第十四話
〜ディジトゥス・デイ 神の指 disitus dei〜
第三章 海は千億の顔を持つ
(3)
マリーナは、白い貌を曇らせていた。波打つ栗色の美しい髪は、いつものように整えられていたが、顔色が冴えない。白衣の上にベージュのロング・コート。慌ててここに来た、という様子丸判りだ。
右脇に構えた38口径リヴォルヴァーが発した硝煙は、既に空気中で凍り付いており、きらきらと無意味な光を反射していた。
その光はダイヤモンドダストに似て、余りに美しかった。
オレと瀕死のオヤジを見詰めるマリーナの強張った目付きが、総てを物語っていた。
無駄な説明など不要だ。
「病院から連絡があったのよ。無断外出したようだとね」
マリーナは抑揚の無い、事務的な言い方をした。家庭料理を作っている姿とは百八十度転換した感じの顔付きだったが、不意に柔らかい笑みが浮かぶ。
「もう判ってるんでしょ?」
マリーナは謳うように言った。オレに向かってだ。
そうだとも。
オレが洗濯場で嗅いだあの臭い。 それは紛れも無く、通常の生活をしている人間には無関係な硝煙の臭い。
リヴォルヴァーは、オートマと違って、硝煙がサイトを中心に同心円状に広がる。マリーナの衣服が胸元を中心にその臭いを、発散していた。オレでなければ判らない程度の微量な臭いだったが。或いは、犬でも飼っていたら気付いただろう。
ディアーヌに似たあの少女を無慈悲に殺害した犯人は、目の前の義母。それを知った瞬間から、オレのハラは半分固まっていたようなものだった。
「オレを只の人造人間だと思っていた訳か、それともこういう事をしたくていろいろ伏線を引いたのかい?まんまと引っ掛かったがな」
オレは、精一杯の恫喝を込めて言った。端から見えている。マリーナは舌足らずの愛らしい女に見えて、百戦錬磨のエージェントだ。大バカ者のオヤジめ。五十半ばのおっさんが、鼻の下伸ばして若い娘に懸想するからロクな目に遭わないんだぜ。
マリーナはオヤジを殺す目的で、近付いた。まったく以って判りやすいセオリー通りの手口だ。
最初っから何も気付かなかったのか?それとも気付いていて、目を瞑っていたのかは知らないが。
マリーナの後ろ盾になっている組織が、一体何なのか、この時点ではさっぱり見えて来なかったオレだが、それでも自信だけはあった。
オレは、こんなコケオドシなどに怯んだりしない。
それが良いか悪いかは別として、オヤジが多くの犠牲を生んでまで、また自ら犠牲になろうとして作ったオレだから。
マリーナは、オレに向かって発砲した。
フォーティファイドの反射神経を見くびってはいけない。動態視力もだ。本気になれば、弾丸を鉄のチョップスティックで挟み取ってやるところだ。だが、そんな都合の良いモノはここには無い。
オレは、オヤジを背負ったまま、後退った。
凄まじい音を立てて、ガラスケースが割れた。中のリンゲル液が流れ出した。青白くぬめった奇形消化器の標本が床をのた打ち回った。
「アナタ達のようなキチガイがいるから、ちっとも世の中良くならないのよね」
マリーナは、意味不明だが明瞭な台詞をオレに向けて放った。
「キチガイにキチガイ呼ばわりされるなんて、オヤジどうする?」
オヤジは額から脂汗を滴らせていた。出血が酷いらしい。床に血滴が広がる。
マリーナは、赤い唇の端を吊り上げて、オレ達を見遣った。
「死なない人間を作ろうなんて、神の領域に踏み込むような下劣な輩は許せないのよ」
マリーナは、発砲しながらも雄弁に語る。寒冷である上に、使いこなすのが困難なリヴォルヴァーを難なく操るマリーナは、かなりの腕前だ。しかも無駄口まで御丁寧にきいてくれるとは。
第三者が見たら、保存室はちょっとしたスプラッタ屋敷だっただろう。生々しい臓器が散乱し、血飛沫が壁やら容器やらに飛び散っているではないか。流れ出した液体は、皆外気に晒されて凍り付いていた。
それが、足元を覚束なくさせる。
「下劣だか何だか知らないが、それがどうした」
オレはオヤジを横たえると、リヴォルヴァーを構えるマリーナに向かって、手ぶらで歩み寄った。
「何考えてるの?」
マリーナは、流石に一瞬たじろいだ。
「撃つわよ」
「撃てるもんなら撃てばいいじゃないか」
オレははったりでも、虚勢でも無く答えた。
ガウン。派手な音が反響して、オレは被弾の瞬間だけ僅かに体を屈めた。右肩に一発だ。
「もっと撃てよ。オレはそんなんじゃ死なないぜ」
ヤケクソなんかじゃない。計算づくの行動だ。オレは、トリガーに掛けた指を震わせるマリーナを見た。瞳が定まらない動きを見せていた。先程までは、気丈にオレとオヤジを睥睨していた女が、何故か言い知れない不安に駆られた目付きに変わっていた。
「撃てよ」
オレは、リヴォルヴァーの銃口に指を当てた。発砲直後の銃口は、素手で触れると火脹れを起こす程に熱かった。
「暴発が恐いのか?」
「・・・キチガイよ、アナタ達はやっぱり」
マリーナは、喉を詰まらせながら言った。語尾が半分裏返っていた。明らかに、オレを見る目にそこはかとない嫌悪と恐怖が宿っている。
そう。
まるで人外の化け物でも見るような目付きに。
「ここを二三発やらないと、オレは死なないぜ」
オレは、自分の右手人差指で、脳幹に当たる部分を顔の上から示して見せた。マリーナは、引き攣った笑いをオレに投げ掛けた。
それが合図のように、オレはマリーナの白衣の襟を思い切り掴み上げた。
「神の領域って、何だよ?言ってみろよ」
「何するの!?」
マリーナは狂ったように目を剥いて、オレの腕を離れようと藻掻いた。マリーナの足は宙ぶらりんに吊り上げられ、暴れた。だが、蹴られても殴られても、今のオレは痛みなど感じない。
「人が人を作るなんて、許されない行為だわ。アナタの父親は、それが為に血で血を洗うような恐ろしい事をしたのよ!何の為に、ユーロ研が解体されたか知っているの?」
「勿論だ」
オレは努めて冷静に答えた。
「知っているのなら・・・死になさい」
マリーナは、口元に薄ら笑いを浮かべながら言った。
「死んでアナタも博士も罪を償いなさい」
まるで聖母マリアのお言葉だ。オレは覚えず、マリーナの背中を冷たい霜の降りた壁に叩き付けていた。マリーナは、声を上げなかった。だが、今の一撃は打撲を負わせるに等しい力だっただろう。
「・・・無かった事にするのよ。初めから。初めからフォーティファイドなんて、レミンカイネンなんて化け物は存在しなかった事にするのよ」
マリーナは、咳き込みながら言った。
オレは滅多に無い事だが、相当頭に血が上っていたらしく、この時は完全にぬかっていた。マリーナは、自らの死を選択したのだ。リヴォルヴァーの銃口を胸に押し当て、トリガーを引いた時、漸くオレはマリーナから手を離したのだった。
「いいわね・・・最後くらいいう事聞いてよ・・・」
マリーナの辞世の句を、オレは遠くなる意識の中で聞いた。
甘い薔薇の香りで、いつも目覚めた。オレの寝室には、毎日のように花の香りが漂って来ていた。それは、ヴィットリアがテラスに並べたプランターから漂う香りだった。二階の窓越しにも、その馥郁たる香りは飛んで来たのだ。
時が移れば、変わる。リラの香りで目覚める時もあれば、もっと動物的な甘酸っぱい匂いで目覚める時もある。
出来る事なら、オレは生命を感じる匂いに気付く自分である方が望ましい。
暖かい陽射し。
オレが生まれる前に見た雪は、あまりに儚くて凍えた。
幾ら美しくても、雪の降る空は、低くて重い。
オヤジが踏み込んでしまったという『神の領域』など、いったい何処に存在するというのだ。
ユーロ研は、確かに人体実験紛いの事を平気で行っていただろう。
レミンカイネンという人造人間を生み出す為に、オヤジは幾多の犠牲を払った事か。
オレが知っているオヤジは、少なくとも何かに憑依されたかのように一心腐乱に研究室に閉じこもっているオヤジだ。
オヤジは実際に憑かれていたのだ。レミンカイネンという怪物に。
その狂気がオレを作り上げたというのは、些かオカルトじみていていけないが、思い込みは総ての発明の産みの母ともなる事があるだろう。
フォーティファイドの実用化が叫ばれた頃、ユーロ研は解体された。世論には逆らえないのだ。マリーナのようなヒステリックな反対論者も少なくなかったという。
研究は、民間に持ち込まれ細分化していった。実際、軍隊に採用されるまでは、その後十数年の時間を経なければ実現しなかったが。
人間が人間を生むという行為は、普通に生殖活動を行い、育てるのと何らの変わりがあるというのか?
現に、オレやディアーヌは、オヤジの子供として社会の中で育てられてきたではないか。ヴィットリアもシモーネも、オレ達を子供と見なしていたではないか。
たまたま、オレ達は試験管から生み出されたスーパーリアルな超人だったというだけの事に過ぎない。それすらも、母胎で育って産み落とされたのだ。
一体、何がどう違うというのだ。
オレは、美しい物を美しいと感じ、春の陽射しを暖かいと感じ、蛇に噛まれれば痛みを感じる。メシだって喰うし、熱も出す。女の子の甘い唇や髪の匂いは好きだ。
子供は親を境遇を選べない。
だが、この世に一人だって望まれないで生まれてきた子供がいたら、それは極めて不幸な事だ。水爆を抱えて死ね、と言われたどっかの国の軍隊のエライサンなどの比ではない。
死んでいい子供なんて、一人も居やしない。譬えオレのようなこましゃくれた憎たらしい子供であっても。
生きていることは罪だといえるのか。
罪だとしても、生きることは止められない。
切羽詰って自ら死を選ぶような卑怯者に、一体何が判るというのだ。
オレが生きる権利を、誰も取り上げる事なんて出来っこないのだ。誰も。
小雨がぱらついていた。今朝は気温も高く、薄手のコート一枚羽織っただけでも充分だった。
オレは、茶色くなった芝生の上に立ったまま、弔問客を迎えた。
本来ならば、オレは教会堂の扉から、墓地まで真っ直ぐに並居る人々の間を歩いて行かなければならなかった。形式上の三角巾で吊った右手でぎごちなく握手しながら。
列をなしてやって来る弔問客の一団は、オヤジのかつての同僚だった人間達だった。いつの頃の同僚か知らないが、古い事だけは確かだ。
「ああ、アーチレリー。こんな事になってしまって・・・」
と、背伸びしてオレの頬にキスをくれたのは、小太りの貴婦人だった。
右目の下の泣きぼくろに気付かなかったら、アルジェリアでオヤジの研究所にいたオペレーター女史と気付かなかっただろう。まるで別人のような変わり様だ。昔は、といってもほんの数年前だが、もっとスリムだった記憶がある。
「御両親ともいっぺんに亡くしてしまうなんて。事故だったんでしょう?」
オレは、力無く微笑して見せた。
「大学で。地下室のガス漏れで、爆発が起こった時にはボクも大学構内にいたんですが・・・」
オレのとった判断は、ある意味正しかったと言えよう。
マリーナの自決後、オヤジが絶命しているのに気付いた時、それでもオレはオヤジを病院に担いで戻る事は出来なかった。
これは、容易に他人を介入させていい問題では無いような気がしたからだ。
オレは、ガス爆発を装って、オヤジとマリーナを荼毘に付したのだ。
薄気味悪い標本室ごと。ジイサンの空っぽな脳味噌ごと。だって、あれは中身のない只の臓器だ。ジイサンの記憶はオレの脳味噌の中にあれば、それで結構じゃないか。
一言で言ってしまえば、実に打算的で自己完結的で、陳腐な方法だった。だが、法的な制裁に委ねる事は許されない。
オレは、まさかオヤジは若い女に騙されて死んだ阿呆です、とは誰にも言えなかった。言ってもいい。むしろオヤジらしいのかも知れない。だが、オレ自身の進退を考えると軽はずみな事は言えないじゃないか。
実に軽薄だろうが何だろうが、オレはオヤジを尊敬していなかった。
憎んでいたのだ、とか疎ましいなどという一言では片付けられないものが、そこにはあった。だからこそ、正直言ってオレは人生の大きなお荷物をやっと肩から下ろした気分ですらあった。
諸君は幸福だ。親の死を素直に悲しめるのなら。
少なくともオレはそうじゃない。
オレは漸く「籠には錠が下りていない扉がある」と気付いたカナリヤの心地だった。
そう。諸君が良く知っているオレの表面的な姿は、この日からデヴューだ。
だが、まだ一人ぼっちになったオレの胸中はぼんやりとしていた。
女史がさめざめと涙を流す背中を見詰めながら、オレは傘を傾けた。等しく喪服に身を包んだ人達は、学界で言うなれば、錚々たる面々だった。オレは、半ばげんなりとしていた。数百名という弔問客に、何がしかの言葉を返さねばならないという役目に疲労を感じ初めていたのだ。
だが、その様子が弔問客達には、オレが酷く意気消沈しており、悲嘆にくれていると映ったようだった。それはそれで、差し支えないので構わないが。
一人の女性がオレに近付いて来た。長身の、姿勢の良い女性で、年恰好は三十歳になるかならないかといった風情だった。
長い見事な赤毛を結い上げて、すっきりした項を伸ばしている。
些か不謹慎な見立てだが、漆黒のツーピースが誂え物のようにぴったりとスタイリッシュに決まっていた。丈の短いスカートが、女性の形良い脚の線を際立たせている。
明らかに、風を切って歩けばちょっとした注目の的になるだろう妙齢の女性は、オレの前で止まった。
「カッサンドラ・ブルーネレスキよ。この度は・・・」
と、ブルーネレスキ女史は口篭った。はきはきした口調だったが、明らかに落胆の意思が聞き取れた。
オヤジがヴァティカンの科学アカデミーにいた頃の助手だ。まさか、オヤジはこの優秀な美貌の研究者にまで手を出しているんじゃなかろうか、とオレは疑ってみた。
オレは、実のところいつオレの異母兄弟が弔問者の中に現れるか、ということも考えてみたのだ。だが、オヤジはオレが考えているほど艶福家では無かったようだ。
従って、カッサンドラとオヤジの関係の、未だにそれはよく判らないが。
「グレナデン・サフィール枢機卿からの弔辞を預かって来ましたの」
カッサンドラは、憂いを含んだ眼差しでバッグを開くと、オレに一枚のディスクを差し出した。
「枢機卿は申し訳ない、と仰っていたわ。緊急の公務が入って、教皇代理枢機卿と出先にいるので、とね」
「わざわざ傷み入ります」
オレはカッサンドラの青み掛かった瞳を見詰め返した。無論、オレは直接サフィール枢機卿に会ったこともなければ、カッサンドラと会うのも今日が初めてだった。
カッサンドラは、ディスクを握り締めたオレの指先を見ていた。
「博士には、いずれまたアカデミーに戻って貰おうという意向でしたのに、とても残念だわ」
初耳だ。オヤジはそんな事は一言も言っていなかった。いや、仮にそういう話があるのなら、オヤジは何故。何故あのような事をしたのだろうか。
まるで死期を悟ったかのように、オレに話をしたではないか。
カッサンドラは、オレの両手に自分の柔らかい手を重ねた。
「でも、アナタのような息子さんがいるのなら、安心だわ」
「・・・オヤジの代わりにオレをアカデミーへ?」
オレは口元に頼りない笑みを浮かべた。カッサンドラは答えの代わりに、軽く頷いた。
「オヤジが死んで間もないというのに、そんな事は考えられませんね。第一、オレはまだ医師免許を取得していないし」
カッサンドラは、漸くオレの手から離れた。
「ディ・ジェニオ(天才児)も意外に保守的なのね。安心したわ」
どういう意味なのか今一つ判らない言葉を残して、カッサンドラは去った。
小雨は続いている。
弔問客の中に、オレはマーリオ・コロンボの姿を見掛けた。マーリオは、誰とも言葉を交わすこと無く、独り歩いていた。
保守的かどうか知らないが、オレにはまだやる事があるのだ。
オレはまだ、この街と別れる訳にはいかなかった。
終章(1)へつづく
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