第十四話
 〜ディジトゥス・デイ 神の指  disitus dei


第三章 海は千億の顔を持つ  
 
(2)
 
 なあ。
 だんだんオレはつまらない世界へ引き摺り込まれて、いい加減ウンザリしていたってこと、判るだろう、諸君なら。
 何かを知るという事は、同時に何かを無くすという事でもあるらしい。

 『ユーロ総合科学研究所』という名前は、多少なりとも科学に興味のある者なら誰しも知っているだろう。2180年に創設され、2231年に閉鎖・解体された。
 研究所そのものは、ジュネーヴにあった。今は、建物の跡すらない。
 その名の通り、文科系理科系の多岐にわたって研究者を集めた機関であり、アカデミーだった。
 大学院大学が研究者養成の意味を有するなら、『ユーロ総合科学研究所』―略して『ユーロ研』は研究者の為の研究所であろう。大学教員の研究におけるネックとなっていた、一般的な雑務などは一切無い。研究バカには、天国のような場所ともいえる。
 そのような学問の殿堂が、百年の長きにわたって維持されたという事は、当時ヨーロッパの学界の誇りでもあった。
 オヤジも御多分に洩れない。
 自他とも認める学者バカのオヤジは、大学で御礼奉公を終えるや否や、『ユーロ研』に引き抜かれた。
 息子のオレが言うのも何だが、オヤジはまるで節操が無い。
 オレは多少なりとも恩義のある内は、フランチャイズを変えるつもりは無い。まあ、それ程の実力も名声も無いといえばそれまでだが、オヤジの場合は違う。
 自分の研究に有利と思えば、躊躇い無く本拠地を変える事が出来るのだ。
 多くの研究者は、そういう訳にはいかない事が多いが。
 オヤジが『ユーロ研』で行っていたプロジェクトは、主にヒトゲノムに関わる共同研究だった。ヒトゲノムは、言うまでもなく二十世紀末に殆ど解析が終わった。だが、それは飽くまで表面的なものでしかない。
 古代石版の文字やその並びが判ったというだけで、まるで意味が見えていないのと同じだ。そこから読み取れるものは、一体何なのか。それを解析していったのは、二十一世紀以後の遺伝子学者だった。
 実際、判ったことは決して少なくない。
 例えば、我々の神経系統に関わる分化過程。
 脳から末端神経までの神経系は、胎生期においては盛んに細胞分裂、分化するが、出生後には二度と細胞分裂は起こらない。そして、より有効な神経回路形成の為に、アポトーシス(細胞自然死)が行われる。神経系は消費されていくだけの細胞群だ。
 一度分断された神経が二度と再生しない原理。それらが解明される事によって導き出された、ある一つの答えがオレの中にある。
 いや、オレの肉体そのものだ。
 レミンカイネン、つまり再生促進型強化人間。またの呼び名をリヴァイヴァーともいう。
 人間は、常に自己再生能力を無意識に使用している。
 折れた骨はくっつくし、髪や爪は毎日伸びている。目玉や脳味噌は再生しないが、肝臓すら再生するのだ。個体差はあるにしても。
 その再生能力をフルに活用して、どの部位の組織、器官でも自己再生出来ないだろうかという希望を実現させたのが、レミンカイネンという人造人間だ。
 脳と呼ばれる部分、実際には脳幹(と呼ばれる小脳、間脳、中脳、橋、延髄)が生きてさえいれば、人は一応植物状態でも生きている事にはなる。その脳幹と大脳基底核さえ確保しておけば、残りが吹っ飛んでも人としての再生は可能だ、というのがレミンカイネンだ。
 勿論、自力再生にも限度があるので、最悪の事態になった場合はせめて生理的食塩水にでも浸かっていないと、栄養分もへったくれもないまま干からびてしまうだろう。偉そうに言っても、詰まる所は他人の手を借りないといけないというジレンマからは逸脱していない。
 とはいうものの、レミンカイネンの実現は遺伝子工学者の夢でもあった。
 ES細胞によっても解消されなかった、臓器移植のドナーやら、医薬品産業を賄うのにうってつけでもある。
 それが証拠かどうか知らないが、オレの血液型は南欧人に多いO型だ。オヤジはAB型で、実母イズカラグアはB型であるにも関わらず。数万人に一例くらいは、こういうこともあるらしいが、まず、B型とAB型でO型の子供は生まれない。
 安っぽいドラマの主人公なら、それだけで衝撃の事実に違いないが、オレにとっては不思議でも何でも無かった。
 二十三世紀の現在は、輸血用血液はほぼ七割がたがインスタントだ。真空パックされた血漿に、被輸血者の血液型に合致した血ぺいを混合するという、カップスープみたいなもので、軍隊の救護班はこれ無しでは仕事にならない。
 あるいは生の血液を輸血する方法も、まだまだ有効だ。
 使用する血液成分はさまざまだが、オレの場合はグローバルに言って、ほぼ半数の人間に対応出来る。都合が悪ければ、各々α、β凝集原を含んだ血液成分を注入するだけでいい。何て都合がいい血液だろう。幾ら便利になったとはいえ、人工血液の比ではない。血液製剤だって簡単に大量に出来る。
 オヤジはオレを血液銀行代わりにしたかったのか?わざわざ血液型を変えてまで。
 いや、レミンカイネンの本当の利用目的は、そんなところには無かったのだ。
 それは、オレ自身がいちばんよく判っている。

 オレが病室に入るなり、オヤジは言った。
「大学へ行くのか?行くなら私を連れて行ってくれ」
 などと。肺の一部を切除して間もない人間が考える事ではない。
 オレは、マリーナから託った包みを椅子の上に置き、上半身を起こしたオヤジを見つめ返した。血色は良いが、呼吸が苦しい事には変わり無い。第一、歩き回れる訳が無いというのにだ。
「外出許可は?」
「そんなもの、後から何とでもなるさ」
 オヤジがそういう言葉を吐いたのが、オレには瞠目に価した。
「・・・いいよ。何しに行くんだ?シンポジウムの準備か?」
 オヤジは、その問いには答えなかった。答えは要らない。
 オレは、看護婦の検温が来ないうちにオヤジを外へ出すべく、着替えを手伝った。後にも先にも、オレがオヤジにこんな事をしたのは、これが一生に一度で最後の事だった。
 冬の海上は、ダウンジャケットを着ていてさえも凍れる寒さだ。この寒さが、オヤジの体力を奪ってしまわないようにオレは気を遣いながら、水上バイクを駆った。
 オヤジがオレの頼りない腰に手を回している。オレは、ジャケットの内側にパウダーガンを忍ばせていた。尤も、忍ばせると言う表現は適切ではないくらいの重量だったが。
 当然、オヤジも気付いているのだろう。だが、何も言わない。
 内心、オレは躊躇という不気味な爆弾を抱え込んでいた。
「お前が研究しようとしている事に口出しすまいと思っていたんだがな・・・」
 と、オヤジは小さくオレの背中で呟いた。
「あまり深入りしないのが身の為だと言ってもきかないんだろうな」
「HTLV−16Fの何処が?」
 HTLV−16Fの論文を書く上で、日本人の抗体陽性反応は、核となる部分なのだ。何がいけないのだ。もしかして、オレがパリに帰ったばかりを狙って、オヤジは邪魔したわけではあるまい。穿った見方をすればだが。
「そうじゃない」
 オヤジが首を振るのが背中に伝わった。そんなオヤジは、とても頼りない。
「サンプルの事だ。日本人の事を扱うのは感心しない」
「何でだい?学部長のお墨付きで、論文を書けと言われたんだぜ」
 オレは浅薄な思考のガキだった。オヤジの言わんとする事が、この期に及んでまだ理解出来なかったようだ。
「・・・兎に角、論文を書くにしても日本人の事には触れない方がいい」
「日本人の滅亡と何か関係があるとでも?」
 オレは、意図せずオヤジが言い澱むような言葉を吐いたらしい。
「まさか日本人が、ある日突然HTLV−16Fの蔓延で全滅したってことはないだろう?歴史教科書が言うまんまを信じたりはしないけどな」
「・・・・・・」
 その時、オレの脳裏に引っ掛かっていたものが、ほろりと零れた。シルヴィアの言葉だった。
「『民族の遺伝子的封鎖』。って、いうのがあるよな。ほら、アフリカのバジャパリ族の事件。特定の民族に特有の遺伝子情報を利用する為に、わざと絶滅させるという強引極まりない遣り方もあるんだってな」
「アーチ」
 オヤジの声が今までに無く、険しく響いた。だが、オレは止めなかった。妄想と言われようが、止まらないのだ。恰も、オレは生まれたときからその事を知っていたかのように、次々と言葉が浮かんでくる。
「二億人殺戮なんてメガデスがどういう倫理判断に基づいて下されたか知らないけど、想像を絶する規模だな。二十人でも二億人でも、民族が絶えることには変わりないけど、日本人が滅びて、誰が一体どれだけの利益を入手したんだろうな・・・」
 背中に熱い息が感じられた。オヤジは、確かに発熱していたが、それだけではない。
「・・・お前の勝手な想像だとは笑わない。だが、真実は自分の目で見るがいい」
「ああ」
「適当なところで外部から無理矢理ストップが掛かるかも知れないが、いずれ判るよ、お前にも」
 オヤジは静かにそう言った。それ以上、喋らなかった。
 オレは、俄に釈然としない心地になってしまった。
「マーリオの所へ、《ディジトゥス・デイ》へ行ったのは何でだ?」
 オレはボートプールに着くや、オヤジを桟橋に引っ張り上げながら訊いた。
「たまには、こちらから顔を出したい時もあるじゃないか」
「本当は確かめに行ったんじゃあないのか?」
「何を?」
「ディアーヌの事を」
 オレは、オヤジよりも半歩先を歩いた。オヤジはややゆっくりながらも、歩く事が出来たのだ。
「マーリオに訊いたって仕方ないだろう?今更何を言い出すんだ」
 オヤジはまるで芝居が下手だ。オレの父親とは思えないくらいに、大根役者だ。まるで考えている事が顔に表れてしまうらしい。
「そうじゃなくて、自分で確かめに行ったんだ。もう一度、ディアーヌが現れやしないか。そうだろう?」
 オレは意地悪な言い方をした。
「お前の言う事は嘘ではないと思ったからだよ」
 オヤジは苦笑いを浮かべた。オレは飽く迄皮肉めいた台詞しか用意していない。
「違うな。オヤジは知っていたんだ。ディアーヌが生きている事に、端から確信を持っていたんだろう。今となっては、どうだか判らないけど」
 オヤジは、ややあって早足でオレの肩を掴んだ。その鳶色の瞳に、オレの驚いた顔が映った。
「判らない事じゃない。生きているんだ、ディアーヌは」
 オレは、オヤジの言葉に怪訝な反応を示した。オヤジの声は、微かに震えていた。
「どういう事だよ」
「確かに生きている・・・」
 オレは、それ以上オヤジに問い質せなかった。遺伝子研究所の内部に入ったからだ。
 廊下は誰も通る者がいない。だが、オレは全くそれ以上の事をオヤジに訊く機会を逸してしまった。また、あの不幸な暗殺者少女の事も言い出せず仕舞いだった。
 オレはまだまだ学習能力の無い、浅はかな餓鬼だったのだ。

 強化人間を作る上で、最も困難な技術はテロメアという細胞分裂のチケットを活性化させる技術だ。それは総ての体細胞にのみ行われる処理である。生殖細胞には、残念ながらその原理は全く活用されない。従って、強化人間の生殖能力は一般人と何ら変わり無い。
 だが、一般的な強化人間はそのようであっても、レミンカイネンとなると、これは似て非なる物だ。
 レミンカイネンは、既存の人間を改造するのではない。
 胚の段階で総ての手術は施されるのだ。
 体細胞の驚異的な再生は、遺伝子の一部にトリックを加える作業に極まる。体細胞がある一定の刺激を受けると、ミトコンドリア内に存在するブラーエ増強受容体(エンハンス・アクセプター)という小細胞が活発に動き始める。
 これは二十二世紀後半になって発見された、それまでは一体何の役目を持っていたのか不明だった細胞だ。
 このブラーエ増強受容体が、爆発的にミトコンドリアにおけるRNA(リボ核酸)生産を促し、タンパク質合成を行う。それが、レミンカイネンの自己再生能力の高さに繋がるのだ。いわば、積極的アポトーシスではない状況下で細胞が死滅した場合の、逆説的な細胞分裂だ。勿論、ここにもテロメアの魔術が生きてくる。
 だが、テロメアそのものに関しては、レミンカイネンは未知数だ。永遠に分裂し続けるという御都合主義的なことは有り得ない。確実に一般人よりはテロメアは長い筈だとしても。
 気持ち悪いかもしれないが、体内にウイルスを飼っているような感じだ。
 もともとはブラーエ増強受容体は、レトロウイルスの抗体を実験中に見付かった偶然の産物だから。
 例えば、同じウイルスに感染しても、発症率や症状には個人差がある。
 ウイルスが感染し、目的の組織で増殖し始めると、そこではインターフェロンという物質が作られる。このインターフェロンは感染を示すシグナルとなり、さまざまなタンパク質を合成してウイルス合成を阻止しようとし、マクロファージなどの免疫系を活性化する。
 高等動物の細胞は、皆このインターフェロン遺伝子を持っており、普段はレプレッサーというタンパク質が結合して発現しないように抑制が掛かっている。だが、一旦誘導物質がレプレッサーに結合すると、インターフェロンは発動するのだ。
 ブラーエ増強受容体の原理は、それとまるっきり同じだという事だ。
 癌やHTLV、肝炎におけるインターフェロン療法は、強い副作用を伴って来た。発熱、嘔気、だるさ、食欲減退。
 いわば、それと同じ状況を、レミンカイネンの体内では細胞死滅時に起こさせる事が可能なのだ。
 腕の一本でももがれたひにゃ、オレは一週間ほど高熱にうなされてぐったりなっているだろう。だが、これは出血のショックでも何でもない。細胞の急速な再生産の為の必要悪なのだ。一月もすれば、オレの腕はほぼ元通りだろう。
 さて、問題なのは既に分裂しない細胞に関してだ。
 これがレミンカイネンの再生能力における最大のハードルである事は、間違い無い。
 地下は一段と冷え込んでいる。
 オヤジは、オレを保存室へと誘った。またぞろ趣味の悪い標本を見せる気か、とオレは舌打ちしたくなったが、黙っていた。
 ジイサンの脳は、相変わらず虚しい透明容器に浮いていた。オヤジは、何とも言えない複雑な面持ちで、それを見詰めていた。
「この脳は、まるで白紙の空っぽだ。親父の、お前のジイサンの記憶をデジタル化したのは私だ」
 オレは、最早何の衝撃的な台詞を聞いても、深い感慨を持たなかった。
 麻痺しているといっても過言では無い。
 諸君、これが一般家庭の親子の会話であるとは思わないで欲しい。オレ達は、充分にイカレポンチな科学者親子なのだから。
 オレは、ぬめぬめとした灰色の脳を見詰めていた。
 脳は脂質含有量が非常に高く、乾燥重量の約50パーセントが脂質に相当する。
 だが、コレステロールはすべて遊離している。脂質は、その他複雑な構造を持つグリセライド、スフィンゴリピドにそれらの化合物、シアリン酸が主な成分。これら複合脂質の脳における機能は、解明されて間もない。
 脂質の代謝は非常にゆるやかであり、イノシトールリン酸のような細胞内伝達系の代謝は、迅速だ。
 脂質内のガングリオシドのような化合物は、コレラ菌やボツリヌス菌などの毒素と特異的に結合する他、異常に蓄積をする病気としてテイ・ザックス病が挙げられる。勿論、その他の化合物の異常蓄積によって起こる疾患は、枚挙に暇がない程だ。
 過ぎたるは及ばざるが如し。何かが多すぎても少なすぎてもいけないという、人体は微妙なバランスで正常を保たれているのだ。特に脳細胞はデリケートそのものだ。
 レミンカイネンの脳細胞再生には、これらの遺伝子疾患を解消する研究の粋と、恐るべき人間の潜在能力の開花が注ぎ込まれていた。
 使われていない脳細胞の箍を外す。まるで魔法の国の扉でも押し開くように。
「ニューロンをどうやって作ったんだ?」
 オレはオヤジに訊ねた。吐く息が凍った。
「核を持つという点では他の細胞と同じだ。鋳型を作って後はコピーすればいい。同じ物ばかりだが、それを個人の持つニューロン地図に従って組み合わせていき、樹状突起と軸索を再現する。グリア細胞も勿論だが、ただしこの部分は自力結合に任せる」
 グリア細胞とは、神経膠細胞というニューロンに栄養を与える為の細胞で、数はニューロンの十倍ほどある。形や機能はさまざまだが、一旦傷付いて死滅したニューロンはこのグリア細胞(主に小膠細胞)に置き換わってしまうのだ。だから、放っておいても問題無い。
「感覚野別にデジタル化した記憶をそれぞれの部位に配置させて、海馬との連絡を行う。電気刺激によってだが」
「で、一体誰の脳にジイサンの記憶を移植したんだ」
 オレは内心込み上げるような不気味な嘔気を感じつつ、オヤジの顔を見た。
「最初の実験はそうだな・・・二十年前だった。親父が死んでから二年も経っていたかどうか。結果的には、失敗に終ったがな」
「人体実験か」
 オレは皮肉めいた口調で言った。
「脳死患者に施術してみたんだが、やはり脳細胞が半分死滅している状態ではうまく行かなかった。勿論、新たに神経細胞を再生するエンハンス・アクセプターを導入した。これは当時画期的な事だったんだが、やはり再生は不発に終ったよ」
 オヤジは、懐かしい思い出話でもするかのように言った。
「どうやら私の思い付きは間違っていたようでな。今のフォーティファイドが、詰まる所自力更生出来ないのは、そこがネックだ。・・・人間の神経細胞を再生するには、成人した人間に施術するのではなく、幼児でさえ既に遅い。生まれる前の胚に行う必要があるのだと」
 オヤジは、オレの瞳を見詰めていた。

 オレは、何を聞いても今更驚きはしない。
「つまり親父の・・・ガブリエル・ブールヴァルドの記憶を受容したのは、お前だけという事だ」
 オヤジはなべて平静な口調で言った。
「そして、ディアーヌもな」
 成る程。
 オレは脳細胞さえも自力で再生させる遺伝子操作を受け、ジイサンの記憶を貰ったのだ。
「神経細胞の再生処理は、神経板が出来上がる時点で行わなければならなかった。記憶の注入は、胎生七週で終脳と間脳、中脳などが分化して直ぐにだ」
 オヤジは大きく息を吐いた。白い息が、靄のようにふわふわと浮いた。
 オレは、産みの母であるイズカラグア・マルティノーがどんな気分でその施術を受けていたのか、少し想像してみた。だが、とてもじゃないが想像が付かない事が判ると、無駄な事は止めた。
 受精後約三週間の胚を取り出し、また母体に戻す。七週目となると、さすがに危険を生じるだろうから、胎外から穿刺手術で作業を行う事になろう。
 その作業が、どれほど母体にダメージを与えたか、オレには判らない。
 実母の死がそれを物語っているというのに。
 オレは文字通り、試験管の中で生まれた訳だ。
 昔そんな歌があったような気がする。
「お前は、親父にとてもよく似ているよ・・・」
「オレはそんな記憶なんか少しも無い。ジイサンの顔すら知らないぜ」
 オヤジは首を横に振った。
「誰しも自分の顔なんか見えるわけが無い。鏡に映っているのだって、本当の自分だかどうだか判らない。脳は自分の好きなように自分を見せられる。お前がジイサンとは違う、と思うのならそれはその通りだ。だが、お前は紛れも無くジイサンの記憶をそっくり持っているんだ」
 オレは、オヤジから目を背けた。
 オヤジのオレに時折見せる、怯えたような態度の理由は、知れた。オヤジはオレの中のジイサンに遠慮していたのだ。むしろ、怯えてさえいた。
 オレの頭脳明晰さは、ジイサンのもの。オレの中の『思想』はジイサンの『思想』。オレの理解出来る哲学的事象は、総てジイサンが生前に学んだ事。ハイデガーもフリードリヒ・ニコライも黙示録も達磨も、寒山・拾得も。
 だが、ジイサンはかなりお調子者だったともいえるだろう。自信過剰で、他人に諂う術も知らなければ、自分の実力だけを頼りに生きている頗る鼻持ちならない人間に違いない。
 言われてみれば、そうだ。
 本人は意識するとしないに拘らず何かを言い、行っているが、それは飽く迄、主観的な見方でしか記憶に残らない。
 オレがオレなのか、ジイサンなのかなど、オレ自身に判る筈も無い。
「何の為に、ジイサンの記憶なんかをオレに?」
 愚問だとは思ったが、オレは思ったままを口にした。
「親父やオフクロという存在は、いつまで経っても容易にその呪縛から逃れられない存在だ。動物としての人間に与えられた宿命といえばそれまでだが」
 本来は、人も野生動物も同じ。世代交代の環につれて生死を繰り返す。
 ある思想家は言っていた。葬式は、亡き人を悲しむのではなく、残された次の世代もやがてこのような死を迎えるのだという心の準備の為のものであり、若い者は世代への交代を寿ぐ意味を有しているのだと。
 それ故に、わざと『泣き女』『泣き男』を用意せねば、皆泣けないのだ。不謹慎ではない。人間はそういう生き物なのだ。
「私は敢えて、時間を逆行させてみようなんて大胆な事は思わないにしても、故人の足跡が一体どうすれば完全に残されるか、試してみたかったんだ。科学者の自己欺瞞といえば、それまでだがな」
 親父は自嘲的に言った。オレは、最早オヤジの言葉の殆どが遺言のようにに聞こえていた。
 オヤジは、ぼんやりとしているオレの横顔を再び見詰めた。
「お前には、確かにジイサンの記憶が定着している。だが、お前はお前以外の何者でもない」
 違う。
 オレはオヤジの言葉に、まだ隠されている何かを感じずにはいられなかった。蟠りは、いよいよ重くオレの胸に沈殿していた。
 パアン。
 零下五度の空気の中で、何かが炸裂した。
 オレは、後頭部を殴られたような感覚に襲われながら、よろめいた。
「オヤジぃ!」
 アクリルケースの前につんのめったのは、オヤジの上半身だった。オレは咄嗟に凍える容器に皮膚が貼り付かないように、オヤジの体を抱え起こした。鳩尾と左脇腹に丸い黒い穴がぽちっと開いていた。直ぐに、黒味掛かった血が流れ出す。
 オヤジは、声にならない呻きを上げた。
 38口径銃の仕業だと、直ぐに判ったのは被弾の反応でだった。
「ファントム!」
 オレは叫んだ。声に重なって、重々しい音が響いた。
 保存室の扉を閉めた人物、薄暗い灯りの下で、リヴォルヴァーを構えた人物の姿が明らかになった。
 

第三章(3)へつづく
 

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