第十六話
 〜嘆きのカルヴァドス Il fucile disperazione in spalla
(後編)


 第四章  墓標はいらない GREET ONE ANOTHER WITH A HOLY KISS 

(2)

 昨晩は、緊張の余り眠ったか眠ってないのか定かではない。ルビィは、焦点の定まらない双眸で、通りを見た。
 キューブ・ザ・フラミンゴとジン・スティンガーが対峙する通りの中程からは、数十メートルは離れた場所だ。《虹の架け橋亭》から、数メートル。
「もっと近くへ行けへんの?」
 と、訊くピーチィに、ルビィは首を強く振った。
「ここだって十分見えるわ」
「強がり言うて、ホンマは怖いんちゃうの?」
 ピーチィはルビィの腕を取った。
「そんなことないわよ!」
 ルビィはきっ、と通りを見据えた。ジンとフラミンゴは既に背中合わせになっていた。ルビィの胸の鼓動が早まる。
「行き掛かりとはいえ、ネッロの代わりに出ろ、なんて言ったのは私よ。もし、ジンに何かあったら私の所為だわ。怖くないなんて言えば、嘘になるかも知れないけど、そうじゃないの」
 ルビィは独り言のように言った。
 怖いのではない。痛いのだ。総ては、それを大いなる自己発現という心理学者もいるが、好意を持った相手が己に起因して何らかの危害を加えられるとなると、自然と感情は揺れるものだ。
 神に祈るという行為が逃避行動だというなら、言えばいい。ルビィは、自分の胸に手を当てた。心臓の音は加速する。
「大丈夫やって」
 ピーチィは、眉を顰めて言った。
「アイツ、普段はヘタレやけど本番に強いし」
 カウントが始まった。
「10」
 意外に大きな声が、ソーシー・スーの口から発せられた。腹式呼吸で声を出しているらしい。
 ジン、フラミンゴの両者が一歩進んだ。
「9」
 ルビィは思わず前に進んだ。だが、人垣が邪魔で、躓く。誰もが固唾を呑んで動かない。天空は青いが、空気は決して爽やかでは無かった。じっとりと汗ばむような湿った空気が周囲を支配していた。
「8」
 ここで、漸く両者の歩幅に開きが生じてきた。ガタイが違う為に、コンパスも随分と違っている。トータルして、歩幅の違いが試合を左右することは滅多に無い。寧ろ、無理しないことが有利を導く手立てだということは、パウダーガン使いの誰もが承知の事だ。
「7」
 ソーシー・スーは己の声が、別人のもののように聞こえるのを感じていた。丹田という下腹部のツボに意識を集中していたが、まるで体と精神が分離していくようだ。
「6」
 ミスティ・サファイアの視界は開けた。目の前には、ソーシー・スーの姿が何の遮蔽物も無く見えた。両腰に手をあてがい、瞳だけでジンとフラミンゴの姿を追う。
 ここにはいない男の事を考えてしまった。ほんの瞬間だが。ミスティだけが知っている。あの男の居場所は。
「5」
 大勢の息を吐く音が聞こえた。ピーチィは、きりきりと痛む胃の存在を感じた。少女の見詰める物は、空虚な地面ではなく、ジン・スティンガーの姿だった。怖いというよりは、嘘みたいに感じられた。
「4」
 キューブ・ザ・フラミンゴは、風の流れを読んでいた。僅かに流れる空気の渦は、確かに己にとってはアゲインスト。しかし、この陽気、やや湿気を含んだ気温では然程の留意点にもならない。空は雲が活発に動き出していた。後小一時間もすれば、通り雨でも来るだろう。
 それにしても、《神の銃》と謳われる《ブラックホーク・ディオファイア》を持つ男と対峙する。その歓びが、感情をもを凌駕していた。
 僅か5カウントの間に、身体を巡る血潮は沸騰寸前に熱くなっていた。
「3」
 ルビィは、目の前が白くなった。息が詰まりそうだ。その、ルビィの身体を押し退けて、誰かが人垣へ飛び込んだ。後姿を見て、ルビィは眩暈を感じた。
「2」
 ソーシー・スーは、汗ばんだ額を拭いたいと感じた。だが、飽く迄カウントする自分の声は冷静だった。目の端に、人だかりが崩れる光景が走った。
「1」
 いつものようにやれば万事OKだ。
 頭の片隅で師匠の声が聞こえる。振り返る前に腕を動かしたら反則。だが、イメージは既にパウダーガンを握っている事。利き手は常に自由で、柔軟である。自分がパウダーガンを抜くのではなく、引き寄せられる感じが大切だ。吸い付くグリップ。ハンマーを落とす親指は、関節が外れると思うほど柔らかい筈だ。トリガーを弾く人差し指は、その動作に連動している。総ては、銃に導かれる一連の動作として、認識した筈だ。
 思った通りに動けば、何も懼れる必要は無い。
 ジンは、踵を返した。
 カウントの間に、脳裏で繰り返したファスト・ドロウをそっくりそのまま再現してしまえばいい。
 銃声が重なった。
 殆ど同時にしか聞こえなかっただろう。
 《レッドホーク・レイジングソウル》の放つ、著しく重い音。そして、《ブラックホーク・ディオファイア》のファントム弾の音。
 空が動いた。灰色の雲が、まるで轟音に刺激されたかのように俄かに活発に動き苦しみだした。
「お…」
 最初に声を発したのは、カウントしていたソーシー・スーだった。
 ジンは、パウダーガンを地面に垂直に掲げたまま直立していた。フラミンゴも、まったく同じと言って過言ない姿勢だった。
 そして、両者のちょうど真ん中に男が一人。
「エンリケ!」
 叫んだのは、ルビィだった。ルビィは、人ごみを掻き分けて、ソーシー・スーの真横まで飛び出した。だが、それ以上進めなかった。
 エンリケは、ルビィに腕を向けた。来るな、の合図だった。
 呆然とする試合の当事者を置いて、エンリケは苦笑を押し上げた。その脇腹から、つっ、と赤い血が流れ落ちる。何れのものとも知れないが、パウダーガンの弾がエンリケの身体にめり込んでいた。貫通はしていない。お互いに貫通弾は使用していない。本気だからだ。
「…どういう事かしら?」
 ミスティ・サファイアは腰に手をあてがったまま、低く呟いた。エンリケの土気色した顔を睥睨する。とても容赦ないジャッジの表情だ。すんでのところで、《パイソン・シスタームーン》を抜かなかっただけでもマシだ。
「試合妨害とみなしていいのね?」
「そうなるだろうな、お嬢さん」
 エンリケは、不適な笑みを浮かべた。深手を負いながら、しかも病に伏していたというのに何という体力だろう。いや、精神力というべきか。
 ミスティは、背筋が冷たくなった。何処か冷え切った心を増幅させる中年男の表情は、如何にも只者ではない。それこそ、キューブ・ザ・フラミンゴに感じた威圧感の比ではない。もっと重厚で、ミスティには息苦しくさえ感じられる笑みだった。
「そう。アナタもパウダーガン使いという訳ね」
 ミスティは、言った。左手は既に反射的にホルスターに掛けられていたが、ふと思い留まった。
「察しが早いじゃねえか。伊達にガンベルト提げてるわけじゃねえようだ」
「試合に関わりがない場合は、撃つわよ」
「という訳だ」
 エンリケは、唖然となった一同に向かって声を張り上げた。
「フリオ・ガルゴール・フラミンゴ」
 エンリケは振り返った。フラミンゴは、依然として冷静を保った顔付きを崩していなかった。それは、ジンも同じだったが、それとは格段にレベルが違うものだ。《銃聖》の名を関する大男は、これくらいの事で己を失うことは無い。
「久しぶりだな。オレを忘れちゃいねえかい?」
 エンリケは、着の身着のままで出て来たので薄着だったが、ズボンのベルトに挟んだパウダーガンと思しき物のグリップを握った。
 銀色のシングル・アクション・アーミーが現れた。もうかなり年代を経て、銀色は渋味を持ったマルメロのような鈍い光沢を見せていた。
 グリップは黒檀色だ。
「まさか」
 ジンはサングラスを取り去った。色彩は明らかになる。だが、俄かには信じ難い事実だった。
 S&Wモデル二九。
 師匠ジャバー・ウォックが愛用していた物と同じパウダーガン。

 暗緑色の低い峰が連なっている。湿地帯を抜けると、黒い荒野が広がっていた。記憶の中の色彩ほど、曖昧な物は無い。
 人間の視界で得られるものは、聴覚・嗅覚の数段劣る情報量だという。
 最も強烈に覚えているのは、やはり硝煙のにおいだろうか。きな臭いと一言で言ってしまえるような簡単なものではなかった。早朝の重い空気と相俟って、微かに金属臭を鼻腔に留めた臭いは、忘れ難いものだった。血の臭いと同様に。
 銃声など、はかない。小鳥の囀り以上に脆くか弱いものに聞こえた。
 刮目すべきは、ファントムと呼ばれるカスール弾の威力ではなく、そこに堂々と命を燃やしている男の存在だった。
「覚えている」
 キューブ・ザ・フラミンゴは言った。
「忘れるわけがないだろう。私の右腿に食い込んだ牙のような弾丸一発」
 重々しい声だった。まさか、軽くいなして見せるとは、そこに居合わせた誰もが想像しなかっただろうが。
「ジャバー・ウォック!」
 キューブ・ザ・フラミンゴは吼えた。怒りの為にではない。百獣の王が相応な敵を見出した時のように。
 ジン・スティンガーの心臓は、みるみる熱くなった。早鐘どころではない。
 脈が乱れる。血液は沸騰寸前になり、頭がぼうっとなった。
 S&Wモデル二九は、何度見てもS&Wモデル二九。そして、それを握り閉めた男の痩躯も変わりない。
「し…」
 ジンは、思わず喉から迸る激情を呑み込んだ。
 何故なら、エンリケはジンに向かって笑ったからだ。頬に皺が浮かんでいた。顔色は黄色く濁っていたが、澄み切った表情だった。
 確かに、ジンは見た。エンリケの顔は、記憶の中の師匠とは違う。整形したにせよ、数年の有余る労苦が別人のように老けさせたにせよ、それはパウダーガン使いのもの以外の何者でもない。
 だが、灰色の瞳だけは、あの時と変わりなかった。
 初めてジンにパウダーガンを握らせて、笑った時のあの男のものと。
 見間違いでもいい。同姓同名の別人でもいい。今現在ジンにとってのエンリケは、師匠そのものだった。
「オレも覚えている」
 エンリケは言った。S&Wモデル二九を掲げた。
「オレがこいつを封印する切っ掛けを与えてくれたパウダーガン使いの名を、忘れるわけがなかろう」
 ふ、とフラミンゴは苦笑いを見せた。
「光栄の極みというべきだな。伝説のパウダーガン使いだったあんたを、この私が引退させたというのなら」
「切っ掛けに過ぎんがな」
 エンリケは、スタンスを開いて立った。《虹の架け橋亭》のカウンターにいるエンリケとは、別人の趣だった。
 まだ少年だったジンは、何も知らなかった。エンリケ、いやジャバー・ウォックが賞金稼ぎである以上、リスクを背負って生きているのは当然だが、まさかフラミンゴとの勝負が切っ掛けで姿を眩ましたとは。
 ならば、とジンは拳を握った。
「試合の邪魔をするなよ、おっさん。怪我してるじゃねえか」
 ジンに言えたのは、そこまでだった。
「お前さんはここの住人じゃない。ネッロが出られないのなら、オレが代わりに出るまでだ」
 エンリケは、ジンの方を見ないで言った。
「その身体でか?病人だってのに、痩せ我慢しやがって」
「痩せ我慢はお前さんの方だろう?」
 エンリケは、ジンに一瞥をくれた。
「引き金を引くまで、心臓が口から飛び出そうに躍ってた。カウントが永遠に終わらなければいいと思った。脂汗でグリップが滑る。昨夜は充分にガンオイルを仕込んだ。シリンダーの回転も具合いい。だが、釈然としねえ。親指がうまくハンマーを弾けなかったらどうする?死んだらどうする?・・・だろ?」
「そんな事考えるもんか」
 ジンは、思わずかっとなった。
「考えなくても、身体がそうなんだ。それで悪いかよ?」
 いや、とエンリケは微かに首を振った。
「己がパウダーガンを操ろうと思ったら、呑み込まれる。身体が感じるままに動けばいい。結果はついてくる。…どうだい?何なら今すぐオレの腹掻っ捌いてどちらの弾丸がはまってるか比べようか?勝負はそれで終わりだ」
 ジンは、押し黙った。自分の右手に握り締めたままの《ブラックホーク・ディオファイア》を、一瞬見詰めた。
「そんな味気ない勝負が無効だと思うなら、今一度このおっさんにこいつを握らせてくれねえか」
 エンリケは、ミスティ・サファイアの顔を見た。ミスティは、険しい翳りを眉の間に作っていた。

「私は認めないわよ」
 ミスティは、《パイソン・シスタームーン》の銃口を上げた。
「そもそも試合妨害の上、結果は無効。再度日を改めてやり直し、と言いたいところだけど、恐らくは二度と試合を執行する機会はないと思うわ。已む無きが上の試合妨害ではなく、人災というべきね、これは」
 人だかりが揺れた。試合の再執行がない、という言葉に皆動揺を隠し切れない。ミスティの判断に野次を飛ばす者もいる。
「汚えぞ、ネエチャン。そんなんありかよ」
「お偉方ってのはそうやっていつも上から物を言うんだよな!」
「ひでえ、わざと妨害させて無効にしたんじゃねえのか?」
「そうだそうだー!」
 無効になれば、当然アウト・ストラーダの建設も現行通りの執行と相成る。恵比須顔なのは、バランサーのハゲオヤジだけだ。
 ミスティは、立腹と焦慮が複雑に入り混じった思考の中で、飽く迄住民に期待を抱かせるような答えだけは出すまいと決めていた。期待など、法の上では何の慰めにもならない。むしろ、それが却って住民を傷付けてしまうのなら。
「やめろってんだ!」
 怒鳴ったのは、ジンだった。ミスティを庇ったつもりは無い。
「何ぬかす!余所者のクセに」
 人だかりから声が上がった。
「何おう!?」
 ジンは、震える拳を爪が立つほど握り締めた。
「ざけんな!その余所者についさっきまで町の命運を掛けてたのは、どこのどいつだってんだ。どの面提げてそんな事言えるってんだよ!」
 ジンは、人だかりに向かって歩き出した。その腕を、ミスティの右手が掴んだ。
「よしなさい。そういうものよ、ディアスポラの人間て」
 青い瞳の放つ光が、ジンの黒瞳を射た。
「んなわけねえ。あんたは慣れっこだか知らねえが、オレは・・・」
 言い掛けて、またもジンは止めた。既に、試合は終わっていたが、終わらない男の決闘は始まっていた。
 キューブ・ザ・フラミンゴとエンリケは、向き合っていなかった。もう二人は背を向け、一歩ずつ踏み出していた。エンリケが押さえた腹部から、血が滴っている。糸のように細く。地面に流れる赤い滴が、確実にエンリケの体力を奪っている。
「止めて!」
 ミスティは、ジンの腕を突き放した。
 ジンはだが、直ぐに動かなかった。《ブラックホーク》を握った右手が、鉛の塊のように重く感じられた。
「何をしてるの!?」
 ミスティは《パイソン・シスタームーン》のトリガーに指を掛けた。だが、ミスティの左腕はそれ以上動かなかった。強い力で、左手首が何者かに掌握されていた。
 振り返ったミスティのテンガロン・ハットが落ちる。
 流れ落ちたブルネットが邪魔をして、一瞬視界が揺らいだ。ジンはいなかった。何処から現れたものか、白衣姿のアーチレリー・ブールヴァルドだった。ミスティの左手は、男の長い手指に完全に縛められていた。
「何するの!?検死は終わったの?」
 ミスティは声を裏返らせた。アーチは、静かに答えた。
「ああ。野暮はよせよ。オレ達が首を突っ込んでいい事じゃあない」
「間違ってるわ。エンリケは瀕死よ。何の為にわざわざこれ以上、死に近付こうととするの?」
「生きるためさ」
 アーチは、さらりと言った。
「言うじゃないか。『良く死ぬ為には、良く生きなければならない』」
「この期に及んで馬鹿げてるわ、止めてよ!」
「止めない事が、オレ達に出来る唯一の事だな」
「この人非人!」
「いで!」
 げし、とミスティのブーツの先ががアーチの向こう脛を蹴った。
「生きるか死ぬかを選択出来るのは、他人じゃない。エンリケはエンリケ自身だ。キミはキミ自身だ」
 アーチは、食い入るようにミスティの瞳を険しく見た。
 その瞳が問い掛けた。
「エンリケはキミには無縁だぞ?」
「ジンの師匠なんでしょう?見れば判るわ」
 ミスティは小声で低く言った。流石に、アーチは即答出来なかった。
「…師匠を目の前で亡くすのがどんなに辛い事か、私には判る」
 ミスティは唇を噛んだ。その脳裏を占めているのは、彼女がパウダーガンを師事した男キャプテン・ブラッドだった。
「痛いわ、放して」
 ミスティは顔を顰めた。左手が痺れてきた。血の気が無くなっている。強化人間にまともに力を入れられると、骨折を免れない。アーチはそう言われて、ミスティの左手首を解放した。我知らず、力が籠もっていたようだ。
 すかさず、ミスティは右手に《パイソン・シスタームーン》を持ち替えると、アーチの眼前に銃口を突き付けた。思わず両手を挙げるアーチ。
「冗談なんかじゃないわよ」
「オレを撃つのか?」
 ミスティは黙ってトリガーを引いた。鈍い着弾音がした。俄かに割れた人垣の中に、アーチは辛うじて立っていた。
「公務執行妨害よ」
 短い答えが女巡検使の唇から洩れた。唇は微かに皮肉な笑みを作っていたが、瞳は震えていた。
「アナタは呆れ果てた大バカ者だわ」
「…う」
 アーチは、地面に赤いものが混じった唾を吐いた。357マグナム弾は、貫通していない。恐らくは右第十一肋骨を砕いた筈だと、アーチは己の胸を探ってみた。撃たれ慣れるのも程ほどにしたいが、今の一発はかなり痛かった。
「あ、兄貴ィ」
 駆け寄るソーシー・スー。
 アーチは、地面に両膝をついた。
「…バカ。私を愛するなんて、ホントにバカね」
 ミスティは振り返らなかった。
 それは、誰にも今の表情を悟られたくなかったからだった。

 ドアが開いた。
「出ろ」
 短い言葉で促され、ネッロはのろのろと腰を上げた。警官は相変わらず居丈高な口調で、ネッロに一瞥をくれただけだった。
 薄暗い視界が開けた。ネッロはぼこぼこに穴の開いた独房から一歩、出たのだ。ネッロは言われるままに面会室へ連れて行かれた。といっても、小さい駐在所のことなので、面会室も取調室も同じだ。
「よう」
 白衣の男が立っていた。アーチは、いつもと変わらぬ飄々とした顔付きで、ネッロを見た。ネッロはあからさまに嫌な顔をした。
「死体の身元が知れたんでな。ベネチオ・アンドレッティ。当時三十五歳。身分はヴァティカン国土省建設庁配属の地方駐留員。独身」
「それがどうした?」
 ネッロは苛々をぶつけるように応えた。だが、アーチは淡々といつもの調子で続けた。
「アンドレッティの検死を改めて行ったが、身体の各部の骨が複雑骨折していてね。どうやら、ちょっとやそっと殴っただけではこうはならなだろうって。殴殺と一言では言い難いんだな」
「だからそれがどうしたって?」
「特殊な機械を使うとか。例えば、砕岩機のような物だとか、そういう機械があるのって、この町では極めて稀少だよなァ」
 アーチは、検死結果をプリントアウトしたファイルを自分の膝の上にぽん、と載せた。
「おたくにはそんな機械あった?」
「ドラッグストアにそんなんあるかい」
 ぷい、とそっぽを向き掛けて、ネッロははたと、首を傾げた。
「ソコホレ建設。あそこになら、何だってある!」
「そういう訳で、今バランサー及びあの三人組は任意同行中だ」
 アーチは、ガラス張りの背面を指差した。無愛想な警官に導かれて、ハゲオヤジとでぶ、やせ、肉の三人組が通り掛る。巨漢の身体が小さく見えたのは、気のせいだろうか。
 ネッロに気付いたでぶが、顔を引き攣らせた。
「ザマミロ。べろべろばぁ」
 ネッロは鼻の下に右手親指を当て、侮辱のポーズを示して見せた。悔しがる三人組だが、手も足も出ない。地団駄踏む姿を見て、ネッロははゲラゲラと笑った。
「あんたは取り合えず、釈放だ。まだ疑いは晴れた訳じゃないが」
 アーチは、痛む右腋を押さえながら言った。
「あ。試合は!?」
 ネッロは、電撃が走ったかのように飛び上がった。
「終わった」
「終わったって?」
「無効だ。あんたが出なかったからじゃない」
「え?」
 ネッロは、立ち上がったまま呆然となった。目の前のソファに深く沈んだ男が、別人のように見えた。長い金色の前髪が垂れている。その下の瞳は曇っていた。
 いや、一瞬泣いているのかともネッロは錯覚した。
「ど、どういう事だよ…?」
 アーチは脇腹を押さえたまま、黙っていた。強く押さえてしまったのか、傷口が開いた。生温い液体が滲み出る感覚が、衣服越しに伝わって来た。

 《虹の架け橋亭》に看板が掛かった。「準備中」の看板だ。
 ルビィは、暮れて行く空の下で乾いた通りを見遣った。しみじみと眺める事が出来るようになったのは、何日ぶりだろうか。
 あの時、昼下がりの大路で見たものは何だったのか。
 ルビィは、思わず耳を押さえた。未だに眼底に焼き付いて離れない映像が、彼女の眠りを妨げて数日。生々しい感覚が甦った。
 誰も数えていないのに、何故か二人はほぼ同時に歩を進め、そして振り向いた。
 エンリケと、キューブ・ザ・フラミンゴ。
 痩せこけた顔の中で、灰色の瞳をした両の目だけが、ぎらぎらと輝いていた。
 生きる男の目。決して、死人のような生活を送っていた訳ではないだろう。だが、ルビィの見るエンリケは、いつも何処か本当は違う場所に生きる道を持っている人間ではなかろうかという雰囲気があったのだ。
 背筋が凍った。怖かったが、目を閉じるまいと思った。
 エンリケが握ったS&Wモデル二九が、ファイアした。ルビィは見た。確かに、弾丸はフラミンゴの肩先を跳躍した。殆ど人生で初めてと言っていいほど、ルビィは長時間瞬きもしないでいた。
 ガウン。
 重い、地を這うような轟音が続いた。それは、素人の耳には殆ど一つにしか聞こえなかっただろう。
 エンリケは、これまで七年間というもの、ルビィには見せた事がないような豹変振りで、素早くパウダーガンを抜いた。神業という形容が使い古されて平凡過ぎるというなら、鬼神の業とも言ってよかろう。
 大路は、水を打ったように静まり返っていた。
 ただ、無慈悲なパウダーガンの奏でる叫びだけが、高い空に吸い込まれて行った。
 弾ける血飛沫が、地面を彩った。白いマズル・フラッシュが爆ぜる度、エンリケの肉体は躍った。フラミンゴの頑強な全身は発条(ばね)のように撓った。
 何れが果てるとも知れない血闘は、十二発だけ悪魔の溜息を吐き出せば終わる。
 総てが終わる。
 ジンとルビィは、同時に駆け出した。
 背中から真っ直ぐに倒れたエンリケの身体を、ジンは抱え起こした。
「師匠ォ!!」
 ジンの腕に揺さぶられて、エンリケは薄く目を開いた。タバコの臭いが、漂う息は血の臭いも混じっていた。
「…るせえな、若いの」
「ジャバー・ウォックなんだろ!?」
「違うぜ。…オレはお前さんの師匠、なんかじゃねえ。…」
 エンリケは大きく息を吐いた。口の端から、血が吹き零れた。ルビィは慌てて、エプロンでそれを拭う。
「だって!だってよ、 S&Wモデル二九は!あんたが持ってるパウダーガンは、オレの師匠のもんだ」
 ジンはエンリケの瞳を見た。
 エンリケは、くっく、と腹を鳴らして笑った。
「笑っちゃ駄目」
 と、ルビィがエンリケの胸を押さえる。被弾は一箇所や二箇所ではなかった。ほぼ全弾を、全身に浴びている。
 もしかして、わざとではないかと疑うくらい。いや、そうに違いない。ジンは思った。エンリケはわざわざ《レッドホーク・レイジングソウル》の餌食になりに行ったのだ。
「…そいつぁな。そいつは…拾いもんだ。或る日、行き倒れの賞金稼ぎを見付けた。…汚ねえ成りしてたぜ。髭面の。…そいつが、提げてたんだよ」
「かっぱらったってのか?ひでえ嘘だよ。嘘じゃねえ、見え見えだ」
 ジンは、エンリケの肩を揺すった。エンリケの呼吸は次第に小さくなっていく。
「エンリケ!」
 ルビィは、エンリケの胸に取り縋った。
「なぁ…若いの…。お前ぇ、いい相棒を持ったじゃねえか。オレが保証するぜ…。お前は、正しいんだ…。パ、ウダーガンを撃つ事に恐れを、失くしたら、お仕舞いだ。自惚れは、己を殺す敵…その時が来たら、銃が勝手に手前ェを突き放す、ていうもんだぜ…」
「喋るなよ!」
「突き放される…怖さに背を向けたオレは…負け犬だ。お前は、なるんじゃ…ねえ」
 エンリケの瞼が落ちる。
「…若いの…」
 続きは無かった。
 ルビィの哀号が、真昼の太陽を呪縛した。
 

終章に続く

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