第十五話
〜嘆きのカルヴァドス Il fucile disperazione in spalla 〜
(前編)
第一章 硝煙街道 BLESSED ARE THOSE WHOSE LAWLESS DEEDS ARE FORGIVEN,AND WHOSE SINS ARE COVERED
(2)
ルビィは、寝室から静かに出て来た長身の医師を見上げた。白衣を羽織っている様は、確かに信頼に足る医師に見えた。左腕の腕章は、確かかつてのヴァティカン軍《クローチェ・アルジェント》(銀十字軍)のものだと、ルビィは判った。軽薄な優男には見えないのが、制服の威力だ。ルビィの目尻には、不安が浮き出ていた。
「解熱剤を打った。暫く寝ている筈だ」
と、アーチは穏やかな口調で言った。
「そう。アナタが御医者様で、本当によかったわ」
ルビィは、エプロンの胸元に手をやった。
「え?」
アーチはルビィの腕をいきなり掴むと、隣の部屋へ無理矢理押し込む。
ルビィは、訳が判らないまま、ドアに背中を押し付けられて、両目を見開いた。思わず、体が硬直した。
「本当によかったなんて、よく言うぜ」
アーチは、ルビィの驚愕した白い顔を覗き込んだ。恐ろしいような目付きだった。他人の心を見透かすような。ルビィは負けじと、赤く光る瞳を潤ませて、アーチを睨み返した。
「何言い出すの?」
「オレの所見では、エンリケは相当前から病状があったと思うが」
「そうかしら」
とぼける振りをしたが、ルビィは直ぐに止めた。ハッタリが通用するような相手では無さそうだと判断したからだ。
「…ええ、その通りよ。時々、高熱を出して寝込む事が続いたの。数年前から。お父さんが生きている時からね。だんだん痩せてきた気もするけど」
ルビィは、右手小指の爪を噛んだ。癖らしい。動揺が激しいと、感情は隠していてもふと仕草に表れてしまう。
「本人が、あまり口外するなと言うの。だから…」
アーチはルビィの声を聞き、冷たい表情から、徐々に口元を和らげていった。
「あんまり仕事をさせるもんじゃない。特に、睡眠はたっぷりと、少なくとも食後一時間は動かないようにだ」
「夜の仕事なのに。無理だわ」
「なら、別の人間を雇え。役に立たないんで追い出すというのなら、オレが病院を紹介するから、そこに入って貰う」
アーチはドアから一歩引いた。ルビィは漸く圧力から抜け出す事が出来た。
ルビィは、首を振った。
「出来ないわ。追い出すなんて、そんな。エンリケには随分助けられたから。…そんなに酷いの?」
アーチは部屋を出た。ルビィの問い掛けには答えなかった。答えないのが、答えだ。
階下で、物凄い音が響いた。
さっきのグラスの割れる音の比ではない。蛮声が上がる。ルビィは慌てて、階段を駆け下りた。
「なっ」
店内は、既に賭場のようにごった返していた。ホールのテーブルは半分が引っ繰り返り、床には砕けたグラスやら、安酒の水溜りが出来ていた。ドアは開きっぱなしだ。ジンはいない。どうやら、店の裏にゴミ出しにでも行ったらしい。
「変な三人組が入ってきよったよう!」
ピーチィは、ルビィのエプロンの端を掴んだ。
ルビィは柳眉を逆立てると、腕捲りして騒ぎの中に飛び込んで行った。
「アナタ達!何しに来たってのよ!」
ルビィの目の前に、でぶ、やせ、肉の三人の姿があった。そして、向かい合うネッロ。ネッロは割れた酒瓶を振り上げている。その手が宙で止まった。
「これはこれは。店長自らのお出ましだ」
でぶが嘲笑するように、軽やかに言った。
「商売の邪魔しないで頂戴と言った筈だわ!見てよ、お客さん帰っちゃったじゃないのよ。それに、なぁに、この散らかしようはぁ!」
ルビィは叫んだ。
ネッロは、三人を顎で指す。
「しつこくオレを追ってきやがったんだよ。ルビィ、悪いが引っ込んどいてくれ!」
その言葉に、ルビィは逆上した。
「引っ込んでろですって?ふざけんじゃあないわよ。アンタの所為じゃないの!アンタのお蔭でこいつらが店に入って来たんでしょうが。何言ってんのよ!どくのはアンタよ!」
ルビィは力任せに、ネッロの胸を押し退けた。
「おおっととと」
強か酔っていたネッロは、不覚にも足元を掬われてそのまま後方へ傾いた。運が悪い事に、背中をテーブルで打ち、くの字に曲がったところで後頭部をまたしても打ち、だだんと大の字に倒れてしまった。
ガラガラガラ。椅子が薙ぎ倒され、グラスが床に散る。
しまいに、きゅう、と白目を剥いて伸びてしまった。
「あーあ。あんなんで《称号》保持者の相手が務まるんかなぁ」
ピーチィは、カウンターの陰で溜息を吐いた。
「やるじゃねえか、お嬢さん」
三人組は、やんやと喝采の拍手をルビィに送った。ルビィは、間髪入れず三人組を見据えた。咄嗟に掴んだ、箒を一振り。
「うるさいったら、うるさいわね!弁償なさいよ、これ!アンタ達の所為でしょう。売上もおじゃんよ!信じらんないわ、このクズ共!」
ルビィは喚きながら、箒をぶんぶんと振り回した。顔が真っ赤になって、乱れた解れ髪は、火花を散らしそうに揺れていた。
ピーチィは、思わず顎を外しそうになった。この女の前では、ネッロなんか口先だけの軟弱者に過ぎないのではないかと思える。まさしく、あの女巡検使にも匹敵する暴力的手段の使い手だ。
「出て行け!出て行けったら!」
あまりの剣幕に、さしもの三人組も気圧されてしまっていた。ルビィは容赦無く、でぶの背中を箒でぶっ叩いた。
「ぎゃあ」
「出て行けー!」
ルビィは尚も追い掛けて、でぶとやせと肉の三人に向かって箒を振り回す。
「おいおい、何やってんだよ」
店の戸口に戻って来たジンは、ルビィの腕を掴んだ。ルビィは、ほうほうの体で逃げ帰っていく三人組を、目で追跡しながら、漸く腕を下ろした。息が荒い。
「どうしたってんだよ」
「どうしたもこうしたも無いわ。見てよ、店の中を」
ルビィに促されるままに、ジンは振り返った。オーナーでなくとも、目を覆いたくなるような恐ろしいまでの狼藉ぶりが、確認出来た。まるで《砂漠の黒嵐》が店の中だけに発生したかのようだ。客は当然誰も残っていない。
熨されたネッロだけが、床に転がっているのだった。
ルビィは店のドアを閉めた。
「店仕舞いよ。アナタは明日七時に起きて、片付けて頂戴」
「片付けてって?」
ぽかんと口を開けたジンに向かって、ルビィはどっぷり不機嫌の海に浸かった顔を見せ付けた。なまじ明るい雰囲気の美人なだけに、凄みが際立つ。
「決まってるでしょう。これ全部よ」
ルビィは両手で床を示して言うと、素早くカウンターの脇を過ぎ、二階へ向かう階段を目指した。
「ぜ、んぶぅ?」
ジンは我が目と我が耳を疑ってみた。だが、空耳でも幻聴でもないことは確かだった。ピーチィの笑い声が、聞こえて来た。ジンは怒る気にもなれないで、ぼんやりと突っ立っていた。
「まだ起きてたか」
階段から降りて来たのは、アーチレリー・ブールヴァルドだった。寝乱れた感じのする金髪を掻き上げながら、上半身裸に革パンというアンバランスな格好だ。
尤も、この男、ベッドでは相手がいようがいまいが、素っ裸で寝るのだと、見上げたジンは何故か知っている。一緒に寝た事は無いが。
「何だか眠れねえよ。昼間はあんなにしんどかったのによ」
ジンはカウンターに頬杖をついた。勝手に作った水割りを飲んでいる。
「ケツの具合はどうだ?」
アーチは淡々と訊いた。何も知らない第三者が聞いたら、目を剥くような台詞を言いつつ、ジンの隣の丸椅子に腰掛ける。店内は、散らかし放題のままだ。ネッロがいないという事以外は、三人組が来た時と変わり無い。
「良くはねえなぁ」
「食い物が悪いんだよ。ファースト・フードみたいなのは人間の食い物じゃあないぜ。いい加減目を覚ませ。それにケチャップは兎も角、ハラペーニョやタバスコをガンガンかけて食うな」
「るせえなぁ、オレの好みにケチを付けるなっての」
ジンはさも面倒臭そうに、カウンターの冷やりとした黒い板に頬を付けた。アーチは、その真横に肘をついた。贅肉の一欠けらも無い引き締まった上腹部が、ジンの視界に入った。
「所謂、心配ってヤツだよ。相棒」
「ふん。そんな役に立たないモン要らねえ。それより、飲み薬は効かねえよ。座薬とか持ってねえのか?」
「ない」
アーチはカウンターの端に臥せられた空のロックグラスを取り、自らバーボンを注ぐ。氷は要らない。
「ネッロのところで売ってるかなぁ。明日聞いてみたら?」
「他人事だと思って薄情な」
ジンは鼻の頭に皺を寄せた。アーチは、ケラケラと小さく笑う。
「当たり前だ。誰が手前の汚いケツの穴に、座薬なんか入れてやるか」
「入れてくれとは言ってないぞ。いや、どうせ入れて貰うなら綺麗なナースの方が」
ジンは唸った。アーチは、ちびちびとバーボンを飲み始めた。
「ルビィみたいなのは?」
「うーむむ。それよりも、オレが気になってんのはエンリケの方だ」
「やっぱり男が好きか」
「そうじゃねえよ!バカ。言うに事欠いてなんちゅう・・・」
ジンはサングラスを外した。薄暗がりで見る相方の顔は、冴えない色だったが、急に世界が変った。
「その…大丈夫なのか?」
アーチは軽く頷いた。ジンはカウンターの奥の、小暗い棚を見詰めた。グラスが規則的に並んでいる様は、弾丸を立てて並べた様子に似ていると思った。
「明日には起きられるだろう」
「ならいいんだけどな。何か、あのオヤジ、初めて会った気がしねえ」
ジンは独り言のように呟いた。エンリケの所作の一つ一つを思い浮かべて見る。まだ出会って半日と少ししか経たないにも拘らず、酷く懐かしいような感覚に、ジンは捉われていた。悪い心地はしない。
「ふうん」
「変だよな。知らないオヤジなのに」
「そうだな」
アーチは言葉を溜めないで、流れるように答えた。グラスの中身は、殆ど減っていなかった。
午前九時を回ったところだ。ハイハットの町の住人は、皆宵っ張りで、この時間になってもあまり人通りが無い。何という町だろう。
通りの奥まった地区に、いかにも成金趣味丸出しといった風情の屋敷が聳え立っていた。
その脇には、小ぢんまりとしたモルタル造りの事務所があった。
「《ソコホレ建設》。変な名前」
ミスティ・サファイアは呟いた。事務所の中へと入る。無愛想な受付嬢らしき雑用係の娘がこちらを向いた。
娘の丸い目が、吊り上がった。敵意丸出しの目付きになる。自分より遥かに魅力的な女の粗探しをする時の、目付きだ。
「何か用?」
娘はぶっきらぼうに言った。ミスティは軽く足を開いて立つと、事務所内を見渡した。娘にはまったく無関心の動作だった。
「バランサーという男は何処かしら?」
「はぁ?」
娘は、綺麗にルージュを塗りたくった唇を歪めた。これでも、土建屋仲間の内では自慢の器量良しなのだ。いきなりやってきた得体の知れない大女に何を生意気な口を聞かれてたまるものか、と娘は震える拳を握った。
これ見よがしに、プルトニウム爆弾みたいな胸の谷間を見せ付けている、ムチムチ馬鹿女め、と。
「しゃ、社長を呼び捨てにするなんて、失敬な女ね。アナタ自分のほうから名乗りなさいよ」
「名乗る義務などないわ。尤も、私の本名を聞いたら魂消るだけよ」
ミスティは、わざと嫌味たっぷりに答えた。
「何ですって?」
その時、事務所の奥から大声とともに、どすどすと足音が近付いて来た。見れば、禿頭の口髭をたくわえた大男だ。といっても、上背よりも横幅の方が随分広いのだが。
「社長!」
娘はか細い声を上げた。
「失礼な女が来てます!社長を出せって」
「なぬ?」
禿頭が光った。ミスティを見るや、大男の鼻腔は見事膨らんだ。目の玉は飛び出しそうに思えたが、そこはそれ。俄に湧いて出た下心など億尾にも出さないように、口髭の端を撫で、鷲鼻を探る。
「アナタがバランサー?」
ミスティは、自分の尖った顎に手指を当て、艶然と微笑んだ。
「はいはい〜」
バランサーは二度返事で、覚えず揉み手のポーズを取ってしまった。冷ややかな視線を送る受付嬢に、ちろ、と横目を遣ると、バランサーは歯を剥いた。その滑稽やら恐ろしいやらの顔付きを見ると、娘は慌てて踵を返して飛んで行った。
「お、お客様よう!御もてなしの用意を」
さて、五分後にミスティが案内されたのは、事務所の応接室ではなく、バランサーの本宅の方だった。これまた先程の娘に負けない無愛想な御手伝いが、如何にも御主人さまの為に胡散臭い女でももてなしているのよ、といった風情で出迎えた。
地震でも来たひにゃ、処刑道具にもなりかねない豪華なシャンデリアが天井からぶら下がっている。カーテンというカーテンは、ゴブラン織りで、無論絨毯は数年掛かって仕上げられたペルシア絨毯という金の掛けようだ。
ミスティは、呆れた。こんなハイハットのような、何の特色もない退屈な町で土建屋をやっているというだけで、ここまで儲かるものだろうか。
どう見積っても、この家には数千万ダッシュという金が掛かっている筈だ。一々、物品の値段を調べ上げる事も可能だが、無駄だろう。
ミスティは、背中が埋もれそうな柔らかいソファに座っていた。眼前には、厳つい鷲鼻に禿頭のバランサーは、いやに和らいだ顔付きでちんまりと落ち着いている。膝の上には、毛足の長い白いネコが鎮座している。実に大人しいものだが、ミスティに警戒しているらしい。
バランサーの視線は、ミスティが高々と組み上げた、黒いスラックスと尖ったヒールのロングブーツに包まれた脚に向けられていた。
「して、御用向きは何でしたでしょうか?特務巡検使サマ。アルテミス・サフィール様でしたかな?」
バランサーは破顔した。色とりどりの指輪を填めた手が、ネコの喉を擽っている。
「面倒な事は嫌いだから、手短に言うわね」
と、ミスティは予め断りを入れた。こうしている間も、靴擦れが気になる。新品のブーツの中でぐずぐずと赤い液体が滲み出しているのが、ありありと判る。さっさと用件を済ませて休みたいものだ。
極上の仕事用微笑が、ミスティの頬に浮んだ。
「国土省の派遣員が何処へ行ったか知らないかしら?確か…」
ミスティは、徐にボンデージ風の制服の胸元をぐっと開いた。といっても、期待するほど過激な仕草ではない。そもそも、ロザリオが邪魔で、せいぜいノーブラだという事が知れるくらいのものだ。
胸の内ポケットから取り出した物は、再々製紙に印刷された見難い顔写真だった。
「ベネチオ・アンドレッティという男でね。もう彼是半年以上も、本部へ連絡がないとか。アンドレッティは、ハイハットのアウト・ストラーダIC建設の土地買収の責任者だった筈。御存知無いかしら?」
バランサーは、写真も兎も角、ミスティの白魚のような長い美しい指に見惚れていた。丁寧に塗られた紫色のマニキュアが、まったく毒々しさを感じない。
「知らんですなぁ。全く。いえ、アンドレッティ氏には何度かお会いした事はありますがねえ。何ですか、特務巡検使のような御方の御仕事なんですか?これって」
ミスティは、嫌事を言われたと気付いて、不機嫌になった。何も好き好んでこんな人捜し紛いの雑用をしているのではない。たまたま近くにいたというだけの話で、御鉢が回って来たのだ。
ヴァティカン職員の安全と権利を保護するのも、巡検使の役割だった。
ややあって、バランサーの視線は、更に遡った。前に屈んだミスティの胸元が、依然として気になる。
「真面目そうな方だったなあ。アウト・ストラーダの工事を、我が《ソコホレ建設》に一任するというお話を頂きましてですな。御時世が御時世なもので、それ、競争入札になると踏んでおったのですが、何かと御力添え頂いたんですよ」
「それは癒着というのではないのかしら?」
ミスティは言葉を荒げないように、堪えて言った。語尾が微かに震える。
「とんでもない!入札は確かにしましたですよ。ところが、まあ、そのいろいろありましてですな・・・」
もごもご、とバランサーは口篭った。ネコはゴロゴロと喉を鳴らしている。
ミスティは、凛々しい眉を顰めた。
「まあ、いいわ。それとこれとは話を別にして。本当に存知無いというのね?」
バランサーは途端に顔色を明るくした。
「ええ。しかし、失踪となると允に御気の毒ですな」
「まだ失踪と決まった訳じゃないわよ」
すかさずミスティは言った。睨むミスティに、ネコが反応した。背中の毛が逆立った。どうやら、主人に好意を持っていない客人と分ったようだ。
ミスティはやおら立ち上がった。
「御縁が無かったようだわ。失礼」
ミスティは殆ど形式だけの挨拶を済ませて、バランサーを見遣った。
入って来た時と同じように優雅な足取りで、ソファを離れたのだった。
雀が飛び交う明るい空の下、ジンはせっせとゴミ袋を担いで酒場の入口を往復していた。壊れたグラスは二十個を下らないし、床はまだアルコール臭が芬々と漂っていた。
まず、割れ物を掃き出して、テーブルや椅子類を屋外へ引っ張り出すと、ジンはモップを駆使して床を磨き始めた。
「うんせ、うんせ。ああ、酒臭え」
グラスに入っている時は、芳醇な香りを漂わせる「命の水」も、零れてしまうとさも汚らしいように感じるものだ。
昨晩は久しぶりに、うとうとと夢の中で懐かしい姿を見掛けた。
S&Wモデル二九。自前の《ブラックホーク・ディオファイア》よりも重い、厳ついその銃身を握る手に見覚えがあった。静脈の浮いた、無駄な肉の無い腕。広い肩幅。尤も、ジンが幼過ぎて、その背中は実際に見る以上に大きく見えた。
サムライ風に束ねた、灰色の髪。顎鬚がやや伸びていた。
ジャバー・ウォック。
リロードは十秒以内。手の皮が擦り剥ける程に仕込まれた再装填の鉄則。いつだって、師匠のガン捌きは、ジンにとっては神速に見えた。
目が覚めてみて分るのは、やっぱり師匠はおっかないという記憶だけだったが。
「水を付け過ぎよ」
澄んだ声が、ジンの頭の上から降りて来た。ルビィ・ホワイトだ。もう既に身支度を整えており、きっちりとアップにされた長い髪が艶を放っていた。化粧っ気が無い顔には、生気が溢れている。
若さの美というやつだ。
「もっと固く絞らないと床が腐っちゃうわよ」
と、ルビィはジンの手からモップを奪い取った。バケツに突っ込んで、水洗いする。
「でも、結構臭えぞ」
「何度も拭くしかないのよ。アナタ、テーブル拭いてってよ」
「はぁ」
ジンは言われるままに、ルビィの指示に従った。雑巾を絞り、引っ繰り返ったテーブルを片っ端から拭いていく。
床上を数往復しているルビィは、ジンを見て言った。
「見掛けの割りに、結構上手いわね。筋が良いわよ」
「ジイサンと二人暮しの時、掃除はオレがやってたんだ」
「ふうん。何ならここでずっと雇ってあげようか?」
「はは、冗談キツイぜ」
ジンは力無く笑った。しゃがんでいると、腰に力が入らない。痔病が悪化したような気がする。
「そういうのは、オレの相棒に言ってくれ。アイツはカミサン貰って、ぼろぼろガキ作るのが理想のようだから。ホントはどうだか知らねえが」
「へえ。人は見掛けに寄らないわね、何度も言うけど。でもああいう、見るからに男前はどうも苦手なのよね」
オレは男前ではないんだな、とジンは嘆息を付いた。まあ、御世辞にも言われた記憶は無い。特にアーチと行動を共にするようになってからは。
「ネッロはどうなんだい?」
その名前を聞いて、ルビィは首を傾げた。
「へ?どうも思わないわよ。只の幼馴染なんだもの。私が四つの時、アイツはもう八つだってのに、まあだおねしょしてたんだから」
ルビィはモップを握る手を止めて、ころころと笑声を立てた。
「昨夜だって見てたでしょ?情けないったら、はぁ。あんな三人組にやられちゃって」
やったのはあんたでしょーが、というツッコミは無し。ジンは拳を握って懸命に笑いを堪えた。
ルビィは、昨晩の狼藉ぶりを思い出したのか、唇を可愛らしく尖らせて床面を見詰めていた。今朝起き出して来た時に嗅いだ何ともいえない臭いに比べたら、今は別天地が如く床の臭いは消えつつあった。
「そうだ!」
突然、ルビィは手を打った。輝くような笑顔で、ジンの方へ振り向く。
その笑顔があまりにも、この状況にそぐわなく麗しいので、ジンは覚えずどきりとした。
「アナタ、パウダーガン使いでしょう。ネッロの代わりに試合に出てよ!」
「ええ!?」
ジンは素っ頓狂な声を上げた。
ルビィは慌てて、ジンの唇に人差指を当てる。
「しっ。声が大きいわよ。まだ皆寝てるんだから」
「しかしよ、オレはこの町の人間じゃねえぞ。いいのかよ?」
ジンはゆっくりと立ち上がった。ルビィもそれに連れて立つ。背伸びしなければならなかった。
「住民票を移すという手もあるけど、アナタもしかして上層都市(うえ)の人間?」
「いちおう」
「なら仕方ないわね。偽の住民票でも作ろうか」
ルビィはいとも簡単に物騒な事を口走った。顔の割りに大胆な事を、とジンは内心焦った。こういう時、男よりも大胆なのは女の方と相場が決まっている。
「作ろうって、偽造屋か?あんた」
「大きい声で言わないの。そんくらい簡単よ。ちょいちょい、って変えちゃうのよ。アナタとネッロの経歴をね」
「何だ。オレがネッロになりすますって事か。オレはまたてっきり一から…」
「バカねえ」
バシン、とルビィはジンの肩を叩いた。心地良い痛みが、肩に走った。
「して、試合はいつなんだ?」
「そうねえ。一週間後だったかしら。金曜日だと聞いていたから」
ジンは、頭を掻いた昨晩のネッロの様子では、《称号》保持者にはとても太刀打ち出来そうにないと見た。あのソーシー・スーでさえ保持者なのだ。尤も、ジンはネッロの腕前を見た訳ではないが。
「マジですか?オレ出るの?やっぱ」
「そのつもりでいてよ。ネッロはほっといて。アナタなら絶対大丈夫だって!」
ルビィは既に、モップを構えて仁王立ちだ。満面の笑みを湛えている。まるで、荒地にぽつんと一輪咲く赤いダリアのような強さと明るさがあった。ジンの腕前を心底信用しているのが、ありありと伺えた。
ジンは湧き上がる不安を懸命に抑えようとして、些かぎごちない笑みをルビィに返した。
「さっ。仕事に戻ろうか」
「ああ」
デキャンタから水がグラスに注がれる音で、エンリケは瞼を開いた。
見慣れた光景の中に、一つだけ違和感を感じたというならば、それは白衣の男の存在だ。
「済まないが、水を」
エンリケは掠れる小声で言った。アーチは、グラスに満たされた水をサイドテーブルに置いた。エンリケが至極ゆっくりと上半身を起こすのを待ち、その額に手を当てる。
「微熱は暫く続く筈だから、喉が渇くだろう」
と、アーチはエンリケにグラスを手渡す。
嚥下する水が、一体幾許の渇きを癒すのかどうか知れないが、とアーチはベッドの端に腰を下ろした。
「腹水を抜いて貰って、すっきりした。もう随分病院には行ってなかったんでな」
エンリケは、一気に干したグラスをテーブルの端に置いた。
アーチは、右目の上に落ちた金髪を軽く払った。いつもはわざとそういう風にしているのだが、邪魔に思う時が、たまにある。
数十秒の沈黙を葬り去って、アーチは静かに言った。
「昨夜打ったのはインターフェロン47Gというヤツだ。本当は、本人と家族の承諾が必要な治療法だが、止むを得ない。即効性はあるが、体力を非常に消耗する。一般的なヤツの二倍。だから、仕事は暫くしない方がいい」
「そういう訳にもいくまい」
「オレの相方にでもさせておくさ」
アーチは長い脚を床に投げ出した。薄い影が板目に映る。
「いつまでもあんたらを引き止めて置くのは、気が進まねえ」
エンリケは、髭が伸びた顎を撫でた。顔色は悪いが、瞳に生気が甦っていた。
「なら、病院に入って貰うしかないな。上層都市(うえ)にオレの知り合いの外科医がいるから、そこを紹介するよ。肝臓専門で、腕は確かだ」
「どういう意味だ?」
エンリケは、暗く光を含まない瞳でアーチを見た。微かに笑みが浮ぶ。
「オレは病理医だ。臨床経験は多少あるが、正直言ってあんまり得意じゃない。移植手術はここでは無理だ。この町の病院ではな」
移植という言葉が、何気なく流れ出た。だが、エンリケは驚かない。
「…そうか」
「そういう事だ」
本当は、こんないい加減な返事で診察をしたとは言わないのだが、アーチはそれで御仕舞いにしたかった。
「インターフェロンは、毎日一本午後二時に打つ。GOTが40以下になったら、二日に一回。正常値に戻る事は無いから、必ず数日に一回は打つ。今のところ、それしかオレには出来ない」
アーチは、ベッドから腰を上げた。白衣の皺を払いながら、エンリケの黄ばんだ顔を見詰める。発熱の所為で、窪んだ頬が汗ばんでいるのが分った。
「食事が辛くなるだろうが、点滴でカヴァーする。とにかく運動はいけないからな」
エンリケは、大きく息を吐いた。シーツを握る手指が、黒ずんで見える。
「…そこまでして生きないと、いけないもんかね」
「オレは医者としての最善を尽くすだけだ。生きたくなくなったら、遠慮無く言ってくれ。治療はおしまいだ」
ふ、とエンリケは軽い自嘲的な笑声を洩らした。
「おかしな事を言う医者だな。勝手にインターフェロンだか何だか打って置きながら、死にたくなったら言え、だと」
「死にたくなったら、じゃない。生きたくなくなったら、だ」
「どっちでも一緒だぜ、若いの」
エンリケは、顔を上げた。
「他人の生き死にの引導を渡すのが、そんなに嫌か?」
「生きたければ生きる。どんな事をしたって生きるのが人間だ。決めるのは本人だけだ。そういうヤツにしか、オレは治療を施す気は無い」
アーチは、抑揚の無い声で答えた。
「…いいさ。どうせ、オレに残された時間は少ない。それはここに来た時から、判り切っていた事だ」
エンリケは、言った。引っ掛かる言葉だ。
「それはどうかな」
アーチは軽く否定した。
「オレが診たところ、あんたはまだ、生きたいように見えた。それが、オレの診察結果」
そう言って、アーチはエンリケの寝室を出た。
内心、鬱屈した御荷物でも背負ってしまった気分で。ヘドロでも飲み込んだ感じだ。
本当のオレは、こうだ。表面は淡白でいて陽気で軽薄な男を演じているものの、本当のオレは。総ての腐りきった感傷を壊さないで、体の奥に奥に押し込んでしまう。いつか吐き出してしまわないかと、おっかなびっくりしながらも。
臨床医には向かない。と、今更思う。
エンリケはもう長くは無い。
肝機能は著しく低下している。γグロブリン値も通常値の五倍、GOTに至っては十倍を下らない。
インターフェロン療法では完治しない程に、肝硬変が進行している。
生体肝移植の技術も、当初に比して各段に向上しているとはいえ、果たして術後に今後通常の生活が送れるかどうか疑問だ。
生きるということは。
「詰まる所は、本人の意思だ」
アーチは、だが、思いとはまるで裏腹に飄々とした顔付きで、階段を下りた。
第二章(1)に続く
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