第十六話
 〜嘆きのカルヴァドス Il fucile disperazione in spalla
(後編)


 第三章  血闘 WOE TO THE WORLD BECAUSE OF OFFESSES! 
  
(1)

 アーチレリー・ブールヴァルドが初めてその男に会ったのは、晴れた晩秋の日の午後だった。
 小春日和のパリ市街。オープン・カッフェの一画で、アーチは小一時間程、雑誌を読んで居た。
 除隊して間もない。それまでは、そんな暇(いとま)も与えられなかった。
 何気なくそうしていたのではない。何時か、そのうちこういう日に降りて来るだろう死神でも待つ気分で。
 温かかったカッフェ・オ・レは、冷え切っていた。コーヒーブレイクには特に何かを食べる習慣が無いので、ついちびちびと飲んでしまうからだ。
 黒い影が、黄ばんだ再生紙で作ったバンド・デシネ(フランス語の漫画雑誌)の上に落ちた。
 ちょうど、犯罪物のストーリーで、脱獄犯がエアロ・バイクを盗む瞬間のページだった。自前のバイクごと巨漢に担がれる美女の驚愕した姿の上に、影の先端が被さった。
 美女の短いスカートが捲れ上がって、太腿が丸見えのコマ上にだ。
 中折れ帽を被った紳士が、頭上で微笑んだ。その年代にしては、些か若作りな印象を受ける海老茶色のソフトスーツだ。
 紳士は、「初めまして」とは言わなかった。
 銀髪の下の、整った顔立ちが緩和した。
「捨石になれるかね?」
 確かに、最初の一言はそうだった。いや、順番を違えて覚えているのかもしれない。「はじめまして。キミがドットーレ・アーチレリー・ブールヴァルドだね」。そして、その次にそう言ったのかも。 
 何れにしても、剣呑な言葉だ。初対面の人間に向かって、「捨石」だとは。
「まともに聞こうとしたオレが、バカだったのか。それとも、オレがバンド・デシネなんざ頽廃的なモン読んでるスカポンタンだから、あの人はそう言ったのか」
 確かに、初めて会った気はしなかった。むしろ、アーチの容貌を見て驚いたのは、紳士の方だったくらいだ。
「捨石?世の中にそんなモノが存在するなんて、オレは初めて聞きました」
 と、アーチは答えた筈だ。
「譬え用済みになって捨てられようと、少なくとも人は生きている限り、『捨石』なんかで在り得ない。オレはそう思いますがね」
「キミはいい意味で、私の予想を裏切る男だ」
 紳士は優しい声で答えた。
「『捨石なんて御免被る』と答えたら、私は即座にこれの引き金を引いていただろうが」
 紳士のスーツの懐から、オートマチック拳銃が覗いた。アーチは笑わなかった。背筋に寒いものが走った。
「そんなオモチャでは、オレは死にませんよ。オレが痛いのはココ」
 アーチは、自分の胸を指した。
「もうずっと何年も痛むんです。でも、人間なかなか死ねないもんですね。まだ死にたいとは思いませんが」
 穏便でない会話が、一体何処で途切れたのかは定かでない。
 だが、一つだけ確信した事がある。
 オートマなんかは、それこそパフォーマンスでしかない。捨石など、言葉のアヤに過ぎない。あの灰色の瞳が物語るのは、一つ。最も残酷な方法で。
「この男、オレに『死ね』と言いに来た」

 アーチは、煮詰めすぎて濃くなり過ぎたエスプレッソ・カッフェを、マグカップに注いだ。その上から生ぬるいミルクで埋める。カッフェを淹れながら、そんな事を思い出してしまった。
 聞こえる。
 死神の足音が。
 近付いたり、遠ざかったり。
 明るくなった窓の下には、僅かに人通りが伺える。
 眠い。身体の心地好いだるさが、再びアーチをベッドに引き戻した。とても仕事をする気には、なれなかった。
 仰向けになると、天井の高さが目に付く。だだ広いだけの無味乾燥なベッド。両腕を伸ばしても、何も掴めない。冷たいリネンの感触が素肌に心地良い。
 両脚を伸ばすと、左足の先に柔らかい物が当たった。仕事する気になれない原因を作っている物がそこにある。シーツを引っぺがすと、そこに甘いキャラメル・カスタード菓子のような色をした女が丸まっていた。どうやったらこういう姿勢を取れるのか、不思議に思うくらい、隙間無く丸くなっていた。
「ちっ。…寝相が悪い女」
 アーチはニヤリと悪戯っぽく笑い、足の裏でぐりぐりと形の良い尻を押した。
「起きろ、こら。うりうり。これでもかっ」
「うーん。…も、駄目…やめちゃ駄目。でも、もう一回…」
 球の形が崩れた。豊かなブルネットが白いシーツに流れ出す。
 アーチは、クッションの下に右手を回す。《キングコブラ・バニッシュメント》の黒い厳つい銃身が、明らかになった。音の無い広い部屋に、キリキリとトリガーを絞る音だけが響いた。
 ガチ。
 断ち切られた音は虚しい。シーツの端が浮いた。その一瞬の間の後、向き合うパウダーガンとパウダーガンの銃口。
 微笑を浮かべるアーチの方から、銃を下ろした。
「よっ、おはよ」
「び、びっくりさせんじゃないわよ!賊かと思ったわ」
 ミスティは、照れ隠しに言った。何処からか反射的に取り出した《パイソン・シスタームーン》を、下ろす。心臓がどきどき早鐘を打っていた。
「さすが、左利きの《銃王》。惚れ惚れするようなレスポンスの速さだね。しかし、キミの男運が悪いってのは、何となく判ったような気がするぜ」
「え?」
「こうやって毎朝撃ち殺してたら、そりゃ世話無いって」
「ふん。アナタは幸運児という事ね。二度も助かってるんだから」
 ミスティは皮肉めいて言い、素っ裸のまま、ベッドの上に横座りに座り込んだ。
 何も身につけていなくても、これほどゴージャスで野性的な女も珍しい。肉食獣を思わせる動作だった。
 確かに、尋問技術のエキスパートではないにしても、ベッドテクを用いて自白を強要する技術も修得しているのが、特務巡検使だ。その逆もある。陥穽に嵌らないように訓練されている事は、確かだ。
 男の傍でぐっすり眠ったのは、何年ぶりだろう。
 ミスティは、思い出せなかった。思い出す必要など、今まで無かったから。
「私にも淹れて頂戴」 
 ミスティは、アーチが左手に握ったマグカップを見詰めた。
 アーチは、シーツを引き摺って再びのそりと起き出した。壁際に置かれたティーテーブルの上に、保温器とサーバーがある。
「ブランデーを三滴」
 注文を付けるミスティに、アーチは振り返った。
「カルヴァドスしかないぜ」
「それでいいわよ」
 言われた通りにして、アーチはベッドに腰を下ろした。カップを持つ手が、揺れた。滑らかな女の身体がぶつかって来たからだった。弾力のある両の乳房の温かみが伝わってくる。伸びた両腕が、アーチの上体を緩く締め付けた。
「どうしたっていうんだ」
「どうもしないわ」
 ミスティは、アーチの耳朶に柔らかい唇を近付けて言った。ぞくりとさせるような深い吐息が、耳孔を擽る。殆ど消えかかった香水の、ムスクと思しきラストノートと、甘酸っぱい体臭が混ざり合って馥郁と匂った。
「どうかしてるのは、アナタの方でしょう。違う?」
 アーチは、空いた手でミスティの手を静かに掴んだ。十指が絡み合う。
「多分な」
 胸の奥底に生まれた小さな水泡。水泡は、上昇してくるにつれて水圧を免れて大きくなる。疑念或いは得体の知れない恐怖は、僅かずつ膨らんで行く。
 後戻りの出来ない感情と、打ち消す事が出来ない事実が黒いカッフェとミルクのように混ざり合う。
 死神はやはり、あの日あの時、紳士の姿を借りて白昼堂々と現れたようだ。
 オレは僅かばかりの好奇心と引き換えに、あっさりと死神に命運を預けてしまったのか。アーチは自問自答した。
「自分が恐い」
「何を言い出すのかと思えば」
 ミスティは、マグカップを奪うと一口だけ飲んで、傍らのテーブルに置いた。
「キミを本気で愛してしまったオレ自身が、怖い」
 アーチはおどけて言った。
「…おバカ」
 ミスティは、アーチの首を締めた。転がりながら、二人は言葉も無く唇を重ねた。撓んだベッドの端から危うく落ちそうになりながら、ミスティは熱い柔軟な身体を起こした。
「アナタにとっての相棒って、何なの?」
 それとなく訊くミスティに、アーチは揶揄めいて笑った。
「オレと居る時に他の男の話をするなんて、いい度胸じゃないか」
「別に、深い意味なんかなくてよ。アナタみたいなタイプは、独りが好きなんだと思ってたから」
「仕事さ。初めは興味本位。何処をどう間違ったのか、今じゃすっかりアイツの兄貴分だが、元々は日本人の血液及び遺伝子サンプルを頂戴出来るという名目で、この御役目頂いたんだぜ。あのマキシム・デ・リガールを出し抜いて」
 教皇報道秘書官・マキシム・デ・リガールの事だ。言うまでも無いが、アーチもリガールもお互いを良く思っていない。才気走った美男子同士は、美女同士以上に容れ合わない生き物らしい。
「『学際病理学』あるいは『小児病理学』っていうオレの研究対象には最適なんだよ、純粋日本人てのは。極東アジアに多い、多種肝炎ウイルスキャリアの分布とか歴史的推移、成人T細胞白血病とかの研究にとってはな。学究的価値が非常に高い」
「国連では、日本人は一人もいないことになってるけどね」
「建前はな。我々ヨーロッパ系白色人種は、所謂人類進化の第二段階で枝分かれした人種だ。エヴァから生まれたアフリカ系、ヨーロッパ系、そしてアジア系ときて、その極東にいる日本人に最先端の遺伝子的進化発現を見ることが出来るというのが、隠れた偉大な人類学説だ。飽く迄、『外道の学説』と言われて一般的には受け入れられないがな。その真偽を学際病理学的に確かめるということにおいて、日本人のデータを収集するのは、研究者として当然じゃないか」
「呆れた理由ね」
 ミスティの言葉は容赦無いが、悪意を感じない。
「だが、あまり声高に出来るもんじゃない。事は科学だけでなく、世界政治にかかわることになるんでね」
「日本という国が滅亡した理由、という事ね」
 含むところの多い口調で、ミスティは言った。。
「危うい事に足を突っ込んだ感は免れないがな…」
 アーチは、呟くように言った。実父が死ぬ前に言った言葉が脳裏に甦る。
「動機が不純な事には変わりないわ。アナタらしいというべきかしらね」
 ミスティは、強い光を湛えた瞳をアーチに向けた。見下ろした若い男の薄い顎に、在るか無きかの金色をした髭が産毛みたいに生えている。やや強(こわ)い顎鬚が、首筋に触れる時の感じを思い出して、ミスティはそっと瞼を閉じた。
「でも、そんな事私に喋っていいの?信用なんていう生温い希望を持ってるなんて、言わないでよね」
「子供じゃないんだ。ベッドの上での話は総てオフレコ、っていうのが」
「オトナのルールというワケね」
「賢いね。キミのそういうトコがまた、堪んないけどな」
「アナタとはセックスの相性が好い、というだけの事よ」
 ミスティは、謎めいた微笑を浮かべながら、淡々と言った。アーチは血の気が薄れた頬に、対照的な苦笑を押し上げた。
「素直にオレに惚れた、と言えよ」
「期待などしてないクセに」
 ミスティは目の前の、緑色した形良い瞳を穴が開くほど見詰めた。
「アナタは私にそんな言葉は期待してない。いえ、私だけじゃなくて他の誰にだって。いつもよ」
「期待してない振りをしてるだけかも知れないぜ」
「そうかしら。本当の事を言いなさいよ。…怖いと感じるの?他人に期待されたり愛される事が」
 次の句を言い掛けたミスティの両頬を、アーチは摘んだ。
「それは何時ぞやの仕返しかい、お嬢さん」
「何時ぞやって。ああ、砂漠の事?忘れちゃいないけど、今更…」
「じゃあ、素直に言えよ」
「イヤと言ったらイヤ。しつこいわね」
 何だか巧く総ての答えをはぐらかされたような気がしたものの、ミスティは不快な気分にならなかった。万事が万事この調子で上手(うわて)を行かれるのは、少々癪に障るけど。
「言うまで、こうしてやる」
「ああん」
 またぞろ呼吸を荒くしながら、ミスティは両手でシーツの端を強く掴んだ。
「…ねぇ」
 ふとミスティは、身を捩った。固く凝固(しこ)った乳房が重たげに離れた。窓の外が騒がしい。
「聞こえる?」
「聞こえますとも。やらしいんだから、もう」
「何勘違いしてるの?…あっ。駄目。通りにあんなに人が」
 大通りに、数十人という人間の塊が見えた。何やら揉めている様子だ。ミスティは、窓に縋った。
「あ。ケンカが始まったわよ。あれ…ネッロじゃない?ウスラでぶと鶏ガラ野郎と、大男もいるわ。頭突き食らわされて、殴られてるわよ、あのでぶ」
「見えませんて、おねえさん。それより、動かないでくれ、いや動いてくれ。あのー、横にじゃなくて、上下に。うーん、もっと」
「はいはい。あら、逃げたわよ、ネッロ。腰抜け××野郎ね。あ!やだ、こっちに来るわよ」
「はぁ?」
 
 でぶは、意気揚揚と先頭を歩いていた。その後を、何時もの様にやせと肉が付き従う。
 まさか、この通りをこんな風にして歩くとは思っていなかった。ネッロは憮然とした表情で、三人組と、その他大勢の男たちに囲まれていた。
 両手には手錠。無論、S&WM19は取り上げられている。
 そもそもは、あんなだらしない警官なんぞに手を上げた自分が悪い事は、ネッロ自身百も承知だ。だが、後悔先に立たず。
 今更うだうだ考えるまい。
 只、一つの懸念は。
「ちょおっと待てよ!あんだよ、この手錠はァ!?」
「容疑者に填める物だ」
 でぶは、いけしゃあしゃあとのたまった。ネッロは見境が付かないくらい頭にきていたので、唇を噛んでしまい、口腔が血だらけになった。
「オレが容疑者だなんて、証拠もないクセに!」
 二の句を継ぐ前に、ネッロは床に這い蹲っていた。肉の膝蹴りが鳩尾に命中していたからだ。吐く物も無くなって、ネッロは涎を垂らしながら、躙り起きた。
「証拠?そんなモン。これから作るんだよ!なぁ、兄弟?」
「ひゃひゃひゃ」
 三人組の気違いじみた笑声が、まだ頭の中をがんがん響いていた。眼窩で目玉が踊っているような気分だった。
 ハメられたと気付いた時には、既に遅いのだ。不幸にも、ネッロはそこのところが極めて甘かった。
 唯一の懸念。試合に出られなくなるように、三人組が仕組んだ罠だったのだろう。
 少なくとも、取調べを受けている拘留中三日間は、ブタ箱で臭い飯を食わないといけない。
 三日間。
 呪わしい限りの、この運命はネッロが自ら手元に引き寄せた最悪のカードだ。
「ちくしょう!」
 ネッロは一か八か試してみる事に賭けた。表通りには、既に幾人かの野次馬達が出現していた。
 靴先で石を蹴る。蹴り上げられた石は、肉の巨大な臀部にぶつかって呆気なく落ちた。それを何度か繰返す。子供の時によく遊んだフットボールの要領で。
 周りの男達に気付かれないように、素早く。
「……?」
 何だか尻のあたりがムズ痒いと感じ出した肉男は、ちらちらと振り返った。だが、ネッロは相変わらず上目遣いにどんよりとした表情で歩いている。
 肉は、ネッロを通り越して、後の男達を睨んだ。
 男達は、互いに顔を見合わせ、首を振る。
「貴様ら何フザケてる?」
「え?なっ、何にも」
「なあ」
 でぶが声を聞き付け、振り返った。
「どうした…うぐっ!」
 やせと肉の間を潜って、ネッロは走り出した。猛然とタックルを掛けてくる肉男を振り切って、ネッロはでぶに頭突きを食らわした。
「てえい!」
「おごっ」
 でぶ倒れる。反射神経が鈍っているので、即座に立ち上がることが出来ないでぶを、やせが抱え起こそうとした。そこを、Uターンしたネッロが、手錠を付けたままの拳でガンガンに殴る。でぶは、後頭部から血を噴出した。
「ざまみやがれ!」
 でぶを突き放して、ネッロを追おうとするやせと、肉が絡み合った。
 ネッロは、一瞬の隙を突いて通りを横切った。
「…ぬぬぬぬうううう!」
 でぶは漸く立ち上がった。血を噴く頭を押さえながら、たじたじとなっている男達をぎっ、と睨み付けた。
「追え!ネッロの腐れ××チン野郎を追うんだぁ!捕まえたヤツには、バランサー様からの恩賞があるぞ!」
 と、でぶは何処までが真実なのか知れない檄を飛ばし、男達を嗾けた。さて、追われるネッロはと言えば、逃げ足の素早さで、既に一行から数十メートルは遠ざかっていた。
「とはいうものの、丸腰じゃあなぁ」
 ネッロは商店を横目で見ながら、走った。
 野次馬達を掻い潜り、《虹の掛け橋亭》迄辿り付いた時、ネッロの前に東洋系の小男が立ちはだかった。
「どいてくれ!」
「何だか事情は知らないが、助太刀するぞ!」
 ソーシー・スーは豪気に言い放った。ネッロはあからさまに怪訝な表情になった。こんなチビ助が、大の男数十人に何が出来るというのだ。
 だが、ソーシー・スーは、にんまりと余裕の笑みを見せた。背中に背負ったライフルケースを外すや、巨大なマシンガンが飛び出す。
 《MG42タイプ・ドッペルトロンメル・マガツィーン》。全長120cm、鞍型マガジン搭載のマキシム・マシンガン。
「出た!フォーティファイド殺し!」
 見ていたジンが、ドアから飛び出した。大慌てで、ソーシー・スーの両腕を押さえる。
「お前、そんなモン使うな!」
「あの人数を、一々リヴォルヴァーで撃ってたらキリがないよ!」
「無茶苦茶な!お前は手段を選ばねえのか?くそう、パウダーガン使いの風上にもおけねえ!」
「今更パウダーガン使いの美学など、語っても仕方ないじゃん」
「何おう?オレに殺られたいのか手前ェ!?」
「サンチャゴ・エル・ブランコでの勝負は、まだついちゃいねえ。今こそカタ着けてやる!」
 などと言い合ってている内に、巨漢肉男とやせが凶器を振り回して怒涛のように攻め寄せて来た。
「やべ」
 ネッロは、一目散に背中を向けて逃げ出した。卑怯と罵られようが、三日後の試合に出られないよりは、マシだ。
「くぉの野郎ぉおお」
 やせが、似つかわしくない大声を上げてソーシー・スーに切り掛かった。

 ネッロが思わず飛び込んだのは、純然たる宿だった。連れ込みなどではない。真っ当な。
 理由はよく判らないが、商店だと商品が置いてあって危険だと直感したのだ。フロントの女将が、瞠目した。
「あらま」
「悪ィな女将さん。ちょいと野暮用で!」
 ネッロは、手錠を填められた両手を挙げた。少しばかり時間稼ぎして出ようと目論んだ訳だったが。
 どだだだだだ。
 階段を駆け上がり四つしかない部屋の、一番東奥を目指した。そこなら通りの様子も伺える。奴らはその内虱潰しに商店やら民家を探し出す。その隙にとんずらこいてしまえばいいのだ、という算段で。
 ネッロは、バン、と勢い良くドアを蹴った。鍵は掛かっておらず、あっさりと開いた。
「ぎょ」
 思わずネッロは、反射的に回れ右しそうになった。
 だだっ広い部屋に、キングサイズのベッドが一台。その上に若い男女が一組。しかも、どちらも見た顔だ。
「何だ、雑ざりたいのか?それとも女王様プレイか?」
 アーチは憮然とした表情で、ネッロの手錠を見た。
「じょ、女王様?」
 今更驚く歳でもないのだが。驚く事でもないのだが、朝っぱらから刺激的過ぎる。真っ裸で男に馬乗りになった女巡検使の後姿も兎も角、振り向いたときの弄うような色っぽい表情が鮮明に網膜に焼き付いた。ネッロはすっかり、気を殺がれてしまった。
「お取り込み中、すいませんでした!」
 と、貼り付いた表情で背を向けようとしたネッロを、ミスティは呼び止めた。
「こら待て」
「びくっ」
「度胸の無い男ねぇ。こっち向きなさい」
 ネッロはおずおずと、全身を百八十度回転させた。薄目を開けた状態で。
「両腕挙げて!」
 階下で物音がした。女将の短い悲鳴。地響きが伝わって来る。紛れも無い肉の登場だ。ネッロは途端に胃の腑が縮み上がった。逃げ場が無い、という感覚が襲って来る。
「挙げなさい」
 ミスティは、命令した。
「はっ、はいっ!」
 ネッロは言われた通りに両手を挙げた。尤も、片手を挙げろと言われても、この状態では無理だが。
 ミスティは上半身を後ろに倒した。《パイソン・シスタームーン》のトリガーが引かれた。
 キン。手錠を繋いでいた鎖が切れた。
 と、同時に雪崩れ込んできた大男達が、ドアごとネッロを吹っ飛ばす。勿論、銃火器は無しだ。ありったけの力任せ。
「おわ」
 つんのめったネッロは、絨毯目掛けて飛んだ。肉の塊みたいな腕がぬっと伸びて、ネッロの脚を掴んだ。
「ぐ」
 だが、巨漢肉男は、奇声を発して前に倒れた。ネッロはすんでのところで肉の抱擁から免れた。
 乾いた硝煙の臭いが部屋一杯に充満した。《キングコブラ・バニッシュメント》の銃口から立ち昇る、青白い煙が物語っていた。
「ナイス・フォロー。ああやだ、燃えるわぁ」
 ミスティは上体を起こしながら、うっとりと賞賛の言葉を言った。
 アーチは失神したネッロを目の端から追い遣って、ミスティの身体をひっくり返し、組み敷いた。ミスティは両腕を突っ張り、弾力のあるヒップの丸みを、アーチの下腹部に強く押し揉んだ。
「こいつらどうする?」
「そんなの後よ。…まだやめないで」
「…カーカッツォ(くそったれ)!」
 アーチはげっそりとした声で、吐き捨てるように言った。
 まったく、不本意ながら、合体の最中に賊の闖入まで許し、あまつさえ銃を抜いてしまった。どいつもこいつも、馬に蹴られて死ね。

 どっと路面に倒れたのは、東洋人の身体だった。
 ソーシー・スーの胸を踏み躙ったのは、やせの靴底だった。
「ごほごほごほ!」
 血塊を吐きながら、ソーシー・スーはのたうった。やせは、薄刃の光るナイフをためつすがめつ返しながら、ニヤニヤ笑いを浮かべている。
 その後ろから影が覆い被さった。黒い小山のような大男が現れた。光る禿頭。膨らんだ鼻の穴。鷲鼻に反った口髭。
「バランサー」
 固唾を呑んでいたルビィが、呟いた。
「おやおや、皆さん御揃いで」
 バランサーは巨躯に似合わぬ風情で言った。今にも揉み手しそうな雰囲気だ。両手指には豪華な宝石を載せた指輪が光っている。何時見ても、悪趣味だとルビィは思う。
「何の用かしら?」
 ルビィは強張った口調で詰問した。バランサーは、
「お〜や。そんな怖い顔しない方がいいよ、美しいお嬢さん。あんたにゃ用は無い。ワシが用があるのは、ネッロという男だ」
「ネッロに何の用?ネッロなら、何だか知らないけど、殺人容疑を着せられて御縄になりかけてるところよ」
「ははははは」
 バランサーは、奥歯に詰めた金が見えるほど大口を開いて笑った。腹が揺れる。ルビィは、面食らった。
「だからこそ用があるというもんだ。オーナーが居なくなったら、店じまい。という訳で、土地の権利書を拝借に来たという訳でしてなぁ、お嬢さん」
 ひひひひ、とバランサーは自分の鷲鼻を撫でた。ルビィは、覚えず拳を握った。その腕を、ピーチィが抑える。
「まだ犯人だと決まった訳じゃあないわ!」
「ほおう。なら何故逃げたんだろうねぇ?」
 バランサーに寄り添うように、でぶが立ち上がった。でぶは埃塗れで、顔中青タンを作っていたが、例のニヤニヤ笑いは健在だった。
「逃げると言うことは、つまり、犯人だという証拠じゃないか」
「違うわ!ネッロはそんな事しない!」
 ルビィは叫んだ。
「人は見掛けに拠らぬものだよ、お嬢さん」
「幼馴染の私が言うのよ!絶対にそんな事する人間じゃない!」
 あはははは、とバランサーが笑ったのを筆頭に、でぶとやせが笑い出した。哄笑が響く中、ジンもソーシー・スーも茫然とでくの坊みたいに突っ立っているしか術が無かった。
「やかましい、スケベハゲ!」
 乾き切った昼下がりの空気を裂いたのは、女のハスキー・ヴォイスだった。
 振り返る一同。
「あやや」
 バランサーは、覚えず鼻の下に手を遣った。
 宿屋の玄関から出て来たのは、ミスティ・サファイアだった。素っ裸にシーツをぐるぐるに巻き付けただけの格好で。両手には、ネッロと肉男をそれぞれ引き摺っている。
 シーツの下は、生まれたまんまの真っ裸なのだ。無理無理に押し潰されたあの豊かな胸の谷間。長く伸びた小麦色の脚線美。上気した頬。乱れた長いブルネットが首筋に、頬に艶めかしく貼り付いている。
「お、親方。鼻、鼻。鼻血」
 でぶがハンカチを素早く出す。バランサーの押さえた右手から、鮮血が滴っていた。
「す、すまん。つい…」
「親方も若いですなぁ」
 でぶとやせが含み笑いを作ったのは別として、ミスティは毅然とした口調で気絶したネッロの襟首を掴み、上体を起こした。
「本人に聞くのが最も正しい方法だわ」
 でぶが目を細めた。
「ありがとよ。何処の誰だか知らないが、気前の良いお嬢さん」
 と、ネッロに駆け寄る。ミスティは、でぶの短い脚にすかさず蹴りを入れた。声も無く、でぶは引っ繰り返り、もんどり打った。
「薄汚れた手で触るな。アナタ達には渡さない。れっきとした警察に尋問して貰うとするわ。それまで駐在所で預かって貰う」
 ミスティは言った。皆が、ぽかんと口を開けているのなど目に入っていない様子で。
「このアマ!何の特権があってフザケた事抜かす!?」
 やせがミスティの胸倉を掴もうと、飛び掛った。すんでのところで、バランサーがやせの服をぐい、と引っ張った。
「おうわ」
 やせは、つんのめって倒れた。
「バカ者!この御方はヴァティカン特務巡検使サマだぞ!なんちゅう無礼を働くかぁ」
「ひええええ」
「かぁーっ!」
 ごんごんと、バランサーの鉄拳がでぶとやせの後頭部に命中した。二人は、くるくると五、六回った後、路面に思い切り口付けした。
「ねっ?ミスティ様」
 バランサーは、巨漢に全く似合わない可愛げな口調で言った。片足まで上げている。
「おえ」
 その場に会した者は、皆異口同音にげっぷした。


第三章(2)に続く

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