第十三話
〜ドラッグ・パラドキシア di narcotrafficante〜
(後編)
終章 荒野に滅ぼされり FOR THEIR BODIES WERE SCATERED IN THE WILDERNESS
一つ一つ。静かに窓に灯りが点る。
牛追い祭りの余韻は、既に過ぎ去っていた。カーニヴァルの終焉。町には普段どおりの平穏な空気が立ち込め始めた。
オープン・カッフェは、既に夜間営業に移り変わりつつあった。昼間からビールは販売しているのだが、夜間は地元産のワインもメニューに加わる。
「相変わらずね」
と、ソフトなハスキーヴォイスがジョー・クリサンスマムの頭に被さった。女巡検使ミスティ・サファイアである。
ミスティは、優雅な仕草でジョーの向かいに座った。残念ながら、衣装は胸刳りの深いドレスでも、スリットが入ったマキシでもない。だが、黒いセパレートのスーツは息苦しい程身体の線を強調していたし、胸の谷間が嫌でも目に付くシロモノだった。
ジョーは、ジョッキに半分のビールを掲げて見せた。
「ビールでいいかい?」
「アルコールを入れて仕事の話をするのは、私の流儀じゃないわ」
ジョーの提案は、あっさりと却下された。
「ち。流石に仕事に厳しいね」
「男にも厳しいのよ」
ミスティは、つんとした鼻を反らした。そういえば、男勝りの身体付きの割りに、顔立ちは必要以上に色っぽいとはいえ、こうして間近で見ると可愛いものだ、とジョーは思った。ラテン系特有の美貌だ。
「・・・で」
ジョーは僧服の懐から、黄ばんだ封筒を取り出した。
「用件は?」
「シメオン・ハパスの事なんだが」
その名前をジョーが口にしただけで、ミスティの瞳は不機嫌の様相を呈した。虎のような眸の鈍い輝きが、嫌でもジョーの目に入る。
「あの男は、不法薬物売買その他の罪で、取調べ拘束中よ。いずれ臭い飯を食うわ、死ぬまでね」
「それで、ヤツが所持していた証拠品の一部を失敬してきたよ」
「それは違反でしょ?何考えてるの」
ミスティはジョーを冷たく非難した。丁度、ウエイターが淹れ立ての熱いカッフェをミスティの前に運んで来たところだった。ウエイターが去るのを、ジョーは暫し待った。
「これでもか?」
ジョーは茶封筒の中身を曝け出す。
それは、街角で声を掛けられて買うような類の、見事に鮮明なブルー写真だった。所謂エロ写真というヤツだ。
ありとある限りの趣向を尽くしてセッティングされた場面は、とても素人の手に拠る物とは思えなかった。
艶めかしく撮られた女の肢体。思わず唾を嚥下するような。それに群がる、屈強な男達。鞭を振るう姿もあれば、女の汚された顔を大写しにしているのもある。
問題は、その女の顔が余りにも鮮明に撮影されているところにあった。
「・・・・・・」
ミスティの、プリントアウトされた写真を持つ手が微かに震えた。それが、怒りの為である事は言うまでもない。
「こいつを、キミのおじさま宛に送り付けるつもりだったようだがな」
ジョーは喉を鳴らし、ダンヒルを咥えた。何度見ても、写真はひどく扇情的で、最早男として機能しない糖尿の爺さんでも奮い立つような、そんな淫靡なものだった。ジョーは、だから今は敢えて視線を外していた。
「こんな物を送ったところで、おじさまは眉一つ動かさないわよ。多分。私の行状も知れている事だしね」
「それはそれは」
ジョーは、怒りに目を細めて堪えているミスティを見遣った。口調は威勢がいいが、何処かやはりお嬢様らしい意地っ張りな部分が見え隠れする。
「ネガはこれ。どうする?」
ジョーは黒いスティック状のプラスティック片をミスティに渡した。ミスティは、ふん、と鼻を鳴らして笑った。
「こうしてやるわ」
ミスティは、ネガスティックを黒い熱い液体の中に突っ込んだ。砂糖をどぼどぼと入れて、掻き混ぜる。ジョーは、天晴れだ、と思わず手を打った。
取り出したネガスティックをへし折って、ミスティは艶然と微笑んだ。
「話はそれだけじゃない筈よ。どうなの?ジョー・クリサンスマム異端審問官」
「まあな」
「じゃあ、ヌォーヴォ・ニザリの本拠地へ?」
ミスティは、いきなり核心に踏み込んだ。ジョーは、ビールを干してしまうと、手の甲で鼻の下に付いた泡を拭った。
「アラムートさ」
アラムートと言えば、カスピ海南岸の町。かつてニザリ教国の城塞であった土地。尤も、アラムートと呼んだのは、外部の人間であり、地方ではハシール・ハーンの城と呼んだ城塞都市。渓谷の中にある古の楽園だ。今は忘れ去られた過去の都でもあるが。
「随分と古典的ね」
ミスティは、明らかな皮肉を含めて言った。
「どうしても連中は聖地の奪回に固執する。メッカに戻る以前に、アラムートから出発しなけりゃ意味が無いんだろう」
「・・・で。私に同道しろとでも?」
ジョーは、両手を合わせて頬に摺り寄せた。
「察しがいい事で。さすが腕利きの特務巡検使ドノ」
「それは嫌味?」
ミスティは、一気にカッフェを飲み干した。
「とんでもない」
ジョーは、大仰にひらひらと両手を振った。
「余り嬉しい事ではないが、UPもここを嗅ぎ付けたらしいんでな。誰が、とは言わないが」
成る程、とミスティは頷いた。粗方察しは付く。地上を手ぶらでうろうろ出来る程、肝の据わったUPの連中など、ほんの一握りだ。どうせお互い見知った顔だろう。
「いいでしょう。行くわ」
「おう!・・・で、乗せてってくれるのかい?そのバイクに」
ジョーは、道端に駐車されている、リッターバイクに視線を遣る。ミスティ・サファイア御用達の《スレイプニル22F》だ。照り返しで、銀色に光る車体が荒野を走るムスタングを思わせた。
ミスティは、やおら立ち上がった。
「二ケツは御免だわ。両手が無防備だもの」
と、あっさり言い、テーブルを離れる。それに、ミスティには確かめるべき事があった。
枢機卿ヤン・フランツァ・ドブチェク法務省長官。その名前が出てからというもの、亡霊のようにそれは頭に住み着いている。
心中とは無関係に、ミスティはくだけた笑みを浮かべた。
「テヘラン経由バグダード迄の巡行バスが出ている筈よ。それでアラムート途中下車を」
「ケチ」
ジョーは言った。
「今更、おっぱいくらい触ったって減るもんじゃなし」
「何よ。ナマグサ神父」
ミスティは言い、《スレイプニル22F》に跨った。ジョーは、白いエグゾーストが路上を這うのを見ていた。あっと言う間に、銀色の鉄馬と馬上の美女は去って行く。
カッフェの勘定を置き去りにして。
「そうなんです。脳内麻薬とでもいいましょうか。彼は、グドブラーンは自己の脳内でLSDを合成していたワケですよ」
アーチレリー・ブールヴァルドは、暗い画面に向かって言った。ディスプレイに映っているのは、カッサンドラ・ブルーネレスキ・ヴァティカン科学アカデミー・医局長の姿だった。長い赤毛を無造作にアップにしている。
その怜悧な美貌が、曇った。
「本当に?」
人間の脳内で製造される脳内麻薬物質は、およそ1000種類を超すという非常に複雑かつ多種を極めるものだ。それらは系統的に三つのグループに分かれる。
エンケファリン、エンドルフィン、ダイノルフィン。
ダイノルフィンはモルヒネの200倍の麻酔作用を持つと言われる。
或いは、脳は快楽神経と呼ばれるA10神経の神経伝達物質として、ドーパミンなる覚醒剤のような物質までも製造する。その他、枚挙に暇無い程だ。
だが、化学式を見ても一目瞭然だが、脳内で製造できる麻薬物質と、LSDの構造は全く異なる。
一体、何を元に脳内でLSDを造るというのだ。
「まさか、麦角アルカロイドそのものを食していたという訳ではないでしょうね?」
カッサンドラは、訝った。アーチは、肩を竦める。
「判りませんね。可能性は無くもないですが。しかし、気味が悪いですよ。脳内物質にしても、《リヴァイアサン》は大麻樹脂との混合です。400マイクログラムという恐るべき量です。ま、実質耳掻き一杯にもなりませんがね」
「被験者のレポートはどうなの?」
カッサンドラは何気なく事務的な台詞を口にする。
「添付ファイルに。一人は通常範囲内の体質ですが、もう一人は薬物に関して比較的タフネスがある訓練された人物ですので、何処まで参考になるか判りませんが・・・」
と、アーチは答える。
「本人らに、ニザリ狂信者の脳味噌から溶け出した液体、或いは唾液や涙のような物質を投与されたとは言ってないでしょうね?余り大っぴらに言いたくもないでしょうけど」
カッサンドラは老婆心で付け加えた。アーチは即座に首を振った。
「言ってませんて。オレならそれを聞いた途端、自殺したくなりますよ」
「その男、ある種の奇形ともいえるわね。では、サンプルと報告をを直ぐに送って頂戴」
「了解」
ノックも無しで、ドアが開いた。
「・・・どうした、兄弟?」
アーチは、パソコンの電源を切る。相棒は、そろそろ旅支度の催促に来たのか。
ジン・スティンガーは、サングラスを外していた。まだあどけなさが微かに残った表情に、アーチは視線を遣った。
「髭くらいまともに剃れよ」
アーチは言った。ジンは慌てて自分の顎を撫でる。ざらざらした感触が、右掌に纏わり付いた。
「お前は薄くていいよな」
「オレだって一晩経ったら、産毛くらいにはなるぜ。・・・で?」
「いや。お前・・・」
ジンはこの期に及んで言い澱む。
「鼻風邪はどうした?」
「寝たら治った」
「腹の調子は?」
「オレは腹具合なんか悪くなってないぞ。それよりお前の痔病の方が、な」
「オレの事は放っといてくれ」
ジンはさも鬱陶しそうに手を振った。夏の間は、どうも尻の具合が良くない。食い物が単調な所為もあろうが、長時間バイクに乗るのが苦痛だ。しかし、今更相棒に指摘されるでもなかろう。
「・・・お前。やっぱりフォーティファイドなんだな」
「今更何だよ」
アーチは、白衣を羽織った。
やはりそうなのだろうか。フォーティファイドは単なる兵士であって、人殺しの道具の延長線上にあるに過ぎないのだろうか。
ジンは思いつつも、言葉を繋ぐ術を知らなかった。
「十二年ぶりだったかな。素手であんな事したのは。オレはパウダーガンと同じ、人殺しの道具さ」
アーチは淡々と言った。まるで、別の人格がそう言わせているかのような口振りだ。
だが、ジンは腹も立たなかった。いつもなら、既にむかっ腹を抱えて拳を握っていてもおかしくは無い。
「だったら何故パウダーガンを持つ必要があるのかって。訊きたいか?」
「・・・・・・」
ジンは答えなかった。
「幾らオレでも、あんまり素手で人殺しはしたくないからな。少なくとも、この手で」
アーチは、自分の右手を広げて見せた。長い手指には、一昨昨日あれ程血塗れだった痕跡など、微塵も無い。爪の間まで綺麗なものだ。
尤も、医者は爪を一ミリと伸ばしたりはしない。いつも丸く、決して尖らないように丁寧に磨き上げた健康的な爪を、ジンは感心して見ている。
「この手は少なくとも医者として、人の命を守る為に使うものだからかなァ」
ジンは、濃い眉を八の字に開いて聞いていた。
そして、出し抜けに言った。
「パウダーガンは、人殺しだけの道具じゃねえよ」
ジンは、アーチの何処か他人に相容れない部分を託つ緑の瞳を見詰めた。
「使い途に拠っちゃあ、そうだけど。オレにとってはそうじゃねえ。お前も、フォーティファイドも同じ事じゃないのか?」
言ってから、ジンは素早くサングラスを掛けた。何故なら、穴が開くほどアーチがジンの顔を見つめ返していたからだ。
アーチは、机の脇に置いたジュラルミンケースを拾い上げた。形の良い唇に、乾いた笑みが浮かぶ。
「・・・ガキ」
「るせい」
ジンは照れ隠しにそう言って、背を向けた。どすどすと階段を下りて行く音が、旅支度を終えたアーチの耳に入って来たのは言うまでもない。
勇猛果敢なムスリムの戦士。その姿は、もうサンチャゴ・エル・ブランコには無い。
去り際に、ジャファル・アル・ハラーンは言った。
「私は捨てたのだ。いや、信仰を捨てたのではない。己を保身するだけの殺人者としての道を、だ」
精悍な男の立ち姿は、些か影が薄い。何処と無く傷付いた鷲のようにも見えた。無理もない。胸を掻っ捌かれ、酷い失血を免れたばかりなのだから。最早、立っているだけでも常人にあるまじき姿だった。
「つまり、暗殺者をやめるという事か?」
ジンは訊いた。
「そういう事になるな」
「簡単に言うが、あんたは一度それに手を染めた人間だろう?他に食っていく道があるのか?」
ジャファル・アル・ハラーンは、首を振った。交互にジンとアーチを見詰め返す。
「判らない。だが、生きて行くしかあるまい」
何故にジャファル・アル・ハラーンがそのような結論に達したのか、二人は訊かなかった。訊いたところで仕方が無い。
「彼女に遭ったら伝えてくれ。『私は、感謝している』と」
ジャファル・アル・ハラーンは踵を返した。決して振り向きはしない。《砂漠の黒嵐》が過ぎ去った荒野へと、ムスリムの戦士は踏み出した。その黒いターバンの下にも、衣服のベルトにも、古刀ハルパーは一本たりとも挿まれてはいない。
「カノジョって?」
「ミスティ・サファイアの事さ」
と、アーチはいやに他人行儀な言い方をした。ジンは珍しく、苦笑いを浮かべた。
「惚れてんの?なら、自分で言えばいいのに。朴念仁が」
「面と向かって言えない時もあるもんだ。男にはな」
アーチはそう答えて、白衣のポケットに両手を突っ込んだ。捩れた関係は、陳謝の詞すら掛けられないのが必定。縦令、自分に非があっても、男という生き物はそう易々と自分の生き方を変えられるものではない。
「惚れた腫れたとは無関係に、男ってのは女に敵わないと思う瞬間があるって事さ」
「ち。知ったような口聞きやがってよ」
「ふん。お前よりは、多少経験もあるさ」
「なにおう」
腕捲りするジンに、アーチは鼻白んで見せた。
「何を面白そうな事でもあるんすか?」
割って入ったのは、巡検使補ソーシー・スーだった。
「お前、何でまだ此処にいんの?」
「何でって、研修はまだ終ってないに決まってる!ところで、ミスティ様を見掛けなかったか?」
ソーシー・スーはジンに詰め寄った。ジンもアーチも同時に肩を竦めて見せた。
「は、薄情な!本当に知らないんすか?兄貴までもォ」
ソーシー・スーはアーチの白衣の裾に取り縋った。
「何を言うか。兄貴って何なんだ?」
ここに来て漸く、不審を抱いたらしい。アーチは白衣の裾を引っ張り直そうとするが、尚も縋るソーシー・スーは獲物に食らい付いた鰐の様に執拗に離さない。
「だからお願いですってば、兄貴ィ!」
「しつこいな。オレは何も知らないぜ」
「オレはいったい何時になったら、マトモな研修を受けられるんでしょうか!?」
「ええい、知るか知るか。勝手にしやがれ」
アーチは、ソーシー・スーを引き摺って歩き出した。涙目のソーシー・スーは必死で付いて行く。
「勝手に、ですかぁ?じゃあ、勝手に付いて行かせて頂きますよう!いいんですね」
「じゃかあしい」
夕陽が茫漠と地平線に浮んだ。まるで、オレンジ色のグラスに浮んだフローズン・カクテルにも似て。
「何やのアレ?」
《イケヅキCR-X》のタンデムシートに跨ったピーチィが、呆れ顔で言う。ジンはテンガロン・ハットの顎紐を締めた。
「何だかなァ。男にもモテるってのは、あんまし羨ましくねえよなぁ」
「アンタよりマシやで」
ピーチィは言った。
風が、少女の頬を擽って通り過ぎて行った。
サンチャゴ・エル・ブランコの夏は、終わりを告げたようだ。
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