第十四話
 〜ディジトゥス・デイ 神の指  disitus dei


終章 神は天に在り、世は総て事も無し  
 
(2)
 
 銃声は、三区画離れた作業員達の元へは届いていなかった。
 マーリオは、黒い重厚なリヴォルヴァーを手にしていた。オレは、硝煙が立ち昇るそのぽっかりと開いた銃口を見た。まさしく、弾丸は38口径ファントムだった。
 オレがトリガーを引くのよりも0.05秒程早く、マーリオは発砲出来た。ヤッケの下、防寒着の下から銃を取り出す動作は、フォーティファイドの動態視力でなければ、見過ごしてしまう所だっただろう。
 マリーナなど、比べ物にならないくらいに優れた狙撃手、マーリオ・コロンボ。
「初めて握ったにしては、上出来じゃないか」
 マーリオの声は、既に上位者のそれに取って変わられていた。
 オレは両脇を竦めていた。強かに受けたパウダーガンの衝撃で、左脇腹は熱く燃え盛っているようだ。小雪が貼り付いた黒いジーンズの上を、蛭の様に血液が流れ落ちて行く。
「しかし、何処を向けて撃ってるんだ?」
 マーリオは、小首を傾げた。
 オレが放った357マグナム弾は、まるであさっての方向へと消えてしまった。所謂、ミッシング・イン・ファイアというヤツだ。
 オレは無様だ。とても惨めにマーリオの銃弾を受け入れてしまった。
 本当は、もう少し腹の中ほどを撃つつもりだったのだろう。だが、慣れてもいない事を始める時は、ろくな事が無い。
 オレはターレット・スタンス(真正面からの構え)もウィーバー・スタンス(斜めの構え)も知らないド素人だったのだ、当時は。
 咄嗟に斜めに向き直ったものの、オレはものの見事にマグナム弾を喰らってしまた。しかも、脾臓に。
 通常の人間なら、既に立っていることさえ困難だっただろう。オレは、どぼどぼと腹部の穴から血を流しつつ、二発目を撃った。
 マーリオは、肩先を掠めた弾丸に、よろぼうた。
 オレは、マーリオの反撃も辞せずに、掴み掛かった。これしか無かったのだ。技術力も無い、ただバカ力だけのオレには。
 オレは、マーリオを押し倒し、滑り込むようにカナル・グランデの連結部分に転がった。だが、オレは手加減を知ってしまった身だ。最早、無意識に他人を縊り殺す事など、出来なかった。
「ああああ…」 
 オレは、マーリオの首に左手を掛け、馬乗りになりながらも派手な呻き声を上げた。さながら、どす黒い血を滴らせながら断末魔の叫びをあげる、フランスの伝説獣人ル・ガルー(人狼)のように。不死身のル・ガルーだって命絶える時が来る。レミンカイネンとて同じだ。
 マーリオは組み敷かれたまま、シリンダーが空になるまで、オレの腹に、胸にファントム弾を撃ち込んだ。
 オレは、衝撃に耐えながら、ボンヤリト湧きあがる嫌悪感にも我慢を強いられていた。
 破れたヤッケの前に、組織液と混じり合ったオレの夥しい血液が、ぼとぼとと流れた。
 オレは、だが右手に握り締めたままの《キングコブラ》を使わなかった。左手は、マーリオの首を掴んだままだ。
 マーリオは、両足で踏ん張って態勢を立て直そうとしたが、撃たれても尚力を緩めないオレの前には、無駄な抵抗に過ぎない事を知った。無論、血でぬめった金属の床は、立ち上がるに困難でもあったが。
「ぐ…。な…何て生命力なんだ」
 マーリオは漸く声を振り絞って、言った。オレは、息が上がっていて、ただはあはあと白い息を吐くだけだった。呼吸の度に、血液が体外へ排出される。一体どのくらい流したかは分らない。だが、一般人の失血死に至る血液量を超えていることは、確かだった。
「こんな事くらいで、死ぬワケがないじゃないか」
 オレは唇の端から伝った、細い糸のような血を拭いもせずに、言った。
「レミンカイネン…黄泉返りの人間の名前だったな。た、しか」
 マーリオは苦しい呼吸の下で、言った。マーリオの頬には、オレが垂らした血が染みの様に流れ散って汚く広がっていた。
 オレは、マーリオの言葉など聞いちゃいなかった。
 《キングコブラ・バニッシュメント》のトリガーに再び右手人差指を掛け、オレはマーリオの首から左手を離した。
「その…銃は」
 マーリオは、途切れ途切れに言った。口元に不敵な笑みが湧いていた。
「《追放者の銃》…」
「それがどうした」
「…っふ。ふふはは」
 マーリオは、何かに押されたかのように、笑い出した。
「お前の、親父さんが…ジイサンを撃たせた銃、だ」
「……!?」
 オレは、一瞬気が遠くなった。足元が覚束ないのは、自分が流した血の所為だけでは無い。
 マーリオは、気が狂ったように甲高い笑声を立てた。
「お前の親父は、実の父親を殺したんだ、よ!…ははは!」
「ふざけるのは止せ」
「き、聞きたくないのは判るがな。…事実は消せない。何しろ、その銃でジイサンを撃ったのは、このオレなんだからな!」
 オレは、一方的かつ自滅の道に向かっているマーリオの声を何とかして聞かずに済む方法は無い物かと、考えた。一つしかないじゃないか。
 フロント・サイトを見詰め、それがマーリオの胸の中心に下がった時、オレは躊躇い無く引く事が出来た。
 マーリオも同時に、トリガーを引いた。だが、お互いに弾丸は総て撃ち尽くされていたのだ。
「ああああああああ!」
 オレは、マーリオの鳩尾に拳を叩き付けた。骨が砕ける音が伝わった。何度も。何度もだ。溢れる血が、右手指に蛭の様に纏わり付いた。
 これが、人を傷付けるという事。ヴィットリアの声が脳裡を掠める。
 何故だろう。何故この時、ディアーヌの顔が浮かんだのだろう。悲しいまでに青い瞳をしたディアーヌの瞳が、マーリオの顔に重なった。亡霊のように離れなかった。
 オレは自身を殺す事と、マーリオを殺す事を同義と感じているかのように、殴り付けた。内臓はボロボロに千切れていただろう。金気臭い。だが、やめなかった。
 怒りじゃない。生きるという事は、何かを殺すという事。誰かを殺すという事だ。
 オレは、マーリオの反応が薄らいで、漸く拳を引いた。滴る赤い血と組織液が、ぐずぐずと爪の間に沁み込む。
「…行け…」 
 マーリオは、小さく呟いた。
 終った。
 オレは突然、全身が瘧にでも罹ったかのように震え出すのを感じた。

 カンパニーレ(鐘楼)の鐘の音が、鳴り響いていた。ここヴェネツィアは、他の中世都市に比して、飛び抜けて教会が多い都市だ。
 早朝七時に鳴る最初の鐘は、窓を全開にしているとガンガンに頭に響いた。
 街を上げての祝祭日ともなると、ミサの告げる鐘の音が勢いよく流れ、否が応にも晴れやかな空気を醸し出す。
 オレは、鐘の音と共に芳しいパンの匂いを嗅いで目覚めた。
 意識して、食べ物の匂いを嗅いだのは、幾日ぶりだったろうか。空腹すら感じるようになった。
 オレは生きていたのだ。
「早起きなのね」
 入ってくるなり、カッサンドラ・ブルーネレスキはオレに向かって言った。
 彼女は追悼式の時のように髪を結い上げておらず、長いくせのある赤毛を肩に垂らしていた。
 オレは、顔を少し傾けただけで、カッサンドラに微笑む事もしなかった。きっと酷い顔なのだろう。触っても見てもいないが、頬はげっそりしているだろうし、只でさえ貧弱な胸板はアバラが全部数えられるに違いない。オレの胸から下腹部にかけては、包帯でぐるぐる巻きにされ、ギプスのような鬱陶しい物を填められている。
「腹が減った」
 オレは正直に生理的欲求を伝えた。点滴で注入されるブドウ糖とビタミン剤だけでは、さしものオレも復活しにくい。喰った気がしないし、小便もまともに出ないものだ。
 カッサンドラは、慈母のような笑みを浮かべて、オレを見下ろした。青いスーツが、彼女の均整の取れたスタイルによく合う。だが、そんな胸の谷間が徐に見えるような格好で病院をうろつくのは、いたずらに童貞医師を刺激するだけではなかろうか。
 そんな事を思える程、オレは迅速に普段の感覚を取り戻しつつあった。
「一週間以上も寝ていれば、お腹も空くでしょうね。そろそろシャバが恋しくなった?」
 カッサンドラは洒脱な言い方をした。
 当然だ。オレは脾臓破裂、膵臓、十二指腸、左肺下葉損傷、左第八、九肋骨損傷、失った血液約2リットルという、通常の人間なら死んでいておかしくない状態で《ディジトゥス・デイ》の上に転がっていたのだ。
 手術を行った医師も、最初は匙を投げた程だ。だが、オレは驚異的な生命力を示し、漸く病院から投げ出されずに済んだという顛末だった。後は言うまでもない。
 オレは、回復した暁に、どうやってこの『奇蹟』ともいうべき自己回復力の言い逃れをして退院するかという危惧で頭の中を占領されていた。
「朝食を貰ってくるわ」
「病院食か」
「仕方ないでしょう。ここは病院なんだから」
「女の子はついて来るのかな?」
 カッサンドラは、眉を顰めて笑った。赤い髪が揺れる。カッサンドラは、ベッドの傍に置かれた丸椅子に腰を下ろした。
「それは担当医の判断に拠るかもね」
「ドットレッサこそ、こんな所で油を売っていていいのかい?」
 オレは、カッサンドラの瞳を見詰めた。
「これも仕事の一環なのよ」
 カッサンドラは微笑を浮かべた。
「安心なさい。マーリオ・コロンボは死んでいないから」
 オレは、脊髄を電流が逆流するような感覚に襲われた。跳ね起きようとしたオレを、カッサンドラは軽く右手でいなした。オレは、カッサンドラの手が触れないうちに、固いベッドへ戻った。
「…マーリオが?」
「語弊があったかしら。アナタが知っているマーリオは、本当のマーリオでは無かった。本物は《ディジトゥス・デイ》の設計者ではあるけれど、この半年間に限って一度もヴェネツイアには来ていないのよ」
 カッサンドラは、まさしくオレにとって「トロイの陥落」を告げる王女と成り得た。決して陥ちないと言われたトロイの滅亡を予言したのだ。
「アナタが撃ったマーリオの素性は判っているのよ」
 カッサンドラは極めて慎重に言葉を選んで言った。オレに向かって「殺す」だのとは言わないつもりだ。だが、そこまで遠慮しなくとも、オレはデリケートとはいえ、生憎そんな軟な神経の持ち主ではない。
「聞きたくも無いな。どうせ、狂信的科学撤廃主義者のテロ組織か何かだろう?」
 オレは、顔を背けた。
 半ば呆れ、半ば当惑していた。
 オヤジは、何重という嘘を黙って見ていた訳だ。マーリオが偽物である事など、そんな事ぐらい旧知の人間、ましてや感受性の強い若い頃に語り合った友人ならば、お見通しの筈だ。
 だとしたら、オヤジは一体どういう腹づもりだったのだろうか。
 マーリオが捨て台詞のように言った、あの言葉も実のところ、何処までが本当なのか、オレは思案にくれていた。
 『お前の親父は、実の父親を殺したんだ』という、呪物にも似た言葉。
 オヤジがジイサンを殺すほど憎んでいたとは、想像が付かない。否、憎んでいなくとも、人間は他愛の無い理由で肉親でも殺す事が出来る。そういう生き物だ。
 マーリオのスナイパーとしての腕を鑑みれば、可能性は高い。科学撤廃主義者でなければ、オヤジの実験で地獄でも見た人々の身内だろうか。それにしては、手の込んだ遣り方だったが。
 だがそもそも、オヤジが何故パウダーガンを隠し持っていたのか、それすらも判らない。
 最早、考えても仕方の無い事だが。
 当事者は、もういないのだ。
「聞きたくないというのなら、言わないわ。只、彼等…あのマリーナという女性も含めて、組織的に動いていた訳ではないようよ」
 カッサンドラは、女教師のように厳かに言った。オレは、カッサンドラの肩越しに窓の向こうの建物を眺めた。朝の光が、鐘楼を照らしていた。
「ユーロ研時代、博士は多大な犠牲を払ってある事を手掛けていた。それがいったい幾人の生活を壊した上で成就したのかは、私にも判らないけどね」
 カッサンドラは、オレの顔を見詰めた。オレは、真っ直ぐに彼女の瞳を見詰め返すだけの気力を取り戻していた。掌に徐々に甦って来る生命の漲り。
 オレは、十四歳だが子供では無くなった。
 何かを失う事は、何かを得る事でもあるのだ。

 スタット・クルクス・ドゥム・ヴォルヴィルトゥル・オルビス―《変動する世界の中で、十字架は立ち続ける》。
 ラテン語によるこの言葉が普遍的に貫いているのは、「存在意思」。
 十字架は、我々自身であり、世界が常に変動する中で決して倒れ尽きてしまわない事こそが、
「存在意思」なのだ。
 オレは、知った。オレが得た物は大きく、そして失った物も余りにも大きかったが。
 ラグーナは穏やかだった。真冬の陽射しが、低く鴎達を包んでいた。
 もうじきクリスマスの祝祭に向けて、街は賑わいを見せ始めていた。かつてのような華々しいものでないにしても、聖誕祭は総てのクリスチャンの祭りだ。
 本当は、あの些かきちがいじみたカルナヴァーレの時期まで、オレはこの街に居たいと思った。
 もう二度と住む事は無いだろうから。
 だが、そうしたら今度は《海上の結婚式》の春まで居てしまうだろう。この街は、ランドスケープとして、比類ない慈しみを人々に与えている。オレもそう感じている。
 あの事件の後、驚異的な回復を見せ付けたオレは、僅かに二週間ばかりで病院を出た。
 医師達は、皆が皆オレの肉体に興味津々だったが、誰一人何も聞こうとしなかった。毛ほども関心を示さない振りをしていたようだ。
 それこそ、ヴァティカン科学アカデミーの御威光が遺憾なく発揮されたというものだ。其れが為にカッサンドラ・ブルーネレスキ博士はわざわざ出向いてきた訳だった。
 唯一の例外は、精神科だ。
 マーリオの死体が回収された後、オレは形ばかりの警察の事情徴収を受けた。それから嫌というほど毎日数時間、カウンセラー達とにらめっこだった。
 無駄だとは言わなかった。オレは周囲が考えているよりは遥かに繊細だが、柔軟性はある。己自身を上手く誤魔化す事には長けている。
 結局、オレの心の本当の痛みは癒される事はないだろう。この痛みはオレだけの物ではないのだから。
 そうして、オレはキオッジャ島を出た。水上バイクの水飛沫は、オレの頬に白い斑模様を作った。遠ざかる空家を、オレは振り返らなかった。
 オレの荷物はバイクの後部座席に積んだ、一個の旅行鞄とモバイル、そして《キングコブラ・バニッシュメント》だけだ。それ以外に何も無い。
 人生の荷物は、軽いに越した事がない。
 《ディジトゥス・デイ》―《神の指》。
 オレはゴーグルを上げ、聳え立つアクア・フロートの灰色をした塊を見遣った。出来損ないの空中楼閣に似た都市。遥か極東の海上に、時折現れるという幻の都市「海市」にも見えた。
 今なら、その意味は判る。
 人は何かに絶望した時、神を見る事は無い。神は絶望した人間を救うほど暇では無い。
 マリーナは絶望を見た。オレの中にではなく、オレを通して見たマリーナ自身の中に。オヤジを通して見たマリーナ自身の中に。だから、生きられなかったのだ。
 マーリオも同じだ。
 抽象的過ぎるなんて、言わないで欲しいね。
 人間はどんな灼熱の砂漠に身を焦がされていようと、極寒の地で吹雪に吹き晒されていようと、自分自身には、絶望しないものだ。己を通して見た事象に絶望する。
「オレはもうダメだ。じゃない。オレの運命はもうだめだ。オレの心はもうダメだ。じゃない。オレの肉体はもうダメだ、なんだ」
 他人との関係の中に、神なる存在を見出せなくなった者に訪れるのが、絶望。
 だが、神などアテにしてはいけない。神は気紛れだから。それは自分自身と同じように。
 自分自身を愛するしか、人は救われない。
 カッサンドラは、オレを無理にでもヴァティカンに連れて戻りたい様子だった。
 だがオレは頑として聞かなかった。せめて、いま少しオレには時間が欲しかった。
 オレにはまだ、やるべき事があるからだ。
「ディアーヌ。お前が生きているというのなら、いつか会う事があるだろう。いや。お前はいつかきっと、オレに会いに来る」
 譬え、その邂逅がオレに絶望を見せる事になろうとも。オレは死なない。
 オレはいつかきっとこの街に戻って来る。


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第14話 あとがき

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