第十四話
 〜ディジトゥス・デイ 神の指  disitus dei


第二章 世界は狭すぎる  
 
(2)
 
「どうして国は滅びるのか、考えた事はあるかしら?」
 魅力的な赤い唇が、謎めいた形を作った。オレは、テーブルの上に両肘を付いたまま、微笑しただけだ。
 昼下がりのキャッフェ・テラス。こんな試験期間中に、学生はまばらだ。
「恋はいずれ終るものよ。若いアナタに判るかどうか、それは別として」
 と、シルヴィア・ルベルッチ教授は言った。ヴェネツィア大学における若き人類学者の言は、聞き逃してはならない。だが、オレは、もっぱらテーブルの下で、教授が組んだ脚が触れるのが気になっていた。
「国家と恋愛とどういう関係が?」
 オレは辛うじて平静を保ちながら、質問した。
「国家とは『宗教的アイデンティティー』やら『国民愛護』やら『経済的安定』やら、いろんな幻想で成り立った空中楼閣の体現のようなもの。国民と政府の双方が作り上げた巨大な妄想よ。恋愛も同じだわ。『価値観の同一』『ルックスの好み』『セックスの相性』・・・総てが、お互いの美しいと見なす勘違いで、成り立っているわ。取り方が変われば、総てがおじゃんになるような、その程度の価値観やら何やらでね」
 シルヴィアは、細長い葉巻の煙を燻らせて、言った。オレは、静かにカッフェを飲む。
「その根底を覆すような出来事が、起こるとどうなる?」
「国家の崩壊・・・まあ、共産主義が資本主義に取って代わるように、男の好みも変わるわけよ。ただ、失恋の方が立ち直りは早いわね」
 シルヴィアは、あっさりと結論を下した。
 相変わらず、シルヴィアの膝はオレの太腿に触れていた。
「だけど、民族は変わらないわ。国家は滅びても、人は残る。残った人々は民族意識を一層高められて、再び立ち直ろうとするものよ」
「日本の場合も同じですか?」
 オレは漸く本題を切り出せて、内心ほっとしていた。
「・・・日本の事なんて、訊く人がいたのね」
 と、シルヴィアはちょっと困ったような顔をした。やや厚めの肉感的な唇が、歪んだ。三十歳にはまだ少しあるが、こういう時の教授は、そこらの中年オヤジ顔負けに威厳に満ちていた。
「第三次大戦の当時、同盟国側に参加していた日本は、本土を戦場にされて、大打撃を被っていました。住民は、無論ステイツ政府の庇護下で大多数米国本国や、その他の同盟国に避難していたと聞きます。それが、何故・・・」
 オレは慎重に言葉を選びながら、言った。
 大戦後、パリで調印された和平規約に基づき、中国、米国双方の駐留軍は、五ヵ年以内という制約付きで日本から完全撤退した。それは、飽く迄名目上の事だったが。
「第二のディアスポラね・・・」
 と、シルヴィアは呟いた。
「ユダヤ人と同じ憂き目に遭ったのよ」
「結局は、日本は本国を取り戻せなかったというのは、真実だったワケですね」
 オレは、シルヴィアの黒い瞳を見る。まるで女教師に歴史の授業を受ける学生のように。
「人口一億八千万以上もいた国民がね。一人残らず黙殺されたのよ。ナチのユダヤ狩りどころではないわ」
 シルヴィアは、大きく溜息を吐いた。
 ユナイテッド・ステイツの口車に乗って、仮政府のみ残し本国を蛻の殻にした日本人は、実質ステイツの五十二番目の州と成り果てていた。中では混乱も暴動も頻発していたらしい。
 当然である。同盟国に加担しておきながら、無様に本土を戦地として差し出し、多大な血河屍山を築いた上に、平和維持軍として出兵した数万の兵士は帰還を許されず、依然として旧敵国に駐留させられるという悲惨な状況を被った。
 そればかりではない。一般市民は同盟国に難民として受け入れられたものの、非常な悪待遇を受けた。かつての金満日本を良く思う輩が、果たしているだろうか。これでは、鼠が自ら鷹の巣に入り込んだようなお笑いにも何もならない結末だ。
 それも、戦時中という非常時なら兎も角も、戦争が終ってみれば、持て余す難民。いつの世も、それは何処の国でも同じだ。ましてや、日本人のような貿易立国の成り上がり者に同情的な国は無いに等しい。
 手前ら勝手にもう一度成り上がってみろ、という具合だ。それでも、一部の優秀な頭脳を持つサイエンティストや、学者、金持ちはなんとか生き延びる事が出来たが。
 そのうち、在外日本軍は、いい加減な政府の対応と引き伸ばし政策に飽き飽きしてきた為か、事もあろうに駐留国で暴動を行った。
 それが、黙殺の引き金となったかどうかは、定かではない。
 イスラエルに駐留していた日本軍は、パレスチナ兵のリンチ的な報復によって殲滅させられた。
 そこをまたしてもステイツに泣きついたのが、日本政府だ。よっしゃ、とばかりにステイツは空軍を派遣し、パレスチナを叩いたものの、それがきっかけで、今度はインド駐留の日本軍が被害を被る。まるでいたちごっこのように、報復合戦が行われたという。
 それと同時進行で、世界中で『日本人狩り』が行われた。これは、やはりイスラム系住民ともしくは華僑の仕業だったと聞くが、実際にはそれだけではなかった。ネオ・ナチの加担もあったというが、定かではない。
「馬鹿げた暴動を収拾する為に、報復軍を派遣しておきながら、米国は『日本人狩り』を、放置していたわ」
 シルヴィアは、言った。
「あたしは国際政治学者じゃないから、何ともいえないけどね。米国は、結局お荷物な長年の愛人を、捨てたかったのよね。悪いヤツよ」
 ふふん、とシルヴィアは皮肉な笑みを浮かべた。
 オレは、アメリカ人を見ると、唾を吐きかけたくなる。日本を捨石にしたからではない。
 あんな不味い食い物を何十年も食っている輩は、当然肉体も腐敗しているだろうし、精神的にも偏っているに違いないと思うからだ。
 ファースト・フードなど、ブタの餌にもなりはしない。あれを喰うと腹痛を起こす。安っぽい油がどうにもいけない。
 しかもアメリカ人は腐れ頭で、直ぐに何もかも「善悪」を決め付けようとするキライがある。当然、自分達が「善」で、敵はすべからく「悪」なのだ。
 バカが己の扱える能力以上のマテリアルを持つと、ろくな事がない。
 第二次世界大戦終期の原爆投下といい、水爆実験といい。それに追随し、威嚇しようなどと考えたヨーロッパの面々も、相当なバカ揃いだが。
 イギリスなんぞは、バカの極致だ。
 「出稼ぎの国」と米国を内心こきおろして置きながら、大きい顔をされると、はいはいと揉み手で奔走する。「庇を貸して母屋を取られる」といういい見本だ。金に弱い、オツムも弱い紳士どもめ。
 自国の伝統と文化に誇りを持ちたいと思う、オレのような善良な市民の精神を土足で踏み躙るような真似を、世界中に蔓延させる米国は、不遜な成り上がりのバカ集団以外の何者でもない。
 尤も、統一イタリアという国家の歴史は浅い。フランスは伝統あるシビリアンの国だが、オレにはどうも誇り高いだけのいい加減な国家にも見える。皮肉ばっかり言って、肝心な時に何もしないのだ。
 しかし、ヴァティカンを国家とすれば、多様な意味で誇るに足るかも知れない。
 オレは、アメリカ女とだけは寝ない。誓うよ。
「巧妙な、昔からよくある遣り口ですね。攻撃するように仕向けて置いて、自国が叩かれてからそれを名目に反撃する。それにまんまと乗ってしまったのは、日本人の間抜けな所でしょうが。まるで、パールハーバー開戦を学習していない」
「人間は、学習しない生き物よ。一体、何千年同じ事を繰り返しているんだか」
 日本は、まんまと国土を米国に乗っ取られた後、無残に滅びた。
 国の衰退は世の倣いだ。
 米国が、何の地下資源も無い島国を入手する意味は、軍事的な目的以外に無い。即刻、米軍は旧日本領土へ極東軍事基地を配備した。中国に睨みをきかせるには、これほど有利な土地は他にない。
 だが、間もなく災害が旧日本領土を襲った。海底プレートの陥入によって、日本島は中央構造線を分断され、大きく東西に裂けた。東日本は完全に沈んだ。九州島沖の海底火山噴火によって、西日本も大きな被害を被り、実質かつての日本だった島は消え去り、地殻変動によって隆起した新たな島が、日本海側に浮かんだ。
 最早、一人だって日本人が生きていようと、戻る国は影も形も無くなったのだ。
 滅びる時は、まるで畳み掛けるように次々と、こうなるものなのだろう。
「恋は終ったのよ。戦争は、疲れた恋を終わりにする為の、一つの手段かも知れない」
 シルヴィアは言った。この女が言うと、如何にもそれらしいが、まったく浮世離れした理論に違いなかった。
「恋は始まる時は容易いけど、終らせる時は想像を絶するくらいのエネルギーを必要とするわ」
 こう見えても、オレは常識人だ。戦争は馬鹿げていると思う。
 本当は無辜の民なんて、いないのだ。だが、一対一の喧嘩で死なない限りは、少なくともオレは納得しない。それだけだ。
「あら、珍しい」
 キャッフェ・テリアに現れたマリーナ・ビアジョッティに気付いたのは、シルヴィアの方だった。
「今、未来の学際病理学者とお話していたところよ」
「男と女のお話?」
 マリーナは、微笑した。トレイに載せた入れたてのカッフェから、白い湯気が立ち昇っていた。
 何となくだが、女同士牽制しあっているようすが伺える。本来なら、妙齢の美しい女性二人に囲まれるのは有り難い事だが、オレはあんまり楽しくなかった。
「気になる?マリーナ」
「義理の息子の事ならね」
 マリーナは涼しげに言って、オレの隣に座った。シルヴィアは、一瞬目を丸くして、オレとマリーナの顔を見比べたのだった。

 北緯四十八・八度の街に、オレはいた。荷物を下宿のベッドの上に放り上げると、オレは取るものも取り合えず、バイク置き場に走り出した。数週間放っておいた植物性燃料油は、すっかり冷え切っており、セルを回してもエンジンの掛かりがない。チョークをひいて漸く動き出したが、こんなオンボロ何時までも乗っていられないというものだ。
 大体、今時チョークがあるオンロード・バイクなんて。そんなモノは、今は総てオートだ。
 オレは、割とせっかちなので、四輪は余り乗らない。スタックしても軽々担ぎ上げられる二輪は、楽で速くて便利ではないか。とはいえ、常人には乾燥重量250キログラム前後を担げというのは、無理があるか。
 下宿から五分程のところに、エコール・ド・パリはある。
 オレは、今し方ヴェネツィアから戻ったばかりだ。
 パリはヴェネツィアと違って、緯度が四度も上がる。真冬は、雪こそ余り降らないが、やはり寒い。寒風吹き荒ぶ中を、オレはいそいそと大学まで出掛け、病理学研究室に入った。
 研究室は、誰一人いない。
 学生には、専用の個人研究室は与えられていないが、論文実験の為の部屋は確保されている。オレは、勝手知ったる共同研究室へと入り、ダウンジャケットを脱ぐと、白衣を羽織った。
 ご丁寧に運んで来たタンクバッグを開け、中から保冷容器を取り出す。オレは些か昂奮していた為、寒さはちっとも気にならなかったし、容器の冷たさも苦では無かった。
 オレはマスクと手袋を着け、実験室に入った。
 持ってきた容器を開け、抗菌シャーレを冷蔵庫から取り出す。そして、高性能電子顕微鏡を頭上から下ろした。総て研究室の顕微鏡は備え付けだ。
 シャーレは、厳重に密閉されている。この中には、HTLV-16F型が繁殖しているのだ。
 オレは、持ち込んだ容器から取り出した、プレパラートのカヴァーをピンセットでずらした。
 薄い桃色をした切片は、ヴェネツィア大学から持ち出した物だ。
 保存室にあった例のサンプルを頂戴する事に成功したのだ。
 それは、思っていた通りに日本人の体の一部であった。指の一本だというグロテスクな物だったが、幸いホルマリン漬けではなく、冷凍保存だったので、大いに使える事が判った。
 ホルマリンになど漬かっていると、タンパク質が変性してしまうことくらい、一般常識だろう。
 どうやって入手したかって?
 盗んでなんかいないさ。
 オレは正直に、医学部長に願い出た。勿論、論文の事を話したし、どうしても見たいと言った。正攻法で行くしかないと思ったからだ。
 オレの情熱に心打たれたのか、それともオヤジの七光りか、兎も角、学部長は標本の組織を利用する事を快諾してくれた。
 但し、条件付きだが。
 オレの提出論文は、ヴェネツィア大学にのみ帰属する、という約束でだ。悪い話ではない。オレは、ヴェネツィア大学で博士号を取得するという事になるのだから。
 とはいうものの、オレの心の奥深くでは、何か得体の知れない物が蟠っていた。釈然としない何かが。
 今は、論文の為だけに、神経が集中していて、オレはあっさりとその疑問を忘れるくらいに発熱していた。
 だから、この時の愚かなオレは取り返しの付かない事態に陥っても、仕方が無かった。
 兎に角一刻も早く、サンプルがHTLVの抗体陽性反応を示さないものかと、オレの頭はそればかりだったのだ。
 女の子の事などどうでも良くなるのは、こういう時だけだ。意外じゃない。オレは、天才じゃなくて至って真面目な科学者なのだ。
 ガタン。
 実験室の扉が開いて、オレは思わず後退った。
「どうしたんだよ」
 オレはマスクを毟り取った。
 目の前に立っていたのは、同輩のジョルジュ・マイヨだった。
 ジョルジュは、オレよりも痩せ肉の男だった。それが、まるで病気の小鳥みたいに鼠色のコートを着膨れて現れたものだから、オレは思わず失笑した。幾ら研究室が寒いといっても、これでは南極越冬隊だ。
 しかし、ジョルジュはオレの笑いにはまるで応じなかった。
「メールは届かないし、下宿にはいないし、何処行ったんだかと思ったら・・・」
 ジョルジュは白い息を吐いた。肩を竦めて見せる。
「ナタリーの所でもないし、アンヌの所でもない」
「オレが今頃わざわざヴェネツィアから帰って来てまで、女の子になんか会いに行くかよ」
 オレは、五つ年上の同級生に対して平気で大きな口をきいた。
「それもそうだな」
「何の用?」
「ヴェネツィアから連絡があったようだよ。お父さんが大変な事になったらしいって」
「オヤジが?」
 オレは、手袋を外し、実験室を出た。
「冗談じゃないだろうな」
「冗談で、キミのお袋さんがあんな声を出すもんか」
 ジョルジュはマリーナと直接話したらしい。オレはパリに帰ると言ったが、大学で論文の為に引き篭もるとは告げていなかった。それで、マリーナは親しいオレの友人に連絡を取ったらしい。
 オレは何かに没頭し始めるか否かに拘らず、他人と余り密に連絡を取らない。家族でもだ。
「ついてねえな・・・」
 オレは独りごちた。
 着いて早々とんぼ返りとはな。どう考えても、運が悪いというだけで済まされるようなタイミングじゃあない。オレの胸中の蟠りは、一層大きくとぐろを巻いていた。

 オヤジは旧市街の警察病院に入院していた。オレが病院に着いた時、既に真夜中だった。正直言って、オレは実験中断されたうえに、そのままパリから遠路はるばるヴェネツィアまで戻り、へとへとになっていた。
 オヤジの意識があったなら、文句の一言でも言ってやりたいところだった。
 廊下の長椅子には、マーリオが座っていた。オレは何の疑問も持たずに、マーリオの髭面を見た。マーリオは、言った。
「早く、中に入ってやるといい」
 オレは黙って頷いた。
 マリーナは、既にICUの中にいた。オレも肉親という事で、簡単に入れて貰った。マリーナは、顔面蒼白でぼんやりとしたまま、オレを見た。
「撃たれたのよ」
 オレは、我が耳を疑った。
「撃たれた?」
 というからには、ブラスターのような熱線銃を使ったものだろうと最初は思った。
 オヤジはベッドに横たわったまま、点滴を打たれていた。眠っているのだろう。酸素吸入器が顔の下半分に当てられていた。
 看護婦は、オレの姿を認めるや、医師の方へと案内した。
 隣の部屋で心電図とにらめっこしていた厳しい顔の医師は、オレを見上げた。
「博士はパウダーガンで撃たれたんです。右肺の下を掠っています。弾丸はなんとか摘出しましたが、出血が多く、一時は危険な状態でした」
「オヤジはここ数年前から、糖尿の気がありましたから」
 糖尿を患うと、血管の壁面が弱る。それで、長年患うと容易に出血したり、止まりにくい事があるのだ。
 それにしても、パウダーガン(火薬銃)などと。パウダーガンで撃たれた人間など、ここらでは初耳だ。パリの大学病院にだって、来やしない。オレは医師になる者として、内心執刀医に敬服した。よく見たことも無い怪我の重傷患者を救ったものだ。
「摘出した弾丸を見せて頂けますか?」
「ええ。私どもが持っていても仕方ないですからね」
 医師は金属シャーレに入った弾をオレに差し出した。弾丸は、オレは当時パウダーガンに関しては然程詳しくなく、それが38口径リヴォルヴァーに装填されるべき弾丸としか、判断出来なかった。
 今思えば、それは全長1.285インチの380RUGERという弾丸であり、38マグナム弾のノックアウト・パワー・ファクターを1.5倍も凌ぐシロモノだった。弾丸から、銃種は特定出来ない。特定の銃を選ばないように開発された、ファントムと呼ばれる類の弾丸なのだから。
 ファントムは名に負うがごとく、殺人的パワーを秘めている。被弾した周囲の組織は、完全に死滅しているだろう。
 オヤジは、肺を一部切除したのだ。そうしないと腐ってしまう。いや、弾丸を摘出する方法として、肺を切除したのが、結果的に良かったのかも知れない。
 その時、オレは一瞬でも執刀医を買い被ってしまった。本当は打つ手が無くて、切り取っただけであるのに。
 オレは、弾頭の潰れた弾丸を、ポケットに仕舞いこんだ。
 オヤジは少なくとも、これで死にはしない。少々痛い目に遭ったが。
 そうして、オレはマリーナを残してICUを出た。
 廊下で待っていたマーリオは、オレを認めると、少し寂しげな表情を作って見せた。
「・・・昼間だったよ。ジャックが現場に来たのは」
 マーリオの隣に、オレは座った。長い影が、薄暗い廊下に伸びていた。非常口を指し示す足元灯だけが、侘しく仄かに光っている。
「突然の事だった。兎に角、ジャックの方からオレに会いに来るなんて珍しいんでな。喜んで現場を案内したよ。キミに案内したようにな。オレの一大事業だからな」
 マーリオは両手の指を組んだ。オレは、マーリオのごつごつした手指を見詰めていた。
「カナル・グランデを見せた時だったよ。何が何だか判らなかったな、一瞬。《ディ・フェッロ・ラミエラ》の上には、職人どもがいっぱいいて、そりゃあ混乱した」
「撃ったヤツは、その中には?」
 オレの質問に、マーリオは大きく首を捻った。
「撃った撃たないと訊いたって、埒があくわけがない。証拠は海へドボン、捨ててしまえば御仕舞いだからな」
「硝煙反応が残る筈だろう?」
 その言葉にも、マーリオは首を縦に振らなかった。渋面を作っただけだ。
「市警が来て、皆調べられたが、誰一人出なかった」
 オレは、何も言わなかった。
「こないだカナル・グランデを見せた時もそうだったな。ろくな事がない・・・」
 マーリオは頭を抱えた。
 オヤジが命を狙われる事くらい、大した事ではない。といってしまうと、何て冷たい息子だか、と思われるだろう。だが、実際危ない事は今まで何度かあった。アルジェリアにいた時は、オヤジは過激派ムスリムに付け狙われた経験もある。
 遺伝子工学は、所謂ゲノム産業の花形である代わりに、危ない橋を渡る覚悟も必要な学問だ。国家的事業に関わる様々な思惑は、科学者当人のみの判断で動くわけではない。従って、痛くも無い腹をさぐられることも屡あれば、今回のように黙って狙い打ちされる事もままある。
 科学に武力を持ち込むなんて、反則だと言ってる側から、諸君は殺されるのだ。枕の下に銃の一丁でも忍ばせて置く事だ。
 オヤジは名のある科学者にしては、あまりに迂闊だ。殺してくれ、と言わんばかりに無防備に歩いている。それでも、オレが傍に居さえすれば何とかなった。
 オヤジが外国旅行やら学会にオレを連れていく理由は、そこにもあった。オレはオヤジのボディーガードでもあるのだ。
 今回は、運が無かったの一言に尽きる。
 一体、オヤジは今何の研究をしているのだ?
 オレにはその事の方が気になった。
 それと、わざわざパウダーガンなどを使って来るのは、どういう意味があるというのだ。素人にしては、おかしな手口だ。本気で殺す気なら、一発で胸のど真ん中を狙えば良かったのに。正面から撃たれたらしいが、右利きならそんな外し方はしないだろうに。
 オヤジが《ディジトゥス・デイ》に行ったのを付け狙っていた人間。或いは端から、そこにいたのか。
 オレがパリに戻ったのを見計らったかのように、オヤジは撃たれたのだ。
 オレの頭は、見る見るうちに解答を待たれる疑問で埋め尽くされていった。
 廊下の向こうで、足音がしている。急患でも運ばれて来たのだろう。
 オレは、疲れた頭を掻いた。ここは寒い。熱いシャワーを浴びたかった。

第二章(3)へつづく
 

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