第十四話
 〜ディジトゥス・デイ 神の指  disitus dei


第一章 肩胛骨はツバサの名残  
 
(2)

 マーリオは、オヤジの珍しい歓迎に遭い、マリーナも喜んで不意の来客を迎えた。
 オレは、訝った。マーリオがオレに《ディジトゥス・デイ》を案内した事を、オヤジには一言もいわなかったのを。
 そもそも、何故マーリオは、出会ったばかりのオレに《ディジトゥス・デイ》を見せたのだろうか。
 理由は判らなかった。少なくとも、その時は。
 マリーナは、見掛けに寄らず料理上手で、器用だった。見るからにナポリ的な料理ではあったが、幾分薄味で、オヤジの好む味付けである。推測するに、指折り数えられる程の回数ではなく、相当数、オヤジは彼女の料理を食しているのだろう。オレは、肉も魚も取り立てて好きではないので、腹いっぱいは食べなかった。
 食後のカッフェを味わいながら、オヤジとマーリオは談笑し、その時マリーナはキッチンにいた。
 「しかし、ジャック。驚いたよ、あんた息子がいたんだね。オレはてっきり、娘だったと勘違いしていたよ」
 キッチンで冷蔵庫を覗いていたオレは、覚えず聞き耳を立てた。いや、それだけではない。オレは、オヤジの様子を横目で見た。
 オヤジは至って平静を装っていたが、瞳は笑っていなかった。何処かに後ろめたい何かを抱えている獣のような目付きで、オヤジはマーリオの顔を見ずに、テーブルの端を見ていたように思う。
 オヤジは嘘は言わなかった。マーリオも食い下がろうとはしなかった。
 いや、だが、マーリオの記憶は半分正しい。
 ジャック・フィリップ・ブールヴァルドには、息子もいたが、娘もいた。息子とは年子の女の子が一人。
  だが、その話は我が家ではいつの間にか禁句になっていた。我が家といっても、オレとオヤジの二人しかいないが。
 マリーナは、くすくすと笑った。居間のほうへ顔を向けている。オレは、冷凍庫から取り出したフローズン・ヨーグルトの四角い箱を握り締めていた。
「アナタ、ちっちゃい時は女の子に間違えられたでしょう?」
「そうでもないけど」
 と、オレは小さく答えた。聞こえるか聞こえないかを、試してみたかったのだ。
「あら、褒め言葉よ。悪くとらないで、それとも・・・」
 マリーナは耳がいいほうらしい。そうして、オレの顔を下から覗き込んだ。見上げられるほど、オレの身長は十四歳にしては高かった。既に春には、オヤジを越していた。
「アナタに妹さんがいたっていうのは、本当なのね」
 ぎょっ、とするような台詞だった。オレは黙っていた。だが、胸中は、突然掻き混ぜられたカッフェ・エ・ラッテのように渦が巻いていたのだ。
 オヤジの奴は、何処までこの話をしたのだろうか。オレとは話す事などなくても、この若くて美しくて少々頭の弱そうな女には、それなりに話する必要があったのか。
 どのみち、オヤジは優柔不断だから、喋ってしまったに違いない。まったく、女に弱いというのはこの事だ。
 オレは、だんまりを決め込んでいた。
 マリーナの言葉など、耳に入らないかのようにスプーンを探し、キッチンで食べるのははしたないので、自室へフローズン・ヨーグルトを持ち込むことにした。
 本当に居心地の悪い家だ。オレは家庭など持っても、こんな家にはしたくないね。
 そう、子供は多いほうがいい。両親のどちらかが家庭にいて、犬を飼う余裕があれば、なおいい。

 ブールヴァルド家の本籍は、イタリアにはない。もともと、フランス東南のオートサヴォア州に出自を置く家系だという。オレはその地を一度も踏んだことはないが。
 オートサヴォアは北部をレマン湖に、古くからイタリア、スイスに国境を接している為、人種的には混血が少なくない。
 代々の職業的な特徴が身体に著しく現れるというヨーロッパ民族だが、そう考えるとブールヴァルド家は、基本的に頭脳労働者しか輩出しなかったのだろう。血筋はたいしたことない。医師だか教師だか、田舎の知識人程度のものであったらしい。
 それも、近代共和制に移行する、ほんの少し前くらいの話だろう。それまでは、何をやって糊口をしのいでいたのかも判らぬ、由緒のない家柄だ。親戚縁者を大事にするような家系でないことだけは確かだとしても。
 その家系において白眉といえたオレのジイサンは、言うまでもなくフランス国籍だが、その妻はイタリア系で、オヤジは混血になる。オヤジの二番目の妻もイタリア系だったから、オレは理論的には半分以上イタリアの血を引いているという計算になる。
 ジイサンは、やはり一風変わった人品の人間だったらしいが。
 オレが生まれたのは、このヴェネツィアだ。
 イズカラグア・マルティノーという名前のヴェローナ生まれの女性が、オレの母親だという。だが、オレは実母の思い出は一つもない。
 イズカラグアは、オヤジの助手を務めていた優秀な学者だった。将来的にも、その才能を見込まれていた。
 オヤジとの詳しい経緯はどうでも、学者の世界というのはオレが想像していたよりも狭苦しく、閉塞感があるものらしい。学閥は言うまでも無い。
 一つの選択をしてしまったら、もう、道は一つしかないのだ。
 オレは、エコール・ド・パリ―第一大学の医学部に在籍している。普通に卒業して国家試験に通れば、無理をしなくても大学に残る事が出来る。余談だが、国家試験はユーロ共通の資格試験だ。ヴァティカンが認定するユーロの資格は、いわば何処へ出たって通用するのだ。
 だが別段、臨床医になる必要はオレにはない。他へ進む道といっても、選択の余地がない。その点外部へ出てしまえば、自由だ。だが、二度と大学には戻れない。そういうものだ。
 オヤジはそこのところ、その優柔不断ぶりでもって特に気に病むこともなく学者バカの道を歩んで来たといえよう。いや、学閥やら人間関係やらに拘り無いくらい優秀だったというべきか。
 学界など。オレみたいな感受性豊かな人間には、とても許し難い世界であることだけは確かだ。
 話が大分逸れたようだ。
 それは兎も角、オヤジは優秀な女学者との間に、遺伝子学的にみてかなり頭脳明晰だと予測されるオレを生んだ。そして、一年後にはイズカラグアはもう一人、女の子を産んだ。
 イズカラグアは、カッサンドラ・ブルーネレスキなど足元にも及ばない程の美人だった。ヴェネツィアン・ブロンドの髪と緑の瞳。まるでジュリエットの具象化。いや、写真で見る限りのオレの母親は、パリスが第四の選択をするなら、この女性に違いないと思える程の麗人だ。イズカラグアがあの時代に生きていたなら、トロイア戦争も起こらなかっただろう。
 ちなみに、『ロミオとジュリエット』はヴェローナが舞台なのだ。イタリア語では『ロメオとジュリエッタ』になるが。
 不思議といえば不思議なのが、何故オヤジみたいな男とこの女性が結婚する気になったのかということだが。
 当時は多少なりとも学界の話題になった。何しろ、将来を嘱望されていた、若く美しい科学者と新進気鋭の遺伝子工学者のカップリングだ。
 だが、三年後は別な意味でまた話題を生んだ。
 イズカラグアの死。
 何故たった二人の子供を生んだだけで、死ななければならなかったのか。少なくとも、学者連中が彼女に望んでいたのは、オレと妹の誕生ではなく、彼女の新たな学説だった筈だ。
 産後の感染症から重篤な肝炎になり、イズカラグアは三十二歳で儚くなった。
 ヨーロッパ人で生来肝炎ウイルスのキャリアは、ごく稀である。たまたま彼女がそのキャリアだったか、医療ミスだったかは今となっては知る由もない。オヤジは知っている筈だが、語ることは無かった。
 残されたオレと妹は、幼過ぎて実母の記憶など、まるでないのだ。
 オヤジの三番目の妻は、ヴィットリアといった。ローマ育ちの洗練された美女で、実業家でもあった。オレは、ヴィットリアに物心付くまで育てられた。今のオレを形成している部分の多くに、潜在的に彼女の影響はあろう。
 ヴィットリアは目から鼻へ抜けるような機知に富んだ女で、学者バカのオヤジとは正反対にソフィスティケイテッドな女性だった。
 さすがに、イズカラグアを亡くした後のオヤジは、一時学界から離れたくなったのだ。
 ジュネーヴを離れたオヤジがヴァティカンの科学アカデミーに移ったのも、この頃だ。
 そうして、オレのヴィットリアの記憶は、八歳までだ。
 オヤジは、そう、ある綽名で呼ばれはじめていた。
 《ドットーレ・バルバ・パリドー》―《青ひげ先生》。
 言うまでも無く、《青ひげ公》ジル・ド・レエをもじった綽名だ。大っぴらに流れているものではない。オヤジはだが、別段目くじら立てて気にはしていなかったようだ。

 伝統あるヴェネツィア大学は、地盤沈下の為に校舎移転を余儀なくされ、今では市街対岸の大陸側に新校舎が聳え立っている。
 大陸側は、セスティエーレと違って車やバイクの乗り入れが可能だ。遠い過去にモータースポーツの天国と呼ばれたイタリア共和国だったが、ヴェネツィア市だけは、常に勝手が違う。
 馬車の乗り入れすら禁止だったのだ。人々の足は、未だに自前の健脚のみ。
 我々は、街を誇りに思うからこそ、車を排除したというのもそうだが、第一にもともとそのような造りではないうえに、車などが往来すると、お互いに不便この上ないからである。
 かつてレオナルド・ダ・ヴィンチが、陸上と水上との二つの交通路を持つ理想都市の空間を構想したというが、ヴェネツィアは中世以降既にこれを実現している。
 といって、陸上はやはり機動的ではない。
 オレは水上モーター・プールに自分のバイクを止めると、勝手知ったる大学構内をずんずんと進んで行った。
 今は、冬季試験中で、学生達は殆どいない。気の利いた金持ち連中は、ヴェネツィアにのみ留まらず、遊学に勤しんでいることだろう。
 オレは、如何にもここの学生のような面構えで歩いていたことだろう。十四歳のガキが、分厚いトレンチ・コートを翻して歩いているなんて、誰も思わない。
 医学部棟は、付属病院の直ぐ真北にあって、十九世紀風の煉瓦造りだ。見た目はレトロだが、中は驚くほど最新鋭の設備が整えられている。エコール・ド・パリも真っ青なのだ。オレが病理学教室で使っている単離オーガナイザーなど、しょぼくていけない。
 オレは、どうも納得がいかない。《ディジトゥス・デイ》といい、この設備といい、ヴェネツィアに一体そんな公共投資をする金があったとは。
 1797年、あのナポレオン・ボナパルトによって共和国を滅亡させられて以来、しおたれた高級娼婦のように過去の遺物に縋って生きてきたヴェネツィアが。商人も没落し、外交界からも取り残されてしまい、経済基盤を失った街は、以来観光で食っていくしかなかったというのに。
 少なくとも《ディジトゥス・デイ》に関しては、素人目にも数十兆ダッシュのマネーが動いているのは判然としている。
 出所もだ。カトリックの総本山にして、ディアスポラの統治者ヴァティカン以外に無い。
 とはいえ、オヤジのようなネーム・ヴァリューのある科学者にさえ出し惜しみをするヴァティカンが、こんな成功するかどうかも定かでないアクア・フロート計画によくも投資する気になったものだ。
 無論、ヴェネツィア大学の新設も、その絡みで動いたのだろうが。
 などと、思いながらオレは地下にある遺伝子研究センターに潜った。
 講義を終えたオヤジは、学部棟最上階の個人研究室から、ここに日参している筈だった。オヤジは名目上、ここのセンター長という任務を与えられている。
 そもそもが、ヴァティカン科学アカデミー長になる筈だったオヤジが、自らヴェネツィアに戻って来たなど、やはり《ディジトゥス・デイ》と何の因果関係もない、とは言い切れないのだった。
「ドットーレ・ブールヴァルドはまだ戻ってませんか?」
 オレは若い研究員に尋ねた。若い男は、一瞬訝しい視線をオレに投げ掛けた。
「所長なら、講義を終えたところですので、もうじき戻って来られるかと」
「待たせて貰っていいかな」
 若い研究員は、オレの態度が癇に障ったらしく、むっとした表情で睨み付けた。
「キミ、他学部の学生なら事前にアポイントをとってきてくれないか?ドットーレは多忙で・・・」
「あら、アーチ」
 研究員の後ろから顔を出したのは、マリーナだった。白衣姿だ。
「ミズ・ビアジョッティ」
「通してあげて。私の義理の息子だわ」
「え?」
 研究員は、呆気に取られたようだった。だが、オレがジャック・フィリップ・ブールヴァルドの息子だと判ると、あっさりと道を開けた。人間は疑り深い生き物だが、単純に力に弱い生き物でもある。オレは、オヤジに無関係に、オレに対して良い顔をしてくれる人間など、ついぞ見たこともない。
 腐肉に群がるハイエナのような人間ばかりだ。

 マリーナは、オヤジが戻るまでの間、研究所内を案内する、と言った。オレは遠慮したかったが、マリーナの機嫌をそこねるのも具合が悪いので、不承不承従った。
 諸君は、「プロテオリシス」という言葉を知っているだろうか。勿論、知らなくても生きていける。だが、オレは知らない、では済まされない。
 プロテイン、つまりタンパク質を分解するという意味の言葉だ。
 生命維持の根源である代謝活動が複雑きわまりない反応系を支えていることは、生物遺伝工学の基本中の基本である。
 この人体、あるいは他の生命体の精密な反応の歯車の一つでも狂ったり、欠けたりすると、病気が生ずる。
 我々の体を構成している成分の重要要素の一つに、タンパク質が挙せられる訳だが、実はその働きは二十一世紀になるまで、殆ど解明されていなかった。
 ひとえにヒトゲノム解析に関しては、静かな戦争と呼べるほど熾烈な競争を世界各国が行っていたことで、実にスピーディに解析が進んだ。
 ところが、その遺伝情報に最も緊密なタンパク質については、然程飛躍的な結果は世間に知らされていない。
 ユーロ総合科学研究所では、その「プロテオリシス」に関するプロジェクト・チームが組織され、オヤジはその一員だった。今や、解体された研究所員はそれぞれ別の研究に没頭しているのだろう。だが、疫病神「プロテオリシス」はそう簡単にオヤジを突き放しはしなかったようだ。
 オヤジは何処までも、「プロテオリシス」にこだわっていたようだった。
「ここは環境毒物研究室。今は残存DDTの解毒を主にやっているわ」
「DDTの半減期は百年だろう?半減期を長くするのか?」
 オレはマリーナに訊いた。
「解毒活性を保持したタンパク質を直接人体に投与するのよ。使命を果たした長寿命タンパク質は、一定期間で分解消滅されるように」
「それじゃ、解毒が終わるまでに気が遠くなるほどの回数、注射され続けるのか」
「それを軽減するために、超長寿タンパク質の開発をしているという訳よ」
 そうだとも。
 タンパク質寿命の人工的改変は、夢のような発見だった。
 ユーロ総合科学研究所の業績は、これで一気に明るみへ出たのだ。
 当時プロジェクト・チームの主幹であったイライジャ・ダンフリーズ博士とボリス・ペドロヴィッチ・ルキッチ博士らによって、長寿タンパク質が人工的に作り出された。
 実際のところ、実験を行ったのはオヤジ達若手の研究者だったが。
 何が夢のような話なのか。
 遺伝子学に関わる者ならば、《パラケルスス・チャレンジ》という出来事を知っているだろう。1994年に「もとのタンパク質を構成するアミノ酸を別のものに変化させて、別の形に変えられるか」というテーマについて、ある科学雑誌から懸賞金が出された。
 形は二次構造のことをいい、通常はアミノ酸が25パーセントでも一致していれば、構造はとても類似している。50パーセントならば、同一構造と見紛う。 そして、錬金術師パラケルススの名を冠したこの難問は、三年後に解かれた。 
 詳しいことはオレも忘れたが、コンピュータ・シュミレーションでは類似しているとだけしか考えられなかったタンパク質の結晶は、実際に作ってみるとまったく違った高次構造をとったのだ。
 この結果が導き出したものは、大きかった。構造変化を伴うタンパク質の寿命の延長は、用いるタンパク質によって決まった通りには作ることが出来ないのだ。
 以後、人工的に自在なタンパク質を合成する研究が進められた。
 これまで、ランダムスクリーニングによって、あるタンパク質に結合してそのタンパク質の寿命を延長するペプチドが発見されるということはあった。だが、そう簡単には候補となるものは見付からなかった。
 そもそもタンパク質は、合成されても分解される運命にある。
 人間が牛肉を食っても、牛にならないように、体内でアミノ酸に分解してしまうのだ。その後に、人体の一部として別のタンパク質に合成される。分解したり、合成したりのリサイクルを、我々の体は行っているのだ。
 だが、そのメカニズムは解明されても、人体にどのようなタンパク質分解酵素が一体幾つ存在し、何をどう、どういった作用で分解するのか、目的は何なのか、殆ど解明されていなかったのだ。漸く二十二世紀になって、人体に606のタンパク質分解酵素が存在することが判明したが、その役割が解明されたのは半数にも満たない。
 早い話がこういった状況下で、いわば、長寿タンパク質の人工合成は、「プロテオリシス」のコペルニクス的転回ともいえる一大事を、引き起こしたのだった。
 オレは冗舌と言われるくせに、こういう説明的なくだくだしい話をするのが苦手だ。
 出来れば簡単にサンプルでも示せばいいのだが。
 結局、「プロテオリシス」と「超長寿タンパク質」が遺伝子工学に何を齎したか。それは、いま少し後で判るだろう。
「保存室を見たい?」
 マリーナは、ぼんやりとサンプルの棚を眺めているオレに振り返った。
「何の?」
「最下層に有名人の臓器やDNAサンプルを保存してるのよ。一般の立ち入りは禁止だけどね」
 オレは俄に返事はしなかった。そんなもの見たって、べつに何とも思わない。たとえ文学者で最も軽い脳のアナトール・フランスの脳が置いてあったとしても。もしかしたら、オレの方がもっとコンパクトで高性能かも、という意地悪なことさえ思う。
 世の中には、水頭症でもIQ126もあった人間もいた事例が残っていることだ。
 マリーナは、オレを連れて小さなエレベータに乗り込んだ。
 女というのは黙っていると、何でも勝手に物事をすすめたがるようだ。まるで窮屈な手品のボックスのような箱から解放された時には、マリーナはオレを置いてつかつかと歩き出している所だった。
 外気温は約3度くらいだろうが、この地下層は、さらに冷え込んでいた。まるで冷凍庫。
「冷凍保存機が多いから、ここらの温度はマイナス2〜3度ってところよ」
 マリーナは、重い扉を押し開けた。自動ドアではない。ロックを二度解除し、なんらかのパスワードを打ち込まないと開かないような厳つい扉だ。
 手袋をはめた柔らかい手が、扉を押し開いた。
「どうぞ」
 吐く息が凍った。
 ショーウィンドウのような陳列棚を、オレは無言で眺めつつ歩いた。興味が湧かない。
 生の人間を診る事にも然程興味が湧かないが、死んだ人間、しかも分解された器官を眺めたところで、何の感慨も湧かない。
 オレの頭は、そういうネクロフィリア的な嗜好ではないようだ。女性も活きがいいのがいい。女性が脱いだ下着や靴にも興味が無い。どんなとびきりの美女でも、こんな冷凍マグロにされていたら、俄然魅力がないものだ。
 一方、マリーナはどちらかというと嬉々とした表情に見えた。オレの前を歩きながら、真剣に臓器の欠片やらミイラに見入っている。
 だが、ふとオレは足を止めた。
 『Giappone』の文字が見えたからだ。『Giappone』は日本。極東の小国の名前。第三次大戦の後に滅亡した国家。徹底した日本人排斥政策によって、上層都市はおろかディアスポラの何処にも一人だっていやしない人種だ。
「日本人の臓器が置いてある?そんな一世紀以上も前のものが」
 オレは訝った。アクリルケースの林が並ぶ中を、興味に駆り立てられて進もうとした。だが、オレのささやかな冒険心は、あっけなく潰えた。
「こっちへ来て」
 突然、弾かれたようにマリーナは言い、オレの手を取った。
 冷凍庫の奥に連れて行かれる気分だ。オレは渋々従った。
 アクリルケースの規模は、たてよこがそれぞれ七十センチほどの正六面体だった。その中には、人間の脳の塊が、置かれていた。
 そっくり頭蓋から抜き出したままの形だ。傷一つ無い。脳膜は奇麗に剥がされており、血管の一本一本も鮮明な赤をしており、灰白色の大脳を覆っていた。リンゲル液などにひたっているのでもホルマリンに漬かっているでもない。美しい透明なゲル状の液体で以って、アクリルケースは満たされていた。
「死後5時間以内に冷凍した臓器を、不凍液をマイナス零度に保って保存してあるの。理論的には、再利用が可能ね。脳となると難しいでしょうけど」
「誰の脳味噌だって?」
「アナタのおじいさまよ」
 マリーナはあっさりと言った。
 オレは、こんなオレでも、思わずアクリルケースに貼りつきそうになった。生きていない臓器に反応してしまったことが、後から思えば浅ましいが。
「先の教皇報道秘書官にして、稀代の東洋哲学者といわれたガブリエル・ブールヴァルド」
 マリーナは、アクリルケースをうっとりしたような目付きで見詰めていた。
「容量1287cc。意外に少ないけれども、IQ220の天才の頭脳なのよ、これが」
「これは飽く迄容れ物に過ぎないぜ」
 と、オレは答えた。そのくらいしか言う事はない。ジイサンの脳味噌だから、どうだというんだ、くらいの気分に戻ったのだ。
「そうよ。飽く迄容れ物。人間の記憶や魂は、ここにはないわ」
 マリーナは、やや沈んだ声で言った。聞く者によっては寂しい声にも聞こえるだろう響きだった。

第一章(3)へつづく
 

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