第十二話
〜ドラッグ・パラドキシア di narcotrafficante〜
(前編)
第二章 禁じられた思い HE WAS DEEP IN THOUGHT
小男は、監禁室に一人になるや、辺りを見回してベッドに近付いた。
古びた寝台の上には、調度品の古めかしさに似つかわしくない程に豪華な物が載っていた。
大柄な若い女の肢体が、無防備に投げ出されているのだ。
小男は、まじまじと女の造形を観察した。
殺風景なシーツに流れる濃い栗色をした長い髪。程好く日焼けした肌は、木目が細かく滑らかに見えた。閉じた瞼は、微かに動いている。
長い首筋からデコルテ部分に掛けて、女の美の本領が発揮されるというのなら、その点に置いてこの女は充分にクリアしている。
横たわっても、ドレスの下の二つの水蜜桃は、決して型崩れしていない。小男は、呆けたような顔付きで若い女に見惚れていた。これほど豪奢な見てくれの女は、今まで見たことが無かった。ちょっと目を見張るような独特の美しさを持つ、北部クルド人の美女でも中々ここまではいかない。
出来心というものが、人間には誰しも存在する。
小男は、女のストッキングに包まれた長い脚に触れた。すべすべとして、張りのあるシルクの手触りが、男の乾いた掌に吸い付く。
「おお」
と、男は思わず小さな声を出した。
男の短い脚の一・五倍はあるだろうという美女の脚が、縺れたように動いた。締まり切った足首は、ちょっと指の長い男ならへし折ってしまいそうな細さだ。手首も同じく。
何処をどうやって、あの冷徹無比で果敢なジャファル・アル・ハラーンの鳩尾に蹴りを入れたのか、想像が付かなかった。
眠りの森の美女と呼ぶには、あまりに煽情的過ぎる。
小男は、ついストッキングの上方まで、まるで舐めるようにじっくりと太腿を撫で上げた。掌が湿って来た。
マンドリンでも撫でるように、小男は指を微妙に這わせ、ドレスの裾を捲り上げた。
ストッキングのガーター留めが、指先に触れる。
「うう・・」
女の喉から、低い呻き声が洩れた。小男は、一瞬びくりとしたが、手の動きをやめなかった。小男の指は、腿の内側に侵入した。
静まり返った四角い部屋の中で、押し殺した小男の息遣いと、粘膜の擦れる淫靡な音だけが、微かに響く。
小男は、美女の眉がきつく吊り上がって行くのを見ていた。息をする度に、ゆっくりと孔雀色のドレスの下の胸の隆起が激しく動く。両の乳首が固く凝って、柔らかい布を下から痛い程に押し上げている。
甘い吐息が、小男の頬に掛かった。
「・・・・・・!」
がば。
ミスティ・サファイアは突然跳ね起きた。
「メ・カーゴ・エン・レチェ!(手前ェ、ナニしやがる)ケ・コニャソ!(ど下手クソ)」
小男は、ひっ、と目を剥いて後退した。何を言われているのか全く理解不能だったが、酷い罵倒の言葉であることは、女の血相で判った。
ちなみに、総てスペイン語だが上品なお嬢様が口にしていい様な単語は、一言も入っていない。
どれも「クソ」だの「女性器」だの「精液」だのの卑猥語だ。
ミスティは、あまりの事で目が覚めたものの、そのまま起き上がる事は出来なかった。
天井の色が極彩色に見える。まるで、羽を広げたルリコンゴウインコの群れが、羽ばたいているような色彩だ。ヴィジュアルは、極めて刺激的であって、見ているだけで身体の芯が蕩けそうな快感に襲われる。
小男の貧相で不細工な顔すら、芸術的に見えるではないか。
いつもなら、こんなチンケな男は金的の一蹴りか、手刀で延髄を叩けば失神、昇天させてやれるのだが。
だが、身体は動かない。まるで全身軟体動物になったかのようだ。海に浮いているような不安でいて、決して沈まないのが分っていながらも、時折息苦しさを感じる。
「カプージョ(包茎ヤロウ)」
ミスティ・サファイアは、弾む息で罵りながら、小男を睨んだ。だが、いつものようにはっきりとは視界が確保出来なかったのだ。呂律も回りにくい。
四肢が不快なだるい感覚を訴えている。
身体の内奥から熱い。煮え滾る坩堝に放り込まれても、生きていればこうなるのかと思うくらいに。
「下手クソが触るんじゃないわよ・・・!ちくしょう」
ミスティは、胸を押さえた。股間が嫌な感じに湿っていた。自分の意志と拘り無く、そこは海のように潤っていた。
必死で両腕を突っ張り、起き上がろうとしても、身体はぐにゃぐにゃという事をきかない。
小男は、ミスティの様子を見詰めつつ、扉に背を向けていた。
バン。
「おっ、おおおおお」
俄に扉が開いて、小男は前につんのめった。
無様に冷たい床に転げた小男を、ぴかぴかに磨き上げた黒いブーツが蹴り上げた。
「騒がしいな」
入って来た男は、ガタイの立派な長身の男だった。肌は浅黒く、揉み上げが長い伊達男。青い目立つ色彩のタキシードを決めていた。
「おやおや、お嬢さん。お目覚めかな?」
と、ありきたりな台詞を吐きながら、男は小男をすっかり無視して、ミスティの横たわるベッドに近付いた。
ミスティは、火照る頬を上げた。既に、汗は額から頬を流れ、鎖骨を伝って胸の谷間に流れ込んでいた。
「きっ、貴様・・・!」
サンチャゴ・エル・ブランコ市街。カッフェ・テリアでミスティの手を掴んだ、度胸ある色男だった。
「貴女があまりにも美しいので、僕はこんな犯罪紛いの事をしちゃいました。・・・なんちって」
男は、にやけた顔をミスティの小さな顔に近付けた。
「拉致監禁。紛い、じゃなくて・・・犯罪だわ」
ミスティは、男の頬に唾を吐き掛けた。男は、ほんの一瞬だけ瞠目したものの、腹は立てていない様子で、笑った。手の甲で頬を拭い、男はミスティの虚ろな瞳を見据えた。
「勇敢で美しいお嬢さん。いえ、ヴァティカン特務巡検使、アルテミス・サフィール殿。私はシメオン・パハスといいますが、以後お見知りおきを」
ミスティは、ぼんやりと靄が掛かったような脳の奥で、ロメロ邸での事を思い出した。あの男も、自分の名前を知っていた。
シメオン・パハスは、にんまりとその二枚目面に不敵な笑みを浮かべていた。
「フザけんな・・・」
最早、スラングを吐くしか術の無いミスティは、明らかにシメオンに敵わなかった。
「わざわざ虎の穴に自ら入り込んで来る様な真似をするなんて、貴女も随分迂闊だね」
シメオンは、矢庭にミスティの頤をがくんと持ち上げた。喉が裂けるかと、一瞬ミスティは全身を強張らせた。
「う」
だが、痛むどころか身体はむしろ喩えようの無い不思議な快感に、一瞬突き抜けられた感じがした。
「あ・・・」
「どうだい?気持ち良いだろう」
シメオンは、薄い唇に笑みを浮かべた。太い右手指が、ミスティの髪をぐい、と掴み上げた。
見かけ通りの軟派風とはいかないらしい。尤も、素人に毛が生えただけのものだろう、とミスティは思ったていたのだが。
「キミには、血管からスペシャルドリンクを飲んで頂いたからな。400マイクログラムのスーパーLSDブレンド《リヴァイアサン》」
「・・・LSDですって?非合法ドラッグなんかを」
「シケた事言うな。人間の愉悦に合法も非合法もあるもんか。ゆっくり愉しもうじゃないか」
シメオンは、落ち着き払った声で答えた。ミスティは両腕を突っ張ろうとしたが、力は抜け切っていた。
シメオンは、殆ど暴力的な方法で、ミスティの半開きになった唇を弄い、血が滲む程噛んだ。
「薄汚れたハイエナのような男・・・」
そう思った言葉は、声にする必要は無かった。考える必要すら、無い。
チャイムの鳴らし方で、その人となりは判るという。
アーチレリー・ブールヴァルドは、躊躇わずドアを開けた。目の前に立っていたのは、目立たない薄茶色のスーツに身を包んだ、初老の男だった。挨拶に、と帽子を取った姿で、アーチは男の職業を覚った。
「お嬢様なら、二階です」
と、アーチは静かに答えた。秀麗な顔には、些か嫌味の籠った笑みが浮かんでいた。
エミリオと彼の母親は、既に床に就いていた。メルカートの商売人は、誰もこんな日が変わるような時刻まで起きていない。
階段を上がりながら、男は恐る恐るアーチの背に向かって訊いた。
「どうしてお判りになったのですか?」
「こんな夜更けに。しかも平服ではない格好でいきなり訪問するなんて、当然おかしいですよ。ロメロ家の執事以外に考えられません」
アーチは、男の方を振り向かずに答えた。
「その通りです、ドットーレ」
「それよりも、どうやってここにイサベラ嬢が居るとお知りになったのか、その方が気になりますね。オレは誰にも何も言っていない」
「偶然、邸に出入りの酒屋がメルカートで見たというのです。お嬢様が、流しのお医者様に連れて行かれたというのを」
「人聞きが悪い表現だな」
階段を上り詰めると、アーチは執事の顔を再び見遣った。
「いえ、悪気はありません。どうかご勘弁を」
そういう執事は、何処か機械めいた頑なさを思わせた。必要以上の発言に慣れていないのだろう。
「ここらに流しのお医者様など、滅多に現れません。皆、町医者がいれば大抵は大丈夫ですから。それで、幸い貴方様のお姿が目立つものでしたので、直ぐに知れたという次第です」
「成る程」
アーチは、軽く二回ノックした後でドアを押し開いた。
「ど・・・」
飛び出して来たのは、パジャマ姿のピーチィ・フィズだった。目の玉が飛び出しそうなくらいに、真ん丸に見開かれている。
「お、お嬢さんが起き出しよった!」
アーチは、ピーチィを押し退けるようにして部屋に入った。
「おいおい」
イサベラは、点滴を自ら引き抜いていた。薄物の寝間着を脱ぎ捨て、元々の黒いオーガンジーのドレスを着込んでいる所だった。
「何か?ドットーレ?・・・あら」
アーチの後方から顔を覗かせた執事を見て、イサベラは極端に顔を顰めた。
「お、お嬢様」
「何しに来たのよ、エステバン」
「何しに、も何も。お嬢様をお迎えに参上したのですよ」
途端に、執事エステバンの口調が乱れた。わがままお嬢様には、弱いらしい。
「・・・余計なお世話よ」
イサベラは黒髪を掻き上げた。そして、ぱっくりと肌が剥き出しになった背中をアーチに向けた。
「上げて頂戴」
「ウチが!」
と、俄に柳眉を逆立てたピーチィが割って入ろうとしたが、アーチは黙ってそれを制した。
アーチは、黙ってイサベラに近付き、縊れた腰に左腕を回すと、手慣れた仕草でドレスのジッパーを上げた。肩越しに振り返るイサベラの目は、やや潤んでいた。どうやら、まだドラッグの効き目は残っているらしい。
腰に回したアーチの手の甲に、イサベラは自分の手を重ね合わせた。だが、アーチはイサベラからごく自然な振る舞いで、離れた。
「エスコートして下さらないの?」
イサベラは、ちょっと不貞腐れたように言って、可愛らしく唇を尖らせた。同じくピーチィもむくれて見せる。
「貴女をエスコートするのは、エステバン執事殿のお役目かと」
アーチは洗練された仕草で、執事の方へと右手を開いて見せた。
「家になんか帰りたくないわ!アナタと一緒に居たいの、ご迷惑かしら?」
「迷惑です」
と、アーチはきっぱりと答えた。だが、イサベラは挫けなかった。アーチの左腕に縋って、切ない瞳を向ける。
「つれない言い方ね。あの時は、あんなに優しくして下さったのに。もう、私の心も身体も蕩けそうになって・・・ああ。これ以上言わせないで。恥ずかしいから」
執事エステバンは、ぎょっと両目を剥いた。ピーチィの鋭い眼光が、射る様にアーチを見据えた。
「アンタまさか?」
「ド、ド、ドットーレ、貴方お嬢様に・・・!?」
「何かしたというのなら、気の所為でしょう。お嬢様は身も心もアーチドという姿の見えない魔物の虜でしたのでね」
アーチは、些か毒を含んだ口調で言った。
「お嬢様の妄想だと仰るのですな」
「いやん。妄想なんかじゃないわ。アナタはあんなに激しく私の事を・・・」
「ラブ・ドラッグというヤツは非常に強力な催淫剤であると共に、幻覚剤でもあるんです。お嬢さまが他の誰かとシコシコやっていても、オレの顔を見たら都合の良いように記憶がすりかわるという訳ですよ」
「ううむ」
「面食い女め」
と、ピーチィは毒づいた。自分の事はすっかり棚に上げられているようだ。
執事エステバンは、少々疑念を残しながらも、イサベラをアーチの腕から引き剥がし、部屋を出た。去り際に、エステバンは振り返った。アーチに一枚の紙切れを手渡す。
「ここに今すぐ、お好きな金額とEマネーの口座番号を書き込んで頂きたい。そして、どうかこの事は御内密に。金は一週間以内に貴方の口座に振り込まれます」
アーチは、右頬にのみ苦笑を押し上げた。空白のまま、入金手続き用紙をつき返す。
「え・・・もがっ」
何か言い掛けたピーチィの口を、アーチは右手で素早く塞いだ。
「オレは生憎、金には困っていない。食えれば問題ないんです」
「それでは困ります」
執事エステバンは、眉を顰めた。
「じゃあ、こう言うといい。『お嬢様は、メルカートの外れの物乞いのテントに倒れていました。物乞いは字が書けないので、幾らかの小銭をやってお嬢様を引き取りました』と」
アーチは、そう言って玄関のドアを閉めた。
「アンタ、何考えてんの!?」
途端にピーチィは、眠気もぶっ飛ぶような大声でがなり立てた。今まで幾度も不発に終ったツケを一辺に払うかのように。
「幾らでも払う言うてんのに。なんちゅう勿体無いことを!」
「マトモな仕事もしてないで、金など貰えるかい。医者のプライドってもんがある」
アーチは耳を押さえつつ、そう答えた。
「何がプライドやの。アホやん。これからの旅路が潤うかどうかの瀬戸際やったのにぃ・・・」
ピーチィは、ぶちぶちと言いながらも、寝室に戻って行った。
アーチは数秒経ってから考え直すと、やはりピーチィの言うように少しばかり勿体無いような気がしてきた。とはいえ、今更前言撤回する訳にはいかない。
「こうなったら、せめてLSDの出所でも突き止めてやるか」
という気持ちになった。アーチは白衣を脱ぎ捨て、玄関を出た。まだ執事とイサベルは、そう遠くへは行っていない筈だ。
壁が薄汚い錆色に彩られていた。まるで、夥しい人血をぶちまけたような色彩に、ミスティ・サファイアは嘔気を催した。その壁面を、無数の蟻が文字を象りながら、覆っていく。
「Bamos(バモス)」
文字は、現実の物となってミスティの耳に届いた。
ミスティは、背中に感じた冷たい感覚から、離れられなかった。手足は自由だ。だが、精神は何かの檻に幽閉されているかのように、とても重く湿っぽく感じられた。
「バモス(さあ)」
目の前の男が、促す。シメオン・パハスだ。
ミスティは、男の掌を見て、抗い難い絶望に苛まれた。男の言う通りにしなければ、快楽はおろか生も与えられないのではないかという。
そして、膝まづいた。
堅固な意思など、無意味でしかない事を、ミスティは身を以って味わっている。意思とは無関係に、身体はこれ以上の快楽を要求していた。
孔雀色のドレスの前は、既にどうしようもなくなっていた。大枚叩いて設えたのが、一晩でパアになろうなど予測もしない事だったが。
男達の汗と涎と精液が、乾き切っていないままシルクの布に粘り付き、ずくずくと気持ちが悪い。酷い悪臭なのだが、最早何も感じられなかった。
両腿の間を、ねっとりとした嫌な感覚が這った。その混合した体液は、ガーターストッキングの内腿から膝下に回り、床に流れた。
「男が欲しくて堪らないだろう?」
シメオンは、四つん這いになったミスティの顔を見下ろし、片膝を付いた。
「欲しいと言ってみろ。ああ?」
尖った顎を持ち上げると、シメオンはにやにやと笑った。
「いい。実にいい格好だよ!」
ミスティの頬は、乾いた血と精液がこびり付いていた。
「これは何だ?」
「・・・・・・」
シメオンは、ミスティの頬を指の腹で撫でた。別の手は、ミスティの固く凝った乳房を鷲掴みにし、鋭い爪を立てた。皮膚に血が滲んだ。
「レチィヤーダ(精液)」
ミスティは、枯れ掛けた声で、答えた。シメオンは、満足げに口唇を歪めた。
男達に過酷な奉仕を要求されて、赤く腫上がった唇は、却ってそれがシメオンの他虐的な欲望を燃え立たせるに役立ったようだ。
鼻っ柱の強い高貴な女を、ありとある体位や責め句で凌辱させた後、その上で自分が最後の仕上げを行うのだ。シメオンの胸と股間は大いなる期待に膨らみ切っていた。ついでに鼻の穴も。
シメオンは、ミスティの唇の端の血の塊を舐め取りながら、背後に控えていた男達二人に指を鳴らして合図した。
男達は、鞍を抱えていた。乗馬時に使う、鞍の事だ。
しかも只の鞍では無い。鉛で出来た非常に重い拷問具の一種であることを、ミスティは一瞥で悟った。だが、指一本抗えない事が知れている以上、どうにもならない。
鞍は、ミスティのくびれた胴に無造作に被せられた。
「ああああ!」
重さと、胴を引き絞られる苦痛と快楽に、ミスティは覚えず声を上げた。鞍の下側に固い革紐が通され、ミステイの括れた胴は、さらに二人の屈強な男達によって引き絞られて行った。
快楽と紙一重の苦痛。身体は無意識に反応して止まないのだった。膝の内側までもが、じっとりと湿っていた。
「ごほっ」
吐くものも無く、咳き込むミスティの鞍の上に、シメオンは跨った。
「キミは凄いナイスバディだよ。だけど、もっとウエストを絞ってやるさ。もっともっとキミの美しさが際立つように!」
シメオンは、狂気の沙汰ともいえる乗馬を始めた。
「あああううう」
「ふはっはは。まぁだまだ!」
シメオンの手には、ナインキャットテールと思しき、びらびらした黒い鞭が振り翳されていた。
「じゃじゃ馬馴らしは、少々手荒くやらないとな!」
鞭の一振りで、ミスティの腿の皮膚は、爆ぜた。幾本もの蚯蚓腫れに似た醜い傷が、斜めに走り、だらだらと赤い血が流れた。
「どうだい。少しは大人しくなったか?」
シメオンは黙って眺めているだけの大男達に、訊いた。大男は、二人共首を縦に振らなかった。シメオンは自分の唇を、長い爬虫類を思わせるような舌で、舐め上げた。
「ならば、お前達、もっとこのメス馬にお仕置きをしてやらないとな!」
男達は、見る間に下穿きを剥いだ。下卑た笑いも、欲望に崩れ切った顔も見せず、男達はシメオンの操り人形のように、動いていた。男達は言われた通りに、ミスティの顔の前と、尻の方へそれぞれ膝まづいた。
男達の身体が、微妙に震えた。
「おうおおおお!」
ミスティ・サファイアの眼前で、赤い飛沫が散った。男の下腹部を切り裂いたのは、一本の湾曲した短剣だった。
大男はもんどりうって転がった。転々と赤い血が床に広がる。
男の一物は、皮一枚残して、見事に削がれていた。後方の男は、手首もろともに、金的に短剣を突き刺したまま、倒れた。
「・・・き、きっさまあ!」
シメオンは矢庭に立ち上がった。衣服は身につけていて紳士然としていたが、シメオンは斯様に馬鹿馬鹿しい姿を他人様に晒していたのだ。
その怒りが、シメオン・ハパスの頬を赤く染めた。
「ジャファル・アル・ハラーン!」
シメオンは、咄嗟に腰に携えていた長鞭を振るった。床を軽く叩いて撥ね上がった黒い蛇は、シメオンの前に現れたターバンの男の右腕を捕らえた。筋肉と言う鎧を纏った腕に、急激な圧迫を受けた青黒い血管がみるみる膨れ上がった。
「ここには、オレが許可した者しか立ち入ってはいけない、とあれ程言ったはずだが!?」
シメオンはふてぶてしい笑みを浮かべた。
だが、ジャファル・アル・ハラーンは眉根一つ動かさなかった。左手が動くや、シメオン得意の鞭は、電光石火で断ち切られていた。
「何ィ?」
ジャファル・アル・ハラーンの左手には、ギリシアの古刀ハルパーが握られていた。
「およそ紳士にあるまじき行為だな、シメオン」
ジャファル・アル・ハラーンは漸く低い声を発した。剃刀にも似た瞳の光は、サディスティック嗜好のスペイン系青年に向けられていた。それを侮蔑と解釈したのか、シメオンは狂ったようにジャファル・アル・ハラーンに向かって行った。
ミスティは、床に突っ伏したまま、最早二人の遣り取りを傍観しているしか無かった。
男が吐く、白く長い煙を、ソーシー・スーは見詰めていた。
「お前。チャイニーズじゃないな」
と、出し抜けに言われて、ジンは戸惑った。テンガロン・ハットを被り直す。何も、こんな所で今更言う事ではなかろう。
ロメロ邸に向かう道すがら、二人の東洋人は世間話をするでもなく、黙々と歩いているだけだった。
「中国人はもっと体毛が薄いし、膝が真っ直ぐだ。オレもそうだけど。でも、コリアンでもない」
「だったらどうなんだ?」
ジンは訊き返した。ソーシー・スーは、ジンの前に出ると、サングラスを無理矢理押し上げた。
「純血日本人か?・・・やっぱりそうなんだ」
ソーシー・スーはあっさりと結論付けてしまった。右手人差指で、ジンの目間(まなかい)を差す。本来、欧米人ならこういう仕草は無礼と取るので、決してしない。
「蒙古襞。南モンゴル系の後裔のしるしだ」
ジンはやや面食らったまま、マルボロの紫煙をくゆらせる。
「身体的な特徴は、混血にだって現れるぜ。オレが純血日本人だったら、どうだって言うんだよ?」
「どうもしないよ。ただ、国連では日本人は一人もいない、って言うからね。アレは嘘か?」
ソーシー・スーは首を傾げた。
嘘ではない。国連の発表は正しい。ジンは、ID登録時になされるDNA検査では、コリアン系とその他ヨーロッパ系のハイブリッドに位置付けられていた。尤も、それは遺伝子的に正しくない。
「ジイサンには、オレは日本人だと聞かされていた。データもその通りだと思ってたんだが、実際そうじゃなかった」
全く別人のDNAデータを添付されているという事実に気付かされたのは、無論アーチレリー・ブールヴァルドの指摘にも拠るが、ヴァティカンに招かれてからの事だ。
だが、殊更に自分のルーツ探しはした記憶が、無い。今もそうだし、今後もそうだろう。
日本人である事が、シルヴァー・ブレットを追う事と何の関わりがあるだろう。
「そのパウダーガンは?」
ソーシー・スーは訝った。街道で対決していた時から、気になっていたものだ。
「《ブラックホーク・ディオファイア》。さぁ、ジイサンの形見というべきもんだな」
ジンは目を細めて言った。腰のホルスターに手をあてる。
「形見?」
ソーシー・スーは目を丸くした。
「何だって、そんな銃をあんたが持ってるのか、不思議でならないよ。それは《神の銃》じゃないか」
選ばれた者のみが持つパウダーガン。《神鎗》と呼ばれる最高のパウダーガン使いのみが所持出来るという、名銃。パウダーガン使いを自認し、《称号》を持つソーシー・スーなら、喉から手が出る程に手に入れたい銃でもある。
「ジイサンは武器職人だったからな。・・・何でオレが持ってんだかねえ?」
と、ジンはまるで他人事のように言った。
「だけど、この銃がオレの運命を変えた事だけは確かだ」
それは、今もって変わり続ける運命の象徴でもある。
ジンは、フィルターだけに縮こまったマルボロを捨てた。路面に靴先で擦り付け、火口を揉み消す。サングラスを掛け直すと、ジンは歩き出した。
ソーシー・スーは半歩下がって歩き出す。
事情はよく分らないが、目の前のこの男が世界最高の銃を持っている事実だけは、確かだ。そして、もしかしたらこの男こそ《神鎗》を上回るパウダーガン使いなのかも知れない。
見たところ、そんな風にも感じられないが。何か、釈然としない気分だったが、今はそういう事を考えている時ではなかった。
遠くで、酒場の喧噪が聞こえてきた。
清潔な部屋にミスティ・サファイアが移されたのは、間も無くの事だった。
ベッドに横たわったミスティは、屈辱の限りを思い起こしていた。それしかする事が無いのだ。
特務巡検使として、大抵の肉体的屈辱には、耐えられる。だが、それにしても何が卑怯だといって、訳の判らないドラッグを飲ませて辱めを与えるという遣り方だ。
シメオン・ハパスと言う男。見かけ通りにケツの穴の小さい男め、とミスティは胸中で激しく罵倒した。
いつもなら、そこらにある塵箱やら花瓶やらを所構わず破壊してしまうところだが、今日という今日はダメージが酷く、身体が動かなかった。
ドアが開いた。ジャファル・アル・ハラーンが入って来た。
ターバンを被っていなかった。
「具合はどうだ?」
ジャファル・アル・ハラーンは無表情に訊いた。ミスティは、憎悪の籠った一瞥を返しただけだ。
「喋りたくは無いか。・・・無理もない。キミはシメオン達に、酷い遣り口で汚(けが)されたからな」
「私は汚されてなんかない」
ミスティは、きっぱりと答えた。恫喝にも似た響きだった。
だが、頭の中はまだ白濁した液体が沈殿しているような重さがあった。
《リヴァイアサン》とかいう訳の判らないLSDカクテルを大量に血管注射され、途轍もない快楽と苦痛を味あわされた以外に、疲労の理由は無い。
「これしきの事で私を汚す事が出来たなんて思ったら、大間違いよ。自分達を買い被り過ぎだわ」
「失敬した。誇り高い特務巡検使ドノ」
ジャファル・アル・ハラーンは道化でなく、心底からそう答えた。ミスティ・サファイアの高貴な横顔は、幾ら手酷い目に遭ってもそのプライドに相応しく凛々しさを保ったままだ。
只の意地っ張りなお嬢様という訳ではないらしい。孤高の心、謹厳な美を誇るムスリムの女戦士もひょっとして、自尊心という点では彼女に敵わないかも知れないと、ジャファル・アル・ハラーンは思った。
シメオン・ハパスは、結局ジャファル・アル・ハラーンに反撃の一打すら与えられず、むしろハルパーで利き腕を傷付けられ、尻尾を巻いて逃げたのだ。
その程度の情けない男にこれ以上無い辱めを受けたという事実が、ミスティの怒りの最大原因だった。
「用が無いのなら、出て行って頂戴」
と、ミスティは冷たく言い放った。唇は相変わらず腫れぼったく、喋るのが億劫だ。喋っているだけで、男達の恥知らずな行為で凌辱を受けた自分が、どぶに首まで漬かっているような気分だ。
「謝罪を用件だとは言わないようだな。キミの意識では」
「謝罪?それ以前の問題よ」
ミスティは、顔だけをジャファル・アル・ハラーンに向けた。青い瞳が燃え盛るように怒りを顕わにしていた。
「何のいわれがあって、この私がアナタ達みたいな薄汚いテロリスト集団に、捕らえられなくちゃいけないって言うの?」
ジャファル・アル・ハラーンは、ミスティの言葉に些かムッとした。ヴァティカン至上主義者の権化ともいえる女巡検使は、ジャファル・アル・ハラーンらヌォーヴォ・ニザリにとっては、許されざる存在に等しかった。一般市民、それも被支配層を虫けらのようにぞんざいにあしらう官吏。虎の威を借る狐。
「貴女の存在自体が貴女自身に危機を招いた、とでも言おうか」
ジャファル・アル・ハラーンは静かに言った。瞳は決して感情を語っていなかった。
再び扉が開いた。
「説明が欲しくば、望みを叶えてやろう」
ジャファル・アル・ハラーンとは別の、もっと野太い声が響いた。部屋に入って来たのは、見上げるような巨漢だった。身の丈二メートルをゆうに越している。二メートル半はあるだろう。
男は常に、お仕着せのドアというドアを、頭を下げて潜らねばならない程だった。
「グドブラーン老師」
そう呼ばれた男は恰幅のいい体を揺すって、ミスティのベッドに近付いた。黒い大きな影が、シーツの上に落ちた。
「我々、ヌォーヴォ・ニザリは数世紀の伝統ある教団の末裔だ」
グドブラーン老師は、ジャファル・アル・ハラーンと並んだ。顎髭は長く伸びていた。だが、隣の中年に差し掛かった勇士と比しても、親子ほどの年齢差は無いだろう。
「長きにわたって逼塞せざるを得ない状況にあったが、決して他民族に屈していた訳ではない。その間、幾たび煮え湯を飲んだか判らないが、もう雌伏の時は終った」
「随分と御都合主義な解釈なのね」
ミスティは口先で言った。
「新たな教国を築き上げるには、いい時期でな」
グドブラーンは、ミスティの瞳を見た。その黒目がちな瞳に、好色そうな光が宿った。
「・・・筋書きは陳腐ね。大抵、ヴァティカンから領地を取り上げるのが目的でしょう?その為に私をダシに恐喝でもするつもり?」
はははは、とグドブラーンは大声で笑った。巨体が揺れる。
「当たらずとも遠からず、だな」
「お生憎様。ヴァティカンは、特務巡検使一人虜になったからといって、使者の一人も遣すもんですか」
ミスティは鼻先でせせら笑った。だが、ジャファル・アル・ハラーンには、その台詞さえも虚しく聞こえた。ひどく張り詰めた細い糸のような、さもなくばひびの入ったグラスのような緊張した声に思えたのだ。
「いい加減虚勢を張るな」
そう言ったのは、グドブラーンだった。
ミスティは、反射的に手を上げた。グドブラーンの浅黒い頬に、蚯蚓腫れのような赤い筋が走る。だが、老師はややよろめいただけで、全く動じる気配は見せなかった。痛みすら感じないかのようだ。
「我々が何も知らないと思ったら大きな間違いだ。キミは枢機卿会の筆頭、グレナデン・サフィールの姪だ。政敵の多い赤絨毯の上で、キミは枢機卿の頼れる肉親であり、部下でもある。それを失ってもいいと思うような伯父上なら、枢機卿になれたかどうかも怪しいものだ」
グドブラーンは演説でも一席ぶつように、喋った。
「最低な遣り方ね」
ミスティは、粘り付く喉を押さえて漸く言った。
「敵に最低、と呼ばれるというのは我々の名誉だよ」
グドブラーンは笑った。
「ああ。キミに屈辱的な行為を示した間抜けな部下の事は、謝罪するよ。まったく、嘆かわしい」
ミスティは、グドブラーンの体裁的な謝罪の言葉など聞く耳持たなかった。グドブラーンは、ミスティに意味ありげな視線を送ると、背を向けた。それに促されるようにして、ジャファル・アル・ハラーンも部屋を出た。
ジャファル・アル・ハラーンは、ドアを閉める間際に、一度だけベッドの方を振り返った。
その時のミスティは、瞋恚に耐えない目付きを天井に向けているだけだった。
サンチャゴ・エル・ブランコの街は静まり返っていた。もうじきカーニヴァル本番というにも拘らず、夜は総ての真昼の出来事が嘘のように無口だ。
メルカートの並ぶ通りの一本南は、所謂歓楽街であるが、そこから洩れる灯りもそう多くは無かった。石畳の上に長い影が伸びている。
それは、伸縮を繰り返しながら、街を西へと進んでいた。
「そういえば、あいつ戻って来ないな・・・」
アーチは呟いた。
相方であるジン・スティンガーの行方は杳として知れない。いつものように一杯飲み屋にでも出掛けたと見たが、真夜中になっても帰って来ない。
それ程金を持っているわけでもなかろうに。せいぜい安酒を軽く二、三杯引っ掛けるくらいのものだ。さては懐のあったかい飲み仲間でも見付けたか、女衒に言い包められて商売女でも抱いているのか。
だがどうでもいい。今から起こるだろう事には、一切関係なさそうだから、とアーチは判断した。
執事とイサベラの姿は、もう見えなかった。だが、市長邸に戻る以外に考えられない。
「LSDだけではなく、大麻樹脂を混合しているならば、恐らくは供給の為に何らかの形で組織的に大麻が栽培されている。大昔から、そういったイリーガル・ドラッグの密売で甘い汁を吸ってきたのは、ストレートに考えて東南アジアや中東のマフィア組織だが・・・」
アーチは、ふと足を止めた。
四つ角の、向かって真北からは酒場からの灯りが洩れ出して来ていた。その上に頭の長く伸びた薄い影が重なる。
微かに、その影が揺らめいた。
アーチは振り返ると、猛然と走り出し、息も吐かせぬ素早さで路傍に佇む男の腕を掴むや、建物の隙間に押し込んだ。
不意に真っ暗がりに連れ込まれた男は、茫然とした面持ちだった。
「テロ神父。あんたこんな所で何してる?」
アーチは男の鼻先に息が掛かるほど顔を近付けて、言った。声色は奇妙に優しかった。
「よ、ようドットーレ」
テロ神父ことジョー・クリサンスマム異端審問官は、右手を挙げた。相変わらずの無精髭が、やや角張った顎を縁取っていた。僧帽は被っておらず、短僧衣の胸元は大きく開いていた。
「いきなり乱暴だな。襲われるかと思ったぜ」
「ふん。生憎、男を見ておっ勃つシロモノは持ち合わせていないんでな。エラドゥーラの村でのお返しだ」
アーチはそう言って、ジョーの胸倉を掴んでいた右手をぱっと離した。ジョーは、よろめいて背中を冷たい壁にあずけた。
しかしジョーは、やに下がった笑みをアーチに向けた。
「何だよ、そんなおっかない顔して。男前が泣くぜ」
「オレだって不機嫌な時もあるさ」
アーチは、通りを見遣った。誰も通っていない。
「・・・こんな所であんたの顔を見るとは思いも寄らなかったがな」
「むしろそりゃ、オレの台詞だよ」
ジョーは、開いた僧服の懐から、いつものダンヒルを取り出すと、軽く一本咥えた。
「お嬢さんを尾行(つけ)ていたら、あんたがのこのこと出て来たというワケさ」
ライターを探り当てるのに時間が掛かった。青白い炎が、二人の男の口元をぼんやりと照らし出した。
「イサベラ・ロメロの事か?」
「それ以外に、この街でお嬢さんなどいるかよ。まったく、スベタばっかりだ」
ジョーは聖職者らしからぬ発言で、紫煙を噴かした。
「あんたの方こそ、お嬢さんのケツを追っかけてるところを見ると、イカレちまったワケじゃあないだろうな?」
「まさか。まだほんの小娘じゃないか」
と、アーチは片眉を歪めて笑った。
「そうだろう、そうだろう。女は熟し切らないとな。・・・で、ぶっ倒れたお嬢さんに何があったってんだ?」
「そこまで知ってるんなら、想像が付くだろう?」
アーチは、ジョーに向かってドラッグを嗅ぐ仕草をしてみた。ジョーは、咥え煙草で苦笑する。直ぐにピンと来るところが、素人ではない証拠だ。
「成る程な。ヌォーヴォ・ニザリが絡んでるというワケか」
「ヌォーヴォ・ニザリ、か・・・」
アーチは腕組みした。ジョーを置いてきぼりにして、アーチは再び歩き出した。
ヌォーヴォ・ニザリ教団の噂を、ジョー・クリサンスマムが聞いたのは、かれこれ三年程前だった。
新たなるニザリ派、暗殺教団の手に拠って同僚の一人が落命したのは、ジョーの記憶に新しい。
だが、それは飽く迄、反ヴァティカン勢力の見せしめというよりは、向こうに言わせれば単なる手違いに過ぎなかったというのだが。
真相はどうだか。
それが元で、以前のナヒチェバンのように紛争が始まったわけでも、表立ってヴァティカンとヌォーヴォ・ニザリが険悪な関係を露呈したわけでもない。
「うろたえない事が賢明な遣り方という事だ。うろたえた時点で、お互いが同レベルと見なされる。その点では、現教皇は極めて賢明といえるだろうな」
ジョーは、言った。タバコのフィルター近くまで、灰に変わっているが、この男は落ちるがままの万有引力に従うのみだ。
或いは、大いなる皮肉とも解釈出来る言葉を、アーチはさらりと聞き流した。
「あんたは同僚の敵討ちでも?」
「いや。サフィール枢機卿のご命令だ」
ジョーは、漸くタバコの灰を払い落とした。途端に、仕方ないという表情になった。
「しっかし、幾らヤツらの庭に近いからって。オレ様はヴァカンスの最中だぞ」
「七週間以上もか。優雅なこった」
「オレは働くのキライでな」
へえ、とアーチは空を見上げた。星が輝いている。ということは、月が見えないという証だ。
「枢機卿は、オレには一言もそんな事は言っていなかったがな。まさか十字軍の昔の怨恨を晴らそうという訳じゃあ、あるまい」
アーチは、揶揄めいて言った。
かつてのニザリ派暗殺団の猛威は、西アジアに限られたものではなく、十字軍までもが苦しめられた。トリポリ伯コンラード、アンティオキア侯レイモンドなどの有名な首領までもが、ニザリ教団の手のものによって命を落としている。
イスマイリ派の一派であるニザリは、同源であるイスラム教とて他宗派のものは、多く殺せば殺すほど良い、という信念に基づいて暗殺を行ってきた。ニザリ以外は総て邪教である、と。
それも、有力者であればあるほど、有効であり、一般市民は狙わない。スルタンでもカリフでも、富裕者でも構わない。ニザリの暗殺理由は、報復あるいは、戦争状態における必要からだった。
「・・・判ってるんだろ?」
ジョーはアーチに向かって片目を瞑って見せた。
アーチは、今度は苦々しい笑みをジョーに返した。ジョーは、フィルターだけになったタバコを道端に吐き捨てた。
「こいつはまるっきり、異端審問所の管轄だ。サンピエトロ広場での、テロル。あの連中は、ムスリムだ。手の込んだ真似をしやがる。うまくローマ人に仕立て上げてな」
「それがヌォーヴォ・ニザリの手の者か」
と、アーチは大きく息を吐いた。
「どうりで枢機卿があんたを使いたがる筈だ。あんたは元プロだからな」
ふ、とジョーは笑った。
だが、アーチはそれ以上何も言わなかった。
ヌォーヴォ・ニザリは傀儡に過ぎない。組織そのものは、大昔にバグダッドのカリフ王朝を大いに脅かしたような強大な勢力はまだ有していない。成る程、異教徒のしかも首領級を暗殺する目的としては、対象に教皇シクトゥス13世を選ぶこと自体、不自然でない。
そして、少なからず教皇が暗殺されることに拠って、かつてない利益を被る者こそが、その黒幕だ。
直接自分が手を下さず、強力無比な暗殺集団である、ニザリ教団と交渉出来る力量を持つ者。
エラドゥーラの村で、アーチがミスティ・サファイアに書いて寄越したその人物の名前。
「ふん・・・。だが、彼が本当に手を引いたかどうか、オレは現場を見た訳じゃない。又聞きの又聞きに過ぎない。真実は、いつも黙って目の前に差し出されるモノじゃあない」
アーチは、ふと女巡検使に殴られた右頬を撫でてみた。まるで、あの時のミスティの顔は、喪家の子供のような、迷った表情だったな、と。
あんな顔をされると、罪悪感を感じるではないか。
「で、どうやって中に入るつもりだ?」
ジョーは後方を指差した。アーチとジョーの二人は、壁を背にして立っていた。ロメロ市長邸の壁である事は、言うまでも無い。
「正門から入ろう、と思ってたんだが」
アーチは答えた。
「しかし、正門から、という時間ではないねぇ」
「時間を気にしてたら、愛は語れないぜ」
「へ?」
「お嬢さんに会いに行こうじゃないか。まだおネムの時間には、少し間がありそうだ」
アーチは、ジョーの首根っこをむんず、と掴んだ。
光も殆ど射さない薄暗い部屋。時間の感覚さえも、定かではない。
がらんとした殺風景な部屋で、ミスティ・サファイアはいったい何日過ごしたか、覚えていない。凌辱を受けてから、昏睡でもするように眠ったのは、丸一日か、二日か。
汚れ切って、破れたドレスは剥ぎ取られて、手術衣のようなものを着せられていた。
それらの作業すべてが、女性の手で行われたものでないことにも、ミスティは何の感慨も無かった。
恐らくは、ここは地下室だ。トイレットは室内のドアを通じての、小さな個室があるだけの狭い空間だ。窓も無い。
だが、ドアの向こうに空気を感じる。
時折、見回りの人間の声が反響するのが耳に残るからだ。狭い場所では無い。ある程度、少なくとも邸宅一個分以上の広がりを持つ空間が、ここにはある事を、ミスティは肌で感じた。
「ロメロ邸の地下?いえ、それにしては広い」
普通、あの程度の邸宅なら、地下にワインセラーやシェルターを持っている。だが、ミスティのいま軟禁されている部屋自体が、相当に広い。ベッドと椅子が一個ずつでは、まるで大海に救命ボートが浮かんでいるかのような比率だ。
矢庭にせっかちなノックが聞こえ、承諾もしていないのに誰かが入って来た。
ジャファル・アル・ハラーンだった。
食事の時間ではないらしい。尤も、ミスティは、普段の食事には殆ど手を付けていない。
「今朝も食事を殆ど残していたようだな」
と、ジャファル・アル・ハラーンは言った。その言葉で、ミスティは大体の時刻を知る事が出来た。
「不味くて、喰えたもんじゃないわ。山羊の乳なんて嫌いよ」
ミスティは言った。
「それでは体力がもたない」
「大事な人質だから?さんざか随分な目に遭わせておいて、今更心配されても仕方ないわ」
ミスティは軽蔑の眼差しを、ジャファル・アル・ハラーンの端整な顔に向けた。本当は、その言葉が自分にそのまま撥ね返って来ることも、充分に承知していたが。
総ては自分の慢心が招いた、という事を。
「もう、おじさまには脅迫を寄越したの?『ドジで間抜けな姪を迎えに来い』とでも」
ジャファル・アル・ハラーンは、首を横に振った。
「頃合を図らずとも、いずれ直ぐに知れるわ。私がサンチャゴ・エル・ブランコから、いえ、ロメロ邸から姿を消したのを知っている人間もいる」
ミスティは、ふとソーシー・スーの事を思った。だが、あまりアテになりそうではない。そう思える余裕が出来たことは、喜ぶべきだが。
ジャファル・アル・ハラーンは、ベッドの端に腰を下ろしているミスティを、見下ろした。すとんとした裾から、長くて形の良い脛が見えているのを、ジャファル・アル・ハラーンは、むしろ痛々しく思った。
「私は、老師の方針には一切口出し出来ない身分でね」
「只の用心棒は黙っていろ、という訳ね」
ミスティは皮肉めいて言った。
「あの、シメオン・ハパスとかいう腐ったイカレ野郎もヌォーヴォ・ニザリなの?」
いいや、とジャファル・アル・ハラーンは答えた。
「ヤツは老師の持つトラフィック(ドラッグ密売ルート及び組織)にたかる、ハエのようなものだ。ムスリムではない」
ジャファル・アル・ハラーンは、やや侮蔑を含んだ口調で言い、ミスティから顔を背けた。
「ハエにたかられるゴミ溜めというわけね、ここは。せいぜい私も、ゴミ溜めに相応しい女ということかしらね」
ミスティは、ブルネットを掻き上げた。髪は櫛通りが良くない。不快を覚えたくらいだった。ジャファル・アル・ハラーンは、黙っていた。
「自分を卑下するのは止した方がいい。見ていて気持ちのいいものではないからな」
ジャファル・アル・ハラーンは、言った。ミスティは、意外に思った。ジャファル・アル・ハラーンのような堅物そうな男が、自分に対して労うような言葉を発したからではない。この男も、ここをゴミ溜めである事を否定しなかった。
「それは慰めのつもり?そんな安っぽいものは要らないわ」
「とんでもない。私見だ」
「で?アナタはグドブラーン老師から、落ち込んでる私に無理にでもまずい飯を口に押し込んで来い、と仰せつかった訳なのね」
それでもミスティは、皮肉めいた口調を止めなかった。ジャファル・アル・ハラーンは、ミスティの蒼褪めた顔を見詰めた。まるで愛玩動物以下の扱いを受けても、決して尊大さを失わない美貌が、ジャファル・アル・ハラーンの心を却って、痛め付けた。
雇われの身でなければ、無闇にこんな高嶺の花を手折るような真似はしないだろう。そう思うと、自分が羞恥さえ覚えるような、相手の気高さ。
「・・・キミは何で、特務巡検使のような仕事を?」
ミスティは、訝った。何を訊き出すのかと思えばだ。
「訊いてどうするの?別にヴァティカンの機密に関わるような事は、何も出てこないわよ」
「どうもしない。訊いてみたかっただけだ」
ジャファル・アル・ハラーンは、むっつりとしたまま答えた。ミスティは、やや軽蔑したような、面映いような笑みを、ぎごちなく唇に浮かべて見せた。
「伯父貴の為だと思ったのよ。でも、結局は私自身の為でもあるわ。伯父貴は、サフィール家は、零落貴族の家系なんて民間人と殆ど同じ。そこから僅か数十年で成り上がった伯父貴に、ヴァティカン内での真の味方はいないわ」
ミスティは涸れた喉を鳴らしながら、喋った。
「だから、私が伯父貴を蔭に日向に守ろうと思っただけよ。父親代わりのようなものだったからね」
ジャファル・アル・ハラーンは、眉根を寄せた。精悍な面差しが曇る。
「何か?」
「ただの我儘お嬢さんというのでは、ないようだな」
「そうでもないわ。買い被らないで」
ミスティは、ベッドの上に両足を戻した。ジャファル・アル・ハラーンの口髭は、プロパガンダのような物かも知れない。髭がなければ、もっと若く見えるのだろう。
「喉が渇いたわ。何か飲み物を頂戴。それと、着る物も」
と、ミスティは命令口調で言った。ジャファル・アル・ハラーンは無言でミスティに背中を向け、部屋を出て行った。
後ろ手に扉を閉じたジャファル・アル・ハラーンは、複雑な思いに囚われはじめていた。
「あの時・・・」
ジャファル・アル・ハラーンの脳裡で、カンパニーレ(鐘楼)の音が大きく鳴り響いた。サンピエトロ広場で見た、葬儀の光景。仲間が弔問客に紛れて行く、葬列のうねりを、大きなうねりをジャファル・アル・ハラーンは、入口の隅で見ていた。
警護の衛兵が並び、続いてSPが並び、その中に一際自信に満ちた美しいミスティ・サファイアの姿を初めて見た。
「お久しぶりです」と言ったのは、一方的ではあったが、ジャファル・アル・ハラーンの、ミスティに対する敬意だった。
仲間が殺されていくのよりも、ジャファル・アル・ハラーンにとっては、ミスティ・サファイアの輝くばかりの自信が奪われていく事が、気懸りだったのを思い出した。
ヌォーヴォ・ニザリの者が、彼女の大事なおじさまの命までも狙ったと知らしめていいものかどうか。
ジャファル・アル・ハラーンは眩暈を覚えずにはいられなかった。
「お嬢様は、いったい何処へ行ったってんだ!?」
シメオン・ハパスの大声が響いていた。大通りである。夜の夜中なので、誰も若者達の酔狂な喚声など、本気で耳を傾ける者はいない。
「おい!イサベラは何処だっつってんだ」
シメオンは、連れの男の耳朶を思いっきり抓り上げた。髭面の若い男は、目から火花を散らした。
「いでっで。兄貴ぃ、離してくださいよう!」
「なろぉ、これが離せるかっての!あのカネヅルがいねえと話になんねえんだよ、おい!」
シメオンは強かに酔っていた。二枚目顔が、完全に赤らんで只の酔っ払いに成り下がっている。千鳥足だ。連れの男達三人は、シメオンに比べてまだしも軽い酔いの域を過ぎないが。
「ちくしょう!」
シメオンは男達の腕を振り払って、道端の缶を蹴り上げた。鈍い音がして、円柱形が飛んだ。
先日から、どうも胸糞悪い事ばかりだ。
折角、ロメロ邸でのパーティで、スーパードラッグ、LSDカクテル《リヴァイアサン》の定期的購買を確約して貰ったというのに。
イサベラ・ロメロには、以前から目をつけていた。頗るつきのお嬢様だ。可愛らしくて美しい、そしてちょっと高慢ちきな花を手折るのが、シメオンの目的に他ならない。
行き掛けの駄賃とばかりに、シメオンはその二枚目ぶりを発揮して、イサベラを誘惑した。まるで赤子の手を捻るように簡単だった。
お嬢様は、たったの一回で、すっかりドラッグに参ってしまったのだ。
「イサベラの乱痴気なエロ写真をばら撒いて、市長を強請ってやろうと思ってたのに・・・逃げやがって!」
シメオンは、男達の頭を思い切り素手で殴り付けた。
「お前らの所為だぞ!大バカのコンコンチキめ!とっとと捕まえて来いよ!おらおらおらおら!」
シメオンの脳内で、エンドルフィンが湧き出したようだ。男達は、石畳に這い蹲って、シメオンの靴底に踏み躙られている。
「何とか言え!うりうりうりうり!捕まえないと、お前らもエライ目に遭うぞ」
「ひいいい!兄貴ィイイイ!」
夜更けの路地に絶叫がこだまする。
シメオンの怒りの対象は、既に別の人間に移っていた。
「・・・ジャファル・アル・ハラーンめ」
シメオンはまるで百年の仇にでも出会ったかのように、唸った。その相手は目の前にいないことも判っていたが。
イサベラの代役ともいうべく、女巡検使ミスティ・サファイアはシメオンのサディスティックな欲求を満たす対象だった。
あんな逸材は滅多に無かったのだ。キツネ狩りをしていて、豹を仕留めたかのような盲亀の浮木。それを台無しにしてくれたのだ、あの暗殺者は。しかも、手下二人を不具にしてくれたではないか。
「折角、盛り上がってたのに。いいところだったのに!許せん。ムスリムの××チン野郎め!」
げしげしげし。シメオンは、男達の頭を交互に踏ん付けた。
「このこのこのこの!お前らも許せん。お前らは、オレ様よりも先にあの女にブチ込みやがった!」
「そ、それは兄貴の命令だったでやんしょ・・・いでっでで!」
「フン!」
シメオンが大きく鼻息を噴出し、痛恨の一撃を手下どもに食らわせようとした時だ。
ぼごっ。
シメオンの後頭部を、鈍器のような物が直撃した。
石畳の上に落ちたのは、さっきシメオンが蹴った缶だった。
「なっ、何しやがる!手前ら、何処のどいつだ!?」
シメオンは、後頭部を押さえつつ、ファイティング・ポーズをとった。
目の前に立っている二人組みは、如何にも怪しい。テンガロン・ハットにこの夜更けでもサングラスの男。そして、蟹股のそばかすが残っていそうなチビ東洋人。
「空き缶はゴミ箱に捨てろ」
最初にシメオンに口火を切ったのは、テンガロン・ハットの男ジン・スティンガーだった。
「け。しゃらくせえ事抜かしやがる。スカしてんじゃあないよ」
シメオンは笑った。
「それと、弱い者いじめは関心しないよ」
チビのソーシー・スーが言った。シメオンは、酔いも手伝って大胆になっている。こんなシケた二人組の言う事など一々聞いていたら、御天道様も西から昇るというものだ。
「へへへへ。言ってくれるじゃん。お前らも、こうなりたいのか?」
シメオンは、親指を立て、挑戦的な目付きで二人を睨んだ。
ジンとソーシー・スーは、お互いを見遣った。それが、合図だった。シメオン・ハパスが右手を後へ回した瞬間、ジンはガンベルトから《ブラックホーク・ディオファイア》を抜いた。
「な?」
だが、シメオンの鞭が唸るよりも早く、その懐に飛び込んだのは、44マグナム弾ではない。ソーシー・スーの両腕だった。衣擦れの音だけが、ギター・リフのように低く唸った。
ばばっ。ばばばっ。
「うおおおお」
シメオンの身体は背中から路面に倒れた。虚しく8の字を書いた鞭の先が、ぽとりと石畳について、死んだ蛇のように動かなくなった。
「何やったんだ?ソーシー・スー」
ジンは、きょとんとなった。目の前の寸詰まりな中国人は、シメオンが鳩尾を押さえ、藻掻き苦しんでいるのを、見下ろしていた。
「秘孔を突いてやったんだよ」
「秘孔?」
「人体に数百とある秘穴のことさ。ツボといったほうが判りやすいかな」
「ツ・・・ボ。はー」
ジンは、改めて感心した。成る程、巡検使補というのも、あながちバカには出来ないな、と。
「こんな腐れ外道に、高価な銃弾をくれてやるのは勿体ねえな、確かに」
「薄らバカに関わってないで、さっさと行こう。ロメロ邸はもう見えてるし」
ソーシー・スーはジンの革ジャンの袖を引っ張った。
「ロ、ロメロ邸・・・貴様ら・・・」
シメオンは、腹を押さえながら芋虫のように這って、二人に顔を向けた。
「貴様ら、ロメロ邸に何の用だ!?」
「ああ?」
ジンは、あからさまな侮蔑の態度をシメオンに向けた。
「お前にゃ関係ねえよ。それとも何だ?お前が道案内でもしてくれるってえのか?」
シメオンにとっては、実に屈辱的な言葉に聞こえた。ここらのゴロツキ共を一手に締めている、やり手のブローカーでもあるシメオン・ハパス様が、通り縋りの小僧っ子二人にやられたなどと、話にならない。
シメオンは、自分の風評を憂えた。ここで、おめおめと二人をロメロ邸に行かせてしまったら、シメオンのカリスマはイカロスの墜落と同じだ。
「ふ・・・。誰が道案内なんか。お前らのような、薄汚いガキが立ち入れるような場所だと思うてか?」
シメオンは、痛む腹を押さえつつ、声を立てて笑った。ジンは、首を傾げた。
「何も真正面から入るとは言ってねえ。バカか?お前は」
その一言が、シメオンのプライドを大きく傷付けた事はいうまでもない。
「バカをバカと言って、何が悪いんだ、バーカ」
「何おう!?」
シメオンは鞭を掴むや立ち上がった。が、その胸倉をジンの両手が掴み上げた。
「お前さ、ロメロ邸に出入りしてるような口振りじゃあねえか?だったら、オレ達を入れてくれるのは簡単だよな?」
「くぬぬぬぬ」
シメオンは、歯軋りした。得意の鞭は、こんな至近距離では使いようが無かった。それに、思いの外ジンの腕は鍛え抜かれていて、シメオンの反撃出来る余地などない。
「どうよ?」
シメオンの右脇で、ソーシー・スーが笑った。扁平な顔が憎たらしいが、シメオンは唾を吐く事すら出来なかった。本当についていない。ここ数日間は、幸運の女神もサンチャゴ・エル・ブランコを出て、何処かヴァカンスにでも出掛けているのだろうか。
門扉が開かれてから、数分が経過した。インタフォンに出たのは、執事エステバンだった。エステバン、お嬢様の忠実な守役は、命の恩人の声を聞き分けた。
「少々お待ち下さい。ドットーレ・ブールヴァルド」
柔らかい声だった。
アーチは、まんじりともしない気分で漆塗りの堅牢なドアの前に立っていた。前庭を抜け、雨除けのピロティを潜ったところに、実際の玄関が存在した。市長一家は既に眠りの谷だ。時刻は午前一時を回った頃だろう。
「なあ」
傍らのジョー・クリサンスマムが言った。
「本当に入れてくれるのか?」
アーチは、不審顔でタバコを燻らすジョーに向かって、にっと笑って見せた。
「こいつがあるさ」
アーチがショルダー・ホルスターから抜いたのは、《キングコブラ・バニッシュメント》だった。
「この悪党・・・」
ジョーは、臼歯まで見せた。
重々しく、両開きのドアの左側が開いた。薄明かりが、外の二人の足元に零れた。
「夜更けに申し訳無いね」
と、アーチは隙間からそっと覗くエステバンの顔を見た。執事は、明らかに冴えない顔色をしていた。それが、眠気から来るものでない事は、誰の目にも明らかだった。つくづく嘘の吐けない男だな、とアーチは思った。
「先程は、大変お世話になりまして。して、御用向きは・・・?」
エステバンが言い掛けた時、アーチは力任せに右側の扉を蹴った。
「お嬢様と愛を語りに」
鈍い音がして、留め具と蝶番が外れた。黒檀に漆塗りの重厚な扉がいとも簡単に開いた。
ジョーは懐で暖めていた《パイソン・ブラザーサン》を素早く抜く。
ヂャ。
銃口と銃口が向き合った。
「お!」
38口径と44口径。《パイソン・ブラザーサン》と《ブラックホーク・ディオファイア》。
「てっ、手前ら〜!!」
ユニゾンで大声を放ったのは、ジョー・クリサンスマムとジン・スティンガーだった。向き合う二人を、あんぐりと大口開けて見ているのも二人。アーチとソーシー・スーだった。
「何でここに!?」
ジンとジョーは言った。
「それはこっちの台詞だ、テロ神父。あんたまだこんな所で何やってんだ?」
「聖務に決まっとる!それより何だ?悪の巣窟にお前がいるって事は・・・」
「まだ悪の巣窟と決まったワケじゃない」
と、二人の間に割って入ったのは、他ならぬアーチだった。ジンはあっさりと《ブラックホーク》の臨戦態勢を解除し、サングラスを外すと、アーチに詰め寄った。
「お前こそ何なんだよ。ジョーと二人で何企んでんだ?」
「そっくりそのままその台詞を返すぜ。えっと、そこのボウズは何て名前なんだ?」
ソーシー・スーはボウズと呼ばれて、犬っころのように激しく反応した。圧倒的優位と見える人物に対しては、無意識に身体が縮こまってしまうようだ。この野郎、と思う気持ちをジンは辛うじて呑み込んだ。左手は、ソーシー・スーの頬に向けて既に拳を握り締めていたのだが。
「ソーシー・スーと言います!」
「お前が『《銃星》ソーシー・スー、とかいうケチ臭い野郎』か。・・・・ま、いいや。お前こそソーシー・スーと二人で何企んでんだ?」
ジンは、顎をしゃくった。何だかとても逆立ちしても敵わないような色男に、とんでもなく気に食わない言い方をされたようだったが、ソーシー・スーはややびびった表情でジンの顔を見上げると、頷いた。
第三章に続く
「前回までのSTORY」へ戻る