第十三話
 〜ドラッグ・パラドキシア di narcotrafficante
(後編)


第四章  負け犬は陽を見て吠ゆ LOSERS’RE ALWAYS IN THE PUDDLE

 薄い水割り。透明な氷山が浮ぶ琥珀の海を飲み干すと、その向こうに湿気た暗い窓が見えた。
 ジョー・クリサンスマムは、脚を組み換え、テーブルの上のダッシュ・クォーターに指を滑らせた。
 飲み相手は、長い休憩に入ったまま戻って来ない。用便にしては長過ぎる。タバコでも買いに出たのだろう。
 ここは、そういう風に無造作に出入りしていても構わない、大衆酒場だ。前金を払って飲む。
 古びたダッシュ・クォーターは、銀が黒く縁取られていた。
「・・・とは言ったものの、やべえよな」
 ジョーは、呟く。
「本当にジャファル・アル・ハラーンが言う通りなら、今頃テロリストはまたぞろヴァティカンに侵入しているってえ訳だ」
 冴えない頭で考えても仕方ない。だが、気になるのはその事以外に無い。
「テロリスト・・・」
 何処まで行っても付いて来る亡霊のような言葉。ジョー・クリサンスマム、いやジョセフ・クロスフォードという過去の亡霊は、重い十字架を背負って横たわったままだ。消えてしまうなんて都合の良い事は、永遠に無い。
 ダッシュ・クォーターにグラスの水滴が触れた。
 ジョーは、待てども来ない待ち人の名前をふと、口にする。
「ジャスミン・・・」
 銀貨は、娘の履いた靴に填められていた。
『ローファーにコインを填めて歩くと、良い事があるそうよ。でも、片方無くしてしまったわ。もうこれ以上良い事はないのかもね』
『もう?』
『あなたに会って直ぐに無くしたみたい』
 そんな短い会話が、十数年経った今も耳に残る。
 食えなくなっても、ジョーはこのコインだけは手離さない。勿論、普段そのダッシュ・クォーターはジョーの履き古した靴に収まっている。
 バールの扉が開いた。急に入り込む、雨上がりの湿った空気。そして、入れ替わりに出て行く、賑やかな声。
 ジョーは空のグラスに唇を付け、溶けた氷を舐めた。
 男の立てる高い靴音に、誰も注意を払う者はいない。男が如何にも半年掛けて仕立てたような分厚い紺のロングコートを羽織っていても、長く伸ばした銀髪が稀有であろうと、誰も気に留めない。そういう所なのだ。
 男は、入口側のカウンターで、高級なスコッチのボトルを示し、奥へと進んだ。
「ご一緒しても構わないだろうか?」
 男は、紳士的に言った。ジョーは、黙って氷を口に含んだまま、そっぽを向いていた。
 ジョーの返事が無いので、男は自ら椅子を引いた。ジョーの左手が、男の右手を遮る。
「・・・連れが戻って来るんでね」
 ジョーは、顔を上げた。
「久しぶりだな。キール・ロイヤル・スタンレー」
 無精髭を撫でるジョーの前で、スタンレーは微笑を作った。中高の端整な面差しに、漸く人間じみた表情が浮ぶ。それ程に、取り乱した顔を他人に見せない男。虹彩さえも殆ど意識的にしか動かさないかのように、見える。
「《鉄仮面》スタンレー。貴様がこんな所で何の用だ?」
「何の用と訊かれて、答えない訳にはいかないが・・・貴方こそ」
 スタンレーは、起立したまま言った。小雨に濡れたコートの襟に、玉のような水滴が散っていた。
 ジョーがキール・ロイヤル・スタンレーに会ったのは、一体何年前だったか。少なくとも、五年は経っている。実に、研修生だったスタンレーはエグゼクティブ・インスペクター(警視)。今や堂々たる役職付きではないか。ジョーはヒラのままだが。
「辺境から上に栄転したんじゃなかったのかい?それとも、地べたの女が気に入ったか?」
 ジョーは揶揄半分で言った。スタンレーは、縁無し眼鏡の下の眉を顰めた。だが、不快な表情では無い。そして、独特の畳み掛けるようなキングス・イングリッシュで話す。
「確かに。好い女は幾らもいます。例えば、貴方の上司の姪御ドノのような聡明で美しい、手の掛かる女とか」
「成る程。まあ。女の話はよせや」
 ジョーは手を振った。テーブルにスコッチが運ばれて来る。スタンレーは椅子を引き、ジョーにスコッチを勧めた。
「この度、私が上層部から仰せ付かったのは、他でもない。トラフィックの追跡でしてね。で、下へ降りてきたらここまで辿り付いたんです」
 スタンレーはごく掻い摘んで経緯を述べる。ジョーは、スコッチをちびちびと舐めながら、自分の肩を解す。
「またしても、ヌォーヴォ・ニザリ絡みか・・・」
「貴方もですか」
「面白くねえが、同じ穴の狢ってえ事だよな」
 ジョーは、仏頂面で答えた。
 スタンレーは、至って静かにグラスに唇を付ける。だが、その後とうとうと流れる水のように語った。
「イリーガル・ドラッグの密売買は今に始まった事ではありませんが、上では相当深刻な問題になっているんですよ。かつては大戦前後に華やかなりしスパイ稼業は、皮肉な事に今やトラフィック追跡に血眼です。私もその一人ですが」
 スタンレーが喋るのを、ジョーは黙って聞いていた。
「・・・《リヴァイアサン》というLSDの噂は御存知ですか?」
 ああ、とジョーは大きく息を吐いた。
「知ってるも何も。ここの市長宅じゃ、ドラッグ・パーティだの乱稚気騒ぎだのが催されていてな、そこで御使用になっておられるのが、そいつさ」
 スタンレーは、表情を固くした。動揺では無いが、虚を突かれた感じがしたのだ。ジョー・クリサンスマムが其処まで知り得ているとは、まさか思わなかった。
「情報提供だ。おごれや」
「フフ。いいでしょう」
「ツキがねえな。オレも」
 ジョーは頭を掻いた。
「お前さんと遭うと、ロクな事件にならねえんだよ。これがオレのジンクス」
「そうですか。私は光栄です。貴方と遭った後から、トントン拍子に良い仕事が出来ましたがね」
 スタンレーは一気にストレートのスコッチを干してしまうと、立ち上がった。
 ジョーは、遠慮無く二杯目を手ずから注ぐ。氷は既に飴玉程の大きさになっていた。
「これから何処へ?」
 スタンレーは、優雅な仕草で振り返った。真っ直ぐな銀髪が翻る。
「おや珍しい。貴方が他人の行く先を気になさるなんて」
「妙な事を考えちゃあいないだろうな?警視ドノ」
 ジョーは、皮肉めいた笑みを浮かべた。その青灰色の瞳の中の虹彩が窄まる。
「妙な事?」
 スタンレーは、相変わらずの無表情のまま問い返した。ジョーは、右腕を突き出し、やおら握った拳から中指を立てて見せた。イングランド人に対する、最も侮辱的なジェスチュアだ。
 ジョーは、ゆっくりと深呼吸して言葉を紡ぎ出した。
「ヤツらはオレ達が仕留める。後からのこのこやって来て、シマを荒らそうなんて千年早いぜ、チャーリー(チャー公。イギリス野郎)」
「・・・法の執行に後も先もありませんよ」
 スタンレーは依然として鉄の仮面を外さずに応えた。
「それでもどうしてもと仰るなら。せいぜい後で吠え面掻かないように、ミック(じゃがバタ。アイルランド野郎)」
 バールの扉が閉まった。ジョーは、憮然としたまま二杯目のスコッチを飲んだ。
 喧噪の中で、ジョーは再びドアが開く音を聞いた。
「ひゃあ。タバコ買いに出たら、降られちまって」
 ジン・スティンガーは、ジョーに言い訳した。テンガロン・ハットが濡れていた。ジョーは、ジンを見上げる振りもしない。
「お前。そこで見知った顔に出くわさなかったか?」
「いや」
 ジンは、たった今までスタンレーが座っていた椅子にどっかと腰を下ろした。テーブルの上の新たなスコッチの角瓶に漸く気付き、サングラスの下の目を輝かせる。
「おお!どうしたってんだよ、この高級品はぁ」
「粋な通りすがりの計らいで、な」
 ジョーはそう答えただけだった。脳天気野郎。だが、ジョーは何故か可笑しくなった。

 通り雨は上がり、外はすっかり暗闇に彩られていた。ミスティ・サファイアは目覚めると、気怠いような自分の身体を引き摺り起こした。湿った暑さが、部屋に籠っていた。他人にも明らかにそれと分るような、独特の匂いを発散している。
 喉が渇くと、氷が手の届く範囲にあった。
 本来は、看病に使うものだったが。
「・・・ニヒル・エスト・イン・インテレクトゥ、クオド・プリウス・ノン・フェリト・イン・センス」
「《初めに感覚の中に無かったものは、知性の中にも在り得ない》。一体、何の譬え?」
 ミスティは、氷から手を離した。
 ミスティの美徳は、ベッドの上に小難しい議論を一切持ち込まない事に尽きる。つまり、仕事の話は皆無。それは、アーチも同じだった。
「えっちしたいと直感しなければ、好きにもならないという事かなァ」
「自惚れ屋の解釈ね」
「平たく言えばそう」
「逆説はあり得ないというの?」
 アーチは、答える代わりにミスティの手を掴んだ。
 骨張った長い指が、一回り細い指の間に滑り込んだ。ごく自然な、そして性感を擽るような。ミスティは、思い出した。モジトの町で感じた時のあの温もりと同じ。
 肌が触れ合うと、またどちらとも無くその気になる。ずっと、その繰り返しだ。そもそも一人分の狭苦しい長方形の上では、お互い何処も触れない訳にはいかなかったが。
 だから、ミスティは夜半、用心深く静かに裸身を滑らせて、ベッドを降りた。
「・・・ああン。さすがに、顔だけの男、と言ったのは撤回しないと」
 快感の余韻で傍目にも赤らんで見える尖った乳房を擦りながら、悩ましい溜息を吐き、ミスティは薄暗い部屋で目を凝らした。
 急いで脱ぎ捨てた二組の男物の衣服の山に躓いて、それを拾い上げる。
 慌しくシャツだけを羽織りながら、ミスティは窓をすかした。
 中腰のまま、机の上のパソコンを起動させた。
「早く出てよ、おじさま」
 焦慮を押さえるのに歯痒い思いをしながら、ミスティは画面が通信モードに切り替わるのを待った。
「おじさま」
 意外に早く、伯父貴の姿は画面に現れた。グレナデン・サフィール枢機卿だった。
 相変わらず緋色の枢機卿服に身を包み、謹厳な面持ちで対面する筈だった。
 だが、久方ぶりに顔を合わす伯父貴は、落ち着かない表情をいきなりミスティに見せた。
「おお。無事だったか?アルテミス」
「無事?何を言うの、おじさま」
 ミスティは訝った。
「・・・むむ。その格好は、どうかと思うが?」
 冷然とした顔付きで言われ、ミスティは慌てて胸の前を掻き合わせた。幸い、この映像受送信式テレフォニカは、ピントが甘いので背景までは鮮明に映らない。背後を気にする必要は無かった。
「あら、ごめんなさい」
「いや、それは兎も角。これを見なさい」
 と、サフィール枢機卿は画面いっぱいに印刷物の一枚を差し出した。最早、枢機卿は姪のしどけない姿にも、眉一つ動かさずに対処する。
「脅迫状?」
 ミスティは全部読まないうちから、くつくつと声を立てて笑い出した。別段、稚拙なイタリア語の文章に笑った訳ではない。
「お前を誘拐したという怪文書メールが、異端審問所宛に届いた。つい今し方な。まさかとは思ったが、そうじゃ無かったようだ。狂言だったか?」
 サフィール枢機卿は、苦みばしった表情で言った。
「性質の悪い悪戯よ。私はここにいるわ。サンチャゴ・エル・ブランコよ」
「そうか。何事も無ければいいが・・・」
「おじさまこそお気を付けて。何やら、ジョー・クリサンスマムにヌォーヴォ・ニザリの事を探らせているようだけど」
 ミスティは、意味深な微笑を浮かべて見せた。
「耳が早いな。お前こそ、無理はするな」
「おじさま・・・」
 ミスティは、二の句を継ごうとして自ら中断した。
 ヤン・フランツァ・ドブチェク法務省長官の名前を出してもいいものかどうか。伯父貴にとって既知の事実であるのか。それとも単なるデマに過ぎないのか。問い質してみたかったのだが。
「おやすみなさい」
 ミスティは静かに言った。まだローマは宵の口だ。だが、それしか言う言葉が見付からなかった。
 画面が暗くなると、ミスティの気分にまでも翳が差した。
「どういうつもりなのかしら?」
 ヌォーヴォ・ニザリ。いや、グドブラーン老師だ。今し方、という伯父貴の言葉をそのまま受け取るなら、明らかにミスティ自身が不在にも拘らず、連中はあのような脅迫状を出したのだ。何の意味があっての事なのか、ミスティには思い付かなかった。
 だが、じっとして居られなくなった。
「それに、私のパウダーガン」
 ずっと心に引っ掛かっていたのは、愛銃《パイソン・シスタームーン》の事でもあった。今だ、師匠から譲り受けた銃は、ジオフロントの何処かに隠されているのだ。
 それを放ったらかしにしている場合では無い、と。
 ミスティは、そそくさと身支度を整えると、猫のように音も無く歩き、ドアを開いた。極めて優秀な泥棒のように、ミスティは夜の闇に躍り出たのだった。
「・・・ちくしょう」
 アーチはゆっくりと起き出した。
 鼻の奥が詰まり、頭が重い。体が冷えたようだ。
 六度目のインターバルの後で、流石にフォーティファイドと雖も疲労を隠せず、つい眠ってしまったのだ。
 だが、目覚めはミスティよりも早かった。
 いや。肉体はある意味、残酷だ。しっくりと肌に感じれば感じる程、いつまでも執拗に目覚めている冷ややかな精神の一部を、お互いに垣間見た気がした。
 そこに蹲っている結氷に似た蟠りを。
 取り敢えず、この男相変わらず、屈託無く情事の残り火を享受する暇(いとま)には、無縁のようだ。
 おじさまの前で起き出すのはバツが悪いので、というより個人的に極めて不都合なので寝た振りをしていたが。
「オレを出し抜いたと思うなよ〜」
 床に散らばった自分の衣服を掻き集めながら、アーチは唸った。
 上から下まで全部身に着け、ベッドの脇に置いたショルダーホルスターに触れて、初めて気付いた。
 《キングコブラ・バニッシュメント》が無い。スペアの弾丸ごと。いや。靴まで無くなっている。
「う。前言撤回・・・」
 虚しい独言が頭の中を巡った。まさしく精根尽き果てた気分になった。
 窓の外には、明るい下弦の月が艶めかしく傾いて、薄い雲のヴェールを纏っていた。間抜けな色男を嘲笑うかのように。

 濃密な腐敗臭が、漂っていた。既に、地下空洞に侵入した雑菌が、屍を猛スピードで腐食しているのだった。
 ジャファル・アル・ハラーンは、積み上げられた屍の前にいた。
 そこを立ち退く事は出来なかった。鼻を覆うにも覆えず、目を閉じても瞼の裏に陰惨な肉塊が焼きついている以上、無意味だった。
「気分はどうだ?」
「悪くない」
 ジャファル・アル・ハラーンは、答えた。自分の声が、他人の声のように響いた。何重にも。
 眼前には、聳えるような大男グドブラーン老師が立っていた。
「さぞかしいい気分だろう。純度百パーセントのガンジャだからな」
 ガンジャとは、大麻樹脂の事だ。所謂マリファナの呼び名が変わるだけのことで、これはインド風の呼称だった。
 むしろ、懐かしいような感覚が、ジャファル・アル・ハラーンの脳内を支配していた。
 幼い頃、家族の者が自生の大麻草の花穂を摘み取っていた。その時にべったりと掌に付着する何かを、一生懸命揉み落としていた。それが、ガンジャの作り方だと知ったのは、ずっと後になってからの事だったが。
 無論、そんな遣り方は家庭的な愉しみの一つに過ぎない。
 いまや、ヌォーヴォ・ニザリは遥か山向こうに、大規模な大麻畑と工場を抱えていた。
「もっと、どうだ?」
 グドブラーンは、言った。極めて冷徹な表情だった。
 ジャファル・アル・ハラーンは、辛うじて首を横に振った。
「そうか」
 ニザリ教団は、ずっとこのようにして暗殺者を育成してきた。
 実は彼のマルコ・ポーロの旅行記にさえ、その事実が記されている。山間にパラディソがある。そこには、《山の長老》が築いた宮殿が聳え、美女と酒が堪能出来る。長老は、十二歳から二十歳までの若者を宮廷に連れて来るという。
 強壮な若者は、おそらくそれぞれの町や集落から「薬」を飲まされて担ぎ込まれる。目を覚ますと、パラディソが開けている。
 美女と愉しみ、音楽を聴き、酒の川に遊び、ここが預言者ムハマッドの説く天国と信じた若者は、二度とこの花園を離れたくなくなる。さすれば、あとは赤子のように簡単なことだ。《山の長老》は、若者を使って、異教徒の暗殺を行うのだ。
 あまつさえ、このイスマイリ派の異端世界の出来事は、誰が持ち出したものか、元時代の中国にも文献が残っているのだという。
 ジャファル・アル・ハラーンも実に、同じ道を辿って来た。
 物心付くとガンジャを吸い、暗殺者としての訓練を受ける傍ら、享楽の海に溺れた。それが当たり前のことのように二十数年間過ごしてきた。
 幸いにもジャファル・アル・ハラーンは、死を恐れず、勇猛果敢な精神力と天性の暗殺者のカンで、これまで生き延びてきた。
 だが、愚かな。
 ジャファル・アル・ハラーンは、今自らの手で死神を呼び寄せつつあった。
「あの女を逃がしたのは、完全にお前の失態だ」
 グドブラーン老師は、厳かな声で言った。
「わざとだな」
 ジャファル・アル・ハラーンは無言を通した。答えようと答えまいと、事実は消しようが無い。グドブラーン老師の抱える、陰鬱な怒りを鎮める事は、今は叶わない。
 確かに、ジャファル・アル・ハラーンは抜かった。
 暗殺者として手段を選ぼうとしたからだ。手心を加えた事など、その前では無意味になる。つまり、ミスティ・サファイアの肉体に傷を付けたくなかったのだ。
 ムスリムの女達の、隠蔽を徳とする神秘的な美しさに比して、ミスティ・サファイアは自我剥き出しの野性的な女。
 各地を流れ巡ったジャファル・アル・ハラーンにとって、見た目のきらきらしい女達は別段珍しい存在ではない。
 だが、あの青い炎のような瞳は異教徒であるとか、人種の垣根を越えたものに映った。
「・・・・・・」
 朦朧とした、脳裡に邪悪な碧い瞳の異教徒共の姿が浮ぶ。
 『イマームの堕落した子孫よりも、奉仕者である事を選ぶ』
 ニザリ教団の創始者ともいうべきハサン・イ・サバーの言葉だ。イマームの子孫でもあったハサン自身の、峻厳な思想を如実に示した言葉。
 何故に、あの金髪の男はそう言ったのか。また、何故その言葉を知り得ているのか、ジャファル・アル・ハラーンには不可解だった。
「同じ穴の狢と言いたいのか・・・」
 ジャファル・アル・ハラーンは、突然に湧き上がってきた笑いに、体を打ち震わせた。
 ハサンの思想の政治的表現が、今日、今現在のヌォーヴォ・ニザリの目指すところと一本の道で繋がっているのは明白。
 そして、それは当然のように、今彼が目の当たりにしているグドブラーン老師のように権力主義に結び付く。権力の根源は共同体組織であり、その維持の為には如何なる手段も選ばない。それが暗殺者教国と恐れられる集団を発展させたのだ。
 宗教的マキアヴェリズム。
 その意味で、屍山血河を築いたヴァティカンも大差無い。
 あの若造、一言でそう言ったのだ。
 あんたもオレも、似た者同士。同じ雇われの身に過ぎないと、と。お互いに不自由な身で、何を抗うというのだろう。
「・・・何が可笑しい?ジャファル・アル・ハラーン」
 グドブラーン老師は言った。
「女巡検使は戻ってくるでしょう。必ず。それが為に、あのような脅迫状を出したのでしょう?」
「ふ」
 ジャファル・アル・ハラーンの言葉を、老師は呑み込んだ。
 ジオフロント内部で起こっている事は、無論表に見える事ではない。
 雨の音さえ、この地下都市では耳に入らない遠い世界の出来事だった。

 今晩何十回目か、バールの扉が開いた。突然に濁声の薄汚い格好の男が、入って来た。右手にずだ袋を提げ、破れたつばの広い帽子を被っている。男は、ぼそぼそと呪いのような言葉を呟きながら、ホールを歩き始めた。
「あらあ」
 と、眉を顰めたのは店の女主人だった。それを見て、常連客達は舌打ちしながら席を立ち始めた。
「閉店だとよ」
 ジョーは、ジンの腕を掴んだ。ジンは、テーブルの上にだらしなく突っ伏していた。白木の張り板の上に、涎が池を作っていた。かつてスコッチが入っていた四角のボトルは空になって聳え立っている。
「起きろ、こら!」
「くかー」
 昨夜は夜中まですったもんだで、しかも今日は今日で真昼間から浴びるほど地ビールをかっ食らい、そして夕刻から今まで飲み続けていたのだ。幾ら酒に強い体質のジン・スティンガーとはいえ、眠りこけても無理はない。
 ジョーは、ジンの鉛みたいに重くなった体を椅子から引き摺り落とした。
 だが、まだ起きない。
「おい。素っ裸の美女が百人、通りを走ってるぞ」
「なにぃ!」
 ジンはがば、と跳ね起きた。実にしっかりした足取りで、飛ぶように店の前に飛び出した。
「ウソに決まってるだろーが」
 ジョーは女主人の掌に紙幣と硬貨を置きながら、言った。
 ジンはサングラスを外し、目を擦った。何処にも美女はいない。だが、暗くなった繁華街を、ひたひたと靴音が近付いて来るのが聞こえた。
「手前ェ!」
 ジンは尻尾に火を点けられた犬みたいに、通りに飛び出した。
「おい、待て!」
「うわあ」
 叫んだのは、ジンに襟首を掴まれたソーシー・スーだった。
「な、何なんだよ!?急いでんだよ。離せって」
「急いでるぅ?何だい、そりゃ」
 ジンは手を離した。ソーシー・スーは、殆ど自分の身長と同じくらいに長い、黒いライフル・ケースを担いでいた。酷く重そうに見える。
「またやられちゃったんだよ!ミスティ様がいなくなったっての!兄貴もだよ!」
 ソーシー・スーは憤りの色を顕わにして、ジンに訴えた。アーチは、すっかり「兄貴」にされてしまっているらしい。
「オレの研修は一体どうなるんだよう!?」
「お前、つくづく上司に恵まれないよな」
 同情を禁じ得ないジンは、ソーシー・スーの頭にぽん、と手を置いた。ソーシー・スーはジンを上目遣いで睨み、その手を払い除けた。
「ガキ扱いすんな。これでも二十歳だぞ」
「ええ?は、二十歳ィ?オレと一個しか変わんねえのか。てっきり未成年だとばかし・・・」
「るせぃ。お前こそ・・・酒臭いな。しこたま飲みやがって!ムカツク!」
 ソーシー・スーは、ジンの革ジャンの襟を掴んだ。
「酔い覚ましだ!顔貸せ」
「オ、オレも行くの?何処へ?一体何処へだよ!?」
「決まってるじゃねえか!ミスティ様の行きそうな所だよ!」
 半ば自暴自棄になって、ソーシー・スーは叫んだ。ジンは、急に込み上げてきた嘔気を堪えるのが精一杯だった。飲み合わせが拙かった。
「オレも混ぜろよー。抜駆けは許さんぞう」
 ジョーは勘定をすませると、僧帽を被り直しながらそそくさと店を飛び出した。つくづく物好きな男だ。

 リコイルが違う。まず左手に感じる重みが異なった。ブルー・ステンレスとスティールの違いか。トリガーの遊びは大きいが、物凄く指に負担が掛かる硬さを感じた。
 女の柔らかい指でトリガーを延々と弾き続けるには、かなりの労力を必要とするだろう。まず、ファスト・ドロウに期待出来ないパウダーガンだ。
 《キングコブラ・バニッシュメント》。
 従来の《キングコブラ》のレプリカに比して、シリンダー(弾倉)はやや小さく、従ってチェンバー間の壁は非常に薄い。バレル(銃身)は必要以上に分厚く厳つい。エロージョン(焼損)を抑える為か、シリンダーを削ってもなお持ち重りがする。
 ジオフロントは、静まり返っていた。
 背後の気配を感じて、ミスティは振り向きざまにトリガーを引いた。
 チ。グイン、ドン。
 一連の動きのタイミングが合う。
 ムスリムの男は、膝を抱えてのた打ち回った。床に赤黒い血が、点々と飛び散る。
「これはまさしく《追放者の銃》。だけど・・・外道臭いわ」
 ミスティは皮肉な笑みを浮かべた。何かが違うのだ。普通にパウダーガンを仕込まれた者には、使い難い。
 しかし、背に腹は変えられない。
 記憶に新しい通路を抜け、ミスティは進む。男物の靴は、やはり大きすぎて歩きにくい。まるでお道化のようだった。靴擦れまでしてきた。
 異臭が漂っていた。部屋の隙間からだ。明かりは殆ど無い。
 ミスティは額の汗が首筋まで伝うのを感じた。緊張の余り、息も止めて扉を開く。
 鼻を突く刺激臭は、人血と脂肪、組織液の臭いだった。それらが、晩夏の熱気と腐敗菌にやられ、刻々と悪臭を強力化させていた。
 薄暗がりの中で、ぼうっと白いものが浮んでいた。
「・・・・・・!」
 ミスティは、思わずパウダーガンを構える事も忘れていた。
「ジャファル・アル・ハラーン!」
 ミスティはくぐもった声で言った。
 ムスリムの勇敢な暗殺者は、薄く目を開いた。
 顔はまるで、蝋色のように黄白く褪めていた。黒い瞳には、まるで生気が無い。ターバンも巻いていない短く刈り上げた頭髪は、いっぺんに年齢を経てしまったかのように、白いものが混じっていた。
 だが、その最も恐るべきは、ミスティが無駄な肉の一切削がれた筋肉質の上半身を見た時だった。
 まるで解剖実習の献体のごとくY字に切り裂かれた胸は、押し広げられ、千切れた筋組織と肋骨が丸見えだった。腹腔からは、死魚のはらわたのように青白い臓腑をはみ出させていた。どす黒い血で、ズボンは固まっていた。足元には真新しい血溜まりが無いところをみると、傷口は焼かれ、止血されているのだ。
 当然といえば当然だが、ジャファル・アル・ハラーンの四肢は、溶かした鉄輪で縛められ、壁に貼り付いていた。
「・・・何しに戻って来た?」
 ジャファル・アル・ハラーンは、漸くぼそりと言った。
 男の生命が無事と分って、ややミスティは気を落ち着かせる事が出来たが、それでも動転は隠せなかった。
「私の銃を取り戻しに」
 と、ミスティは短く応えた。
「ふふ。銃はあんたの魂、か」
 ジャファル・アル・ハラーンは言った。ガンジャの効き目が続いている以上、痛みは殆ど感じない。
「過去に私の人生を変えたものがあるとすれば、それは男でも学問でもない。パウダーガンよ。だから、手放す訳にはいかないわ」
 ミスティは、毅然として言った。本当は、ジャファル・アル・ハラーンの惨たらしい姿を見るのも、苦痛でならなかった。だが、ミスティは、精悍な男の面から視線を逸らさずに、言った。
「・・・成る程」
 ジャファル・アル・ハラーンは、小さく頷いた。最早、何の感覚も無いが。
「ヴァティカンは、いずれ素晴らしい指導者を得る事になるだろうな。・・・あんたのような、優れた決断力と心を持っていたら、どれだけの人間が・・・無駄死にしないで済んだだろうか?」
 ジャファル・アル・ハラーンは、自嘲気味に呟いた。ミスティは、震える左手を掲げ、漸く《キングコブラ・バニッシュメント》の銃口を上げた。
「バカな。私は指導者になどならないわ。そんなモノ、クソ食らえよ」
 マズル・フラッシュが四度散った。
 ジャファル・アル・ハラーンを幽鬼たらしめている鉄輪に、正確な着弾を見た。
 だが、鉄輪は、びくともしなかった。
「・・・ちくしょう!」
 ミスティは、唾を床に吐き捨てた。
「その鉄輪を外したいかね?」
 奇怪な声が響いた。
「グドブラーン!」
 ミスティは銃口を、大男の額に向けた。開いた扉の丁度真ん中に、グドブラーン老師は立っていた。
「そんな玩具一つでのこのこと舞い戻って来るなんて、余程血を見たいのか。それとも、ちいとばかしオツムが弱い娘なのか」
 グドブラーンは、嫌味でもなく顎に伸びた髭を撫でながら、笑った。
「ぶっ殺す!ジジイ」
 ミスティは、吼えた。ちりちりと、こめかみに血管が浮ぶ。
「はっははは!活きがいい事だ。シメオンがご執心なのも分る。そこの哀れな雇われ者も、お前の色香に迷ってしまったらしいがな」
「・・・死にな!」

 ミスティの左手人差指が、トリガーを浅く引っ掛け、第一関節が最後の一絞りをする瞬間。
「おごっ!!」
 弾丸は逸れた。グドブラーン老師の巨体は、前にのめった。いや、のめったどころでなく、軽く吹っ飛んで、扉と向かい合う壁に激突した。そんな、バカな。後へ吹っ飛ぶかどうかも定かではないのに。
「じゃじゃーん!お待たせ、ヒーローの登場だぜ!」
 緊迫感ブチ壊しの台詞が、グドブラーンの後を追って飛んだ。
 アーチは、拳を握り締め、見事蹴り一発を決めた直後のポーズで片足立ちしていた。無論、裸足である。
「あ・・・?」
 あんぐりと口を開いたままのミスティは、咄嗟に思いつく罵詈雑言も失っていたようだ。
 アーチは両足着地すると、一気にミスティ・サファイアに詰め寄った。
「返せ!オレの銃」
「いやよ」
 と、ミスティはあっさり断った。
「私の《パイソン》が見付かるまでは」
「何抜かす。オレの靴まで盗みやがって」
「盗むだなんて、人聞きの悪い事言うわね!ちょおっと拝借しただけじゃないの、返すわよ、こんな汚い靴!」
 ミスティは顔を真っ赤にして、片足ずつぶるぶると振るい、ショート・ブーツを脱ぎ捨てた。これでどう、という顔付きで仁王立ちになる。
「汚いとは、どういう意味だよ!?」
「水虫だったらどうするの」
「相方じゃあるまいし。オレは清潔そのものの病理医だ。そんなモンなるか。・・ったく。仮にそうだとしても、もう手遅れだぞ」
 アーチは、ぶうつく言いながら自分の靴を履いた。まだ温もりが残っている。
「女を裸足で歩かせるつもり?足の裏マメだらけにさせて愉しい?」
「そこら辺の死体の靴でも取り上げたらどうだい」
「・・・アナタの靴の方がマシかも」
 ミスティは、大袈裟に首を振った。
「ちっ」
 アーチは、再びそそくさと靴を脱いだ。脱がざるを得なかった。恫喝よりも恐ろしい、場違いに艶いた視線が、蛇蠍が這う如く自分の方へ向けられたからだ。
「それよりも、アナタその普段は無意味な馬鹿力で、あの鉄輪を何とかしなさいよ」
 ミスティは、再び鹿革の上等な男物ブーツを履きながら、言った。
 一言余計だ、と思いながらアーチは言われるままにジャファル・アル・ハラーンに近付いた。失血死は辛うじて免れている。拷問のプロフェッショナルの手口だな、と感心しつつ、アーチは鉄輪に指を掛けた。
「ふぬぬぬぬ」
 細い手指に、筋が浮き出た。音も無く、鉄輪はひしゃげ、するりと褐色の腕が下へ抜ける。ジャファル・アル・ハラーンは、ぐったりと声も無く屑折れた。アーチは、自分のシャツを脱ぐと、躊躇い無く引き裂いた。
 包帯代わりにリネンのシャツをジャファル・アル・ハラーンの胸部から腹部にかけて巻き付け、応急処置を施す。
「ここじゃ輸血も縫合も出来ないからな」
 と、アーチは言い、ジャファル・アル・ハラーンを背負った。アーチはミスティを睥睨した。
「本当に返せよ」
「しつこいわね」
 ギギギ。背後で奇怪な音がした。
 グドブラーン老師は、絶命か、良くて全身複雑骨折の筈だ。立ち上がる事も出来る訳が無い。何しろ、フォーティファイドのキック力は、一撃で象をも倒すのだから。
「え・・?」
 アーチとミスティは、同時に振り返った。
 そして、そこに信じ難い物を見た。

「あーあ。派手にやっちゃって」
 呆れ顔で言ったのは、ジョー・クリサンスマムだった。ジオフロントの通路一面には、今だ埃が舞い上がり、銃弾に倒れたムスリムの屈強な男達が横たわっていた。
「一人でやったにしては、些か派手だな」
 ジョーは言った。靴先でターバンの男達の顎をしゃくり上げる。息はあるようだ。だが、何を言っているのか判らない。
「しかし、何処行っちまった、あのボウズ」
 ジョーが言うのは、ソーシー・スーの事だ。ジンはさてね、と首を傾げた。
「何で一本道で逸(はぐ)れるんだ?」
「知らねえよ」
 ジンは、サングラスを下方へずらし、冷たいコンクリートの床に屈み込んだ。固まって零れている空薬莢を拾い上げる。
 1.275インチ、357マグナム弾のエンプティ・カートリッジだ。
 これは《パイソン》も使う。だが、ミスティ・サファイアの使う《パイソン・シスタームーン》が普段使用しているのは、このJHPではなく、JPSだ。
「《キングコブラ》のマグナム弾だ」
 ジンは呟いた。だが、違う。着弾位置が、左利きのものだ。
「大体、あいつはこんなにアホほど撃ち捲くるなんてことはしない。ケチだもん」
「ケチで悪かったな」
「ぎょ」
 ジンは振り返った。
 そこには、酷く不機嫌そうな相方の顔があった。髪は乱れ放題、ムスリムの戦士を背負い、何故かショルダーホルスターは提げているが、丸腰の上半身裸。しかも裸足という奇妙な格好だったが、その経緯を追究している暇はないようだ。
「お前、何しに・・・何だ、その格好は?」
「話せば長い。それより、ミスティを見なかったか?」
「いや。そっちこそ、ソーシー・スーを見なかったか?」
 アーチは、首を振った。
「何してやがる、あの二人」
 ジンとアーチは、期せずして同時に喋った。

 ジオフロントの構造は、極めてシンプルな形だ。街の繁華街程の規模の面積に、天井はたかだか10フィートもあるだろうか。ここらは、数十年に一度大規模な地震の被害を被るというので、ジオフロントそのものは大きく作られていない。
 かつて日本にも、首都圏を中心にジオフロントが建設されたという。
 結局は首都機能の半分も移転しないうちに、日本本島は沈んでしまったが。アクア・フロート建設といい、ジオフロントの確保といい、総ては水泡に帰したのだ。
 ミスティはそんな事をふと思い出した。
「無い!何処にも無いわ」
 ヌォーヴォ・ニザリのアジトの中をうろついているというのに、肝心の物は何処にも無い。
 《パイソン・シスタームーン》。
 あれが無くてはパウダーガン使いでなくなってしまう。自分の不覚を呪うしかないが、そんな後ろ向きな事を考えている場合では無かった。
 やがて、《キングコブラ》の手持ちの弾も切れるだろう。そんなにストックは持ち合わせていない。
「さっきはヤバかったわ」
 と、思い起こすのは、グドブラーン老師が再び起き上がった時だ。
 何故、あの衝撃で死ななかったのか不思議だが、兎に角訝っている暇があったら逃げるか撃つしかない。そういう訳で、《キングコブラ》のシリンダーをすっかり空にして、ほうほうの体で逃げて来た。
「そうよ、アレは何?あの老師の姿は・・・」
 ミスティは呟いた。
 アーチにまともに背中から蹴りを食らえば、逆海老反りで体が真っ二つになる筈。確かに、背骨が砕けるような、嫌な音を聞いた。だのに、血だらけになりながら、老師は立ち上がった。
 生ける屍。不意に、アンダー・ホンコンで遭遇したあの吸血鬼を思い出した。まさか、また《PE》―プレフェレンツァ・エモパティアの仕業ではなかろう。
 チャ。
 無意識に左肘を引き、《キングコブラ》の銃身を上げる。
「誰?」
 低く喉を鳴らすミスティ。その前に現れたのは、背の低い東洋人だった。ミスティは、片眉を上げ、驚きの表情を作った。
「ソーシー・スー」
「ミスティ様・・・あ、いえ。教官。こんな所で何なさってるんですか!?」
 ソーシー・スーは、目を丸くした。今にも口から心臓が飛び出さんばかりの顔で、驚愕を抑えつつ言う。ミスティは、ものの二三秒も経たない内に、素面に戻った。冷ややかな女巡検使の顔だ。
「私の銃を捜してるのよ。それ以外に用は無いわ」
「ご尤も。・・・いえ、ダメですよう。それよりも、こっち来て下さい。凄い物見つけたんですよ!」
「凄い物?」
 ソーシー・スーは、渋るミスティの手首を掴んだ。
 約一区画程奥まった廊下の隅に、倉庫がある。その重い扉の周辺には、恐らく警備の者と思われる男達がのびていた。
「アナタがやったの?」
 ミスティはソーシー・スーの顔を覗き込んだ。ソーシー・スーは、いやあと照れ笑いを隠しながら、頭を掻いた。
 総て、男達はぐっすり睡眠中だ。背中に背負ったマシンガンで、催眠弾を食らわせてやったのだ。
 薄暗く、冷やりとした空気が流れ出す。ソーシー・スーはミスティを誘って、部屋に入った。
 狭い物置程の空間には、所狭しと麻袋が積まれていた。独特の匂いが鼻腔に溜まる。
「これ全部、大麻樹脂ですよ」
 ソーシー・スーは、顎をしゃくって言った。ミスティは、数えるのも面倒な麻袋の山を見渡す。
「LSDとカクテルにする為の材料という訳ね。LSDそのものを作っているのは何処?」
 ミスティは、扉の方へと歩き出した。ソーシー・スーは慌てて、ミスティの背中を追う。
「それは、まだなんです。化学実験を行うような研究室が見付からなくて・・・」
「そう」
 ミスティは、左手に《キングコブラ》を構えたまま、歩き出した。
 LSDそのものは、新鮮さが第一だ。紙に染み込ませたドラッグを後生大事に持ち歩いている輩がいるが、それは愚の骨頂。新しくなければ、LSDの効果は無い。
 従って、大麻樹脂のように作り置き出来る物では無い。一体、何処で製造しているのだろう。
「あらやだ。トラブルの素が束になってやって来たわよ」
 ミスティは憮然として言った。ソーシー・スーは、背中のマシンガンを下ろした。
 必死の形相で逃げて来る三人の男。そして、それを追うスプラッタな御面相の大男。グドブラーン老師のなれの果てだった。

 《MG42タイプ・ドッペルトロンメル・マガツィーン》。一目でドイツ製のものと分るマキシム・マシンガン。所謂鞍型マガジン搭載の、スマートな姿。
 それを担ぐは、短躯の巡検使補。およそ全長120センチ、重さ12キログラムは下らない、その銃身を支えるには、かなり無理があるとみえた。だが、ソーシー・スーは、勢いばばば、とケースを掻き捨て、右肩に《MG42T・DTM》を担ぐや、四股立ちに構えた。
「どいてくださーい!」
 ソーシー・スーは叫んだ。
「何だ、ありゃあ!?」
 何事かは分らないが、ソーシー・スーの物凄い形相と、マシンガンの銃口に気圧されて、ジン、ジョー、アーチの三人は二手に分かれて、飛んだ。
「行きますよー」
 語尾が掻き消された。
 大地を穿つかに聞こえる轟音。砕ける床のセメント。ジューサーミキサーから飛び出すマスカットの種のごとく、空薬莢が飛び散った。
 ガガガガガガ。
「うえ。げほほ」
 ジンは、壁に手を突いて立ち上がった。
「すげえな」
「これで、どんなフォーティファイドもイチコロです」
 ソーシー・スーは、にっこり笑って言った。
「オレに向かって言うな」
 アーチは、ソーシー・スーの唇の端を捻った。
「いででで。ずびばぜん」
「何なら試しに撃ってみたら・・・」
 言い掛けたジンが、あっと声を上げた。濛々と上がる火薬の臭いと砂混じりの埃の中、黒い影が動いた。
「まぁだ生きていやがったか。しつこいジジイだな」
 ジョーは《パイソン・ブラザーサン》を発射する。
 《MG42T・DTM》が、再び吼える。
「まっ、待て!」
 アーチは、ソーシー・スーの首根っこを掴んだ。
「何でですか!?ヤツは不死身の・・・」
「アホンダラ、目ん玉おっぴろげて良く見ろ!」
 崩れ落ちる壁と埃の間から、食人鬼のように立ち上がった者は、グドブラーン老師。血に塗れた長衣の袖や裾は既にずだぼろになっていた。そこから伸びた四肢は異様に長い。それは、本来が長いのではない。
「とんだびっくりだぜ、こいつは。いや・・・」
 ジョーは咥え掛けたダンヒルを掌に零した。
 グドブラーンの両肱は機械剥き出しの義手に繋がれ、同じく両股も義足に繋がっていた。尤も、脚の方は、膝下から切断された痕跡が認められたが。
 二メートル半の大男は、実際は恐らく一メートル余の身長に過ぎない。
 アーチの背中で、ジャファル・アル・ハラーンが呻き声を上げた。
「・・・老師は、小人症。それでは不便なこともあろうと言うので、義手と義足を」
「コンプレックスの裏返しという訳だな。自分を必要以上に大男に見せようとする。その自己欺瞞が既に道化だ」
 アーチは言った。
「死なないワケだよ」
 当たっても痛みを感じない四肢に向かって撃っていたのだ。ジンは愕然とした。
 グドブラーン老師は、今やロボトミー手術を受けた患者のように、虚ろな目付きで面々を眺めていた。
「それだけじゃない・・・」
 ジャファル・アル・ハラーンは苦しい息の下で、言った。
 グドブラーン老師の顔を見るがいい。額はぱっくりと裂け、激しく流血している。殆ど骨が見えている。にも拘らず、何の痛みも感じないような顔で、平然と向かって来るではないか。それがどういう事なのか。
 ミスティは、ふと自分の爪を見た。初めて老師と対面した時の事が、脳裡を過ぎる。
「痛みを感じないのよ。その男!」
 物言わないグドブラーン老師の表情が、少し変化した。
 ヂャ。
 老師は後ろ手に右手を回した。次に現れた時、右手が握っていたものはパウダーガンだった。青いステンレス製の銃身が光る。
「私の《パイソン》!あっ、あんな所に・・・きい」
「お、落ち着いてくださいっ!」
 ヒステリー症状で貧血を起こしそうなミスティを、ソーシー・スーが後から支えた。
 グドブラーン老師は銃身を掲げ、トリガーを引く。思わず、皆回避したが、いきなり素人が撃って当たる物ではない。
「・・・ジャファル・アル・・・ハ、ラーン。裏切り、も・・・のめが」
 グドブラーンは、呪詛の詞を暗殺者に向けて吐いた。ジャファル・アル・ハラーンは、目を開いた。
 勇猛果敢なムスリムの戦士は、やおらアーチの背から降りると、ふらつく足で自ら立った。
「ジャファル・アル・ハラーン!」
 ミスティは、我知らず呟いていた。
 ジャファル・アル・ハラーンは、両手に古刀ハルパーを構えた。息は、構えを取るだけで上がっている。いや、出血の所為で、本当は立っている事もままならない筈なのだ。猫足立ちに踵を上げ、ジャファル・アル・ハラーンは低く姿勢を取った。
 憔れた顎から冷汗が滴る。土気色の頬が窪み、呼気が唇から洩れた。
 今や、彼を支えるのは、極めて強靭な精神力のみ。
「裏切り者だと、ほざくがいい」
 ジャファル・アル・ハラーンは唾を吐く。跳躍した。
 山河を駆ける獅子のように、戦士の身体は身軽に宙を舞った。失血が激しく無ければ、その動作は極めて素早いものと皆の目には映っただろう。
 所構わず撃ちまくるグドブラーンの頭上を軽く抜き、ジャファル・アル・ハラーンはハルパーの刃をかざした。
 両足の指だけで、老師の肩に軽く載る。鈍色の逆刃が、グドブラーンの喉笛を狙った。
「うはっ」
 だが、義手は古刀を薙ぎ払い、いとも容易くジャファル・アル・ハラーンの足首を掴んだ。その拍子に幸い《パイソン・シスタームーン》は老師の手元を離れた。過たず、ミスティはパウダーガンをキャッチした。
 グドブラーンが、体を揺する。勢いジャファル・アル・ハラーンを壁面に叩き付けようとする。
「ぐおお」
 叫びを上げたのは、ジャファル・アル・ハラーンでは無かった。振り上げた腕が、宙半ばで止まる。
 グドブラーンは、自分の胸を見下ろした。胸の真ん中に、めり込んでいるのは、ファントム弾でも、ハルパーの切先でも無い。人間の素手だった。
「き、さま・・・」
 グドブラーンは、どす黒い血を唇から噴いた。髭を伝って床を汚す。
 アーチは、突き出した右手をそのまま意識せざるが如く押し込んだ。肋骨が砕け、胸骨が割れた。
 ぎゅぷぷぷ。
 嫌な音が響いた。アーチは、無言で、只そうする事が唯一の正解であるかのように、右手の五指でグドブラーンの心臓を掴んだ。筋肉が体内で爆ぜ、千切れた冠動脈から夥しい血液が流れ出た。
 唖然とする一同を背に、返り血を存分に浴びたアーチは右手をゆっくりと離した。グドブラーンの体が傾いで行く。離れた指先から自由になったジャファル・アル・ハラーンは、渾身の力を込めて受身の態勢を取った。
 最早、グドブラーンは絶命していた。胸の真ん中に虚ろな黒い穴が開いている。
「フォーティファイドの使い途は、つまりはこういう事さ」
 と、アーチは死体に向かって極めて冷静に言った。右手は手首から下が、赤く濡れそぼっていた。
「お判りか?イスマイリの腐れ詐欺師。・・・といっても、もう死んでるか」
 アーチは、汚れた右手を拭う術も無く、歩き出した。ソーシー・スーは、《MG42T・DTM》を抱えたまま、茫然とその広く筋肉質な背中を見送った。
 凄い。想像を絶するフォーティファイドの力。だが、のほほんと賞賛の言葉を浴びせていいものか、判断が付かなかった。
 よろめきながら、ジャファル・アル・ハラーンは、見上げる。瞳が克ち合う。
 無言で何かが知れた。
「ちょっと待ちなさいよ」
 ミスティは両手を大きく振って大股に歩き、アーチに近付いた。グドブラーンの無残な屍の腕を踏ん付けたが、気にも留めない。
 ミスティは黙って右手に握っていた《キングコブラ・バニッシュメント》を差し出した。
 アーチは、汚れた右手を差し出そうとして、慌てて左手に換えた。
「靴は返してくれない・・・ぶ。へっくしょい!」
 くしゃみと共に、水っぽい鼻水が出た。
「・・・やあね」
 ゲラゲラ、とミスティはけたたましい笑声を立てた。
「ぷっ、見てよ。鼻水垂らして。男前も台無しねぇ」
 嬉々として言うミスティ。鼻頭を赤くしたアーチは、横目でミスティを睨んだ。
「全くタフな女だな、キミは。フォーティファイドも天晴れだよ。ああ、もう脱帽です。オレは一から鍛え直さないといけません。上半身も下半身も」
 と、アーチはぐずぐず言う鼻を押さえながら、ごにょごにょ声で言った。ヤケクソ気味な口調だ。ミスティは妖しい笑みを浮かべたまま、ジン達を手招きした。
 どれどれ、とジョーもジンも急いでやって来る。
「汚ねえ!鼻血まで出してるじゃねえか、オイ」
「おお。冷血漢でも血は赤いぞ」
「やかましい。熱っぽいし、もう帰る!その死体引き摺って来いよ!」
 アーチは後退りながら、ソーシー・スーに向かって叫んだ。
「かっちょ悪ィよ、兄貴ィ」
「何か言ったか!?」
「いっ、いえ!承知しましたです!」
 ソーシー・スーは引き攣る口元を結んでにっこりと微笑み、最敬礼して見せた。
 

終章に続く

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