第十八話
 〜アーツ・オブ・カース  Il fucile maleddetta 
(後編)


第三章 遣わされた処女(もの) WHY DO YOU WEEP? 

 (3)

「アンタら、ホンマモンのアホやろ?」
 ピーチィは呆れ返るというより、珍獣でも見た時の感想のように言った。
 殺風景な客室には、慌てて出されたストーブが焚かれていた。基本的に、電気は必要最低限以上使えないので、ディアスポラの暖房はやはり昔ながらの燃料を使うことになる。
 例えば、このストーブは固形燃料だった。合成油脂から出来ている。油脂は植物性を主な原料として、無煙無臭なのが取り得だ。あまり温かくは無い。尤も、今は暖を取るというよりも、濡れた身体を乾かす為に必要だった。
「何が嬉しゅうて、この土砂降りん中、墓掘り?」
「行った時は降って無かった」
 答えたのはジンだった。ジンは、頭からバスタオルを被っていた。
「しかも、殴り合い」
 ピーチィのじっとりした視線が、二人の男を見比べた。ストーブを挟んで向かい合う男同士の表情は、何れも仏頂面だ。
「…一方的に殴られてたのは、オレだ」
 アーチは長い沈黙の後に言った。低い声だった。泥だらけだった白皙は、既に綺麗に拭われていた。髪もだ。亜麻色の柔らかい光が戻っていた。
「嘘みたい。何でやの?」
 ピーチィは、憮然として言った。きっ、と険しい目付きでジンの顔を睨み付ける。まるで親の仇にでも出遭ったような目だ。
「ぼこぼこやん。青タン出来るで、これ!男前が台無しやー。アンタ何すんねん!?」
「るせぇ、お前が口出しするような事じゃねえ」
 と、すかさず応えたジンの頭に、間髪入れず握り拳が飛んだ。
「…どいつもこいつも手が早えな」
 ジンは、頭頂を擦りながら大きく息を吐いた。マルボロの箱を脱いだ革ジャンから探り当てる。だが、中身は空だった。思わずゴミを投げ捨てる。
「ち」
「ち、とちゃう。ゴミ捨てるな」
 ピーチィは、捨てられた紙屑を拾い上げた。
「ほなら。もう寝るで、ウチは」
 そう言って、ピーチィは客室を出た。何だか、ほんの瞬間的だが、ジンには少女の方が自分達よりも大人に思えた。
 男という生き物は、時として、いや一生そういうものなのかも知れない。いい加減歳を取っても、少年の頃と変わりない部分が何処かに存在する。
 ジンは、アーチの顔をチラ、と盗み見た。さっきから頬杖付いて俯いたまま固形燃料が燃えるのを見ている。顔を上げるのが嫌なのだろうか。数え切れないくらい随分殴ったものだ、とジンは密かに反省した。
 殴っている瞬間は、この上無く腹が立っていた。憎いという感情ではなく、口惜しい気分で胸が満たされ、止め処なくそれが溢れてはどうしようもなかった。
 素直でないのか。本当に、こいつなら瞬き一つせず、サロメのようないたいけな少女でさえも、撃ってしまえるのではないかと思った。
 何処から何処までが本当のこいつなのか、さっぱり判らない。判らない自分がもどかしい。
「悪ィかった」
 本当は、一言先に自分から言わないと。ジンはその一言が出ないで、ずっと躊躇っていた。
 ピーチィが居なくなってしまうと、二人で押し黙っている時間が途方も無く永遠に続くのではないかという危惧に襲われた。胃の腑に重石を呑み込んだみたいだ。
「…バカだな、お前」
 と、アーチは言った。まだ炎を見詰めたままだった。
「まさか、ディアーヌをシルヴァー・ブレットだと思ってたのか?」
 ジンは、頭を覆っていたタオルを両手の上に落とした。
「ああ」
「正直なヤツ」
 アーチは軽く笑声を立てた。だが、その声は極めて事務的な記号のようなものだった。
「オレもそう思った」
「へ?」
「実際、オレもそうかも知れない、と思った瞬間は何度かあった。ホンコンではな。いや、その前から…」
 アーチは、まるで研究報告でもしているみたいな、冷静な口調で続けた。依然として、視線はストーブの炎に注がれていたが。
「だが、それはやはり違うんじゃないかと考えたのは、ついこの間だ。アイツは、オレが知っている限りでは、そう計算高くは無い」
「お前とは違って、か」
 ふん、とアーチは鼻を鳴らした。
「《PE》を手に入れるので精一杯、てとこだろう」
「お前、気付いてたのか?」
「可能性は考えてみた。だが、総て後手後手に回ってしまう。《PE》の騒ぎががあんな事になってしまってから考えたところで、無意味だ。無駄死にした人間は運が悪かったということで」
「お前ってヤツは…」
 ジンは頭を抱えた。やはりどう言っていいのか判らないが、この男の無神経は並みではない。もう一度殴ってやろうか。
「ディアーヌがこの町に居るって知ってて来たのか?お前の用って、これなのか?」
「いや」
 アーチは、漸く顔を上げた。腫れた頬が痛々しい。全くもって、男前が台無しだ。だが、それでも目鼻の造形は随分美しい。
「もしかしたら、と思ったのはサロメに会ってからだな。金髪を拾った。それだけでは決め手に欠けるが、ティクスの存在と『ナノティクス・サプリメント』だ」
「道理で」
 ジンは、思い出した。最初にこの研究所に泊まった晩のピーチィの疑問を。何故、独身中年男の住まいに少女のパジャマが在ったのか。答えは簡単だ。ティクス・コリンズがかつて少女と暮らしていたからだ。
「金髪はブルーネレスキ医局長に頼んでDNA鑑定して貰った。…結果はやはりそうだったが」
 とはいえDNAのサンプルは、勿論科学アカデミーには無いので、アーチは自身のDNAも送って比較分析して貰ったのだが。
「それにしても…いや」
 ジンは言い掛けて、止めた。
「自分の意志でない、ってのはどういう事なんだ?じゃあ、シルヴァー・ブレットは一体誰なんだ?」
「さぁな…」
 と、アーチは瞼を閉じた。ジンは、やや躊躇いながら再び口を開く。
「本気で殺すつもりだったのか?」
「上からの命令なら致し方無い」
 あっさりと答える。
「命令で実の妹を殺すのか。何てぇ兄貴だ」
 ジンは憤慨、というより絶望的になって言った。
「アイツがそれでも生きたい、と思うのなら努力するだろう。だが、『余人を殺害するという行為は、自己も同じ報復を受容出来る』覚悟あっての事だ。つまり、誰かに命を奪われても文句は一切言えないってな」
「……お前の言う理屈は確かに正しいよ」
 ジンは声を絞った。
「いつだって、お前は正しい事しか言わないんだな」
 アーチは、その言葉に反応を示さなかった。
「呆れて物が言えねえよ」
 ジンはソファに深く背中を沈めた。重く気怠い心地がしていた。
 嘘を吐けよ、と内心思うのだが。本当は、パウダーガンなど使わずに縊り殺してしまえば済むのだ。お互い常人ではないのだから。それをしなかったところに、ジンは軽い安堵を覚えていた。
 どう見ても、あれは妹の身体に触れたくなかったのだ。それ以外に考えられない。
 触れると懐かしさが込み上げてでも来るのだろうか。いとおしい気持ちが湧くのだろうか、この男にも。
 ジンは、沈黙のまま固形燃料の炎を見詰めている目の前の相棒に視線を向けた。
 炎の加減で、腫れ上がった頬に、ほんの瞬間涙でも流れているのかに見えた。それは、錯覚に過ぎなかったが。

 その若い男は、約束の時間よりも一時間ほど前に、カッフェテリアに来たそうだ。それを、店員がすかさずグレナデン・サフィールに告げた。
 まだ二十歳前後とは思えないくらいに落ち着いた、悪く言えば世慣れた雰囲気を醸し出している。何より店員が男の到着した時間さえも記憶しているというのは、仕事熱心ゆえではない。若い男のちょっと浮世離れした美貌の所為に他ならなかった。
 年齢の割には、きちんとした服装をしているのも好感が持てた。アッシュグリーンのスーツは薄地のウールで、シャツは紛い物でないサーモン色のシルクと見えた。ネクタイの趣味は酷いものだが、靴には分不相応の大金が掛けられているに違いなかった。極めて贅沢な。
 間違いなく、この男がジャック・フィリップ・ブールヴァルドの息子だ、とサフィール枢機卿は確信した。
 男は、服装には似つかわしくない、くだけた雑誌を読んでいた。通俗雑誌、バンド・デシネ。所謂フランス語で書かれた漫画雑誌の類だった。今時の若者といえば若者らしい。
 枢機卿は、丸いテーブルに歩み寄った。長い影を浴びて、男は面を上げた。
 覚えず、サフィール枢機卿の背筋に戦慄めいた悪寒が走った。
 男の顔は、若さに満ちて美しい。だが、その面差しは余りにも知己の人物に似ていた。公的には、先頃、不慮の事故で亡くなったとされるガブリエル・ブールヴァルド教皇報道秘書官に。
 直孫だからというのではない。その佇まいや、雰囲気がまるで生き写しだ。祖父の顔すら知らない筈の、この若い男が。
「待たせたかね」
 と、言おうとして、枢機卿は失念していた。
「キミは捨石になれるかね?」
 初め、アーチレリー・ブールヴァルドはぽかんとした。だが、三秒も経たないうちに引き締まった表情で応えた。
「捨石?世の中にそんなモノが存在するなんて、オレは初めて聞きました」
 とても耳に心地良い声だった。更に驚いたのは、声までも祖父に似ていたからだ。当然、骨格が似ているなら声帯も似ている。共鳴する体格も同じであれば、似て当たり前なのだが。
「譬え用済みになって捨てられようと、少なくとも人は生きている限り、『捨石』なんかで在り得ない。オレはそう思いますがね」
「キミはいい意味で、私の予想を裏切る男だ」
 アーチは微笑した。
「『捨石なんて御免被る』と答えたら、私は即座にこれの引き金を引いていただろうが」
 枢機卿は懐から、オートマチック拳銃のグリップを覗かせてみた。流石に今度は、アーチは鼻白んだ。
「そんなオモチャでは、オレは死にませんよ。オレが痛いのはココ」
 アーチは、自分の胸を指した。
「もうずっと何年も痛むんです。でも、人間なかなか死ねないもんですね。まだ死にたいとは思いませんが」
 サフィール枢機卿は直感していた。この男しかいないのだ、やはり。待ちに待っただけの事はある。物事に動じないという人間なら、数多の修羅場を掻い潜って任務を果たしているインクィジション(異端審問所)の連中には幾らでもいる。
 だが、欲しているのは、同時に物事に敏感でなければならない人間だ。その点で、祖父の哲学的頭脳をそっくり受け継ぐこの男なら、総てにおいて間違いは無い。
「…見事だ、ジャック」
 サフィール枢機卿は、無意識のうちに唸った。己の判断の正しさを、枢機卿はさまざまな意味で堪能した。
「旧態依然たるこのヴァティカンが今なそうとしているのは、つまりは旧世界の過去数世紀の繰り返しをなぞるだけだ」
「戦争と和睦のラザニエですか」
 と、アーチは自分の掌を重ねて見せた。
「前線にもいたキミなら判るだろう。あの無意味さを」
「無意味な事にさえ、我々一個の駒は気付かないんです。気付くと、目の前にいるのは敵兵でも土塁でもない、『タナトス(死)』があるから」
 枢機卿は、軽く頷いた。
「国家という大義名分の前では、個人は骨抜きです。ですが、今日あるヴァティカンの姿でさえ、数世紀という過去のバカバカしいクルセイド(十字軍)の上に成立してるじゃありませんか」
「過去を否定しろ、というのではない。戦争自体が無意味だと言っているのではない。過去はいま現在ある我々にとって、都合よく利用されるべき財産なのだ」
 サフィール枢機卿は言った。小春日和の明るいカッフェで話す話題に似つかわしいかどうかは別として、傍目にはさぞ学究的な二人に映っただろう。尤も、ローマ人は政治的な話を好んでする方だが。
「財産、ねぇ。しかし、宗教は国家たり得ても、個々の人間の欲求も国家たり得ます。パーソナリティにおける損得の一致が、複数の人間によって社会構造を生み出しているんです。はじめに国家ありきか、はたまた個人の生命ありきか、今となっては曖昧でしょうが」
「キミはマキアベリズムが嫌いなようだ」
 枢機卿は、苦笑した。
「とんでもない。むしろ『大嫌い』と言いましょう。かつての十九世紀から二十世紀にかけて治世した教皇方のように、政教一致を声高に唱えるのは、我々一般信者としては面白くないだけですよ」
 アーチは遠慮会釈無く言った。
「まずは、『反ユダヤ、反セム主義』が二十一世紀に薄れたと思いきや、今度は『反トゥーラン主義』ですか。で、貴方がたはこのオレを《ソダリティウム・ピアヌム》にでも勧誘に来られたのですか?」
 サフィール枢機卿は、アーチが《ソダリティウム・ピアヌム》という組織の名前を知っている事を不思議には思わなかった。何しろ、ガブリエル・ブールヴァルドの孫なのだから。
 《ソダリティウム・ピアヌム》というのは、《ピオの同志会》という。簡単に言ってしまえば、カトリックの正統性を前面に押し出そうとする秘密結社であり、秘密警察のような存在として、当時の法皇ピオ十世に認められ、二十世紀初頭に実際にあった組織だ。
「冗談にしては、笑えない事を言うな」
「祖父が《ソダリティウム・ヴェネディクトゥム》という組織の先陣をとっていたのは、知っていますよ」
 サフィール枢機卿は、苦笑を押し上げた。だが、その剃刀にも似た灰色の瞳は凍っていた。
 《ソダリティウム・ヴェネディクトゥム》は、《ソダリティウム・ピアヌム》を復活させたような反宗教改革、いや、正統カトリシズムの極致を目指す支援組織である。
 中世に起こったマルティン・ルターの宗教改革をはじめとするプロテスタント運動を排斥し、トリエントの公会議以降に反宗教改革を打ち出したのは、法皇ピオ五世であった。
 奇しくも、それに倣った形で第三次大戦後の荒廃した世界に向けて叫ばれたのが、『科学撤廃主義』であって、それを提唱したユリウス十一世に公認されたのが《ソダリティウム・ヴェネディクトゥム》であった。
 《ヴェネディクトの同志会》。由来は、第一次世界大戦後ヴェルサイユ条約批判をし、国際連盟、イギリスのパレスチナ統治を憂慮したヴェネディクト十五世に拠る。端的に言えば、組織そのものは『反ユダヤ主義』の延長線上にあるも同然だった。
「キミも『科学撤廃主義』を憂いて、自ら医師の道を選んだのかね?」
「いえ。時代には時代の流れや流行廃りはありますからね。今更、祖父の考えを批判したところで始まらない。オレは好きではない、と言えますが。それは第三者的な意見としてではなく、もっと感情的にいけ好かない」
 サフィール枢機卿は声を立てずに笑った。
「私は、そんな風に見えるかね?」
「いえ。僭越ですが、貴方はイタリア人ではない。少なくとも、イタリア流のダブルスタンダートを持ってはいないでしょう」
「一個人の伝道師もしくは学者としての私と、ヴァティカンの一員としての私か」
「そうですね」
「それは果たして、どうかな?」
 サフィール枢機卿は、小首を傾げて見せた。アーチは、乾いた笑みを唇に浮かべた。
「では、貴方は反宗教改革の代わりに、本気で『開かれたヴァティカン』を提唱なさるおつもりですか?二千年の汚濁を総て吐き出してしまえ、とは…大胆な御意見です。十分、醜聞的ですよ」
 枢機卿は、今度は声を立てて笑った。一を聞いて十を知る、という言葉を古えの誰かが言っていたが、この男がいい例かも知れない。
「ですが、御安心下さい。オレは只の科学者です。政治に口を挟む気は毛頭ありませんよ」
「キミには勿論、科学者としての協力を仰ぎたい。それに、私の個人的なお願いもだ」

 噂をすれば、というがそんな過去事を思っているときに限って、本人からのコンタクトがあるのは、満更人間にも動物的な本能が残ってないわけでないからか。
 サフィール枢機卿は、ホログラフィの前に座った。
 画面に映ったのは、いつになく顔色が悪いアーチレリー・ブールヴァルドだった。
「公務中に申し訳ありません」
 と、アーチはいつもの口調で言った。
「近況報告かね?」
「そんなところです」
 アーチは薄っぺらな微笑を浮かべた。枢機卿は、笑顔を見せなかった。淡々と書類に目を通しながら、受け答えする。機嫌が悪いのではない。集中力が必要なのだった。
「姪のキャバリエーレ(騎士)役に飽いたかね」
「いえ。オレはちっとも彼女の役に立ちません。むしろ、役に立たないからこそ、役に立ってるという気もしますがね」
 アーチの言葉に、サフィール枢機卿は苦笑を禁じ得なかった。
「尤も、その役目をキミに任命したのはこの私だからね。私が辞めろと言わない限りは、無理してもやっておくれよ」
 アーチは一瞬、言いようの無い惨めな気分に襲われた。
 バカバカしい仕事だ、と請け負った時は思ったものだ。それは、唯一の日本人であり、シルヴァー・ブレットという人物を勅命で追う事になったジン・スティンガーのお守りに比べると、遥かに陰険かつ無慈悲な仕事だった。
「キミには姪のアルテミスを任せたいんだが…」
 サフィール枢機卿からそう言われた時、アーチは奇声を上げて笑いたい衝動に駆られた。何しろ、鹿爪らしい顔をした紳士が、さらに真面目腐って女衒(ぜげん)みたいな事を言うのだ。笑わずにおられまい。
 これは当然、ウフィツィオーソ。つまり、ヴァティカンで言うところの「非公式」の隠語だ。
 ヴァティカンでは叙階や教皇選出選挙(コンクラーヴェ)は別として、総てイタリア式に任命が行われている。イタリア式、というのは然るべき権力者が掌握する力でもって、暗黙裡に事が進むのを言う。表向きは偉いサンでも、実際はその人の近縁者が主導権を持っている、ということはごく有り触れた事なのだ。
 アーチに課された任務も、その御多分に洩れなかった。
「幾らオレが女に見境無いといっても、酔狂にも程がある。何処の馬の骨とも判らない男に、大事な姪を抱かせるって言うのか。神経疑うけどな…」
 と、さしものアーチもほんの瞬間的に思ったものだ。
 いい加減男遊びが過ぎるので、適当な男でも見繕って与えておこうというのか。それにしては、もっといい人選があるだろうに。
 伝統的に言って、プロテスタントの多い北欧、中欧に比して、南欧の人間は比較的礼儀を重んじ、身分や肩書きにこだわる。当然人間関係にもそれが反映してくるものだ。殊に恋愛感情は自由であっても、身分違いの恋が社会的に成就する可能性は決して高くない。
 名門サフィール家のお嬢様が、日頃どういう男関係を持っていようがいまいが、社会的には無関係だ。いずれ然るべき出身の人間と婚姻関係さえあれば。
 だが、それとこれとは趣がかなり異なるではないか。
 初めは、アーチはその意図が判らなかった。いや、判っていても面白くない事は深く追究しないに越した事は無い。
 卑屈な人間なら、それこそこの表面的にはメルヘンチックな申し出をお断りするに違いない。
 名はあってもしがない科学者風情の男が、伯父貴のお墨付きで高貴な美女にお近づきになれるというのは、どう考えても「おとぎ話」だ。「おとぎ話」ほど血腥いものは無い、とも言える。
 しかし、現金なのがある種の取り得であるこの男、ミスティ本人に遇うと、急に楽天的に気が変わったものだったが。
 兎に角、奇妙だ。
 まるで筋書きが決まっていたかのようだ。ミスティ・サファイアと他愛無い肉体関係になってから、今まで何の音沙汰も無かった実妹ディアーヌが現れるなど。
 およそ二人の『月の女神』は、相容れない存在だ。ディアーヌがアーチに父性を見ているのだとすれば、ミスティはあってならない存在に違いない。愛すべき父親が、妻であれ恋人であれ、赤の他人である女にせっせと尽くす姿など、あってはならないのだ。
 それがかつてのディアーヌならば。
 もし誰かが書いた脚本なら、演技者の感情は兎も角、筋書きとしては陳腐そのものだ。だが、誰が考えたものかは、推測するとも、判断出来なかった。
 偶然なら、空恐ろしい。
 アーチは、後は当たり障りの無い近況を告げて、十分弱の通信を終える事にした。
「…円卓の騎士ラーンスロットも然り、キャバリエーレの運命はキミも承知だろうから、敢えて言うまい」
 意味深な台詞を投げ掛けて、サフィール枢機卿は微笑した。
 アーチは、生乾きの金髪に手を遣った。既に画面は暗くなっていた。
 何故だか、無性に喉が渇いた。湿気た臭いの充満する寝室で、アーチは目を伏せた。
 只一つ、ミスティの狂おしい情欲的な香りが思い出せない。身体は餓(かつ)えているのに、心さえも酷く遠いもののように思えた。
 

第四章(1)に続く

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