも少女も、神父の腕から逃れられなかった。問答無用でルシアンの右腕と少女の左腕を交差させ、その間を神父の筋肉質な腕が絡めとっていた。微塵でも体を捻ったら、骨折は免れない。
「村長ぉおお!」
「がはははははは。恥ずかしがらないで。さあ、愛の口付けをするのです!」
 イカれた神父は、神業のような力と強引さでルシアン達を屋敷の外へと連れ去ってしまった。
「ううーん」
 殆ど悪夢としか思えない展開に、村長はまたしても眩暈を覚えた。だが、今度は介抱してくれる人間さえもいなかった。

 危うい所で難を逃れたミスティ・サファイアは、村長宅の裏庭に続く壁際で、胸を撫で下ろしていた。
 ホルスターに仕舞う前に、もう一度ミスティは、《パイソン・シスタームーン》を見詰めた。
 如何にも怪しい神父が、ルシアン達を引き摺っての去り際に残した言葉。
「上司の姪御ドノを放って置く訳にはいかんのでな。余計なお世話だろうが、助っ人に入ってしまった。それに、同じパウダーガンの片割れを持つ身としては・・・」
 神父はそれだけ言って、肝心の事を言わずに行ってしまった。せめて、名を名乗れ。
 だが、彼が明らかに異端審問官ジョー・クリサンスマムであることは、一面識もないミスティにも判った。ジョーの人と為りは、さんざんチンザーノ異端審問官から聞かされていたからだ。
「あれが、同じ銃を持つ男、ねぇ」
 ミスティは頭痛を堪えるように、苦笑した。憎めない性格だが、仕事のパートナーにはしたくないタイプだ。
 同じ銘柄のパウダーガンだからといって、師匠が同じとは限らない。むしろ好敵手である場合が多い。それは、同じ銃で技量を競うからだ。果たして《ブラザーサン》の元の持ち主は、誰だったか。少なくとも先の《シスタームーン》の持ち主、キャプテン・ブラッドでないことだけは確かだ。
「・・・・・・」
 ミスティは、仕舞い掛けた《パイソン・シスタームーン》を再び握り直した。
 左肘を急角度に曲げ、振り上げ様にトリガーに指を当てる。
「お見事だね。いつもながら」
 背後から答えたのは、甘い囁き。途端に前を向いたままのミスティの表情が、険しく曇った。
「それ以上近付くと、オシャベリを一生止めて貰うわよ」
 《パイソン》の銃口は、確かにアーチレリー・ブールヴァルドの喉元を狙っていた。後ろ向きでこの正確さ。
 アーチは黙って、肩を竦めた。気配が動く。
「・・・しかし、ジョーのヤツ。何しに来たんだろう?」
「聞きたいのは私の方だわ。とっくに帰還命令は出ているっていうのに、何をしているのやら、あの男」
 ミスティは、飽く迄冷たく言い放った。歳はジョーが一回り以上うえだというのに、身分の違いがあからさまに言葉尻に表現される。
「ジプシー・クイーンは何処?」
 絶対凍度に限りなく近い声音だった。その抑揚の不自然さが、両者に何があったか雄弁に物語っていた。ここまで感情が失われていると、却って痛快な潔さを感じるではないか。
「知らないな。多分、邸の中にはいないだろうが」
 曖昧な返事をするアーチに、ミスティはこれ見よがしにトリガーに力を込めて見せる。
「オレは監視付きの身分だからな。何も知らないって、マジに!」
「いないのなら、帰るわ。馬鹿馬鹿しい」
「残念だ」
 と、アーチはかなり大袈裟な嘆息を漏らした。優雅な仕草で、自分の胸に手を当てる。
「キミが正面切って現れた時は、胸が高鳴ったよ。感動の大海に投げ出された気分だった。無茶苦茶な女だな、そこまでしてオレに会いたかったのかな、とね」
「言いたいことはそれだけ?」
「これ以上もっと、オレの口から熱い言葉を搾り取ってしまいたいのかい?搾り取るなら、別の物にしてくれないか。・・・しかし、いい加減そのじゃじゃ馬っぷりで、キミ自身が破滅しないかと思って、オレは気が気じゃないな」
「は?」
 台詞後半の意外さに、ミスティの左手人差指が緩んだ。
「おじさまに大目玉食らってからでは遅いんだ。だから、あんまりオレを困らせないでくれよ」
 さらに意外な言葉が重なった。嘔気を催すほどに甘ったるい口説き文句とは、やや趣が異なっていた。
 弄うようなじれったい口調に、たじろいでしまったミスティは、危うく《パイソン》を取り落とすところだった。
 その左手首を素早く掴んだアーチは、過たずにミスティのホルスターに《パイソン》を直してやった。
 ホルスターから離れかけたアーチの左手を掴んだのは、ミスティの右手だった。ミスティは、訝る横顔だけを肩越しにアーチに向けた。
「・・・どういうつもりなの?アナタ。何が困るっていうのよ。この間の、アレは本当なの?」
「アレ?ああ。アレね。本当さ」
 アーチは押さえつけられた左手を、もどかしくずらそうとした。だが、ミスティは許さなかった。
 奇妙だ。こんなに与し易い態勢にも拘らず、この男が及び腰になっているなんて。
「だとしたら、一体何処でそんな情報を入手したというの?アナタは一介の科学者。諜報員でも異端審問官でもなければ、枢機卿でもないのに」
「そういうややこしい話は、ここでは止そうじゃないか」
「逃げないでよ」
 ミスティは、右手に力を込めた。だが、相手の怪力のことなどすっかり念頭から転げ落ちていた。あっさりと引き剥がされてしまった右手は、寄る辺無く空を握っただけだった。
「やっぱり出任せなのね?信じた私がバカだったわ」
 ミスティは、深い後悔の溜息を吐いた。
「信じようが信じまいが、それはキミの問題だ。只、キミは意外に信じやすい性格だな。それが特務巡検使として欠点になるのか、長所になるのかは判らないが」
「・・・大きなお世話よ」
 汚い物でも吐き捨てるように、ミスティは言った。
 振り返ると、アーチは、既に数歩後退していた。ミスティは、重々しく唇を開いた。
「私は幼い頃から、伯父貴を護る仕事に就くように教育を受けてきたのよ。伯父貴は、私の父代わりだったから」
 青い瞳には、微かに、強い感情らしきものが揺れていた。
 愛するおじさまが生命の危険に晒されていたのを、この気丈な女巡検使は心底気遣っていたようだ。口では、伯父を口うるさく思っているような素振りではあるが。
 アーチは思いがけず、喉が硬く塞がる心地を、たっぷりと味わう羽目になった。声を出そうにも、石が詰まったように重く、何も通らないのだ。胃の腑には鉛を流し込まれたような気分になった。
 こういう状況に陥ったのは、今まで片手で数える程もなかった。いや、愁嘆場などではない。過去にも今後も、そんなヘマをやるような男では無かった。第一、そんな感情にはなりはしない。
 だが、見た目は極めて冷然としていた。
「アナタとは、アナタの祖父であるガブリエル・ブールヴァルド博士からの付き合いだと聞いているわ」
「オレはそれ程深い付き合いでもでも、ないんだがな」
 漸く、アーチはそれだけ答えた。
「そんなによく御存知なら、アナタが伯父貴を護ってあげるといいわ」
「・・・そういう訳にはいかない」
 アーチは硬くなった姿勢のままで言った。
「オレはキミの言うよう、一介の科学者であって、政事にも教義にも無関係の男だからな」
 バシン。
 鋭い音がして、アーチの右頬は無理矢理そっぽを向かされてしまっていた。
 頬桁に飛んだ一撃は、皮膚を裂いていた。一瞬の間を置いて、血が流れ出す。だが、胸に痞えた重苦しい瀝青のような物が、すとんと落ちたような心地がした。
 ミスティは、無言でアーチの脇を通り過ぎようとした。
「サフィール卿を護ることが出来るのは、オレじゃない」
「・・・・・・」
「おじさまにはキミが必要なんだ」
 アーチは、頬を伝う血を拭いもせずに、静かに言った。ミスティは、振り返りもしなけけば、捨て台詞の一言も無かった。完璧に怒り狂っていたからだろう。
 ぱっくりと裂けた頬の傷が熱い。
「はは。本気で殴りやがった」
 この男は、それでも反省というものを知らなかった。

 沖に浮かんだボートには、小さな影が二つ浮かんでいた。
 太陽はすっかり昇ってしまった。午前8時頃だろう。しかも、こんなに河口から離れてしまっては、不安だ。今まで、ピンガは一人でこんな所まで来たことが無い。
 本来なら、漁師の修行として同世代の子供たちは遠洋に出てしまっている。だが、店の手伝いもあって、ピンガは沖へ滅多に出ない。
「・・・なあ」
 ピーチィが呟いた。
「やっぱり・・・」
「ああん。それ以上言わないでよ」
 ピンガは船べりに背中を凭せ掛けて、頭を抱えた。いちばん怖いのは、少女が次に必ず紡ぎ出す言葉。
「人魚なんておらんのとちゃうの?」
「そ、そりゃあ昨日の今日で人魚だって姿を現すかどうかわかりっこないよ!」
 ピンガは突然立ち上がった。舟が揺れる。
「おもろないなぁ」
 ピーチィは、少年に向かって言った。ピンガはどきり、とした。自分自身が面白くないのだと言われているみたいだ。
「もう暫く待ってみようよ。それでダメなら、帰ろう」
「そうするわ」
 少女は素直に頷いた。小腹も空いてきたところだった。そして、二人はぼんやりと空を眺めつつ、ボートの縁に頭を擡げていた。
 ぱしゃん。軽い水音に振り返ったのは、ピーチィの方だった。波が大きく揺れていた。
 海の色は、朝焼けの茜色から、既に快晴を映し出す深い青に彩られていた。ボートの影は、南側には落ちていない筈の時刻だ。だが、その影は黒々と、ボートの南に移っていた。
「み、見てや!」
 ピンガは、影を覗き込んだ。確かに、ボートの下に何かいるのだ。影は、かなり深いところにあって、ゆらゆらと揺れていた。
「まさか、に・・・」
「人魚!」
 ピンガは叫んだ。慌てて船底の投網を引っ掴む。とても貧弱そうな少年の腕では扱えそうも無い、大きな網だった。
「そんなモンで捕まえよう思うてんの?」
 ピーチィは少年を睨んだ。
「アンタの力じゃ無理。引っ掛かったとしてもやね、どうやって河口まで引っ張っていくのん?」
「う」
 少年は、言葉に詰まった。そうして、次は網を打っ棄ってしまうと銛を掴んだ。
「これには麻酔薬が塗ってある。これで眠らせるんだ」
「アカンて。誰が運ぶんや?」
「う」
 少年は銛を手離した。
「僕は別に、人魚を捕まえようなんて考えてなかったんだよ。キミが見たいって言うから。生け捕りなんて反対だ!」
「アンタが先に網を掴んだんやで」
 いろいろと悶着しているうちに、黒い影は段々と浮上してきた。ボートは揺れが激しくなった。
 ピンガは、急いでオールを取り、ボートの向きを展開させようと漕いだ。ボートはやがて、もと来た方向へと転換した。
「逃げるん?」
「ぶつかるからだよ!前もぶつけられたから!」
 少年は鬼気迫る表情に一変して、必死にオールを漕いだ。ピーチィは、両腕をボートの端に垂らして、水を掻いている。
「そんなの無駄だよ」
「何にもせえへんよりマシやろ」
 河口は遠い。いやに遠く感じる。黒い影は、はっきりとその形が判るほどに浮上してきた。一目は海豚のようだ。尾鰭は二つに分かれていろ。だが、その動きは流線型をした魚類に特徴的な、鰭の運動に限らなかった。まるで、海蛇かウツボのように体全体をうねらせて進んでいる。
「なんか、なんかおとろしいんやけど・・・」
「何言ってんだよ。河口に誘い出そう」
 そういう少年の言葉の語尾も震えていた。得体の知れない恐怖が、二人を包みはじめている。
 人食い鮫でもない、シャチでもない。鯨でもない。何だか不気味な生き物が、ボートの下を泳いでいるという、恐怖感が。

 宿にどかどかと上がり込んで来たのは、他でもない、アラック青年だ。ジンは慌てて朝食のパニーニを口に突っ込み、カッフェ・エ・ラ・テで胃の中へ流し込んだ。
 アラックは、朝だというのに顔を真っ赤にして息せき切っていた。宿屋の女将がびっくりするくらい。
 食卓に両手をついて、肩で大きく息をするアラックに、ジンは言った。
「まあまあ。落ち着いて、そこに座れって。一緒にメシでも喰うか?」
「そりゃ構わないわよ」
 と、女将が答える。
「どうせ元々三人分用意してたんだから」
「今日はそれが、余っちまってな」
 ジンは硬く茹でた卵の殻を割る。アラックは、首を横に振った。
「・・・余るのは当然だ。あんたんとこの嬢ちゃんはどうした?」
「どうしたって。朝起きたらいなかったぜ。散歩にでも行ったか、と思って」
「暢気な男だよな、あんたも」
 アラックは溜息を吐いた。
 半時間ほど前、自宅から《溜まり場》へ仕込みに出かけたアラックは、勝手口が開きっぱなしになっているのに気付いた。いつもなら、夜明け前にピンガが降りてきて、遠洋に出かけた家人の代わりに片付け物をする。
「残飯のバケツが放り出されたままだった。普段は残飯を豚舎のオヤジが回収しに来るのに、今朝は出されてなくてそのまんまだ」
「どっか急用が出来て出掛けたんだろう」
 と、ジンはケチャップをパニーニにぐにぐにと塗りつけて言った。アラックは、忌々しげに食卓を叩いた。
「あの子は、何も言わずに出掛けたりなんかしない!」
「じゃ、攫われたとか。泥棒を追い掛けてったとか・・・」
「あんた、心当たりはないか?」
 アラックは、ジンの顔を睨んだ。起きたら、必ずサングラスをしているので、ジンの目付きまでは、よく読み取れない。
「ないね」
 と、ジンは即答した。
「むしろ、村長宅にでも行ったほうがいいんでないの?あの村長、悪知恵は働きそうに見えたしな」
「・・・・・・」
 アラックは、ジンのやる気無さそうな態度が気に入らないので、いい加減見切りを付ける結論に至った。食卓を離れようとした、その時だ。
「ピンガが普段よく行く所って、何処だよ?」
 ジンは口元をナプキンで拭き拭き、訊いた。アラックは、鋭い視線を返した。
「・・・そうだな。港。河口だ。あの子はボートが上手いから、よく早朝や夕刻に海を見に行ってるようだ」
「ほう」
 ジンは、止めとばかりにボウル一杯のカッフェ・エ・ラ・テを飲み干すと、ぷっはあと息を吐いた。
「ひょっとすると、ひょっとするかも知れんな」
 椅子の背凭れに掛けてあったテンガロン・ハットをくるくると指先で回し、ひょいと持ち上げて頭に乗っける。ガンベルトを締め直し、一歩踏み出したところで、ジンは立ち止った。
 アラックは訝しげに振り返る。
「ちょっと待った。朝の儀式が」
 そう言って、ジンは折角締め直したベルトを緩めつつ、トイレットに向かって行った。
 
 海水と淡水の入り混じった水をしこたま飲んで、ピーチィは呼吸困難に陥り掛けた。
「げぼげぼっ。げほ」
 波間に浮きつ沈みつする少女の襟首を掴んだのは、ピンガ少年の細い腕だった。
 ボートは、既に潮に流されている。黒い影に体当たりされてから、ものの一分も経っていない。だのに、体感時間はその数十倍にも感じられた。
「しっかりしろ!」
 少年は片腕で水を掻き分けながら、只管河口を目指した。
「らって、ほらって・・・ウチ泳げへんねんもん・・・」
「お、泳げないのに海に出るなんて。バカバカバカバカ」
 ヤケクソになりながら、少年は進んだ。だが、抵抗力が数倍にもなるので、一人で泳ぐ以上に体力を消耗するのが早い。しかも遅い。
 そうこうしているうちに、数メートルも進まないうちから、黒い影は迫って来た。明らかに凶悪な意志が感じられる接近に、少年はびびりまくりつつも一心不乱で泳いだ。
「ひー!」
 ピーチィが叫んだ。仰向けになって引っ張られている少女の靴に、何かが絡み付いたのだ。それは、ぬるっとして長い髪の毛のようなものだった。
「か、かかか髪の毛ェ?髪の毛が巻き付いた!」
「人魚なら髪の毛だってあるよ」
 そう答えつつ、ピンガ少年はふと困惑した。何故に、聖なるガンガーの守護、神の御使いである筈の人魚から、自分達は逃げなければならないのだろう。
 この間は、河口に着いて気を失ってしまい、しかも初めての遭遇で興奮していたから何が何だか判らなかったが、よくよく思い出して見ると、どうだったか。
「逃げたんだ」
「へ?」
 開かれた人魚の腕から、少年は無我夢中で逃げ出したのだ。
 それは、一瞬錯覚、水の中の屈折でそう見えただけだと勝手に納得していたが、確かにそうだった。
 人魚は笑っていた。形の良い唇を開いて、笑っていた。その歯は何れもがギザギザに尖って、まるで鮫のように鋭く、光っていた。口腔は真っ赤な溶鉱炉のようにぽっかりと開いていた。
 おいでおいでと手招きしたのは、他でもない。
「僕らを食う気なんだ!」
「いやあああ!」
 派手な水音と大声を上げているにもかかわらず、誰一人としてこの緊急事態に気付く者はいなかった。今は、遠洋漁業の季節で、交代で陸にいる男達は村人の半数。総て休暇中なのだ。沖に出ている船も無ければ、港には人っ子一人いない。
 人魚の尾鰭が海面を叩いた。
 その上半身は、人間の女性とまるで同じだ。長い黒髪も、白い肌膚も、黒目がちの瞳も。だが、やはり開いた赤い唇からは、びっしりと並んだ牙が覗いていた。
「ひえええええ!」
藻掻くピーチィを必死で引き摺りながら、ピンガは声も無く泳いだ。

 体の内奥から湧き出してくる痛みに、ミスティ・サファイアは顔を顰めた。吊り目の少女から受けた一撃が、疼く。頭に血が上っていた為に、その時は何でも無かったものの、我に帰るとそれが余計に腹立たしい。
 こめかみが、ずきずきと脈打っている。
 伯父貴の身を案じていたというのは、事実である。だからこそ、《オクトパシー》で渡された自筆の紙切れの内容を真実と思うことにした。
 とはいえ、あの男の態度は何なんだ。身も蓋も無いようなことを淡々と言う。
 やっぱり信じられない。何が?
 信じようとしていたのは、紙切れでなく、ドットーレ・ブールヴァルド自身に対してではなかったか。それで、力任せに平手打ちを喰らわせたのなら辻褄が合うか。
「・・・違うわ」
 自問に答えてみた。
「思わずムキになった自分に腹が立ったから、殴ったのよ」
 殴られた方は迷惑だが、このさい仕方ない。
 だが、数分経ってみると瞋恚よりも寂寞とした心地が、ミスティの胸の裡を占拠しているのが判って来た。
「ああ!ムカツクけど、いつもいつもあのしれっとした顔を見たら、何も言う気がなくなってしまうわ。でも、ああ、やっぱりムカツク!」
 心の内の荒れ模様は兎も角、視線は常に冷静にジプシー・クイーンの姿を探していた。
 だが、そうこうしているうちに水平線が左手に見えてきた。誰一人として、目の端にも引っ掛からない。
「おうーい」
 ミスティは振り返った。二人の男が走って来る。
「何か用かしら?」
「愛想無いなァ。うちの嬢ちゃん知らないか?」
 と訊くジンの前に、アラックが割って入る。
「ピンガって子も!」
「男の子?ああ、店にいた子ね。二人共知らないわよ」
 ミスティは、素っ気無く答えた。
「それよりアナタ達、ジプシー・クイーンを知らない?村長邸にはいなかったんだけど」
 ジンとアラックは、顔を見合わせた。
「さぁな。あんたこそ、一発食らわすとかナントカ言ってたんじゃなかったのか?」
「食らわせてやったわよ。・・・食らわす相手が少々違ったけどね」
 ミスティは唇を歪めて言った。ジンは懐から、マルボロを取り出す。外は既に太陽が南東に昇っていた。
「あっ」
 アラックが素っ頓狂な声を上げた。
「あんだよ」
「あれを見ろ、あれ!!」
 褐色の長い指が指し示したのは、河口の方向だった。ど真ん中で激しく水飛沫が上がっていた。少女を引っ張って遅々と泳ぎ進む少年の影と、それを追う得体の知れない影。
「何だかよく判らんが、ヤバげだな」
 ジンは咥えタバコをだらりと、唇の端にぶら下げて、言った。アラックは、とうに河口に向かって走り出していた。

 少女の喚きは布を裂くような可憐なものではなく、きんきんと反響する声だった。それに加えて波に揉まれると、ピンガ少年はきりきり舞になりながらも、漸く河口の中程に辿り着いた。
 だが、人魚と思しき怪物の脅威から逃れられた訳ではない。
 人魚は蝋色をした肌を滑らせながら、ざんぶと波を掻き分け、少女の脚を捕らえようと挑みかかった。
「ぎゃー」
 およそおしとやかとは言い難い悲鳴と共に、ピーチィ・フィズの体が沈んだ。
「がばごぼげべごぼ・・・」
 同時に少年も引き摺りこまれる。
 その時だ。
「ぐぎゃあええええああ」
 この世のものとは思えない、奇怪な叫び声が、少年と少女の頭上で上がった。
 人魚は身を躍らせて海面を蹴った。河口の突堤に構えた人影を少年の目は捉えた。そして、人魚の身に起こった災難を知った。
「がは・・・ア、アラック」
 ピンガ少年は水を吐きながら、力の限り叫んだ。目を見張った赤銅色の青年の姿は、今し方満身の力を込めて、銛を投擲し終えたばかりの姿勢だった。
 人魚は、肉襞のような赤い背鰭から、赤い血を流し、藻掻き苦しんだ。刺さった銛は、深々と食い込んでいる。
 アラックは、もう片手に握り締めた銛を掲げ、後退した。
 止めを差そうと、跳躍に掛かった時、空気を裂く破裂音と白い光が二度、散った。
 銛を落としたアラックは、右腕に痺れを感じた。
「き、貴様・・・!!」
 青年は、目を剥いた。ジンも同時に振り返った。殆ど、反射的に《ブラックホーク・ディオファイア》のハンマーをコックする。
「ジプシー・クイーン」
 歌う様なハスキー・ヴォイスは、ミスティ・サファイアの物だった。こちらは銃を抜いていない。腹立ちは何処へやら、いやに涼しげな顔で、黒い女豹を見据えていた。
「何をするつもりだ!?」
 吠えるアラックに、ジプシー・クイーンは、微笑んで見せた。右手には、《SIG・P230・アイアンウィドウ》を構えている。
「見ての通りよ。人魚を傷付けないで頂戴。坊や達」
「うわお」
 と、声を洩らしたのはジンである。この間から、オトナの女の発言に遣られっ放しだ。
「あれが人魚だって!?」
 アラックは逆上寸前だ。
「あんなバケモノがか?」
「バケモノに見えるかも知れないけど、人魚なのよ。通称はね」
 ジプシー・クイーンは口笛でも吹くみたいに、軽快に言った。海上を漂いながら、人魚は長い尾鰭をくねらせ、次第に遠ざかりつつある。
「ピンガ達を襲おうとした。ヤツの何処が人魚なんだってんだ。あんなモノは偽物だ、ちくしょう!」
 アラックは歯軋りした。唇に血が薄く滲み出している。銛を拾い直すことは不可能だった。ジプシー・クイーンの《SIG・P230》は、依然としてアラックの右腕を狙っていたからだ。
 やがて、人魚の姿は見えなくなり、ピンガもピーチィも浅瀬に辿り着いた。波は輝きを増して来た。海面は穏やかさを取り戻しつつあった。
 沈黙の中、アラックは怒りを投げ捨てて、少年と少女の体を突堤に引き摺り上げた。
 ジンは、ジプシー・クイーンの後姿が遠ざかるのを横目に見ながら、ピーチィのぐったりした背中を擦った。
「一発かましてやらなくて良かったのか?」
 ジンは、さっきから一言も発言をしないミスティを見上げた。
「・・・気が変わったわ」
 女巡検使の情熱的な瞳に、不敵な光が点っていた。


第四章に続く

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