
第十二話
〜ドラッグ・パラドキシア di narcotrafficante〜
(前編)
ひたすら荒野を行く二人の男がいる。
一人は己の生きる場所を求め、一人は己の死に場所を求めて。
第一章 サンチャゴ・エル・ブランコ SANTIAGO EL BLANCO
白い聖人ヤコブの町。サンチャゴ・エル・ブランコ。いったいいつ誰がそう呼び始めたのか。ここはもともとヒンズークシュ山脈の北西、サマルカンドへ続く街道沿いの町。
古くはクーイスタンと呼ばれた地。
緑化政策も空しく立ち枯れた樹木が、黄色い街道をわずかに彩る。これも《砂漠の黒嵐(ディアボロ・デル・デゼルト)》の爪痕か。
お定まりに壊れた掘っ立て小屋が風に吹かれて、カタカタと乾いた音を立てていた。風は徐々に強まっていく。
ジン・スティンガーは街道の真ん中に立っていた。
この路はかつてアレクサンドロス大王が通り、チンギス・ハーンが歩んだ路。歴史の一齣に今、彼が刻み込まれるがどうかの瀬戸際だった。
チンチン、チリン。
規則的な音を立ててエンプティ・カートリッジ(空薬莢)が零れる。
スタンスは軽く肩幅に開いたまま、ジンは腰を固定して上半身だけを左右に動かした。右手に握った44口径リヴォルヴァー《ブラック・ホーク・ディオファイア》に、325GR・ジャケット・ホロー・ポイントの処女弾を詰め込む。
その間約十秒弱。大あくびしてみれば、いつの間にやら再装填された銃口が、目の前にあるという具合だ。
両目で見つめるフロント・サイトの向こうには、曇った空と果てしない真っ直ぐな道。トリガーから離れた右手中指が、かすかに震えた。
《ブラックホーク》の銃身が、一旦下がった。
「ちくしょう、見えやしねえ」
サングラスを頭頂近くまで押し上げてみたが、依然として視界は悪い。
砂煙の中を、ふと一瞬黒い影が掠める。
トリガー・プルの後で光が追った。
銃声は風のまにまに吸い込まれていく。まったく、これでは通り掛かりの人間が流れ弾を食らう可能性も無きにしもあらずだ。人がいればの話だが。
ジンは、発砲後、弾かれたように小屋の方向へ向かって飛んだ。
反撃は予測どおりにやってきた。だが、その後の気配はまったく感じられない。
どうした事だ。
相手も、この状況では自分と同じ、見えない筈だ。
ジンは小屋の、接がれ掛けたトタンに背を付けた。サングラスを掛け直し、熱い銃身に触れる。
相手の銃声は聞こえない。サイレンサー付きのようだ。こんな砂嵐でも、どちらかというと派手な銃声を放つリヴォルヴァーは不利かも知れない。
チッチッ。チッチッ。
かすかに聞こえる音と同時に、ジンはダッシュを掛けた。
トタン板に穴が開く。
ほんの一瞬でも躊躇いを見せていたならば、ジンの脇腹は穴ぼこだらけになっていたことだろう。走りながら、撃つ。
手ごたえは、あった。
「ぎゃ」
蛙を踏み潰したみたいな声が、響いた。ジンは声の方向にすぐさま駆け寄る。
「どうよ?」
ジンは、仰向けに倒れた男の目出し帽を、まだ熱い銃口で押し上げた。男は小柄で若く、肌は浅黒い。バンダナで括った黒い髪は、直毛で長い。如何にも、この土地の者のように見えたが、しかし顔付きは違った。トルコ系ではなく、東アジア系の人種だった。瞬間的に、ジンは目を見張った。
日本人かも知れないと思ったからだ。だが、直感がそれを否定した。
漢民族系だろう。純潔日本人であるジンには、すぐに違いが知れる。
「近距離のマグナム弾は効いたか?」
「うう・・・」
男は華奢ともいえる上半身を動かした。被弾は、左の脇腹のようだ。
「名前くらい言えるだろう?」
ジンは男の体を挟んで立った。右手は無論《ブラックホーク》を構えたままだ。男は、息を弾ませながら目出し帽を取った。
「ソーシー・スー」
名を名乗った男は、ふふんと笑った。
「《銃星》ソーシー・スーを知らないとは、お前はモグリか?」
「いや。こんなトロくせえヤツだとは、知らなかったがな」
ジンは白い歯を剥き出した。ソーシー・スーの吊り目に怒りの炎が点る。同時に左手が上がった。
ジャカッ。
「う・・・」
ジンの下顎に、自動小銃の小さな銃口が当てられた。仕込み銃というヤツだ。左手は義手か。と半ば感心した時には、既に遅い。
「生憎だったな」
ソーシー・スーは、ついでにコートを捲くって見せた。腹周りには、スティール製の重々しいベルトが巻かれていた。無論、マグナム弾は掠っていたが、ベルトに傷が付いただけの事だ。
反則ワザじゃねえか、とジンは歯軋りした。何処のどいつが普段からこんなベルトをしているっていうんだ。
「ふふん。かっちょいいオモチャじゃねえか?そいつをぶっ放すつもりか?」
ジンは額に滲む冷や汗を感じていた。ソーシー・スーはジンの顔をゆっくりと見上げた。
「お前の44口径と、この仕込み銃のどっちが速いかな?」
「御免蒙るぜ。こんなところでお互いのたれ死んだって、誰も葬ってくれねえや。ハゲタカに食われるのがオチってもんだ」
そう言うや否や、ジンは右足で地面を蹴った。砂が舞い上がり、ソーシー・スーはまともに黄色い埃を顔面に被った。
「うわっぷ」
ジンは、一目散に駆け出した。
売られた喧嘩は買うのが当然、とはいえいつまでもこんなところで油を売っている訳にはいかなかった。砂が吹きすさぶ中を、必至で西へ走る。
「悪いがソーシー・スー。オレには捜し物があるんでな」
一刻も早くサンチャゴ・エル・ブランコの町へ。ジンはバイクを置いてある方向へ走った。相方達には置いてきぼりをくらったのも兎も角、どうしても確かめねばならない事がある。その為には、ケツを捲くっても仕方なかったのだ。
荒地の中に一輪咲いた白い薔薇。そう喩えられるサンチャゴ・エル・ブランコ。
白壁の町。縦横、数十条にわたる碁盤の目のような道路は、この町が新都である証拠だ。少なくとも、二十二世紀の都市計画でもって整備された事は確かである。数世紀前には、名も無い一農村に過ぎなかった。
何故、ヴァティカンはこのような土地で大規模な都市整備を行ったのだろう。
答えは簡単な事だ。
軍事的な意義なくしては、もはやディアスポラと呼ばれる荒地の中で、大都市としては発展しない。ヨーロッパにおける各都市が、既にそうであるように、内陸アジアもその拠点を少なからず抱いていた。
果たして、サンチャゴ・エル・ブランコには一見そのような物騒な設備は見えない。表向きは。
町は折りしもカーニヴァルの時期だった。イスパニア系移民の町でもあるサンチャゴ・エル・ブランコの町は、敬虔なクリスチャンの町でもある。カーニヴァルには、近隣の町村からも人が集まり、人口は平時の倍以上にも膨れ上がり、町全体に活気が漲る。
「やあ、ドットーレじゃないか!?」
メルカート(市場)のテント中から声が掛かる。
アーチレリー・ブールヴァルドは振り向いた。黒いシルクシャツに深紅のネクタイ。ジャガード織りの柄物だ。白衣の裾がはためいた。
「エミリオか!何年ぶりかな」
「すぐに判ったよ。頭一つ飛び出てるんでね。その金髪も」
エミリオは、はしゃいでアーチの手を取った。こんな自分でも、再会を喜んでくれる人がいると、嬉しいものだ。アーチは、無意識に頬が緩んだ。と同時に、あまり面白くも無い記憶が蘇る。
兎にも角にも、軍隊時代の知り合いばかりだ。
エミリオ・ボルへケスは、確か、黒十字軍に配属されていた騎兵隊の一員だった。先のナヒチェバン戦役よりも前に、トルクメニスタンでの内紛鎮圧に参加していた。兵長エミリオは、負傷した師団長に代わって指揮を執っていた。その時に医師団の一人として付き添っていたのが、当時十九歳のアーチだ。年は十ほどアーチの方が下だが、エミリオは何の抵抗も感じず、他の医師達と同じように「ドットーレ」と敬称で呼んでくれたものだ。
大抵は「新入り」だの「ビオンディ(金髪ちゃん)」だのという、からかい半分でしか、若い臨床経験の無いアーチを呼ばない人間が多かったが。
つんつん、とアーチの背中を突付いたのはピーチィ・フィズだった。
「おう」
「あれ?こりゃまた若い愛人だな」
と、エミリオがピーチィの顔をしげしげと見る。
「あ、愛人だなんていややわぁ、おっちゃん」
ピーチィはくねくねと細っこい体をよじった。
「そういうんじゃなくてな。ちょっち訳ありで・・・」
アーチは額に手を当てた。
「成る程。好みの少女を自分の思うままに育てる、という手もあるか」
真顔でエミリオは言う。ピーチィは、まだ顔を赤くしてくねくねやっている。
「きゃー。おっちゃんたら、いやん。もうウチかなわんわぁ」
「あほくさ」
アーチは話題を変えようとさりげなく視線を逸らす。エミリオは、右手に大輪の薔薇の花束を抱えていた。
淡い紫色をした小ぶりの花首が、覗いた。
「花屋を?」
「ああ。除隊する前からの夢でね。オフクロを連れて故郷からここに移ったのが、五年前だな・・・」
エミリオの人懐っこい表情に、郷愁が浮かんでいるのを、アーチは見た。エミリオは、白衣の男の怜悧でいて明るい美貌を見詰める。
「あんたはまだまだ若いねえ。オレなんかもう来年で三十六だ」
「こんな事を言っちゃ何だが、体はもっと年を取っているのかも知れない。職業軍人は長生きしないというが、あんたは幸いあっさり捨てる事が出来た。無理しないのがいちばんだな」
「カミサンでも貰うのがいいかなぁ」
「大概選り好みは止した方がいいぜ。あんた昔っからそうだ」
「ちぇ。ドットーレのような男前でも、そういうことを言うか?」
「一般的な意見さ・・・」
そう言ったアーチの脇に、何かがぶつかった。
市場のレンガ路に、一人の若い娘が倒れた。
「アテンシオン・セニョリータ(気を付けて、お嬢さん)」
アーチは、娘の体を抱え起こした。エミリオとピーチィが覗き込む。人だかりが出来始めた。
娘は黒いオーガンジーのドレスを、身に纏っていた。それは、砂と汗で湿っていた。白い肌に貼り付いている。裸足だ。そして、甘いオピウムのような香りが漂った。それ以外にも、何やら混じっているかもしれない甘酸っぱい体臭。直感的に、芳しくない出来事を思わせる匂い。
「どうした?」
アーチが娘の長い栗色の髪を頬から払うと、白蝋の頬が溶けそうな程に紅潮していた。身体は熱い。
娘は半開きになった目を、漸くアーチの方へ向けた。だが、力は抜け切っているようだった。造形は美しいが、死に見舞われたような趣があった。放って置いても女性に当たるというのは、悪くない。だが、これはちと事情ありげだ。
「あ!」
エミリオが声を上げた。
「この娘・・・イサベラお嬢さん!」
カッフェ・テリアに腰を下ろした美女に、皆の視線は集中していた。
上品な深い緑のドレスは、孔雀色と言っていいだろう。一般人にはちょいとした身上をはたかないと、買えないような高級品だ。胸ぐりも深く、やや日焼けした小麦色の肌を惜しげもなく露出しており、マキシタイプの裾は大きく太腿が見えるくらいに大胆に開いていた。
そこで脚を組んだりしないところが、女の育ちのよさを表している。
そして、濃い紫色のピンヒール。普通は白だろうが、こんなところに個性をぶつけ合うような配色を出来る豪胆さが、美女の美女たる所以だ。だが決して下品には見えない。
無造作に流れるブルネットは、くっきり浮かび上がった鎖骨の上で、あるものは優雅に渦巻いており、あるものは胸の谷間に落ちていた。さらにその下、鳩尾の辺りに揺れるロザリオ。
濃い眉毛と意志の強さを秘めた深青の瞳は美少年のようでいて、小造りな形の良い鼻は典雅な線を描いていた。中でも唇は、触れると遅効性の甘美な毒でも吐きそうな妖しい雰囲気を醸し出していた。
少し勇気のある者ならば、一言なりと美女に声を掛けたかも知れない。だが、冷たい鉄槌で頭でも殴られるような言葉が返ってくることもあろう。いや、視線すら向けてはくれないかも知れない。美女を見る男達は、めいめいが同じようにそう思っていた。
だが、与し易い女よりも近寄り難い女に惹かれてしまうというのは、世の男の常か。
「お嬢さん。ご一緒していいですか?」
許可を得る前から、男はどかっと美女のテーブルに相席した。
美女は眺めていた、飽くまで紙面を眺めていただけの《世界新聞》から目を離した。僅かに顔を上げ、男を見る。一見遊び人風の、ガタイが大きな男だ。青い瞳が男を射るようにほんの一瞬だけ、時間を止めた。
そして、再び優雅にカッフェ・マッキアートの入ったカップに指を這わせた。
「お嬢さん」
はっしと男の無骨な手指が美女の腕を捉えた。
「美しい。貴女のような人を女神と呼んでも構わないでしょうか?」
「・・・お好きにどうぞ。戦の女神というのが本名よ」
美女は気怠げに応えた。男は、鼻息を荒くした。
「その手を離して下さらない?」
「離してしまったら、僕と貴女の出会いも消えてしまいそうな気がするんです」
男は、ガタイに似合わずデリケートな言葉を口にした。
「だったら、消えておしまい」
「へ?」
男は瞠目した。眼窩から舌が飛び出すかと思った。美女は椅子を押し退け、男の目間にある物を押し当てた。何処から出したものか、その装いにはおよそ不似合いな物。それはパウダーガン。
「そ、そそれは、まさか?」
周りの男たちも目を剥いた。美女が左手に握るパウダーガンは、誰の目にも一瞬本物と映った。
ベンチレーターリブという冷却機構の付いた《パイソン・シスタームーン》。ブルーステンレスの鈍い光が、陽の光に映えた。
「よせよ、オネエチャン。そんなオモチャじゃあ、目ん玉も刳り抜けねえぜ」
ガウン。
パウダーガンが火を噴いた。美女はふっ、と軽い息を吐いて男達を見渡す。吐き出されたマグナム弾は、計算ずくでカッフェ・テリアの白壁に埋もれていた。
「もう一度言うわ。き・え・て・お・し・ま・い」
美女のねっとりと湿った赤い唇が、蠱惑的に動いた。
「ひいいい!」
男は泡食って椅子を投げ出し、脱兎の如く駆け出した。
「つまらない男」
と、美女は呟いた。周りに視線を送ると、及び腰でこちらを見るばかりだ。美女は冷ややかな面持ちに戻った。よくある事だ。旅の空では日常茶飯事だ。
まあ、並みの男ならパウダーガンを突き付けられれば、肝を潰すだろう。失神しなかっただけでもマシか、と思う。
美女はパウダーガンをどうしたものかと、一瞬考えあぐねた。もう一発お見舞いしてやろうかと思ったその時、その左腕を止めたのは、堅い男の手だった。
「そのドレスに、これ以上硝煙の臭いが移るのは、どうかと思いますよ」
男のよく通る声が、ミスティの焦慮を静かに制した。
黒い角帽に、レンガ色のつなぎ。牛革を見事になめしたベルトに提げた、特殊警棒。
見るからに、男はこのサンチャゴ・エル・ブランコの検問所職員だった。男は浅黒いが精悍な顔立ちで、中近東に多い鷲鼻とは違った真っ直ぐな鼻梁と深く窪んだ黒い瞳が印象的だった。三十代前半くらいか。スペイン系ではない。口髭を生やすのは、トルコ系住民男子のシンボルだ。
だが、美女は男に持った好印象とは裏腹に、冷たい言葉を用意していた。
「見ず知らずのアナタに心配して貰う必要など、ありませんわ」
「それは、失礼いたしました」
男は恭しく会釈をすると、後方に連れていた小柄な人物を美女の前に連れ出した。
「検問所に、この方がお見えになって、この店の場所を訊ねられたので、ご案内したまでです」
「はぁ?」
首を傾げる美女を、尻目に、検問官の男は後退した。
「では、私はこれで」
後に残されたのは、顔の下半分をすっぽり覆った小男だけだった。既に検問官は豆粒程に遠ざかっていた。
男は口元を覆ったバンダナを落とした。
「アナタは・・・」
ぴんと来たらしかった。美女は、にっこりと笑った。《パイソン》を直す際に、さりげなくちら、とガーターストッキングのレースを観衆に見せるところなど、演出過剰。だが、皆男共は鼻の下を伸ばす。思わず鼻血を噴く。
「待ってたわ。遅かったのね」
と、美女は先刻とはうって変わって悩ましい目つきで、小柄な男を見ると、腕を取った。
ぎょっとしたのは、小男本人ばかりではない。一部始終を見守っていた人間は、皆大きく首を傾けた。
若いことは若いが、一見風采が上がらない黄色い肌の小男と、男よりも頭一つは背の高い、水も滴るような美女の組み合わせ。世の中の不合理を感じずにはいられないカップルだ。
カッフェ・テリアを後にした二人は、昼間のメルカートに足を向けていた。
美女が颯爽と闊歩するのに、ソーシー・スーはその短めの足でついて行くのが精一杯だった。にしても、腕に美女の胸の弾力がこりこりと当たるのが、さっきから心地良い。
メルカートの外れまで来ると、美女は路地裏にソーシー・スーを連れ込んだ。
「ここなら人気(ひとけ)もなくってよ」
「人気はたしかにあ、ありませんけど。オレ、心の準備というものが・・・」
ソーシー・スーはあわわと自分の胸やら頭やらを触った。
「心の準備?」
そう言われて、ソーシー・スーは、はっと我に返った。美女は《跳ね馬》の金バッヂを手に掲げていた。
「あ、あなたが本物の、特務巡検使アルテミス・サフィール様で!?」
「その呼び方は堅苦しいのよう。ミスティ・サファイアで結構」
ミスティは肩に掛かる長い髪を掻き上げた。ソーシー・スーは、心臓が破裂するほどばくばくと不規則に動くのを禁じ得なかった。目の前の美女の姿をまともに拝めない。
「で、では、ミスティ様」
「あのねえ・・・」
言いかけたミスティを、ソーシー・スーの溌剌とした声が遮った。
「自分は、ソーシー・スー巡検使補です!以後、宜しくお願いいたします!」
「あのね、そんな声を出したら聞こえちゃうでしょ。子供じゃないんだから」
ミスティは、困惑顔でソーシー・スーを嗜めた。
何も好き好んで、カッフェ・テリアでぼんやりと過ごしていたのではない。巡検使研修生の教官役を仰せつかったからだ。
巡検使研修生は、通常巡検使補というキャリア組の新米がなるものだ。研修生は約一年から二年の実地研修を受けてから、本試験に臨み、合格者のみが巡検使となる。不合格なら、また研修やり直しというわけにはいかず、ヴァティカン法務省職員に一から入り直し、というなかなか厳しい道であることを、一般人の殆どは知らない。
特務巡検使の道はさらに険しい。
一般巡検使とは別の、特務巡検使試験を受験しなければならず、その合格率は千人受けてたったの五、六人程度のものだとか。受験者は、しかも文武両道を基本とみなされている分、一般巡検使とは別の過酷さがある。闇雲に勉強すればよいというものではないのだ。
ミスティ・サファイアことアルテミス・サフィールが十八歳で特務巡検使試験に合格したというのは、極めて稀な事であって、しかもコネなどではない。
ソーシー・スーのような志を持つ者なら、誰もが憧れの的だ。いや、雲の上の人だ。
神々しくて、同じ空気を吸っているというだけで、頭がくらくらする。
「はぁ。申し訳ありません・・・しかも遅くなってしまって」
ソーシー・スーは頭を掻いた。
「街道で、怪しい男と出くわしたもので、ちょっと・・・。そいつは、今時汚いテンガロン・ハットで、滑車のついたブーツを履いてて、黒服の男を追ってるとか言ってました。もしかしたら、それはシルヴァー・ブレットの事じゃなかろうかと思ったんですが」
「怪しい男、ねえ。シルヴァー・ブレットねえ。何でアナタがシルヴァー・ブレットを追う必要があるの?」
「何でって、それは男のロマンです!《称号》を持つ者としては、やはり最高位を目指すのが男の夢でしょう!」
ソーシー・スーは拳を握って力説した。ミスティは呆れるばかりだ。何故、会って十分と経たない人間に、ここまで熱く語れるのだろう。
「夢かどうか知らないけど、アナタは研修に専念したほうがよくてよ。その怪しい男ってのにも下手に手を出さない方が身の為だわ。何しろ、相手は《神の銃》を持つ男だから」
「ええ!?それは、やっぱりアレなんですか?ヤツが持っていた銃は・・・むぐ」
ミスティは、右手を閃かせた。次の瞬間には、ソーシー・スーの顔の下半分はその右手に覆われていた。
「余計なお喋りはここまでよ。アナタの本分は何処にあるの?」
ソーシー・スーはミスティの右手が離れるのを確認してから、咳き込んだ。
自分がヴァティカンから仰せつかった任務を思い返すに、然程の労苦は要らない。
「えーと、『サンチャゴ・エル・ブランコ周辺にヌォーヴォ・ニザリ教団の暗躍のうわさがあるというので、調査を行っている特務巡検使の補佐をせよ』でした」
「まあ、そういう事でしょうね。では、行きましょうか?」
ミスティは濃艶な姿とは全く関わり無く、冷たい反応を示しただけだった。
ロメロ邸は、すっかりカーニヴァル仕様に派手な化粧を施されていた。いつもは、白亜の城と呼ぶに相応しい荘厳な雰囲気を醸し出している。
町の一等地にある、この邸に辿り着いた時、ソーシー・スーは思わず声を上げた。
「ホントに、ヨーロッパ人てパーティが好きなんですね」
「中世から社交界は常に政治の裏舞台よ。面白くない事に」
ミスティは、唇を皮肉に歪めた。
「貴族などとうの昔に滅び去ったというのに、まだお姫様ごっこが好きなんだわ」
扉の前に立つ厳めしい館の執事に、ミスティは堂々と挨拶した。
「アルテミス・サフィールよ。カルタヘナのサフィール家当主と言えばお分かりになるかしら」
小娘のはったりなどではない、とそこに居合わせた誰もが顔を見合わせた。執事は恭しく、ミスティの手を取り、一礼した。
これが顔パスと言うヤツか、とソーシー・スーは感心した。
「後ろの汚いのは、うちの見習いよ。礼儀を叩き込む為に連れて来ただけだから、気にしないで。粗相をしたら、叩き出すから」
「み、見習い。た、叩き出す」
ソーシー・スーは凹み掛けたが、自分も苦労無くこんな身分違いの所へ入れただけでも、と有難く思った。
まるでこの館だけが、華やかなりし十八世紀の南ヨーロッパの貴族社会のようだ。女性は皆胡蝶のように着飾って、星のごとく笑いさざめいている。豪華なシャンデリア、緋色の絨毯はまるで踝まで埋まりそうなほどふかふかしていて、ソーシー・スーのこれまでの生活には無関係の物だった。
きょろきょろしている内に、ミスティはソーシー・スーを置き去りにさっさと社交場へ行ってしまったようだ。
「あ、あれがロメロ市長か」
ミスティの手の甲に軽く口付けしているのは、背の高いほっそりとした紳士だった。口髭を美しく揃えていて、万事卒が無い出で立ち。その傍らには、グラマーな中年女性が立っていた。こちらは、市長夫人と思われた。
サルバトール・ロメロはサンチャゴ・エル・ブランコ町長に就任して久しい。
ロメロ家元は、輸入商をスペイン本国でやっていたのが、商売の拠点をここサンチャゴ・エル・ブランコに遷してから、とてつもなく儲けたという。悪辣な手口だったという噂は全くきかないので、風向きが良い船にでも乗ったのだろう。先代が大きくした財と信頼で以って、嗣子のサルバトールが現市長の職に就いたという。
少なくとも、ソーシー・スーの知っているのはこの程度の知識だ。
「この一見温厚そうな市長の、何処がヌォーヴォ・ニザリと関わっているっていうんだ?」
と、素人に毛が生えた程度のソーシー・スーには首を傾げるような疑惑が、市長にはあった。
無論、一般市民の誰もが知らない。この町に来て間もないソーシー・スーも、判らない。
だが、ヴァティカンのある筋には、ロメロ市長とヌォーヴォ・ニザリ教団との結び付きを示すような情報が齎されたというのだ。一体、誰が。何の目的でこっそりと調査したのだろうか。市長の敵対勢力か。いや、少なくともここ一月ばかりの動向を観察するに、そんな気配はなかった。
ソーシー・スーは些かの疑念を抱きつつ、今日に至った。そして、市長を目の当たりにして、尚疑念は晴れるどころか、余計に募るばかりだ。
ヌオーヴォ・ニザリとは、新ニザリ教団の事を指す。
ニザリ教団は十一世紀にこの中央アジアにあって、暗殺者集団を輩出したイスラム教シーア宗イスマイリ派の一派であることは、言うまでもない。その後、ニザリ教団は十三世紀中葉、モンゴル帝国の台頭によって、消滅したかに思われた。
だが、約千年も経った今頃になって、かつての暗殺教団を名乗る集団が復興してこようとは。
二十二世紀に、パン・トルコ主義を主張する《トゥーラン運動》の展開が行われた事が、その第一要因だろう。
世界中のトルコ系民族の独立と団結を謳った運動は、つまりイスラム教徒であるムスリムの復興運動でもあったのだ。
その中から、かつて二世紀余に渡って奇怪な一大勢力を振るったニザリ教団の一派が、再興したとしても、或いは不思議ではなかった。
ニザリの教義は、形を変え、時代を経て、民族の移動に淘汰されつつも、生き残ってきた。
《新・十字軍》と自ら称したように、ヴァティカンがディアスポラの支配を試み、それに反発する勢力が生まれたのもまた必然であるからだ。
ある意味、宗教対立を巡る世界情勢は、中世のそれと似通った状態に戻っているのかも知れない。
「あ、あれ?」
などと考えているうちに、ソーシー・スーは美しく気高い、それでいて凶暴な女教官の姿を見失っていた。
バタン。
ドアがいきなり開いた時も、アーチは振り向かなかった。
「早かったな、兄弟」
そう言っただけだ。アーチは、作り付けのライティング・ビューローの前に向かっていた。狭い紫檀の机の上には、パソコンが開かれていた。ジンは、むっと唇を尖らせた。
「お前なあ、行き先も告げずによくも・・・」
「サンチャゴ・エル・ブランコは今カーニヴァルの最中だ。旅行者も多いことだし、検問所に一言いっておけば、お前に伝言してくれるだろうと思ってな」
アーチは、ずっとパソコンに向かったまま答えた。格別難しい顔付きではないが、本業に掛かり切りの時の相棒の無愛想さは、ジンがいちばんよく分っていた。分っちゃいるが、面白くない。
夜半市街地に入って、検問所で宿屋の場所を聞き出したはいいが、締め出された。そこらで仮眠して翌日再び宿を訪れると、キャンセルした旨を告げられた。
その後の行方は分らず、さんざん歩き捲くった末に漸くメルカートで手掛かりを得た。だがメルカートでも盥回しにされ、堂々巡りをしている内に一日が過ぎてしまった。漸くメルカートの花屋通りに行き、得た情報からエミリオの店を訪ねると、店番の少年がエミリオを紹介してくれて、そうして辿り着いたのだ。
ここは、エミリオの自宅の二階である。
こんな回りくどい事をさせるとは、オレをおちょくっているに違いない、会ったら真っ先に文句の鉛弾を叩き込んでやる、とジンは思っていたのだ。聞くも涙、語るも涙の三日間だった。
何か言えばどうせ、こう切り返してくるに決まっている。
『追って来るヤツをお前が黒服の男だなんだと、言い張るからだ。あんな何にも無いところで、ぼんやりしてるほど、オレは暇じゃない』と。
それもぶった切る台詞を、道中念入りに準備してきた。ジンは、その成果をとくと披露してやる機会を、今か今かと狙っていたのだ。
「で?どうだった」
アーチは、無関心ではない、という風に訊いた。
「お、おう」
ジンは、肩で大きく息を吐きながら、薄汚れたテンガロン・ハットを毟り取った。革ジャンも脱ぎ掛けて、はたと留まった。何だか展開が違う。
「シルヴァー・ブレットなんかじゃなかっただろ?」
「《銃星》ソーシー・スー、とかいうケチ臭い野郎だったぜ。ったく、人騒がせな」
ジンは、照れ隠しに鼻の頭を擦った。
「そりゃ、残念だったな」
アーチは、実にあっさりと言って椅子から立ち上がった。ジンは、眉間に皺を寄せた。
「冷血漢。オレがシルヴァー・ブレットを見付けない限りは、お前も自由にはなれねえんだぞ」
「いいさ。いつまででも付き合ってやるぜ。お互いがよぼよぼになってもな」
アーチは、そう言ってふん、と鼻で笑った。明るい美貌に不思議な笑みが宿る。その気の無い同性でも、ぞくっとするような凄艶な雰囲気を醸し出す事がある男だ。
「・・・ムカツク野郎だな、相変わらず」
ジンは言った。革ジャンの内ポケットに手を突っ込んだ。 マルボロを取り出そうとして、右手を掴まれた。
「何だよ?」
アーチは、黙って細い顎をしゃくる。その先には、白いシングルベッド。
ベッドの不自然な膨らみの端から、小さな顔が覗いていた。
栗色の髪の若い娘が寝ていた。娘の左腕には、点滴のチューブが差し込まれていた。
「客か」
「患者と呼べよ」
アーチは呆れたように言って、ベッドに近付いた。
娘は眠れる森の美女のごとく、こんこんと眠っている。ベッドの周りは、消毒薬の匂いが漂っていた。
ジンは、漸く奇妙な事に気付いた。娘の手首と、両足首に、強化プラスティック製の枷が填められているのだ。枷は、とってつけたようにベッドに固定されていた。
「何の病気なんだ?」
「病気じゃない。薬物中毒患者だ」
「薬物中毒?」
娘をメルカートの雑踏の中で保護した時、殆ど酩酊状態だった。瞼を開かせると、瞳孔が開きっぱなしで、ギラギラと光っていた。脈は平常生活時の倍ほどに跳ね上がり、身体は火照っている。ぐんにゃりとした腕は、時々痙攣を起こしたかのように震えていた。
一般人が見れば、風邪の初期症状かと思しき状態だったが、医師であるアーチには直ぐに判った。
娘は完璧に合成幻覚剤の中毒症状だった。
「所謂、サイケデリックス(幻覚剤)の急性中毒。ワンウェイ・トリップってヤツだ」
と、アーチは娘の顔を見下ろしながら、行った。ワンウェイ・トリップとは、行ったきり戻って来ないという意味だ。
「LSDの類かよ」
Lysergic Acid Diethylamide-リゼルグ酸ジエチルアミド。俗称アーチド(アシッド)。二十世紀半ばに、スイスのある製薬会社で麦角から偶然に発見された副産物的ドラッグだ。向精神作用があるとして、当初は精神病の治療薬として発売されたが、数年後にはLSD服用者の事故や自殺等が相次いだ為、製造中止、当時の国連がイリーガル・ドラッグ取り締まりの対象として以来、世の表には出て来なかった筈の薬物だ。
とはいうものの、身体的依存性が少なくダメージも殆どないLSDは、綿々と闇市場で流通し続けて、数世紀になる。
だが、いまだに、LSDの製造を許可している都市は無い。
そのくらいの知識は、日頃危ない橋を渡る可能性もある、ジンも持っている。
「不幸にして体質が合わなかったということも言えるが、LSDはそれほど体質を選ばない。むしろ、セッティングと、これは他のドラッグとのカクテルの所為だろうな。恐らく大麻樹脂との混合か、メタンフェタミンに塩酸プロカインを加えたか。これがまた、非常に効くらしい」
アーチは、点滴の雫を見詰めながら淡々と喋った。点滴には、鎮静剤と睡眠薬を混入してある。
娘の頬に手を伸ばし、アーチは人差指の腹で撫で上げる。
すると、驚いたことに娘はくすくすと小さく笑い出した。頬は、みるみる薔薇色に染まり、娘は優雅な眉根を歪めた。
「くふ・・・」
娘の唇が開いた。笑っているのではない。微かに漏れる溜息と共に、娘は喘ぎを紡いでいた。
アーチの指先が、娘の唇に触れた。
「ああ・・・」
娘の唇から、赤い舌が二枚貝の足のように這い出した。ねっとりとアーチの指に絡み付く。指を口腔に差し入れると、娘は音を立ててしゃぶり始めた。ぴちゃぴちゃという、粘膜の立てる淫猥な音だけが、響く。
透明な唾液が可憐な唇から溢れ出し、娘は瞼を半分開いたまま、少しずつ体を動かし始めた。だが、四肢を縛めている枷の所為で、どうにもならない。
ベッドは頼りない音を立てて、軋むだけだ。
むっとするような、女を感じさせる匂いがベッドの回りに立ち込める。もし、香りに色があるならば、娘の発散する匂いは、いまはショッキングピンクに違いない。
ジンは、思わずあんぐりと口を開けて見入ってしまった。
「な、なんなんだ?」
「見ての通りだ。三日三晩経ったが、まだ行ったまま帰って来ない」
アーチは、娘がきくきくと体を動かしているのを、冷静に見詰めながら答える。男を求めて暴れ出すからこその枷なのだ、とジンは改めて悟った。
「あう・・うう」
娘は、アーチの指が離れたのを、首を振って口惜しそうにする。
「すごいぞ。合成幻覚剤は、催淫効果が高いといっても、これだけでこんな反応を示すってのは。しかも、寝かしつけてから二時間は経ったってのに」
「あのなあ、お前」
ジンはどっと汗を掻いた。生半(なまなか)な男なら直視出来ない程に、ベッドの上の娘の顔は、欲情に濡れ光っていた。
「ラブ・ドラッグ・・・所謂タンタライザー(超催淫剤)ってヤツだろう」
アーチは独り悶える娘の首を押さえつけた。こめかみに軽く手を当てると、娘は静かになった。すやすやと、寝息を立て始める。
「困ったぞ、ここに括り付けるのだって。彼女の下着は汗とかナニとかでぐずぐずになってるわ、嬢ちゃんには、オレが裸にするのには問題がある、とか言われるし。もうすったもんだで、オレなんか身包み剥がれそうになったぜ」
「・・・お前ぇ。しかし、さっきの生殺しみたいな真似をよくやるよな」
ジンは肩を竦めた。
「イカせてやれって言うのか?オレだって一応医者だぜ。初めて見る薬物中毒に興味はあるじゃないか。いろいろやってみたい。お前も試してみるか?」
アーチは、娘の唾液に濡れた人差指を舐めようとしたが、ジンの手前止めた。ジンは、疑惑の塊のような目付きをアーチに送っている。
「・・・ホントに何もしてねえだろうな?」
「患者には手を付けない。これが名医の鉄則だぜ」
「何が名医だって?」
「当然。金を払って貰う相手に手ェなんか出せるか。払わないというのなら、ちょっと考えるが」
アーチは胸を張って言った。
「お前は、こんなんで金貰おうなんて思ってるワケだな。商魂逞しいというか、むむ。大したヤツだよ。商売になればの話だがな」
ジンは溜息を吐いた。アーチは、不敵な笑みを湛えたまま、ジンの顔を見た。
「なんだよ、不気味だな」
「このお嬢さんが何者か知ってるか?」
「いや」
ジンは首を振った。アーチは、くしゃくしゃになったシーツを直しながら、言った。
「サンチャゴ・エル・ブランコ市長サルバトール・ロメロの愛娘、イサベラだ」
大理石の床を何かが滑る音がした。ミスティ・サファイアは、暗がりの中から大広間を出て、確かに市長の書斎の扉の向こうまで、誰にも気取られないように進んだ筈だった。市長邸を大っぴらに歩き回る機会など、手を拱いていても来はしない。
今の内に探れるだけ探っておかねばならない。ヌォーヴォ・ニザリとの接点を示す証拠を。
だが、廊下を移動する間に、その違和感は生じた。
余りにも人の気配が無さ過ぎる。
ミスティは、バッグの中から既に装填済の《パイソン・シスタームーン》を左手に掴み、右手でゆっくりと漆塗りのドアを開けた。
壁に沿って腕と背中を這わせるように書斎に侵入する。
だが、書斎にも人の気配が感じられなかった。
微かな風が漂って来る。窓が開いているのだ。ミスティは、唇を噛んだ。
暗かった書斎に、俄に照明が点いた。眩しさに、一瞬目を瞬く。次の瞬間、銃把を握り締めたミスティの表情が強張った。
「今晩は、お嬢さん」
聞き覚えのある、訛ったトランス(共通語)だった。開いた窓のカーテンの隙間から、黒髪を短く刈り込んだ男が現れた。
市長などではない。
昼間、ソーシー・スーをキャッフェ・テリアまで連れて来た検問官だ。
男の出で立ちは、給仕のそれと同じだったが、一箇所だけ違っている部分があった。右手に携えた刀だ。刀剣に精通したミスティが見るに、ギリシアの古刀ハルパーだ。
ミスティは、瞬時に青い瞳の輝きをを驚愕から威嚇に変えた。《パイソン》の銃口は、上手い具合に男の胸元を狙う形を取っていた。
「お久しぶりです」
男は微かに頬に笑みを浮かべていた。
「・・・アナタ、こんな所の検問係に配置換えになったの?」
ミスティは、乾いた唇を湿しながら、男を睨んだ。男は、黙ってじりじりと僅かずつ、ミスティに近付いて来た。
「訊き返したいのは、こちらの方でね。場に相応しからぬ物騒な物を持ち込んでいるお嬢さんがいる、となると放って置く訳にはいかないな」
ミスティは、唇を噛んだ。ここで発砲したら、何もかもおじゃんだ。ドジを踏んだとまでは行かないが、危うい場面に出くわしたと言わざるを得ない。
「判ったわ」
ミスティは場慣れした風に言った。《パイソン》を下ろす。男に近付き、パウダーガンを渡そうと手を伸ばした。
ガッ。
孔雀色のドレスの裾が大きく開いた。ピンヒールの正確な蹴りが、男の鳩尾にめり込んだ。
「う・・・」
だが、驚愕で目を見開いたのは、ミスティの方だった。男は、ピンヒールの先を右手拳で受け止めていた。そして、交差した左手は、ミスティの足首を掴んでいた。
「ぐぐ・・・」
男は冷静そのものの表情で、ミスティの瞳を見た。足首を握った手指に力が篭もる。右手の拳は、血が滴っていた。
ミスティは、決して悲痛な声を上げない。
「おとなしくエモノを放したまえ」
「冗談じゃないわ!」
ハルパーが飛んだ。一瞬、ミスティの血の気が引く。
ミスティの左手首に、柄の部分が当たった。《パイソン・シスタームーン》の銃身が弾け飛んだ。絨毯敷きの床に、銃の凹みが付いた。
「女性に手荒な真似はしたくなかったんだが・・・」
男は低い声で言った。ミスティの足首を離す。ミスティは、そのくらいで蹲って痛みを訴えるような軟な身体の造りではない。すぐさま、反撃に出た。ガーターベルトに忍ばせた細い鋼鉄製の針を抜くと、男の喉元に詰め寄った。長さ五インチ程の針だ。
男の方は、充分に苛烈な反撃を予測していた。
ミスティの動きを見切ると、男は彼女の懐に飛び込んで、手刀を脇腹に差し込んだ。肋骨の下、脾臓に当たる部分だった。沈黙する臓器、脾臓だが、打撃に弱い。
「はう!」
ミスティはもんどり打って、床に倒れた。針は何処へともなく飛んで行った。差すような痛みが、脊髄を走った。脾臓の上ばかりか、不幸なことに被弾の跡にも触れたのだ。ジプシー・クイーンに撃たれた弾の痕跡が、じわじわと滲み出た。
男は、ミスティが古傷を負っていることに気付いた。そして、不意に紳士的態度で抱え起こそうと、屈み込んだ。
「甘いわ!」
「がっ」
男は、不意打ちを喰らった。ミスティは、脇腹を押さえながらも、男の胸元に膝蹴りをくれてやったのだ。だが、自力で起き上がる事が出来ず、無様に下半身を引き摺って這う。
「・・・く、くふふふ」
男は忍び笑いを漏らした。胸を押さえつつ、立ち上がり、ミスティの肩を鷲掴みにすると、息が上がって何も喋れない女の頤を、自分の方へ向けさせた。
「さすがだ。女性とはいえ、ヴァティカンの誇る特務巡検使は、一筋縄ではいかないな。素手で百通りの殺人技を有するというUPのスパルタンにも匹敵するか」
「・・・・・・!」
瞠目するミスティに、男は皮肉な笑みを作って見せた。男は、端からミスティの正体を知っていたというのか。
「歓待するよ。キミのような貴人が、わざわざ出向いてくれるなんて、夢にも思っていなかった」
「な・・・」
漸く唇をわななかせたミスティの首筋に、男のごつごつした手が伸びた。
「我々ヌォーヴォ・ニザリの寓居へようこそ」
男のやさしいが、どこか聞く者に鳥肌を立たせるような声色を、ミスティは何処か遠い所で聞いていた。既に、意識は途切れ途切れになっていた。
寝室から洩れる明かりに、ピーチィは立ち止った。
「・・・どうした?」
二分ほど待って、言葉が返ってきた。恐いほど真面目くさった横顔を崩してアーチは、微笑を浮かべた。
「何も」
ピーチィは猫みたいにドアの隙間から、そっと部屋に入り込んだ。いつも遅くまでは起きていないアーチだが、最近は徹夜とはいかないまでも真夜中まで仕事をしている事が多い。
尤も、ピーチィには医師のデスクワークがどんなものかなど、測る術も無い。
だが本心はそうではない。仕事で根を詰めているのではないか、というのよりも、部屋の片隅で寝ているイサベラ・ロメロが気になったのだ。
「お嬢さんなら、気にするな。オレは患者には手出ししない。それに、仕事が終ったら隣の部屋で寝るから。信用無いか?」
「そんなんちゃう」
ピーチィは、些かムッとした口調で応えた。とはいえ、目の端にベッドのこんもりした膨らみが引っ掛かった。
「仕事か?」
「アルバイトみたいなモンさ」
と、アーチはキーボードを叩く指先を止めて、言った。
「一応、オレも学者の端くれでな。論文を書いたからといって、何かが格別変わるような事もないが、安月給でも書かないとなぁ」
「そない、ブラブラしとる学者なんか見た事ないわ」
ピーチィは、訝し気に太い眉をきつく寄せた。アーチは、片頬を歪めて笑う。
「本当だぜ。オレは出来れば、ブラブラなんかしたくない。仕事で飛び回るのは結構。だが、一つ所で自分の城を持って、好きなように研究なりと出来たら楽なもんだ」
「ええ?」
今度は、ピーチィが笑った。
「似合わへんよ」
「・・・ジンも同じような事言ってたがな」
アーチは、机の隅に置かれた陶製のカップに手を伸ばした。一時間程前に淹れたアールグレイのホットティーは、すっかり冷え切っていた。
「恋ならば、何時かは終る。旅も終るさ。終るとも、人生は続く。学者には、長い時間が必要だ」
謳う様に言うアーチの横顔を、ピーチィは見詰めた。洗い髪の匂いが漂っていた。
「まだシルヴァー・ブレットも見付かってないのに。けど、旅が終ったら、ホンマにどうするのん?」
「さァな。なるようになる。どっかに開業でもしようか」
「そ、そん時はウチも置いたってくれるか?」
ピーチィは、大きな黒い瞳を潤ませて言った。
「ナースにでもなるか?そしたら置いてやってもいいぜ。それと・・・」
アーチは横目でピーチィの胸元を見遣った。
「もうちょっとチチがでかくなったらな」
「どエッチ!」
「はっはっは」
アーチは白い歯を見せて笑い、ピーチィは湯気が出んばかりに顔を紅潮させた。
「もう寝ろよ。疲れただろ」
「うん」
ピーチィは、珍しく素直な気分でその言葉に従う事にした。部屋を出ると、少し気恥ずかしいような心地になった。何故か判らない。何時かは、旅も終る。だが、終って欲しくない気持ちと終って欲しい気持ちが綯い交ぜになった。
夜は更けて来た。カーニヴァルそのものの催しは、まだ果たされていない。
七月二十五日。スペインの守護聖人、聖ヤコブの日を中心にして、二週間の間、町はお祭りムードになる。
三日後の聖ヤコブの日には、町の目抜き通りを仮装した巡礼行列が行進し、その後家畜が放たれる。スペイン本国はパンプローナの牛追い祭りを、ここでも再現しようというのだ。ちなみに、この日がいちばんの暑さだと、クリスマスの日は寒くなるというのが、古い言い伝えだ。
ジンは、マルボロをふかしながら人通りが減ったメルカートの端を歩いていた。とうに店はたたまれており、行き交う人々も繁華街を目当てにしている顔付きだ。
「ちくしょう、結局黒服の男は見付からねえしよ・・・」
ガンガー河口の村エラドゥーラを発って、約一ヶ月。中央アジアを走る街道沿いの小さな村々では、黒服の男の噂を聞いた。もしくは、男ではなく女だったというのも。
だが、ジンは追っ付け噂の後を辿っても、どんなに急いても男の影すら踏めなかった。
それが、このサンチャゴ・エル・ブランコの手前で、不意にそれらしき影を認めたと思いきや、この調子だ。運に見放されているのか、それとも自分がドジなのか判らない。
そのうえ、相方はあんな厄介な物まで拾い込んでしまっているではないか。尤も、アーチは満更でもない様子だが。
「どういう事情があるにせよ、名士と言われる市長の御息女が、拠りによってイリーガル・ドラッグの中毒で、街中でぶっ倒れた。・・・ってのは面妖なハナシだと思うぜ」
と、アーチは言った。無論、ジンは脊髄反射的に言い返した。
「お前、まさかそれをネタに市長を強請(ゆす)ろうなんて考えちゃあいないだろうな?」
「強請るメリットなんて、こちらには何もありゃしないじゃないか。せいぜいはした金を口止め料に掴ませるくらいしか、一般人には能が無い。オレは、そんなみっともない真似は遠慮したいね」
「金の無いヤツが言っても説得力がねえ」
「それよりも、クスリの出所を知りたい」
「知ってどうする?」
「医学的興味と、上司に報告をするまでだ」
アーチは、そう答えた。何処まで本気なのか、ジンには分らない。だが、こういう時の相方の仕事熱心さには、門外漢のジンも頭が下がる。
「それにしても」
イサベラの恍惚とした表情が頭を離れないのは、どういう事だろう。赤い唇と軟体動物のように蠢く舌。半開きの目は、何処を見ているのか判らない虚ろな目付きだった。
俗に言う、むらむらする感覚だ。よくあれで相方は平気なもんだ。恐らくは、患者であるという時点で、性的興味の対象からすっぱり除外されているのだろう。あの女好きが、だ。
「うー」
ジンは落ち着かなくテンガロン・ハットを何度も被り直しながら、通りを歩いた。せめて、美味い酒でも飲んで気休めとしよう。
そう思い、通りを斜交いに渡り掛けた時だった。
小柄な影が、ジンの脇にぶつかってきた。
「おい」
「あっ。すいま・・・」
言い掛けて、男は喉を詰まらせた。だが、もっと驚いたのはジンの方だった。目の前の男は、街道で置き去りにしてきた黒髪直毛、短躯の若者ソーシー・スーだったからだ。
両者は思わず腰に手をあてがい、向かい合ったまま後退った。
「手前、まだやる気かぁ!?」
「いっ、いや」
ソーシー・スーは両手を挙げた。だが、そんな動作が丸腰をアピールするものだとは思えない事を、ジンはよく判っている。ソーシー・スーの左手には、仕込み銃が隠されているのだから。
ジンは、《ブラックホーク・ディオファイア》を両手で構えた。
「ちょい待った、ちょい!」
ソーシー・スーはぶんぶんと両腕を振った。
「オレ、今それどころじゃあないんだって!」
「それどころ?街道じゃあ手前の方から仕掛けて置いて、勝手な事をほざくな!」
ジンはサングラスの下から、睨み付けた。
「研修中なんだって。しかもちょっと・・・いや、大いに困った事になっちまって」
「研修?」
ジンは《ブラックホーク》を漸く下ろした。
「話せば長い。けど、今オレの教官が・・・」
ソーシー・スーは言い澱んだ。黒瞳が、泳いでいた。
「ななななななな、なんですと!?」
ジンは大袈裟ではなく、顎を外しかけた。
「だから、特務巡検使アルテミス・サフィール教官の身が危険に晒されているかも知れないんだぁあ!」
ソーシー・スーは頭を抱えた。
ロメロ市長邸でのパーティで、ソーシー・スーは上司の姿を見失ったまま、うろうろしていた。やがて夜も更け、宴も酣になってきただろうという頃になって、俄に人々の姿がホールから消えて行った。
そう、まるで異次元にでも行くように。主を失ったソーシー・スーは為す術も無く、ぼんやりしていると執事達に摘み出されてしまった。まるで、どぶに填った犬みたいに。
「で?のこのこ追い出されて来たワケか」
「いや。そうは言っても、一人で帰るわけにはいかないし、こう見えても巡検使補だからな」
ソーシー・スーは、言った。ジンは俄に信じ難かった。この冴えない若者が、エリート候補だなんて。ヴァティカン法務省に入るだけでも、ジンのような無学の実力主義者にとって、太陽と月ほど掛け離れた存在なのだ。人は見掛けに寄らないものだというが、まさしくソーシー・スーはその代表格だろう。
しかも、現在の研修の教官がミスティ・サファイアだとは。
とても、嫌な展開だ。これは、と警戒したが、もう既に遅い。ジンは自分が厄介事に片足突っ込んでしまっている事に気付かざるを得なかった。
ソーシー・スーは、市長邸を直ぐに出ず、こっそりと歩き回って教官の姿を探した。
希望的観測としては、こうして密偵の真似事をしているうちに出くわす事だった。だが、なかなかそうはいかなかった。
館は、昔のコロッセオ程の規模があり、本館の真南に別館が建てられていた。恐らくは、そこが市長家族の私的な空間なのだろう、とソーシー・スーは当たりを付けてみた。本館の真ん中にエントランス・ホールがあって、パーティの中心となっていたのは、一階すべての部屋だった。大抵は、二階はゲストの休憩室や更衣室に使われている。
まずは、そこから。ソーシー・スーは、伸縮自在のロープを二階の窓に放り込み、それを伝って鼠のように身軽に壁を駆け上がった。
だが、密かに予想していたように、二階は誰もいなかった。総てが、中途半端に投げ出されたままの、時間に置き去りにされたみたいながらんとした風景だけが、ソーシー・スーを迎えた。
一通り回って諦めが付くと、今度は片付けなどをしている給仕達に見付からないように、一階に下りる。やはり、客人は殆どいない。自分と一緒に数人が外へ出た。中座する者もいたりで、総勢が何名いたのかは、定かではない。
だが、数十人といた人間が、ごっそり消える筈は無い、とソーシー・スーは捜索を止めなかった。
一階の西奥の部屋から、薄暗い通路に繋がる両開きの扉があった。そこは、施錠がなされていなかった。
ソーシー・スーは、静かにそこへ入った。
短い廊下の向こうには、半地下の部屋。ソーシー・スーは音も無くその手前まで進み、そして立ち止った。
何やら、微かに狂気じみた声が聞こえてくる。男のものとも女のものともつかないような、大勢の。
ソーシー・スーは扉にそっと耳を押し当ててみた。
やはり、声は部屋の内部からだ。
「ややっ・・・」
鍵穴がある。そこから見えるのではないか、とソーシー・スーは身を屈めた。片目を閉じて小さな穴から中を覗くと、思わず目を疑うような光景が網膜に飛び込んで来た。
「聞いて驚くなよ?」
ソーシー・スーはジンに向かって拳を握って見せた。
「中は老若男女のドラッグ・パーティだ」
薄暗がりで、燭台だけが灯りの大きな部屋で、大勢が珍妙な格好でめいめいの事をやっていた。或いは、カクテルグラスに盛った角砂糖をばくばくと食べている者、また或いはワインを浴びるように頭からかぶっている者。
LSDの類は極めて微量で精神作用を及ぼす。従って、粉末や錠剤などを使う事は無い。数百倍に希釈した溶液に浸した角砂糖を舐めるか、酒に入れて飲む。紙片に染みこませたアシッド・ペーパーというやつから摂取する、などという方法がある。注射器を使って流し込むような、不潔でまだるっこしい作業は、ハイソサエティな人々には似合わない、ということでLSDは好まれるのだろう。
「そのうち、だんだん妖しい雰囲気になってきたんで、出て来たんだけどな・・・」
と、ソーシー・スーは顔を赤くして言った。ドラッグ・パーティが、精神的に行ってしまった人間ばかりになると、乱交パーティに移行するのだ。想像に難くない。
成る程、とジンは唸った。
市長の娘が酩酊状態で飛び出してきたのは、こういう事だったのか。
何故か、ジンは嬉しくなった。相棒に一歩先んじた気分になったからだ。
「しかしお前、指を咥えて見てたんだな?」
ジンは胸中とは裏腹に、責めるような目付きで、ソーシー・スーを見た。
「しっ、仕方ないだろう!?オレ一人じゃどうにもならねえ」
「仕込み銃も何の役にも立たないか」
「下手にぶっ放してもろくな事はないよ」
ソーシー・スーは言った。ジンは、ふんと鼻を鳴らした。フィルターまで灰になったタバコを、漸く石畳の上に落とす。
研修中だというので、遠慮でもしているのだろうか。とはいえ、街道でジンを執拗に追いまわした時とは、えらい態度の変わりよう。ジンは少しばかり不機嫌になった。
「で、ミスティ・サファイア特務巡検使ドノは、そこにいたのか?」
「いや。判らない。随分見てたけど、判らなかった」
ソーシー・スーは自信無さそうに答える。
「てえ事は、案外こっそり抜け出して、そこらを歩いてっかも知れないぜ」
「そうかなぁ?」
「あの女の事だから、そうドジを踏むとは思えねえな。仮に、ドラッグ・パーティの渦中にいたとしても、オレ的には不都合は無いけど」
「でも、仕事には人一倍熱心な方だ。放っぽって抜け出すなんて考えられない」
ソーシー・スーは首を頑なに振った。
「まあ、息苦しいくらいに仕事熱心だがな。お前、おちょくられてるんじゃねえか?」
ジンは白い歯を剥き出して、笑った。ソーシー・スーの風貌は、如何にも平凡で平面的な顔立ちで、言うなれば他人を出し抜くような性格には、とても見えない。年上の女にいい様にあしらわれても、仕方ないといえば仕方ない風体だ。
「むか」
ソーシー・スーは右手に握った《ルガー・マークU・サイレンシア》を、素早くジンの胸に突き付けた。
「お、おい冗談だってば」
「冗談にも程があるよ!」
そう言って、ソーシー・スーはジンの胸倉を掴んだ。
「嘘だと思うんならついて来い!」
ジンは、思いがけない強い腕の力に引き摺られた。何でこうなるのだ。納得行かないぞ。そう思いながら、体はソーシー・スーと共に、市長邸のある西区画の方へ向かっていた。
第二章に続く
「前回までのSTORY」へ戻る