第十五話
 〜嘆きのカルヴァドス Il fucile disperazione in spalla
(前編)


第二章  誰か明日をば思わざる HE HAS SPOKEN BLASPHEMY 

(1)

 《虹の掛け橋》亭を出て、道路を渡ると向かいにドラッグストアがある。取り立てて何の変哲も無い、ありふれた店先。看板は至ってシンプル。
 町で唯一の総合病院の指定薬局である旨も書かれている。ということは、多少の融通も利くということだろう。
 昼間の通りは、人通りも多く、これがかつての《硝煙街道》だとは思えない明るい雰囲気だった。
 歩き行く人々は、大抵混血のユーラシアンかラテン系白人だ。
 中にはクレオールのような肌をしたエキゾチックな風貌もある。東洋人の血が濃い人間もいる。
 アーチレリー・ブールヴァルドは、軽く脚を開いて立った。
「ふふん。美人は少ないな。この町は」
 通り過ぎる人々が、しげしげと珍しいビオンディ(金髪ちゃん)に視線を遣る。太陽の光に映えて、地中海の夕べの色を思わせるからだ。
 五分と立ち止っていたら、女達がたかって来るに違いないと知って、アーチは自粛するつもりで歩き出した。
「ああっ!」
 聞き覚えのある声が、耳に飛び込んで来た。
 次の句が発される前に、アーチはその方向を向かないようにしてそそくさとドラッグストアに向かった。
「兄貴ィ。無視しないで下さいよう!」
 小男は、素早くアーチの前まで回り、白衣を掴んだ。巡検使補ソーシー・スーである。
 起伏の少ない白い顔に、相変わらず大荷物を背負っている。ライフルバッグには、例のマシンガンが詰まっているのだ。銃器マニアでなければ殆ど無意味なともいえるくらいの代物だ。
 アーチは、あからさまに顔を歪めた。
「…何の用だ?」
「何のって、捜したんですよ!?一体何処行ったかと思ってですね。あのー…」
 アーチはむっつりした表情のまま、ポケットに手を突っ込み、歩を進める。追う、ソーシー・スー。
「ミスティ様御存知ないですよね?ねえ、兄貴ィ」
「オレに女の居場所を聞くなんて、間違ってる」
 アーチは、ソーシー・スーのおでこを指先でパチンと弾き、ドラッグストアに入った。
「いっ、いで」
「お!」
 ソーシー・スーは、危うくつんのめり掛けたところを立ち止まった。鼻の頭を辛うじて、アーチの背中にぶつけただけで済んだようだ。
 ネッロの姿は見えない。
 小ぢんまりとした店内は、日用雑貨も兎も角、保存用の食品やら非常食が棚に積まれていた。
 その奥にカウンターがあって、薬棚にとりどりの市販薬が並べられている。カウンターの端に白衣が見えた。その後姿で、女性と見るや、アーチは反射的に口元を引き締めた。
「お忙しいところ、申し訳ないセニョリータ」
「は?」
 薬剤師の若い女は振り向いた。艶やかな黒髪が肩に掛かる。東洋系の血が濃いと見える、すんなりとした面差しだ。アーチは、天使もかくや極上の微笑を浮かべた。
「取り寄せて頂きたい物があるんですが。これ、処方箋」
 と、アーチは自筆で書いた処方箋をカウンターに差し出す。女が警戒しながらも細い指を伸ばしたところ、アーチの指と触れた。処方箋を置いたものの、離さずにいたのだ。無論、わざとに決まっている。
「何ですか?手をどけて頂けません?見えませんので」
 女薬剤師はつっけんどんに言った。アーチは、紳士然とした態度で素直に引っ込めた。
「これは失礼。掃き溜めに鶴、と思うと心が先走っちゃいました」
「はぁ?それに、私セニョリータじゃありませんし」
 黒い瞳でアーチを睨み付け、処方箋を開きかけたところで、もう一人、客が現われた。
「いらっしゃいま・・・」
 女薬剤師の声が途切れる。振り返ったアーチよりも、ソーシー・スーの方が驚いた。ブルネットの長身の女は、相変わらずの美女っぷりだ。大きな青い瞳が真っ直ぐにカウンターを見詰めていた。
「コーキ!」
 ミスティ・サファイアは、明るい声で言った。男二人を完璧に無視して、つかつかと高い靴音立ててカウンターに歩み寄ると、手を差し伸べた。
「お久しぶりねえ。結婚してこの町にいるって聞いてたから」
「貴女こそ」
 コーキと呼ばれた女薬剤師は、その手を握り返した。ミスティは、蕩けるような唇を開いて甘え切った声を出した。
「もうやんなっちゃうわ。靴擦れでねえ、見てよこの指」
 ミスティはブーツを脱ぎ捨てた。赤く血が滲んだ足の小指が露わにされた。
「お願い、直ぐ治るのを頂戴。ちょっと大きいなと思ったら、駄目ね、靴って面倒臭がると」
「任せといて。それにしても相変わらず豪快ねえ、貴女は」
「あら、そうかしら」
 取り残された男二人は、成す術も無く呆然と互いの顔を見合わせているだけだ。ソーシー・スーが、恐る恐る声を掛けた。
「あのう…」
 女二人は、些かムッとした顔で振り向いた。
「何か?」
 びくん、と肩を震わせるソーシー・スー。アーチは、ソーシー・スーの肩を押さえた。
「お二人はお知り合いで?」
「お知り合いも何も。コーキは、私がクローチェ・ネッロ(黒十字軍)にいた時、研修学生として軍にいたのよ。一年ばかりの付き合いだけどね」
 ミスティは、あっさりと答えを示した。
「知り合い同士となりゃ、話は早いか」
「話は早い?貴方がたこそ、ミスティと親しいの?」
 コーキは訝るような目付きで、アーチとソーシー・スーを見上げた。ミスティのおみ足に手ずから軟膏を塗っていたのだ。
「親しいのなんのって…うぐ」
 ミスティの左手が、《パイソン・シスタームーン》を抜くのよりも素早く動いた。アーチは顎を掴まれて、言葉を失った。
「ちょっと顔見知りというだけの、見掛け倒しのつまんない男よ」
「そう」
 と、コーキは心配気にミスティを見詰めた。
「ちょっと心配だったのよね。貴女って、男運悪そうだから」
 アーチもソーシー・スーも無言だ。何も言う事はない。女同士の会話に突っ込みを入れたら、一体何倍になって戻って来るか、想像するだに恐ろしいものだ。
「で?処方箋だったかしら」
 コーキは皺くちゃになってしまった紙切れを読んだ。
「インターフェロン47G。こんなの誰に…。え?そうなの。でも、時間が掛かるわよ」
「三ヶ月分あればいい。それで一月遅れになるようなら、二月分に減らしてくれ」
 アーチは言った。コーキの顔が強張る。ソーシー・スーもミスティも、雰囲気的に余り芳しくない様子を悟った。
「ああ。それと座薬があれば。まだ出血だけだと思うが」
「え?」
「痔だなんて兄貴ィ。かっちょ悪い〜」
「オレじゃない、相方の!」
 アーチは慌てて否定した。

 《人差指の伝説》。
 七年前のハイハット・タウン。既に《硝煙街道》の伝説は消えかけていた。名残とも言えなくもないだろうが、街道周辺にはいまだ盗賊団やら馬賊が出没する。
 例によって、ハイハットの住人は、彼等悪党に脅かされていた。
 悪党のやる事といえば、相場は決まっている。強盗、喧嘩、強姦、誘拐。果ては町の有力者に強請(ゆす)りを掛けて、政務にまで口出ししようというところまで。
 噂されたものだ。ハイハットは、悪魔に魅入られた町だと。
 何の変哲も無い、この一地方都市が悪党の巣窟になり得ようとしたのも、いわばその個性のなさ故でもある。ヴァティカンからはほど遠い、しかも戦略的には何の要所たり得なかった土地であるからこそだろう。
 目が届かないということは、悪さし放題なのだ。
 人口は減りつつあった。無論、続く悪党の進行に拠る。それよりも、ムスリムの土地を彷徨う事を選択した人間も少なくなかったのだ。
 だが、そうした日々も七年前に終わりを告げた。
 ある日突然現れた、薄汚れたインバネスに身を包んだ男。
 その男は、現れた。
 明るい月の晩だった。
 《虹の掛け橋亭》では、今晩も乱闘騒ぎが起きていた。戸口に転がった、若い男が泡を噴いていた。ドアを開ける前から、酒と血の臭いが漂う。その中に敢えて男は踏み込んで来た。
 そして、低くどすの効いた声で、言う。
 『オヤジ、《デザート・ローズ》をツーフィンガー。氷はいらない』
 荒くれどもが振り向いた。
 振り向きざまに、敵意を剥き出しに男に殴り掛かる。素手ではない。ハンティング・ナイフを手にした者もいた。
 他の客は殆ど逃げ去っていたが、だが、現場を見た者は数人いた。
 男は戸口からカウンターに向かって、ゆっくりと歩き出した。
 その間に男をわっと取り巻く荒くれども。男が歩く度に、荒くれどもは、一人また一人と倒れて行った。
 男は素手の筈なのに。丸腰の筈なのに。客達が瞬きする間に、男は少し身を屈めるだけで、荒くれ達を薙ぎ倒して行った。
 たった一本の人差指でだ。
「そして、カウンターに着く頃には、総ての荒くれ男を倒していたっていうクダリだ」
 ネッロは、臨場感たっぷりに言った。
「男が椅子に座ると同時に出て来た、ツーフィンガー」
 ネッロの前にグラスが出された。ジン・スティンガーは、グラスを置いたその手で、薄っすらと髭が伸び始めた顎を撫でた。
「そこが、その男が座った席か」
「そうとも。その男の名前は…」
 ジンは、ごくりと唾を飲む。
「エンリケ、と名乗っただけだ」
「エンリケ?」
 ジンは天井を指差す。ネッロは大きく頷いた。
「根無し草で、旅の賞金稼ぎだったエンリケは、ここの先代のオヤジに気に入られてそのまま残ったんだ」
 ジンは、ほっとしたようなそうでないような気分でグラスを磨いた。シルヴァー・ブレットの話かと思っていたのだ。そう考えても無理からぬ事だが。
「エンリケは、その、パウダーガン使いだっていうような事はないよな?」
「さあ。聞いた事ないな。しかし、人差指一本で人を倒せるかね?オレは見てねえ、又聞きなんだがどうなんだろうなァ」
 ネッロはグラスを傾けた。ジンは溜息を吐く。
「成る程、あの三人組がエンリケに一目置いてたのは分ったぜ」
「そうは見えないのが人間の不思議な所だよな」
「…《デザートローズ》か」
 ジンは、ネッロの右手の中のグラスを見た。琥珀よりも琥珀色の、夕陽を閉じ込めたような色彩のバーボン。
 《砂漠の薔薇》という銘柄のバーボンを置いているバールやリストランテは、少ない。バーボンでは最も高級な部類だ。香りが薔薇の花を思わせるので、そういうネーミングになったのだという。
 ジンは、このバーボンが好きだ。懐具合が淋しいので最近御無沙汰しているものの。
 理由は簡単だ。初めて飲んだバーボンが、《デザートローズ》だったからに他ならない。
 その味を教えてくれたのも、他ならないジャバー・ウォックだった。
「ちゃんと酒代払えよ」
 ジンはネッロに向かって言った。エンリケの代わりにカウンターに立っているのだから、これくらいは言うべきだ、という具合に。
「ち。ツケは月末払いだ」
「ちょおっと、早くしてよ。二番テーブルのコニャック」
 ルビィの威勢良い声が、飛んで来た。
「へいへい」
 ジンは唇を歪めた。
「いい感じじゃん。何か若夫婦みたいでさ」
 と、割り込んで来たのは、アーチだった。顔を赤くしたのは、ジンだ。
「何言うか」
「見たまんまの感想を述べただけだぜ。悪いか?」
「無神経なヤツ」
 ジンは呟いた。ネッロは、黙って《デザートローズ》を飲む。アーチは、その隣に座った。
「今朝ドラッグストアにいた彼女。あんたのワイフじゃないの?」
「違うよ」
 と、ネッロは手を振った。
「オレの兄貴の奥さん。兄貴は役人なんで、単身赴任だ」
「あ、そ」
 何だ詰まらない、という風にアーチは頬杖をついた。
「オレにも何か。…そうだな、カルヴァドス」
 アーチは、酒棚を指差した。
「そんなのあったか?」
「こないだ見掛けたんだって。絶対ある」
 ジンは言われるままに、カルヴァドスのボトルを探した。透明な丸底の瓶は、酒棚の最も暗い所に置かれていた。
「埃かぶってら。ま、いいか」
 ブランデー・グラスに濃い黄金の液体が満ち満ちていく。南欧生まれの金髪美女のような芳醇さがある。古の恋愛映画の小道具に使われた、甘い酒。
「ボトルごとかせ。誰も飲まんだろ、ここじゃこういう酒」
 アーチは、白い埃を被ったボトルをジンの手から奪った。
 その時だ。
 「いらっしゃいませ」
 ルビィの元気良い声の、語尾が消えた。
 
「マスター、《デザートローズ》をツーフィンガーで」
 男は確かにそう言った。男のインバネスは、夜の冷気を纏っていた。だが、色褪せていないソンブレロに似た帽子と、まるで一枚岩のように大柄な体。短く刈り込まれた象牙色の髪。190センチは軽く超えているだろう。
 男は帽子を被ったまま、男は戸口からゆっくりとホールを横切った。
 七年前との違いは、荒くれどもがいない事に尽きる。
 客達は、一瞬顔を強張らせたものの、男が無法者でないと判ると、また談笑に戻った。
「聞こえねえのかい?」
 男はあっという間に、カウンターの前までやって来た。コンパスが長い証拠だ。十歩歩いたかどうか。
 ジンは、背中を押されたかのように慌ててバーボンをグラスに注いだ。
 グラスをカウンターに滑らせる手を、男は一瞬で看破した。
「あんた、パウダーガン使いだな」
「……」
 ジンは答えなかった。というよりも、気圧されて咄嗟に答えることが出来なかったのだ。
「ふ。まあ、いい。その手は雄弁だ」
 男は丸椅子を軋らせて座った。そういう男も明らかにパウダーガン使いであると、ジンもアーチも直ぐに悟った。
 それも相当の手垂れと見える。
 男は暗い色の瞳を、ジンに向けた。
 ほんの一瞬、ジンは身を強張らせた。余りの存在感に、緊張の糸を張り詰めていないと自分を見失いそうだ。
「前のマスターは何処へ行った?あの男もパウダーガン使いだったようだが・・・」
「エンリケの事か?その先代か?エンリケなら今、病気でな。オレが代理だ」
 ほう、と男は軽く頷いた。
「お前さん、グラスくらいちゃんと磨いたらどうだ?」
「御指摘ありがとうよ」
 ジンは、負け惜しみ気味に言った。どう考えても、客の方が圧倒的に場数が上だというのは、やりにくいものだ。
「お客さん、町の者じゃねえな?仕事かい」
 と、ジンは俄にマスターらしい台詞を言ってみた。アーチは、思わず額に手を当てた。バカみたいだ。
「そう見えるか。その様なものだな」
 男は相変わらず余裕ある仕草で、既に《デザートローズ》を指一本分飲んでいた。顔色一つ変らなければ、恐らくボトル十本開けてもこの淡々とした低い声で喋り続けるのだろう。誰もが、そう想像した。
 三度、店のドアが開いた。
「よう、マスター。おや?」
 でぶ、やせ、肉の三人組だ。三人の男は、カウンターの奥を見て、ニヤリと笑った。
「エンリケはどうした?もうくたばったか?」
「何しに来た?お前等に飲ませる酒は一滴だってここにはねえよ」
 ネッロは恫喝した。だが、まるで耳に入らないようだ。三人組は、固まってホールの中程まで進んだ。
 ジャッ。パウダーガンが引き抜かれた。抜いたのは、ジンでもアーチでもない。ネッロだった。
 S&WM19レプリカ。ボーマン・クイック・ドロウ・タイプのフロント・サイトが目立つ銀色のバレル(銃身)。優れものの銃である事は、パウダーガン使いの誰もが認める事実だ。但し、腕の程は如何ばかりか。
「はは〜ん。このオレ様たちに銃口を向けるなんざ、もう試合の予行演習でもしようってか?」
「けけけけ」
「がはははは」
 男達は、交互に笑った。ネッロは既に顔を紅潮させていた。シリンダーがゆっくりと回る。
 不意に、今まで静かに《デザートローズ》を飲んでいた男が、顔を上げた。
「…すると、お前か」
 男は厳かに言った。
「私の相手というのは」
 一同が目を剥いた。ジン、アーチ、ネッロ、三人組の視線が一気に、無口な男に注がれる。
「じゃあ、あんたが試合の!?」
 ネッロは、男を失礼にも指差してしまった。慌てて左手を引っ込める。ムスリムに左手指なんかで指差したら、その指がちょん切られること間違い無しなのだ。
 件の《称号》保持者というのは、この大柄な謎めいた男なのだ。
 ぐるり男を囲んだ連中は、漸くその事に気付かされた。
 やば。と思ったのは、ジンだ。ネッロがここで名乗りを上げたら、替え玉作戦がおじゃんになってしまうではないか。
「おっ、お前返せよ。オレの銃」
 ジンは咄嗟にネッロの銃を奪った。ネッロはネッロで、事情を解さないものだから、驚くだけだ。
「何しやがんだ?これはオレの銃だぞ!」
「るせえ、他人の物をくすねておいて」
「冗談は止せよ!」
 ジンとネッロは、弾丸を装填したS&Wを奪い合った。男は、上目遣いに二人を睨み付けた。ジンとネッロの一回り以上は大きいと思われる男の手が伸びた。
「バカな真似は止せ。どちらが相手か知らないが、銃の扱いはシロウト以下だな。お前達」
 ががーん。頭の中で、銅鑼が響く。ジンは、あまりのショックでS&Wを落とし掛けた。危うくネッロが拾い上げる。生まれてこのかた、と言ってもせいぜい二十年と少々であるが、ジンは銃扱いをド素人と言われたのは師匠以外に初めてなのだった。
「そこの色男。お前の方が使えそうだ」
「へ?」
 男は、アーチに顎をしゃくって見せた。無論、アーチの右手指を観察していた上での発言だろうが。アーチは、ぶんぶんと首を振った。
「とーんでもない!オレは銃なんて。自前のモノなら自信あるんだけど!」
「手前ェ、この期に及んでまだそんな下品なジョークを言うか!?」
 と、ジンは毒づいた。何よりも、自分よりもパウダーガン使いの経験が浅いノーコンの相方の方を褒められたのが、口惜しい。
 男は《デザートローズ》を一気に飲み干すと、素早い動作でダッシュ・クォーターをカウンターに滑らせ、立ち上がった。銀貨は、水蒸気が溜まった水の上でミズスマシのようにくるくると踊った。
「釣は要らない」
「ぐは、かっちょええ」
 カウンターの奥から、ぼそりとピーチィの声が聞こえた。おっかなびっくり様子を伺っていたらしい。
 男の広い背中が、カウンターから遠ざかりつつあった。
「ちょっと、待って下さいよ」
 そう呼び止めたのは、眼鏡のでぶだった。でぶは、片頬に引き攣った微笑を浮かべて、男に近付いた。胴回りは、男よりもでぶの方が断然大きいのだが、肉体だけの貫禄など男の前では既に消し飛んでいる。
「お前らに用は無い」
 男は琥珀色の瞳を冷ややかに、向けた。
「そう仰らずに旦那。旦那がご高名なパウダーガン使いだとなると、私等も黙っちゃおれませんよ。是非に此処は、一つハイハット・タウンにお越しになったという歓迎のしるしでも・・・」
 でぶは饒舌をフルに生かして、べらべらと捲くし立てた。
「…黙れ。唾が飛ぶ」
 男は、でぶに一瞥もくれず、店を出た。
「うはあ。ますますもってかっちょええ」
 ピーチィは既に、カウンターから身を乗り出していた。
 男が出て行った後を、三人組は追って、そそくさと店を出て行った。急いでルビィはドアを閉め、十字を切ろうとする。
「そんなんじゃ、駄目だ」
 ジンはカウンターから出た。
 右手に掴んだ塩を一盛り。ドアを開け放って、撒こうとする。
「何それ?お呪(まじな)い?」
「ジイサンから教わった。二度と来て欲しくない客が出て行った時に、撒くんだとさ」
 へえ、とルビィは面白そうに頷いた。
 ジンは勢い良く、塩を振り撒いた。三人組の背中が遠ざかって行く。
 ばさ。
「…あ」
 ジンは、あんぐりと口を開いた。眼前に立っていたのは、女巡検使ミスティ・サファイアだった。そして、見事にミスティの頭やら肩に、白い塩粒が。
「それは、何かのお呪いなの?それとも嫌がらせなの?」
 ミスティは引き攣った微笑を浮かべつつ、静かに言った。ジンは笑顔とも泣き顔ともつかない表情で、ミスティを茫然と見詰め返すだけだった。
 
 物心付くまでの記憶が、ジンには無い。物心付いたのが、保育園に上がる頃だとすると、およそ五歳くらいの事になるだろう。それからほんの三年程だ。実の祖父と信じている武器職人の老人アル・スティンガーと暮らした思い出があるのは。酷くおセンチな表現を以ってすれば、ジンは今までその思い出だけを抱いて、十三年程生きてきたようなものだった。
 出来れば、ジイサンが死んだ事は削り取ってしまいたかったのだが、それ無くしては今のジン・スティンガーも在り得ない。
 あの日。あの時。あの部屋で、自分が見た事は、一生忘れまい。
 ゆっくりと換気ファンが回る仕事部屋で、倒れていた祖父の姿は。通学カバンを背負った自分を、別の自分が見ていた。
 ガンオイルと鉄を含んだ研ぎ水の匂いが、今も鼻腔の奥に燻っている。
 祖父の顔と、ジャバー・ウォックの顔が重なって思い出された。全く類似点は無いにも拘らずだ。
 来る日も来る日も休みなく行われた、パウダーガンの修行。
 やがてパウダーガンを初めて握ってから半年も経つ頃、漸くジンは見えざる手の圧力から解放された。リコイルという悪魔の圧力から。
 そうして、何かの呪文のように略毎日繰り返される、師匠と弟子の問答は、一つだけだった。
「お前が、まず第一に考えなければならない事は何だ?」
「……標的を撃つ事」
「いい子だ、ジン。その通りだ」
 その問答も終った。ジャバー・ウォックは、ある日ジンに言った。その右手には、ジンが見たことも無いような美麗なパウダーガンが乗せられていた。
 長いバレル(銃身)。銀白色に光る本体総てが、陽光に映える魚の鱗の様に輝いていた。真新しいガンオイルの臭いは、嫌では無かった。
 銃身に刻まれた《ブラックホーク・ディオファイア》の文字。鹿角のように鈍く光る紫檀のグリップ(銃把)。美しい流線型が、貴婦人を、いや想像上の生き物である龍に似て見えた。尤も、ジンは稚拙な絵本でしか龍の姿を知らないが。
「このパウダーガンは、昔お前のジイサンから預かっていたものだ」
 と、ジャバー・ウォックは静かに言った。ジンの両手に移った重みは、実際の重量以上に感じられた。
「重い」
「そうだろう。重いだろう。弾丸を込めたらもっと重くなる。ジイサンの魂を込めるんだ」
 ジャバー・ウォックは44マグナム弾を六個、ジンに手渡した。既に師匠に仕込まれた通りのリロード(再装填)を厳守して、ジンは十秒後には総ての弾丸をシリンダーに詰め込み、《ブラックホーク》を丁度いい握りに変えていた。
「弾丸の一つ一つが、ジイサンの喜び、悲しみ、怒り、淋しさ、お前への愛しみだと思うことだ」
「…無くなったら?」
 幼いジンは訊き返した。
「譬え違う弾を込めようと、祈るんだ。『ジイサンの魂が、オレを生かしてくれるのだ』と。お前は必ず生き延びる」
 ジャバー・ウォックはそう答えた。その呪詛は今でも生きている。言葉にこそ出さないが。ジンはいつも祖父を思っている。それと同じようにジャバー・ウォックの事も。
『お前は必ず生き延びる』
「う」
 ジンは、跳ね起きた。覚えずテーブルに突っ伏していた。居眠りこいていたらしい。
 テーブルの上には、胡椒と塩の入った小瓶がずらりと並んでいた。補充をしている途中で眠ってしまったのだった。それにしても、迂闊な。
 店のドアは半分開きっぱなしだった。微風が、乾いた風を運んで来る。ジンは椅子からずり落ちかけた腰を浮かした。
「いててて。くそう、薬効いてんのかよ?」
 長時間座ったままは、痔病にはいけない。
「何遊んでんの?」
 ドアが大きく開いて、買い物袋を抱えたルビィが戻って来た。既に時刻は午後二時を回っていた。
「いやぁ」
 ケツが痛いとは言い難いので、ジンは頭を掻きながら立ち上がった。
「うっかり居眠りしちまった。夢まで見たけど、十分くらいのうちにな」
 ルビィはカウンターに袋をずん、と乗せるとインゲンマメの入った小袋を取り出した。今晩の下拵えに掛かる様子だった。
「ふうん。どんな夢を見るの?」
 意外な返事が返って来たもので、ジンは一瞬戸惑った。一笑に附されるのがオチだと思っていたのだが、ルビィは興味を示したようだ。
「死んだジイサンと、師匠。オレのパウダーガンの師匠の夢だった。何ヶ月ぶりかな」
「そうなの?お祖父さん亡くなってしまったのね。御気の毒に」
 ルビィは大きな潤んだ瞳で、ジンを見た。両手はインゲンマメの筋を扱き抜いていたが。何か思い当たる事でもあるのか、大きく溜息を吐く。
「アナタに似てるの?」
「さあな。オレが八つの時だから、あんまし覚えていねえなぁ。師匠はオレが十五の時にいなくなっちまったんだけどな」
 ジンは充填した胡椒瓶と塩の瓶を各テーブルに直しながら、答えた。
「七年前だ。覚えてるようで、覚えていないもんだ。顔はな。でも、手を見りゃ判る。パウダーガン使いの手は。ジイサンの手も覚えてる。皮がごつごつして、指が太くていつも温かかった。機械油とガンオイルの匂いがした」
「ふうん」
「オレが学校から帰ってくると、丁度夕方でさ、髭が伸びて来るんだよな。その顎や頬で触れられるとくすぐったくてなぁ。タバコの匂いがした。好きだったんだよな。あの匂い」
 ジンは言った。ルビィは、丸椅子に座ったまま、上半身だけを動かしてジンの動きを追っていた。
「タバコって、余り好きじゃないけど、好きな人が吸う匂いは嫌いじゃないわ。良い匂いと思う時もあるくらいよ」
「オレの匂いは?」
 ジンはすかさず聞いてみた。この男にしては、珍しく気が利いた事だった。
「…どうかな」
 ルビィは、意味深な笑みを浮かべただけで、鼻歌を歌いながらインゲンマメに集中し始めた。

 
第二章(2)に続く

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