第十七話
 〜アーツ・オブ・カース  Il fucile maleddetta 
(前編)


第一章 頻闇に麗しの調べ  HER EMINENCE,DEATH

 (2)

 目を開かなければ。開かなければ、と思うのだが。開けばこれが夢か現実かはたちどころに知れる。
 これはマジックだ。1(ウーノ)、2(ドゥーエ)、3(トレ)で目覚める筈。
 暗い朝。顎鬚のざらざらした肌触りが頬に触れる。
 そして、広がる赤い色彩が、目の前を流れて行った。
「眠い…」
 ジンは尿意を覚えて目覚めた。寝汗を掻いていた。もう、真夜中に汗ばむような季節は越した筈だが、寝しなにしこたま飲んだビールが効いているのだろう。汗が止め処なく噴出して、シーツを湿らせていた。
 ハイハット・タウンの大通りが瞼にくっきりと焼き付いていた。人間、都合の良いように見た物を演出している。いつも思い出してどんよりした気分になるのは、同じ光景ばかりだ。ルビィ・ホワイトの赤く濡れた長い髪。髪に触れた時の甘やかな匂いと、そして対照的な血腥い臭い。硝煙の臭い。
 寝室を出て廊下に佇むと、汗は徐々に引いてきた。
「ぎょ」
 仄かに暗い廊下には、少女の影があった。
「お前か。びっくりさせんなよ」
 ジンはぽりぽりとシャツの下に手を入れて腋下を掻いた。
「…アンタこそ、何で起きとったのん?」
 ピーチィは、黒く濡れた瞳を大きく見開いて言った。廊下の窓からは、月明かりも無い。闇夜に少女の肌は沈んで見えた。パジャマ姿なんぞ、見慣れないものだからジンは不思議な気分になった。
「ションベンに行こうと思ってな。お前もか?」
「ちゃうよ!」
 びしい、とピーチィの平手がジンの右肩に飛んだ。細い体の割には、力があるではないか。
「痛えなあ。もしかしてお前一人でションベンに行くの怖いのか?」
「しつこいわ!アンタとちゃうで」
 答えるピーチィの言葉尻が、頼りなく窄んだ。
「ウチかて、物思いに耽る時もあるやんか。多感な十代なんやもん」
 ぷ、とジンは噴出した。
「多感な十代!ぷぷ…いや、すまねえな」
「笑うな!アンタかて死んだおとーちゃんの事とか考えるやろ?じいは今頃何しとんのかなぁ?とか!」
「そうだなぁ」
 ジンはジーンズの尻ポケットを探った。マルボロは無かった。寝る時にそんな所に入れていないのは当然だ。だが、癖で探ってしまうのだった。
「あ」
 ピーチィは、口をO(オー)の形にしてはっとなった。気付く事があったらしい。急に眉が下がった。
「ごめん。堪忍なぁ。アンタ、大事な人亡くしたばっかやのに…」
「しゃあねえよ」
 ジンは苦笑を浮かべた。笑い皺が目尻に深く浮かぶ。歳を取ったら、きっと皺くちゃになるかもしれないくらいに。
「人間はいつか死ぬ。死なない人間なんていやしない。それが早いか遅いかってだけの違いじゃねえかよ。オレだって、いつ果てるとも知れねえってもんだ」
「せやけど」
「くよくよしたってしょうがないだろ。残った者は、『生きてて良かった』と思える風に生きればいいんだ。死んだ者の事なんか考えてばっかいられるかよ」
 そうは言うが、何処と無くまだ無理をしているのではないか、とピーチィはジンの口調に感じるところがあった。
 まだハイハット・タウンを出立して三週間ばかり。ジャバー・ウォックことエンリケが死んでから、三週間なのだ。肉親であった祖父を亡くして以来、パウダーガン使いとして一人立ちするまで、ジンの唯一無二の保護者といえた人物の死に直面した。容易に割り切れる出来事では無かった筈だ。
 少々の無理は承知だ。だが、却って気を遣うと意固地になる、いつも通りにしてやれ、とピーチィに言ったのは相方のアーチだった。まさしく、その通りだった。
「それよりなぁ」
 ピーチィは、おそるおそる言った。
「ヘンやと思わへん?ウチのこのパジャマ」
「何が?みょーな所に穴でも開いてんのか?男物か?」
「ちゃうよ。これ、子供用やんか。何で、独身の中年男がこんなパジャマ持っとんの?しかもこれピンクのクマさん柄やで。どう思う?」
「どうって…もしかして、ロリコン?」
 ジンは再び噴出した。館の主ティクス・コリンズの容貌を思い浮かべたからだ。ピーチィは、頬をぷくっと膨らませた。
「ロリ好きやったら困るけど。ウチが着た後のパジャマを洗濯しんと置いといたりするわけ?」
「そういう輩もいる。もしかして、そういう連中に売りつけるって手もある。詳しくは相方にでも聞け。アイツはこういうことには詳しい筈だぜ」
「何かちゃうと思うけどなぁ」
 ティクス博士は、見た目変態的趣味を有している風では無かった。いや、見た目の問題ではなく、変人ではあるが変態には思えない。飽く迄それはピーチィの直感であるが。
「子供がいたって事もあるかも知れないけどなぁ」
 ジンは鼻歌混じりにそう言って、ピーチィに背を向けた。そろそろ我慢の限界だった。

「しかし、よく一目でオレだと判りましたね」
 アーチは、静かに言った。ソファに背中を埋めたまま、今は白衣も脱いでネクタイも解いてシャツの胸元を開いている。右手に傾けたタンブラーには、青いウォッカが満ちていた。
 ウォッカは、言及するまでもないが、来客用の飲み物で、専らダイエットと研究に勤しむティクスには無縁の物だった。かれこれ二年は封を開けずに冷凍庫の隅に放置されていた。
 夜の闇は、客間にも浸透していた。
 アーチが違和感を感じたのは、この研究所に入ってから直ぐの事だ。
 ティクスは、本気で不意の来訪者を歓待しているのだろうか。びん底眼鏡の下の瞳は見えない。だが、此処に来なくては始まらないという何かが、アーチの胸中に芽吹いていた。その事実は隠しようが無い。
「そりゃ、余りにも似ているからだ」
 ティクス・コリンズは自分に言い聞かせるように言った。言ってから、ちょっとアーチの顔色を伺うような目付きになった。
「そんなにジイサンに似てますか?元・教皇報道秘書官ガブリエル・ブールヴァルドに」
「…悪いことを言ったかな?」
「隔世遺伝てヤツですよ」
 アーチは、何の感情も込めないで答えた。今更、この男には隠し立ても必要は無いのだが。ティクス自身はジャック・フィリップ・ブールヴァルドの後輩に当たる。ユーロ研にこそ在籍した事は無いが、事実上ジャック・フィリップの助手をつとめたこともあるのだ。
 アーチがフォーティファイド、就中(なかんずく)レミンカイネンと呼ばれる再生促進型強化人間であることは、既知の事だった。
「キミのお父上が亡くなった時、旅先に居てね。訃報を聞いたのは、此処に着いてから暫くしての事だ」
「何方からお聞きになったんですか?」
「ブルーネレスキ博士からだ」
 アーチは、ティクスの表情を見遣りつつ、ヴァティカン科学アカデミー医局長の顔を思い浮かべた。そう言えば、此処のところ音信不通になっている。いや、アーチの方からは何も言うべき成果もないからだ。
「いや実は、キミの事は時々『アカデミー新聞』に載ってるので、知ってたよ」
 ティクスは、紅茶か何かをこぼしたらしい、黄ばんで縮みあがったタブレット版の新聞をアーチに差し出した。
 安っぽい再再々生紙の端に自分の顔写真が映っていることが、アーチにとっては何故か不思議に思われた。数年前にポリオの歴史的推移を書いた小論文の記事だった。
「ゲノム産業に関わるのは御免だ、ということかい?『学際病理学』なんて、生きた化石のような学問を選択するなんて」
「学問に上下も流行もありませんよ。オレはオヤジやジイサンのような才能はありませんからね」
「キミ程の頭脳を持っている人間は、いない筈だがね。私がキミなら、万々歳だぞ。男前で身長があって凡百でない才能もある。天は不公平にも、二物も三物も与える人間には与えるもんだ」
 それは飽く迄オレの場合総て造られたモノですがね、とアーチは言おうとして止めた。
「こんな田舎に引っ込むなんて、正直言って貴方の神経を疑いましたよ」
 と、アーチはさりげなく話題を変えた。
「生粋のパリジャンである貴方が」
「田舎暮らしは憧れだった。どのみちカミサンにも嫌われたことだし、傷心のついでってヤツかな?」
 ティクスは照れ隠しに苦笑して見せた。びん底眼鏡が揺れる。
 アーチは、片頬に微笑を浮かべた。研究者としては兎も角、ティクスに役者としての才能はないようだ、と判断する。
「ところで、『ナノティクス・サプリメント』の原材料っていうのは何なんです?地下は錠剤を製造するだけの空間でしたが…」
 アーチはまたしても話題を変えた。この男が知らず知らずの内に身につけた話術のトリックであることに、対話者は気付かない。対話者は、先の話題に気を取られている内に、いつしかふと現在の質問に本音を零してしまう。
「原材料は培養するだけのものだからな」
「数にしたら相当量でしょう?町の住人が約七千人として、一日三回六錠ずつ飲んでも十二万六千錠。一月で約三十七万八千錠。金の話をするとイヤらしいですが、一錠五ダッシュとしても百八十九万ダッシュ。殆どオレの一年のサラリー以上の稼ぎですよ、数字の上だけでは」
「妥当な数学をするねえ。ほぼその通りだよ」
 ティクスは素直に感心した。
「卸値は七掛けで、減価償却を含めて実利はその三十パーセントとしても、六十三万ダッシュ。高給取りですねえ」
「そうかね?金の事はバンカ・エレットローネ(電子銀行)に一任してるからなあ。慰謝料がまた結構掛かるしな」
 それを差っぴいても余りある儲けだ。幸いというか、不幸というか、ティクスと別れた妻の間には子供は無かった。養育費が不要であれば、たかが科学者の支払う慰謝料など知れている。
 確かに、一人で研究所を維持していくには資金が必要なのだが、それにしてもスタッフはいないし、荒れ放題だ。どう見積もっても『ナノティクス・サプリメント』で得た収入は、泡沫(うたかた)のごとく消えているかのようだ。
 アーチは思った。違和感は続いている。だが、今は余計な詮索は無用だ。

「兄はああいう体だから、強くはないからお前達が護ってやるしかないのよ」
 母の言葉が甦った。
「母さんは、もう戦場には出られない体だからね…」
 母親はそう言って、胸の真ん中に手を当てた。幼い姉妹が顔を見合わせ、互いの手を握り締める。その二人を見詰める母親の瞳は青く澄んで柔らかい光を湛えていた。
「家禁を犯し、女の身で数多の人間を殺すような戦場へ赴き、血塗られたこの体で或る男を愛し、そうしてお前達を産んだ、それが私の今迄」
 白い手が姉妹の肩に伸びた。
「本来ならば兄が家督を継ぎ、私が聖務庁に残るべきものを、総て私の我儘で兄は止むを得ず公務に就いた。その埋め合わせをどうすれば…」
「お母様。私達は決めてるの」
 七つ年上の姉が言った。
「私がおじさまの手足となり、おじさまを護る。マルゴがおじさまの目や耳になって、おじさまの仕事を助けるって」
「おねえちゃまは男の子より強いからね。でも、あたしはおねえちゃまより賢くなるもん」
 おしゃまな妹がはしゃぎながら言った。
「…アルテミス、マルガリータ」
 母親の腕が姉妹をきつく抱き締めた。妹の方は無邪気に母親にしがみついて笑った。
 カルタヘナの片田舎で過ごした記憶は、それより後はミスティには無かった。程無くして、ミスティはローマにある総合軍学校へ入る事になったからだ。フランスで言うところのグランゼコールのような、ヴァティカンに優秀な官僚を送り込む専修学校。ミスティ・サファイアは其処のロー・スクールで学んだ。
 妹マルガリータは、修道院に見習いとして入った。今は教務司教養成学校を出て、何処かの修道院にシスターとして配属されている筈だ。
「母さん」
 ミスティは、喉の奥に引っ掛かる気持ちももどかしく、胸中で言った。
「私の選択は間違っていなかったと、言っていいのかしら?」
 迷いと一括りに言えば、余りにも簡単過ぎる。
「母さんは自身にとって正しい選択をした。そして、私達が生まれた。私はこれまで何の疑問も抱かず、おじさまの股肱となって生きる道を進んで来た筈。それが当然と思っていた。…だけど、見えない」
 ミスティは瞼をきつく閉じた。
「何も見えないわ。おじさまが何をしたいのか、あのひとが私に何を言いたいのか。私は只、黙って何も語らず自分のしたいようにしていてはいけないというの?」
 伯父貴グレナデン・サフィールとは離れて、アーチレリー・ブールヴァルドと顔を合わさないで、この漠然とした想いを整理してみたかった。その為に全然関係のないと思われるジョーと行動を共にしたのだ。
 だが、答えはやはり容易に出て来るものではない。さしもの敏腕特務巡検使と雖も、自己の煩事にはさっぱりお手上げだった。
「特等席って、何の事なのよ。何で私の命が狙われないといけないの?私は枢機卿会になんか入りたくない。それはむしろマルゴの役目でしょう?私はおじさまの事を、この身一つで護ると決めたのよ。おじさまはどうして私に直接何もかも喋らないの。言うこと聞かないから?」
 何度自問自答を繰り返しても、答えはやって来ないと知っている。頭の中は混沌の潮が満ちていた。
「でも、逃げたくない」
 パチ、パチ。炎が弾けていた。
 前髪が熱くなっていた。不意に襲ってきた眠気に、ミスティは心身を委ねたい誘惑に駆られた。何も考えずに眠りたい。
 がさごそと、寝袋が動いた。
 ジョー・クリサンスマムが起き出した。極めてゆっくりと。這うようにして体の向きを変え、ジョーは寝袋の端に置いた《パイソン・ブラザーサン》に手を伸ばした。
 風向きがふらふらと短時間で変わる。焚き火の臭いに混じって、微かに異臭が漂った。それは、香料といって差し支えないだろう。ヨーロッパ人が身につける花の様な甘い匂いではなく、儀式めいた雰囲気の甘さだった。
「…起きてるか?」
 ジョーは擦れ声で問うた。他でもないミスティにである。だが、返答は無かった。
「来るぞ」
 焚き火をいつまでもつけておくのは、誘い水になるやも知れないという算段だった。此処らの地形はこの横穴と同じく、永年で侵食された風穴が多く、奇岩が聳えている。それらにニザリの連中が潜んでい事は充分に予測出来ていた。
「一人二人じゃあないな」
 ジョーは呟いた。《パイソン・ブラザーサン》の弾丸はやはりいつものラウンド・ノーズ(丸頭弾)のまま変えないで置く。殺してしまうと、後々手詰まりだからだ。自惚れではない。スロッピー・ジョー―血塗れジョーの異名は伊達ではないのだ。

 ちぇ、とジンは舌打ちした。咥えているのは湿気たマルボロだった。殆どフィルター部分に近いのだが、まだ捨てられない。
「みみっちい。ええ加減捨てなって」
 ピーチィは言った。少女の目はあからさまな侮蔑に彩られている。だが、ジンはずり落ちるサングラスを押し上げながら、鼻白んだだけだった。
「ふん。結局あそこン家の冷蔵庫はロクな食いモンなかったしな!口寂しいんだよ」
「そういやそうやったなー」
 ピーチィは腰に手を当て、思い浮かべる。
 ティクスの指し示した冷蔵庫には、賞味期限の切れた冷凍保存食品が山程あった。缶詰もだ。サプリメントばかり食べている人間なら、それも珍しい事なのだろう。だが、それは普段熱いものしか食べないジン達にとっては、辛うじて食べ物の域に引っ掛かっているだけの、生理的欲求を満たすだけの、虚しい代物だった。
「ホントに毎日こんなんじゃ、ケツの具合がまた悪くなる。こっそりマトモな食いモン売ってる店とかねえのか?」
「VIPだけの、とか?せやけど、ここの人らって好きであんなん食べてんのやろ?強制でなし。ほなら、やっぱないんちゃう?」
「お前、ささやかな希望を打ち砕くような事言うなよ」
 ジンは頬杖をついた。通りを眺めていても、面白くない。
「早く出たいんだけどなー、こんなトコ。きれいなネエチャンがいて、美味いモンがたらふく食える酒が飲める町に行きてえ!」
「仕方ないやん。アーチが用あるって言うてんやから」
「何の用だか知らねえが、さっさと済ませて欲しいもんだぜ!」
 ジンは大きく両腕を広げ、伸びをした。
 ごん、とその拍子に誰かの肩に拳が当たった。
「あ、済まねえ」
 振り返った男は、辛気臭い表情でジンを睥睨した。男の後から黒ずくめの人間達が、うようよと地下から湧いて出たかのように動き出した。
 見た所、葬列だった。棺桶は昔ながらに黒塗りの大きな箱だった。それをご大層に数人掛かりで担いでいる。
 男はじとっとした目付きで、ジンとピーチィをためつすがめつした。
「ホント、わざとじゃないって。すいません」
「あんたら、余所者か?」
 男は徐に訊いた。
「ああ。言っとくが、怪しいモンじゃねえぜ。オレの相方はティクス博士の知り合いでな。それで…」
「成る程、ティクス博士の!」
 男の顔が矢庭に綻んだ。ティクスの名前を出しただけで、この変わり様。例の『ナノティクス・サプリメント』のお陰で余程あの不潔な中年男は信頼されているらしい。
「いやあ、如何にも怪しい風体だからな、あんた達」
「失礼な…む!」
 ピーチィは、ジンの手によって口を塞がれてしまった。
「その腰のブツといい、昼間っからサングラス掛けてるし、頬の傷も怪しいが」
「オレ様の主義なんでね、生憎」
「そりゃ悪かった。だが、最近とみに死人が多くてね。通り魔というのかな、ブラスターとも違う昔の古い銃を使った犯行で」
「古い銃?パウダーガンの事か?」
 ジンは思わず、ピーチィを押さえていた手を離した。
「最近ていつから?」
「そうさな、ここ半年ばかりかな」
 男は首を捻った。顔を見合わせるジンとピーチィ。
「うーむ」
「もしかしたら…」
「何か心当たりでもあるのかい?」
 男は不審顔をした。だが、ジンは強く首をふるふると振って否定した。ピーチィも同じように首を振る。
「いんや、思い違い」
「なぁ」
 
 ドロレス・タウンは御多分に漏れず、現在はディアスポラにおけるヴァティカンの直轄殖民都市だ。
 詰まる所、政事は総て聖務省が与っている。派遣執行官は、単なるお飾りでしかなく、通達と雑務をこなすだけの名目町長だ。
 歴史的には彼是二世紀ほど昔に話は遡るのだが、本来ムスリムの土地として長い歴史を有していたこのアラル海からカスピ海東岸付近の土地に紛争が絶えなかったのは、今更声高に言うことではない。
 トルクメニスタン自治領が、二十世紀末に旧ソヴィエト連邦から独立した数十年後に、この町は誕生した。当然ながら、豊富な地下資源を抱擁するトルクメニスタンの独立後、急接近してきたのが旧アメリカ合衆国だった。合衆国は自国の資源はさておき、どうしても中東にエネルギー資源を確保して置きたかったのだ。
 それよりも当時問題になっていたのが、カスピ海西岸のカフカス(コーカサス)山脈を中心としたアゼルバイジャン、アルメニア、グルジア、チェチェンの民族紛争と、バクー油田からの原油パイプラインだ。
 既に当時のトルコ共和国は、二十一世紀初頭には、地中海に抜けるパイプラインを確保出来た。そして、その強いパイプラインを武器にEU(ヨーロッパ共同体)に加盟を申し出たのだ。
 その後の経緯はさておき、合衆国はアフガニスタンへのテロ報復後、インド-パキスタン紛争への介入の切掛けを掴む、或いは極東の脅威となる大国、中華人民共和国を牽制する意味でもって、トルクメニスタンの《トゥーラン運動》(汎トルコ民族主義運動)を支持し、見事パイプラインを獲得した。
 トルクメニスタンの南、ほぼイラン領との国境に当たったこの町に石油中継基地を設け、「デュー・タウン」と名付けた。
 名前の由来はdew、ラテン語でいう「神の涙」に依拠する。石油の黒い滴を「神の涙」と呼んだのだ。些か、ヨーロッパ人的な発想ではないか、とアーチは思った。移民達の好きそうなネーミングだ。
 だが、地下資源を掘り尽くした後の乾いた世界に成り果てるのも、そう遠くなかった。
 「デュー・タウン」は、最盛時二十万を下らない人口だった。
 資源の要衝として、数多の人種が行き交い民族が混じり、文化が行き過ぎた。
 その多様性は、町の雰囲気にも現れていた。前近代的建築物もあれば、ディアスポラに特有の壁文化も見られる。まず、すれ違う人間の顔の様々さ。明らかにトルコ系と思われる浅黒い肌に黒髪黒瞳の者も居れば、亜麻色の髪の子供も、青み掛かった瞳の老人も居る。アングロサクソン系の顔が多いのも、「デュー・タウン」時の名残かもしれない。
 第三次世界大戦の収束後、ヴァティカンはこの地方で随一、合衆国軍事基地を有していた「デュー・タウン」を回収し、直轄殖民都市とした。壊れたので他人が放棄したおもちゃを入手したようなものだった。
 今はかつての隆盛も、見る影すらない。虚しい煙突が只、物狂おしいまでに空へ向って手を突き上げているのが、鬱蒼とした森の向こうに見える。やがてあの鉄屑も数百年もせず朽ちて無くなってしまうのだろう。この町も。
「何で町の名前を変えたのかな?『神の国』ヴァティカンの直轄都市が、『神の涙』ではけたくそ悪いからか…」
 アーチは皮肉に唇を歪め、独りごちた。
 ヴァレンタイン家は、《道の駅》と称される商業地区の南に位置していた。
「驚いたな」
 大きな屋敷の門には紫色の布が掛かっていた。喪中の標(しるし)だった。家人に死人が出たのだ。
 死人が出た家に、初めての人間がそうおいそれと立ち入るべきではない。そういう風習が、デァイスポラでは生きている。アーチは、已む無く引き返そうと思った。下手をすると一週間はこの町を動けないだろう。喪章が外れるまでは。
「まじーな。アイツらが文句言うだろうなぁ」
 アーチは、大きく息を吐いて門扉に背中を向けた。
「……」
 ふと聞き覚えのある音楽が流れて来た。まるで、誰かに聴いて欲しいとでもいうような、微かでいて余韻のあるピアノの響き。
「ショパンのノクターン」
 雨垂れのような響きに、アーチは聴き入った。こんな田舎町でショパンを聴くとは、まさか考えもしなかった事だ。
 アーチは、壁伝いに屋敷の周りを歩いた。時計回りに歩いて、ピアノの音が確かに屋敷の内部から聞こえて来るのを確かめた。
 部屋は、鉄柵の間から見えた。潅木の隙間を、揺れる物が見えた。白いカーテンだった。窓辺に少女がいる。少女がピアノを弾いているのに違いなかった。
 曲が一瞬、途切れかけた。
 少女は、アーチの存在に気付いた。だが、曲が終わるまでは、と再び顔を背けてピアノに向った。
 最後の一音が不安定に途切れた。少女は、カーテンをそっと引き開け、中庭へと抜けるフランス窓から音も無く降りた。周囲を伺って、そして小走りに鉄柵まで駆け寄る。まるで、恋人にでも会いに来るように。
「キミはここの家の子かい?」
 アーチは腰を屈めて、そっと中庭の様子を覗いた。少女は潅木の間から、顔を出した。蝋のような白い肌膚は、触れなくても瑞々しい生気を放っていた。髪は長くて腰に届くくらいの漆黒。
 瞳は鳶色だった。見た所、混血らしい。尖った鼻梁は幼いながらにイラン系であるし、手足の華奢さと薄い皮膚がアングロサクソンの特徴を示していた。
「……」
少女は声も無く頷く。そして、アーチの顔を見詰め、眉を顰めた。何かに吃驚したような表情の中に、言い知れない不安と疑問が綯い交ぜになったような。
「アナタは」
 少女は小夜鳴鳥のようにか細い声で、漸く言った。
「オレは流しの医者だ。見ての通り」
「お医者様がどうして家に?」
 少女は訝った。
「いや。ドットーレ・ティクス・コリンズの古い知人でね。博士がこちらに用向きがあったんだが、急に来られなくなって、その代理で」
 と、アーチは適当な事を言った。まるきり嘘でもなかろう。
「そうなの。…ちょっとびっくりしたわ」
「泥棒にでも見えたかい?」
 少女は首を傾げて微笑した。
「違うの。あたしの知ってる人に似てるから…」
 少女の喋り方は頼りない。語尾が消え入るようだ。何かに怯えているような、それでいて媚を売っているような。
 黒髪が太陽の光にキラリと光った。いや、少女の物ではない何かが頭に付着していた。アーチは、そっと潅木の葉を遮る様にして、少女の頭の上のそれを手に収めた。ほんの微量だが、不吉な臭いが少女の体躯を膜の様に覆っていた。それは、黒髪に触れて強く感じられた。
「お父さんは?」
「パパはいないわ」
「仕事かな」
 少女はこくん、と頷いた。
「…ママが死んでから、戻って来ていないの」
 成る程、死人はこの少女の母親でミセス・ヴァレンタインか。
「寂しいだろうな」
「…ううん?お姉ちゃんがいるから大丈夫よ。お姉ちゃんは…」
 少女の言葉が摘まれた。少女の背後に、大きな黒い影が立っていた。薄い髭を湛えた男だった。髪の毛もそう多くは無い。だが、立派な体格と威厳のある四角い顔立ちで、直ぐにヴァレンタイン家の当主だと知れた。
「パパ…」
「何処へ行ったのかと思ったら」
 少女は突如現れた父親に、追われた仔兎のように怯えた。声が大きいというだけでなく、父親の雰囲気はあからさまに居丈高で、少女を上から圧倒していた。
「お帰りなさい」
「何を話しているんだ、みっともない。こんな所で?」
「ああ。すいません、お伺いしたら喪中の御様子でしたので、帰ろうと思ったんですが」
 と、アーチはつい愛想笑いをしてしまった。それがヴァレンタイン氏の気に食わなかったらしい。ヴァレンタインは、口をへの字にひん曲げて眉尻を引き上げた。
「キミは何者だね?名乗りもせずに失敬な!しかも他所の家の子供を誑かすような行為を」
「はぁ。失礼しました。私はアーチレリー・ブールヴァルド。ティクス・コリンズの友人でして。彼は父の後輩なんです。そんな縁で訪ねて来たんですが」
 ふん、とヴァレンタイン氏は鼻息を荒くしてせせら笑った。アーチが白衣の左腕を示していても、まるで見向きもしない。そんな腕章などアテにならないとでも言いたげだ。
「そんなもこんなも、喪中は客人を入れる訳にはいかないのでな!ましてや初対面のキミなど。何の用だか知らんが、判ったらとっとと帰りたまえ」
 はっきり物を言う男だな、とアーチは苦笑した。むしろ、陰険な白い目で見られるよりはましだ。だが、少女はそんな父親に終始怯えている。
 少女は、無理矢理ヴァレンタインに手を引っ張られ、すごすごと付いて行った。何度も鉄柵の向こうを振り返りながら。
「何ぐずぐずしてるんだ、サロメ。これから出掛けるのだ、仕度しなさい」
 ヴァレンタインの大声が遠くに聞こえた。
「…サロメか」
 差し詰め、ヴァレンタインのファーストネームは『ヘロデ』とでも言うのか。七つのヴェールの踊りの褒美にあの預言者ヨカナーン(ヨハネ)の首を所望したヘブライの王女サロメ。ヘロデ王の娘。
「『ヨカナーン』にはなりたくないもんだな」
 アーチはニヤリと笑い、白衣の裾をを翻した。
 

第二章(1)に続く

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