第十四話
〜ディジトゥス・デイ 神の指 disitus dei〜
第二章 世界は狭すぎる
(3)
夕暮れの匂いが風に乗って漂って来た。ヴェローナに近い田舎町。黄金の波がたゆたう。収穫を待つばかりの麦の穂が、さやさやと鳴っていた。
麦畑の上を高く舞う雲雀。荒廃したとはいえ、地上はやはり美しい。太陽は、地上でのみその眩しさ、暖かさを感じられるからだ。上層都市の味気無い空は、オレは好きではない。
あれはエタニアル・バイオ・スフィア(最終的生物圏)という。
卑近な例では金魚鉢だ。箱庭に人間を入れて、それで一体どれだけの植物を栽培すれば生きていかれるかという、人工的生物圏なのだ。サトウキビのように効率的光合成を行うC4植物が人工栽培され、そこで人間は酸素を吸い、二酸化炭素を吐き出しているのだ。
面白みが無い。少なくとも、麦畑は存在しない。
オレを待つのは、黄金の髪をした少女。少女は湖のような瞳の色をしていた。
「お兄ちゃん」
妹の声が、オレの耳に届いた。
オレがいちばん鮮明に覚えているディアーヌの姿は、その時のものだ。
よくある兄の妹への思慕の念は、オレには無かった。ディアーヌは、あまりに純粋過ぎてオレには触れる事の出来ない人形のように思えた。むしろ、オレは内心ディアーヌを恐れていたのだろうか。
喩えるなら、凍った冬の湖。
薄氷を踏めば、忽ち割れてしまいそうな。湖の底は何も棲まない済んだ青色だ。
麦畑に、一面の緋色が広がった。穂先に飛び散る赤い色は、その根元に横たわった屍から生み出された色彩だった。
美しかった黒い髪は、こびり付いた自らの血で汚れ、飛び出した眼球は虚しく空を見上げている。生前は、どんなワインでも聞き分けた柔らかい優雅な舌が、だらしなく唇から垂れ下がっていた。
折れた手首から飛び出した白い尺骨頭。不自然に折れ曲がった頚椎。若々しさに満ち溢れていた、美しい顔は、もうない。
くの字に屈折した腹部からは、どす黒い血塊と共に、青白い光をぬめらせる腸が、破れた腹膜と共に流れ出していた。
太陽は惜しみなく燦燦と恵みの光を、生ける者にも死せる者にも平等に注いでいた。
屍の上に差した、一本の細い影。
「お兄ちゃん」
少女は、振り返った。満面の笑顔は、この世のものとは思えないくらいに無邪気で輝かしい。
その首筋に、赤い斑点が。赤い斑点は、胸元に近付くに従って、大きくなっていった。
懐はべったりと衣服が黒く湿っており、差し出した両腕は、真っ赤に染まっていた。とても嫌な、嘔気を催す臭いが少女の両手の指先から、肘の辺りまで広がっていた。
滴り落ちる赤い液体を気にもせず、少女はにっこりと笑った。
「ねえ、お兄ちゃん。邪魔者はいなくなったから・・・」
「そんな事をしたら、パパが悲しむじゃないか!」
「パパなんて、どうだっていいの。パパは私のことなんて好きじゃないのよ」
ディアーヌは、オレに一歩近付いた。
「私には、お兄ちゃんだけいればいいの」
「何言ってるんだ」
「お兄ちゃんだけいれば、何も要らない」
ディアーヌは、血塗れの手でオレに縋った。
「パパはお前の事をキライなんかじゃない!」
「嘘よ。じゃあ、どうしてパパは私のキライな女の人ばかりママにしようとするの?」
オレは、ディアーヌの両手を引き剥がそうとした。だが、離れなかった。当然だ。オレと妹は、同じ力を持つのだから。
「嘘をつくお兄ちゃんなんて、許せない」
ディアーヌの指が、オレの喉に掛かった。息苦しい。ディアーヌの表情が、天使から悪魔の彫像のように変わった。
「・・・眠っていたのよ」
マリーナは、オレの寝ぼけた顔を見て言った。ひどく顔色が悪そうに見えた。化粧をしていない所為かも知れない。
「びっくりした顔ね。脂汗まで掻いて」
マリーナの手が、オレの額に伸びた。オレは咄嗟の事で振り払う事もせずに、為すがままに任せていた。マリーナ自身よりも、オレの顔色の方が悪かったという訳だ。
ほんの小一時間眠っただけで、酷い夢を見た。ここは、患者の付き添いが寝泊りする仮眠室だった。オレは周囲を見渡した。どうやら、オレとマリーナ以外にこの部屋を利用している人間はいないようだった。
「マーリオは?」
「帰って貰ったわ。明日も仕事があるでしょうし」
マリーナは、眠たげな目を擦って言った。
「アナタももう一度寝た方がいいわ。今日は疲れているんでしょう?」
「ああ」
オレはそう答えて、仮眠室を出た。トイレは同じ階の廊下の突き当たりにある。オレは、暗い廊下を歩いた。気分が悪いのは、夢の所為だけではない、やはり寝不足で疲れているからなのだろう。ポケットの中の、弾丸に触れながら、オレは次第に目が覚めていくのを悟った。
「寝てはいけない」
と、オレの本能が叫んでいた。今夜は寝てはいけない。胸の中に蟠った蛇が、鎌首を擡げて来た。
オレはテロルの専門知識も暗殺の経験も無いが、こういう時がいちばん危険なのだという事を、肌身に感じていた。被害者が一命を取り留めて、一段落している時こそが。
オレは小用を済ませると、もと来た道を通って仮眠室へ戻ろうとした。だが、一瞬思い止まって、階下に下りた。ナースステーションは、がらんとして奥に明かりが点いているのみだ。その前が外科のICUだった。オレは、そっと扉を開け、オヤジが眠っているのを確認すると、上の階に戻った。
仮眠室に戻るまでの間、鉤型を描いた廊下には、何の変化も無かった。少なくとも、オレ以外の人間が通った形跡など、無いように思われた。
「・・・・・・?」
仮眠室の扉が開いていた。
「ああうううう」
仮眠室の中から聞こえて来た声に、オレは慌てて飛び込んだ。
簡易ベッドから転げ落ちたマリーナが、床に転がってうめいていた。
「どうしたんだ!?」
マリーナは、息苦しい声を上げた。
「お、女の子が入って来て・・・ごほっ」
オレはマリーナの上半身を起こした。左胸の下を押さえている。手をどけさせて、軽く押すと、マリーナは悲痛な声を上げた。肋骨をやられているに相違無い。肺は、肋骨という籠にぎちぎちに入った鳥のようなものだから、骨折すれば息をしても痛むのだ。
「ナースステーションへ!」
オレはマリーナを担ぎ上げた。だが、マリーナは強く首を振った。
「私は何とかなるから・・・ジャックを!」
オレは、マリーナの言う通りに従った。飛ぶようにして、再び階下へ下り、ICUへ一目散に飛び込んだ。
「オヤジ!」
オレは、ドアを開けるや否や、信じられない物を見たのだ。
一般人なら、暗がりで何も判らないだろう。だが、オレは赤外線すら微かに見える視力の持ち主だ。
オヤジの上に圧し掛かっているのは、華奢な少女だった。少女の手は、既に酸素吸入器を引っぺがし、オヤジの喉首に掛かっていた。
少女はオレが踏み込んでも、振り向きもしなかった。
当直医は姿を現さない。急患の手術中か。それにしても、看護婦の一人もいないのは、不自然だった。いや、少女が先に看護婦を縊っている可能性が大だ。
「お前ェ!」
オレは少女の背中を衣服ごと掴んだ。少女の力が緩むと、オヤジは力無い息を、こほこほと吐いた。
少女は、声にならない怒りを、オレに向けた。金色の短い髪が揺れた。整った美しい顔立ち。赤い唇を噛んで、少女はオレを激しく睨んだ。
「ディアーヌ」
そう呼ばれた瞬間、少女は怯んだ。吊り上がった目尻が、ほんの一瞬頼りない動揺を見せたのだ。
少女は、オレを無言で睨んだ。オレはだが、少女を掴んだ手を決して離さなかった。
「何故だ?」
オレは、少女を壁際に力任せに押し付けた。骨が軋む音を立てて、少女は初めて小さな悲鳴を上げた。オレは、既に焦燥感と燻る怒りで、どうかしていたのかも知れなかった。
「何故、オヤジを!?」
オレは少女の顎に両手を掛けた。少女の表情は、今度は恐怖にとって代わられていた。オレを見る目は、ひどく怯えていた。
「ディアーヌ・・・」
オレは僅かに少女の首を締める両手に力を込めた。だが、出来なかった。
少女は、ずるずると壁に沿って体を滑らせた。オレはすっかり、両手を離してしまった。少女は、震える肩を抱きながら、ゆるゆると立ち上がった。
オレは、少女が出て行く様を見なかった。オヤジが苦しげに息をする様が気になりながらも、茫然と暫く突っ立っていた。
廊下の薄明かりが差し込んでいる。
「・・・ディアーヌなんかじゃない。あの子はディアーヌじゃなかった」
オレはそう確信した。
自分に言い聞かせているのではない。そうなのだ。ディアーヌならば、オレは縊り殺していたかも知れない。だが、オレはそうしなかった。ディアーヌに似ているが決して妹ではない別人だと判ったからこそ、殺したくは無かった。
「オヤジ・・・何とか言えよ。何やってんだよ、あんた」
オレは、オヤジのシーツを元通りに被せてやりながら、呟いた。
オレは翌日一日寝倒して、漸くその次の日にキオッジャを出た。
家には誰もいない。マリーナは、肋骨を折られていたが、通院の必要があるほどの怪我ではない。暫くは不自由するが、取り敢えず普通に生活出来る様子だった。朝はいつもより早く家を出て、オヤジの様子を見に行き、夜は研究所を出てからまた病院に寄って戻るという生活になるらしい。
そんな事なら、オレも早いところパリへ戻って論文の続きに掛かりたいところだ。
だが、オヤジの入院の事由が事由だけに、それは出来そうも無い。オヤジは何も言わないだろうが、本当はオレがヴェネツィアにいる方を望んでいるのだ。
それに、気懸りは一つや二つではない。
ヴェネツィア大学は、俄に外部の人間が出入りしていた。
マスメディアの連中だ。
オヤジが緊急入院したと聞いて、早速駆け付けたようだ。
別段、病院には口止めした訳ではないし、言われたからといって、どうという事はない。医師や看護婦は当然、守秘義務もあれば、声高にそんな事を言ったりしないものだ。業務に差し障りがあるからだ。どうせ、ICUのネームプレートを見た、元気でオシャベリな長期入院患者が噂したのだろう。
入院二日目にして、この有様なのだ。普段はオヤジなど歯牙にも掛けない連中まで、スキャンダル狙いでやって来る。ハイエナのようなヤツらだ。まったく、油断も隙も在りは無い。
オレは、マスコミ連中にそれと悟られないように、静かに歩いていた。
「はあい、ドットーレ・ブールヴァルド」
陽気な声を掛けてきた、百パーセント脳天気な女がいた。
オレはわざとに無視した。歳相応の子供に見せ掛ける為に、オレは目立たない濃紺のダッフルコートを着てフードを被っていた。
「なーに無視してんのよ。一緒にランチでもどう?」
「や、やあ。シルヴィア・ルベルッチ教授」
と、オレはぎごちない返事をした。振り返ると、深紅のハーフコートに、太腿丸出しの黒いミニスカ、真っ赤なルージュというシルヴィアが立っていた。これで夜の繁華街に立っていたら、大学教師に見えるかどうか。
オレ達の遣り取りを聞きつけた、取材人の数名が、近付いて来る。
「なによ、他人行儀なんだから。私達は、もう熱い議論を交わした仲じゃないの」
「別に、熱い議論なんて」
図書館で歴史書を読んでいたオレに声を掛けてきたのは、シルヴィアの方からだった。見かけ通りの判りやすい女は、安心して話が出来るので、オレもつい話に乗っただけだ。
「あら、記者らしいのが近付いて来るわ。もしかして、あたしの取材、って事はないわよね」
シルヴィアは、目を見開いた。
「そうだ、昼メシ行こう!昼メシ!」
オレはシルヴィアの背中を押した。
「ええ?何なのよ、せっかちなんだから、今時の男の子は」
シルヴィアはぶうつく言いながら、オレに押されて満更でもない様子で歩き出した。
サン・スタエ教会の近くに《リオ・テッラ》という物騒な名前のリストランテがある。
名前の由来は、昔、カナル・グランデを挟んだ向かいのサン・マルコ地区にあったカッレに拠る。
リオ・テッラ・デリ・アサッシーニ―《殺人者の道》という名前の見通しの悪い狭い道だ。本当の由来は今となっては、誰も知らない。
だが、古い過去の時代、ヴェネツィアでは夜の闇に乗じての殺しが暗躍していたという。迷宮のような道が続く都市。先に何があるのか、見通しが効かない空間は、およそ余所者には不得手と映るだろう。
心理的にも物理的にも部外者が入り込みにくい、この迷宮都市は、住み手にとってはこの上なく安心でぬくもりのある場所であるのかも知れない。
シルヴィアは《リオ・テッラ》の常連として、オレを食事に誘った。オレ達は若いカップルのようにして、店内に入った。
オレとシルヴィアの実年齢を知ったら、皆驚くだろう。
少なくとも、オレのような中途半端な中産階級の少年が入るような場所では無い。イタリアだからこそ、その点は救われている。
リストランテは、カナル・グランデだった内海を挟んで、カステッロ区の残骸を見渡せる。もう対岸には、住居は殆ど残っていない。僅かに歴史的建築物がその昔を止めているだけだ。
だが、夜景は美しいのだろう。
「そう。お父さまが怪我を?それは大変ね」
シルヴィアは、鱸のカルパッチョを突付きながら、言った。
「超有名人の息子って、意外と苦労するのねえ」
「そうでもないけど」
「アナタ言っちゃ悪いけど、そんなに素封家のボンボンにも見えないわ。尤も、学者は貧乏だけどね」
「赤貧洗うが如し、さ」
オレは本当の事を答えた。
「アナタのようにずば抜けて優秀なら、エコール・ポリテクニックに進学するものだと思ってたわ」
シルヴィアは屈託なく言った。
これも、大学教員の彼女ならではの台詞だ。
大学教育を知らない人間なら「エコール・ド・パリ」と聞けば一流大学のように聞こえるが、実際そうではない。フランスではごく普通の「一般大学」だ。
フランスにおける高等教育というのは、所謂エリート中のエリートを選抜するためにあるようなもので、かつての高級官僚や政治家は殆どグランゼコールと呼ばれる超エリート校から輩出される。
サルトルもグランゼコールの出身だ。
エコール・ポリテクニックは理工科学校であり、その他に高等師範学校、パリ政治学院、国立橋梁土木学校などが名門校として知られる。
「オレは、ああいう鼻持ちならないエリート連中は大嫌いだ。オヤジも田舎の一般大学出身だしな。しかも、グランゼコールは寮生活だぜ、やってられないよ。金持ちのブスばっかだしな」
「ふふ。そう言うと思った」
「本音を言えば、学費が要らないからエコール・ド・パリにしたというだけの話さ。貧乏なんだぜ、本当に」
「反骨精神旺盛なのね。エリート校でなくともデキるところを見せたいんでしょう?」
シルヴィアは、陽気に笑った。
そもそもオレは各地を転々としていて、一定の場所で教育を受けていない。イタリアは、フランスほど学歴や職業で単一な人生を歩む人間は少ない。オレはむしろ、パリでの生活が苦痛に感じられることも屡ある。
諸君が想像する以上に、あの街は自由が少ないのだ。人生を劇的に変えるという点においては。
パリは住み難い。自然とテリトリーが限られてくる空間だ。
嫌いじゃないが、明らかにパリは階級を意識せざるを得ない街でもあるのだ。移民には心が広いというが、生活差は歴然としている。オレに左脳が無かったら、夜の街にでも立って有閑マダムを誘うくらいしか足掻きようが無いというものだ。
ソムリエが、赤ワインのボトルを運んで来た。昼間から飲むのは珍しくないが、そんな濃厚なワインでなくともいいのではないか、とオレは思った。しかも、オレはまだティーン・エイジャーだ。
オレはそんな思考をおくびにも出さないで、デキャンタに注がれるビロードのような液体を眺めていた。
緑色をした瓶の底は深く内側に窪んでいる。僅かにタンニン性の残留物である澱が、沈んでいるのが判った。優れた赤ワイン。クロ・ドゥ・ベーズ。オレだって、オヤジの交際に付き合う以上、この程度の知識は最低限持っている。
「アナタ、日本人の遺伝子なんて調べてどうするつもり?」
グラスを合わせた後で、シルヴィアは言った。
「HTLVの感染ルートを示す為の資料さ」
「それって、うやむやになった人種起源の探索と重なるわね」
シルヴィアは、くいとワインを干した。顔色は全く変わらない。
「昔、ヴェネツィア大学に、日本文化研究所という施設があったのよ。ヴェネツィアは共和国以来、貿易が盛んで、東アジアに商売上の興味を持っていたから当然だわ。そこでちょっと馬鹿馬鹿しい実験をやっていたみたいだけどね」
「実験?」
「人種相互のDNAの相違性というヤツよ」
そういう話なら、オレも以前に聞いた記憶があった。暇な人間が人種間で比較したらしい。何の意味があったのかどうかは、さて置き、結果はあまり興味深いものでは無かった。
「沙汰止みになったようだけどね。優生法に触れるからとかで」
シルヴィアは肩を竦めた。
「いえ、もっとはっきり言えば、《ジェノサイド条約》に触れるからよ」
《ジェノサイド条約》。
二十世紀半ばに国連で採択された《集団殺害の防止及び処罰に関する条約》から、約百五十年後に制定された国際条約。
世界は紛争と大規模な戦乱の度に、この《ジェノサイド条約》を改正してきた。
現在、第七次まで改正されている。
この回で、更新されたのは、集団虐殺使用目的で開発された兵器の撤廃、回収、製造禁止をAランク(民間標準生活区域)まで広げたことだ。
シルヴィアが言っているのは、第四次に追加された「種族の保存および民族の維持を主張する」法規だろう。
「民族の遺伝子的封鎖をしようとした、バカな連中のお蔭で大変な事になったものよ。南アフリカのバジャパリ族は、二十二世紀後半になって人口僅かに二十人余になったわ。彼等の従来の生活形態は、近代化によって破壊され、しかも大半は結婚、混血によって都会へ流出した」
「バジャパリ族というと、好酸球を持たない白血病、AWCL-アルカリ血清症の因子を持つ種族として有名な。だが、この遺伝子を持つ者は、ネムリ病に罹っても生存率が非常に高いという」
「その民族特有の遺伝子を利用しようとした薬品会社があったワケでね。そこから遺伝子治療用の薬品開発に乗り出そうと、バジャパリ族の総勢を掻き集めて遺伝子サンプルを採取した。果ては当人は要らないという事で、人体実験にしようとした・・・」
シルヴィアは、二杯目も軽く干してしまった。
「国際問題になったもんよ。で、そういう事が今後も起きないとは限らない。だから人種的相違なんていう実験はやめさせられた」
よく喋る女だ。オレは、黙っていても構わないようだ。
デキャンタの中身が半分ほど無くなったところで、不意に店内が騒がしくなったのに気付いた。
窓側の客達が一箇所に集まり、一斉に同じ窓の外を見詰めていた。
「何があったの?」
好奇心の塊ともいうべきシルヴィア教授が、これを見逃す筈もない。シルヴィアは、オレを手招きした。
明るい太陽に照らされたラグーナは、アクアマリンのような水色に透き通って見えた。波頭は緩く、白く。そして、そのたゆたう波間に、あるものが浮いていた。
「人形じゃないわ、あれ」
見紛う事がなければ、それはうつ伏せになった人間だった。
オレの心臓は、早鐘をトクトクと打ち始めた。
「・・・・・・」
窓に貼り付いて、気でも触れたかのように海上浮遊物に見入るオレを、シルヴィアは奇妙な顔で見上げていただろう。
「ねえ、アーチ」
オレは《リオ・テッラ》を急いで出た。店を出た北側に向かって走る。船着場が直ぐ傍にあるのを、水上バイクに乗るオレは知っていた。幸い、そこには今出発しようとする小型ボートがあった。
オレは叫んだ。
「乗せてくれ!」
「ええ?定員は二人だよ。オレと相棒でいっぱいだ。ぼうず、何しに行くんだ?」
気の良さそうな中年男は、大声で答えた。
「あれ、見てくれよ!リストランテのテラスが出っ張ってる近く!」
「おお!?」
二人の船員は、揃って海を眺め渡した。
「ありゃ、大変だ!」
「直ぐ出るぞ、ぼうず待ってろ。助けてやっからな!」
男達は既にボートを出発させていた。オレは、潮風に金髪を吹かれながら、一縷の望みを捨て去るか捨て去るまいか、迷っていた。
少女の遺体は、生前の面影を殆ど完全に止めていた。冬の海の冷たさが、幸いしたというべきか、それがせめてもの救いと言えば言えた。
金髪は、寒風に晒されて額に張り付いていた。閉じた瞼の下の瞳は、一体最後に何を見たのだろうか、とオレは思った。
ボートに引き揚げられた時には、既に少女の息は無かった。
オレは、何の措置も施さなかった。施す手立てもない。実際、少女の身体は死後硬直が始まり掛けていたのが判ったからだ。
水も吐かないのはうつ伏せであったせいもあろう、と思ったが、そうではない。
少女は溺死では無かった。
死後に内海に捨てられたのだ。
自殺でない事はほぼ、確かだ。自殺者が、死後に歩いて身投げなどする訳が無い。アルコールや薬物を注射されて、海に投棄され、目覚めて溺死するという事もある。だが、自殺でそんなまだるっこしい真似をする筈は無い。
やはり、殺害された後、何者かが少女を無残に捨てたのだろう。
オレは、市警が少女の死体を運んでいくまで、様々な憶測を巡らせた。
胸中、乱麻のごとく。
少女はディアーヌではない。似て非なる他人だった。だが、オレは名前も知らなかった。
オヤジを襲ったのは、自らの意志ではないように身受けられた。そうであるならば、殺された辻褄が合いそうなものだ。
オヤジという標的を殺害出来なかった暗殺者の少女は、命令を下した上司の手で制裁を受けたのか。
だとしたら、間接的であれ、少女を殺したのはこのオレではないか。
だが、オレはオヤジに死んで貰いたくない。オレにとってはもう、たった一人の肉親でもあるのだから。
「あのコ・・・アナタの知り合いだったの?」
シルヴィアは、オレに向かって静かに訊いた。オレは、市警の連中が非常事態にだけ市街地に乗り付けるオンロード・バイクと水上バイクを遠くに眺めた。
「いや・・・」
オレは、そう答えただけだった。
第三章(1)へつづく
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