
第十四話
〜ディジトゥス・デイ 神の指 disitus dei〜
第一章(2)へつづく第一章 肩胛骨はツバサの名残
(1)
「いたわりつつ殺す手を見たことの無い者は、人生を厳しく見た人ではない」
と言ったのは、ニーチェだっただろうか。
この街を鳥のように自由に、隅々まで眺めていると、ふとその『箴言』の一句が思い出される。
水の都と称されながら、飲料水の一滴も出やしないこの街は、ただ行く先も無く、世紀の波間を漂う難破船のようだ。いつまでも。
今朝はとても肌寒い。空は低くて、泣きボクロのある女のような面持ちで、どんよりと垂れ込めた雲が、広がっている。
いま、オレが水上バイクを走らせているラグーナ(内海)は、かつて陸(おか)だった。
アドリア海の女王・ヴェネツィア。
歴史的島部である六つのセスティエーレ(行政区画)の内、先端部分にあったカステッロ区、サン・マルコ区は二十一世紀末に沈んだ。いま旧市街の名残を留めているのは、ドルソドゥーロとサン・ポーロ、サンタ・クローチェ、そしてジュデッカ島のみだ。カンナレージョ区も、半分以上沈んだ。浮島ではないヴェネト州沿岸までも、徐々に地盤沈下の脅威に晒されている事実は免れない。
マルコ・ポーロ空港も、ラグーナからはもう見えない。遥か北西のトレヴィーゾまで移転した。
波が静まり、眼を凝らせば海面下三十メートル辺りに見えるだろう。旧い町並みが。
まるで、昔読んだ冒険小説の水中仮想都市そのものだ。
オレは、ヒマさえあって天気が許せば、ラグーナの真ん中にバイクを止めて、つまらない本を読み漁りながら、日がな一日海底を眺めていたものだ。何を読んでいたかな。大昔の本だ。
二十世紀を代表するアメリカの作家、ヘミングウェイとか。アメリカ人は好きじゃないが、ヘミングウェイは嫌いじゃない。彼の若い頃の作品は好きだ。海に似合う。
そう、見かけによらず、オレは健康的な生活を好む。決して、夜のネオンにばかり集まっている夜行性の虫じゃない。
そして、この街はまた何世紀も文明の利器を拒み続けた、頑なな処女王でもあった。
「何してんだ、坊主。そっから先は入っちゃいかんぞう!」
小型ランチから、ヘルメットを被った中年男が拡声器越しに叫んだ。工事現場に立ち入る船がないか、警備しているのだ。
「ブイの内側には入らないよ!」
オレはボートのエンジン音に掻き消されないように、大声を上げた。
後方を見遣ると、そう、かつてカステッロ区があった海上の少し南に、幾艘ものタンカーが並んでいる。二年ほど前からだろうか、ラグーナで工事が始まったのは。まさか、一旦沈んだ島をサルベージするつもりじゃあるまい。
とまれ、オレは旧ヴェネツィア大学跡地の桟橋に水上バイクを止めた。
桟橋に、凍える手でロープを繋ぐと、ゴーグルを外し、潮風に吹き晒された金髪を手櫛で整える。それから、ダウンジャケットのポケットに入れてきたスキットルを取り出した。
まだ生温かく、甘酸っぱい液体が、口腔に広がる。
無論、オレは未成年だし、まだローティーンだからアルコールは少ししか入っていない。中身は只のホット・レモネードだ。蜂蜜をたっぷり、そしてブランデーを少量。
胸の真ん中から、温もりが広がっていく。だが、手指に届くには足りなかった。
やがて、《マガッゼンのカッレ》の方角から、人影が近付いて来た。カッレとは、小道のことだ。ヴェネツィアには、こうした名前の付いたカッレが数え切れない程存在する。
オレはラグーナの上を低く飛ぶカモメの姿を追っていた。人影を敢えて誰何しない。
「待たせたみたいね」
女は親しげに言った。オレは振り返らないで応える。
「いえ」
「ウソ」
女はやにわに、オレの頬に素手を伸ばして来た。掌の柔らかい感触と温もりが、一瞬だけぱっと広がった。蕩けそうな笑顔で、女は言った。
「こんなに凍えているわ」
「ラグーナの上を走って来たんだ。イヤでも冷えるさ」
オレはスキットルの蓋を閉めながら、女の方へちゃんと向き直った。短いシルヴァー・フォックスのコートに膝上丈の黒いスカート。ショート・ブーツの出で立ちが、女を女学生みたいに見せていた。オレとそう変わらないのではないか、と思わせるくらい。だが、聞いた話では今年二十七歳だとか。
女は化粧っ気が薄く、素肌が美しい。ブルネットは、肩先で緩く外向きにウエーヴを描いている。
中でも、長く白い十本の手指は優雅で艶めかしい。肉体労働を知らない者の指だといえる。
顔立ちは、意地の悪い言い方をすれば、極め付きの美人という類ではない。だが、何処か男の保護欲なんてものを掻き立てるコケットリーを持ち合わせた女なのだろう。
オレは、ほんの瞬間的に下卑た想像をしてみた。
例えば、その白魚のような指は、ベッドの上でどういう風に男を悦ばせてみせるのだろうか。
我ながら、男というのはこれだから、優柔不断でいけない。思わず油断する。
「マリーナ・ビアジョッティよ」
マリーナは、そう言ってオレの手を無理矢理握った。銀の爪が、痛い程にオレの掌に刺さる。
オレは形だけの握手をして、静かに手を離す。人妻に懸想する気など毛頭無いからだ。それに、オレはもうじき十五歳になる、まだ嘴の黄色い子供だ。
オレは、早速マリーナを水上バイクに促した。
「ええ?バイクで行くの?私、この格好なんだけど・・・」
「海の上は誰も見てやしないよ」
オレはあっさりと、彼女の当惑を斬り捨てた。バイクのイグニッション・キーを回し、マリーナの手を取る。マリーナは、その時オレの顔をしげしげと見詰めた。そして、こう言った。
「お父さまに似ていないのね。髪の色も瞳の色も。のっぽなのに、華奢だわ」
初対面にしては、随分と意味深な言い方だ。
オレは、先ほどの放埓な想像から、みるみる自分の血の気が引いて、遠退いていくのを感じた。
言っておくが、オレは軽薄だ。だが、女の言動批評に関しては、伝統的に慎重な血を引いているらしい。
平たく言えば、今のマリーナの言葉は、オレにマイナス印象を与えた。オレは、面と向かって他人の容貌をとやかく言う女を、信用しない。そんなものは、寝物語の味付けにすら、なりはしない。
見てくれより才能より心根を愛してくれ、とは言わないが、これでもオレは見た目よりもずっと繊細な神経を持ち合わせているのだ。可笑しいか?
その辺、オヤジの方がオレよりも遥かに軽率なものだ。女を見る目は、明らかに子供のオレの方が真っ当だと思う。だが、ガキの言う事ではないので、オレは文句を言わない。
マリーナは、何だかんだ言いながら、嬉々としてバイクのタンデムシートに横座りになった。警戒し過ぎだ。オレはミニスカートなんかに興味は無い。今のところ、その中身にも。
「この街は初めてなのかい?」
「私はナポリの生まれなの。ナポリ以外はパリとローマにしか住んだ事がないわ」
「そう」
パリ、と聞いて一瞬、忘れかけていた試験勉強のことを思い出した。四月の医師免許取得試験のことだ。
オレの在籍する大学は、パリのど真ん中にあるのだ。
オレは波飛沫をなるべく上げないよう、マリーナに気を遣ってラグーナを進んだ。工事現場を左手に見ながら、旧市街の沈む海上を南へ南へと走った。
半島キオッジャ。かつて漁港だった町の一隅に、オレの実家、オヤジの新居があった。
オヤジ―ジャック・フィリップ・ブールヴァルドの名前を知らない科学者がいたら、そいつはモグリだと言われていた。
名前だけが一人歩きしている感じもなくはないが、オレがオヤジの威光を思い知らされたのは、エコール・ド・パリに飛び級入学した当時だった。
それまでは、たかだか神学校の高等科なので、オヤジの名前など「誰それ?そんな俳優知らないな」という感じでしかなかった。せいぜい物理や化学の教師がオレにオヤジの今の研究課題とか収入を聞いてくる程度だ。
はっきり言って、聞かれても答えようがない。頭の悪いガキ共相手に威張り散らしている無能な教師に、理解出来るレヴェルの事ではない。
その頃、遺伝子工学の中でも、とうに最もデリケートな領域に踏み込んでしまっていたオヤジは、自身の研究に関して、そうおいそれと他人に語る事が出来る身分ではなかった。そう、家族のオレにさえも。
他人には、言えないような研究をしていたのだ。
抜き差しならない《神の領域》と呼ばれる部分に迷い込んだオヤジは、至って寡黙だった。
オレには一言も、同じ轍を歩む必要を説かず、女遊びをするな、とも言わなかった。
オレが他人よりも賢く、容貌に恵まれて育っても、そのことに関して何も言わない。
ただ、オヤジは仕事が終わるとバールに行き、クラブに行って踊っていた。何かというとオレを連れ歩くのが好きだった。学会だろうが、若い女の子とのパーティだろうが、お構いなしにオレを連れ回した。
本当は、ヨーロッパのオトナ社会では、社交場に子供を連れ歩くのはルール違反だ。とりわけフランス人には嫌がられるものだ。オレの国籍もフランスだが。
しかしそれは、キャアキャアと騒ぐ子供ならの話であって、オレは十一歳で既に大学生で、十六、七歳の少年に見えた。
一人前に口上も言い、ダンスもオヤジから一通り習った。
悪くはない。ちやほやされるのはウンザリだったが、オレは既にオトナの社交というものを十代で身につけてしまった。
そして、オヤジの収入の面は、取り立てて話す程のものではなかったのだ。
幾ら世界的に名前が通った科学者で、引く手あまたであっても、ヴェネツィアのこんな魚臭い港町に小さな一軒家を建てる程度の微々たる収入だ。
オレは常に特待生で、教育費はかかった事がないから、オヤジを煩わせた記憶はない。だが、眼の眩む様な豪華な生活をした記憶もない。スポンサーを拒否していたオヤジは、常に研究貧乏でカツカツだったに違いない。それは、この後直ぐに判った事だが。
「早かったな」
オヤジは、オレとマリーナの顔を見るなり言った。部屋着の親父は、熟年特有の、やや弛んだ腹を突き出した格好でオレ達を出迎えた。最近、オヤジは痩せ肉(じし)なりに腹が出て来たようだ。
昔はもっと、姿勢も良く男前だったが、その頃のオヤジはオレの顔を一週間も見ないような生活をしていたから、写真で偲ぶより方法は無い。そのくらいオレの中では記憶が希薄だ。
顔は、顎が四角いのでやや厳つい雰囲気を与えるが、端整といってまったく差し支えない。髪と瞳の色素が薄いオレとは、まるで似ないが。
オレは、居間の片隅に置かれたサイドボードの上の、写真立てを見遣る。やや古びた一葉の写真は、団体を写していた。コンピュータに保存していないのだろうか。いつまでも、その写真はそこに置かれていて、電子アルバムに整理されたことは無い。
二十人弱の人間の中で、これがオヤジだと判断するのは容易だった。三列に並んだ内の、二列目真ん中に微笑した、今よりやや若いオヤジの顔があった。腹はまだ出ていない。
ヴァティカン科学アカデミーに移動した当初のものだった。七、八年前の研究所新設の時の記念らしい。
この頃からだろうか。オヤジがある綽名でもって、密かに呼ばれはじめたのは。
オヤジの二人右隣には、グレナデン・サフィール枢機卿がいた。その右に、若い女の姿がある。当時、オヤジの助手の一人だった、カッサンドラ・ブルーネレスキだ。すきっとした赤毛の美人なので覚えている。
よく判らないのは、前列の端に写っている幼い女の子だ。
何でこんなところに子供が写っているんだろう、と訝ったが、研究所の誰かの子供だと思って納得していた。幼女は、長い髪の、濡れたような大きな瞳の印象深い顔立ちだ。美しいとか、そうでないとかの判断は付きかねる程幼い。だが、今はオレと同じ年くらいか、少し下か、そのくらいだろう。
「お腹空いてるでしょう?何か作るわ」
マリーナは、オレとオヤジに同時に話し掛けた。オヤジは軽く返事して、書斎兼仕事部屋に戻る。
オレは居心地が悪いので、またぶらついて来ようと思い、ドアに手を掛けた。マリーナは、笑顔で言う。つい先刻顔を合わせたばかりとは思えない、砕けっぷりだった。
「気を付けてね。半時間ほどで出来るわ」
「チリペドレーモブレスト(直ぐに戻るよ)」
オレは、わざとヴェネツィア訛りで答えた。
ポケットに突っ込んだ手に、冷え切ったスキットルの蓋が触れた。
マリーナ・ビアジョッティ。彼女がオヤジの五番目のワイフ。そして、オレにとっては四番目のオフクロになる。
十二月の半ば。外気温は五度に下がる。キオッジャの港には、休息する船が規則正しく停泊していた。
男は、大袈裟ともいえる防寒着に身を包んでいた。一目で判る。海上作業者、つまり漁師か港の監視員かだ。
オレは、突堤の端に座ってタバコを吹かしている男に見向きもせず、先端まで歩いた。潮の香りと干魚の匂いが混じって漂う。オヤジが何でここに新居を定める気になったのか、判らない。ローマを離れる気になったのも、よく判らない。いや、オレが知ったところで仕方無い。
オヤジは、半分引退する気でいるのだ。
「見ない顔だな、少年」
男は不躾にオレを呼んだ。声は品が感じられた。低い、とても通る声だ。
「越して来たのかい?」
オレは振り返った。オレは先程防寒着にばかり注意を引かれていて、男の容貌をまじまじと見てはいなかった。男は一見するだに、肉体労働者には見えなかった。
頬髯は確かに野性味に溢れていたが、目の下の弛みは年齢に相応な落ち着きを感じさせる。それに、田舎の親父臭いぎらぎらした感じはなかった。
「越して来たのは、オヤジさ。オレは居候」
「成る程」
男はオレを不躾に眺めた。そして、言った。
「最近越して来たと言うんなら、ブールヴァルドという医者の家を知らないか?」
「あそこの家は医者じゃないぜ」
と、オレは即座に答えた。
「もうじき医者になる息子はいるけどな」
男は暫し言葉を噛み締めるようにして頷いたが、ややあって目を向いた。真っ黒な瞳だった。
「そうか。キミがジャックの息子か!」
オヤジがファーストネームで呼ばれるのなんて、何年ぶりに聞いただろう。いつも「ドットーレ」で事足りる。「ドットーレ」と呼ばれるような職業の人間は、ブールヴァルド家には、今のところ一人しかいないからだ。
「オヤジに用があるんなら、あと半時間程してから行くほうが賢明だと思うな」
「何か取り込み中なのかい?」
「もうじき夕飯の支度が出来る。すると、あなたはオヤジの新しいワイフの手料理を食べる客人の第一号だってワケ」
オレは男に苦笑を投げ掛けた。男がその時、屈託の無い笑みを返してきたのを、覚えている。
オヤジの友人と名乗る人間は、これまた星の数ほどいる。有名人の単なる顔見知りまでもが、平気でそういうのは、常に世の習いだ。尤も、オレはオヤジと年中一緒に生活していた訳ではない。だが、プライヴェートでオヤジ自身が「友人」と呼んでいた人間は、片手の指で足りる数だったと思う。同性に限るのだが。
マーリオ・コロンボは一級建築士だ。
そして、オヤジが満面の笑みを湛えて新居に迎えた、最初の友人だった。
コロンボという姓は珍しくはない。クリストバル・コロンも本国読みをすればコロンボなのだ。そして、マーリオという平凡な名前も、典型的なイタリア男のものだ。マーリオは、ナポリの歴史ある建築大学で学んだ時分にオヤジと知己を結んだという。
「建築士?何を作ってるんだい?」
オレは突堤の先を見詰めながら、訊いた。マーリオは、ラグーナの東を見遣った。四角い顎が、真っ直ぐに黒く聳え立つ建築群を指した。
「あれさ」
それは、マリーナが水上バイクの上から、物珍しげに眺めていた工事現場だった。
内海であるラグーナは、至って静かだ。春はダルマチア地方、今でいう南スラヴ地方から吹き下ろす風に煽られ、海面は七色に輝き出す。
だが、冬の陰鬱な湾岸は、カモメが白い丸の形に点々と浮いている以外、動を示す物がない。
オレはこんな風景も嫌いではない。
何故なら、オレが生まれた日は、小雪がちらついていたからだ。
生まれて直ぐに目が見える訳ではないだろうが、擦りガラスの冷たい部屋の中から、はっきりと暗い空を舞う、白い妖精の様な頼りない物を見た記憶がある。勝手に思い込んでいるだけの事かも知れない。
マーリオは、水上バイクを降りても、飽かず海面を見詰めているオレの肩を押した。
「ヘルメットは被ってくれ。一応規則だからな」
オレは言われるままに、安全用ヘルメットを被り、マーリオの後に付いて行った。
浮島の上に、オレとマーリオは下り立った。水上バイクは、作業従事者が専用にしているプールに繋いで置いた。
浮島といえばそうだが、ここは巨大な鉄の塊だ。だが、少しもそう感じられないのは、その規模における面積の広さにあり、陸の上と微塵も変わらない安定感にあった。実際は、ジュデッカの二倍に相当する巨大な鋼鉄の板が内海に浮いているのだ。
例えば、プールに発泡スチロール箱が浮かんでいるようなものだ。
「島の一辺は三十キロメートル。元々は百メートル四方のアクア・フロート体を繋ぎ合わせて作ったもんだよ」
マーリオは、工事中のアクア・フロート全体を見回すように、ゆっくりと首を動かした。オレは、それにつれて視線を送る。
柱も地盤も要らない、この画期的システムが叫ばれ出したのは、二十世紀末以降だ。
人口増加によって都市機能をオーヴァーフローになった先進国都市部が、開発に取り組んだが、当初その実情は捗々しく無かった。
答えは簡単だ。実際は、先進国の大半は、そう差し迫った需要に迫られなかったからだ。アクア・フロートを必要としたのは、今は亡き極東の小国・日本と、南シナ海の島国、海抜ゼロメートルの土地が大半を占めるネーデルランドぐらいだった。いずれも国土は狭量なうえ、人口密度も高かった。
このアドリア海に浮かぶ島以前に、既に実用化されているのが、トランス・エスト・オリエンティコ・アウトストラーダ(東アジア太平洋横断高速道路)。
旧ルソンからピョンヤンまで直通の、東シナ海を渡る高速道路として、数年前に完成した。台風等の災害に備えた、可動アクア・フロート様式である。
そして文字通り、チッタ・デル・アクア・フロートこそは海に浮かぶ人工都市。
自然災害における都市機能麻痺を回避する他、有事に備えての意義をも隠し持っていた。
無機物に関しては、そう明るくないオレだ。あまり政治的関心も無い。
だが、アクア・フロート都市なるものが、何故にこのヴェネツィアに有効なのかは推測するに難くは無かった。
アクア・アルタ。所謂、高潮と呼ばれる現象は初冬から初春にかけてののヴェネツィアの風物詩であると同時に、お荷物でもある。
月の満ち欠けに関わる大潮の時、アフリカからシロッコが吹き付け、しかも雨後、アドリア海の南北で気圧差が生まれると、発生する。警報のサイレンが街中に鳴り響くと、みるみる運河から海水が溢れ返り、浸水防止用の板をものともせずに建物に侵入する。住民は、皆長靴をはいてじゃぼじゃぼと細道を歩く、という光景が繰り広げられるのだ。
オレは今まで数度しか、これに出会ったことはない。ある意味、生態系に則った光景ともいえる。だが、現在のように地盤沈下が激しくては、住民はたまったものではない。
マーリオは、ことさら細かく熱弁をふるった。
「アクア・アルタの時にこそ、アクア・フロートは有効だ。たとえ鉄板が水を被って、街が浸水しても、板の一枚一枚は中が空洞になっていて、各々が排水設備を持っている。区画ごとに除水機能があるから、被害は最小限で済む」
鉄板は《ディ・フェッロ・ラミエラ》と呼ばれ、薄い鉄板を貼り箱にした形になっている。浮島の為の土台をアクア・フロートと総称するならば、《ディ・フェッロ・ラミエラ》はこの建設中の浮島の為にだけ開発された最新式の鉄板といえた。
そうして、これらの鉄板を繋ぎ、統制するマザーコンピュータによって、都市も管理される仕組みになる。必要とあらば、鉄板の一枚一枚を切り離すことも可能だ。
普段は、海底に錘で固定されていて、ある一定の危険海流に達した時点で錘は切り離され、《ディ・フェッロ・ラミエラ》は海面に漂い、難を避けるという仕組みだ。
「まるで、海上要塞だな。戦争でもまたおっぱじめる気なのかい?」
と、オレはまるで不遜な返答をした。だが、マーリオはガキの言葉に一々うろたえるような柔な大人ではなかった。
「本来、ヴェネツィア自身の歴史がそうだからなぁ。蛮族の侵入を避ける為に海上都市を作った。今度は地盤沈下の心配も無い」
まるで、建築師ジャン・ロレンツォ・ベルニーニかブルーネレスキのようだ。
「だけど、ほんとに戦艦みたく浮かんでるのは、関心しないね。街とは呼べないよ」
「完成図を見れば、誰も文句は言わないだろうよ」
マーリオがそう言って見せたホログラフィに、オレは改めて驚かされた。
それは、カステッロ区、サン・マルコ区が沈む以前の最も美しいヴェネツィアの市街地を見事に再現していた。十九世紀後半から、二十世紀初頭の街を参考にしたものだった。
「勿論、カナル・グランデ(大運河)も再現する。ヴァポレットやゴンドラが、また往来出来る様にな」
「完成予定は?」
「さぁ。総ての都市機能が移転するまでには、後十年は掛かるだろうな」
マーリオは暢気に言った。
二十三世紀の建築技術的に言えば、それは遅くも無く早くも無い。もともと地盤の要らない建築であることは有利に働いていたが、果たして《ディ・フェッロ・ラミエラ》の上にこのような完璧な居住空間、そして商業的、行政的機能が搭載できるかが、問題だ。
工事は、まだ予定の十分の一を漸く終えたところだった。
「新都市の名前なんて、決めちゃいないんだろ?」
と、オレはおどけて訊いた。するとマーリオは、何やら自信ありげな笑みを浮かべて、オレを見た。
「決まってるさ」
「センス悪いんなら、聞かないぜ」
「公式にはヌオーヴォ・ヴェネツィアだが、通称《ディジトゥス・デイ》」
「《神の指》・・・?」
disitusは、ラテン語で「指折り数える」という意味。deiは「神」の所有格を示す。マーリオは、オレがラテン語を解するのに、微塵の不審も抱かなかった。
「《ディ・フェッロ・ラミエラ》の一つ一つの形は丁度、ウエハースのようになっている。幾らなんでもウエハースだとマズイからな」
マーリオは皮肉を込めて言った。だが、一般人の気付かない真意がそこにあろうとは、恐らくこの建築物に実際に関わっている人間の誰もが知らなかっただろう。マーリオ自身も含めて。
《ディジトゥス・デイ》―《神の指》。
そう聞いた時、オレは一人、背筋が寒くなるのを感じた。
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