第十五話
 〜嘆きのカルヴァドス Il fucile disperazione in spalla
(後編)


第二章  誰か明日をば思わざる HE HAS SPOKEN BLASPHEMY 

(2)

 夜毎町から町を渡り唄う男達、マリアッチの歌声が通りまで溢れ返っていた。ハイハットの町に数軒ある酒場やトラットリア(食堂)を回っているのだが、今晩彼等は《虹の掛け橋亭》に現れた。
 ほぼ月に三、四度で流しの歌手はやって来る。当然、客の入りも悪くないので、ルビィは快く彼等を迎え入れる。このくらいしか、この湿気た町には娯楽が無い。カジノもなければ洒落たジャズクラブも無い。だが、この田舎臭さがルビィは嫌いでは無かった。
「今晩は忙しいやんね」
 ピーチィが洗い場から声を掛ける。
「いつもこのくらいだと繁盛なんだけどねぇ」
 ルビィは苦笑した。今日はいつも無造作にひっ詰めただけの髪にウエーヴをつけて丸く結い上げている。ほんのりと唇を彩る淡いパールピンクのルージュも雄弁にその心を語っているようだ。
 ピーチィにも判る。ルビィに心境の変化があったらしいことは。
 それが至って身近な人間に向けられた好意の証である事を、少女は思春期独特の敏感さで知るのだ。
「だけど、田舎臭いのも悪くは無いわよ。私がアナタくらいの年の時には、すごく嫌で隣町の大きな学校まで二時間も掛けて通ったもんだけど」
「ふうん。ウチは田舎でも何でも、おもろそうな所なら構わんけどね」
 ピーチィは泡だらけの手を動かしながら、答えた。
 ホールは十台あるテーブルが満席だった。カウンターも殆ど埋まっている。マリアッチの奏でるエレキギターと、鳥肌が立つようなファルセットが店内をいつもと違う雰囲気に変えている。
 今夜は屋外のテラスにもテーブルを出している。月の無い、星の明るい夜。
 ルビィは開け放しのドアを踊るような足取りで出て、テラスの客に酒を運ぶ。
「今日はネッロは来ないのか?」
 ジンは手を動かしながら独りごちた。
「さぁね」
 ピーチィは、わざと憎らしげに言う。だが、ジンはまるで意に介さないかのように、ふんと鼻を鳴らしただけだった。
「腹でも壊したのかなァ?」
「アンタって、どうしてそういう発想しか出来へんの?」
 ピーチィは、イーだをやってまた洗い場に戻った。

 バカッ。
 赤い飛沫が散った。礫のような赤い粒が地面に散乱する。
 バカッ。
 また一つ。今度はもっと派手に。
「ねえ」
 女のハスキー・ヴォイスが呼び掛けた。人差指に掛かったトリガーが、遊びの分だけ動いて撥ねた。ネッロはスタンスを開いたまま振り返った。
 薄暗がりから現れた、一人の美女。この町の人間でないことは、一目で知れた。町の人間には誰一人似つかわしくないような風体だ。体の線に密着した黒いレザーのソフトスーツ。その上に羽織った、ネイビー・ブルーの軍用コート。背の高い女だ。
「そんな安バーボンを飲みながらファスト・ドロウの練習をするのは頂けないわ」
 と、女は歌う様に言った。
 ネッロは、S&Wの銃口を下げた。視線の先十五メートル北方に設けた高さ約五フィート程の台に、女は注視した。等間隔で置かれた黒いスイカ五個の内、二個が砕けていた。
 まるで生首のように毒々しい赤が、夜目にも鮮やかだ。
「見ず知らずのあんたに言われる筋合いはねえ」
ネッロは左手に持ったバーボンの瓶首を持ち上げると、喇叭飲みした。唇から零れた琥珀色の液体が喉を伝い、ボタンダウンのシャツの中まで這入った。
「ミスティ・サファイアよ」
 と、ミスティは艶然と微笑んだ。ネッロのすぐ傍まで歩み寄ると、ミスティは自分の腰に手を遣り、町の通りを見遣った。
「アナタが試合に出るという男ね。昨夜あの店でのびてた」
「まあな」
 のびてた、は余計な一言だが、ネッロは事実を否定出来ない。
「その腕じゃ駄目よ。老婆心から言うけど」
「全く大きな御世話だよ」
 ネッロは鼻息を荒くした。この女、見掛けは御見事でも何とずけずけ物を言うのだろうか。
 ミスティは、ネッロの黒い瞳に移る自分の姿を認めた。そして、仄かな笑みを浮かべながら、さらにいま一歩ネッロに歩み寄ると、男の顎に付いたバーボンの滴を拭う為に手を伸ばした。
 その一方で、ミスティは左手を動かした。まるで鳥の羽が舞うかのように左手が音も無く伸び、握られた《パイソン・シスタームーン》が白い閃光を放った。
 僅かずつ角度を変え、合計三発。殆ど銃声は重なって聞こえた。
 黒い爆弾のようなスイカは、赤い塊を吐き散らしながら、弾けた。
「こういうのでどうかしら?」
 ミスティは、ネッロの顎から指を離し、後退った。
 ネッロはぽかんと口を半開きにしたまま、台上を遠い目で見詰めた。
「あの男はこんなものじゃないわよ、きっと」
 ミスティは色っぽい唇で言う。
「《銃聖》キューブ・ザ・フラミンゴは」
「…キューブ・ザ・フラミンゴ」
 ネッロは鸚鵡返しに答えるしか無かった。
「ところで」
 ミスティは言った。
「ベネチオ・アンドレッティという男を御存じないかしら?」
「あ?…ああ。バランサーがよく出入りしていたお役人の事か」
「ヴァティカン国土省の派遣員よ」
「知らないな。オレは殆ど口をきいた事が無いが、そういや半年くらい見ていない」
「そう」
 ああ、とネッロはまるで自己確認するかのように答えた。
 遠ざかるミスティ・サファイアの気配など、ネッロは気付いていなかった。ネッロは今し方ミスティが触れた指の感覚を、一生忘れないだろう。三十八口径リヴォルヴァーを立て続けに三連発ファイアしても、ミスティの右指は微動だにしなかった。
 そう、あくまで自然に滑らかにネッロの顎を撫でたのだ。
 リコイル(反動)の微塵も伝わらなかった。
「くそ、あの女。オレをビビらせに来ただけかよ?ホントに余計な御世話だっての・・・」
 ネッロは拳を握り締めた。自分が対決するのは、あの女以上の男なのだ。背筋が凍った。
 
「お久しぶりです、モンシニョール」
 アーチレリー・ブールヴァルドは畏まって言った。
「キミがそう畏まる時は、必ずロクでもない事が待っている」
 画面の中の仏頂面が答えた。枢機卿グレナデン・サフィールは今夜は余り上機嫌ではなかった。灰色の瞳が曇る。
 無論、まだヴァティカンでは昼の日中だ。
 だが、相手の機嫌などお構い無しに喋るのが、目の前の若い男の性質だと承知しながらも、露骨に感情を表すのも枢機卿らしい。
「そう仰らずに、オレの頼み事も聞いてくださいよ。姪御ドノは相変わらず、必要以上にお元気ですよ。と、報告まで。で、プライヴェート・データには、このパソコンからは侵入出来ませんのでね」
「またそういう類の頼みかね。たまには、私の言う事も真摯に聞いてからにしておくれ」
 皮肉な返答を得ても、アーチはびくともしない。
「聞いてますよ。で、ジンの師匠だったジャバー・ウォックの事を知りたいんですが」
「私は直接答えられん。人事部のデータ・アクセスIDを流すので、それで入るといい。だが、くれぐれも外部に持ち出さないようにな。国家機密と同じ扱いだからな」
「物分りが良くていらっしゃる」
 アーチは、にんまりと笑った。パソコンの傍らに置かれたカルヴァドスの瓶に手を伸ばす。
「一体どういう風の吹き回しだね?キミがそんな事を知りたがってるとは」
「いえ別に」
 アーチは、黄金色の液体を真新しいブランデー・グラスに注ぎながら、すっとぼけて言った。
 これが他の男なら、説教の一つでも垂れてやりたいところだが、枢機卿はどうも腹を立てる気にはなれない。虫が好かない、という言葉があるのなら、その逆もある。何処か憎めない独特の雰囲気が、アーチレリー・ブールヴァルドにはあった。
「今更余計な詮索などしないほうが、身の為かも知れんぞ」
 サフィール枢機卿は、溜息と共に言った。
「雉も鳴かずば、ってヤツですか?ご忠告痛みいります。とはいえ、オレはアイツの御守役を仰せ付かっていますからね。やめろと言われても、やめません。死んでも」
 アーチは言った。
「キミはそんな事くらいでは、死なないだろう」
「いえ」
 アーチは苦笑を右頬に押し上げた。
「オレだって、大事なところをやられたら死にますよ」
 ココ、とアーチは自分の胸の中心に左手を当てた。それがどういう意味なのか、枢機卿は知りながら黙っていた。アーチのオリーヴグリーンの瞳が、暗い光を宿しているのを見た以上。
「それはそうと、キミ。例の件は、はかどっとるのかね?」
「え?あ!もうIDが届きましたよ。さっすが仕事早いですねぇ!では切りますよう」
「こらこら、聞いとるのかね!?」
 画面の中で、慌てふためく枢機卿。
「聞いてますって。順調にやってます。ええ、そりゃもう。も〜う。お腹一杯。××もはちきれそうです!いいですか?切りますよ、ホントに」
「ホントにって、なぁに?」
 アーチの頭上から、声が降り掛かった。
「うわお!」
 思いっきり慌てて、危うくパソコンをテーブルから突き落とすところだった。その拍子に電源がオフになった。揺れるテーブルの端で、カルヴァドスを入れたグラスが傾き掛けた。
 女のしなやかな甘手が、グラスを素早く持ち上げた。
 見上げる視線の先に、女巡検使ミスティ・サファイアの姿があった。
「…よっ、お仕事遅くまで御疲れさん」
 アーチは引っくり返した椅子を戻しながら、立ち上がった。ここは、《虹の掛け橋亭》のテラスである。夜の空気が、じっとりと流れていた。ふと横を向けば、窓越しにホールの様子が伺えた。
 ミスティは、視線を逸らしたアーチを睨み付けた。
「ああら、アナタの方こそ。おじさまと何話してたの?」
「ふっ。男同士のひ・み・つ」
「は?」
 ミスティは両腕を胸の下で組み、首を傾げた。
「ジャバー・ウォックがどうのっていうのは、私の空耳かしらねぇ?」
「かどうか知りたいか!」
 アーチは、ミスティの鼻先に右手人差指を向けた。宣戦布告とも、もっと卑猥な仕草ともとれるジェスチュアだったが、ミスティはまるで動じない。
 その人差指が、つつ、と下へ下りた。喉元を通り越して、ジッパーを弾き返しそうに勢い良く盛り上がった二つの隆起の上でぴた、と止まる。
「だったら、そのごリッパな凶器をきっちり仕舞い込んでからにしてくれ」
 鹿革が食い込んだ胸の白い隆起が、半ばはみ出している。夜目にもぬめって見える、やや日焼けした肌。
「何が凶器なのよ。失礼な」
「だから、キミのチチは禍つ兵器だと。そんなもんで勝負されたら、男は一溜まりもなくなる」
「何を今更しらじらしい…」
 ふん、と鼻息でミスティは笑うと、手にしたカルヴァドスのグラスに唇を付けた。ノルマンディー産のリンゴから作られたという禁断の酒を、一口含む。手にする前から、匂い立っていた甘い極上ブランデーの香りが、鼻腔に充満した。喉の奥に、熱い黄金の奔流が生まれた。
「つれないなァ。あんなに燃えたあの一夜を、オレはついさっきの事のように思い出せるっていうのに」
「私は記憶喪失にでもなった気分だわ」
「じゃあ、思い出してみるかい?」
 アーチは、ミスティのグラスを握った右手を掴んだ。矢庭にミスティの体を酒場の外壁に押し付けると、唇を吸った。
 濃く長い睫毛を伏せたミスティの唇から、強い芳香を放つまろやかな液体が零れた。それは、鎖骨の窪みに流れ落ちて、胸の谷間に吸い込まれていった。
「どう。少しは思い出したかい?」
 アーチは壁に両手をついたまま、低く掠れるような優しい喉声で言った。
「ふふ。爪の先ほど、ね」
 ミスティはグラスを持ち上げ、一気に干した。勢い余ってグラスの薄い縁から、また黄金の液体が溢れ出し、胸元を濡らした。
 ロザリオの鎖に掛かった黄金色の滴を、ミスティは左手の人差し指で掬い上げた。その指先を、アーチは口に含んだ。舌が指先から根元まで纏わり付くと、熱い奔流が今度は喉の奥ではなく、背筋から下腹部に広がった。膝頭の力が抜け具合になる。ミスティは、アーチの顔を引き寄せた。
 アーチは、再び目の前の柔らかい唇を吸った。今度は、ミスティは青い瞳をとろりと見開いたまま、もっと巧みに応えた。
「…今度はどう?」
「まだよく思い出せないわ」
 ミスティは、胸のジッパーを下ろした。身体が火照る。自然に絡み合うお互いの太腿の熱さが、衣越しにもどかしく感じられた。
「全部思い出すまで、一晩掛かりそうよ」
 ホールの賑わいは聞こえない。聞こえていても、空の星が人間を見ていないで勝手に輝いているのと同じだ。
 かすかに、ブランデー・グラスが落下して砕ける音が響いた。
 
 寝息が聞こえる。ルビィはそっと、ドアを半開きにしたまま、寝室へと入った。静かに音を立てないように歩いている筈だが、建物自体が老朽化著しいので、どうしても足音で軋む。
 空気が湿っていた。それは恐らく、部屋で寝ているエンリケが発散する体温の所為だろう。
 ルビィは、抱えて来た洗面用ボウルと濡れタオルを、ベッドの脇に置いた。
 静かに、固く絞った濡れタオルをエンリケの額に当てる。指が触れた、エンリケの顔はとても熱かった。
 発熱は副作用だから仕方ない、とアーチに言い含められていたものの、やはりルビィはとても居た堪れない心地になった。
「……う」
 エンリケの右腕が動いた。起き上がろうとしていた、その身体をルビィは支え直してやる。
「無理しないで」
「ああ。副作用で熱が。…だが、明日には起き上がれるさ」
 エンリケは力無く笑って見せた。
「起きなくてもいいから。店はジン達が手伝ってくれるって」
「いつまでもそういう訳にはいかねえだろ?あいつらは此処にいちゃいけない」
「いちゃいけない?」
 ルビィは訝った。赤味を帯びた瞳に、炎のような光が点る。エンリケは、酷く消耗して、汗の臭いと死に見舞われた人間特有の臭いを発していた。それが、ルビィには胸が詰まる程息苦しい。
「…そうだ」
「アナタの事が心配で、此処に居てくれるって、ジンも言ってるのに」
「プレミオーロ(賞金稼ぎ)に、一所に居ろというほうが間違ってる。あいつも、頭がおかしくなってると見えるな」
 エンリケははっきりとした口調で、言った。何だかその言葉は、まるで数十年来の付き合いがある、親しい人間にでも言う様な台詞だと、ルビィは感じた。
「エンリケ…アナタ何かあの人達の事…?」
 ルビィは濡れタオルを受け取りながら、呟いた。
 エンリケの横顔が、淋しげに曇った。
「兎に角、此処にいちゃいけない」
「おかしな事言わないでよ」
「いけないといったらいけないんだ!!」
 ルビィは、瞠目した。息が詰まるかと思った。
 エンリケが、そんな大声を出したのは初めてだった。ハイハットの町に来て、《虹の掛け橋亭》を訪れて以来、初めてだった。
 窓の隙間から、微風が入り込んで来た。
「…ゆっくり休んでね」
 ルビィは震える声で、漸くその言葉だけを喉から絞り出した。
 去り際に、エンリケの長い溜息を聞いた。ルビィがドアを閉めるほんの直前、エンリケは言った。
「悪かったな。大きな声を出して」
 ルビィは答えなかった。
 答えられなかったのだ。ルビィは、壁に凭れ掛かると、その場に蹲った。涙が溢れ出して来た。悲しいのか何なのか判らなかった。子供のように膝を抱えて何時までも、そこで泣いている他無いと、感じていた。

 ネッロは二日酔いの頭を抱えて、サンドバギーに乗っていた。仕入れのトレーラーが定時に着かないというので、町外れまで迎えに行かねばならなかった。
「うう。頭痛え」
 ガタガタと振動が伝わる。舗装された《硝煙街道》の脇道を通って、物資はやって来る。
 ネッロは俄に嘔気を催した。サンドバギーを飛び降りると、ネッロは一目散に斜面を滑り降りた。道路の側面は、潅木が生い茂る林が転々と続いている。
 初夏には白い小花をつける名も無い木々は既に、弾丸のような青い果実を抱いていた。
 ネッロは両手で茂みを掻き分けると、その奥へと進んだ。やにわに押し寄せて来た怒涛のような吐瀉物が、口腔から溢れ出た。
 とはいうものの、実にアルコールと胃液の混合液でしかない。
「うえ、うえ」
 飲み過ぎるを後悔するよりも、兎に角全て吐き尽くしたい。涙を流しながら、ネッロは地面に這い蹲った。
「…くそ!」
 全く面白くない。総てが面白くない。試合はあと三日後だというのに。日増しに緊張感は募った。和らげる為にと、理由を付けて飲めば、この仕返しだ。
「あの女、オレの何処が勝てないってんだ?ちくしょう、証明して見せやがれ」
 毒づいても、誰も聞いているわけでなし。
 ふと、異臭が臭った。
 自分の吐瀉物ではない。もっと強烈な臭いだ。何かの激しい腐敗臭。
 ネッロは立ち上がり、ゆっくりと臭いの元を探し始めた。風は南から吹いて来る。その微風を辿って進むと、こんもりとした棘木の向こうに、一箇所だけ色の変った土壌が認められた。
 思い切って鼻を摘み、近寄ってみて、ネッロは全身の毛がよだった。
 湿った土の上で米粒を散らしたように白い虫が蠢いていた。蛆である。
 人の小指ほどの蛆が、無数に土の上を動いているのだった。
 ネッロは言葉も無く、暫く茫然とその光景を見詰めていたが、何かに憑かれたかのように一歩一歩ゆっくりと、近付いてみた。傍に落ちていた枯れ枝を掴むや、蛆の群れに突っ込んで掻き回した。
 最早、嘔気は何処かへ飛んでしまっていた。余りの異臭の強烈さに鼻粘膜さえ麻痺している。
「まさか」
 ネッロは、殆ど無我夢中で土くれを穿り返した。ものの数秒も経たない内から、破れた衣服と思しき布が飛び出して来た。
 更に大胆に、蛆も土もその辺に撒き散らしながら、ネッロは掘り続けた。
 枝の先に、ぐにぐにと柔らかいものが当たり、異臭は益々持って強く発散された。殆どその全貌が現れた時、予期していた通りのものが現れた。ネッロは、そうするまでとても止められなかった。
 遺体だ。
 半分白骨化した腐乱死体。ぐにぐにした物は、腐った肉体の一部だった。恐らくは男だろうと思われる、衣服といい、いい加減放置されたものだ。
「う…」
 ネッロは漸く我に返ると、己の行為と眼前の遺体のおぞましさに、また吐き気を催した。だが、もう口から出すものなど何も無かった。何も無いのに嘔吐(えず)きながら、ネッロは懸命に走った。
「は、早く知らせないと」
 これは忌々しき事態だ。ここ数年、変死体の一体も発見されない程、平和のぬるま湯にどっぷりと漬かっていたハイハットの町で、まさかの出来事なのだ。

 サンドバギーを引き返し、町で唯一のUP駐在出張署に駆け込んだネッロは、開口一番にこう言った。
「へ、変死体だ!」
 出て来たのは、寝ぼけ眼に平服の警官だ。もう午前九時というのに暢気な事この上ない。だが、ネッロは警官の平和ボケなど、今問題にしていない。
「何を寝ぼけたことを言ってるんだ?」
「ポルタラート行き側道の、北五キロ程のところに、男の変死体があったんだよっ!」
 ネッロの息はまだ弾んでいた。
「半分以上骨が見えてたが、あれは行き倒れじゃあねえよ。誰かが殺して埋めたんだ」
 警官は首を捻った。
「はて?埋まった死体だからといって、殺人だと決まった訳じゃないだろう?それとも何か、他に物的証拠でもあるのかい?」
「物的証拠だとう?」
 ネッロは、握り締めた拳をはたと見詰めた。そう言われると、思い止まってしまうが、警官の態度はいやに高圧的だ。あまつさえ、ネッロを疑っているような節も見受けられる。
「証拠もナシに殺人だとか、何だとか重要事件と決め付けられても困るんだよ。キミに心当たりでもあるというんなら、話は別だがねぇ」
「心当たりだとう!?オレを疑っていやがるのか、手前ェ」
 ネッロの恫喝にも、警官は怖じない。
「第一発見者こそが最も有力な容疑者だという事も、少なくないんでね」
「何おう!?」
 ネッロは思わず警官に殴り掛かった。全く、そんなつもりは端から無かったのだが、成り行きというやつはどうにも止まらない。警官はよろめき、壁にぶち当たった。
「なっ、何するんだ?」
「何するもクソもねえよ。オレは人なんて殺しちゃいない。来やがれ!」
 ネッロは、警官の襟首を掴んだ。
 と、そこへ黒い影がさっと音も無く落ちて来た。でぶ、やせ、肉の三つのヴァリエーションに富んだシルエットだった。
「はっはーん。お前こんなところで何やってんだ?」
 でぶが言った。
「警官に暴力たぁ頂けないなぁ」
 やせが言った。
「見たぞ見たぞ。ネッロは人殺し」
「何だと!?」
 逆上したネッロは、肉に掴みかかろうとした。だが、力の差は歴然。ネッロは後ろ手に両腕を取られて床にもんどり打った。強か頬を打って、鼻血が流れ出す。
 血を拭いながら立ち上がるネッロは、確かにそこに、三人組の悪意に満ちた顔を見た。

 《虹の掛け橋亭》の扉が開いた。開店準備に掛かるところだった。午前十一時。まだ六時間ほど間があるのだったが。
 ホールに立ったピーチィは、五分待った。ルビィはいつもより随分と遅い起床だ。
 身支度は整っていたが、顔色が冴えない。
「どしたん?目が赤いで」
「寝不足よ」
 と、ルビィは目元を覆った。明るい表情だが、何処かぎごちなさを感じる。
「ならええけど」
 ピーチィは、あからさまな疑惑の一瞥をルビィに送った後、ホールを突っ切って外へ出ようとしていた。
「あ!」
 ドドドドド。地響きが鳴った。いや、階段を駆け下りる音だ。
 振り返るピーチィとルビィ。
「いけねえ!寝過ごした」
 ぜえぜえと、息を切らして階下に立っているのは、パジャマ姿のジンだった。
「ぷっ」
 ルビィは噴出した。ジンの長髪はぐちゃぐちゃに寝癖が付いて、実に前衛的なヘアスタイルになっていたし、パジャマのボタンも二段違いだった。サングラスも掛けていない。百年の恋も冷める、という風体だ。尤も、元がそんな男前ならいいのだが。
「なんちゅーカッコ…」
 ピーチィは、げんなりとなって呟いた。
「そんなに急がなくても、私も今起きたトコだから」
 ルビィは笑った。
 ジンは、頭を掻きながらホールまで降りて来た。無論、裸足だ。
「いややわ。乙女が二人もおんのに、恥じらいの無い」
「やかましい。相方よりマシだ。…と、そういやヤツは?」
 ピーチィは首を振った。
「知らんわ。昨夜から戻ってないみたいやし」
「あんの野郎、こっちが猫の手も借りたい程忙しいってえ時に…!」
 ジンは朝の低血圧で不機嫌なまま、ずかずかとホールを歩いた。ドアを開け放って、裸足のまま出て行こうとする。
「何処行きやがった?オレのケツ治せってんだ!」
「あ!ちょっとちょっと、何…」
 ジンは、立ち止った。
 バフン、と背中にピーチィの顔が埋まる。
 店の前には大通りが通っているが、その遥か向こうから何やら賑やかな声がする。西からだ。
 こんな時間に何だろう。
 凝視していると、何やらその先頭からちびっ子のような男が、物凄い勢いで飛び出して来た。
「ソーシー・スー!」
 声を掛けられて、ぎょっとなった小男は、立ち止った。
「お前、何だってこんな所に?」
「決まってるじゃないか!研修はまだ終ってないんだよっ」
 ジンはぽかんと口を開けた。ソーシー・スーは、迫力の無い仁王立ちになって言った。
「ミスティ様は何処か知らないか?」
「オレが知るか。それより、何だ?あっちからやって来るのは?」
 ジンは西の方角を見た。デモ行進のような一団が、ぞろぞろ近付いて来る。土埃が舞って、その周りだけが薄ぼんやりと煙っていた。
「あれ?大変なんだって。ネッロって男が殺人容疑でしょっ引かれてんだよ」
「ネッロ!?」
「殺人罪!?」
 ルビィとピーチィは、同時に身を乗り出した。道なりに続く一軒一軒の店先から、同じように野次馬達が顔を覗かせていた。

第三章(1)に続く

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