
第十七話
〜アーツ・オブ・カース Il fucile maleddetta 〜
(前編)
ひたすら荒野を行く二人の男がいる。
一人は己の生きる場所を求め、一人は己の死に場所を求めて。
第一章 頻闇に麗しの調べ HER EMINENCE,DEATH
(1)
夜の闇に透明な滴が落ちた。音も無く。雨上がりのむっとする空気が地面の上を這っていた。黒いまでの緑の中を走る、透き通った玉を、少女は見詰めていた。
数マイルも東西に行けば、砂漠と岩石の真っ只中というのに、この町だけは分厚い緑に覆われている。それが、東に横たわる長い山脈の上で大気が堰き止められ、雨雲が発生しやすい地形であることなど、無論少女は知る由もない。あまつさえ古い大地溝帯を北部に控え、断層から染み出した地下水が大いなる恵みをこの町に与えていることも。
たらたら。
雨の滴がしたたる。
夜にピアノを弾くものではない、と母親に窘められていたのに、何故弾いているんだろう。
少女はふと、黒鍵から細い指先を浮かせた。
暗い窓に紫光が走った。一瞬だけ、間をおいて雷鳴が轟く。恐らく町外れの辺りに落ちたようだ。まだ、雨は何処かで続いているらしい。
「ふふ」
少女は、一人北叟笑んだ。黒髪に窓越しの淡い稲妻が移る。鍵盤が躍った。少女の好きなショパンのノクターンが、再び始まる。雨だれに似て、物悲しい調べ。稲光がなければ、何の明かりもない暗い暗い部屋で、少女は一心不乱にピアノを撫でた。そう、見えなくてもこの曲は覚えている。覚えているのはこの曲だけではない。少女が物心もつかない頃からそらで弾ける曲は、いったい幾つあるのだろう。
キッ、と扉が鳴った。
薄明かりが漏れた。黒猫のように音も無く忍び込んだ影が、少女の傍らに佇んでも、演奏は止まなかった。まるで発熱しているように、少女は心で唄っていた。
ポロン。
白鍵に雑音が混じって、漸く少女は手を止めた。バン、と力強い両掌の打撃が、何者かの指先に響いた。
「私が戻るまで大人しくしていなさい、って言ったのに」
女の声は柔らかく、少女の胸に響いた。とても背の高い女だ。差し伸べた腕は長く細く、黒いスゥエーターに包まれていた。とてもいい匂いがする。母親の匂いではない。だが、甘い梔子のような鼻の奥に残る匂い。夏の終わりを思わせる香。
「駄目よ。夜にピアノなんか弾いたら」
女の瞳が動いた。色素の薄い瞳だ。この辺りでは見掛けない。鶴のような細長い首の線がすっきりと見えるのは、女の髪がそう長くはないという証左だ。
「…ママと同じことを言うのね」
「あら、そう」
「ママは、夜にピアノを弾くと、お化けが出るから止しなさいって言うのよ」
少女は物怖じしないで言った。女は微笑んだようだ。暗いので表情は全くわからないが。
「お化けなんて出ないのよ。でも余り良くないわ」
「でも。昼間だって、この頃ママはあたしのピアノを聴いてくれなかった」
少女は上目遣いに、女を見上げた。恨めしいというよりは、冷え切った悲しみを湛えた少女の瞳に、女の白皙が映った。
「『うるさい。頭が痛いからやめて』って言うわ。本当に頭を抱えて、真っ青な顔して部屋に入って来るの。私が止めないと…ぶつの」
「もうお止しなさい」
女は少女の手を取った。少女は逆らうでもなく、従うでもなく、丸椅子を回転させて立った。衣擦れの音のみが、微かに響く。
「もう寝ましょう」
「うん」
少女はこくんと頷いた。
雨垂れは軒下を続いている。灰色の壁を伝って、たらりらと流れる。
女が差し出した右手は白かった。だが、左手は違っていた。掌にべっとりと乗せられた赤黒い色彩。それは、生温かい感覚をまだ残したものだ。つい先刻まで生きていた人間から、搾り取った生命の源。
少女は暗闇で何も見えなかった。だが、自分の肩に置かれたぬらぬらとした感覚が、総毛立たせた。油や塗料ではない。雨の匂いに混じって、吐き気を催すような饐えた臭いが漂う。
少女は、女の両腕に抱かれた。ドアがゆっくりと開く。廊下の足元灯が、部屋に頼りない明かりを差し伸べた。少女は、少し首を傾けて、振り返った。
絨毯の上に、黒い生き物が這っていた。アメーバのように偽足を出して、ちろちろと蠢くその生き物は、人間の血液と思われた。その上に乗っかっているのは、既に息絶えた少女の母親だった物体。
「ひでえ所だな」
開口一番、ジン・スティンガーの言だった。
東西の交通路の要所というのに、ひどく寂れた町だ。
「道標に何て書いてある?」
アーチレリー・ブールヴァルドが言った。風が出てきたようだ。白衣の裾がはためいていた。
ジンは、ペンキが剥げ落ち掛けた標識を見上げた。
「ドロレス・タウン」
答えたのは少女の明るい声だった。ピーチィ・フィズがアーチの顔を見上げる。
夕闇が背中まで迫っていた。町外れの駐輪場にバイクを置いて歩き出してから約十分。何故、目的地までバイクを持ち込まないのか、その理由は後々説明する、とジンは相棒から告げられた。
判然としない心地で、漸く町中に到着したものの、この鬱蒼とした雰囲気はどうしたものかと思う。
人通りはあるが、皆少々あくせくした感は否めない。しかし、活気と呼べるほどのものは無い。
「何食って生きてんだ?この町の連中は」
ジンは思わず溢した。
「サプリメントと野菜だけだ」
意外な答えが、相棒の口から返って来たので、ジンは些か驚いた。
「マジかよ、おい」
「嘘じゃないぜ。この町の住人は、そうだな…ほぼ二十年近く前からそういう食事だ。毎日数十種類というサプリメントを三食と、野菜中心の汁物。究極のダイエット食といってもいいか」
アーチは先頭を歩きながら、淡々と説明した。確かに言われてみれば、通りを歩く人間のうち、誰一人として標準体重を越えていると思しき人間は見当たらない。大抵は、何処の町にも所謂「百貫でぶ」という輩はいそうなものだが。そう見ると、没個性に見えて面白くない訳だ。
些か顔色に精彩が無い人間が多いくらいだが、皆貧血などでフラフラしているでもなく、むしろ早足なのが奇妙に思える。
「サプリメントって、錠剤やらカプセルみたいなんと、スープだけ?信じられへんわ」
ピーチィは言った。
「育ち盛りのウチには到底耐えられへん世界や」
「子供には子供用の食事があるがな」
アーチがそう言った時、三人の間を誰かが割って入った。ひょろりとした姿の若者だった。顔色は土気色で、振り返った両の目は落ち窪み、おどおどとした様子が伺えた。
「う…」
若者は何か言いたげだったが、言葉にならない様子だった。歩行が奇妙である。まるで真昼間から酩酊しているかのように、千鳥足で歩いていく。
「おい、あんた」
「あああううう。…やめてくれ」
若者は、呼び掛けたジンの腕を振り解き、這うようにして地面に転がった。何か喋りかけようとすると、気でも狂ったかのように耳を掻き毟り、小刻みに身体を震わせる。
「何なんだよ、一体。『大丈夫か?』って言おうとしただけだってえのに」
「相手にしたらアカン。只の酔っ払いやん」
ジンに向って、ピーチィは唇を尖らせた。若者は、相変わらず奇妙な格好で歩き出した。やがて見かねた通行人が二人、その手を取って進む。意外に親切な住人もいるのだ、とジンは感心した。
「え?…でも、ちょっと待ってや。まさかウチらもそういうけったいなゴハンしか食べられへんの!?」
ピーチィは、慌ててアーチの腕にしがみ付いた。アーチは、にんまりと笑って答えた。
「見ろよ、この辺に立派なリストランテやトラットリアがあるか?」
「あ、あらへん!」
ピーチィは愕然とした。折角、ここまでの長い旅路を貧相な食事で我慢してきたというのに。ぐりぐりに生クリームのとぐろが巻いた、ポッキーやらウエハースやら乗っかった、パフェが食べたくてしょうがなかったのにだ。
「ああーん。ウチのクリームパフェはぁ!?」
「何だよ、それは」
「そんなモノこの町にあるわけが無い。自分で作ろうにも、まず店に材料を売ってないと思うな」
「何ちゅう町やねん!ここは」
ピーチィは大きな瞳をうるうると潤ませた。
「そういうとこなんだよ、ここは」
アーチは言った。ジンには、その声が酷く冷たいもののように聞こえた。
《コリンズ研究所》と書かれた看板の上には、鴉の糞が山のように盛り上がっていた。皹の入った擦りガラスの扉をノックもなしで、アーチは押し開いた。
薬品臭い空気が忽ち漂った。ピーチィは思わず、顔を顰めた。刺激臭ではないのだが、消毒液の臭いに似ていた。
館内部はといえば、思わず空き巣狙いも躊躇うような散らかりっぷり。
最前から、アーチはまるで勝手知ったるがごとくに、通りをそらで選び、この薄汚い路地裏の朽ちかけた館に真っ直ぐ進んで来た。
「オレの旧知の人間が住んでいる筈だ。くたばってなければな」
そう言われ、ジンもピーチィも全く知らない土地故に、大人しくついて行くしか仕方なかったのである。
元は診療所だったと思われる広い部屋は、がらくた置き場になっていた。アーチは、迷わずそこを突っ切って大股で奥へ奥へと歩いて行った。電灯が一つしかない小暗い廊下に出ると、アーチは右手奥のドアに手を掛けた。ここもノックなしだ。
「ドットーレ・ティクス・コリンズ」
アーチは大声で男の名前を呼んだ。即答はなかった。部屋の中は暗い。微かに明かりが洩れて見えるのだが、眼前には書棚と、無造作に詰まれた標本箱の山が鎮座していて、一歩たりとも進めない。いや、人一人くらいは辛うじて通れそうなのだが、足を踏み入れた途端に大雪崩を起こすのは目に見えていた。
「そこに居るんでしょう?」
何の反応も返って来ない。
「…奥様のチョコレート食べたのは、貴方ですね?」
アーチは、突然におかしなことを口走った。すると、書棚の向こうからどだどだと喧しい音が突然に湧いた。
「私じゃない!私じゃあ!…いっ、いや一個くらいなら食べたけど!」
しゃがれた大声が山の向こうから響いた。アーチが後退すると、どどどど、と標本箱の山が崩壊し始めた。
ガラガラガラガラ。
「うっ。げほげほげほ」
「すげえホコリ…」
咳き込むアーチ達の前に、崩した山の間から男が這い出して来た。
ビン底眼鏡にぼさぼさのごま塩頭、こけた頬のいかにも不健康そうな中年男。男は白衣を着ていた。埃を叩き、きょとんとした顔付きでビン底眼鏡を押し下げる。
意外につぶらな両の瞳が、アーチをまじまじと見た。
「ああ!アーチじゃないか。どうしたんだ、こんな所へ?」
「相変わらず、別れても奥様が怖いんですか?ティクス博士」
アーチは、目を細めた。ティクス・コリンズは赤面して頭をぼりぼりと掻いた。フケがぼろぼろと床に降り注ぐ。
「うひい」
ピーチィは、見ていて鳥肌が立った。
「別れて随分経つってのに、どうもその言葉に弱くてねぇ。『チョコレート』ってあんまし言わないでくれる?今でもどきどきするよ」
「若いなぁ」
アーチは、茶化して言った。ティクスは肩を竦めた。
「あ。十数年ぶりの再会にいきなりで申し訳ないんですけどね。暫く御厄介になりますよ」
「ええ!?」
声を上げたのは、ピーチィだった。その口を、アーチは慌てて手で塞いだ。
冗談じゃない。こんな化け物出そうな倒壊寸前屋敷に、フケ製造機と化した得体の知れない家主。こんなところにうら若い乙女が泊まれるか、とピーチィは必死の抵抗を試みたが、フォーティファイド(強化人間)アーチの前ではあまりにも無力だ。
「むぐぐ」
「何でそのお嬢ちゃんは暴れてるのかな?」
素朴な疑問を発したティクスに、ジンは首を振って見せた。
「こいつ、嬉しいと暴れるクセがあるんです。気にしないで下さい」
「むううううぐぐぐぐ」
何抜かす、ボケ。と言ったつもりのピーチィ。二人して、乙女心を粉砕しようとしている。ピーチィは涙が出てきた。
「ほら。嬉しくて涙が浮かんでる!」
「見ての通り、オレ達長旅の途中なんですよ。てわけで、マトモな食べ物こいつらには出してやって下さい」
ジンとアーチは、漸く数ヶ月ぶりに息の合ったコンビネーションを発揮したようだった。
満天の星が輝いていた。
夜半を過ぎると、俄かに外気温は落ちる。日中は摂氏三十度を下らない気温にも拘らず、現在は恐らく五度を切っているだろう。
小高い丘は無毛の地帯であり、まさしく見張りに適した土地だった。そのごつごつとした岩肌は、空に向かってあからさまな敵意を剥き出しており、腹には見慣れぬ客人(まろうど)を抱えている。
横長に掘られた天然の洞は、焚き火の温もりも手伝って、煌々と明るく暖気に満ちていた。
「…寝ないのか?お嬢さん」
背中越しに言われて、ミスティ・サファイアは首を傾げた。
膝に抱えた毛布に頬を押し付けて、意外なほどに幼い格好でミスティは暖をとっていた。気の置けない相手とはいえ、警戒心が全くないということは無かった。
「オレが寝込みを襲うとでも思ってんの?」
ジョー・クリサンスマムは、あけすけな言葉で言った。デリカシーの無い男だ。ジョーは、湿気たタバコを咥えて寝袋の上に転がっていた。腹の上には、読みもしない祈祷書を置いている。そして、その上に安バーボンの入ったスキットル。
「自惚れなのかしら?それはアナタの」
ミスティは、覚めた目付きでジョーを見遣った。
「冗談に決まってるだろ。神に仕えるこのオレ様が!はっはん」
と、鼻の穴を膨らませるジョー。
大体、そんな気起こしたところでこの女に殴り返されたら、大抵の男は失神するに違いない。
「無理して私の警戒心を解こうとか、リラックスさせようなんて思わないことね」
ミスティは意地悪な言い方をした。
「自意識過剰だよ、お嬢さんそいつは」
「何とでも言いなさいよ。アナタみたいな行き当たりばったりなエージェントと一緒に仕事するなんて、おじさまの命令じゃなきゃ無視してるんだから」
「おじさまねぇ…」
サンチャゴ・エル・ブランコでのヌォーヴォ・ニザリの一件は、飽く迄水面下で処理された。
ヴァティカンの擁する異端審問所の管轄でだ。その事後処理に当たったのは、言うまでも無くたまたま其処に出くわしたというだけのジョー・クリサンスマムだ。続けてジョーは、ヌォーヴォ・ニザリの本拠地であると推測されるアラムートの調査を命じられた。
これも、いわば偶然の産物であって、ジョーにとっては別段嬉しくもない仕事だ。
カスピ海南岸の町アラムート。かつてニザリ教国の城塞であった土地に潜入調査せよ。罷り間違えば、いや、どう考えても単身乗り込むには危険過ぎる任務であることには相違ない。虎穴に入らずんば、というものの酷い虎穴に違いない。
「せめて誰かつけて下さいよぉ」
と、ジョーが懇願した際に返ってきたグレナデン・サフィール枢機卿の返答は、こうだ。
「目の前にいるだろう。姪に聞いてみたらどうだね?今度の一件では随分と、あれも痛い目に遭ってることだし、名誉挽回したかろう」
「おお!物分りの良い上司を頂いて、私も幸せに尽きます」
と、心にも無いお世辞を言ったところで、枢機卿はジョーににんまりと笑って言った。
「あれが承諾するというのなら、の話だが。それ以上は私は不可触だ。管轄が違うのでな」
「…セクト主義」
が、ジョーの念願は叶った。尤も、ミスティ・サファイアにも思うところはあるが。
野宿するのは、数ヶ月ぶりだ。ミスティはぼんやりとした頭で思い返す。《不帰の砂漠》以来だった。あの時ほど苛酷ではない。今回は山場に入るまで、悠々アウト・ストラーダをバイクで越えられた。ここアラムートの北東まで、ジョーと歩いて半日程だった。
だが、あの時ほど高揚した気分ではない。
独りは慣れている。ジョーという賑やかな連れもいる。別段、心細い事は無い筈だ。だが、今ひとつ面白くなかった。理由は判っているのだが、理屈で考えるのと感情とは別物だという事実を突き付けられているのが、面白くない。
沈黙していると、ハイハット・タウンでの出来事が思い出される。
あれ以来、ミスティはこの二週間ばかり愛銃《パイソン・シスタームーン》のグリップを握っていない。アーチレリー・ブールヴァルドに向けて放った357マグナム弾の一発以来だ。
「…バカなのは、私の方だわ」
撃った事に懼れは無い。
だが、もしも次にアーチ本人と顔を合わせたらどうだろう、と思う。ふと考え込んでしまうのだ。
しれっとした調子で「アナタの自業自得よ」と言うことが可能なら、こんなに気持ちが塞ぐことはないのだが。
とても言えそうに無かった。いや、顔も見たくない。見たくない、というのは偽りの心だ。本心はまるで逆なのに。
見たくないのなら、考える必要も無いのだ。だが考えるのは、会った時に何て言おうかということばかりだ。
「『ごめんなさい』…そんな事言えるわけない。第一、任務と言って問答無用に自分を撃った人間を快く思う変人がいると思う?」
でも、あの男なら赦してくれるかも知れない、という淡い希望がミスティの胸中の何処かに潜んでいる。もっと言わねばならない言葉が他にもある筈だが、その言葉を口にするよりは、パウダーガンのトリガーを引く方が遥かに簡単だ。
会わなければ、今耽っている考えも、全くの無駄になるのは判っているが。
「浮かない顔して。気になることがあるんなら、オレに相談しろよ、お嬢さん」
ジョーは生あくびを噛み殺しながら言った。
「アナタに言うことなんか無いわ。エセ神父」
「冷たいなぁ。もしかして、男にフラレたの?」
「うるさいっ」
ミスティは、側に置いてあった薪をジョーの腹に投げ付けた。
「いで。乱暴な女だなぁ、ったく」
ジョーはのそのそと上半身を起こした。
「あんたのようないい女をフル男はロクでもない。いずれ神罰が下るから放って置けよ」
「フラレてなんかないわよ」
「じゃあ、自分からフッたんだろ?図星だろ?」
ジョーはニヤニヤ笑いを浮かべた。ミスティは、むっとなった。図星ではないのだが。
「失礼ね。私は生憎そんな事では悩みませんっ」
「ほお」
ジョーは鼻の穴に小指を突っ込んだ。仮にも女性の前で不躾な振る舞いだが、ミスティは呆れる気さえも失せていた。
「でも、たまには悩んだ方がいいんでないの?」
「どういう意味?」
「いや、別に」
ジョーは鼻の穴から出した小指の先を見詰めた。鼻毛がごっそりと抜け落ちていた。ジョーは、その鼻毛を吹き飛ばした。
「一晩だけや身体だけの付き合いはラクかも知れんが、気が狂いそうな程、誰かを好きになってみろよ。喩えマトモな人間相手じゃなくてもいいからさ」
「……」
ミスティはジョーから視線を逸らした。何が言いたいのだ。それともカマをかけているつもりか。
「それがあんたを変える」
「変えてどうするの?変わりたくもないわ」
「強情っぱりだな」
ジョーは、再び寝袋の上にごろりと横たわった。
「あんたのそういうところに惚れてんだろうなぁ、あの男も相当変わりモンだから」
ジョーの呟きが果たしてミスティに聞こえたかどうかは、星さえも知らない。
ティクス・コリンズは、パリに在るルイ・パスツール研究所分子細胞生物学生体超高分子分野でナノテクノロジスト(分子工学者)として主任を務めていた、優秀な科学者だった。
ナノテクノロジーは、二十三世紀の今や、チエーロ(上層都市)と呼ばれる人口都市ではごく一般的な科学分野の一として位置づけられている。
「全ての物体は『分子』を最小の単位として成り立っている。人間の肉体も、ここに積まれた本を構成する再々生紙の一枚一枚も、どろどろに溶かして顕微鏡で覗いてみれば判る」
ティクス博士は、ぼりぼり頭を掻きながら言った。
「『分子』の組み換えによってある物体を別の物体に配列しなおすことを『メタモルフォシス』と言って、アルマイト洗面器をポリバケツに変えるという実験から始まった。所謂ライカンスロープみたいな半獣人の研究にも使われたがな」
「アルマイト洗面器をポリバケツに?そんなの出来るのか?」
ジンは徐に疑いを含めた言い方をした。ティクスはあっさりと首を横に振る。
「完全には出来ない。実験環境やら何やら不都合もある。だが、似た分子構造のものや、外傷によって壊れた分子構造を修復するという段階までは現在一般的に使われる程度に進歩した。例えば…」
ティクスは机の上に無造作に置かれていた土鈴を手に取った。カラカラカラカラと、乾いた涼やかな音が響いた。
「この音を聴いて、心が和むかい?」
「…ううん。まあ、何も聞かないよりは」
ジンは答えた。
「『音』はつまり、分子の振動、揺らぎのことなんだ。分子を振動させて我々は声を発生させる。ある特定周波数の音は、分子を特定の運動へと導く。つまり、脳内に発生したノルアドレナリンの分子構造を変化させて、人が感じる緊張やら強い疲労感やらをほぐしている。ということは、既に二十一世紀の段階で知られていたんだが」
「ノルアドレナリン???」
「この人は人為的に分子構造を変化させて、人の外傷や内傷を治癒する方法を研究していたのさ」
そう答えたのは、アーチだった。
最前から、彼等は申し訳程度にソファとテーブルが並んだ客間に佇んでいた。尤も、この部屋も資料と本とであらかた埋め尽くされていたが。
「それが今や『ダイエット博士』だからね」
ティクスは自嘲めいて言った。
「二十年前までは、体重147キロの超巨漢だったからなぁ」
アーチは、ティクスの肩に手を置いた。
「キミもこんなだったじゃないか」
と、ティクスはアーチの腰の辺りに手を伸ばす。
「そうそう。オレが下に立つと、腹がつかえて顔が見えないって」
「幾ら何でもそれは無かったと思うがね?ま、いい。兎に角今から考えると、何であんなに腹が出てたんだろうなぁ」
「仕事の忙しさで、毎日十八時間以上座ったまま宅配ピザとかチョコレートばっか食べてたからだろ?」
「チョコレートって言うな!」
ティクスは、枯れ枝みたいな腕で、アーチの背中をどついた。
「はは。それで、博士はな、ついに奥方から三行半(みくだりはん)を食らってさ。『アナタが痩せるつもりないんでしたら、私にも考えがあります』て、出て行ったんだよ」
「よ、余計なことを」
「離縁されて痩せたのかよ」
ジンは呆れたように言った。
「結果的にはだ。実は、私も日常茶飯事に困ってね。膝にガタが来るし、肝臓フォアグラになるし、不健康なんでここは一つ痩せ薬でも発明しようかと考えてた矢先にだ」
ティクスは、ビン底めがねの下で遠い目をした。が、やにわにめがねがギラリと光った。
「その痩せ薬が『ナノティクス・サプリメント』ってヤツでね。ナイスネーミングだろ?ナノテクノロジーと私のファーストネームをくっつけて。一般的な栄養補助サプリメントに手を加えたものだ。分子構造を変化させるフラボタンパク質を組み込んだ完極の痩せ薬!酵素プロテアソーム活性化ナノティクスが原理だ。タンパク質を含んでいる上に、微量元素やブドウ糖、人間の肉体維持にとってこれ程カンペキな物は他に無い!」
ティクスは熱弁をふるい始めた。
その干からび切ったような細い体に似合わぬ熱気が、白衣の下から満ち溢れる。アーチは、半ば茫然としているジンを見遣った。
「…判ったろ?この町の人間がサプリメントしか食わない理由が」
「ああ」
人間は、それはある程度見目良くいたいと思うものだが、それにしても極端な話だ。
本来、ラテン系民族を中心とするディアスポラの住人が「食べる」行為を楽しまないで、一途に整ったプロポーションだけを追い求めるなんて、馬鹿げた事だとジンは思った。
「見事、私は88キログラムのダイエットに成功した」
「そりゃ、よござんした」
ジンは気のない相槌を打った。興味が無い話題だからだ。
「だが…」
ガタン。ティクスが言い掛けたところ、廊下の奥で大きな物音がした。ジンとアーチは振り返った。
「誰かお客じゃねえのか?またぞろ」
ジンは客間を抜け、廊下へと出た。客室のある廊下の最も奥の非常口が開いていた。思わず小走りに駆け寄って見ると、隙間が開いたドアの下に、紙切れが置かれていた。非常口からは裏庭へ出る事が出来るようだ。
狭い裏庭の柵がキイ、と鳴って男と思しき二つの影が遠ざかって行く様子が見て取れた。
「おい!ドロボーじゃねえのか!?」
振り返ったジンの目の前に、音もなくティクスが立っていた。ジンが拾い上げた紙切れを、奪うようにするりと素早く掌から抜き取った。
「ああ、サプリメントを取りに来た連中だよ。ここの地下室で作って、町の業者に卸してるんだがね。メンドクサイんで、二日に一回取りに来て貰ってるんだ」
「業者ってことは、商売なのか」
「まあ、ほそぼそとだが私も食っていかにゃならん。慰謝料も払わないといけないしなぁ」
ティクスは、苦虫を噛み潰したような顔で言った。紙切れに記された文字を確かめる。どうやらそれは伝票のようだ、とジンは理解した。
「幾らで売ってるのか知らねえが、町の中だけだろ?」
「手広くやれば儲かるだろうなぁ。何しろ、夢の究極ダイエット食品だからな。だが、全くリスクがないとは言い切れないんでね」
ティクスは、途端に自信なさそうな口振りに変わった。
「リスクがあるかも知れないもの売ってて、平気なのかよ?」
「いい気はしない。だから、私自身の体で実験してから特許を取って世に出そうと思ってたのに、町の連中と来たら…」
「卸業者ってのは、どういう連中なんですか?」
と、アーチが興味を示した。ティクスは、再び客間へと二人を引き戻しながら、喋り始めた。
「ヴァレンタインという貿易商の家系があってね。ドロレス・タウンの歴史上関わりがあるという古い家なんだが、其処が町の経済を一手に握っているようなもんだなぁ」
「ふん。何処にでも似た輩はいるもんだ」
ジンは悪口を叩いた。このご時世、無闇な金持ちはろくでもない、という口振りに、ティクスも頷いた。
「取り敢えず、今夜はゆっくりするといい。積もる話もあることだし」
ティクスは、アーチの方を見遣り、そしてジンを見た。ジンは小難しい顔付きをして、腕組みしていた。
「…おっさん」
「は?おっさん?」
「おっさんはあんたしかいねえよ」
「確かに」
「マトモな飯は出るんだろうな?その『ナノティクス・サプリメント』とかいうゲロまずそうなクスリじゃなくて」
ジンは、サングラスを鼻先まで押し下げ、ティクスを睥睨した。死活問題だ。まともな固形物で、味覚に訴える食物が存在するかどうかというのは。その為に此処まで来たのだ。
「ああ。冷蔵庫はあるし、何かあるだろう。私もごくたまーにはそういう物食べてるからな」
「はぁ?」
ジンとアーチは、顔を見合わせた。今ひとつ、いやかなり信用置けないティクスの返答に、二人とも揃って首を傾げた。
第一章(2)に続く
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